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[24693] Re:[24690] [24688] [24684] [24682] [24677] [24669] [24666] [24665] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/10/15(Sun) 17:37  

> > 見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態と、介入していない(ただ見ている)状態があるのではないかと、私は言っています。
> >
> > 南方さんは、見ると言えば、それは常にただ見ていることを意味しているとわかりました。
>
>  そんなことは当たり前の話ではないですか。
>  「見る」というのは、ただ見ている、思考なしに見ている、という状態です。
>  意味しているということではなく、心の状態を指している。
>  こういうことは今まで、互いに了解の上では話していたはずです。
> 現に24644で
>  あなたはこう述べている
>  「非難正当化なしに聞く。無選択に聞く。動機、欲望なしに聞く。判断、解釈なしに聞く。知識をわきにおいて、初めて聞くように聞く。等々。このように聞くことが可能でしょうか?、とKは問います。」
>  これは「見る状態」ではないですか。

はい、ただ見ている状態です。

>  ところがあなたはここに来て、「見る」ということは二つあるという。
> 初めて聞きました。
>
>  あらためて再録しますが、
> > 見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態と、介入していない(ただ見ている)状態があるのではないかと、私は言っています。
>
>  後の文はいいとして、前者の
> 「見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態」
>  とは、どういう心の状態ですか?
>  マインドが介入した時点で、見る状態とは言えないでしょう。

マインドのつくったイメージを見ているという状態がありますね。それを実際と錯覚して見ている。それが気になるので、両方を見ていると言っていいかどうかが気になる。それは見ているに入れないと定義すればそれでいいです。その代りマインドの投影あるはイメージを見ている錯覚の状態を何というか示してください。

>  それともこれも「見る状態」ですか?

普通の人は投影なんかに気づいていないからどれも見ているに入れているのでしょう。
ちゃんと気づいていて、真正の見ているだけを「見ている」という人は、その人がそういうふうに言うとわかればそれでいいです。

>  そもそもそこでいうマインドというのは、どういう意味ですか。
>  思考をマインドと言い換えただけですか。

マインドは難しい言葉です。リンゴやミカンのように持ってきて触ることができません。
ここではマインドとは精神、意識、脳、思考、気分などの総称として使っています。

>
>  追記
>  議論したいのは、そういうことではなく
> 「非難正当化なしに聞く。無選択に聞く。動機、欲望なしに聞く。判断、解釈なしに聞く。知識をわきにおいて、初めて聞くように聞く。等々。このように聞くことが可能でしょうか?、とKは問います。」
>
>  この状態が、はたして一般の人がやっているのかどうかということです。
>  渡辺氏の疑問は、こういう状態というのは、一般の人が常にやっているのではないか、ということです。
>  ところが、一方ではKの文は一般の人は難しくて出来ないのではないかというイメージを与えてしまっている。例えば「気づきは難しい」と。
>  ですから、Kの読者にとって、ここでいう「ただ見る」「ただ聞く」ということが今イチ明確でないのではないだろうか。
>  渡辺氏の答えは簡単。ただ座れば「ただ見る」「ただ聞く」状態になる。だから「ただ座れ」という。形から入る。
>  形を否定するクリシュナムルティは「手がかり」がないと、仏教者は言う。
>

私は一般に見ると言ってもリアルに見ているのか、思考のつくったイメージを見ているのかがはっきりとは分からないでいると思います。
真実を見るのは決して容易ではないと思います。

それで人のやり方は形から入るという事です。これはパターンから入るということです。伝統のやり方です。何千年もやってきた。

Kは全く違う事を言います。何も知らずにただ見る、聴くという事から入る。必要なことは一生懸命それに取り組むことだけです。非難正当化なしにとかいう説明は、本当はいらないのでしょう。


[24692] Re:[24691] [24689] [24688] [24684] [24682] [24677] [24669] [24666] [24665] 無題 投稿者:南方 投稿日:2017/10/15(Sun) 14:09  

