雑感
[トップに戻る] [留意事項] [ワード検索] [管理用]
おなまえ
Eメール メールアドレスは入力禁止
タイトル
コメント 【コメント中のURLは先頭のhを抜いて書き込んで下さい。】
コメント中には参照先URLと同じURLを書き込まないで下さい
参照先
暗証キー (記事メンテ用)

[24166] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/14(Mon) 22:53  

いつでも死ねる。それが菩薩だ。

いまなら、愛してる人のためならいつでも死ねるかもしれない。


[24165] Re:[24098] [24093] ミクロコスモス的マクロコスモスな私 投稿者:南方 投稿日:2017/08/14(Mon) 18:24  

> > 「私は誰か?」と問えば、それは精子であり卵子であり、
> >
> > それを形成した食物群であり、食物群は太陽の恵みやら空気
> >
> > 土水などの宇宙からできており、そして、科学は宇宙とは何か
> >
> > と研究している。
> >
> > つまり、私を知ることは宇宙を知ることであり、宇宙を知る
> >
> > ことは私をしることである。
> >
> > 本物の科学者と本物の宗教家がやろうとしていることは
> >
> >
> > つまるところ、同じである。
> >
> > だから、宗教とは人が幸せになる何かを信じることではなく
> >
> > あくなき探求であるべきである。
> >
> > そして、科学も宇宙とは何かと定義するのではなく、あくなき
> >
> > 探求であるべきである。
> >
> > そうでなければ、人を世界を固定化することになり、それは
> >
> > 宗教団体がやっていることと同じである。
> >
> > 科学も宗教も「あくなき探求」である。
> >
> > だから、「私」とは宇宙の中心でもあるし、宇宙の一部でも
> >
> > あるわけである。
> >
> >
> >
> > Kの全体性とは、こういうことかと僕なり考えました。
> >
>
> うーむ、全体性という事について随分考えたのですが、難しいお話なので何も書くことがありません。
>
> 実は宇宙という事について何もよく考えたことがありません。子供の時から星を見ることは好きで、星座についてはよく知っていたのですが、眺める以上のことは何もなかったのです。トンボの飛ぶのやセミやカエルの鳴き声を聞くのが好きと一緒です。
>
> ユニバースか、コスモスか、Kはコスモス(=秩序ある統一体)として言及することが多かった。地球から見える自然ぐらいでいいのだろうか。ま、宇宙のどの方面にしろ、探求したい人に任せればいいという事なのだろう。
>
>


恐怖と名付けられる前のエネルギー、これは一体何なのだろかと思うのです。


僕は「体感幻触」というものがあって、それを有るものとして認識できるのですが、MRIで調べても何もないんでよね。




[24164] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/14(Mon) 17:25  

どんなしばるものもない。
勿論、君が愛しさを感じるものを大いに愛しめばいい。尊敬するものを尊敬しろ!
だけど、君自身は君自身だ。それ以外の何ものでもない。
冥想には、二つの方向がある。一つは、肉体的、精神的機能を最大限に発達させる方向。
それは、悟り、とかいう問題ではなく、最適なコンディションを整える働きがある。これを実用三昧という。
他のもう一つはそれとは全然ちがう。それは人間であることの絶対的な悲しみと表裏一体なものだ。
人間が本当にどうしようもないもの、という、その直視と一体のものだ。
否、もっとはっきり言えば、本当に人間がどうしようもないものだ。どうしようもないものだ、という事が、本当にわかった時さ、
ほら、その時、あれが起るんだ。みんな同じに見えてしまうんだ。何もかもが。
その時、もう意味ないんだ。自分が一定の形を保つっていることが。そして直面するんだ。
ところが問題なのは、人間が本当にどうしようもないっていうことが、嫌っていう程—
つまり、それは、最愛のものの死によって起こるかも知れない。或いは、ガンを宣告されて、起るかもしれない。
兎角—それが起こった時そう。
みんな同じに見えてしまう。
もう、男も女もなく、優劣も劣等もなく、みんな意味がなくなってしまうんだ。
そうして更には、そのように感じている自分さえ意味ないんだ。
でも、それは灰色だ。入り口にすぎない。
何故なら、まだ、そのような意味ない、と思っている自分がある。


