雑感
[トップに戻る] [留意事項] [ワード検索] [管理用]
おなまえ
Eメール メールアドレスは入力禁止
タイトル
コメント 【コメント中のURLは先頭のhを抜いて書き込んで下さい。】
コメント中には参照先URLと同じURLを書き込まないで下さい
参照先
暗証キー (記事メンテ用)

[25785] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/08/11(Sat) 09:23  

いったい 「何」が思ったり感じたりしているのかという、はっきりとした言及がないから、思考が見ている、なんてわけのわからないことをいいだしてしまう。とくにK信者。渡辺氏もユーチューブで、そのようなことを言っている。観察者は観察されるもの。つまり私たちは思考が思考を見ていると。 観察者が観察されるものと理解されるには、別な観察者がいることが自明の話だろう。手のひらで踊る孫悟空を見るもの。


[25784] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/08/11(Sat) 09:12  

>誰かのように、あるいは自分の理想のようになろうとすることは矛盾、混乱、葛藤の主な原因の一つです。混乱した心は、どんなレベルで何をしようとも、混乱したままでしょう。混乱から生まれるどんな行動も一層の混乱に導きます。私はこれを非常にはっきりと見ます。咄嗟の肉体的危険を見るのと同じようにはっきり見ます。そこで何が起きるでしょう? 私はそれ以上混乱の見地から行動することをやめます。それゆえ行動しないことが完全な行動なのです。


行動しないことが行動?
まるで言葉のロジック遊びですね。
具体的な言葉が何一つない。
いったい何を見るのか?
例えばの話。混乱した心を、混乱「なし」で見ろというのか?
混乱と共に生きる、言っておきながら、片方では「あるがまま」生きろと。こんな矛盾はない。

クリシュナムルティの本は、ほとんどが講演されたものをテープに録音し、それをわざわざ本にしたもの。そこに無理があり、言葉の整合性がない。ところどころ矛盾が出てくる。
もし、自分で本を記したものなら、何度も見直しをするだろう。本人あるいは本の出版の責任者、編集者がです。


K自身が書いたと思われる著書というのは、私の知る限り「教育と人生の意義」「生の全体性」の後半の部分。これもゴーストの可能性がある。本人が書くとは考えられない。あまりにも少なすぎるからである。

Kの講演録というのは、Kの話した言葉を何の修正も校正せず、そのまま本にしてしまうのだろうか。
例えばあのときはこういったが、今度はそれと違うことをいうとか。そういうことは多々あるはずである。それをも検討せず。Kの話した言葉をそのまま本にしてしまうのだろうか。



[25783] Re:[25779] 既知からの自由7−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/11(Sat) 08:05  

> 7章‐4 [欲望・理想・偽善]
>
>  私が誰と争っているか知りたいとは思いません。自分の存在の周辺の争いを知りたいとは思いません。私が知りたいのはいったいなぜ葛藤が存在するのだろうかということです。その質問を自分自身にするとき、周辺の争いやその解決には何の関わりもない、根本的な論点を私は見ます。私は中心的な問題に関わっており、そして欲望の性質そのものが、適切に理解されないなら、必然的に葛藤に導くに違いないということを見ます ― もしかするとあなたも見ます?


中心、周辺とはこういう事でしたか。今まで分かりませんでした。葛藤の問題を周辺的な多数の争いごととして見るのではなく、中心に据えてその持つ意義・構造を見る。


>  欲望は常に矛盾しています。私は矛盾したものを望みます ― それは欲望を破壊し、抑圧、制御または昇華しなければならないということではありません ― 私は欲望がそれ自体矛盾しているのを単に見ます。矛盾しているのは欲望の対象ではなく欲望の性質そのものです。そして葛藤を理解できる前に、欲望の性質を理解しなければなりません。自分自身の中で私たちは矛盾の状態にあり、そしてその矛盾の状態は欲望によってもたらされています ― 欲望は快楽の追求と苦痛の回避です。そのことには既に触れました。


