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[24798] 人間の宇宙における位置 投稿者:ゴト 投稿日:2017/11/13(Mon) 19:13  

皆様の投稿を読ましております。

人間は生物、動物ですが、ほかの生物、動物とは違う特別のものなのでしょうか?

神話によると他の生物は機械的存在であって、人間だけが魂を持っているとか、人間の意識はほかの動物一般とは違う特別の意識であって、真理、あるいは神人合一の境地を目指し、永遠の存在であるとか。

哲学は哲学的にいろいろなことを言ってきた。哲学する人は、当時貴族の一員で、生きることは召使や奴隷が労働をやってくれ、自分は有り余る暇の中で考えることを愛する人であった。

時代が現代になると、すべての人間が大衆が買ってくれる商品を生産せざるを得ない。大衆がまるで神であって、ヒット商品とは言わずとも、何とか気まぐれにでもぼちぼちご嘉納くださる品を考えて献じなければならないような感がある。もちろん自分にそんな気がなくとも、それがともかく誰かの好奇心に適って金が出るとわかれば周りの人が放っておかない。

それで、神とか、真理とか、聖なるものとかは、仮にあるとしてもどうやら思考の範疇にはないと言うことになりそうだ。すると人間が特別なものであるという理由はどうなるのだろう。それとも特別なものではないことになるのだろうか?

今日はちょっとした疑問を書いて、返信に換えさしてください。


[24797] Re:[24792] [24791] [24790] 無題 投稿者:外野席 投稿日:2017/11/13(Mon) 19:00  

これは南方さんのゴトさんへの質問。

> > > ここまでのゴト氏と外野氏の問答からあきらかになったこと。
> > >
> > > 自我の「私」には目が無い。木から目へと見るという視覚作用がある。そして、好き嫌いの反応がある。この反応は、自我の「私」には目が無いことを考えると、見るという一連のエネルギーの異なった作用形態であることがわかる。
> > >
> > > もっと言えば自我の「私」の好き嫌いの反応は過去の記憶を見てくるものであり、現在の見ている木そのものではない。
> >
> >
> >
> > そして反応があった時「誰」がみているか?という問いかけに
> > 業火の中にいることはわかるのではないか?という答え。
> >
> > 反応があってそれでおしまい。それをどうこうしようとすると
> > 「なろう」とすると分離した私が出てくる。それは過去の産物。心理的二元性の始まり。ではどうすれば?それも過去の産物の私を産み出す。こういうループに気づきましょうということはKは言っているのですか?

以下はゴトさんの答え
>
> 反応をどうこうしようとすることなしに見ている、よく感じていることがすべてです。それが理解です。
>
> 反応は頭の中だけで見られていることもあるし、咄嗟に声なり何なり表に出るのもあるでしょう。その分離をもたらすときは思考が行動の主体になっているわけです。
>
> しかし、気づきの知覚がしっかりと見られている時は主体は思考ではなく気づき、知覚であるわけです。その時理解があります。仏教の言葉で言うと妙観察知が働きます。心は全体、自分の全組織のみでなく、周囲にも働くようです。そしてその反応も自分を理解し消えていくようです。それはその場ではなく、のちにわかることですが。ここに書いたことはKの言った事ではなく、私の観察からの仮説です。

 今の所、南方さんからの返事はないようで。

 ここで、ゴトさんの言葉が気になりました。横からですいません。
 「観察からの仮説」というのはどういう意味ですか。

再録
  反応をどうこうしようとすることなしに見ている、よく感じていることがすべてです。それが理解です。

 (注)これは事実?それとも仮説?

 反応は頭の中だけで見られていることもあるし、咄嗟に声なり何なり表に出るのもあるでしょう。その分離をもたらすときは思考が行動の主体になっているわけです。

 しかし、気づきの知覚がしっかりと見られている時は主体は思考ではなく気づき、知覚であるわけです。その時理解があります。仏教の言葉で言うと妙観察知が働きます。心は全体、自分の全組織のみでなく、周囲にも働くようです。そしてその反応も自分を理解し消えていくようです。それはその場ではなく、のちにわかることですが。ここに書いたことはKの言った事ではなく、私の観察からの仮説です。

 ?

