雑感
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[25575] Re:[25574] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/29(Fri) 18:35  

あんたもいいこと言うなあ。。


[25574] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/29(Fri) 18:16  

ここで観念なしに価値判断なしに見るとそういうおじさんの人世も無意味でないことかわかる。


[25573] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/29(Fri) 18:09  

散歩してたらいい年して佐川急便の仕事してるおじさんに出逢った。


[25572] 後半 Re:[25566] [25547] [25541] 既知からの自由2-2(2) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/28(Thu) 09:26  

> 以下は重要なところ。
>
> > >  さて、あなたがともかく敏感で、ともかく真剣なら、自分の条件付けに気づくのみならず、またそれが帰着する危険に、それがどんな残忍さや憎悪に導くかに気づくでしょう。では、なぜ、自分の条件付けの危険を見てもあなたは行動しないのでしょうか? 
>
> まず初めに、条件づけは危険? なんて認識したことがない
> だから行動しない。条件づけは摩擦を生みますが、それと共に快楽、娯楽を保証するからです。

そうですね。人間は最近特にですが文明が発達して、富も娯楽も発達している。半面経済はいつ何が起きるが不安がいっぱい。その中で没落を心配している人たちがトランプ大統領を担ぎ出すとか、EUの脱退とかいろいろあるのだが、サッカーやオリンピックで難民問題などは忘れられる。そこのある悲惨や悲しみは多くの人にとっては他人ごと。

> <怠惰だから、怠惰にはエネルギーが欠けているからでしょうか? で すが通り道のヘビとか、崖とか、火事のような即座の肉体的危険を見るなら、あなたはエネルギーを欠いてはいないでしょう。
>
> おっしゃる通り。蛇を見ると行動します。命の危険を及ぼすから。
>
>
> <では、なぜ、自分の条件付けの危険を見るとき行動しないのでしょう? 
> 行動しません。
>
> <もし民族主義が自分自身の安全に対して危険なのを見たら行動しないでしょうか?
>
> 行動しません。何もしないのが一番。
> 一部の人は、国会の前で抗議活動をしています。
>
> > 前回のところで自分は自分自身に目を向けていなかったと気づきました。それで今は自分自身の条件付けを見ます。気づきます。しかし、見たらなぜ行動しないかと問われます。
> >
> はい。Kのいう「見ることが行動すること」というのがわからない。
>
> > >  答えは見ないということです。知的な分析の過程を通じて民族主義が自滅に導くのを見るかもしれませんが、しかしそこには感情を動かす内容がないのです。感情を動かす内容があるときのみあなたは活力に満ちるのです。
> >
> >
> > 感情が動かない、感情が動く内容がない?
> >
> >
> 「見ること」というのは感情を動かす内容のあるとき?
> ここは、初めて聞きました。

そうですね、雑念なしに見る時、心はリアルに見て強く動かされるかもしれません。全身が揺さぶられるように。見るその時の事柄によっていろいろな状態があるでしょうが。

> > >  自分の条件付けの危険を単に知的な概念として見るなら、それについて決して何もしないでしょう。危険を単なる観念として見るときには観念と行動の間に葛藤があり、その葛藤はあなたのエネルギーを奪い取ります。行動するのは、条件付けとその危険を即座に、崖を見るように見る時のみです。それゆえ見えることが行動です。
>
> つまり、さっき言われた感情を動かす内容のあるとき?
> 「見ることが行動する」ということが実現する?
> つまり知的な過程では行動しないということですか。頭でわかっただけでは。
> 感情に訴えるものがないと行動しない?ということ。

そう。現実そのものを見て感情がハッと自発的に感じなければなりません。軍歌や、ハイル・ヒットラーの叫びには感情に訴える強い力があります。そういう類のものに乗せられることとは違います。例が古いのは勘弁してください。