[24163] Re:[24161] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/14(Mon) 17:01  

> YHWHさん。
>
>  ここに投稿された同じものを、愚さんの掲示板に投稿されるのはまずいでしょう。主催者に言われますよ。
>  掲示板というのは、何かテーマを持って話し合う場所であって、何かのプロパガンダを貼つける所ではありません。

伝えたいとことを明かくに伝えたいための引用。


[24162] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/14(Mon) 16:54  

真理に至る道などない。
それが真理の真理たる所以である。
部屋の片すみに坐って
朝から晩まで、
真理について思索していたら、
真理に目覚めることもある。
そこが又
真理の面白いところである。
すべては、神の夢の戯れであり
すべては、神の真実それ自身である。
肉体・エーテル体・アストラル体・メンタル体・コザール体が、死に果てれば、
アートマンは、ブラフマンに直結する。
死とは神である。
神とは七つ、もしくは十の無限次元を持つ全体者それ自身のことである。
創造の光とは、この全体者の中心次元のことである。


[24161] 無題 投稿者:外野 投稿日:2017/08/14(Mon) 16:29  

YHWHさん。

 ここに投稿された同じものを、愚さんの掲示板に投稿されるのはまずいでしょう。主催者に言われますよ。
 掲示板というのは、何かテーマを持って話し合う場所であって、何かのプロパガンダを貼つける所ではありません。


[24160] Re:[24124] [24120] 「見る」ということ。 投稿者:外野 投稿日:2017/08/14(Mon) 16:11  

続き
> > > >  私は未だ、ゴトさんが述べるような「全的に見る」ことが、すぐにはできないようです。
> >
> >  これは宮啓氏のコメントですが、こういったコメントが出てくること自体がわからない。
> >  「全的に見る」ということについて何をイメージしてるのか。
> >  すぐにできない?
>
> Kが言おうが、誰が言おうができないことが世の中には多いのではないでしょうか? 汝の敵を愛せよ! できれば戦争など起きません。

 え〜と質問の趣旨ですが、あなたはしばしばKのいう「見ること」を実現していることをこの掲示板で公言していらっしゃる。Kの「気づき」を得ていると。
 ところが宮啓氏は、あなたのいう「全的気づき」(全的に見る)は、すぐにできないと嘆いている。その差はどこにあるのかという疑問だと思います。
「全的に見る」イコールawarenessを実現している、と受け取りました。
>
> > > >  ボチボチ、生のさ中でやってゆくことを心がけています。
> >
> >  「全的に見る」ということをボチボチやる?
> >  「見る」というのは即座でやって「時間」ではない。
> > >
> > > 「見る」という心のものが忘れられて生きているなら、実は見て、気づいて生きているかもしれず、それが学びの姿でしょう。
> >
> >  ?
> >  「見る」「気づいている」「知覚している」というのは人の基本的な機能。
> > 出来る出来ないの話ではない。毎日こうして生きているわけだから。
>
> 「全的に」ができていないという事でしょう。

「全的な気づき」ってどういうことなのか改めて疑問が浮かびました。できないというより、どのような心的状態なのか、よくわからないのでは。
 あれほどKの本を読んでいるのに関わらず。
>
> >  毎日の日常生活で私たちの思考と感情と感覚が経験が習慣的な「とりこ」になっているかいなかの問題。
> >  日常的な習慣に陥っているとすれば当然毎日毎日新鮮には生きられない。
> >  あらゆる種類のものに漠然と関心が失われていて、感覚も知性も身体までも麻痺している状態に陥っている。理解力は透明さを欠き、あらゆる出来事が重苦し連鎖に感じてしまう。そして自身さえもこの中で見失われる。
> >  こうしたマンネリ状態を打破するには「意識的に見る」ことが肝要。
> >  今の私の思考と感情の感性に身を置いているということを、しっかりと自覚して、心の習慣を克服し、自身の心に新たな経験の可能性に対する関心を与えることであり、その関心こそが最大の基礎と思われます。
>
> そのように最大の関心を置くと目的になり、成りゆく過程に落ち込み、ミイラ取りがミイラになります。そこが見えているのでまあポチポチと行こうかと。なかなかの心境かと存じます。