この欲望はデザイアです。wantではありません。念のため。


>  それゆえ私たちは欲望を全ての矛盾 ― 何かを望みそしてそれを望まない ― 二重性の活動、の根源として見ます。何か楽しいことをするとき少しも努力は含まれないのではないでしょうか? しかし快楽が苦痛をもたらすと苦痛を避けるための苦闘があり、それは再びエネルギーの浪費です。いったいなぜ私たちは二重性を持つのでしょうか? もちろん、自然の中に二重性はあります ― 男性と女性、光と影、夜と昼 ― しかし内的に、心理的に、なぜ私たちは二重性を持つのでしょう? どうかこのことを私と共に考え抜いてください。私があなたに話すのを待たないでください。見いだすためには自分の心を働かせなければなりません。私の言葉は自分自身を観察するための単なる鏡です。なぜ私たちはこの心理的二重性を持つのでしょう? 常に「あるがままのもの」と「あるべきもの」を比較するように育てられてきたということでしょうか? 正しいものと間違ったもの、良いものと悪いもの、道徳的なものと不道徳なものに条件付けられてきました。この二重性は、暴力の反対物、羨望の、嫉妬の、卑しさの反対物についての思考が、それらのものを除くことを助けると信じるために生じるのでしょうか? あるがままのものを除くための梃子として反対物を使いますか? それともそれは現実からの逃避でしょうか?


私たちの倫理的精神構造の中に反対物が(これは精神の創作物か?)あり、あるべきものとしてそれに向かって苦闘することが今までのやり方になっている。
 これは現実からの逃避でしかないのか?


>  あなたは反対物を、どう取り扱えばいいのかわからない現実を避ける手段として使うのでしょうか? あるいは現実に対処するために理想 ― 「あるがままのもの」の反対物 ― を持たなければならないと何千年もの宣伝によって教えられてきたからでしょうか? 理想を持つときそれは「あるがままのもの」を除く助けになると考えますが、決して助けにはなりません。あなたは残りの人生の間非暴力を説くかもしれませんが、ずっと暴力の種を蒔き続けるでしょう。


伝統のやり方は効果がなく、エネルギーの浪費ではないかと明確に示唆されています。


>  あなたは自分がどうあるべきかどのように行動すべきかの概念を持っており、そしていつも実際には全く違う行動をしています。それゆえ原理、信念、理想は必然的に偽善で不正直な生に導くということを見ます。あるがままの反対物を作り出すのは理想であり、それゆえ「あるがままのもの」とどのように一緒にいるか分かるなら、そのとき反対物は必要ありません。


> あなたは自分がどうあるべきかどのように行動すべきかの概念を持っており、そしていつも実際には全く違う行動をしています。それゆえ原理、信念、理想は必然的に偽善で不正直な生に導くということを見ます。−−

 私たちの現実の姿が明らかに私たち自身で見ることができる地点に来ました。反対物はいらないですね、捨てましょう。


>  誰かのように、あるいは自分の理想のようになろうとすることは矛盾、混乱、葛藤の主な原因の一つです。混乱した心は、どんなレベルで何をしようとも、混乱したままでしょう。混乱から生まれるどんな行動も一層の混乱に導きます。私はこれを非常にはっきりと見ます。咄嗟の肉体的危険を見るのと同じようにはっきり見ます。そこで何が起きるでしょう? 私はそれ以上混乱の見地から行動することをやめます。それゆえ行動しないことが完全な行動なのです。


(成り行く)行動をしないことが完全な行動であると明確になりました。


> (7章 終わり)


[25782] Re:[25781] [25776] [25773] [25768] 象徴もしくはイメージ 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/11(Sat) 07:03  

