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[24136] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/12(Sat) 23:08  

テレパシーも菩薩の境地の特徴である。


[24135] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/12(Sat) 23:07  

他人の心を(自分の心として)洞察する力(他心通)
「情欲に満ちた心であるか否かを知ることができる」
「憎しみをいだいた心であるか否かを知ることができる」
「迷いのある心であるか否かを知ることができる」
「集中した心であるか否かを知ることができる」
「寛大な心であるか否かを知ることができる」
「平凡な心であるか否かを知ることができる」
「安定した心であるか否かを知ることができる」
「解脱した心であるか否かを知ることができる」


[24134] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/12(Sat) 22:22  

気づきの少ないひとを愚者というのであって、無自覚なことを愚かさと呼ぶのであって、単なる適応力としての知能の高低ではない。


[24133] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/12(Sat) 22:16  

個人的無意識に意識が到達すると、無意識的なところがなくなる。

覚醒がおこるのは、この末那識のレヴェル。




[24132] Re:[24123] アウェアネス 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/12(Sat) 22:11  

> アウェアネスをウィキで調べてみました。他の辞書でも出ています。クリシュナムルティは専門用語は使わないということなので、一般の意味で使われていると察します。すると、次の引用箇所を紹介するが、どういう意味になるのだろう。私たちが普段使う「気づき」の意味ではなく、もう少し深い意味になるのだろうか。
>
>
> 「アウェアネス(英: Awareness)または気づきは、主に意識に関わる研究の文脈で使われる学術用語で、人が何らかの情報にアクセスできて、その情報を行動のコントロールに利用できる状態のこと[1]。具体的には例えば「赤い色が見えている」ことに気づいていてそれを言語で報告できる状態(視覚的アウェアネス)、「自分がある種の感情を持っている(怒り、喜び、鬱など)」ということに気づいていてそれを言語で報告できる状態、「自分が存在する」ということに気づいていてそれを言語で報告できる状態(自己認識)、などのことを意味する。
> 人間は自分の脳内で行われている処理であっても、そのすべてに関して気づきを持っているわけではない。むしろ逆にほとんどの処理は気づきを伴わず進行する(これは一般に無意識と呼ばれる)。」
>
>  Kの本を読むとき、前後の文脈から読む解くしかなさそうです。
>




顕在意識 意識

個人的無意識 末那識

集合無意識 阿頼耶識

宇宙意識 阿摩羅識

絶対意識 ケンリツダヤ職


kは個人的無意識まで到達した。



[24131] Re:[24127] [24119] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/12(Sat) 21:56  

> > 1 知識を達成した状態とはどのようなものでしょうか?
> >
> > 自己の内に、努力せずして堅固に在る状態である。
> > 自己と一つのものになった心は、どんなときにも
> > 再び以前のように立ち現れることはない。
>
> 自己という言葉がここではまだわからない。
>
> > すべての人々は、自然にいつでも「自分は山羊ではなく、
> > 牛ではなく、その他の動物でもなく、人間である」と
> > 思っている。
>
> ここでは自分は普通に解釈して、すべてよくわかる。
>
> > それと同じように、知識を達成した人は、自分の肉体に
> > ついて想いを馳せるときでも「この自分は身体とともに
> > 始まる原理(タットヴァ)ではなく、
> >
> > 音声(ナーダ)とともに終わるものでもなく、存在-意識-
> > 至福の自己である」と思っている。
>
> まず知識を達成した人という意味が見当がつかない。
> その上に立つことができた人は体と共にある原理に基づいて作用し、寿命を終わる存在とは思わず、存在―意識―至福の自己であると思っているという事ですか。
>
> ええと、これは、最後はKの再誕生にも触れているが、あなたの知っている団体の教義や情報の伝達であると聞けばいいのかな。
>
> > このように自分を本来の自己-意識(アートマ・プラジュニャー)
> > と知るとき、人は堅固な知識に到達したと言われる。
>
> あなたの生きている声が聴きたいが。するといつか来た道になるのかな、どうなのかな?


kは四段階までいった。私はいかなる教団にもぞくしてないが、彼の教えのレヴェルを見ればわかる。


[24130] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/12(Sat) 21:54  

今を置き去りにして、未来のために今を犠牲にしたところから、欺瞞が始まる。


[24129] Re:[24128] [24126] [24121] [24117] [24105] [24100] [24099] 実在とは? 投稿者:宮啓 投稿日:2017/08/12(Sat) 20:36  

> > > > > この相互依存性とでも言うべき性質は個別的な実在を否定すると言っていいだろうか?生の全体性と言うしかないのだろうか?
> > > >
> > > >
> > > >  観念として「実在している」と言うことと、実在していることを体感することは別なのかもしれません。
> > > >
> > > >  現代科学において、観念としての「生の全体性」は確立済みです。あとは、体感すること。クリシュナムルティはただ、それだけを示しているのかもしれません。
> > >
> > > 現代科学は、観念としての「生の全体性」は確立済みであるとの事。そうなんですか。確かにそうなのでしょう。科学の大きな分野の人々が連携しあって議論し、実証し、さらに知見を深めています。その結果は広範な人に広まっています。
> > >
> > > それが政治社会にどう影響していくか、しかし私はそう長くは見れないでしょうが。
> >
> >
> >  「生の全体性」に自然科学が気づいたとしても、それが社会に反映されることが無いということは、「観念」としてそれに気づいたという証拠ということではないでしょうか。
> >
> >  これが「観念」ではダメだとクリシュナムルティが口酸っぱく述べた理由ではないでしょうか。「観念」で「生の全体性」が分かっても、「分かっちゃいるけど・・」となるということです。
> >
> >  だから、観念で、世界を説いても、愛を説いても、神を説いても、その説いている本人自体が変わることがなく、自身の不幸を延長させていっている。
> >
> >  変容のためには、自然科学の観念としての「生の全体性」ではなく、クリシュナムルティが述べるところの、体感としての生の全体性。
>
> 昔から宗教の中心に至福、幸い、神人合一、あるいは悟りの境地、時を超えた(永遠の)存在などの観念があります。
> これは安全安心を願う心の投影そのものなのでしょうか?
> Kは身近なところから始めなさいと言います。
>
> 戦争は結局個別の心・意識の奉じるところの、これは譲れないというところから来るのではないかと思います。ちょっとした過去の紛争の拡大です。それを解けない宗教も政治もどこかで方向が違っているのです。
>
> それを誰にも明確にわかるようにしたいのですが、どうしてこんなに縺れているのでしょう?


