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[25699] Re:[25692] 既知からの自由5−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/25(Wed) 21:20  

> 5章の4 [恐怖の終わり]
>
>  恐怖をどんな結論もなしに、恐怖について蓄積してきた知識のどんな干渉もなしに見つめることができますか? できないのなら、その時あなたが見つめているものは過去であり、恐怖ではありません。出来るならば、その時恐怖を初めて過去の干渉なしに見つめているのです。

はい。

>  心が非常に静かなときにのみ見つめることができます。誰かが言っていることを聴くことができるのは、心がそれ自体でおしゃべりしていたり、それ自体の問題や心配について対話をしたりしていない時だけだというのと丁度同じです。同じように自分の恐怖を、それを解決しようと努めることなしに、その反対物、勇気を持ち込んだりせずに見ることができますか ― 実際にそれを見、それから逃げようとしないことができますか? 「恐怖を制御しなければならない、それを抜け出さなければならない、それを理解しなければならない」という時、あなたはそれから逃げようとしているのです。

はい。

>  あなたは雲や、木や、川の流れを、それらは自分にとってあまり重要でないので、かなり静かな心で観察することができますが、自分自身を見つめることは、そこでは要求はとても実際的だし、反応はとても素早いので、遥かに困難です。そこで恐怖、または絶望、孤独、嫉妬、あるいは何かほかの醜い心の状態に直接接触するとき、心がそれを見るのに充分静かなほど、あなたはそれを非常に完全に見ることができるでしょうか?

反応を見ることの困難さが身に沁みるがごとく示されました。

>  心は恐怖の種々の形ではなく、恐怖を知覚できるでしょうか ― あなたが恐れているものではなく、恐怖全体を知覚できるでしょうか? 恐怖の細部だけを見たり、自分の恐怖を一つ一つ処理しようとするなら、恐怖と共に生きることを学ぶという核心には決して到達しないでしょう。

・・・


>  恐怖のような生きているものと共に生きるためには、途方もなく敏感で、何の結論を持たない、それゆえ恐怖のあらゆる動きについて行くことができる心とハートが必要です。そして観察しそれと共に生きるなら ― そしてこれはまる一日はかかりません。恐怖の全性質を知るのは一分か一秒でできます ― 非常に完全にそれと共に生きるならあなたは当然尋ねます。「恐怖と共に生きている実体は誰なのか? 恐怖を観察し、恐怖の中心的な事実に気づいているだけでなく、様々な形の恐怖の動きの全てを見つめているのは誰なのか? 観察者は、自分自身についてのたくさんの知識と情報を蓄積してきた死んだ実体、静的な存在なのだろうか、そして恐怖の動きを観察し、それと共に生きているのはその死んだものなのだろうか? 観察者は過去のものなのだろうか、それとも彼は生きているものなのだろうか?」あなたの答えは何でしょうか? 私に答えないで、自分自身に答えてください。あなた、観察者、は生きたものを見つめている死んだ実体ですか、それとも生きたものを見つめている生きているものでしょうか? なぜなら観察者には二つの状態が存在するからです。

・・・

>  観察者は恐怖を望まない検閲官です。観察者は恐怖についての彼の全経験の総体です。それゆえ観察者は恐怖と呼ぶそのものとは別です。それらの間には空間があります。観察者は永久に恐怖を克服しようとし、あるいはそれから逃げようとします。そしてそのために彼自身と恐怖の間の戦いがあります ― この戦いはエネルギーの大変な浪費です。

死んだ(過去のものの束である)観察者の場合。

>  見つめるにつれて、観察者は何の確実性も実質もない単なる観念と記憶の束に過ぎないが、しかし恐怖は現実であること、そして自分が事実を抽象で理解しようとしていることを学びます。そんなことはもちろん出来ないのですが。しかし、実際のところ、「私は怖れている」という観察者は観察されるものつまり恐怖と何か異なるのでしょうか? 観察者は恐怖です。そしてそのことが実感されるときもはや恐怖を免れようとする努力の中でのエネルギーの浪費はなく、観察者と観察されるものの間の時空の隔たりは消えます。自分が恐怖の一部であり、それと別のものではないことを ― 自分が恐怖であることを ― 見るとき、あなたはそれについて何もすることはできません。その時恐怖は完全に終わります。

>そして自分が事実を抽象で理解しようとしていることを学びます。−− 言葉であるいは観念的に理解しようとしていることがわかる。それはナンセンスなのだが。

しかし恐怖は現実である。私が心理的に恐れている時、私が生きた恐怖です。この言い方はどうですか?

