雑感
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[24287] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/25(Fri) 10:20  


自由とは深さだ。どんな不快なものにも入っていける自在さなんだ。


[24286] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/25(Fri) 10:04  


「空」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり

もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり

空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん

空間に象と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし

長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず

「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表わされ得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり

からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん

真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに

いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり

切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラーに於いて
人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり

解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり

ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行ないへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし

二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王者の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏むもの、ブッダフッドに至らん

はかなきかなこの世
幻や夢のごと、そは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん

木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん

心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見いだすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし

与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハムドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマタへと溶解し
自己意志と傲慢は無の中に消滅せん

至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり

はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ


[24285] 愚さンの対話 投稿者:外野 投稿日:2017/08/25(Fri) 09:17  

愚さんと南方さんの対話、参考になりました。
思わず「なるほど」と膝をたたきました。まさに腑に落ちる。

「でも、あえて言わせてもらえれば、そこには強烈な経験はありまえんが、みんな一つだという実感があり安らぎを覚えるのも事実です。」

「 一つだという実感を求めちゃダメなんです。
 そうじゃなくて、分離しているという感覚に 注意するわけです。
 無理がないでしょ?
 そして、この分離しているという感覚と、その感覚を感じる主体が最初は別れているのですが 注意しているうちに、感覚しかなくなります。
 すると、感覚が消えます。そのとき、おのずからひとつになります。」






[24284] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/24(Thu) 23:37  

クリシュナムルティが面白いこと言ってる。『道徳教育を超えて』の中で。あれはいい本だ、一度読め。その中で、あるアメリカ人のヒッピーの女の子と対話したことについて書いてある。そのヒッピーの女の子っていうのは、ある男と結婚して、子供ができた。で、別れて。当然だ、今の時代じゃ。折れるっていうことを知らないから。で、彼女はラマ僧か何かになった。子持ちのね。そしてクリシュナムルティが聞くんだ。君の子供をどうしたの? そしたら、ネパールのヒッピーコミューンに預けたというんだ。それで、クリシュナムルティが言うんだ。それはとても恐ろしいことじゃない? だって母親の愛情が全然通わないじゃないか! そしたら彼女は言うんだ。神様が守ってくれるだろうって。馬鹿言っちゃいけない! いい? 自分の子供を自分が育てて自分が愛さなかったら、一体誰が愛するんだ? 神っていうのは、自分の愛するっている行為の中に流れているそのものなんだぞ! それを怖がりもしないなんていうのは、全然逆だ。それは宗教でも何でもない。自分が守るんだ! だって子供は願ってるじゃないか。自分の母親がいつも自分のことを気にかけてくれることを。放っておいたら神様が何とかやってくれる? (笑い)人間のトリックだ、自我がでっち上げた。放っておいたら神様が何とかやってくれるっていう風に言えるまでにはね、君たちが全身全霊でその問題にあたって、その不安や、その嘆きや、その緊張や、その努力や、それを全部舐めた後だ。そしたら、放っておくなんて言う必要もないくらい、やってくれる。


[24283] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/24(Thu) 23:36  

保育園は犯罪である。


[24282] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/24(Thu) 23:32  

魚座の時代ではさ、相手が納得しようがしまいが、とにかく救ってやろうとして、無理やりひきずりこむようなものなんだ。ちょうど、泉があるとするでしょ。そうすると、その泉に人を連れてゆくことができるわけさ。俺は泉の水を飲んだことがある。じゃあ皆を連れてゆく。連れる時点からさ、わざわざ手をとって、僕はまだ行きたくないんだというのを、無理やり連れて行ってさ、おまけに、その泉までついたらさ、無理やり僕飲みたくないというのを、ばか、飲め!こういう感じ(笑)これが魚座の時代のグルの姿なの。

 現代の、つまり水瓶座時代のグルの姿というのは、どういうのかというとね、さあ、あすこに、ここに、泉があるよ。それだけ。で、あと、彼自身がそこまで歩いて、彼自身が飲みたくなるのをただ見ているだけ。

 で、それはどうしてかというと、魚座の時代は愛の時代であり、水瓶座の時代は自由の時代だから。この愛と自由というのが、完全に調和したかたちで現われた時にね、僕たちは全く、今まで一度も人類史上経験した事のないようなすてきな時代を経験することができる


