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[25719] 既知からの自由6−3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/29(Sun) 11:02  

6章‐3 [正当化と非難]

 さて、暴力をやめたいなら、戦争をやめたいなら、どれだけの活力を、どれだけの自分をそれに注ぎますか? 自分の子供たちが殺されること、自分の子供たちが軍隊に行きそこでいじめられ、虐殺されることは、あなたにとって重要ではないのでしょうか? 気にしません? おやおや、そのことに関心がないなら何にあるのです? 自分のお金を守ること? 楽しいときを過ごすこと? ドラッグを飲むこと? 自分自身の中のこの暴力が自分の子供たちを破滅さしているのがわかりませんか? それとも何かの抽象として見ているのですか?

 結構です。では、関心があるなら、あなたの全てのハートと心で見いだすことに専念してください。ただ椅子に深く掛けて「では、それについて全て教えて下さい」と言わないこと。私が指摘しているのは、怒りあるいは暴力を非難や正当化する目で見ることはできないということ、そしてこの暴力があなたにとって燃えている問題でないなら、この二つのものを片付けることは出来ないということです。そこでまず学ぶべきです。どんなふうに怒りを見るか、どんなふうに夫や妻や子供を見るか学ぶべきです。政治家の言うことを聞くべきです、あなたがなぜ客観的でなく、なぜ非難したり正当化するか学ぶべきです。自分が非難しまた正当化するのは、それが自分が住んでいる社会の構造の一部であるからであり、ドイツ人、インド人、黒人、アメリカ人、あるいはたまたま生まれた何かとしての条件付けの結果であり、この条件付けのため心がすっかり鈍くなっているからであることを学ばねばなりません。根本的な何かを学ぶためには、見いだすためには、深く入って行く能力を持たなければなりません。なまくらの道具、鈍い道具なら深くは進めません。そこで私達がしようとしていることは道具を鋭くすることです。道具というのは心 ― この正当化や非難ばかりしていることによって鈍くされてしまった心です。あなたはあなたの心が針のように鋭く、ダイヤモンドのように強いときのみ深く貫入することが出来ます。

 ただ座っていて「どうすればそんな心が得られるのでしょうか?」と聞くのは無駄です。それを次の食事を欲するように欲しなければなりません。そしてそれを持つには、自分の心を鈍く愚かにしているものは、自分の周りに壁を巡らしてしまった、そしてこの非難と正当化の一部であるこの傷つくことのない感覚であるということを見なければなりません。心がそれを脱することができるなら、その時あなたは見、学び、貫入することが出来、そしておそらく問題の全体に全的に気づいている状態になるでしょう。

(続く)


[25718] Re:[25716] [25714] [25712] [25710] [25707] 既知からの自由6-2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/29(Sun) 10:45  

> > > > ここで群れという言葉を持ち出したというのは情動的な群れている人間が今世紀の人間であるという認識からです。
> > >
> > >
> > >  そして、その「群れ」自体が、理想的幻想、すなわち、思考の産物であり、一般ピープルは、幻想世界を漂っており、その漂いの中に暴力が渦巻いているということでしょうか。。
> >
> >
> > 拝聴しました。よくわかります。そのうちAIとビッグデータで人間の政治的リーダーシップは幻想あるいはファンタジーを掻き立てるだけになるかもしれませんね。
>
>
>  もっと身近では、教育現場で、ファンタジーが教えこまれています。
>
>  クリシュナムルティ理解に携わる親は、その家庭教育において、ファンタジーと無縁な教育に携わることが、一定以上できるのかもしれません。


その通りです。親・家庭が幻想。ファンタジーをそれなりにわかって遇していれば子供は確実に理解します。しかし、それを表に出すことがタブーになる時代もあります。そうならないような世の中を保つことが大人の大きな責任です。そういう文芸・文化が繁茂するなら大丈夫ですが。
 ここでは責任という語を抵抗なくすらっと言えました。なぜだろう。


[25717] Re:[25715] [25713] [25711] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/29(Sun) 10:27  

> > > しかし暴力を越えるにはそれを抑制できません、否定できません、「暴力は自分の一部だ、そういうことだよ」とか「私はそれを欲しない」と言う事はできません。私はそれを見なければなりません、学ばなければなりません。暴力と非常に親密にならなければならず、それを非難したり正当化したりするなら親密にはなれません。
> > >
> 他の人は、ここをどう訳しているか見てみました。
>
> 大野氏
> 注 「親密」と言う言葉は出てこない。ここにあたるのは「精通」か。