> > > キリスト教の愛は、それによって「律法が成就する」と聖書には説かれていますので、偶像(多分、イメージや観念)を作らなくするものです。
> > > でも殆どのクリスチャンは、ゴトさんの仰るように愛の行為のイメージや「イエスならこうされるだろう」といったイメージに従うように努める発想しかないと思われます。
> >
> > ヨミさん、ご教示有難うございます。
> > 愛により律法が成就するのですか。なるほど。イメージ、観念を介在させない。素晴らしい秩序ですね。
> > それが実現するキイはどこにあるのか?…
>
> 最も重要な教えとしては「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というのが掲げられてます。全身全霊というわけですから葛藤がない状態を示しているんだと思います。
> 少し実際的なものとしては、信者さんたち同士が愛し合うようにという「戒め」がイエスの言葉としてあります。
> でももちろんその他にも様々なことが教え(御言葉)としてあって、これといったわかりやすいキイは無いように思います。
> まあ逆に安易な方法とか説かれてないのが、真面さの表れだともいえそうです。


>最も重要な教えとしては「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というのが掲げられてます。−−

神を恐れあがめよという事でなく主を愛するという事ですか。この意味するところが本当に読み解けるといいですね。
深夜のご返信ありがとうございます。


[25781] Re:[25776] [25773] [25768] 象徴もしくはイメージ 投稿者:ヨミ 投稿日:2018/08/11(Sat) 01:00  

> > キリスト教の愛は、それによって「律法が成就する」と聖書には説かれていますので、偶像(多分、イメージや観念)を作らなくするものです。
> > でも殆どのクリスチャンは、ゴトさんの仰るように愛の行為のイメージや「イエスならこうされるだろう」といったイメージに従うように努める発想しかないと思われます。
>
> ヨミさん、ご教示有難うございます。
> 愛により律法が成就するのですか。なるほど。イメージ、観念を介在させない。素晴らしい秩序ですね。
> それが実現するキイはどこにあるのか?…

最も重要な教えとしては「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というのが掲げられてます。全身全霊というわけですから葛藤がない状態を示しているんだと思います。
少し実際的なものとしては、信者さんたち同士が愛し合うようにという「戒め」がイエスの言葉としてあります。
でももちろんその他にも様々なことが教え(御言葉)としてあって、これといったわかりやすいキイは無いように思います。
まあ逆に安易な方法とか説かれてないのが、真面さの表れだともいえそうです。


[25780] Re:[25778] [25772] [25771] 既知からの自由7−3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/10(Fri) 19:18  

>  https://www.youtube.com/watch?v=_HO0P-bD6H0

聴きました。
ご紹介ありがとう。彼女の歌は昔息子の車に乗るときよくかかっていて、当時の歌をいくつも覚えました。


[25779] 既知からの自由7−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/10(Fri) 18:44  

7章‐4 [欲望・理想・偽善]

 私が誰と争っているか知りたいとは思いません。自分の存在の周辺の争いを知りたいとは思いません。私が知りたいのはいったいなぜ葛藤が存在するのだろうかということです。その質問を自分自身にするとき、周辺の争いやその解決には何の関わりもない、根本的な論点を私は見ます。私は中心的な問題に関わっており、そして欲望の性質そのものが、適切に理解されないなら、必然的に葛藤に導くに違いないということを見ます ― もしかするとあなたも見ます?

 欲望は常に矛盾しています。私は矛盾したものを望みます ― それは欲望を破壊し、抑圧、制御または昇華しなければならないということではありません ― 私は欲望がそれ自体矛盾しているのを単に見ます。矛盾しているのは欲望の対象ではなく欲望の性質そのものです。そして葛藤を理解できる前に、欲望の性質を理解しなければなりません。自分自身の中で私たちは矛盾の状態にあり、そしてその矛盾の状態は欲望によってもたらされています ― 欲望は快楽の追求と苦痛の回避です。そのことには既に触れました。