[24281] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/24(Thu) 21:14  

安らぎとは、個が全体にきえさったときに起こる。


[24280] Re:[24279] [24277] [24276] [24253] 愚さんの言葉 投稿者:ゴト 投稿日:2017/08/24(Thu) 17:21  

> > > > 煩悩即菩提
> > > >
>
> > > この愚さんの言葉はゴトさんの言われていることを代弁しているように思います。
> > > ゴトさんは「見る」「気づく」をよく使われるが、ここの「腑に落ちる」という言葉の方がぴったりくると思いますが、どうなんだろう。
> > > もし、愚さんの言葉とクリシュムルティの言葉と違うとすれば、どこが違うのだろう。
> > > 彼はクルシュナムルティよりも禅が主体です。ただ座れ。
> > >
> > > 禅とは古くから伝わる伝統的な修業形式。クリシュナムルティは伝統的なものを否定している。生活即瞑想。
> > >
> > > 禅の人いわく、それはわかるがむずかしい。まず形から。
> >
> >
> > 形からというとこで修行が残っていますね。
>
>  以下の言葉を読みますと、やはりあなたの独学でしたね。愚さんの言ってることは、よくわかりますが、あなたのいってることはよくわからない。見る、聞くだけでは。
>  聞くだけ無駄でした。もう伺いません。人のいっていることには興味ないようです。参考にもしない。
>  私自身、本を一人読むだけでは、独善的になりやすく、自己流の解釈になりやすい。そこでKの訳者である何人かの人に伺った。高橋氏、大野氏、森本氏、藤仲氏、飯尾もそうです。皆それぞれニュアンスが微妙に違う。
>  禅をやってる人に何人か、お聞きしましたが、正直いってKの言っていることは難しいという正直感想。
>  自身の感想は、見る、聴くは即座だが、持続は困難ということです。
>  だったやらない方がいいという結論。
>  Kの気づきなど一切やりません。又、Kはやれともいっていない。
> >
> > 日常生活の中で、判断・解釈なしに(ただ)見ている、聴いている、知覚している。そこから行為が出る。
>
>  ですから、具体的にどういうことですか。見る聞くなら、だれでもやってます。それと何が違うの?


{判断・解釈なしに(ただ)}見ている、聴いている、知覚している。この{ }の中の言葉をあなたは無視して、見る、聴くなら誰でもやっているという。この{ }の中はそれほど簡単ではないです。

それは本当に重大な時こそ、判断なしに見ることが必要なのであって、では普段はどうでもいいというわけではありませんが、何というか、注意はおのずとされているようになるのです。Kの本を関心を持って読んでいれば自ずとそうなります。

それからそれを持続するという事をひどく重視していますが、それは達成願望にとらわれています。(ゲームのように勝ったり負けたりしながら進んでいけばいいとKが言っています)。

> > やり始めのうちは、実際はそうはいかないで種々の反応が出てくる。それもできるだけ心のうちで見ている。そのようにただ見、聴き、知覚している状態が聖なる全体です。
>
>  やはり「見る」ことを実践するということですか。あきらめずに。

そう言うと従来の伝統と同じになってしまいます。そこに成り行こうとする過程が入っているのです。努力と挫折の過程です。
そのことが、だれかが言ったからではなく、自ずと自分のこととして見いだされると理解があります――それがが理解です。

> >
> > 私の言う事はこれに尽きます。
>
>  はい。ぼとぼちあせらずに。
> >
> > 蛇足で言えば、心理的思考の創り出すゆがみは果てしなく増殖して世界に混乱を生んでいます。これは世界の人が気づいて何とかしなければならない課題です。
> > さもなければ人間社会はバベルの塔のように崩れ落ちるでしょう。
>
>  何でいつも世界のことを心配するのか。憂うのか。私など身の周りの雑事をこなすだけでせいいっぱい。

ようやく周りのことが見えだしてきたからかな。心配しているのではないですが。

> >
> > もう一つ、大乗仏教は哲学的発展の上に出来上がっています。それで思考で理解するにも修業が、時間がかかります。下手をすると頭でっかちになります。禅は日本で一番発展したと言っていいものですが、なお結構難しい古典的な述語があります。
>
>  仏教を勉強しましたか。