熱心に調べられて敬意を表します。大野龍一氏も精通と訳していますね。

「精通」は無難な訳語です。
しかし言語はインチメイトで、インチメイト・フレンドと言えば親密な友、つまり親友です。たとえ相手が地位が低く貧乏であろうが、いささかの軽侮の念もなく腹蔵なしに話し合えるので精通しているわけです。そんなことで親密という訳語を使っています。Kの話し言葉と受け取っています。


[25716] Re:[25714] [25712] [25710] [25707] 既知からの自由6-2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/29(Sun) 08:36  

> > > ここで群れという言葉を持ち出したというのは情動的な群れている人間が今世紀の人間であるという認識からです。
> >
> >
> >  そして、その「群れ」自体が、理想的幻想、すなわち、思考の産物であり、一般ピープルは、幻想世界を漂っており、その漂いの中に暴力が渦巻いているということでしょうか。。
>
>
> 拝聴しました。よくわかります。そのうちAIとビッグデータで人間の政治的リーダーシップは幻想あるいはファンタジーを掻き立てるだけになるかもしれませんね。


 もっと身近では、教育現場で、ファンタジーが教えこまれています。

 クリシュナムルティ理解に携わる親は、その家庭教育において、ファンタジーと無縁な教育に携わることが、一定以上できるのかもしれません。


> 次は[正当化と非難]で、続けてアップします。



[25715] Re:[25713] [25711] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/07/29(Sun) 06:19  

> > しかし暴力を越えるにはそれを抑制できません、否定できません、「暴力は自分の一部だ、そういうことだよ」とか「私はそれを欲しない」と言う事はできません。私はそれを見なければなりません、学ばなければなりません。暴力と非常に親密にならなければならず、それを非難したり正当化したりするなら親密にはなれません。
> >
他の人は、ここをどう訳しているか見てみました。

大野氏
「しかし、暴力をこえるために、私はそれを抑圧したり、否定したりはできません。
私は
「たしかにそれは私の一部で、それだけの話だ」とか、
「私はそれを望まない」とか、言うことはできないのです。
私はそれを見なければなりません。それを調べなければなりません。
私はそれに精通しなければならず、もしもそれを非難したり正当化するようでは、そうなることはできないのです。
にもかかわらず、私たちはそれを非難してしまいます。私たちは正当化するのです。
ですから、今しばらくそれを非難したり、正当化したりするのはやめましょうと言っているのです。

注 「親密」と言う言葉は出てこない。ここにあたるのは「精通」か。

十菱さんのはシンプル

だが、暴力を超越するためには、それを抑えつけたり、否定したり、
「暴力は私の一部であって、それが問題だ」とか
「私は暴力を欲していない」
と言ってすませるわけにはいかない。それを見つめ、詳しく調べ、十分にそれを知らねばならない。
しかし、暴力について十分に知るには、それを非難したり正当化してはならない。
にもかかわらず、我々は暴力を非難し、正当化しているのではある。


自身の暴力について、逃げないで、避けないで徹底的に向き合う。
否定的接近として。外部にではなく。

>
> 暴力を理解する前にすでに価値判断(先入観)がある。



[25714] Re:[25712] [25710] [25707] 既知からの自由6-2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/28(Sat) 23:11  