 まず、クリシュナムルティの陳述内容が科学的な事実であることが、明確に人々に伝わっていないと思います。

 自然科学は「生の全体性」を実証的に確立しているにもかかわらず観念形成に留まっています。

 これをクリシュナムルティの陳述をフルに活用して、観念的な事柄から体感的な真理へと、個々の内面において定着させたいものです。

 クリシュナムルティの本は一定以上読まれているにも関わらず、これが更に広がる気配を見せないのは、その読者が観念形成に留まっていることを暗示しているように私には感じられます。

 その観念に留まっているクリシュナムルティ読者が、よく口にすることは、「クリシュナムルティの裾から離れて、自身の言葉で語れ・・」です。

 それに対して、私はよく「クリシュナムルティの陳述内容の理解なしに、クリシュナムルティの裾から離れることは、絵に描いた餅になるのではないか・・」と、指摘しております。


[24128] Re:[24126] [24121] [24117] [24105] [24100] [24099] 実在とは? 投稿者:ゴト 投稿日:2017/08/12(Sat) 19:19  

> > > > この相互依存性とでも言うべき性質は個別的な実在を否定すると言っていいだろうか?生の全体性と言うしかないのだろうか?
> > >
> > >
> > >  観念として「実在している」と言うことと、実在していることを体感することは別なのかもしれません。
> > >
> > >  現代科学において、観念としての「生の全体性」は確立済みです。あとは、体感すること。クリシュナムルティはただ、それだけを示しているのかもしれません。
> >
> > 現代科学は、観念としての「生の全体性」は確立済みであるとの事。そうなんですか。確かにそうなのでしょう。科学の大きな分野の人々が連携しあって議論し、実証し、さらに知見を深めています。その結果は広範な人に広まっています。
> >
> > それが政治社会にどう影響していくか、しかし私はそう長くは見れないでしょうが。
>
>
>  「生の全体性」に自然科学が気づいたとしても、それが社会に反映されることが無いということは、「観念」としてそれに気づいたという証拠ということではないでしょうか。
>
>  これが「観念」ではダメだとクリシュナムルティが口酸っぱく述べた理由ではないでしょうか。「観念」で「生の全体性」が分かっても、「分かっちゃいるけど・・」となるということです。
>
>  だから、観念で、世界を説いても、愛を説いても、神を説いても、その説いている本人自体が変わることがなく、自身の不幸を延長させていっている。
>
>  変容のためには、自然科学の観念としての「生の全体性」ではなく、クリシュナムルティが述べるところの、体感としての生の全体性。

昔から宗教の中心に至福、幸い、神人合一、あるいは悟りの境地、時を超えた(永遠の)存在などの観念があります。
これは安全安心を願う心の投影そのものなのでしょうか?
Kは身近なところから始めなさいと言います。

戦争は結局個別の心・意識の奉じるところの、これは譲れないというところから来るのではないかと思います。ちょっとした過去の紛争の拡大です。それを解けない宗教も政治もどこかで方向が違っているのです。

それを誰にも明確にわかるようにしたいのですが、どうしてこんなに縺れているのでしょう?


[24127] Re:[24119] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/08/12(Sat) 17:58  

> 1 知識を達成した状態とはどのようなものでしょうか?
>
> 自己の内に、努力せずして堅固に在る状態である。
> 自己と一つのものになった心は、どんなときにも
> 再び以前のように立ち現れることはない。

自己という言葉がここではまだわからない。

> すべての人々は、自然にいつでも「自分は山羊ではなく、
> 牛ではなく、その他の動物でもなく、人間である」と
> 思っている。

ここでは自分は普通に解釈して、すべてよくわかる。

> それと同じように、知識を達成した人は、自分の肉体に
> ついて想いを馳せるときでも「この自分は身体とともに
> 始まる原理(タットヴァ)ではなく、
>
> 音声(ナーダ)とともに終わるものでもなく、存在-意識-
> 至福の自己である」と思っている。

まず知識を達成した人という意味が見当がつかない。
その上に立つことができた人は体と共にある原理に基づいて作用し、寿命を終わる存在とは思わず、存在―意識―至福の自己であると思っているという事ですか。

ええと、これは、最後はKの再誕生にも触れているが、あなたの知っている団体の教義や情報の伝達であると聞けばいいのかな。

> このように自分を本来の自己-意識(アートマ・プラジュニャー)
> と知るとき、人は堅固な知識に到達したと言われる。

あなたの生きている声が聴きたいが。するといつか来た道になるのかな、どうなのかな?


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