> > >  私たちはたいてい不注意に生を歩みます。育てられてきた環境にしたがって思慮なく反応しながら。そしてこのような反応は一層の束縛、一層の条件付けを作り出すだけです。しかし自分の全注意を自分の条件付けに注ぐ瞬間、あなたは過去から完全に自由であるのを、過去は自然に脱落するのを見るでしょう。
> >
> >
> > 感情は条件付けによりそっぽに向かって動いているようだ。全注意を注ぐといってもぴんと来ない。感情がそこに向いていないと全注意は注げない。とにかく条件付けに気づいて脱落させるしかないのか。。
> >
> > > (終わり)
> クリシュナムルティさんにお聞きしますが、
> 「自分の条件づけに全体的注意を向けた瞬間、あなたは過去から完全に自由になる」とおっしゃいますが。そのようなことを今まで実現された方はいらっしゃるにでしょうか?
> もしいないというなら絵に描いた餅ではないでしょうか?
> 要するに架空の理論を言ってるにすぎない。あなたの理想論でしょう。

ええとまず全的注意状態というのは実現しますか?、実現しますよね。あなたはアフリカのジャンゲルか草原を歩きます。それを全的注意の状態とあなたあは言っていました。取り消しますか。ともかくその時過去から完全に自由であるでしょう、まさしく今にいるでしょう。

> もし、反論があるなら、全体的注意を向けるというのは、一体どう いうことか具体的に説明できるのでしょうか。

アフリカのジャングルにいる時はダメですか? 雑念はないんじゃないと思います。
 それで日常生活でそうなるかどうかが問題です。雑念から自由であればいいわけです。思いなしに見ている。

> 条件ずけが自然に脱落?
> んなことありえないでしょう。何で自然と脱落するにですか?
> いいですか。仏教では、条件づけに囚われるか囚われるないか、です。それだけをいっています。それが「無執着」です。
> お釈迦様のように、悟りを開いた方なら、条件づけの脱落は可能かもしれませんが、我々一般の凡人では無理な話です。

「執着はなくせない」、それだけでは月に行けないと言っているのと同じで、あなたの主観はわかりましたが、事実はどうか?


[25571] Re:[25570] [25567] [25565] [25564] [25563] [25562] [25557] [25554] [25553] [25552] [25550] [25549] [25548] [25547] [25541] 既知からの自由2-2(2) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/27(Wed) 22:41  

> > 老婆心ですが、穴が開かんばかりが集中・努力になりませんように。それはエネルギの無駄遣いです。私もそこを経てきたのですが。
>
>
>  そこには、努力はありません。
>
>  理解の驚きと喜びがあります。


了解。よかった。


[25570] Re:[25567] [25565] [25564] [25563] [25562] [25557] [25554] [25553] [25552] [25550] [25549] [25548] [25547] [25541] 既知からの自由2-2(2) 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/27(Wed) 21:31  

> > > > > > > > > > > > > > [条件付け]
> > > > > > >
> > > > > 見るという事が知的理解と即時の理解の架け橋です。そこまで知的理解で行けます。見ることに入ると即時の理解が始まりだします。ここには私は疑いがないのです。見ることがなぜ始まらないかが疑問なのです。
> > > >
> > > >
> > > >  もしも、その「見る」が「変容」と同等であれば、見ることでクリシュナムルティの陳述内容を理解できるということではないでしょうか。。
> > >
> > >
> > > 見ることに幸せにもたまたま入っても、それは自分はタバコを吸っているのではなくタバコに捉われているのだという事を悟ったにすぎません。意志の力ではやまらなかった煙草を吸う事が落ちていったという事です。
> > >
> > > 全般的な変容が実現するという事はどういう事か見当もつきません。しかし見ることに入れば苦痛、葛藤が次々と落ちていくことがわかります。しかし、すっかりなくなったかどうかは、わからないし証明の仕様がないのです。禁煙ですらそうです。もう40年近くたっているでしょう。でも何かでまた吸い始めるかもしれません。皆が変容というお化けイメージに取り憑かれているのかもしれません。
> > >
> > >  それで私は見ることが徐々に実現して、するとそれに応じたミニ変容が始まり、それは葛藤がなくなったという大きなことが実感できて言えるようになります。で、私は「既知からの自由」という陳述を興味を持って読んでいるわけです。
> >
> >
> >  はい。
> >
> >  読み進めてゆく内に、理解が更に深まり、それが変容(ミニ変容でもOK)へと繋がってゆくのかもしれません。。
>
>
> 見ることが始まらない間の理解はほとんど知的理解です。変容にはつながりません。しかし知的理解が分析的にならずに、達成を忘れて読むことはエネルギーを高めます。
>  分析的でなく、達成を忘れている状態がほとんど時間のない見る状態であることはお判りでしょう。瞑想と言ってもよいかもしれませんね。
>
>
> >  私も、穴が開かんばかりに、読んでいます。
> >
> >  この穴が開かんばかりとなる探究心が大切なのかもしれません。。
>
>
> 老婆心ですが、穴が開かんばかりが集中・努力になりませんように。それはエネルギの無駄遣いです。私もそこを経てきたのですが。