> > > 6章-2 [怒り]
> > >
> > >  暴力のもっとも一般的な表現の一つは怒りです。私の妻や妹が攻撃されるとき、私は当然怒ると言います。自分の国が、自分の考えや、主義や、生き方が攻撃されたとき、私は当然怒ります。自分の習慣や取るに足らないちっぽけな意見が攻撃されたときもまた怒ります。足の指を踏まれたり侮辱されたとき怒りますし、もしあなたが私の妻と駆け落ちしたら私は嫉妬し、その嫉妬は、妻は私の所有物だから、正当だと見なされます。そしてこの全ての怒りは道徳的に正当化されます。でも国のために殺すこともまた正当化されます。そこで怒り、それは暴力の一部ですが、について話している時、私たちは怒りを正しいあるいは正しくない怒りという観点から、自分の性向や環境的な衝動にしたがって見るのでしょうか、それとも怒りのみを見るのでしょうか? いったい正しい怒りがあるのでしょうか? それともただ怒りのみがあるのでしょうか? いい影響とか悪い影響はなく、影響のみがありますが、自分に合わない何かによって影響されるとき私はそれを悪い影響と言うのです。
> >
> > ここに群れる人間の情動的な精神的振る舞いが、Kつまり群れの中の異例の人によって見えたままに述べられます。
>
>
>  群れも又幻想であるようです。幻想と幻想との関係が、いわゆるところの「群れ」。「幻想」とは思考の結果、思考の産物のことであり、一般ピープルが感じ取っている「群れ」とは思考の産物のこと。
>
>
> > >  あなたが自分の家族、国、旗と呼ばれる色のついた布切れ、信念、観念、教義、自分の必要なものや所有するものを守る瞬間、まさにその守ることが怒りを示します。ですからどんな説明も正当化もなしに、「自分の所有物を守らねばならない」とか「怒ったのは正しかった」とか「怒るなんて私はなんと愚かなのか」と言うことなしに、怒りを見ることができるでしょうか? 怒りをそれだけの何かのように見ることが出来ますか? それを完全に、客観的に見ることが出来ますか、それは怒りを防御したり非難したりしないという事ですが? 出来ますか?
> >
> > 群れている人間はそのように自分を見たりしないし、従って自分の振る舞いを知らないでしょう。完全に客観的に見ることがたまたまでも出来る人はまれでしょう。
>
>
>  思考の産物、すなわち幻想が現実の実際と思い込んでいる一般ピープルは、そのように見ない。
>
>
> > >  あなたに敵意を持っているとき、あるいはあなたがなんと素晴らしいんだと思っているとき、私はあなたを見ることが出来るでしょうか? あなたを見ることが出来るのはこのようなことが含まれていない或る注意を持って見るときだけです。では、私は怒りをそれと同じように見ることが出来るでしょうか? それは私が当の事柄に対して晒されていること、抵抗しないこと、この途方もない現象をそれに対する何の反応もなしに見つめていることを意味します。
> >
> > 「見る」という事はKの本を読む人でさえ分かりにくいことです。この説明はきっぱりとした声明です。
>
>
>  思考のフィルター無しに見る。
>
>
> > >  怒りは自分の一部であるので、怒りを冷静に見ることは非常に困難ですが、しかしそれが私のしようとしていることです。ここに私が、暴力的な人間がいます、黒、褐色、白色あるいは紫色だろうが。この暴力を遺伝で受け継いだのか社会が私の中に生み出したのかには、私は関わってはいません。私が関心のある全ては暴力から自由であることがいったい可能かどうかということです。暴力から解放されることが私にとっては全てです。それは私にはセックスや食べ物や地位よりもっと重要です。というのは暴力は私を堕落させているからです。それは私を破壊しており、世界を破壊しています。そして私はそれを理解したいのです。それを越えたいのです。
> >
> > これに対して最大の関心・エネルギーを注いで見る。そして自分自身の振る舞いを理解したい。
>
>
>  「ほっこり」したとき、暴力はなく、愛がある。それに比べて、暴力のとき、>暴力は私を堕落させているからです。それは私を破壊しており、世界を破壊しています。−−、これを感じ取ることができれば、>暴力から解放されることが私にとっては全てです。それは私にはセックスや食べ物や地位よりもっと重要です。−−、となる。
>
>  どんな美女を得るよりも、暴力からの解放を切望する。
>
>  人は、恐怖によって条件づけられることが多い。学校教育でも家庭教育でも。そして、その恐怖は暴力から来ているのではないだろうか。
>
>  暴力から解放されたら、条件づけからも解放されるかもしれない。
>
>
>
> > > 私はこの世界中のあらゆる怒りと暴力に責任を感じます。私は責任を感じます ― ただの言葉ではありません ― そして自分に「自分自身が怒りを越え、暴力を越え、困難を越える時のみ何かをすることができる」と言います。自分自身の中の暴力を理解しなければならないという私の持つこの感情が、見いだそうとするとてつもない活力と情熱をもたらすのです。
> >
> > ここの責任という言葉は私は受け止められません。自発的に何としてでも越えるという決意があるという意味でしょうか。それがとてつもないエネルギーをもたらしている。
>
>
>  私が社会であり、私が世界であるならば、私の暴力が世界の暴力と同等に感じられるのかもしれません。
>
>
> > >  しかし暴力を越えるにはそれを抑制できません、否定できません、「暴力は自分の一部だ、そういうことだよ」とか「私はそれを欲しない」と言う事はできません。私はそれを見なければなりません、学ばなければなりません。暴力と非常に親密にならなければならず、それを非難したり正当化したりするなら親密にはなれません。にもかかわらず、私達は非難するのです。正当化するのです。それゆえ、さしあたり、非難したり、正当化することをやめようと言っているのです。
> >
> > ここでの親密は打ち解けた間柄にあるという事ですか。
>
>
>  もしも、親密でないならば、その相手に対して緊張感を抱くのではないでしょうか。その緊張感は必ず思考を伴っているのではないでしょうか。
>
>  その相手と共に居て、思考がゆっくりで・・、ぼーっとできるのは、その相手が家族などの場合ではないでしょうか。
>
>
>
> > > (続く)
> >
> > ここで群れという言葉を持ち出したというのは情動的な群れている人間が今世紀の人間であるという認識からです。
>
>
>  そして、その「群れ」自体が、理想的幻想、すなわち、思考の産物であり、一般ピープルは、幻想世界を漂っており、その漂いの中に暴力か渦巻いているということでしょうか。。