 これは自分自身に起きた事実のことを書いているのではなく「仮説」ということですか。つまり説明?
 Kの言ったこと?ではなく、自論?ですか。
 あなたはこれまでKのいったことを疑いもなくそのまま追随しておられるのではなかったか。意外な言葉です。

 観察とは自身で起きてることを、ただ見てるということではなかったか。






[24796] Re:[24776] 生中の聖なるもの(4) 投稿者:宮啓 投稿日:2017/11/12(Sun) 22:19  

> ゴト: この最後の質問に、Kは思考が意識の内容の一つを聖なるものにしようとすることを、つまり快楽として手に入れようとすること、それゆえそれに聖なものはないことを含みの多い形で答えてくれました。これで補足的質問も併せて今回の公開対話話は終了しました。
>
> (訳者: N.Goto)2001.04.掲載


 この文献はとても重要と感じました。

 私たちは、過去の思い出、幼少の頃の記憶、今は亡き人との思い出、等々を神聖なものにして大切にします。

 心の内容の一部を神聖にする。

 しかし、それは過去に過ぎ去った灰であり、その実態である記憶(電気回路:脳神経回路)そのものは、神聖ではない。

 電気回路ではなく、実体としての神聖はあるのか・・?

 私たちは、「この生の中の聖なるもの」を探求することと、余暇を娯楽で過ごすのと、どちらを選ぶのだろうか・・。

 私は、今日は娯楽で過ごしてしまった。

 クリシュナムルティと一緒に旅に出ることは難しい。

 言葉なしに聞くことは難しい。

  >ありのままのあなたの生を―ありのままの―すなわち、私たちの葛藤、私たちの悲惨、私たちの悲しみを処理するだけであるなら、それの解決のなかに、他のもの(the other)が起こるかもしれないでしょうに。−−、現代文化や現代文明がそれらを処理しているように一見見える、が、>しかしあなたはそれを解決していませんが、他のものを望んでいます。−−、現代文明や文化は娯楽や物質的改善等々によって回避・逃避のネットワークで上手くかわしているだけであって、決して私たちの葛藤、私たちの悲惨、私たちの悲しみを処理してはいないと陳述しているのでしょうか。


 >クリシュナムルティ: 待ってください、私はそれをあなたに示そうとしています。そこで心は思考なしにあることが、そして必要なときに思考を用いることが出来るでしょうか? それは思考がない心が思考を使用し、思考と共に生きることが出来るということです。調和して。一つのものともう一つのものではなく。そしてこれが瞑想です。そのため心は思い違いがありません。そして思い違いはあなたが達成することを望むとき起こります。あなたが「私はそれを獲得しなければならない」と言うとき、するとそのとき、あなたは獲得するものを発明することができ、それを得たと思います。しかし、常にあなたがマントルピースの上のあの木切れを思い出すことが出来るなら―おわかりですか?−−、重要な注意事項。瞑想とその落とし穴。


 >それゆえ私の心、それゆえ私の心全体が神聖です―その内容が神聖なのではなく。私はあなたがこのすべてと出会っているかどうかなと思います―完全に空である心のその性質。そしてその空虚、空間、静寂から思考は作動できます。これはすべて私の描写です、わかりますか―それはあなたのではありません。−−

 >さて、私たちの僅かの人がこれを一緒に見るなら、そしてそれが私のやあなたのものではないなら、しかしそれはそうなのですが、そのとき私たちは新しい世代をつくり出します。そしてそのときあなたは人々を変えることに、権力にある人々の心を変えることに悩まされないでしょう。彼らは変える価値がありません。権力にあるどんな人も腐敗しています。−−