 そこには、努力はありません。

 理解の驚きと喜びがあります。


[25569] Re:[25566] [25547] [25541] 既知からの自由2-2(2) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/27(Wed) 19:45  

> > > [条件付け]
> > >
> > >  快楽を続けたり苦痛を避けたりする中で葛藤があるときのみ、いかに条件づけられているか自分で見ることができるでしょう。周りのあらゆることが完全に幸福なら、妻はあなたを愛し、あなたは妻を愛し、素敵な家、素敵な子供と沢山のお金があるなら、自分の条件付けに全く気付きません。しかし妨害があるとき ― 妻が誰かほかの人を見たり、金を失ったり、戦争あるいは何か他の苦痛や心配に脅かされるとき ― その時自分が条件づけられていることをしります。何かの種類の妨害に対して苦闘したり、何かの外部または内部の脅威に対して自分を守るとき、その時自分が条件づけられていることを知ります。そして殆どの私たちは殆どの時間、表面的にあるいは深く妨害されているので、まさにその妨害が、私たちが条件づけられているという事を示します。動物は可愛がられている限り申し分なく反応しますが、敵対される瞬間凶暴な性質の全体が出てきます。
> >
> >
> > 快楽や苦痛を通じて葛藤があるときのみ、条件付けられていることを自分で見ることができる? 山ほどある条件付けのどれかに気づくことはありそうだが? 葛藤、すなわち矛盾が生じているのがKの言っている条件付けのことであり、それなら見つけられるでしょうという事ですか。
> >  妨害のある時、静かにしていられないのが条件付けの表れなのか。
>
> 摩擦や妨害が起きるとき、騒ぐ自分がいる。
> 例えば、人と意見が対立するとき、自身の条件づけがあらわになる。
> 人からあることに非難や指摘を受けて、自分が腹が立ったという時、
> その事柄に執着もしくは、こだわりを持っていたとがあらわになる。
> 逆にいえば、自分の嫌いな人間、気に入らない人間と相対する機会が多いほど条件ずけを知る機会が得られるとはいえないだろうか。
>
> 平穏では条件づけを知る機会がない。摩擦が多いほど条件付けを知る。平和な家庭なら 条件ずけを知らない。
> なかにははじめから摩擦やトラブルを避ける人がいる。関わりたくない人。こういう人は、実は条件ずけを知る機会を避けているといえないだろうか。

フム、フム。

> > >  私たちは生を妨害されます。政治、経済情勢、恐怖、残虐、自分自身のだけでなく世界の悲しみ。そしてそのことから、どんなにひどく狭く条件づけられているか実感します。ではどうすればいいでしょうか? 大抵の人がするようにその妨害を受け入れ、それに耐えて生きますか? 背中の痛みに耐えて生きることに慣れるように、それに慣れますか? それを我慢しますか?
> > >
> > >  私たち誰もの中に、物事を我慢し、それらに慣れ、それらを環境のせいにする傾向があります。「ああすべてがうまくいっていたなら私は違っていただろうに」あるいは「機会があればやって見せるのに」とか「あんなひどい目に遭ったので私は押し潰されたのだ」と言い、常に自分のうまくいかないことを他人や、環境や、経済情勢のせいにします。
>
> もう慣れているのではないでしょうか。慣れっ子。毎日悲惨な事件を起きても。妨害に慣れている。そういうもんだと。自分と関わりないことには無関心。