> > > > 上記のように二つのマインドの状態というのはあります。静と動。しかし、見ることにマインドは影響しえないので、どちらでもいいです。
> > >
> > >
> > > 見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態と、介入していない(ただ見ている)状態があるのではないかと、私は言っています。
> > >
> > > 南方さんは、見ると言えば、それは常にただ見ていることを意味しているとわかりました。
> >
> >
> > 整理できました。ありがとうございます。
> >
> > それで先の話に戻るのですが。見ることがあるとき、マインドのありようの変化がある、とおっしゃっていましたが私はこれが疑問です。
> >
> > 観れば静になることは確かです。ありようも変わります。
> > これは非難正当化に焦点を当てているから起きたことなのか
> > 背後にあるエネルギーによる影響なのかという疑問です。
> >
> > 両者に違いがあるとすればどういったものだとお考えですか?
>
> チャレンジというのは何でもいいのです。たとえば何かの趣味の道具を買いに行った、するとたまたま店が休日で買えない、思ったとおりに事が運ばない。「くそっ!」はらわたが煮えくり返ります。それがなかなか収まらない、むしろ我慢しよとすると余計苦しい。実はその日が定休日であることは知っていた。だが、趣味の楽しいイメージがあってそんな事は思いもしなかったのです。そのように、憤りが噴出するとき、ただ見ているのでなく、心が観察者としてその場にいて、反応が起きます。
>


かなりのチャレンジ精神の持ち主ですね。

> で、そういうマインドを持っているわがままな私としては、万事についてそのような反応が直ちに起こることなしに見ることは難しいのです。
>


自分でチャレンジしたんでしょう?まぁ誰でも難しと思いますが。

> それがただ見続けている、見ることだけがあると言ってもいいが、ただその状態を知覚しているという状態が発生するというのはそのような私にとっては言わば小さい奇蹟なのです。
> そのような変化が起こったという事は、私の条件づけられた物事の見方が変わったという事です。
>
> それは何が原因、あるいは原動力になっているかというお尋ねだと思うのですが、私はKの発する問いを全体的に受け止め問いと共にとどまったという事で、マインドの在り方が変わったのではないかと思うとぐらいしか言えません。
>


Kや皆様のおかげで私もそれが起こったし、一度起こると後は芸みたいなもので、お笑い芸人になんで面白いこと話せるんですか?と聞くようなもので、それはいつでもできるし、どうやってはナンセンス。芸事は問答無用。

> > また平和なマインドとうものがありうるでしょうか?
>
> 私はあると言いますし、それは自分が、おや、いつの間にか平和な心になったのかなと思ったことが以前にあるからですが、何せKのようにしっかり話ができないので、こんな言い方で勘弁してください。



私もあると思います。以前と比べると丸くなったなと自分でも思うくらいです。

そこでこれが疑問なんですが本当に芯から平和な心があるとしたら、ただ見ることはもう必要ないんじゃないか?ということです。

そこはどうなんでしょう?

やはり、ただ見ることを今数秒やってこれを書いてますが、あった方が楽です。

楽と言うことは平和な心じゃないということですか。心は芯から平和でありうるか・・・?


[24691] Re:[24689] [24688] [24684] [24682] [24677] [24669] [24666] [24665] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/10/15(Sun) 13:18  

> > > 上記のように二つのマインドの状態というのはあります。静と動。しかし、見ることにマインドは影響しえないので、どちらでもいいです。
> >
> >
> > 見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態と、介入していない(ただ見ている)状態があるのではないかと、私は言っています。
> >
> > 南方さんは、見ると言えば、それは常にただ見ていることを意味しているとわかりました。
>
>
> 整理できました。ありがとうございます。
>
> それで先の話に戻るのですが。見ることがあるとき、マインドのありようの変化がある、とおっしゃっていましたが私はこれが疑問です。
>
> 観れば静になることは確かです。ありようも変わります。
> これは非難正当化に焦点を当てているから起きたことなのか
> 背後にあるエネルギーによる影響なのかという疑問です。
>
> 両者に違いがあるとすればどういったものだとお考えですか?