 それゆえ私たちは欲望を全ての矛盾 ― 何かを望みそしてそれを望まない ― 二重性の活動、の根源として見ます。何か楽しいことをするとき少しも努力は含まれないのではないでしょうか? しかし快楽が苦痛をもたらすと苦痛を避けるための苦闘があり、それは再びエネルギーの浪費です。いったいなぜ私たちは二重性を持つのでしょうか? もちろん、自然の中に二重性はあります ― 男性と女性、光と影、夜と昼 ― しかし内的に、心理的に、なぜ私たちは二重性を持つのでしょう? どうかこのことを私と共に考え抜いてください。私があなたに話すのを待たないでください。見いだすためには自分の心を働かせなければなりません。私の言葉は自分自身を観察するための単なる鏡です。なぜ私たちはこの心理的二重性を持つのでしょう? 常に「あるがままのもの」と「あるべきもの」を比較するように育てられてきたということでしょうか? 正しいものと間違ったもの、良いものと悪いもの、道徳的なものと不道徳なものに条件付けられてきました。この二重性は、暴力の反対物、羨望の、嫉妬の、卑しさの反対物についての思考が、それらのものを除くことを助けると信じるために生じるのでしょうか? あるがままのものを除くための梃子として反対物を使いますか? それともそれは現実からの逃避でしょうか?

 あなたは反対物を、どう取り扱えばいいのかわからない現実を避ける手段として使うのでしょうか? あるいは現実に対処するために理想 ― 「あるがままのもの」の反対物 ― を持たなければならないと何千年もの宣伝によって教えられてきたからでしょうか? 理想を持つときそれは「あるがままのもの」を除く助けになると考えますが、決して助けにはなりません。あなたは残りの人生の間非暴力を説くかもしれませんが、ずっと暴力の種を蒔き続けるでしょう。

 あなたは自分がどうあるべきかどのように行動すべきかの概念を持っており、そしていつも実際には全く違う行動をしています。それゆえ原理、信念、理想は必然的に偽善で不正直な生に導くということを見ます。あるがままの反対物を作り出すのは理想であり、それゆえ「あるがままのもの」とどのように一緒にいるか分かるなら、そのとき反対物は必要ありません。

 誰かのように、あるいは自分の理想のようになろうとすることは矛盾、混乱、葛藤の主な原因の一つです。混乱した心は、どんなレベルで何をしようとも、混乱したままでしょう。混乱から生まれるどんな行動も一層の混乱に導きます。私はこれを非常にはっきりと見ます。咄嗟の肉体的危険を見るのと同じようにはっきり見ます。そこで何が起きるでしょう? 私はそれ以上混乱の見地から行動することをやめます。それゆえ行動しないことが完全な行動なのです。

(7章 終わり)


[25778] Re:[25772] [25771] 既知からの自由7−3 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/10(Fri) 18:35  

