雑感
[トップに戻る] [留意事項] [ワード検索] [管理用]
おなまえ
Eメール メールアドレスは入力禁止
タイトル
コメント 【コメント中のURLは先頭のhを抜いて書き込んで下さい。】
コメント中には参照先URLと同じURLを書き込まないで下さい
参照先
暗証キー (記事メンテ用)

[25881] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/09/19(Wed) 09:56  

>このことは実際にどういう事かを実際にわからせてくださったのは新しい芽さんです。と私は主観的に思っています。証明はできませんが。

新しい芽氏は、言葉の解説はしません。例えば愛とは何かというような説明はおっしゃらない。
彼のスタンスは徹底的に自分自身を問うこと。あくなき事実の探求にあったように思います。そのためには、思考を一切信用しないスタイル。常にほんとかどうかを疑う姿勢を貫いた。
この辺のところは「新しい芽語録」を読むと明確です。
彼にとってクリシュナムルティは、あくまで参考であって、見る、聞くはとくに強調していません。Kに依存せず、自分自身の独自の生き方を確立したといえます。

以下は私見ですが、クリシュナムルティの言っていることを全部理解しようとすること自体が無理な相談。実際のところ私たちはできることしかやれません。その第一歩が思考を疑うということだと思います。それを新しい芽氏が示してくれました。どのように気づいているか。いきなり「見る」「聞く」と言われても私たちは途方にくれるだけしょう。

「完全なる自己放棄」といわれても、明確に答えを出せる人はいるでしょうか?いないと思います。



[25880] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/09/19(Wed) 09:23  

愛、美、理解、自由、沈黙、静寂など
クリシュナムルティにとっては全て同じ意味だと、とらえました。
そこには思考が入る余地はありません。awarenessの世界。。


[25879] Kからの人間への贈りもの 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/19(Wed) 07:06  

> 10[愛]−4
>
>  この引き裂かれた砂漠のような世界の中では、快楽と欲望が最も大きな役割を演じるので愛はありません。それにもかかわらず愛なしには毎日の生活は意味がありません。そしてもし美がないなら、愛を持つことはできません。美は目で見る何かではありません ― 美しい木、美しい絵、美しい建物あるいは美しい女性ではありません。ハートと心が愛が何かを知るときのみ、美があります。愛と美のあの感覚なしに徳はなく、そしてあなたは欲することをし、社会を改良し、貧民を養っても一層の災厄を造り出しているだけであろうという事を非常によく知っています。というのは愛なしには自分自身のハートと心の中には醜さと貧しさがあるだけだからです。しかし愛と美があるときは、することは何であろうが正しく、何であろうが秩序があります。いかに愛するかを知っているなら、そのとき好きなことをすることが出来ます。なぜならそれがほかの問題をすべて解決するでしょうから。


これは立脚点を見失った世界に対するクリシュナムルティの贈りものでした。絶対の立脚点は「愛」なのです。その愛が何であるか、この章の否定的なアプローチで私たちはその入り口に立ちました。
 今まではこの世界の混乱、無秩序と苦悩についての話ですが、それを理解したこれからは愛の理解の道に入ります。


[25878] Re:[25864] 既知からの自由10−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/18(Tue) 20:59  

> 10[愛]−4
>
>  この引き裂かれた砂漠のような世界の中では、快楽と欲望が最も大きな役割を演じるので愛はありません。それにもかかわらず愛なしには毎日の生活は意味がありません。そしてもし美がないなら、愛を持つことはできません。美は目で見る何かではありません ― 美しい木、美しい絵、美しい建物あるいは美しい女性ではありません。ハートと心が愛が何かを知るときのみ、美があります。愛と美のあの感覚なしに徳はなく、そしてあなたは欲することをし、社会を改良し、貧民を養っても一層の災厄を造り出しているだけであろうという事を非常によく知っています。というのは愛なしには自分自身のハートと心の中には醜さと貧しさがあるだけだからです。しかし愛と美があるときは、することは何であろうが正しく、何であろうが秩序があります。いかに愛するかを知っているなら、そのとき好きなことをすることが出来ます。なぜならそれがほかの問題をすべて解決するでしょうから。