> (5章 終わり)


[25698] Re:[25697] 何が見ているのか 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/25(Wed) 20:26  

> 変容とか、大げさな言葉を繰り出す必要はない。
> 変容したければどうぞ。としかいいようがない。
> いつもいうが、この世に常住するものはない。すべてにおいて変化している。何で改めて変容するのか。

変化しているのは限定された領域の中にあって変容はないという事。(ではないだろうか?)


[25697] 何が見ているのか 投稿者:無明 投稿日:2018/07/25(Wed) 10:24  

ようするに、私たちは毎日見ている、周りの世界に対して、自分の繰り出した思考で見ているのではないか、というのが、古今の覚者、賢者の私たちに対する問いかけではないでしょうか。たんなる問いかけ。それを自身に問う。
変容とか、大げさな言葉を繰り出す必要はない。
変容したければどうぞ。としかいいようがない。
いつもいうが、この世に常住するものはない。すべてにおいて変化している。何で改めて変容するのか。

簡単に言うと、思考のスクリーンで見ている。よくいう色眼鏡をかけて世界を見ている。
雷親父が怖いのは、自分が勝手に「怖い」という形容詞をつけている。
事実はそこに親父がいるのみ。

それをわざわざ、「観察者とは誰か?」とか、「わたしは誰か」なんて、かっこつけていう必要はありません。

禅坊主の禅門答は得意技。かんたんなことをあえて難しくいう。俺は悟っているといわんばかりに。ようするにエゴ。優越意識の表れだろう。悟りたいというのは一種の願望。エゴ。
精神主義者はこのことに気づかない。
「自己」というものを益々意識してしまうパラドックスに陥る。
その証拠に、一般の普通の人は、何か問題が起きた以外は「自己」は意識しない。

思考者とか、思考が見ているという表現もそうです。
思考を見ている、という表言ということならわからないではないが、思考「が」見ているという言い方は何のこっちゃっ、ということになる。渡辺氏がよく使う。


こうして毎日思考を使っているのは、まぎれもなく生身の自分自身です。一般の人間は思考に振りまわされて生きているだけ。
人と接しているとよくわかる。だからといってその人にとやかくいうことはない。


誰が見ているのか?「自分自身」にきまっているだろう。
「思考」ではない。「わたし」でもない。
自分自身の繰り出す「思い」で世界を見ている。

恐怖を見ている、というのもそう。
お化けが怖い。そこにお化けが怖い「自分」がいるということ。
見ている対象は「お化け」。お岩さんを想像すればよくわかる
その「お化け」に対して、あれこれ評価判断しているのが自分の思考。「怖い」という思考。



[25696] Re:[25695] [25692] 既知からの自由5−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/24(Tue) 20:55  

> 相変わらずKの文章はわからない。しゃべりすぎなのだろうか?
>
> > 5章の4 [恐怖の終わり]
> >
> >  恐怖をどんな結論もなしに、恐怖について蓄積してきた知識のどんな干渉もなしに見つめることができますか? 
>
> 恐怖イコール思考では?
>
> >できないのなら、その時あなたが見つめているものは過去であり、恐怖ではありません。
>
> ?
> 過去イコール恐怖では。
>
> >出来るならば、その時恐怖を始めて過去の干渉なしに見つめているのです。


上記文章の「始めて」を「初めて」に訂正します。私の複写時のうっかりミスでした。25692も訂正しておきました。
とりあえずお詫びと訂正まで。


[25695] Re:[25692] 既知からの自由5−4 投稿者:無明 投稿日:2018/07/24(Tue) 18:20  


相変わらずKの文章はわからない。しゃべりすぎなのだろうか?

> 5章の4 [恐怖の終わり]
>
>  恐怖をどんな結論もなしに、恐怖について蓄積してきた知識のどんな干渉もなしに見つめることができますか? 

恐怖イコール思考では?

