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[25901] Re:[25900] [25899] [25893] 既知からの自由11ー2 投稿者:無名 投稿日:2018/09/23(Sun) 14:48  

> > > 11章ー2 [美] [厳しさ]
> > >
> > >  最も難しいことの一つは、外部のものだけでなく内部の生も、自分自身で本当に明確に見ることだと私は思います。木や花や人を見ると言うとき、実際に見ているでしょうか? 
> >
> > 自分自身で内部の生を明確に見るというが、一体何を明確に見るというのか?抽象的でよくわかりません。
>
> 具体的に書いてみます。孤島でお父さんが灯台守をしています。奥さんはいないで二人の幼い子供兄妹がいます。おばあさんがいてお父さんに、子供を町の家に引き取って学校にもやると言います。子供は嫌だ、どうしてもお父さんと一緒にいたいと言います。お父さんはその去った奥さん(実は要請)が忘れられず、町に行かず孤島にいたいのです。人はどうにもならないとしか思えない葛藤、苦悩、悲しみを持って生きています。このような生の外部も内部も関連した状態は見るとわかるでしょう。


そこで言われているのは、その人の置かれた立場、状況を言われているのではないですか。
私の質問は内部の生を明確に見ているかどうかです。
この人の例をとると、灯台守の父親は、自身の内部の生を明確に見てるかどうか。
いつまでも感傷にしたっている間は過去の思考に占領されていることになる。つまり内部の生を明確にみていない。
この人は、心の内部に浮かぶ思考を疑って、見ているかどうか。
いつまでも亡くなった人を思うようでは、過去の記憶にふりまわされているということです。
そこが見えてるかどうか。
見えてないと、ていつまでも葛藤、悩み、悲しみを抱えることになる。
奥さんはいないのだから。
 
>
>
> > >それとも単にその言葉がつくり出したイメージを見ているだけなのでしょうか? つまり、木や、光と喜びに満ちた夕方の雲を見るとき、ただ目で、そして知的に見るだけでなく、全的に、完全に、実際に見ているでしょうか?

つまりその人は、何で孤島にしがみつくのか自問自答したことがあるだろうか。
子供のためを真摯に思うなら、町に出ていっている。
孤島にこだわるのは、一種のエゴだろう。

> >
> > 全的に完全に見るとは、一体どういうことか?
> > 思考なしに、ということ?
>
> 私があげた例を見て、おばあさんが正しいとか、お父さんは思い出に執着しているとか、子供のは親の決定に従うべきだとかいう人は、思考でとやかく言っています。感情、悲しみをも理解して見ている人、世の中がつくりだした社会の介入も見ている人が全的に見ている人です。

私が思うには、その灯台守の人は、自分勝手です。エゴです。
全的に見れば愛があふれ、子供といっしょに町に行くでしょう。
それを亡き妻の感傷にしたって、孤島に残るというのは、寓の骨頂。
いかんせん。思考に未練があるということ。
妻に未練があるのではなく、「妻」という思考に未練がある。ここにこの人は気づいていない。まさに自己憐憫
>
> > >  あなたは一本の木のような対象物を、どんな連想も、それについて得たどんな知識もなしに、あなたと木の間に遮蔽物をつくって木をありのままに見ることを妨げるどんな偏見、どんな判断、どんな言葉もなしに見ることを実験したことがありますか? 
> >
> > ありません。
> >
> > >それをやってみて、木を全存在で、全エネルギーを注いで観察するとき、実際に
> 何が起こるか見て下さい。
> >
> > お言葉ですが、全存在で、全エネルギーを注いで観察するというのはどういうことですか?
> > 対象物に対してを目を凝らしてギュっ と観察することですか?
> > 凝視?
> > それとも全存在、全エネルギーというのは金剛力で見ることですか?
> >
> >
>
> 例えばですが父と母との争いを胸を痛めて必死に見ている子供の気持ちが全存在で、全エネルギ−を注いで見るという事でしょう。凝視とか金剛力とか区別的に判断するのではなく、全的に、つまり、分別心なしに見ていることが全的であることです。

あなたは受動的に全的エネルギーが注がれろと、お思いなのだろうか?
あなたの言われた例は、全的エネルギーと関係ありません。
夫婦喧嘩を見ている子供は悲嘆にくれるだけであって、全的エネルギーが、注がれるというのはおかしいでしょう。
子供はそのとき、自身の内面を見てますか?
見てないでしょう。明らかに。
意識の矛先は、夫婦の争いをリアルに向いています。つまり外部。
ここでいう内部というのは、自分自身の心の内部のことです。つまりは思考の動き。外部というのは目に見える世界。
もう一度言うと、外部では夫婦が争っています。
それに対しての反応が「内部」。
私自身、言いたくないですが、子供のころ相当嫌な思いをしました。
繰り返すと、反応を見るというのは、自分の内部で起きる思考の動き、流れを見るということです。
例えば、相手に対し馬鹿野郎、この野郎が浮かんだら、「馬鹿野郎」「この野郎」という思考を見る。
問題は、この時、人間は感情的になってしまうということです。見るどころではない。意識の矛先は相手に向けているから。憎しみのエネルギー
>
> > >その強烈さの中に観察者は全くないことを見いだすでしょう。
> >
> > 見てる時、思考はないということですか?
>
> はい。
>
> > それが強烈ということですか?
>
> はい。その時結論も分別もありません。それが観察者がいないという事です。
>
> > >注意だけがあります。観察者と観察されるものがあるのは不注意があるときです。何かを完全な注意で見ているとき、概念や、公式や記憶の入る余地はありません。このことを理解することが重要です。
> >

