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[24121] Re:[24117] [24105] [24100] [24099] 実在とは? 投稿者:ゴト 投稿日:2017/08/12(Sat) 12:21  

> > > > 実在とは何かが今気になっています。
> > > >
> > > > 私のような普通の常識人にとっては、人でも猫でも、碁盤や碁石も、チョコレートでもみんな実際にあるものです。
> > > >
> > > > チョコレートなど食べればなくなりますし、猫も人も寿命はあります。
> > > >
> > > > 実在というものは初めも終わりもないものでしょうか?
> > > >
> > > > これは宗教的、あるいは精神的なもので、現実的には言語化できないものでしょうか?
> > > >
> > > > 心の動きなしに、タイムレスの状態で見、聴き、感じている時見えているものが実際にある(あるいは、今生起している)ものという事で、いいでしょうか?
> > > >
> > > > このマインドの動きなしに見ている状態の純度が99%とか、99,9999%、いや、そういうことはなくオンかオフだとかは気にしてはいかんのでしょうね。
> > > >
> > > > ただ、マインドの動きに気づいている。
> > >
> > >
> > >  実在とは、どうも在るような気がするが・・、よく分からない・・。本当に知らないもの・・。だけれども、どうも在るように感じてしょうがない・・。
> >
> > 個々のもの―人間の個人のみならず、生物や物質にの個々のものにおいても―それらは実在するように思う。
> >
> > だがよく見ると、細胞から量子論的領域に入ると、それらは得体のしれないものと化し、個は全体性の中に埋没してしまう。
> >
> > 人は大宇宙を眺めて自分の身の微小さに儚さを感じるかもしれない。しかし人の身に6〜70兆もある細胞は小さいながら血液が運ぶ酸素や栄養を摂取し、遺伝子を解読して各種たんぱく質を作り、それを適応すする個所に送り、老廃物を排出するいわば生きているミクロコスモスである。
> >
> > 人間は細胞より、階層が上の(独立性の高い)生き物と言えるだろうが、尚且つ、その環境と切り離されては生きていけない。
> >
> > この相互依存性とでも言うべき性質は個別的な実在を否定すると言っていいだろうか?生の全体性と言うしかないのだろうか?
>
>
>  観念として「実在している」と言うことと、実在していることを体感することは別なのかもしれません。
>
>  現代科学において、観念としての「生の全体性」は確立済みです。あとは、体感すること。クリシュナムルティはただ、それだけを示しているのかもしれません。

現代科学は、観念としての「生の全体性」は確立済みであるとの事。そうなんですか。確かにそうなのでしょう。科学の大きな分野の人々が連携しあって議論し、実証し、さらに知見を深めています。その結果は広範な人に広まっています。

それが政治社会にどう影響していくか、しかし私はそう長くは見れないでしょうが。


[24120] 「見る」ということ。 投稿者:外野 投稿日:2017/08/12(Sat) 11:39  

又、コメントしたくなったのでお邪魔させていただきます。もうしわけありません。この外野(ガイヤ)というのは当事者以外という意味です。K関連以外の当事者。ここに出てくる人はKの「信奉者」。私は違うという意味で。

> 私は禅の定を知りませんが、心(マインド)の動きをわきに置いて見ているという事は同じでしょう。そのため公案から入るとか、ひたすら座すところとかありますね。それで意識的に入るところが違うのでしょうか?

 禅というのは、自身の心をありのままに見つめていることとして理解しています。それを形に顕したのが座禅。
 何回か禅道場にお邪魔したことがあるが、座禅だけが禅だけではなく、以外の日常も禅生活。食事のときも、掃除の時も、トイレに入る時も、自身の心を見つめる。
 トイレ掃除を言われたとき「あ、やりたくないなあ」という否定な心が即座にわかる。
 心を見つめるということは意識的に見ることと同じ。
 自身の心の動きや動作の一挙手一挙足をつぶさに見つめる。
 もし、意識的に見ることをしないとなれば、道場に来た意味がない。
 人間の行動というのは、無意識に無自覚で慣れしんだ長年身に付いた習慣的思考で普段は行動している。
>
> 私も意識的に集中して「見る」ことを欲しがってやったのですが、これは違うと感じたし、欲望がぎらぎらという感覚もわかったので、そしてなによりKが、意識するとき自己が強化されるという事をしっかりと述べてくれていたので、
 何で意識するとき、自己が強化されるのでしょうか。ここで自己というのは自我、つまりエゴということでしょうか?
 だいいち意識しないと、良くは見えないでしょう。ただ見てるだけでは。
 我々の日常は、よくみてません。ただ見てるだけです。関心ないから。関心が生じれば、立ち止まって、「そのもの」をよく見ます。
 関心興味が生じなければ、見てるだけです。認識もなく。それが私達の日常。
>ひょいと見え始めてという感じで入っていきました。