>できないのなら、その時あなたが見つめているものは過去であり、恐怖ではありません。


過去イコール恐怖では。

>出来るならば、その時恐怖を始めて過去の干渉なしに見つめているのです。

恐怖そのものが過去の経験の産物では。
>
>  心が非常に静かなときにのみ見つめることができます。誰かが言っていることを聴くことができるのは、心がそれ自体でおしゃべりしていたり、それ自体の問題や心配について対話をしたりしていない時だけだというのと丁度同じです。同じように自分の恐怖を、それを解決しようと努めることなしに、その反対物、勇気を持ち込んだりせずに見ることができますか ― 実際にそれを見、それから逃げようとしないことができますか? 「恐怖を制御しなければならない、それを抜け出さなければならない、それを理解しなければならない」という時、あなたはそれから逃げようとしているのです。
>
>  あなたは雲や、木や、川の流れを、それらは自分にとってあまり重要でないので、かなり静かな心で観察することができますが、自分自身を見つめることは、そこでは要求はとても実際的だし、反応はとても素早いので、遥かに困難です。そこで恐怖、または絶望、孤独、嫉妬、あるいは何かほかの醜い心の状態に直接接触するとき、心がそれを見るのに充分静かなほど、あなたはそれを非常に完全に見ることができるでしょうか?
>
>  心は恐怖の種々の形ではなく、恐怖を知覚できるでしょうか ― あなたが恐れているものではなく、恐怖全体を知覚できるでしょうか? 恐怖の細部だけを見たり、自分の恐怖を一つ一つ処理しようとするなら、恐怖と共に生きることを学ぶという核心には決して到達しないでしょう。
>
>
>  恐怖のような生きているものと共に生きるためには、途方もなく敏感で、何の結論を持たない、それゆえ恐怖のあらゆる動きについて行くことができる心とハートが必要です。そして観察しそれと共に生きるなら ― そしてこれはまる一日はかかりません。恐怖の全性質を知るのは一分か一秒でできます ― 非常に完全にそれと共に生きるならあなたは当然尋ねます。「恐怖と共に生きている実体は誰なのか? 
誰なのか?というのはあなたの常套文句のようですが、聞く人を惑わす質問です。

>恐怖を観察し、恐怖の中心的な事実に気づいているだけでなく、様々な形の恐怖の動きの全てを見つめているのは誰なのか? 

誰なのか、の「誰」は何を意味してますか?


観察者は、自分自身についてのたくさんの知識と情報を蓄積してきた死んだ実体、静的な存在なのだろうか、そして恐怖の動きを観察し、それと共に生きているのはその死んだものなのだろうか? 観察者は過去のものなのだろうか、それとも彼は生きているものなのだろうか?」あなたの答えは何でしょうか? 私に答えないで、自分自身に答えてください。あなた、観察者、は生きたものを見つめている死んだ実体ですか、それとも生きたものを見つめている生きているものでしょうか? なぜなら観察者には二つの状態が存在するからです。

観察者は二つの状態が存在する?
どういうことですか?
生きたもの、死んだもの、という意味ですか?
>
>  観察者は恐怖を望まない検閲官です。観察者は恐怖についての彼の全経験の総体です。それゆえ観察者は恐怖と呼ぶそのものとは別です。それらの間には空間があります。観察者は永久に恐怖を克服しようとし、あるいはそれから逃げようとします。そしてそのために彼自身と恐怖の間の戦いがあります ― この戦いはエネルギーの大変な浪費です。

思考イコール恐怖です。なんで戦うのですか?
>
>  見つめるにつれて、観察者は何の確実性も実質もない単なる観念と記憶の束に過ぎないが、しかし恐怖は現実であること、そして自分が事実を抽象で理解しようとしていることを学びます。そんなことはもちろん出来ないのですが。しかし、実際のところ、「私は怖れている」という観察者は観察されるものつまり恐怖と何か異なるのでしょうか? 観察者は恐怖です。そしてそのことが実感されるときもはや恐怖を免れようとする努力の中でのエネルギーの浪費はなく、観察者と観察されるものの間の時空の隔たりは消えます。自分が恐怖の一部であり、それと別のものではないことを ― 自分が恐怖であることを ― 見るとき、あなたはそれについて何もすることはできません。その時恐怖は完全に終わります。

蛇を見て怖いのは、過去の経験、知識です。向きの赤ちゃんなら、知らないので蛇に近ずくでしょう。周りから言われて蛇は怖いということ学びます。
ここでいう蛇はペットでなく、毒蛇です。
>
> (5章 終わり)


[25694] 恐怖イコール思考 投稿者:無明 投稿日:2018/07/24(Tue) 18:06  

>あるがままで、居なさい。
否定も肯定もなしに、ただ、それで居なさい。
「わたし」が無いのは、恐怖ではありません。
恐怖は思考の得意分野です。
ほんとうにあるがままであるなら、恐怖はありません。
「わたし」を明け渡す、一切を許し受け入れるとは、そういう事です。
自由とはそういう事です。
それは虚無ではなく、充実した楽しみです。
ゼロではなく、ひとつです。