この最後の10-4でKは愛についてのまとめあるいは意義を述べていると思います。それは実はトップダウン的な感じで受け取ることになるでしょう。それは少しく基礎が不足しているからではないかと思います。それが実は次の第11章の内容のようです。私は今11章を半分ぐらいしか読んでいませんがそう思います。
 > もし美がないなら、愛を持つことはできません。美は目で見る何かではありません ― 美しい木、美しい絵、美しい建物あるいは美しい女性ではありません。−− これは今まで読んできたことからはわかりません。11章はその意味で重要な章です。


>  そこで私たちは要点に達します。訓練なしに、思考なしに、強制なしに、どんな本やどんな教師や指導者もなしに、心は愛に出会うことが ― 美しい夕焼けに出会うようにそれに出会うことができるでしょうか? 私には一つのことが絶対に必要であり、そしてそれは動機なき情熱 ― ある献身や執着の結果でない情熱、渇望ではない情熱であると思われます。情熱が何か知らない人は決して愛を知らないでしょう。なぜなら愛は完全な自己放棄があるときのみ存在できるからです。


「完全な自己放棄」― これはいったい何でしょう。実際にはどういう事をこの言葉は指し示しているのか? それがわからないとついていけないのではないでしょうか? 能動的、積極的でない情熱を私は知っているだろうか。


>  求めている心は情熱的な心ではなく、そして求めることなく愛に出会うことが、それを見いだす唯一の道です ― 知らずに、どんな努力や経験の結果としてでもなく愛と出会うことがです。その様な愛は、あなたは見出すでしょうが、時間のものではありません。そのような愛は個人的でまた非個人的であり、一つのものでありまた多数のものでもあります。香りを持つ花のように、その香りをかぐこともできるし、そばを通り過ぎることもできます。その花はあらゆる人のためにあり、そして深くその香りを吸い、喜びをもってそれを見る労をとる一人の人のためにあります。人が庭園の非常に近くにいようが非常に遠くにいようが、それは花にとって同じです。なぜなら花は芳香に満ちており、それゆえ花はあらゆる人と分かち合っていますから。


求めて必死の努力をして、それでこそ頂上に立てる ― というのが一般の常識です。そうでなく或る日ひょっこり「愛」と出会う。Kのような人は500年に一遍しか現れないぐらいの人というなら分かります。しかし私は御免こうむると言う人が多いに決まっている。
 このことは実際にどういう事かを実際にわからせてくださったのは新しい芽さんです。と私は主観的に思っています。証明はできませんが。


>  愛は新しい、新鮮な、生きている何かです。愛は昨日も明日も持ちません。愛は思考の混乱を超えています。愛が何であるかを知るのは天真爛漫な心のみです。そして天真爛漫な心は、天真爛漫でない世界の中で生きることができます。犠牲を通して、礼拝を通して、関係を通して、性を通して、あらゆる形の快楽と苦痛を通して、人間が果てしなく求めてきたこの途方もないものを見いだすことは、思考が自分自体を理解するに至り、自然に終わる時のみ可能です。そのとき愛は反対物を持たず、そのとき愛は葛藤を持ちません。


思考が自分を理解して自然に終わるときを実際に自分の状態として感じる、持つ。物語を組み立てるのでなくて。(こういうことを書くには勇気がいるなあ)


>  あなたは「その様な愛を私が見つけたなら、妻や子や家庭に何が起こるでしょうか? 彼らには安全がなければなりません」と尋ねるかも知れません。その様な質問をするとき、あなたは決して思考の領域の、意識の領域の外側にいたことがないのです。一度でもその領域の外側にいたことがあるなら、決してその様な質問はしないでしょう。なぜならそのとき、思考がなく、したがって時間がない愛が何か知るからです。この文章を魅了され、うっとりとして読むかもしれませんが、実際に思考と時間を超えることは ― それは悲しみを超えることを意味しますが ― 愛と呼ばれる違った次元があることに気づくことです。


妻や子は私のことを人畜無害のしろものと認識しているらしくのびのびと暮らしているみたい。


>  しかしあなたはどうやってこの途方もない源泉に到達するか知りません ― そこで何をしますか?何をすべきかわからないなら、何もしないのではないでしょうか? まったく何も。そのとき内面的にあなたは完全に静かです。それが何を意味するかわかりますか? あなたは求めておらず、望んでおらず、追求していないことを意味します。中心はありません。そのとき愛があります。


ああ、ここで具体的な心の実際の在り方を話してくれました。しかしそこで寂滅為楽のイメージを持ったりしたのではないでしょうね。「自分」なしに行為が出ますように。「中心なしに」というのはどうなんですか?