 言っていることが妙です。
 ここで言っていることはイエスの教えと宇宙哲学を総合したもので、関心を持つということに対してクリシュナムルティも述べている。
 自身の内面に何が起きてるか関心を持ちなさいと。鳥の声を聞くように自身の内面に耳を傾ける。
 まず人間というのは関心を持たないと見ることはしません。興味、好奇心。人間はそのように出きている。科学の発達は「宇宙や自然のしくみはどうなっているのか」という好奇心から、はじまった。
 あなたも釣りに関心あるから、釣りをしにいくし、Kに関心あるから本を読むわけです。関心がなければ読みませんね。
 クリシュナムルティはそのように、自身の内面、思考の動きをついてどのように気づいていくのか関心をもてといいます。つまりは思考過程を見る。
 イエスの有名な言葉「自身の想念に対して寝ずの番人」をせよ、というのと同じ。それだけ厳しくあたるということ。Kは思考という危険分子を監視せよとまでいっている。
 しかし、たいていの人は無関心。自身に目を向けることはない。
>
> >  イエスの自身の想念に対して「寝ずの番人をせよ」と言った意味がわかる気がします。たやすいことではないですが。
> >  さらにイエスは、人間は、起きていて見ていない状態ともいいます。まさにはっきり見ていない。目覚めていない。そこではっきり「見る」ことを強調する。意識的に。
> >  たしかに私たちの日常は見ているようで見ていない。漠然とした関心しか払っていない。
>
> 「全的に見る」―普通の人はほとんどができていない、それでは人のことより自分のことという事ですね。

 はいそうです。これこそぼちぼちと。もうこの歳(とし)になると、さほど大きな問題はない。あとは世間的勤めをはたすだけです。誰にも迷惑かけぬよう。
 断斜離の日々。


[24159] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/14(Mon) 16:07  

第一段階

固定静寂
エネルギー
パワー

第二段階

当たり前の生命の暖かさ
意識する必要のない大安心
完全にあたり前にいきていること

第三段階

至福
everything is ok の情熱の平安
実用的な霊的ヴィジョンと鋭敏な感受性

第四段階

すべてが自己である愛・慈悲
大いなるすべてにたいするいとおしさ
すべてが一体であるという感謝
底知れぬ生命の絶望と悲しみ

第五段階

カオス 全面的な真っ暗闇
パーフェクトにデリケートなあらゆるもののクリエーション
美と調和のヴァイブレーション

第六段階

あらゆるレヴェルでの知恵。インスピレーション
直観、個生命としての完全な納得
個性を残した時点での限界的英知
everythin is everything

第七段階

エクスタシー・すべてのすべて
身心脱落 脱落身心
究極の根底 ニルヴァーナ
唯一の私自身 私自身がない私自身
すべてのものとなって現れている私自身


[24158] Re:[24124] [24120] 「見る」ということ。 投稿者:外野 投稿日:2017/08/14(Mon) 15:23  

> この意識的に見るというところで、二人はいつも引っかかっていましたね。

 このたびawarenessの意味を検索したが、どうも「意識的に見る」ということではないようです。
 となると私たちは長年、無益な論議を繰り返したことになる。そういえば新しい芽氏も「見る」という話は出ないし、Kの本でも「見る」という記述はない。「見る」といっているのは私たちだけ。彼ら訳者は「気づき」という言葉で統一している。
 気づきというと、忘れ物に気づいた、というように日本語ではそのように使われている。つまり何かにふと気づくといった、そういった気づきではないようだ。
 そういったことを、このたびのawarenessの解説を読んで、「気づき」ました。
> > > 私も意識的に集中して「見る」ことを欲しがってやったのですが、これは違うと感じたし、欲望がぎらぎらという感覚もわかったので、

 Kを読みたての頃は、誰でもそのように試みるのではないですか。私などビパアサナに代表される気づきのトレーニングにいったくらいです。
 そんなことやると動きがスローになる。