言葉ではわかります。何とでも説明できます。問題は、現場での「実感」

> > つまり思考は介入しない。不注意というのは思考が介入すること。
>
> そうです。
>
> > >何故なら私たちは非常に注意深い探求を必要とすることに入りつつあるからです。
> >
> > 言ってることはわからないではないですが、どうやって思考を追い出すのですか?
> > 考えないということ?
> > 「注意深い探求」というのがよくわからない
>
> ただただひたすらに見ていること。全エネルギーで見ている。それが注意で、思考は顔を出せない。

ですから言葉ではいえます。
>
> > >  完全な自己放棄で木や星やきらめく川の水を見る心だけが美とは何かを知ります。
> > 完全な自己放棄って何ですか?
> > 誰でも木や星を見てますよ。
>
> そうですが全エネルギーを注ぐことはない。

そうです。
>
> > >そして実際に見ているとき私たちは愛の状態にあります。
> >
> > 何で急に愛の話になるのですか。
>
> 全エネルギーを注いで何かを見ている時、思考も自己もなく見ている。それが愛という状態にあることなのだ、と教えてくれています。

何で愛なのか。
私は以前、新しい芽氏の言葉を紹介した。どのように気づいているか。愛の気持ちで気づいているのかと氏はいう。
そのように愛というのは自ら発するものである。
何がエネルギーを注いでいる時が愛なのか?
>
> > >普通は比較したり、人が組み立てたものを通じて美を知りますが、それは私たちが美を何かの対象に起因すると考えていることを意味します。 私は、私が美しい建築であると考えるものを見、そしてその美を自分の建築の知識のせいで、またそれを私が見たほかの建築と比較することによって味わうのです。しかしいま私は自分自身に「対象なしに美はあるだろうか?」と尋ねています。
> >
> > 仏像は誰が見ても美しいです。偏見はありません。
> >
> そういう時観察者・思考がそう言っているのです。次を読んでください。

そうではなく、実際の話です。実際に仏像を見たことを言っている。
万人共通の美意識をもっているから、みんな桜を見に行くのではないですか。
富士山は美しい。星は美しい。花は美しい
> >
> > >検閲者、経験者、思考者である観察者がいるとき、美は外部の何か、観察者が見て判断する何かであるため、美はありません。だが観察者がないとき ― そしてこのことは大変な瞑想、探求を必要とします ― そのとき対象なしの美があります。
> >
> > ここへきて瞑想、探求の話になった。
>
> いえ、観察者がいない時(エネルギ−が見ることだけに注がれている時)対象なしの美があるとKが言っています。

さっきいった花、星、山を見ているときは対象のない美です。
思考が生じると二元的になる。分離
例「きれい」「きたない。「自分」と「他人」

> >
> > >  美は観察者と観察されるものの完全な放棄の中にあります。そして自己放棄があり得るのは完全な厳しさがあるときのみです ― 過酷さ、制裁、規則と服従を伴う聖職者の厳しさではなく ― 衣服、考え、食物、振舞の質素さではなく ― 完全に単純である厳しさであり、それは完全な謙虚さです。そのとき達成することはなく、登る梯子もありません。最初の一歩があるだけでその第一歩が永遠の一歩です。

と、Kは言っている。
> >
> > どうも話が飛躍しすぎるようです。これでは一般の人はついていけません。
> > >
> > >  例えば一人、あるいは誰かと歩いていて、そして話すのをやめたとしましょう。自然に囲まれており、犬も吠えず、車の通る音も、鳥の羽ばたきさえもありません。あなたは完全に沈黙しており、まわりの自然もまた全く沈黙しています。観察者と観察されるものの両方のその沈黙な中に ― 観察者が彼の観察したものを思考に翻訳しないとき ― その沈黙の中に違う質の美があります。自然も観察者もありません。全く、完全に、ただ一人の心の状態があります。
> >
> > 私は登山の時、途中の山林で、一人っきりになったことがあります。周りが誰もいない。自然のみ。そのとき言いようのない恐怖に襲われたことがあります。まさに孤立。
> >
> > >それは一人です ― 孤立ではありません ― 静寂の中にただ一人、そしてその静寂は美です。あなたが愛するとき観察者がいるでしょうか? 愛が欲望と快楽であるときのみ観察者がいます。欲望と快楽が愛と関連していないとき、愛は強烈です。愛は、美のように、日々全く新しいものです。すでに述べたように、愛は昨日や明日を持ちません。
> >
> > 何で愛が出てくるのですか?愛は前章のテーマで、今章のテーマは「見る、聞く」です。
>
> 愛と美はどのような状態であるかを、見る、聴くとの関連を使ってはっきりと述べられつつあります。
>
> > >
> > > (続く)
> >
> > よく読んで見ると、具体的なことが書かれていないことに気づきます。
> > ただ見るだけじゃわからない。私たちは常に何かを見てますが、エネルギーなど使っていないでしょう。見てるだけですから。
>
> 見ているというのはエネルギーを使いますよ。老人になるとよくわかります。疲れたとき居眠りします。目を見張るという事が大変です。目がかすんできます。