> > 7章‐3[比較]
> >
> >  もし模倣するなら、権威を受け入れるなら、司祭、儀式、教義、政党あるいは何かのイデオロギーに依存するなら、エネルギーの浪費はないと考えるかもしれません。しかしイデオロギーにしたがったり受容したりすることは、それがよかろうと悪かろうと、神聖であろうとなかろうと、断片的な活動であり、それゆえ葛藤の原因です。そして「あるべきもの」と「あるがままのもの」との間の分離がある限り、葛藤は不可避的に起こり、そしてどんな葛藤もエネルギーの浪費です。
>
>
> 教義にしろ、イデオロギーにしろそれを受け入れて行動するなら、それは断片的活動であり、そして「あるべきもの」と「あるがままのもの」との間の分離があるので葛藤は不可避的に起こり、それは徒労に終わる。これはこの社会に広く起こっていることの本質的記述であり、疑問の余地はない。、
>
>
> >  「どうすれば葛藤から解放されるだろうか?」と自分自身に問うなら、あなたは別の問題を作り出しており、故に葛藤を増大させています。ところがそれを事実としてただ見るだけなら ― ある具体的な対象を見るかのようにそれを見るなら ― 明確に、直接的に見るなら ― その時葛藤のまったくない生の真理を本質的に理解するでしょう。
>
>
> ここにおいて葛藤からの解放を求めるなら、またもや新たに葛藤を創り出して徒労の苦闘の道に入る。
>  ところがそれを事実としてただ見るだけなら( ― ある具体的な対象を見るかのようにそれを見るなら ― 明確に、直接的に見るなら ― )その時{葛藤のまったくない}生の姿を本質的に理解するでしょう。
>
>
> >  それを別の言い方で言ってみましょう。私達は常にあるがままの自分をあるべき自分と比較しています。あるべきものは自分がそうあるべきだと考えるものの投影です。比較があるとき矛盾が存在します。何かとのまたは誰かとの比較だけではなく、昨日の自分との比較です。それ故そうであったものと、あるがままのものとの間に葛藤があります。比較が全くないときのみあるがままのものがあり、そしてあるがままであるものと生きることは平和であることです。その時自分の全部の注意を、少しもそらすこともなしに、自分自身の中にあるものに注ぐことができます ― それが絶望、醜さ、残忍さ、恐怖、不安、孤独であろうとも ― そして完全にそれと共に生きなさい。そのとき矛盾はなくしたがって葛藤はありません。
>
>
> それを別の言い方で言ってくれました。ただ見るということでなく、比較をしないであるがままの自分と生きるという事です。それをより詳細に言っています。あるがままのものと生きる時平和があります。
>  >その時自分の全部の注意を、少しもそらすこともなしに、自分自身の中にあるものに注ぐことができます ― それが{絶望、醜さ、残忍さ、恐怖、不安、孤独}であろうとも ― そして完全にそれと共に生きなさい。そのとき矛盾はなくしたがって葛藤はありません。−−
>  向上した人格でなく、絶望、醜さや何であろうがあるがままのものと生きる。 
>
>
> >  しかしいつも私達は自分自身を比較しています ― より裕福で、より立派な、より知的な、より情愛の深い、より有名な、よりこうで、よりああである人達と。「より以上」が生の中で並外れて重要な役割を演じています。このいつも自分自身を何かあるいは誰かに対して測ることが葛藤の主な原因の一つです。
>
>
> しかし、私たちは比較をしないでいるという事も実際にはできないようです。
>
>
> >  さてなぜいったい比較ということがあるのでしょうか? この比較ということは子供の時から教えられてきました。あらゆる学校でAはBと比較され、そしてAはBのようになるために自分自身を破壊します。全く比較しないとき、理想も反対物も二重性もないとき、あるがままの自分と違ったものになるための苦闘がもはやないとき ― あなたの心に何が起きましたか? あなたの心は反対物を作り出すことをやめてしまい、非常に聡明に、非常に敏感に、膨大な情熱を持つ事が出来るようになりました。なぜなら努力は情熱 ― 生き生きしたエネルギーである情熱の浪費であり、情熱なしには何もすることはできません。
>
>
> Kは何を私たちに伝えたいのだろう? あるがままの自分と違ったものになりたいという苦闘が終わるときに情熱にあふれる新天地の存在することを伝えたいのだろうか? そのとき非常に聡明で、非常に敏感で、情熱にあふれる自分がありはしないかと?
>
>
> >  他人と自分自身を比較しないなら、あなたはあるがままの自分でしょう。比較を通じて進化し、成長し、より聡明になり、より美しくなることを望みます。しかしなりますか? 事実はあるがままの自分であり、そして比較することによってあなたは事実を断片化しており、それはエネルギーの浪費です。どんな比較もなしに実際に自分のあるがままを見ることは見るための途方もないエネルギーを与えます。自分を比較なしに見ることが出来るときあなたは比較を越えており、それは心が満足して淀んでいることを意味しません。そこで生の全体を理解するために必要なエネルギーを、心がいかに浪費するかを、私たちは本質的に知るのです。
>
>
> 比較なしはイコール断片化なしということかもしれませんが、社会の伝統的成長の仕方に根本的に疑問がありはしないかとクリシュナムルティは訴えているのでしょうか?