> (10章 終わり)


[25877] 自然とのふれあい 投稿者:無明 投稿日:2018/09/18(Tue) 19:03  

>とりあえずここで言っていることは、自然を見る、聴く、触れるという事が都会人にとって非常に困難であると言っています。まず第一に自然がない、風の音、雨の音さえこの頃遮音がよくて聞こえない。第二に用事をしていない時にはテレビやスマホを見るとかして、自然を見ない。
要するに大宇宙のとるに足らない(ここは異議のある人が多いかと思いますが)人間の創り出す雑用や騒音の中にのめり込んでいて、大自然と接触していないという事は言えそうです。

ま、人間は仕事を求めて都会に集中するのは、やむを得ないことです。田舎では仕事がありません。
都会の人は、仕事の合間の休みの日 を利用して、自然とのふれあいを求めて 登山、ハイキングなどをします。一部ですが。
それ以外の人は刺激のある娯楽を求めます。

私自身の体験だと田舎に1週間ぐらいいると刺激がないので、飽きてしまいます。根っこからの都会人間です。情報がないと生きていけないようで。外国に旅行するとそんなことはありません。目にするもの初めてのものばかりですから。見るものが新鮮。



[25876] Re:[25864] 既知からの自由10−4 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/18(Tue) 15:01  

> 10[愛]−4


 これがまだコメントされていないのですが。。

 もしかして、忘れられていないのかと・・、老婆心ながら。。



[25875] Re:[25874] 見ることは困難? 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/18(Tue) 14:16  

> >さて、見ることは生において最も困難なことの一つです ― 聞くことも ― 見ることと聞くことは同じです。
>
> 実に単純な疑問なのだが、「見ることは困難」とはどういうことだろう?
> 見ること、聞くことは「即座」ではないのか?
> 少なくともわたしには即座である。そこにあるから。
> 目を開れば自ずと見える。
> それとも私はKのいう「見る」を勘違いしているのだろうか?
> 何で困難なのか?
>
> >心配事で目が見えなくなるなら、日没の美しさを見ることはできません。ほとんどの人は自然との接触を失っています。文明はますます大都会に向かっています。私たちはますます都会人になっており、込み合ったアパートに住み、朝晩に空を見る空間もほとんどなく、それゆえ多くの美との接触を失っているのです。あなたが気づいているかどうか知りませんが、日の出や日の入り、月の光や水に反射する光を見る人のいかに少ないことか。

見ることは何で困難なのか? とても難しい質問ですね。Kはどういう事を言っているのだろう?

とりあえずここで言っていることは、自然を見る、聴く、触れるという事が都会人にとって非常に困難であると言っています。まず第一に自然がない、風の音、雨の音さえこの頃遮音がよくて聞こえない。第二に用事をしていない時にはテレビやスマホを見るとかして、自然を見ない。

要するに大宇宙のとるに足らない(ここは異議のある人が多いかと思いますが)人間の創り出す雑用や騒音の中にのめり込んでいて、大自然と接触していないという事は言えそうです。

しかし見ることの難しさはそんなことだけではないように思います。次の12章は「観察者と観察されるもの」で当分見る話は続くようです。

別のむずかしさがあります。

> そして私のような誰かがやってきて、「それは本当に愛だろうか?」と尋ね、自分自身の内側を見るように求めます。そしてそれは心を乱すので見ないよう努めます ― あなたはむしろ魂とか政治や経済状況を論じたいのです ― しかし見る羽目に追い込まれるとき、いつも愛とだ思っていたものがまったく愛ではないことを実感します。それは相互の満足、相互の利用なのです。−− このような見ることが出てくるので見ることは厄介です。ここの見るは何でしょうね。
 朝、講堂の窓辺にとまった小鳥のさえずりを聴いて説法の代わりにした。これは何を意味するのでしょうね。



[25874] 見ることは困難? 投稿者:無明 投稿日:2018/09/18(Tue) 11:21  

>さて、見ることは生において最も困難なことの一つです ― 聞くことも ― 見ることと聞くことは同じです。

実に単純な疑問なのだが、「見ることは困難」とはどういうことだろう?
見ること、聞くことは「即座」ではないのか?
少なくともわたしには即座である。そこにあるから。
目を開れば自ずと見える。
それとも私はKのいう「見る」を勘違いしているのだろうか?
何で困難なのか?