 >私たちの誰かは一緒に旅をしたでしょうか? ある点まで。それは充分でしょうか?−−


 私は一緒に旅することが充分にはできなかったようです。


 >聖なるものを見出すためには、心はそれ自身の全部の内容を知らなければなりません。そしてその内容が意識をつくります。おわかりですか、あなた。意識はその内容です。内容がないなら他の何かがあります。ないでしょうか? 私の心の内容が悩み、憤り、成就を望むこと、苦しさ、心配、恐怖、そんなにも多くの事への恐れ、これやあれをしたいと思うことであるなら、それが私の意識の内容です。内容がないとき、まったく違った何かがあります。そして私たちは内容の一つを聖なるものにしようとします。おわかりですか? それが全部の内容、意識や無意識を知らなければならない理由です。そしてそれは別の問題です。−−


 この文献はクリシュナムルティの核心の要約のようであり、この文献を見つけて翻訳したゴトさんには感心しております。

 それにしても、クリシュナムルティ理解は、何度読んでも、新しく学ぶことが大きくてフレッシュでダイナミックに感じます。

 しかし、先進国の現代における娯楽のネットワークが、クリシュナムルティの学びのダイナミックさを凌駕しているようです。


 >私たちの僅かの人がこれを一緒に見るなら、そしてそれが私のやあなたのものではないなら、しかしそれはそうなのですが、そのとき私たちは新しい世代をつくり出します。−−


 私も、クリシュナムルティと一緒に見たい、一緒に旅をしたい。と思っているが、実際は見たくもなく旅したくもない。ただ、至福の境地を欲しているようだ・・。
 だから、一緒に旅をすることが難しくなる。

 これが、クリシュナムルティが普及しにくい理由ではないでしょうか・・。



[24795] Re:[24794] [24791] [24790] 無題 投稿者:南方 投稿日:2017/11/12(Sun) 16:22  

> 一つ一つ検討してみましょう。
>
> > > 自我の「私」には目が無い。
>
> 目が無い?意味がわからないですね。




肉体の私には目があるが、「自我の私」には目が無い、ということです。



> 「木を見ている」というのは簡単な例題ですが、木を見ているというのは目で見ている、つまり視覚で見ているのではないですか。
>
> >木から目へと見るという視覚作用がある。
>
> ?木から目へ
>


木から目でもありうるし、目から木でも当然ありると思いますが、実験検討したことやそれらの文献を読んだことがありません。すいません。


> >そして、好き嫌いの反応がある。
>
> 木に対して好き嫌いの反応が起きれば、木を見たことにはならないのではないですか。つまりは思考のスクリーンを通してみると、木はよく見えない。
> 比喩として色眼鏡をかけると、よく見えない。
> 対象は何でもいいですが、対象を見てるとき考え事などしていると、対象はよく見えなません。対象に気づきません。
> 道で、考え事して歩いているとき、何かにつまづくことがあるでしょう。見ているつもりが、よく見ていなかった。私も段差に気づかず転んだ経験があります。考え事していてよく見ていなかった。
>
> >この反応は、自我の「私」には目が無いことを考えると、見るという一連のエネルギーの異なった作用形態であることがわかる。
>
>  ここはおっしゃることはよくわかりません。
>


まず、肉体の目で対象を見るというエネルギー。次に、自我の反応が起きた場合、自我は記憶を見ている。つまり、肉体で見ることのエネルギーと自我の私の記憶へのイメージの反応は
一つなぎ。記憶は、肉体の目で見たことの反復だから。


>  木を見てるときは、人間の意識の矛先は木にいきます。
>  途中考え事が入ると、人間の意識の矛先は考え事、つまり思考に焦点が行きます。すると木がそのときはっきりみえなくなる。
>  このいうのは、日常で、よくやっていることです。
>
>  目の前で、人差し指を掲げてみましょう。人差し指に焦点をあてると、遠くの景色はぼやけます。遠くの景色に焦点をあてると、人差指がぼやけます。
>  このように人間の意識は、焦点をあてるという志向性という性質を持っています。
>  その志向する対象についての判断、評価。推理といったものを「心」と呼んでいます。
>  意識というのは、一言で言うと「対象への気づき」。
>
>  私自身の経験でいうと、以前気功をやったことがあるのですが、手のひらに意識をあてると、手のひらがむずむずします。手を挙げたとき、腕に意識を集中すると、その腕に人がぶらさがってもビクともしません。
>  意識というのは志向性のことです。
> > >
> > > もっと言えば自我の「私」の好き嫌いの反応は過去の記憶を見てくるものであり、現在の見ている木そのものではない。
>
>  思考を通して木を見る時は、木を見ていないことと同じ。
>  人間の日常を見てみると、周囲の景色は見ているようで見ていない。その証拠に昨日のことは覚えていない。関心あるもの以外。
>  人間は思考に占領されているのが実態。
> >
> >
> >
> > そして反応があった時「誰」がみているか?という問いかけに
> > 業火の中にいることはわかるのではないか?という答え。
>
> 業火というのは意味不明。
>