ウーム、そうかもしれない。

> > >  妨害に慣れてしまうならそれは心が鈍くなったことを意味します。丁度自分の周囲の美に慣れてしまうと、もはやそれに気づかないのと同じです。無関心に、固く、冷淡になり、そして心はますます鈍くなります。妨害に慣れないなら、ある種の薬を飲んだり、政治団体に加入したり、叫んだり、書いたり、フットボールの試合や寺院や教会に行ったり、あるいは別の娯楽を見つけることによってそれから逃げようと試みます。
>
> はい。人には娯楽という「逃げ込み寺」がある。実は私も毎日のワールドカップ観戦で寝不足。

それはすごい。私は日本チームの戦いを見るのでせいいっぱい。

> > >  なぜ私たちは実際の事実から逃げるのでしょうか? 私たちは死を恐れます ―
>
> いきなり「死」ですか。オーバーですね。
>
> >一例として取り上げているだけですが ― そして私たちはあらゆる種類の理論、希望、信念を死の事実を隠すためにつくり出しますが、事実はなおそこにあります。事実を理解するためにはそれを見つめなければならず、それから逃げてはなりません。私たちはたいてい死だけでなく生も恐れています。家族のために恐れ、世論を、自分の職や安全を失うことを、沢山のほかのことを恐れています。単純な事実は私たちは恐れているという事であり、これやあれを恐れているという事ではありません。ではなぜ事実に直面しないのでしょう?
>
> その前に恐れているという自覚は私はありません。
> それと事実に直面てなんですか?
> >
> > どうすればいいかわからない、問題は複雑で要因はいっぱいあるし、多くの人の関わった生きた動きであるから。
> >  あっ、これは自分の条件付けに気づくのではなく、世界を変えようとしている。
>
> 私は世界を変えようなんてだいそれたことは考えたことがない。、

私は悲惨な目に遭っている人を見ると悲しいというか沈痛な思いがして何とかしたくなる。


> > >  現在の中でのみ事実に直面することができます。そして事実から常に逃げているため、それが現在あると決して認めないなら、決してそれに直面することはできません。そして逃避のあらゆる網を養成してきたので、私たちは逃避の習慣に捕らえられるのです。
> >
> >
> > 自分の条件付けに目を向けるのではなく、他人や社会を非難したり、無力を感じ逃避したりしている。
> >
> クリシュナムルティさん、事実を向き合えってぢういうことですか?
> 私たちは毎日、現実の直面して生きています。逃げてる人はい、ません。

現実に直面しているようで、自分の生活だけにこだわっている気もする。その結果は混乱をもたらしている。政党は相談しているというより、対立・抗争しているように見える。

> 以下は重要なところ。

はい。そう思います。ここでいったん締めて、また書きます。

ここまでは特に引っかかるところがないなら、お互いの感想を言ったという事でレスなしでいいかと思います。


[25568] 自己意識 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/27(Wed) 19:11  

>ここはそのうち、「既知からの自由」にも出てくると思うが、言い方を変えて自己意識というと、人間の場合これなくしては人間として生育していないという事になる。人間がいて言語の中で育てられて身につくものだが、自我と名付けらるものはプライドが出てくるときわかるものですが、人間を人間たらしめている自己意識(これを条件付けと呼んでっもいいですか?)とどう違うのだろう。ここは私にとっては哲学大辞典でも読みたいところです。どなたか教えてください。

自己意識については次の章に出て来ます。
クリシュナムルティの「意識」という言葉の使い方は、「自我の終焉」で説明しているように、過去の経験記憶一切喝采思考感情含むとなっています。わかりやすくいうと「意識」という容器というか箱の中にそれらのものが一切入っているというイメージ。
この概念は仏教の「心」に当たります。
心の中に阿頼耶識など、何々な〇〇意識があるという言い方をします。

なお、哲学では「意識」という言葉は別な意味で使っています。ここでは考慮しなくていいでしょう。(ウイキぺギア参照)
そこでは自己意識というのは根源的な意識であって(原初の意識)、クリシュナムルティが言うところの意識ではありません。クリシュナムルティは思考を意識と呼んでるだけです。
お尋ねの、人間を人間たらしめる意識というには、後者の方ではないでしょうか。全存在、全生物に共通する意識です。