チャレンジというのは何でもいいのです。たとえば何かの趣味の道具を買いに行った、するとたまたま店が休日で買えない、思ったとおりに事が運ばない。「くそっ!」はらわたが煮えくり返ります。それがなかなか収まらない、むしろ我慢しよとすると余計苦しい。実はその日が定休日であることは知っていた。だが、趣味の楽しいイメージがあってそんな事は思いもしなかったのです。そのように、憤りが噴出するとき、ただ見ているのでなく、心が観察者としてその場にいて、反応が起きます。

で、そういうマインドを持っているわがままな私としては、万事についてそのような反応が直ちに起こることなしに見ることは難しいのです。

それがただ見続けている、見ることだけがあると言ってもいいが、ただその状態を知覚しているという状態が発生するというのはそのような私にとっては言わば小さい奇蹟なのです。
そのような変化が起こったという事は、私の条件づけられた物事の見方が変わったという事です。

それは何が原因、あるいは原動力になっているかというお尋ねだと思うのですが、私はKの発する問いを全体的に受け止め問いと共にとどまったという事で、マインドの在り方が変わったのではないかと思うとぐらいしか言えません。

> また平和なマインドとうものがありうるでしょうか?

私はあると言いますし、それは自分が、おや、いつの間にか平和な心になったのかなと思ったことが以前にあるからですが、何せKのようにしっかり話ができないので、こんな言い方で勘弁してください。


[24690] Re:[24688] [24684] [24682] [24677] [24669] [24666] [24665] 無題 投稿者:外野 投稿日:2017/10/15(Sun) 08:45  

> 見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態と、介入していない(ただ見ている)状態があるのではないかと、私は言っています。
>
> 南方さんは、見ると言えば、それは常にただ見ていることを意味しているとわかりました。

 そんなことは当たり前の話ではないですか。
 「見る」というのは、ただ見ている、思考なしに見ている、という状態です。
 意味しているということではなく、心の状態を指している。
 こういうことは今まで、互いに了解の上では話していたはずです。
現に24644で
 あなたはこう述べている
 「非難正当化なしに聞く。無選択に聞く。動機、欲望なしに聞く。判断、解釈なしに聞く。知識をわきにおいて、初めて聞くように聞く。等々。このように聞くことが可能でしょうか?、とKは問います。」
 これは「見る状態」ではないですか。


 ところがあなたはここに来て、「見る」ということは二つあるという。
初めて聞きました。

 あらためて再録しますが、
> 見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態と、介入していない(ただ見ている)状態があるのではないかと、私は言っています。

 後の文はいいとして、前者の
「見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態」
 とは、どういう心の状態ですか?
 マインドが介入した時点で、見る状態とは言えないでしょう。
 それともこれも「見る状態」ですか?
 そもそもそこでいうマインドというのは、どういう意味ですか。
 思考をマインドと言い換えただけですか。


 追記
 議論したいのは、そういうことではなく
「非難正当化なしに聞く。無選択に聞く。動機、欲望なしに聞く。判断、解釈なしに聞く。知識をわきにおいて、初めて聞くように聞く。等々。このように聞くことが可能でしょうか?、とKは問います。」

 この状態が、はたして一般の人がやっているのかどうかということです。
 渡辺氏の疑問は、こういう状態というのは、一般の人が常にやっているのではないか、ということです。
 ところが、一方ではKの文は一般の人は難しくて出来ないのではないかというイメージを与えてしまっている。例えば「気づきは難しい」と。
 ですから、Kの読者にとって、ここでいう「ただ見る」「ただ聞く」ということが今イチ明確でないのではないだろうか。
 渡辺氏の答えは簡単。ただ座れば「ただ見る」「ただ聞く」状態になる。だから「ただ座れ」という。形から入る。
 形を否定するクリシュナムルティは「手がかり」がないと、仏教者は言う。
 