 『明日が変わるとき』にて、断片化があるときに、断片化を無くそうとする動きも、ビカミングであり、より断片化を増す旨が討論されます。

 葛藤があるとき、葛藤を超えようとする。断片化を感じたとき、断片化を超えようとする。
 これが、>「より以上」が生の中で並外れて重要な役割を演じています。−−、となる。


 次の楽曲が、なぜか上記に合っているように感じるので、ご参考までに挙げておきます。

 https://www.youtube.com/watch?v=_HO0P-bD6H0



> > (続く)


[25777] Re:[25774] 矛盾 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/10(Fri) 09:39  

> >それを別の言い方で言ってくれました。ただ見るということでなく、比較をしないであるがままの自分と生きるという事です。それをより詳細に言っています。あるがままのものと生きる時平和があります。
>  >その時自分の全部の注意を、少しもそらすこともなしに、自分自身の中にあるものに注ぐことができます ― それが{絶望、醜さ、残忍さ、恐怖、不安、孤独}であろうとも ― そして完全にそれと共に生きなさい。そのとき矛盾はなくしたがって葛藤はありません。
>
>  >向上した人格でなく、絶望、醜さや何であろうがあるがままのものと生きる。 
>
> つまり、わかりやすいいい方に変えると
> 「葛藤なしに生きる」
> 「絶望なしに生きる」
> 「醜さなしに生きる」
> 「比較なしに生きる」
> ではなく
> 「葛藤と共に生きる」

ここだけが変わってくるのです。あるがままと生きると葛藤がなくて平和が訪れるのです。それでもはや葛藤はありません。

> 「絶望と共に生きる」
> 「醜さと共に生きる」
> 「比較と共に生きる」
>
>
> 恐怖なしに生きるのではなく、恐怖と共に生きる。何であろうと。
>


[25776] Re:[25773] [25768] 象徴もしくはイメージ 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/10(Fri) 09:31  

> > キリスト教の愛は私にとっては言葉、観念、イメージであって、リンゴや机、コップと違って、実物をよく知っているというものではない。
> >
> > しかし世間話で使うにはまあ不自由するというほどでもないが、周りがみなキリスト教徒だと自分が素人であると意識する。
> >
> > 所がKの話は精神的な、それも西洋やインドの風習の中でポンポン出てくる言葉・語がたくさんある。しかし人間としての共通性があると思っているので、怒り、悲しみ、嫉妬などで悩むことはない。しかし、理解はわかりにくい。知的理解と書いてくればまあわかる。愛もわかりにくい。なぜだろう。実物を推定するとイメージになってしまう。
> >
> > どうも西洋は概念をきっちり決めて、そこから行動するのが好きなのだろうか?
>
>
> キリスト教の愛は、それによって「律法が成就する」と聖書には説かれていますので、偶像(多分、イメージや観念)を作らなくするものです。
> でも殆どのクリスチャンは、ゴトさんの仰るように愛の行為のイメージや「イエスならこうされるだろう」といったイメージに従うように努める発想しかないと思われます。

ヨミさん、ご教示有難うございます。
愛により律法が成就するのですか。なるほど。イメージ、観念を介在させない。素晴らしい秩序ですね。
それが実現するキイはどこにあるのか?…


[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31] [32] [33] [34] [35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58] [59] [60] [61] [62] [63] [64] [65] [66] [67] [68] [69] [70] [71] [72] [73] [74] [75] [76] [77] [78] [79] [80] [81] [82] [83] [84] [85] [86] [87] [88] [89] [90] [91] [92] [93] [94] [95] [96] [97] [98] [99] [100]

処理 記事No 暗証キー
- LightBoard - Modified by isso