エネルギーを使うというのは、運動するときです。
普段やらないことをやるとき。
神田明神の階段を上がったら、翌日、腿がパンパンになった。
映画やテレビを見ているとき、とくにエネルギーは使いません。見るだけですから。終わってあと疲れますが。
> >
> > 結局ここでは、全存在、全エネルギーで見るというのは、どういうことか、ということになる。
>
> そうです。それは美、愛、自己放棄、思考や観察者の不在などの全部にかかわります。
>
> > 例えば、そこに木という対象物があるとき、何かを感じとれということだろうか?
>
> 別に必要なければ通りすがりに見るだけでいいのではないですか? 家人が元気がよさそうならそんなに見ません。何か気になるなら見守ります。

全的エネルギーの話をしている。それで木の例を出した。
植物学者は徹底的に観察します。花々、茎など。
科学者は顕微鏡を見ます。細菌のかすかな動きを見のがさないために並み外れた注意力、観察力を必要とします。
これは全的エネルギーです。文字どうり、意を注ぐ。注意。
我々は木など関心ないので通りすがるだけです。
ですからクリシュナムルティは、まず自分自身の内面に何が起きてるのか関心を持つことからはじめなさいというわけです。



[25900] Re:[25899] [25893] 既知からの自由11ー2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/22(Sat) 14:56  

> > 11章ー2 [美] [厳しさ]
> >
> >  最も難しいことの一つは、外部のものだけでなく内部の生も、自分自身で本当に明確に見ることだと私は思います。木や花や人を見ると言うとき、実際に見ているでしょうか? 
>
> 自分自身で内部の生を明確に見るというが、一体何を明確に見るというのか?抽象的でよくわかりません。

具体的に書いてみます。孤島でお父さんが灯台守をしています。奥さんはいないで二人の幼い子供兄妹がいます。おばあさんがいてお父さんに、子供を町の家に引き取って学校にもやると言います。子供は嫌だ、どうしてもお父さんと一緒にいたいと言います。お父さんはその去った奥さん(実は妖精)が忘れられず、町に行かず孤島にいたいのです。人はどうにもならないとしか思えない葛藤、苦悩、悲しみを持って生きています。このような生の外部も内部も関連した状態は見るとわかるでしょう。


> >それとも単にその言葉がつくり出したイメージを見ているだけなのでしょうか? つまり、木や、光と喜びに満ちた夕方の雲を見るとき、ただ目で、そして知的に見るだけでなく、全的に、完全に、実際に見ているでしょうか?
>
> 全的に完全に見るとは、一体どういうことか?
> 思考なしに、ということ?

私があげた例を見て、おばあさんが正しいとか、お父さんは思い出に執着しているとか、子供のは親の決定に従うべきだとかいう人は、思考でとやかく言っています。感情、悲しみをも理解して見ている人、世の中がつくりだした社会の介入も見ている人が全的に見ている人です。

> >  あなたは一本の木のような対象物を、どんな連想も、それについて得たどんな知識もなしに、あなたと木の間に遮蔽物をつくって木をありのままに見ることを妨げるどんな偏見、どんな判断、どんな言葉もなしに見ることを実験したことがありますか? 
>
> ありません。
>
> >それをやってみて、木を全存在で、全エネルギーを注いで観察するとき、実際に
何が起こるか見て下さい。
>
> お言葉ですが、全存在で、全エネルギーを注いで観察するというのはどういうことですか?
> 対象物に対してを目を凝らしてギュっ と観察することですか?
> 凝視?
> それとも全存在、全エネルギーというのは金剛力で見ることですか?
>
>

例えばですが父と母との争いを胸を痛めて必死に見ている子供の気持ちが全存在で、全エネルギ−を注いで見るという事でしょう。凝視とか金剛力とか区別的に判断するのではなく、全的に、つまり、分別心なしに見ていることが全的であることです。

> >その強烈さの中に観察者は全くないことを見いだすでしょう。
>
> 見てる時、思考はないということですか?

はい。

> それが強烈ということですか?