[24689] Re:[24688] [24684] [24682] [24677] [24669] [24666] [24665] 無題 投稿者:南方 投稿日:2017/10/15(Sun) 04:04  

> >
> >
> > 上記のように二つのマインドの状態というのはあります。静と動。しかし、見ることにマインドは影響しえないので、どちらでもいいです。
>
>
> 見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態と、介入していない(ただ見ている)状態があるのではないかと、私は言っています。
>
> 南方さんは、見ると言えば、それは常にただ見ていることを意味しているとわかりました。


整理できました。ありがとうございます。

それで先の話に戻るのですが。見ることがあるとき、マインドのありようの変化がある、とおっしゃっていましたが私はこれが疑問です。

観れば静になることは確かです。ありようも変わります。
これは非難正当化に焦点を当てているから起きたことなのか
背後にあるエネルギーによる影響なのかという疑問です。

両者に違いがあるとすればどういったものだとお考えですか?

また平和なマインドとうものがありうるでしょうか?


[24688] Re:[24684] [24682] [24677] [24669] [24666] [24665] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/10/14(Sat) 21:43  

> > > >
> > > > そのような異質な(異次元的でもよい)性が現れる時、マインドのありようの変化がある。
> > > >
> > >
> > >
> > > 非難正当化の背後にあるエネルギーは感じ取れますが
> > >
> > > マインドのありように変化はありませんよ。
> > >
> > > そのエネルギーからマインドを介さないで見ることはいつもできますが。
> > >
> > > マインドはマインドです。
> >
> >
> > どうも話がこんがらかっています。もう一度やり直してみます。
> >
> > ただ見ることができず、非難正当化が出てきてしまう。――この時マインド(心)は騒いで介入してきている。
> >
>
>
> いやマインド(心)が騒いでいても、それを脇に置いといて見ることはできます。エネルギーの流れの外に置くということ。
>
>
> > 非難正当化なしにただ見ている。――この時マインドは静かである。
> >
>
> マインドが静かな時もありますし、背後にあるエネルギーからの影響を受けてかもしれません。
>
> > この二つの場合で、マインドはマインドかもしれないが、その状態は違うのではないかと言っています。たまたまのようで、出たときハッと気づき非難正当化に入って行かないようであるなら、非難正当化は終わります。憎しみでも嫉妬でも同じです。そういう事を言っていますが、ここが違うでしょうか?
>
>
> 上記のように二つのマインドの状態というのはあります。静と動。しかし、見ることにマインドは影響しえないので、どちらでもいいです。


見る状態において、観察者としてマインドが介入している状態と、介入していない(ただ見ている)状態があるのではないかと、私は言っています。

南方さんは、見ると言えば、それは常にただ見ていることを意味しているとわかりました。


[24687] Re:[24681] [24678] [24672] [24663] [24662] Kの言っていること―あるいは瞑想 投稿者:ゴト 投稿日:2017/10/14(Sat) 21:28  

> > 個人の意識の変革がヒトの意識の変革をもたらすというのが回答らしいのですが、流行という事は非常に伝搬するけれど、意識についてはどうなのだろう?
> > そんなところでまごついています。
>
>
> 意識についてもほぼ間違いなく伝搬します。
> 精神科というところは不思議なところで、足腰が立たない人が入院してきたりします。
> 足腰が立たない人が何故精神科へ?と思うでしょう。
> でも
> 三か月も経つとその人はピンピン立って歩いて退院していくんですね。
>
> 精神科の入院生活と言うのは精神の変化が求められるわけですが、それが不思議と起こるんですね。精神科医という人は不思議な人です。そのメカニズムは意識の伝搬に繋がるものがあると思います。
>