拝聴しました。よくわかります。そのうちAIとビッグデータで人間の政治的リーダーシップは幻想あるいはファンタジーを掻き立てるだけになるかもしれませんね。

次は[正当化と非難]で、続けてアップします。


[25713] Re:[25711] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/28(Sat) 22:40  

> しかし暴力を越えるにはそれを抑制できません、否定できません、「暴力は自分の一部だ、そういうことだよ」とか「私はそれを欲しない」と言う事はできません。私はそれを見なければなりません、学ばなければなりません。暴力と非常に親密にならなければならず、それを非難したり正当化したりするなら親密にはなれません。
>
> 何で暴力と親密になるのか?矛盾も甚だしい!!
> 暴力を非難正当化しないと親密になる?
> 暴力を容認か。

暴力を理解する前にすでに価値判断(先入観)がある。


[25712] Re:[25710] [25707] 既知からの自由6-2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/28(Sat) 21:21  

> > 6章-2 [怒り]
> >
> >  暴力のもっとも一般的な表現の一つは怒りです。私の妻や妹が攻撃されるとき、私は当然怒ると言います。自分の国が、自分の考えや、主義や、生き方が攻撃されたとき、私は当然怒ります。自分の習慣や取るに足らないちっぽけな意見が攻撃されたときもまた怒ります。足の指を踏まれたり侮辱されたとき怒りますし、もしあなたが私の妻と駆け落ちしたら私は嫉妬し、その嫉妬は、妻は私の所有物だから、正当だと見なされます。そしてこの全ての怒りは道徳的に正当化されます。でも国のために殺すこともまた正当化されます。そこで怒り、それは暴力の一部ですが、について話している時、私たちは怒りを正しいあるいは正しくない怒りという観点から、自分の性向や環境的な衝動にしたがって見るのでしょうか、それとも怒りのみを見るのでしょうか? いったい正しい怒りがあるのでしょうか? それともただ怒りのみがあるのでしょうか? いい影響とか悪い影響はなく、影響のみがありますが、自分に合わない何かによって影響されるとき私はそれを悪い影響と言うのです。
>
> ここに群れる人間の情動的な精神的振る舞いが、Kつまり群れの中の異例の人によって見えたままに述べられます。


 群れも又幻想であるようです。幻想と幻想との関係が、いわゆるところの「群れ」。「幻想」とは思考の結果、思考の産物のことであり、一般ピープルが感じ取っている「群れ」とは思考の産物のこと。


> >  あなたが自分の家族、国、旗と呼ばれる色のついた布切れ、信念、観念、教義、自分の必要なものや所有するものを守る瞬間、まさにその守ることが怒りを示します。ですからどんな説明も正当化もなしに、「自分の所有物を守らねばならない」とか「怒ったのは正しかった」とか「怒るなんて私はなんと愚かなのか」と言うことなしに、怒りを見ることができるでしょうか? 怒りをそれだけの何かのように見ることが出来ますか? それを完全に、客観的に見ることが出来ますか、それは怒りを防御したり非難したりしないという事ですが? 出来ますか?
>
> 群れている人間はそのように自分を見たりしないし、従って自分の振る舞いを知らないでしょう。完全に客観的に見ることがたまたまでも出来る人はまれでしょう。