>意識的認識というのは少なくとも一瞬後で、あるいはかなり後であれがそうであったかという感じです。
> 即時の理解というのも同じで後のことです。

後だったら即時の理解ではないのでは。
意識的に見なければ,気づいたということもわからないのでは。
今、周りでたくさんの音がしてますが、即座に聞こえます。そうではないですか。一瞬あとではないでしょう。
たくさんの音の中で、わかる音もあれば、わからない音もある。いずれにせよいちいち言語化しない。わからない音があるとき、何の音か認識が遅れることはあります。
>
> >  私は未だ、ゴトさんが述べるような「全的に見る」ことが、すぐにはできないようです。

 これは宮啓氏のコメントですが、こういったコメントが出てくること自体がわからない。
 「全的に見る」ということについて何をイメージしてるのか。
 すぐにできない?
 この件について、この掲示板で、ゴトさんが再三述べていることではないでしょうか。
> >
> >  ボチボチ、生のさ中でやってゆくことを心がけています。

 「全的に見る」ということをボチボチやる?
 「見る」というのは即座でやって「時間」ではない。
>
> 「見る」という心のものが忘れられて生きているなら、実は見て、気づいて生きているかもしれず、それが学びの姿でしょう。

 ?
 「見る」「気づいている」「知覚している」というのは人の基本的な機能。
出来る出来ないの話ではない。毎日こうして生きているわけだから。

 毎日の日常生活で私たちの思考と感情と感覚が経験が習慣的な「とりこ」になっているかいなかの問題。
 日常的な習慣に陥っているとすれば当然毎日毎日新鮮には生きられない。
 あらゆる種類のものに漠然と関心が失われていて、感覚も知性も身体までも麻痺している状態に陥っている。理解力は透明さを欠き、あらゆる出来事が重苦し連鎖に感じてしまう。そして自身さえもこの中で見失われる。
 こうしたマンネリ状態を打破するには「意識的に見る」ことが肝要。
 今の私の思考と感情の感性に身を置いているということを、しっかりと自覚して、心の習慣を克服し、自身の心に新たな経験の可能性に対する関心を与えることであり、その関心こそが最大の基礎と思われます。

 イエスの自身の想念に対して「寝ずの番人をせよ」と言った意味がわかる気がします。たやすいことではないですが。
 さらにイエスは、人間は、起きていて見ていない状態ともいいます。まさにはっきり見ていない。目覚めていない。そこではっきり「見る」ことを強調する。意識的に。
 たしかに私たちの日常は見ているようで見ていない。漠然とした関心しか払っていない。


[24119] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/12(Sat) 11:11  

1 知識を達成した状態とはどのようなものでしょうか?

自己の内に、努力せずして堅固に在る状態である。
自己と一つのものになった心は、どんなときにも
再び以前のように立ち現れることはない。

すべての人々は、自然にいつでも「自分は山羊ではなく、
牛ではなく、その他の動物でもなく、人間である」と
思っている。

それと同じように、知識を達成した人は、自分の肉体に
ついて想いを馳せるときでも「この自分は身体とともに
始まる原理(タットヴァ)ではなく、

音声(ナーダ)とともに終わるものでもなく、存在-意識-
至福の自己である」と思っている。

このように自分を本来の自己-意識(アートマ・プラジュニャー)
と知るとき、人は堅固な知識に到達したと言われる。


2 聖者(ジュニャーニ)は、知識の七つの段階(ジュニャーナ・ブーミカ)
のどこに属すのでしょうか?

彼は第四番目に属する。

(原注)
知識の七つの段階(ジュニャーナ・ブーミカ)とは以下のとおり。

@シュベッチャー=光明への発願
Aヴィチャーラナ=探究
Bタヌマーナサ=微細な心
Cサトワーパティ=自己実現
Dアサンシャクティ=無執着
Eパダールターバーヴァナ=対象物を認識しないこと
Fトゥリャーガ=超越

このうち、終わりの四つのブーミカに到った人はそれぞれ、
Fブラーマヴィッド・ヴァリシュタ、
Eブラーマヴィッド・ヴァリア、
Dブラーマヴィッド・ヴァラ、
Cブラーマヴィッド、と呼ばれる。


3 だとすれば、その後にさらにすぐれた三つの段階がある
のはなぜでしょうか?

第四段階から第七段階までは、それぞれ解脱した人
(ジーバンムクタ)の経験による違いである。

これらは、知識および解放の段階ではない。
知識と解放に関するかぎり、これらの四段階には
いかなる違いもない。


4 解放は四段階のすべての人に共通に与えられているのに、
なぜヴァリシュタ(最もすぐれた段階)だけが過分に称賛され
るのでしょか?