大変興味深い話をありがとうございました。私は今マインド、脳、思考といった問題に関心を持っていることがわかりました。

それでひょいとKの「思考のネットワーク」渡辺 充 訳 という本を引っ張り出して読んでいました。購入した当時はあまりピンとこなかったのですが、今私の関心にぴったりという感じで読んでいます。
1981年のザーネン講話と同年のアムステルダムでの講話です。上記和訳は1991年の発行です。


[24686] Re:[24680] [24676] [24675] [24671] [24669] [24666] [24665] 無題 投稿者:外野 投稿日:2017/10/14(Sat) 15:44  

> >  前々から、F氏について関心をもっていました。可能な範囲でプロフィールやゴトさんとのご縁などをご紹介いただけないでしょうか・・。
>
> F氏は「Kコミ」というミニコミ誌を出していた方で、

彼は最初、無料で出していた。

>Kの読書会も開いていらっしゃいました。

ここはフリートークです。とくにテーマを決めず。読書会を最初に始めたのは新しい芽氏。

>それで私も「Kコミ」の購入から、ついには初めてK関係の会合に恐る恐る出席しました。最初15分間の瞑想があったので、それがちゃんとできるか怖かったのです。これが最初のK関係の会合でした。懐かしいありがたい会でした。

 新しい芽氏の会合はあとですか。

> F氏は精神界の人で、比較的早くそちらの方に入って(もどって?)行かれました。それでF氏と書いています。

 会の終わりころ、彼は神がかり的なことを言い出し始める。そのあと「光の瞑想」というセラピーを始めた。
 その後、東京から屋久島に移住。といっても10年以上も前のはなし。今はいい年だろう。


[24685] Re:[24674] [24673] 非難正当化 投稿者:外野 投稿日:2017/10/14(Sat) 15:31  

> >  あなた方は、これまでの言動を見る限り、クリシュナムルティ(の言ってること)をまったく信じ切っているようだ。彼の言うことは正しいと信じて、一寸の疑いをかけようとはしない。ホントかどうかということ。
> >  (教祖を敬う信者の心理と同じ)
> >  仮に傍でクリシュナムルティを非難している人がいるとして、あなた方はその人に対しどのように反応するのだろうか。即反論を試みるのだろうか。あるいは内心「この人はなにわかっていない」と蔑視するのだろうか。
> >  つまり、クリシュナムルティを非難する人に対し、どんな気持ちになるのだろうか?クリシュナムルティを守るため血相変えて怒るのか。あるいはその人に対し無視を決め込み。内心「こいつとは相入れない」

 南方さん。ご返答ありがとうございます。
 先の文章はクリシュナムルティを教祖のように信じ切っているゴト氏や宮啓氏に向けた言葉です。
 つまり「あなた方」とは、宮啓氏とゴト氏を指します。よくに宮啓氏というのはクリシュナムルティを教祖のように信じ切っています。
 仮にクリシュナムルティを批判しようとするものなら、二度とその人間とは接触を持ちません。
 会社で嫌いな人間と二度と口を利かないようなものです。ここでもゴト氏としか話しません。

 南方氏とは関係ない文章です。誤解を受けたら誤ります。
 
> >
>
>
> 何年か前ある人にクリシュナムルティの本をすすめたところ、その人は三時の早起き会に入会して何年もたっている人でしたが、巻末のKの略歴を読んだだけで

 早起きの会というのは聞いたことがあります。「実践倫理の会」ではないでしょうか。

> 「この人は無責任だ!」とそれ以降読まなっかです。
> 星の教団解散事件のことです。
>
> それで今それを思い返して考えてみるのですが、Kは真理は組織だって追究されるものではない、と言っています。
>
> この言葉と「この人は無責任だ!」という言葉を合わせて考えてみると、真理というものは集団で追い求めると、なにか抽象化観念化したものにならざるを得ない。具体性をなくす。