>そしてなによりKが、意識するとき自己が強化されるという事をしっかりと述べてくれていたので、

 悩み事があるときは、そればっかり意識するでしょう。たとえば今日ゴルフで負けた松山選手は試合が終わったあと、そればかり浮かび上がります。
 何で負けたのか。何であそこで落としたのか。後悔の念が。反省ばかり。

> >  何で意識するとき、自己が強化されるのでしょうか。ここで自己というのは自我、つまりエゴということでしょうか?
>
> 自己というのはセルフの訳です。意識するというのは、認識する、経験するという事です。これは自己を強化します(自己の経験知識が増す)。

 私たちは悩み事、苦しみ事、何か問題を解決したいときは、おのずと意識に浮かび上がります。
 それは意識するしないの問題ではありません。普段私たち問題のない時は何も意識されません。わざわざ自分は「幸福(しあわせ)」だということもない。
 心理的な話です。問題があるとき、自然とそれが浮かぶあがります。あなたの言葉でいうと意識に上る。
 経験知識は、実生活で必要です。

>「私は神を見た」このとき自己が強化されました。「最初で最後の自由」p.115参照。「自己とは何か?」の章です。ま、ゆっくり「最初で最後の自由」を読むと多くのところで出てきます。探究を待ちます。

 自己が強化というとエゴが強化されるとイメージされますが、問題は自然と浮かび上がるのではないですか?それを「自己」と呼ぶか。「思考」と呼ぶか。
 神を見たという人を過去何人も見ましたが、その人の問題。その人がそういうのだからそうでしょうということです。誰も反論できません。見たと言ってのですから。
 ですので、たとえばあなたがKを読んで「気づき」を得たといわれればそうかなというだけで、人がどう思うが自分のことは自分しかわからない。

> ええと、トイレ掃除に限らず、やりたくないなあという気持ちが起きたら気がついていませんか?座禅をやっていないでも。

 そういう気持ちは日常で一瞬起こります。今日は億劫とか。たいていはそれを無視します。しかし油断すると、そういったネガティブな想念につかまる。

> > 意識的に見なければ,気づいたということもわからないのでは。

 この質問はawarenassの解説を読んだ限り、寓問でした。
>
> 瞬時瞬時の物事は瞬時に変転していきます。気づいたという事もわからないです。しかし問われれば、後であれがそうかと認識はできます。
>
> > 今、周りでたくさんの音がしてますが、即座に聞こえます。そうではないですか。一瞬あとではないでしょう。
>
> 即座ですね。
>
> > たくさんの音の中で、わかる音もあれば、わからない音もある。いずれにせよいちいち言語化しない。わからない音があるとき、何の音か認識が遅れることはあります。
>
> そうですね、鳥のなき声でわかるのは私はカラスとウグイスぐらいです。これは直感的にわかります。少し前ホトトギスが鳴きました。釣り場ではごく珍しいのです。幸い数回鳴いてくれたので、東京特許許可局と音をなぞって認識できました。

 このたびのawarenesuの解説によって、何らかの対象を気づいたとか、意識した、というのが無益な議論でした。すいません。おつきあいくださってありがとうございます。Kのいってることは別な事柄。あくまで心理的な領域。私はこれまでそのへんを混同してたようです。




[24157] AWARENESS 2 投稿者:外野 投稿日:2017/08/14(Mon) 14:34  

ネットから

 この「意識が高まった状態」が「自分」に向かうこと<self -consciousness> と呼びます。「自己認識・自分への意識が高い状態」ということですが、アメリカ人はこれを非常に大切にします。自分を客観的に観る視点を持ち、セルフコントロールがしっかりできていることによって、自分の能力を最大限に社会において発揮できる、いわば「自我が確立された人間」であることを大切にする文化だからでしょう。この <self-conciousness> は <awareness> と深い関係にあります。
 <awareness> は、 ただ「気づいている」 だけにはとどまらずに、「物事の『重要性』を知っていて、かつ興味を持つ」ところまで進む単語です。だからこそ、情報を知っていること以上の啓蒙的な意味を持つ現代日本社会で使われる「気づき」は、まさに <awareness> といえるでしょう。この 「気づき」 が「自分」に向かったとき、「己を知る」、あるいは「自分に気づく」という表現になりますが、これを <self-awareness> と言います。 <self(己)> に対しての意識レベルが高い状態を保っていると、 <self-conscious> な人間になれる、ということですね。
 近代的自我」 の原点とも言えるデカルトの 「我思う故に我あり(I think, therefore I am)」= <cogito ergo sum> を現代的に言えば <self-aware> かつ <self-conscious> な状態となります。つまり、「気づき」とは、常に客観的視点を持つことによって、いったん自分がおかれた状況を日常のコンテクストから外して見ることを可能にし、状況を改善するための「ヒント」を学び取ってゆくこと、なのです。