孫悟空でいうと頭がウーっとなるあれみたなものだと推測します。私はそう理解してます。具体的にはあることから「なること」へと思考が分離する。そこから逃げ出すと二元性の対立が起こる。


>  反応を見ているのは「真我」です。仏教で言う「本当の自分」。
>  反応を起こしてるのは「自我」
>  わかりやすい比喩


よくわかりません。


>  観音様(真我)の手のひらで踊っている孫悟空(自我)。いわば孫悟空が手のひらで一人相撲をとっている。これが一般の我々。
>  つまり怒りや争いの原因は、相手ではなく、自分が作り出している。
> >
> > 反応があってそれでおしまい。それをどうこうしようとすると
>
> 反応があっておしまいではなく、反応に気づいてるかどうか。
> そのときの反応にリアルタイムで見れるかどうか。
> そのとき意識の切り替えが出来るかどうか。常に外方に向いている意識を、瞬時に内(内面)に向けられるかどうか。
> 禅や瞑想というのは、内面を見るということですが、Kのいうのは日常生活で、「生活即瞑想」を実践するという。そこに困難さがあります。
> 我々の目の開いた日常というのは、常に意識は「外方」に向いているわけです。
>






[24794] Re:[24791] [24790] 無題 投稿者:外野席 投稿日:2017/11/12(Sun) 15:29  

一つ一つ検討してみましょう。

> > 自我の「私」には目が無い。

目が無い?意味がわからないですね。
「木を見ている」というのは簡単な例題ですが、木を見ているというのは目で見ている、つまり視覚で見ているのではないですか。

>木から目へと見るという視覚作用がある。

?木から目へ

>そして、好き嫌いの反応がある。

木に対して好き嫌いの反応が起きれば、木を見たことにはならないのではないですか。つまりは思考のスクリーンを通してみると、木はよく見えない。
比喩として色眼鏡をかけると、よく見えない。
対象は何でもいいですが、対象を見てるとき考え事などしていると、対象はよく見えなません。対象に気づきません。
道で、考え事して歩いているとき、何かにつまづくことがあるでしょう。見ているつもりが、よく見ていなかった。私も段差に気づかず転んだ経験があります。考え事していてよく見ていなかった。

>この反応は、自我の「私」には目が無いことを考えると、見るという一連のエネルギーの異なった作用形態であることがわかる。

 ここはおっしゃることはよくわかりません。

 木を見てるときは、人間の意識の矛先は木にいきます。
 途中考え事が入ると、人間の意識の矛先は考え事、つまり思考に焦点が行きます。すると木がそのときはっきりみえなくなる。
 このいうのは、日常で、よくやっていることです。

 目の前で、人差し指を掲げてみましょう。人差し指に焦点をあてると、遠くの景色はぼやけます。遠くの景色に焦点をあてると、人差指がぼやけます。
 このように人間の意識は、焦点をあてるという志向性という性質を持っています。
 その志向する対象についての判断、評価。推理といったものを「心」と呼んでいます。
 意識というのは、一言で言うと「対象への気づき」。

 私自身の経験でいうと、以前気功をやったことがあるのですが、手のひらに意識をあてると、手のひらがむずむずします。手を挙げたとき、腕に意識を集中すると、その腕に人がぶらさがってもビクともしません。
 意識というのは志向性のことです。
> >
> > もっと言えば自我の「私」の好き嫌いの反応は過去の記憶を見てくるものであり、現在の見ている木そのものではない。