まあ、ある程度読んでいます。

> > Kは術語を使わず、日常単語で話しています。その語に深い意味がないとは言いませんが、そこは読む人が感じ取っていくしかありません。
> > 大いに感じましょう。
>
> どうも「信念」をお持ちのようですね。これしかないと。人が何いようとこれでいく。

私は独学ではありませんよ。Kの本を読んだし、新しい芽さんに教わっています。F氏にもです。まさかグルめぐりをしなければだめだとおっしゃるのではないでしょうね。


[24279] Re:[24277] [24276] [24253] 愚さんの言葉 投稿者:外野 投稿日:2017/08/24(Thu) 14:18  

> > > 煩悩即菩提
> > >

> > この愚さんの言葉はゴトさんの言われていることを代弁しているように思います。
> > ゴトさんは「見る」「気づく」をよく使われるが、ここの「腑に落ちる」という言葉の方がぴったりくると思いますが、どうなんだろう。
> > もし、愚さんの言葉とクリシュムルティの言葉と違うとすれば、どこが違うのだろう。
> > 彼はクルシュナムルティよりも禅が主体です。ただ座れ。
> >
> > 禅とは古くから伝わる伝統的な修業形式。クリシュナムルティは伝統的なものを否定している。生活即瞑想。
> >
> > 禅の人いわく、それはわかるがむずかしい。まず形から。
>
>
> 形からというとこで修行が残っていますね。

 以下の言葉を読みますと、やはりあなたの独学でしたね。愚さんの言ってることは、よくわかりますが、あなたのいってることはよくわからない。見る、聞くだけでは。
 聞くだけ無駄でした。もう伺いません。人のいっていることには興味ないようです。参考にもしない。
 私自身、本を一人読むだけでは、独善的になりやすく、自己流の解釈になりやすい。そこでKの訳者である何人かの人に伺った。高橋氏、大野氏、森本氏、藤仲氏、飯尾もそうです。皆それぞれニュアンスが微妙に違う。
 禅をやってる人に何人か、お聞きしましたが、正直いってKの言っていることは難しいという正直感想。
 自身の感想は、見る、聴くは即座だが、持続は困難ということです。
 だったやらない方がいいという結論。
 Kの気づきなど一切やりません。又、Kはやれともいっていない。
>
> 日常生活の中で、判断・解釈なしに(ただ)見ている、聴いている、知覚している。そこから行為が出る。

 ですから、具体的にどういうことですか。見る聞くなら、だれでもやってます。それと何が違うの?
>
> やり始めのうちは、実際はそうはいかないで種々の反応が出てくる。それもできるだけ心のうちで見ている。そのようにただ見、聴き、知覚している状態が聖なる全体です。

 やはり「見る」ことを実践するということですか。あきらめずに。
>
> 私の言う事はこれに尽きます。

 はい。ぼとぼちあせらずに。
>
> 蛇足で言えば、心理的思考の創り出すゆがみは果てしなく増殖して世界に混乱を生んでいます。これは世界の人が気づいて何とかしなければならない課題です。
> さもなければ人間社会はバベルの塔のように崩れ落ちるでしょう。

 何でいつも世界のことを心配するのか。憂うのか。私など身の周りの雑事をこなすだけでせいいっぱい。
>
> もう一つ、大乗仏教は哲学的発展の上に出来上がっています。それで思考で理解するにも修業が、時間がかかります。下手をすると頭でっかちになります。禅は日本で一番発展したと言っていいものですが、なお結構難しい古典的な述語があります。

 仏教を勉強しましたか。
>
> Kは術語を使わず、日常単語で話しています。その語に深い意味がないとは言いませんが、そこは読む人が感じ取っていくしかありません。
> 大いに感じましょう。

どうも「信念」をお持ちのようですね。これしかないと。人が何いようとこれでいく。


[24278] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/24(Thu) 13:32  

実際の瞑想者であり、修行者でないひとが、瞑想を語っても、あまり説得力ない。

私は、10年瞑想を続けているので、言えるが、実際の瞑想は、結構、体力的にもしんどいし、生易しいものじゃない。


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