 思考の産物、すなわち幻想が現実の実際と思い込んでいる一般ピープルは、そのように見ない。


> >  あなたに敵意を持っているとき、あるいはあなたがなんと素晴らしいんだと思っているとき、私はあなたを見ることが出来るでしょうか? あなたを見ることが出来るのはこのようなことが含まれていない或る注意を持って見るときだけです。では、私は怒りをそれと同じように見ることが出来るでしょうか? それは私が当の事柄に対して晒されていること、抵抗しないこと、この途方もない現象をそれに対する何の反応もなしに見つめていることを意味します。
>
> 「見る」という事はKの本を読む人でさえ分かりにくいことです。この説明はきっぱりとした声明です。


 思考のフィルター無しに見る。


> >  怒りは自分の一部であるので、怒りを冷静に見ることは非常に困難ですが、しかしそれが私のしようとしていることです。ここに私が、暴力的な人間がいます、黒、褐色、白色あるいは紫色だろうが。この暴力を遺伝で受け継いだのか社会が私の中に生み出したのかには、私は関わってはいません。私が関心のある全ては暴力から自由であることがいったい可能かどうかということです。暴力から解放されることが私にとっては全てです。それは私にはセックスや食べ物や地位よりもっと重要です。というのは暴力は私を堕落させているからです。それは私を破壊しており、世界を破壊しています。そして私はそれを理解したいのです。それを越えたいのです。
>
> これに対して最大の関心・エネルギーを注いで見る。そして自分自身の振る舞いを理解したい。


 「ほっこり」したとき、暴力はなく、愛がある。それに比べて、暴力のとき、>暴力は私を堕落させているからです。それは私を破壊しており、世界を破壊しています。−−、これを感じ取ることができれば、>暴力から解放されることが私にとっては全てです。それは私にはセックスや食べ物や地位よりもっと重要です。−−、となる。

 どんな美女を得るよりも、暴力からの解放を切望する。

 人は、恐怖によって条件づけられることが多い。学校教育でも家庭教育でも。そして、その恐怖は暴力から来ているのではないだろうか。

 暴力から解放されたら、条件づけからも解放されるかもしれない。



> > 私はこの世界中のあらゆる怒りと暴力に責任を感じます。私は責任を感じます ― ただの言葉ではありません ― そして自分に「自分自身が怒りを越え、暴力を越え、困難を越える時のみ何かをすることができる」と言います。自分自身の中の暴力を理解しなければならないという私の持つこの感情が、見いだそうとするとてつもない活力と情熱をもたらすのです。
>
> ここの責任という言葉は私は受け止められません。自発的に何としてでも越えるという決意があるという意味でしょうか。それがとてつもないエネルギーをもたらしている。


 私が社会であり、私が世界であるならば、私の暴力が世界の暴力と同等に感じられるのかもしれません。


> >  しかし暴力を越えるにはそれを抑制できません、否定できません、「暴力は自分の一部だ、そういうことだよ」とか「私はそれを欲しない」と言う事はできません。私はそれを見なければなりません、学ばなければなりません。暴力と非常に親密にならなければならず、それを非難したり正当化したりするなら親密にはなれません。にもかかわらず、私達は非難するのです。正当化するのです。それゆえ、さしあたり、非難したり、正当化することをやめようと言っているのです。
>
> ここでの親密は打ち解けた間柄にあるという事ですか。


 もしも、親密でないならば、その相手に対して緊張感を抱くのではないでしょうか。その緊張感は必ず思考を伴っているのではないでしょうか。

 その相手と共に居て、思考がゆっくりで・・、ぼーっとできるのは、その相手が家族などの場合ではないでしょうか。



> > (続く)
>
> ここで群れという言葉を持ち出したというのは情動的な群れている人間が今世紀の人間であるという認識からです。


 そして、その「群れ」自体が、理想的幻想、すなわち、思考の産物であり、一般ピープルは、幻想世界を漂っており、その漂いの中に暴力が渦巻いているということでしょうか。。


[25711] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/07/28(Sat) 18:56  

しかし暴力を越えるにはそれを抑制できません、否定できません、「暴力は自分の一部だ、そういうことだよ」とか「私はそれを欲しない」と言う事はできません。私はそれを見なければなりません、学ばなければなりません。暴力と非常に親密にならなければならず、それを非難したり正当化したりするなら親密にはなれません。

何で暴力と親密になるのか?矛盾も甚だしい!!
暴力を非難正当化しないと親密になる?
暴力を容認か。




[25710] Re:[25707] 既知からの自由6-2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/28(Sat) 16:48  