>心配事で目が見えなくなるなら、日没の美しさを見ることはできません。ほとんどの人は自然との接触を失っています。文明はますます大都会に向かっています。私たちはますます都会人になっており、込み合ったアパートに住み、朝晩に空を見る空間もほとんどなく、それゆえ多くの美との接触を失っているのです。あなたが気づいているかどうか知りませんが、日の出や日の入り、月の光や水に反射する光を見る人のいかに少ないことか。



[25873] 既知からの自由11−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/17(Mon) 10:52  

11章−1 [見ることと聞くこと] [芸術]

私たちは愛の性質を調べてきました。そして問題に対してより一層入ること、より一層気づくことが必要な地点に来たと私は思います。多くの人々にとって愛は、慰め、安心、残りの人生に対していつも情緒的満足が保証されることを意味することがわかりました。そして私のような誰かがやってきて、「それは本当に愛だろうか?」と尋ね、自分自身の内側を見るように求めます。そしてそれは心を乱すので見ないよう努めます ― あなたはむしろ魂とか政治や経済状況を論じたいのです ― しかし見る羽目に追い込まれるとき、いつも愛とだ思っていたものがまったく愛ではないことを実感します。それは相互の満足、相互の利用なのです。

 私が「愛には明日はなく、昨日もありません」とか「中心がないとき愛がある」というとき、それは私にとっては現実ですが、あなたにとってはそうではありません。それを引用し、決まり文句にするかもしれませんが、それは正当性を持ちません。あなたはそれを自分自身で見るべきですが、そうするには見るための自由が、あらゆる非難、あらゆる判断、あらゆる同意や不同意からの自由がなければなりません。

 さて、見ることは生において最も困難なことの一つです ― 聞くことも ― 見ることと聞くことは同じです。心配事で目が見えなくなるなら、日没の美しさを見ることはできません。ほとんどの人は自然との接触を失っています。文明はますます大都会に向かっています。私たちはますます都会人になっており、込み合ったアパートに住み、朝晩に空を見る空間もほとんどなく、それゆえ多くの美との接触を失っているのです。あなたが気づいているかどうか知りませんが、日の出や日の入り、月の光や水に反射する光を見る人のいかに少ないことか。

 自然との接触を失ったので、私たちは自ずと知的能力を発達させる傾向にあります。非常にたくさんの本を読み、多くの美術館やコンサートに行き、テレビを見、そのほか多くの娯楽を持ちます。私たちは際限なく他人の考えを引用し、芸術について非常に多くを考え、語ります。私たちがそんなに芸術に依存するのは何故でしょうか? それはある種の逃避、刺激なのでしょうか? 自然と直接接触しているなら、飛んでいる鳥の動きを見つめ、空のあらゆる動きの美しさを見、日の影を見つめ、ほかの人の顔の美しさを見るなら、絵を見に美術館に行きたいと考えるでしょうか? おそらく自分の周りのあらゆるものをどのように見るか知らないので、よりよく見えるよう刺激するある種のドラッグに頼るのです。

 毎朝弟子に話をしていた。ある宗教の教師に話があります。ある朝教壇に立ってちょうど始めようとしたとき、一羽の小鳥が来て窓の敷居に止まりさえずり始め、元気一杯歌いました。それから鳴きやみ飛び去り、教師は「今朝の説教はおしまい」と言ったのです。

(続く)


[25872] 我々の思考はありのままのものから逃避するプロセスです。 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/15(Sat) 18:48  