ようするにクリシュナムルティが言及しているのは、人間が在るものを意識した内容を問題にしているわけです。評価判断推理といったもの。いわば「心の領域」と言われるものです。
ようするにKの言いたいことは周囲の世界を自分の繰り出したイメージで見ているのではないか、という問いかけです。ようするに「色眼鏡」で世界を見ているので真実を見ていない。
仏教でいう「唯識」の世界。生長の家の教えでは、「一切は心の影と」と言い切っています。



[25567] Re:[25565] [25564] [25563] [25562] [25557] [25554] [25553] [25552] [25550] [25549] [25548] [25547] [25541] 既知からの自由2-2(2) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/27(Wed) 18:45  

> > > > > > > > > > > > > [条件付け]
> > > > > >
> > > > 見るという事が知的理解と即時の理解の架け橋です。そこまで知的理解で行けます。見ることに入ると即時の理解が始まりだします。ここには私は疑いがないのです。見ることがなぜ始まらないかが疑問なのです。
> > >
> > >
> > >  もしも、その「見る」が「変容」と同等であれば、見ることでクリシュナムルティの陳述内容を理解できるということではないでしょうか。。
> >
> >
> > 見ることに幸せにもたまたま入っても、それは自分はタバコを吸っているのではなくタバコに捉われているのだという事を悟ったにすぎません。意志の力ではやまらなかった煙草を吸う事が落ちていったという事です。
> >
> > 全般的な変容が実現するという事はどういう事か見当もつきません。しかし見ることに入れば苦痛、葛藤が次々と落ちていくことがわかります。しかし、すっかりなくなったかどうかは、わからないし証明の仕様がないのです。禁煙ですらそうです。もう40年近くたっているでしょう。でも何かでまた吸い始めるかもしれません。皆が変容というお化けイメージに取り憑かれているのかもしれません。
> >
> >  それで私は見ることが徐々に実現して、するとそれに応じたミニ変容が始まり、それは葛藤がなくなったという大きなことが実感できて言えるようになります。で、私は「既知からの自由」という陳述を興味を持って読んでいるわけです。
>
>
>  はい。
>
>  読み進めてゆく内に、理解が更に深まり、それが変容(ミニ変容でもOK)へと繋がってゆくのかもしれません。。


見ることが始まらない間の理解はほとんど知的理解です。変容にはつながりません。しかし知的理解が分析的にならずに、達成を忘れて読むことはエネルギーを高めます。
 分析的でなく、達成を忘れている状態がほとんど時間のない見る状態であることはお判りでしょう。瞑想と言ってもよいかもしれませんね。


>  私も、穴が開かんばかりに、読んでいます。
>
>  この穴が開かんばかりとなる探究心が大切なのかもしれません。。


老婆心ですが、穴が開かんばかりが集中・努力になりませんように。それはエネルギの無駄遣いです。私もそこを経てきたのですが。


[25566] Re:[25547] [25541] 既知からの自由2-2(2) 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/27(Wed) 17:20  

> > [条件付け]
> >
> >  快楽を続けたり苦痛を避けたりする中で葛藤があるときのみ、いかに条件づけられているか自分で見ることができるでしょう。周りのあらゆることが完全に幸福なら、妻はあなたを愛し、あなたは妻を愛し、素敵な家、素敵な子供と沢山のお金があるなら、自分の条件付けに全く気付きません。しかし妨害があるとき ― 妻が誰かほかの人を見たり、金を失ったり、戦争あるいは何か他の苦痛や心配に脅かされるとき ― その時自分が条件づけられていることをしります。何かの種類の妨害に対して苦闘したり、何かの外部または内部の脅威に対して自分を守るとき、その時自分が条件づけられていることを知ります。そして殆どの私たちは殆どの時間、表面的にあるいは深く妨害されているので、まさにその妨害が、私たちが条件づけられているという事を示します。動物は可愛がられている限り申し分なく反応しますが、敵対される瞬間凶暴な性質の全体が出てきます。
>
>
> 快楽や苦痛を通じて葛藤があるときのみ、条件付けられていることを自分で見ることができる? 山ほどある条件付けのどれかに気づくことはありそうだが? 葛藤、すなわち矛盾が生じているのがKの言っている条件付けのことであり、それなら見つけられるでしょうという事ですか。
>  妨害のある時、静かにしていられないのが条件付けの表れなのか。