はい。その時結論も分別もありません。それが観察者がいないという事です。

> >注意だけがあります。観察者と観察されるものがあるのは不注意があるときです。何かを完全な注意で見ているとき、概念や、公式や記憶の入る余地はありません。このことを理解することが重要です。
>
> つまり思考は介入しない。不注意というのは思考が介入すること。

そうです。

> >何故なら私たちは非常に注意深い探求を必要とすることに入りつつあるからです。
>
> 言ってることはわからないではないですが、どうやって思考を追い出すのですか?
> 考えないということ?
> 「注意深い探求」というのがよくわからない

ただただひたすらに見ていること。全エネルギーで見ている。それが注意で、思考は顔を出せない。

> >  完全な自己放棄で木や星やきらめく川の水を見る心だけが美とは何かを知ります。
> 完全な自己放棄って何ですか?
> 誰でも木や星を見てますよ。

そうですが全エネルギーを注ぐことはない。

> >そして実際に見ているとき私たちは愛の状態にあります。
>
> 何で急に愛の話になるのですか。

全エネルギーを注いで何かを見ている時、思考も自己もなく見ている。それが愛という状態にあることなのだ、と教えてくれています。

> >普通は比較したり、人が組み立てたものを通じて美を知りますが、それは私たちが美を何かの対象に起因すると考えていることを意味します。 私は、私が美しい建築であると考えるものを見、そしてその美を自分の建築の知識のせいで、またそれを私が見たほかの建築と比較することによって味わうのです。しかしいま私は自分自身に「対象なしに美はあるだろうか?」と尋ねています。
>
> 仏像は誰が見ても美しいです。偏見はありません。
>
そういう時観察者・思考がそう言っているのです。次を読んでください。
>
> >検閲者、経験者、思考者である観察者がいるとき、美は外部の何か、観察者が見て判断する何かであるため、美はありません。だが観察者がないとき ― そしてこのことは大変な瞑想、探求を必要とします ― そのとき対象なしの美があります。
>
> ここへきて瞑想、探求の話になった。

いえ、観察者がいない時(エネルギ−が見ることだけに注がれている時)対象なしの美があるとKが言っています。
>
> >  美は観察者と観察されるものの完全な放棄の中にあります。そして自己放棄があり得るのは完全な厳しさがあるときのみです ― 過酷さ、制裁、規則と服従を伴う聖職者の厳しさではなく ― 衣服、考え、食物、振舞の質素さではなく ― 完全に単純である厳しさであり、それは完全な謙虚さです。そのとき達成することはなく、登る梯子もありません。最初の一歩があるだけでその第一歩が永遠の一歩です。
>
> どうも話が飛躍しすぎるようです。これでは一般の人はついていけません。
> >
> >  例えば一人、あるいは誰かと歩いていて、そして話すのをやめたとしましょう。自然に囲まれており、犬も吠えず、車の通る音も、鳥の羽ばたきさえもありません。あなたは完全に沈黙しており、まわりの自然もまた全く沈黙しています。観察者と観察されるものの両方のその沈黙な中に ― 観察者が彼の観察したものを思考に翻訳しないとき ― その沈黙の中に違う質の美があります。自然も観察者もありません。全く、完全に、ただ一人の心の状態があります。
>
> 私は登山の時、途中の山林で、一人っきりになったことがあります。周りが誰もいない。自然のみ。そのとき言いようのない恐怖に襲われたことがあります。まさに孤立。
>
> >それは一人です ― 孤立ではありません ― 静寂の中にただ一人、そしてその静寂は美です。あなたが愛するとき観察者がいるでしょうか? 愛が欲望と快楽であるときのみ観察者がいます。欲望と快楽が愛と関連していないとき、愛は強烈です。愛は、美のように、日々全く新しいものです。すでに述べたように、愛は昨日や明日を持ちません。
>
> 何で愛が出てくるのですか?愛は前章のテーマで、今章のテーマは「見る、聞く」です。

愛と美はどのような状態であるかを、見る、聴くとの関連を使ってはっきりと述べられつつあります。

> >
> > (続く)
>
> よく読んで見ると、具体的なことが書かれていないことに気づきます。
> ただ見るだけじゃわからない。私たちは常に何かを見てますが、エネルギーなど使っていないでしょう。見てるだけですから。

見ているというのはエネルギーを使いますよ。老人になるとよくわかります。疲れたとき居眠りします。目を見張るという事が大変です。目がかすんできます。
>
> 結局ここでは、全存在、全エネルギーで見るというのは、どういうことか、ということになる。

そうです。それは美、愛、自己放棄、思考や観察者の不在などの全部にかかわります。

> 例えば、そこに木という対象物があるとき、何かを感じとれということだろうか?

別に必要なければ通りすがりに見るだけでいいのではないですか? 家人が元気がよさそうならそんなに見ません。何か気になるなら見守ります。


[25899] Re:[25893] 既知からの自由11ー2 投稿者:無明 投稿日:2018/09/22(Sat) 10:47  

> 11章ー2 [美] [厳しさ]
>
>  最も難しいことの一つは、外部のものだけでなく内部の生も、自分自身で本当に明確に見ることだと私は思います。木や花や人を見ると言うとき、実際に見ているでしょうか? 

自分自身で内部の生を明確に見るというが、一体何を明確に見るというのか?抽象的でよくわかりません。

>それとも単にその言葉がつくり出したイメージを見ているだけなのでしょうか? つまり、木や、光と喜びに満ちた夕方の雲を見るとき、ただ目で、そして知的に見るだけでなく、全的に、完全に、実際に見ているでしょうか?