ヴァリシュタに共通の至福経験に関して言えば、
彼はただその前世に得られた特別の美徳によって称賛される。




kは4番目までいったので解脱はした。

現在は、人類に奉仕するためにマドゥラスに転生して今生で5番目に到達するだろう。


[24118] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/12(Sat) 10:48  

肉体 
アストラル体 感情
メンタル体 具体的思考
マナス体  観念
ブッディ体 知覚
アートマ体 集合無意識
真我 宇宙意識
神 絶対意識

kはブッディまではいった。

現代科学も、いずれ、知覚まではいくだろう。


[24117] Re:[24105] [24100] [24099] 実在とは? 投稿者:宮啓 投稿日:2017/08/12(Sat) 09:10  

> > > 実在とは何かが今気になっています。
> > >
> > > 私のような普通の常識人にとっては、人でも猫でも、碁盤や碁石も、チョコレートでもみんな実際にあるものです。
> > >
> > > チョコレートなど食べればなくなりますし、猫も人も寿命はあります。
> > >
> > > 実在というものは初めも終わりもないものでしょうか?
> > >
> > > これは宗教的、あるいは精神的なもので、現実的には言語化できないものでしょうか?
> > >
> > > 心の動きなしに、タイムレスの状態で見、聴き、感じている時見えているものが実際にある(あるいは、今生起している)ものという事で、いいでしょうか?
> > >
> > > このマインドの動きなしに見ている状態の純度が99%とか、99,9999%、いや、そういうことはなくオンかオフだとかは気にしてはいかんのでしょうね。
> > >
> > > ただ、マインドの動きに気づいている。
> >
> >
> >  実在とは、どうも在るような気がするが・・、よく分からない・・。本当に知らないもの・・。だけれども、どうも在るように感じてしょうがない・・。
>
> 個々のもの―人間の個人のみならず、生物や物質にの個々のものにおいても―それらは実在するように思う。
>
> だがよく見ると、細胞から量子論的領域に入ると、それらは得体のしれないものと化し、個は全体性の中に埋没してしまう。
>
> 人は大宇宙を眺めて自分の身の微小さに儚さを感じるかもしれない。しかし人の身に6〜70兆もある細胞は小さいながら血液が運ぶ酸素や栄養を摂取し、遺伝子を解読して各種たんぱく質を作り、それを適応すする個所に送り、老廃物を排出するいわば生きているミクロコスモスである。
>
> 人間は細胞より、階層が上の(独立性の高い)生き物と言えるだろうが、尚且つ、その環境と切り離されては生きていけない。
>
> この相互依存性とでも言うべき性質は個別的な実在を否定すると言っていいだろうか?生の全体性と言うしかないのだろうか?


 観念として「実在している」と言うことと、実在していることを体感することは別なのかもしれません。

 現代科学において、観念としての「生の全体性」は確立済みです。あとは、体感すること。クリシュナムルティはただ、それだけを示しているのかもしれません。


[24116] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/12(Sat) 01:25  

kは慈悲まではいった。菩薩まではいった。

しかし、如来まではいかなかった。


如来は、さらに完全な自由と調和を達成する必要がある。


釈迦や孔子は、菩薩のエクスタシーさえも超えた完全な無思考の自由の境地にあった。


[24115] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/12(Sat) 01:20  

愛着の正体は憎悪であり、憎悪は愛情に成熟する。

愛情は悲しみであり、悲しみは愛へと深まる。



[24114] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/12(Sat) 01:16  

新しい芽や、ここにいる人たちは、至福まで到達できてないのは、所詮言葉が思考的で暴力的であることに無自覚なんだな。

新しい芽は、幸福までは到達したが、至福まではいってない。

いまのubikさんはいってる。

私と、potanpotanさんは、そっちのほうに片足かけてる。

愛着 安心 意志

愛情 幸福 情熱

愛 至福 慈悲


この三つが愛の成熟度合いのレヴェルだ。





[24113] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/08/12(Sat) 01:14  

YHWHさんはスピ−ドが速すぎてテンポが合わないな〜。
こんばんは寝ます。おやすみなさい。


[24112] Re:[24104] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/08/12(Sat) 01:04  

> 煩悩を持ったままで解脱できるんだよ。
>
> ありのままでいいんだよ。
>
>
> そのありのままに感じてる君が菩薩なんだよ。
>
>
> ということをいっている。


「ありのまま」というところから入りたいのですが、「ありのまま」とは現実のままという事でいいのかな。私はそういう意味で使っています。

「ありのままに感じる」とはどういうことなのだろう。
「ありのままに感じる」という事はストレートに(トルーに)見ている、感じているという事に思います。それは確かに菩薩の境地です。
しかし、普通の人の現実はストレートに感じていません。偏見が入っています。思考が干渉しています。つまり、ストレートに感じていないのが普通人の「あるがまま」の姿ではないでしょうか?


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