摩擦や妨害が起きるとき、騒ぐ自分がいる。
例えば、人と意見が対立するとき、自身の条件づけがあらわになる。
人からあることに非難や指摘を受けて、自分が腹が立ったという時、
その事柄に執着もしくは、こだわりを持っていたとがあらわになる。
逆にいえば、自分の嫌いな人間、気に入らない人間と相対する機会が多いほど条件ずけを知る機会が得られるとはいえないだろうか。

平穏では条件づけを知る機会がない。摩擦が多いほど条件付けを知る。平和な家庭なら 条件ずけを知らない。
なかにははじめから摩擦やトラブルを避ける人がいる。関わりたくない人。こういう人は、実は条件ずけを知る機会を避けているといえないだろうか。
>
> >  私たちは生を妨害されます。政治、経済情勢、恐怖、残虐、自分自身のだけでなく世界の悲しみ。そしてそのことから、どんなにひどく狭く条件づけられているか実感します。ではどうすればいいでしょうか? 大抵の人がするようにその妨害を受け入れ、それに耐えて生きますか? 背中の痛みに耐えて生きることに慣れるように、それに慣れますか? それを我慢しますか?
> >
> >  私たち誰もの中に、物事を我慢し、それらに慣れ、それらを環境のせいにする傾向があります。「ああすべてがうまくいっていたなら私は違っていただろうに」あるいは「機会があればやって見せるのに」とか「あんなひどい目に遭ったので私は押し潰されたのだ」と言い、常に自分のうまくいかないことを他人や、環境や、経済情勢のせいにします。

もう慣れているのではないでしょうか。慣れっ子。毎日悲惨な事件を起きても。妨害に慣れている。そういうもんだと。自分と関わりないことには無関心。
> >
> >  妨害に慣れてしまうならそれは心が鈍くなったことを意味します。丁度自分の周囲の美に慣れてしまうと、もはやそれに気づかないのと同じです。無関心に、固く、冷淡になり、そして心はますます鈍くなります。妨害に慣れないなら、ある種の薬を飲んだり、政治団体に加入したり、叫んだり、書いたり、フットボールの試合や寺院や教会に行ったり、あるいは別の娯楽を見つけることによってそれから逃げようと試みます。

はい。人には娯楽という「逃げ込み寺」がある。実は私も毎日のワールドカップ観戦で寝不足。
> >
> >  なぜ私たちは実際の事実から逃げるのでしょうか? 私たちは死を恐れます ―

いきなり「死」ですか。オーバーですね。

>一例として取り上げているだけですが ― そして私たちはあらゆる種類の理論、希望、信念を死の事実を隠すためにつくり出しますが、事実はなおそこにあります。事実を理解するためにはそれを見つめなければならず、それから逃げてはなりません。私たちはたいてい死だけでなく生も恐れています。家族のために恐れ、世論を、自分の職や安全を失うことを、沢山のほかのことを恐れています。単純な事実は私たちは恐れているという事であり、これやあれを恐れているという事ではありません。ではなぜ事実に直面しないのでしょう?

その前に恐れているという自覚は私はありません。
それと事実に直面てなんですか?
>
> どうすればいいかわからない、問題は複雑で要因はいっぱいあるし、多くの人の関わった生きた動きであるから。
>  あっ、これは自分の条件付けに気づくのではなく、世界を変えようとしている。

私は世界を変えようなんてだいそれたことは考えたことがない。、
>
>
> >  現在の中でのみ事実に直面することができます。そして事実から常に逃げているため、それが現在あると決して認めないなら、決してそれに直面することはできません。そして逃避のあらゆる網を養成してきたので、私たちは逃避の習慣に捕らえられるのです。
>
>
> 自分の条件付けに目を向けるのではなく、他人や社会を非難したり、無力を感じ逃避したりしている。
>
クリシュナムルティさん、事実を向き合えってぢういうことですか?
私たちは毎日、現実の直面して生きています。逃げてる人はい、ません。

以下は重要なところ。

> >  さて、あなたがともかく敏感で、ともかく真剣なら、自分の条件付けに気づくのみならず、またそれが帰着する危険に、それがどんな残忍さや憎悪に導くかに気づくでしょう。では、なぜ、自分の条件付けの危険を見てもあなたは行動しないのでしょうか? 