全的に完全に見るとは、一体どういうことか?
思考なしに、ということ?
>
>  あなたは一本の木のような対象物を、どんな連想も、それについて得たどんな知識もなしに、あなたと木の間に遮蔽物をつくって木をありのままに見ることを妨げるどんな偏見、どんな判断、どんな言葉もなしに見ることを実験したことがありますか? 

ありません。

>それをやってみて、木を全存在で、全エネルギーを注いで観察するとき、実際に何が起こるか見て下さい。

お言葉ですが、全存在で、全エネルギーを注いで観察するというのはどういうことですか?
対象物に対してを目を凝らしてギュっ と観察することですか?
凝視?
それとも全存在、全エネルギーというのは金剛力で見ることですか?


>その強烈さの中に観察者は全くないことを見いだすでしょう。

見てる時、思考はないということですか?
それが強烈ということですか?

>注意だけがあります。観察者と観察されるものがあるのは不注意があるときです。何かを完全な注意で見ているとき、概念や、公式や記憶の入る余地はありません。このことを理解することが重要です。

つまり思考は介入しない。不注意というのは思考が介入すること。


>何故なら私たちは非常に注意深い探求を必要とすることに入りつつあるからです。

言ってることはわからないではないですが、どうやって思考を追い出すのですか?
考えないということ?
「注意深い探求」というのがよくわからない
>
>  完全な自己放棄で木や星やきらめく川の水を見る心だけが美とは何かを知ります。

完全な自己放棄って何ですか?
誰でも木や星を見てますよ。


>そして実際に見ているとき私たちは愛の状態にあります。

何で急に愛の話になるのですか。

>普通は比較したり、人が組み立てたものを通じて美を知りますが、それは私たちが美を何かの対象に起因すると考えていることを意味します。 私は、私が美しい建築であると考えるものを見、そしてその美を自分の建築の知識のせいで、またそれを私が見たほかの建築と比較することによって味わうのです。しかしいま私は自分自身に「対象なしに美はあるだろうか?」と尋ねています。

仏像は誰が見ても美しいです。偏見はありません。



>検閲者、経験者、思考者である観察者がいるとき、美は外部の何か、観察者が見て判断する何かであるため、美はありません。だが観察者がないとき ― そしてこのことは大変な瞑想、探求を必要とします ― そのとき対象なしの美があります。

ここへきて瞑想、探求の話になった。

>  美は観察者と観察されるものの完全な放棄の中にあります。そして自己放棄があり得るのは完全な厳しさがあるときのみです ― 過酷さ、制裁、規則と服従を伴う聖職者の厳しさではなく ― 衣服、考え、食物、振舞の質素さではなく ― 完全に単純である厳しさであり、それは完全な謙虚さです。そのとき達成することはなく、登る梯子もありません。最初の一歩があるだけでその第一歩が永遠の一歩です。

どうも話が飛躍しすぎるようです。これでは一般の人はついていけません。
>
>  例えば一人、あるいは誰かと歩いていて、そして話すのをやめたとしましょう。自然に囲まれており、犬も吠えず、車の通る音も、鳥の羽ばたきさえもありません。あなたは完全に沈黙しており、まわりの自然もまた全く沈黙しています。観察者と観察されるものの両方のその沈黙な中に ― 観察者が彼の観察したものを思考に翻訳しないとき ― その沈黙の中に違う質の美があります。自然も観察者もありません。全く、完全に、ただ一人の心の状態があります。

私は登山の時、途中の山林で、一人っきりになったことがあります。周りが誰もいない。自然のみ。そのとき言いようのない恐怖に襲われたことがあります。まさに孤立。

>それは一人です ― 孤立ではありません ― 静寂の中にただ一人、そしてその静寂は美です。あなたが愛するとき観察者がいるでしょうか? 愛が欲望と快楽であるときのみ観察者がいます。欲望と快楽が愛と関連していないとき、愛は強烈です。愛は、美のように、日々全く新しいものです。すでに述べたように、愛は昨日や明日を持ちません。

何で愛が出てくるのですか?愛は前章のテーマで、今章のテーマは「見る、聞く」です。
>
> (続く)

よく読んで見ると、具体的なことが書かれていないことに気づきます。
ただ見るだけじゃわからない。私たちは常に何かを見てますが、エネルギーなど使っていないでしょう。見てるだけですから。

結局ここでは、全存在、全エネルギーで見るというのは、どういうことか、ということになる。
例えば、そこに木という対象物があるとき、何かを感じとれということだろうか?


[25898] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/09/22(Sat) 10:04  

女優樹木希林さんが亡くなった。彼女は常に高みから自分自身を眺め、物事を客観視していた人だった。常に人のためにということが頭にあったという。
素晴らしい人は、身近にいくらでもいる。生きた手本になる人が。岡山の子供を救ったボランティア の小畑さんもそうだ。
私の知人に、ただ傾聴するのみ。邪心を持たぬという人がいた。

宇宙、宇宙というが、人間こそ実は宇宙の体現ではなかろうか。
人間即宇宙。まさに小宇宙。我ゆえに我あり。神とは人間の意識なり。

動物の世界は、一見「弱肉強食」の世界に見えるが、実は愛の世界だ。
自分の命を他の動物に捧げているということだ。海の小動物は、たくさん卵を産んでも、ほとんどが食われてしまう。生き残るのはわずか。それを有史以来繰り返している。見事な奇跡のバランスが保たれている。他にもそう言ったことがいくらでもある。
酸素と炭酸ガスの微妙なバランスで人間は生かされている。