 思考を通して木を見る時は、木を見ていないことと同じ。
 人間の日常を見てみると、周囲の景色は見ているようで見ていない。その証拠に昨日のことは覚えていない。関心あるもの以外。
 人間は思考に占領されているのが実態。
>
>
>
> そして反応があった時「誰」がみているか?という問いかけに
> 業火の中にいることはわかるのではないか?という答え。

業火というのは意味不明。

 反応を見ているのは「真我」です。仏教で言う「本当の自分」。
 反応を起こしてるのは「自我」
 わかりやすい比喩
 観音様(真我)の手のひらで踊っている孫悟空(自我)。いわば孫悟空が手のひらで一人相撲をとっている。これが一般の我々。
 つまり怒りや争いの原因は、相手ではなく、自分が作り出している。
>
> 反応があってそれでおしまい。それをどうこうしようとすると

反応があっておしまいではなく、反応に気づいてるかどうか。
そのときの反応にリアルタイムで見れるかどうか。
そのとき意識の切り替えが出来るかどうか。常に外方に向いている意識を、瞬時に内(内面)に向けられるかどうか。
禅や瞑想というのは、内面を見るということですが、Kのいうのは日常生活で、「生活即瞑想」を実践するという。そこに困難さがあります。
我々の目の開いた日常というのは、常に意識は「外方」に向いているわけです。



[24793] Re:[24789] [24788] [24787] [24786] 反応への気づき 投稿者:外野席 投稿日:2017/11/12(Sun) 14:21  

> >  どのように見るかが肝要です。
> >  どのように気づいているか。どんなふうに気づいているか。
>
> ただ見ています。ただ聞いています。ただ知覚しています。

 そうではなく、どのように見ているか、どのように聞いているか、どのように気づいているか。
 あなたの師匠、新しい芽氏から、そのように教わったのではないですか。違いますか?
 それともあなたの独自路線ですか。
 ただ見る、聞くなら誰でも出来る。見ればいいわけですから。
>
> >  一つ質問しましょう。
> >  思考が次々想起しているとき、どうやって「見る」んですか。
> >  そのとき思考を止めるんですか?
>
> いいえ。何もしません。

 何もしなければそのままですよ。次々想起するのみ。
「今日の予定はどこにいこうかなあ。久しぶりに晴れの日曜日」
 これが普段の人間。ちなみに私は家で九州場所を観戦します。
 このように次々に思いが出てきます。
 浮かんでは消え、浮かんで消え、というのが私たちの実態です。
 もちろんその間、生活の実務はこなしていきます。釣りの計算は必要です。
 暇になると、妄想は膨らむ。
 忙しい人は、よけいことを考えている暇はない。
>
> >  ドアを見ればいいのに、何で「あるもの」という抽象的な言葉を使うのですか。
> >  ドア(木)を見るのは誰でもできますよ。こんなのは問題ではない。当たり前の話です。
>
> いいえ、木も花も、実はあまりよく見、感じていません。関心があまりないから。
 木も花も、見ればわかります。即座に。赤ん坊でもわかる。
 いちいち認識しなくても、見ればわかるという話です。普段は気にもとめない。
 特定の関心が芽生えるときのみ思考は立ち留まります。
 道で、きれいな女性が歩いていると、思わず我々は男性陣は、立ち留まります。
>
> >  問題は反応を見る、ということです。

 反応というのは、思考感情つまりは思考過程。振る舞い。
 わかりやすくいうと、自分の気に食わない奴(野郎)に、何か言われたとき、
 「いちいちうるせえな、このやろう(馬鹿野郎)」
 というのが心理的反応。口に出そうが出すまいが。
 これだけ具体的にいえばあなたでもわかるだろう。長い人生には、こういうことは何度も経験するだろうということ。会社でも家庭でも。聖人君子以外は。
 嫌いな人間というのは、自分が、その人間に「嫌い」と名付けたにすぎない。実際はそこに人間がいるだけ。その評価は自分でつける。
 思考イメージというのは二元性のものであって、かならず相手があって成立する。考える対象というのがある。
 この世界は自分を中心とした二元性の世界。自分と周囲(相手)
 思考イメージの場合の対象というのは、「自分自身」です。

> >  反応が起きたとき、「誰」が見ますか?