まず初めに、条件づけは危険? なんて認識したことがない
だから行動しない。条件づけは摩擦を生みますが、それと共に快楽、娯楽を保証するからです。

<怠惰だから、怠惰にはエネルギーが欠けているからでしょうか? で すが通り道のヘビとか、崖とか、火事のような即座の肉体的危険を見るなら、あなたはエネルギーを欠いてはいないでしょう。

おっしゃる通り。蛇を見ると行動します。命の危険を及ぼすから。


<では、なぜ、自分の条件付けの危険を見るとき行動しないのでしょう? 
行動しません。

<もし民族主義が自分自身の安全に対して危険なのを見たら行動しないでしょうか?

行動しません。何もしないのが一番。
一部の人は、国会の前で抗議活動をしています。

> 前回のところで自分は自分自身に目を向けていなかったと気づきました。それで今は自分自身の条件付けを見ます。気づきます。しかし、見たらなぜ行動しないかと問われます。
>
はい。Kのいう「見ることが行動すること」というのがわからない。

> >  答えは見ないということです。知的な分析の過程を通じて民族主義が自滅に導くのを見るかもしれませんが、しかしそこには感情を動かす内容がないのです。感情を動かす内容があるときのみあなたは活力に満ちるのです。
>
>
> 感情が動かない、感情が動く内容がない?
>
>
「見ること」というのは感情を動かす内容のあるとき?
ここは、初めて聞きました。

> >  自分の条件付けの危険を単に知的な概念として見るなら、それについて決して何もしないでしょう。危険を単なる観念として見るときには観念と行動の間に葛藤があり、その葛藤はあなたのエネルギーを奪い取ります。行動するのは、条件付けとその危険を即座に、崖を見るように見る時のみです。それゆえ見えることが行動です。

つまり、さっき言われた感情を動かす内容のあるとき?
「見ることが行動する」ということが実現する?
つまり知的な過程では行動しないということですか。頭でわかっただけでは。
感情に訴えるものがないと行動しない?ということ。
> >
> >  私たちはたいてい不注意に生を歩みます。育てられてきた環境にしたがって思慮なく反応しながら。そしてこのような反応は一層の束縛、一層の条件付けを作り出すだけです。しかし自分の全注意を自分の条件付けに注ぐ瞬間、あなたは過去から完全に自由であるのを、過去は自然に脱落するのを見るでしょう。
>
>
> 感情は条件付けによりそっぽに向かって動いているようだ。全注意を注ぐといってもぴんと来ない。感情がそこに向いていないと全注意は注げない。とにかく条件付けに気づいて脱落させるしかないのか。。
>
> > (終わり)
クリシュナムルティさんにお聞きしますが、
「自分の条件づけに全体的注意を向けた瞬間、あなたは過去から完全に自由になる」とおっしゃいますが。そのようなことを今まで実現された方はいらっしゃるにでしょうか?
もしいないというなら絵に描いた餅ではないでしょうか?
要するに架空の理論を言ってるにすぎない。あなたの理想論でしょう。
もし、反論があるなら、全体的注意を向けるというのは、一体どう いうことか具体的に説明できるのでしょうか。
条件ずけが自然に脱落?
んなことありえないでしょう。何で自然と脱落するにですか?
いいですか。仏教では、条件づけに囚われるか囚われるないか、です。それだけをいっています。それが「無執着」です。
お釈迦様のように、悟りを開いた方なら、条件づけの脱落は可能かもしれませんが、我々一般の凡人では無理な話です。



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