 Timeless Stillnessサイトの「拒絶される恐怖」から引用します。

 参照:http://timelessstillness.web.fc2.com/index.html


  拒絶される恐怖

Q:私にはたくさんの友人がいます。しかし彼らに拒絶されることを絶え間なく恐れています。私はどうするべきでしょう。
クリシュナムルティ:何が問題なのでしょう。拒絶と恐怖が問題なのかそれとも依存についての質問でしょうか。我々はなぜ友人を持ちたいのでしょう。友人を持つべきでないとは思わず友人を持つ必要性があると感じるとき、他人への依存があるとき、それは何を表しているのでしょう。それは自分のなかにある不足感を表しているのではないでしょうか。孤独感は内面の貧しさを示していないでしょうか。孤独で内面的に貧しく不足感を感じることが、我々を友人や愛や行動や観念や所有や知識や技術へと振り向かせます。

それは内面が貧しいと我々は外にあるものに依存するということです。それでその外側のものが非常に重要なものになります。何かを自分自身から逃避する手段として利用していれば、それが非常に重要になるのは当然です。我々はものや観念や人にしがみつきます。心理的にそれらに依存しているからです。それがなくなると友人に拒絶される場合のように喪失感を感じるため、それを失うことを恐れます。ですから依存は内面の不確かさや貧しさを表しているのです。そして我々が他人を利用したり依存したりしているかぎりはそれを失う恐怖があります。

ではこの孤独感や内面の貧しさや空虚さは何らかの精神的な活動で満たすことができるでしょうか。私に提案させてもらえれば、どうかあなた自身の精神を見張りながら話を聴いて下さい。そうすれば自分で答えを見つけるでしょう。私は我々が進めている経験を記述しているだけです。でもあなた自身でそれを経験するためには、あなたはたんに言葉を追うだけでなく受動的な注意深さを持たなければなりません。

ですから内面が貧しいために、我々は仕事や知識や愛や各種の活動によってこの貧しさから逃げ出そうとします。我々はラジオを聴き、最新の本を読み、思いつきや美徳を実行し、信仰や何であれ自分から逃避する助けになるものを受入れます。我々の思考はありのままのものから逃避するプロセスです。でもその内面の空虚さは隠したり満たしたりできるものでしょうか。逃避しないときだけその真実を知ることができます。それは極端に骨の折れることです。人は自分が逃避していることに気づかなくてはいけません。そしてあらゆる逃避が似ているということや高級な逃避などないということを見なければいけません。

あらゆる逃避は飲酒から神までどれも似たようなものです。なぜなら人は自分自身であり内面の貧しさであるありのままのものから逃避しているからです。孤独感と内面の不足感の問題に向かい合ってそれを理解し解消できるのは本当に逃避するのをやめるときだけです。それは知識にも経験にも覆い隠せません。この孤独と内面の不足感はたんなる暇人や自分にしか関心がない人の問題ではなく、金持ちも貧乏人も知性あふれる人も鈍い人も含んだ世界中すべての人間の問題です。

そもそも内面の空虚さを覆い隠すことができるでしょうか。あなたが何かに逃避してそれを覆い隠すことに失敗すれば、すべての逃避がむなしいことだと知るはずです。そうではないでしょうか。心理的な不足感は決して満たしたり覆い隠したり豊かにすることができないということを知るために別の逃避を試す必要はありません。一つの逃避を完全に理解すれば逃避のすべてのプロセスが理解されるでしょう。

そのとき何が起きるでしょう。人は空虚さとともに、孤独感とともに残されます。そこで疑問が湧いてきます。この孤独感は寂しさを感じている実体と別のものだろうかと。それは違うように見えます。それは空虚さを感じている実体ではありません。しかしその彼自身が空虚です。そしてその空虚さを感じている実体と彼が空虚さと呼ぶその状態との分離はその状態に名前やラベルを与えることによってのみ生じるのです。あなたがその状態を名づけないとき、そこに観察者と観察されるものの分離がないことを見るでしょう。観察者は観察されたその不足感です。別の言い方をすればそれを名づけないとき経験者と経験されるものの統合が起こるのです。そのとき孤独で不充分なものとしてあなたが避けてきた状態が本当にそういうものなのか、それとも恐怖を目覚めさせる「孤独」という言葉へのたんなる反作用[反動]なのかをより深く見極めることができるでしょう。