追記
余談だが、約1万年と言われる縄文時代は、争いなく、平和に暮らしていたとある文献を読んだことがある。カタカムナ文献。


[25897] 雑観 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/22(Sat) 00:21  

今日はWOWOWのアニメ・ファンタジー「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」21時〜を見て、始めの方から泣いていた。アイルランドの伝説をもとにした幻想的な作品で、すっかり魅せられてしまった。

これは人間がいかにいかに葛藤し、いかに愛を見つけ出すかの物語で、その人間的な善とも悪とも言えない葛藤が単純でよくわかるし、その凝り固まった苦悩or悲しみを解きほぐす愛をわかる人、その実現を助ける人、知らずして妨げる人が、主人公への愛でいさかいをやめ、一本筋の愛に目覚めて行くというストーリーだった。

ひょっとすると今の宇宙そのものが一応法則はあるが偶然の不条理で非合理的な世界かもしれない。科学者が観測した世界はそう見えるという事だった。人間が世界を愛で統合しなければ自分の幸福もない宿命にあるのかもしれない。


[25896] Kathryn 投稿者:Kathryn 投稿日:2018/09/21(Fri) 12:34  

これらのリリースに付属するほとんどのコンテンツは、私が情報を非常にうまく共有できるようにします。

https://www.goodreads.com/user/show/25656701-baccarat24hr


[25895] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/09/21(Fri) 09:17  

>終戦後間もなく、自然の豊かさは豊富にあったのではないでしょうか。。

何を想像してるのか。

> 海の幸、山の幸は、漁師や狩猟者等の専門職だけのものではなく、普通の人々が、ひょいと海や山へでかけ、収穫物をとってくる。。恵みの海、山。。愛のような海や山。

 そのような自然と、断絶が今の時代、大きくなっていないでしょうか。

おたくの言っていることは、いつも思考の領域。最後はいつも? がつく。
クリシュナムルティや新しい芽氏が最も意味嫌うところ。
彼らの記述は事実のみの描写であって、想像イメージではない。
感じたものを描写している。

>そのような自然との触れ合いが大きく、人の生命が尊ばれていた、終戦間もない戦後の時代、ミクロ的には、思考を超えた愛が、所々にちりばめられていたことを、ゴトさんは感じていたのですね。。亡き母の中にも・・。

何で人様のプライベートに踏み込むのか。
戦争中の話が何でクリシュナムルティと関係あるのか。
今議論になっているのは、「見る」「聞く」の話だろう。
何で話をそらすのか。



[25894] Re:[25892] [25873] 既知からの自由11−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/20(Thu) 12:08  

> > 11章−1 [見ることと聞くこと] [芸術]
> >
> > 私たちは愛の性質を調べてきました。そして問題に対してより一層入ること、より一層気づくことが必要な地点に来たと私は思います。多くの人々にとって愛は、慰め、安心、残りの人生に対していつも情緒的満足が保証されることを意味することがわかりました。そして私のような誰かがやってきて、「それは本当に愛だろうか?」と尋ね、自分自身の内側を見るように求めます。そしてそれは心を乱すので見ないよう努めます ― あなたはむしろ魂とか政治や経済状況を論じたいのです ― しかし見る羽目に追い込まれるとき、いつも愛とだ思っていたものがまったく愛ではないことを実感します。それは相互の満足、相互の利用なのです。
>
>
> > 多くの人々にとって愛は、慰め、安心、残りの人生に対していつも情緒的満足が保証されることを意味することがわかりました。−−
> > しかし見る羽目に追い込まれるとき、いつも愛とだ思っていたものがまったく愛ではないことを実感します。それは相互の満足、相互の利用なのです。−−
>
> これらは現状をマクロ的には実にぴったりと表現しています。ミクロ的には様々な差異があるでしょう。そのなかには本当の愛も、差異を超えて、あるのかもしれません。