 ストレスの多い現代社会で日々の生活と仕事に追われていると、たしかに「気づき」のチャンスを見逃してしまいがち。だからこそ、「気づき」というキーワードに誰もが敏感になっているのかもしれません。

 このコラムの原点にも、普段何気なく使っている日本語を外国語を通して捉えることによって何らかの「気づき」を得るきっかけとなること、という発想があります。ということは、こう言えるのかもしれません:

 参考「気づきについて」

 「気づき」は英語のawarenssの訳として用いられ、外界の感覚刺激の存在や変化などに気づくこと、あるいは気づいている状態のことを指す。心の哲学では「気づき」とは「言葉による報告を含む、行動の意図的なコントロールのために、ある情報に直接的にアクセスできる状態」のことであると議論されている。気づきの脳内メカニズムを解明するために、さまざまな現象(閾下知覚や変化盲や両眼視野闘争など)が用いられており、ある対象への気づきの有無に対応した神経活動がさまざまな脳領域から見つかっている。

気づきとは

 認知神経科学の文脈での「気づき」は英語のawarenssの訳として用いられ、外界の感覚刺激の存在や変化などに気づくこと、あるいは気づいている状態のことを指す。「気づき」awarenessという語は「意識」consciousnessという語としばしば同義に用いられることがあるが、「気づき」という語は意識のうち、現象的な側面ではなくて心理学的側面、つまり行動を説明づける基盤としての心的概念としての意識を強調するために用いられる。

 心の哲学の研究者であるデイヴィッド・J・チャーマーズ[1]によれば「気づき」とは、「言葉による報告を含む、行動の意図的なコントロールのために、ある情報に直接的にアクセスできる状態」(訳書p.281より改変)のことを指す。気づきの対象は外界だけではなく、自分の体の状態や、自分の心的状態であることもある。この定義に基づけば、気づきには言語報告は必須ではないため、人間以外の動物にも気づきはあり得る。

 以上のような「何らかの対象に気づいている」(be aware of)という意味での気づきとはべつに、覚醒状態としての気づき(be aware)とがある。状態としての「気づき」は、意識障害の診断における、昏睡、植物状態、最小意識状態、覚醒状態の区別をするための指標[2]で定義される。こちらの用法の場合には「気づき」と「意識」とは区別せずに用いられている。

注  
 こうしてみてみると、クリシュナムルティのいうawarenessという言葉の意味は、どのような心的状態を指すのだろうか?
 日本語で訳される「気づき」の意味を日常語として、とらえてしまうととawarenessの理解がむづかしくなってしまうようだ。
 新しい芽氏は、かんたんに「見えている」「気づいている」「知覚している」と表現されたが、かえってわからない。
 初期の「自我の終焉」ではawarenessを凝視と訳されていたが、それにて一部の人は「見ること」だと表現された。
 この「見る」という表現も的確なのだろうか。Kの本には「見る」という言葉は出てこない。これも語弊のある言葉である。



[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31] [32] [33] [34] [35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58] [59] [60] [61] [62] [63] [64] [65] [66] [67] [68] [69] [70] [71] [72] [73] [74] [75] [76] [77] [78] [79] [80] [81] [82] [83] [84] [85] [86] [87] [88] [89] [90] [91] [92] [93] [94] [95] [96] [97] [98] [99] [100]

処理 記事No 暗証キー
- LightBoard - Modified by isso