 組織、つまり集団や団体を持つと真理が歪められやしないかということです。その弊害は様々にあります。まずは「洗脳」がそうです。つまりは「個」が抹殺され、すべてが「画一的」になる。(共産主義がそうです)
 創価学会の人間と話したことがあるのですが、皆同じような考えで、「個」が感じられません。皆同じ。
 オウムがその典型ですね。信者は教祖の教えに従う。右向け右。Kの同じ時期には有名なスワミ・ラジネーシ(和尚)の団体がありました。今でも「存在の詩」などの本が置かれている。
 インドやアメリカに共同体を結成。フリーセックスを奨励した。
 彼はKをライバル視し、執拗にKを非難した。
 新興宗教は、教祖を絶対視する。個の信仰より教義の普及、教団の維持が先行する。
>
> {ただ}見るという行為は具体的なものです。組織だって追求することではない。
 それは個々のことであり、組織だってやるものではない。組織立ってやるのは集団催眠。
>
> そういうことを読む機会や精神を失わせるという意味でやはり三時の早起き会は表立って宗教とは言ってないが、やはり宗教なのでしょう。

 宗教というのは、特定の教義を設けるもの。それを信仰の対象にする。
>
>
> Kを信望しているのではなく現実を見て判断しました。

 Kの教え、教義は、そのまま信じるということではなく、自身で実証するものです。
>
> >  こうしたことは日常でよくある。自分の信頼している人、あるいは仲のいい友人でもいい。傍から悪く言われたら、どんな反応をするか。すくなくともいい気持ちはしない。いわれなく中傷と感じるかもしれない。

 ま、これはどこにでもあるできごとです。友人の悪口をいわれれば誰でも頭に来るでしよう。
> >
>
>
> 残念におもったのは事実です。でも今はKはいいよ、とその人に言うと「また始まった」と笑いあえる仲です。そこまでお互いに排他的でもありません。
> 人間よほどのことがない限り原理主義にはならないのだなと思う。少なくとも表現の自由が担保されている日本では。

 日本ほど宗教に肝要な国はありません。長い間、神道と仏教が並立してきました。
>
>
>
> >  かって新しい芽氏がこういったことを思い出す。クリシュナムルティの言ってることは、正しいかもしれないが間違ってるかもしれない。だから一つ一つ検証すると。
>
>
> それは大切だと思います。気を付けます。

いえいえ。
ただ新しい芽氏は「事実を見る」ことだけに徹底していたように思います。


[24684] Re:[24682] [24677] [24669] [24666] [24665] 無題 投稿者:南方 投稿日:2017/10/14(Sat) 15:23  

> > >
> > > そのような異質な(異次元的でもよい)性が現れる時、マインドのありようの変化がある。
> > >
> >
> >
> > 非難正当化の背後にあるエネルギーは感じ取れますが
> >
> > マインドのありように変化はありませんよ。
> >
> > そのエネルギーからマインドを介さないで見ることはいつもできますが。
> >
> > マインドはマインドです。
>
>
> どうも話がこんがらかっています。もう一度やり直してみます。
>
> ただ見ることができず、非難正当化が出てきてしまう。――この時マインド(心)は騒いで介入してきている。
>


いやマインド(心)が騒いでいても、それを脇に置いといて見ることはできます。エネルギーの流れの外に置くということ。


> 非難正当化なしにただ見ている。――この時マインドは静かである。
>

マインドが静かな時もありますし、背後にあるエネルギーからの影響を受けてかもしれません。

> この二つの場合で、マインドはマインドかもしれないが、その状態は違うのではないかと言っています。たまたまのようで、出たときハッと気づき非難正当化に入って行かないようであるなら、非難正当化は終わります。憎しみでも嫉妬でも同じです。そういう事を言っていますが、ここが違うでしょうか?


上記のように二つのマインドの状態というのはあります。静と動。しかし、見ることにマインドは影響しえないので、どちらでもいいです。


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