 終戦後、人の生命は大切に扱われたのではないでしょうか。。

 多くの死者(戦没者)を偲びつつ、生き延びた人々も紙一重で死と隣り合わせに居た。

 そのような時代には、生命が尊ばれ大切にされていたのではないでしょうか。。

 今の時代は、道徳、モラル、常識等々の観念が生命の大切さを指摘するが、心根にまで届いているのだろうか。。
 平気でいじめ抜く子ども達と我関せずの教師達。

 ゴトさんの戦後間もない時代、生命が尊ばれていたのではないでしょうか。。



> >  私が「愛には明日はなく、昨日もありませ
> ん」とか「中心がないとき愛がある」というとき、それは私にとっては現実ですが、あなたにとってはそうではありません。それを引用し、決まり文句にするかもしれませんが、それは正当性を持ちません。あなたはそれを自分自身で見るべきですが、そうするには見るための自由が、あらゆる非難、あらゆる判断、あらゆる同意や不同意からの自由がなければなりません。
>
>
> > あなたはそれを自分自身で見るべきですが、そうするには見るための自由が、あらゆる非難、あらゆる判断、あらゆる同意や不同意からの自由がなければなりません。−−
>  観念的理解から実際の理解に入るには非難、判断から自由な「見る」が必要であることが出てきました。
>
>
> >  さて、見ることは生において最も困難なことの一つです ― 聞くことも ― 見ることと聞くことは同じです。心配事で目が見えなくなるなら、日没の美しさを見ることはできません。ほとんどの人は自然との接触を失っています。文明はますます大都会に向かっています。私たちはますます都会人になっており、込み合ったアパートに住み、朝晩に空を見る空間もほとんどなく、それゆえ多くの美との接触を失っているのです。あなたが気づいているかどうか知りませんが、日の出や日の入り、月の光や水に反射する光を見る人のいかに少ないことか。
> >
> >  自然との接触を失ったので、私たちは自ずと知的能力を発達させる傾向にあります。非常にたくさんの本を読み、多くの美術館やコンサートに行き、テレビを見、そのほか多くの娯楽を持ちます。私たちは際限なく他人の考えを引用し、芸術について非常に多くを考え、語ります。私たちがそんなに芸術に依存するのは何故でしょうか? それはある種の逃避、刺激なのでしょうか? 自然と直接接触しているなら、飛んでいる鳥の動きを見つめ、空のあらゆる動きの美しさを見、日の影を見つめ、ほかの人の顔の美しさを見るなら、絵を見に美術館に行きたいと考えるでしょうか? おそらく自分の周りのあらゆるものをどのように見るか知らないので、よりよく見えるよう刺激するある種のドラッグに頼るのです。
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> ここはすでに無明さんと語り合いましたね。>
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> >  毎朝弟子に話をしていた。ある宗教の教師に話があります。ある朝教壇に立ってちょうど始めようとしたとき、一羽の小鳥が来て窓の敷居に止まりさえずり始め、元気一杯歌いました。それから鳴きやみ飛び去り、教師は「今朝の説教はおしまい」と言ったのです。
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> このこの小話は見る、聴くことの重要性を示しているのでしょうが、それができないのは都会人でありかつ忙しい、つまり、心を何かに常に占有されているという事ですかね。
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> > (続く)


 終戦後間もなく、自然の豊かさは豊富にあったのではないでしょうか。。

 海の幸、山の幸は、漁師や狩猟者等の専門職だけのものではなく、普通の人々が、ひょいと海や山へでかけ、収穫物をとってくる。。恵みの海、山。。愛のような海や山。

 そのような自然と、断絶が今の時代、大きくなっていないでしょうか。

 そのような自然との触れ合いが大きく、人の生命が尊ばれていた、終戦間もない戦後の時代、ミクロ的には、思考を超えた愛が、所々にちりばめられていたことを、ゴトさんは感じていたのですね。。亡き母の中にも・・。


[25893] 既知からの自由11ー2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/20(Thu) 09:19  

11章ー2 [美] [厳しさ]

 最も難しいことの一つは、外部のものだけでなく内部の生も、自分自身で本当に明確に見ることだと私は思います。木や花や人を見ると言うとき、実際に見ているでしょうか? それとも単にその言葉がつくり出したイメージを見ているだけなのでしょうか? つまり、木や、光と喜びに満ちた夕方の雲を見るとき、ただ目で、そして知的に見るだけでなく、全的に、完全に、実際に見ているでしょうか?

 あなたは一本の木のような対象物を、どんな連想も、それについて得たどんな知識もなしに、あなたと木の間に遮蔽物をつくって木をありのままに見ることを妨げるどんな偏見、どんな判断、どんな言葉もなしに見ることを実験したことがありますか? それをやってみて、木を全存在で、全エネルギーを注いで観察するとき、実際に何が起こるか見て下さい。その強烈さの中に観察者は全くないことを見いだすでしょう。注意だけがあります。観察者と観察されるものがあるのは不注意があるときです。何かを完全な注意で見ているとき、概念や、公式や記憶の入る余地はありません。このことを理解することが重要です。何故なら私たちは非常に注意深い探求を必要とすることに入りつつあるからです。

 完全な自己放棄で木や星やきらめく川の水を見る心だけが美とは何かを知ります。そして実際に見ているとき私たちは愛の状態にあります。普通は比較したり、人が組み立てたものを通じて美を知りますが、それは私たちが美を何かの対象に起因すると考えていることを意味します。 私は、私が美しい建築であると考えるものを見、そしてその美を自分の建築の知識のせいで、またそれを私が見たほかの建築と比較することによって味わうのです。しかしいま私は自分自身に「対象なしに美はあるだろうか?」と尋ねています。検閲者、経験者、思考者である観察者がいるとき、美は外部の何か、観察者が見て判断する何かであるため、美はありません。だが観察者がないとき ― そしてこのことは大変な瞑想、探求を必要とします ― そのとき対象なしの美があります。