感想

恐怖イコール思考。恐怖は思考の得意分野。

ライオンが怖い。雷親父が怖い。崖が怖い。というの思考のなせる業(わざ)。
その証拠に無垢の赤ちゃんは、それらに対して恐怖はない。




[25693] わたしは誰か? 投稿者:無明 投稿日:2018/07/24(Tue) 17:01  

わたしは誰か?「真我の目覚めるとき」花岡修平

さて、「わたしは誰か?」

ラマナ・マハルシの教えの中核をなす、言葉です。



わたしは誰か?と問いかける事で、わたしは身体に由来する存在

ではない事をまず理解します。



ところが、わたしは誰か?と、昼も夜も問い続ける事では、

望んでいる答えは見出せません。

誰だろう・・・誰だろう・・・と思い出す作業を始めるなら、

要点を外しているのです。



もしも、宗教として、ラマナを崇拝し、信じ、

彼の言葉に忠実に励もうとしているなら、

それは、彼の言葉を全く理解していない事になるのです。

信じる事、崇拝する事が、言葉の奥にある深い意味を洞察

する事を妨げるからです。

信じるから、そこで止まり続けます。

ラマナが言っているのは、わたしは誰か?、

その誰かを探せという事ではないのです。



言葉に、言葉以外の、実に様々な意味を見てとれる事を、

我々は経験で知っています。

ところが人は、未知のものであればあるほど、

言葉に忠実になろうとします。



わたしは誰か?と問いかける事で、その誰かである「わたし」

を見つけようとします。

その誰かである「わたし」は思考を発しているその「わたし」

である事は、誰にも明白です。

その「思考者であるわたし」を、一生懸命見つけようとしているのです。



ただそれだけのために、ラマナがそのような事を言うはずはないのです。



しかも、その行為自体が思考そのものである事に、まったく気づきません。



ここでも、おなじみの、無限ループに陥ります。



誰か?と問い続ける事で、あたかもその、誰かが、見えてくるかのように

思ってしまいます。



わたしは誰か?と問いかけ、その誰かである「わたし」を見ているその、

見ている「わたし」に気付きません。



わたしは誰か?と問い、その誰かである「わたし」を見るのではなく、

その誰かである「わたし」を見ている「わたし」を知るのです。



思考者の「わたし」を見ている、観察者の「わたし」です。



見る者は、見られる者である。



そうまで言っても、その誰か?にこだわり続けます。

何がなんでも、誰か?が重要なのだと、信じて疑いません。



わたしは誰か?など、どうでもいいのです。

誰か?と問い、思考している「わたし」を見ている「わたし」に気付いたなら、

速やかに、その見ている「わたし」に向き直りなさい!と言う事です。



それが静寂であることを、まず気付かなくてはなりません。



ところが、またまた、誰か?に戻ってしまいます。

すなわち、その静寂に気付いているのは誰か?と言い出すのです。



思考がどうしても、思考に引き戻します。

自我のレベルでは感覚できる事ではありません。

思考している「わたし」を見ている「わたし」に気付いたら、

それに向き直り、そこに留まって、あとは一切、

言葉を思い浮かべてはいけません。



そこに留まって、無思考でいて、沈黙し、

静寂を感覚していなければなりません。



たったこれだけの事なのに、

たったこれだけの事が成し難いのです。



思考の癖とはそういうものです。

自我の巧妙な手口です。



もしも人間に、言葉というものが無かったなら、

なんと容易に静寂に落ち着くことが出来たでしょう。

言葉があるから、いろいろなものに、意味づけをしたがります。

定義したがります。

断定してしまいます。



わたしは誰か?と問い続けなさい・・・と言われれば、

その事が重要だと断定します。

そうであるなら、問う事など止めるべきです。



真我に気付く方法は、別の方法もあるのですから。



それは、いわゆるサレンダーです。明け渡しです。

至高なる存在、神、あらゆるものの源泉に、全てを明け渡すのです。

ところが、これもできないと言うかもしれません。

独特の「恐れ」を感じるのです。



明け渡したとて、何も不安の素など無いというのに。

恐怖すべき何事も起こらないと言うのに、

にも関わらず明け渡せないのです。

明け渡せば、こんなにも楽になれると言うのに。



愛着が、執着が、それを許しません。

失うことへの恐れが、それを許しません。



どちらも、自我の恐るべきちからです。



たったこれだけの事が、なんと成し難いのでしょう。

不思議です。とても不思議です。



ラマナも、自らが真我であるのに、全く真我に気付かなことは、

不思議でしょうがないと言います。



この小さな自我に比べられないくらい大きな真我が

太刀打ちできないとは・・・



言葉を捨てなければいけません。

ただ、感覚してください。

言葉で、知識でわかろうとしてはだめなようです。

学問ではないのですから。

また、宗教でもありません。



だから、言葉を覚えていない幼子になりなさいと言っているのです。

言葉がなくても、彼は「わたし」なのです。

しかし、彼は「わたし」を知りません。

そういう自意識がないのです。

そのような幼子の彼は、全く「真実のわたし」

によって在る「わたし」なのです。



あなたが、「わたし」と言える「わたし」ではなく、

「わたし」が全くいない、「真実のわたし」の事を言っているのです。



感性にまかせてください。

それを信頼してください。




[25692] 既知からの自由5−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/22(Sun) 18:58  