恐怖を目覚めさせるのは言葉でしょうかそれとも事実でしょうか。いったい恐ろしい事実というものがあるでしょうか。それとも事実についての観念が恐怖を作るのでしょうか。このプロセス全体を辿れば、あなたはありのままのものから逃避しようとする欲望がないときにはそこに恐怖がないことがわかるでしょう。そしてそのときありのままのものが変容します。なぜならそのときその精神はもはやありのままでいることを恐れないからです。その状態のなかには孤独や不足しているという感覚はありません。それはありのままのものです。あなたが深く進んでいけば精神がもはやその状態を拒絶も受入れもしないのを見るでしょう。それゆえ精神は沈黙します。そのときだけ孤独や不足感として認定されたものから自由になる可能性があります。

しかしここへ来てあなたはこの内面的な不足感と逃避と依存のプロセスを全体として理解する必要があります。あなたは逃避と逃避の手段がどれほど重要になっているか、それがあなたが逃避しているものよりもはるかに重要になっていることを見なくてはいけません。思考者と彼が孤独と呼ぶ状態との分割を発見し、自分でそれがたんなる言葉上のものか現実にあるものか見極めなくてはなりません。それが言葉の上のものならその分割は続いていきます。しかしあなたがそれに名前をつけなければ、もはや孤独と呼ばれることのないひとつの状態があるだけです。そこに精神がそれを超えたものを発見する可能性があります。

 − − − 以上引用 − − −

 >我々の思考はありのままのものから逃避するプロセスです。−−、そうではないでしょうか。。


 たとえば、[25867]を例にとると、>個人がわが子を思っていざというときに出すエネルギーは、なかなかのものがあるのではないでしょうか? そして見知らぬ人に対しても結構親切にふるまうのではないかと思います。−−

 我が子が水に溺れているとき、思考なしに、水に飛び込み助けようとします。我が身を顧みることなしに。そのエネルギーは強大です。思考なしであれば、見知らぬ人に対しても同様です。

 これは明らかなことです。。

 クリシュナムルティが、>愛する誰かを失うときあなたは涙を流します−−、と愛について説明するとき、それは思考なしの愛について述べているのでしょうか。。

 明らかに思考の愛について述べているのではないでしょうか。。

 しかし、亡き母の愛を、クリシュナムルティの目の前に晒すことがままならない自己を回避するために、思考が働いているのではなかろうか?・・と問われているのです。

 その回避が、その後に続く文面、すなわち、

 >だが国家規模の大人数になると共同主観(共同幻想?)すなわち、愛国心や信念や信仰などというものがあって、これが厄介です。キリスト教は免罪符を売りました。人はそれを買って自分は救済されてと思います。マルチティン・ルターがこれを非難し、金もうけのもとを叩かれた誰かさんは法王に訴え・・・と大騒動が起きます。
 日中戦争や太平洋戦争も、今思うと何で戦争しなければならなかったのか不思議な気がします。

 Kの愛の話は私はよくわかるのですが、そしてその通りと思うのですが、何か文章としてみると特別なこの世のものとも思えない気がしないでもない。ごく普通の自然なことである気もしますが、そのようにふるまわなければと思うだけで足がすくみます。これは自分の考え方に問題があるわけですが…

思考の悪さというか問題は社会問題となるときの世論のような錯覚というか化け物じみた思潮にあるのではないかと思います。そして個人が思想的に育てられて自然なあるいは動物的な独立不羈の精神を失っているとか。考えてみれば基礎教育というものはありますが、国家社会に共同幻想を吹き込むところが行われるのも当然でしょう。それを打ち破るのも思考なのだろうか、これはおかしいと言える精神というか心情というかエモーションあるいは衝動のようなものがあるのだろうか?

しかしこの共同主観あるいは幻想が多人数の集団行動を起こし、ホモサピエンスの強さとして今の文明文化をつくったことを思うと、いったい何が主人なのだろう?−−

 上記に、現れていないだろうか・・、と感じるのですが。。


[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31] [32] [33] [34] [35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58] [59] [60] [61] [62] [63] [64] [65] [66] [67] [68] [69] [70] [71] [72] [73] [74] [75] [76] [77] [78] [79] [80] [81] [82] [83] [84] [85] [86] [87] [88] [89] [90] [91] [92] [93] [94] [95] [96] [97] [98] [99] [100]

処理 記事No 暗証キー
- LightBoard - Modified by isso