 美は観察者と観察されるものの完全な放棄の中にあります。そして自己放棄があり得るのは完全な厳しさがあるときのみです ― 過酷さ、制裁、規則と服従を伴う聖職者の厳しさではなく ― 衣服、考え、食物、振舞の質素さではなく ― 完全に単純である厳しさであり、それは完全な謙虚さです。そのとき達成することはなく、登る梯子もありません。最初の一歩があるだけでその第一歩が永遠の一歩です。

 例えば一人、あるいは誰かと歩いていて、そして話すのをやめたとしましょう。自然に囲まれており、犬も吠えず、車の通る音も、鳥の羽ばたきさえもありません。あなたは完全に沈黙しており、まわりの自然もまた全く沈黙しています。観察者と観察されるものの両方のその沈黙な中に ― 観察者が彼の観察したものを思考に翻訳しないとき ― その沈黙の中に違う質の美があります。自然も観察者もありません。全く、完全に、ただ一人の心の状態があります。それは一人です ― 孤立ではありません ― 静寂の中にただ一人、そしてその静寂は美です。あなたが愛するとき観察者がいるでしょうか? 愛が欲望と快楽であるときのみ観察者がいます。欲望と快楽が愛と関連していないとき、愛は強烈です。愛は、美のように、日々全く新しいものです。すでに述べたように、愛は昨日や明日を持ちません。

(続く)


[25892] Re:[25873] 既知からの自由11−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/20(Thu) 09:05  

> 11章−1 [見ることと聞くこと] [芸術]
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> 私たちは愛の性質を調べてきました。そして問題に対してより一層入ること、より一層気づくことが必要な地点に来たと私は思います。多くの人々にとって愛は、慰め、安心、残りの人生に対していつも情緒的満足が保証されることを意味することがわかりました。そして私のような誰かがやってきて、「それは本当に愛だろうか?」と尋ね、自分自身の内側を見るように求めます。そしてそれは心を乱すので見ないよう努めます ― あなたはむしろ魂とか政治や経済状況を論じたいのです ― しかし見る羽目に追い込まれるとき、いつも愛とだ思っていたものがまったく愛ではないことを実感します。それは相互の満足、相互の利用なのです。


> 多くの人々にとって愛は、慰め、安心、残りの人生に対していつも情緒的満足が保証されることを意味することがわかりました。−−
> しかし見る羽目に追い込まれるとき、いつも愛とだ思っていたものがまったく愛ではないことを実感します。それは相互の満足、相互の利用なのです。−−

これらは現状をマクロ的には実にぴったりと表現しています。ミクロ的には様々な差異があるでしょう。そのなかには本当の愛も、差異を超えて、あるのかもしれません。

>  私が「愛には明日はなく、昨日もありませ
ん」とか「中心がないとき愛がある」というとき、それは私にとっては現実ですが、あなたにとってはそうではありません。それを引用し、決まり文句にするかもしれませんが、それは正当性を持ちません。あなたはそれを自分自身で見るべきですが、そうするには見るための自由が、あらゆる非難、あらゆる判断、あらゆる同意や不同意からの自由がなければなりません。


> あなたはそれを自分自身で見るべきですが、そうするには見るための自由が、あらゆる非難、あらゆる判断、あらゆる同意や不同意からの自由がなければなりません。−−
 観念的理解から実際の理解に入るには非難、判断から自由な「見る」が必要であることが出てきました。


>  さて、見ることは生において最も困難なことの一つです ― 聞くことも ― 見ることと聞くことは同じです。心配事で目が見えなくなるなら、日没の美しさを見ることはできません。ほとんどの人は自然との接触を失っています。文明はますます大都会に向かっています。私たちはますます都会人になっており、込み合ったアパートに住み、朝晩に空を見る空間もほとんどなく、それゆえ多くの美との接触を失っているのです。あなたが気づいているかどうか知りませんが、日の出や日の入り、月の光や水に反射する光を見る人のいかに少ないことか。
>
>  自然との接触を失ったので、私たちは自ずと知的能力を発達させる傾向にあります。非常にたくさんの本を読み、多くの美術館やコンサートに行き、テレビを見、そのほか多くの娯楽を持ちます。私たちは際限なく他人の考えを引用し、芸術について非常に多くを考え、語ります。私たちがそんなに芸術に依存するのは何故でしょうか? それはある種の逃避、刺激なのでしょうか? 自然と直接接触しているなら、飛んでいる鳥の動きを見つめ、空のあらゆる動きの美しさを見、日の影を見つめ、ほかの人の顔の美しさを見るなら、絵を見に美術館に行きたいと考えるでしょうか? おそらく自分の周りのあらゆるものをどのように見るか知らないので、よりよく見えるよう刺激するある種のドラッグに頼るのです。


ここはすでに無明さんと語り合いましたね。>


>  毎朝弟子に話をしていた。ある宗教の教師に話があります。ある朝教壇に立ってちょうど始めようとしたとき、一羽の小鳥が来て窓の敷居に止まりさえずり始め、元気一杯歌いました。それから鳴きやみ飛び去り、教師は「今朝の説教はおしまい」と言ったのです。


このこの小話は見る、聴くことの重要性を示しているのでしょうが、それができないのは都会人でありかつ忙しい、つまり、心を何かに常に占有されているという事ですかね。

> (続く)


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