> 6章-2 [怒り]
>
>  暴力のもっとも一般的な表現の一つは怒りです。私の妻や妹が攻撃されるとき、私は当然怒ると言います。自分の国が、自分の考えや、主義や、生き方が攻撃されたとき、私は当然怒ります。自分の習慣や取るに足らないちっぽけな意見が攻撃されたときもまた怒ります。足の指を踏まれたり侮辱されたとき怒りますし、もしあなたが私の妻と駆け落ちしたら私は嫉妬し、その嫉妬は、妻は私の所有物だから、正当だと見なされます。そしてこの全ての怒りは道徳的に正当化されます。でも国のために殺すこともまた正当化されます。そこで怒り、それは暴力の一部ですが、について話している時、私たちは怒りを正しいあるいは正しくない怒りという観点から、自分の性向や環境的な衝動にしたがって見るのでしょうか、それとも怒りのみを見るのでしょうか? いったい正しい怒りがあるのでしょうか? それともただ怒りのみがあるのでしょうか? いい影響とか悪い影響はなく、影響のみがありますが、自分に合わない何かによって影響されるとき私はそれを悪い影響と言うのです。

ここに群れる人間の情動的な精神的振る舞いが、Kつまり群れの中の異例の人によって見えたままに述べられます。

>  あなたが自分の家族、国、旗と呼ばれる色のついた布切れ、信念、観念、教義、自分の必要なものや所有するものを守る瞬間、まさにその守ることが怒りを示します。ですからどんな説明も正当化もなしに、「自分の所有物を守らねばならない」とか「怒ったのは正しかった」とか「怒るなんて私はなんと愚かなのか」と言うことなしに、怒りを見ることができるでしょうか? 怒りをそれだけの何かのように見ることが出来ますか? それを完全に、客観的に見ることが出来ますか、それは怒りを防御したり非難したりしないという事ですが? 出来ますか?

群れている人間はそのように自分を見たりしないし、従って自分の振る舞いを知らないでしょう。完全に客観的に見ることがたまたまでも出来る人はまれでしょう。

>  あなたに敵意を持っているとき、あるいはあなたがなんと素晴らしいんだと思っているとき、私はあなたを見ることが出来るでしょうか? あなたを見ることが出来るのはこのようなことが含まれていない或る注意を持って見るときだけです。では、私は怒りをそれと同じように見ることが出来るでしょうか? それは私が当の事柄に対して晒されていること、抵抗しないこと、この途方もない現象をそれに対する何の反応もなしに見つめていることを意味します。

「見る」という事はKの本を読む人でさえ分かりにくいことです。この説明はきっぱりとした声明です。

>  怒りは自分の一部であるので、怒りを冷静に見ることは非常に困難ですが、しかしそれが私のしようとしていることです。ここに私が、暴力的な人間がいます、黒、褐色、白色あるいは紫色だろうが。この暴力を遺伝で受け継いだのか社会が私の中に生み出したのかには、私は関わってはいません。私が関心のある全ては暴力から自由であることがいったい可能かどうかということです。暴力から解放されることが私にとっては全てです。それは私にはセックスや食べ物や地位よりもっと重要です。というのは暴力は私を堕落させているからです。それは私を破壊しており、世界を破壊しています。そして私はそれを理解したいのです。それを越えたいのです。

これに対して最大の関心・エネルギーを注いで見る。そして自分自身の振る舞いを理解したい。

> 私はこの世界中のあらゆる怒りと暴力に責任を感じます。私は責任を感じます ― ただの言葉ではありません ― そして自分に「自分自身が怒りを越え、暴力を越え、困難を越える時のみ何かをすることができる」と言います。自分自身の中の暴力を理解しなければならないという私の持つこの感情が、見いだそうとするとてつもない活力と情熱をもたらすのです。

ここの責任という言葉は私は受け止められません。自発的に何としてでも越えるという決意があるという意味でしょうか。それがとてつもないエネルギーをもたらしている。

>  しかし暴力を越えるにはそれを抑制できません、否定できません、「暴力は自分の一部だ、そういうことだよ」とか「私はそれを欲しない」と言う事はできません。私はそれを見なければなりません、学ばなければなりません。暴力と非常に親密にならなければならず、それを非難したり正当化したりするなら親密にはなれません。にもかかわらず、私達は非難するのです。正当化するのです。それゆえ、さしあたり、非難したり、正当化することをやめようと言っているのです。

ここでの親密は打ち解けた間柄にあるという事ですか。

> (続く)

ここで群れという言葉を持ち出したというのは情動的な群れている人間が今世紀の人間であるという認識からです。


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