5章の4 [恐怖の終わり]

 恐怖をどんな結論もなしに、恐怖について蓄積してきた知識のどんな干渉もなしに見つめることができますか? できないのなら、その時あなたが見つめているものは過去であり、恐怖ではありません。出来るならば、その時恐怖を初めて過去の干渉なしに見つめているのです。

 心が非常に静かなときにのみ見つめることができます。誰かが言っていることを聴くことができるのは、心がそれ自体でおしゃべりしていたり、それ自体の問題や心配について対話をしたりしていない時だけだというのと丁度同じです。同じように自分の恐怖を、それを解決しようと努めることなしに、その反対物、勇気を持ち込んだりせずに見ることができますか ― 実際にそれを見、それから逃げようとしないことができますか? 「恐怖を制御しなければならない、それを抜け出さなければならない、それを理解しなければならない」という時、あなたはそれから逃げようとしているのです。

 あなたは雲や、木や、川の流れを、それらは自分にとってあまり重要でないので、かなり静かな心で観察することができますが、自分自身を見つめることは、そこでは要求はとても実際的だし、反応はとても素早いので、遥かに困難です。そこで恐怖、または絶望、孤独、嫉妬、あるいは何かほかの醜い心の状態に直接接触するとき、心がそれを見るのに充分静かなほど、あなたはそれを非常に完全に見ることができるでしょうか?

 心は恐怖の種々の形ではなく、恐怖を知覚できるでしょうか ― あなたが恐れているものではなく、恐怖全体を知覚できるでしょうか? 恐怖の細部だけを見たり、自分の恐怖を一つ一つ処理しようとするなら、恐怖と共に生きることを学ぶという核心には決して到達しないでしょう。


 恐怖のような生きているものと共に生きるためには、途方もなく敏感で、何の結論を持たない、それゆえ恐怖のあらゆる動きについて行くことができる心とハートが必要です。そして観察しそれと共に生きるなら ― そしてこれはまる一日はかかりません。恐怖の全性質を知るのは一分か一秒でできます ― 非常に完全にそれと共に生きるならあなたは当然尋ねます。「恐怖と共に生きている実体は誰なのか? 恐怖を観察し、恐怖の中心的な事実に気づいているだけでなく、様々な形の恐怖の動きの全てを見つめているのは誰なのか? 観察者は、自分自身についてのたくさんの知識と情報を蓄積してきた死んだ実体、静的な存在なのだろうか、そして恐怖の動きを観察し、それと共に生きているのはその死んだものなのだろうか? 観察者は過去のものなのだろうか、それとも彼は生きているものなのだろうか?」あなたの答えは何でしょうか? 私に答えないで、自分自身に答えてください。あなた、観察者、は生きたものを見つめている死んだ実体ですか、それとも生きたものを見つめている生きているものでしょうか? なぜなら観察者には二つの状態が存在するからです。

 観察者は恐怖を望まない検閲官です。観察者は恐怖についての彼の全経験の総体です。それゆえ観察者は恐怖と呼ぶそのものとは別です。それらの間には空間があります。観察者は永久に恐怖を克服しようとし、あるいはそれから逃げようとします。そしてそのために彼自身と恐怖の間の戦いがあります ― この戦いはエネルギーの大変な浪費です。

 見つめるにつれて、観察者は何の確実性も実質もない単なる観念と記憶の束に過ぎないが、しかし恐怖は現実であること、そして自分が事実を抽象で理解しようとしていることを学びます。そんなことはもちろん出来ないのですが。しかし、実際のところ、「私は怖れている」という観察者は観察されるものつまり恐怖と何か異なるのでしょうか? 観察者は恐怖です。そしてそのことが実感されるときもはや恐怖を免れようとする努力の中でのエネルギーの浪費はなく、観察者と観察されるものの間の時空の隔たりは消えます。自分が恐怖の一部であり、それと別のものではないことを ― 自分が恐怖であることを ― 見るとき、あなたはそれについて何もすることはできません。その時恐怖は完全に終わります。

(5章 終わり)


[25691] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/07/22(Sun) 18:54  

自発的で楽しんで過ごしなさい。完璧でなくていい10%それができれば悟れる。


[25690] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/07/22(Sun) 18:50  

青空にとけていきそうだ。


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