 反応というは自我の仕業。その自我の様を見るには別の「主体」が出現するということ。つまり自我の思考過程を見るものがいる。
 このことは一般の人間にはわからぬ。人間は観念と一体化している。即座に言語化するよう習慣づけられいる。名付けてしまうと人間は知ったつもりになる。探求しない。
 
>
> 普通は反応と心が同一化しています。だから正確に言えば、わかる(認識・分別・判断はしている)けれど見てはいません。あなたの言い方で言うと孫悟空が見ている。

 わかるけれど見ていない?というのはどういうこと?
>
> >  火中の栗では、火は見えません。火の外に出なければ。
>
> ? 業火の中にいることぐらいはわかるのではないですか?

 業火って何?誤字ですか?
 火中の栗とは観念と一体化しているという比喩。それぐらいわからなくては。
 その思考のやりとりをリアルタイムでつぶさに見るには、モニターで、自分の演技をチェックしないとわからないということです。
 あるいは映画で演じている自分を観客席で見ている。
 これらは孫悟空のはなしを含めて。一般の人に対してわかろやすく言葉で説明した比喩です。

 人が争っているのを見ると、滑稽に見えるが、当事者になってしまうと滑稽さがわからない。
 たとえばアメリカと北朝鮮の争いは、はたでみると滑稽だが、いざ政権の当時者になると、面子、立ち場というものが重要になるということです。政治家がそうプライド、肩書きの塊。保身に入る。「自己」の壁として、防衛本能を押し出す。
 会社などで、ある重要な役職をついた方ならわかるはず。


[24792] Re:[24791] [24790] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/11/12(Sun) 10:11  

> > ここまでのゴト氏と外野氏の問答からあきらかになったこと。
> >
> > 自我の「私」には目が無い。木から目へと見るという視覚作用がある。そして、好き嫌いの反応がある。この反応は、自我の「私」には目が無いことを考えると、見るという一連のエネルギーの異なった作用形態であることがわかる。
> >
> > もっと言えば自我の「私」の好き嫌いの反応は過去の記憶を見てくるものであり、現在の見ている木そのものではない。
>
>
>
> そして反応があった時「誰」がみているか?という問いかけに
> 業火の中にいることはわかるのではないか?という答え。
>
> 反応があってそれでおしまい。それをどうこうしようとすると
> 「なろう」とすると分離した私が出てくる。それは過去の産物。心理的二元性の始まり。ではどうすれば?それも過去の産物の私を産み出す。こういうループに気づきましょうということはKは言っているのですか?

反応をどうこうしようとすることなしに見ている、よく感じていることがすべてです。それが理解です。

反応は頭の中だけで見られていることもあるし、咄嗟に声なり何なり表に出るのもあるでしょう。その分離をもたらすときは思考が行動の主体になっているわけです。

しかし、気づきの知覚がしっかりと見られている時は主体は思考ではなく気づき、知覚であるわけです。その時理解があります。仏教の言葉で言うと妙観察知が働きます。心は全体、自分の全組織のみでなく、周囲にも働くようです。そしてその反応も自分を理解し消えていくようです。それはその場ではなく、のちにわかることですが。ここに書いたことはKの言った事ではなく、私の観察からの仮説です。



[24791] Re:[24790] 無題 投稿者:南方 投稿日:2017/11/12(Sun) 07:44  

> ここまでのゴト氏と外野氏の問答からあきらかになったこと。
>
> 自我の「私」には目が無い。木から目へと見るという視覚作用がある。そして、好き嫌いの反応がある。この反応は、自我の「私」には目が無いことを考えると、見るという一連のエネルギーの異なった作用形態であることがわかる。
>
> もっと言えば自我の「私」の好き嫌いの反応は過去の記憶を見てくるものであり、現在の見ている木そのものではない。



そして反応があった時「誰」がみているか?という問いかけに
業火の中にいることはわかるのではないか?という答え。

反応があってそれでおしまい。それをどうこうしようとすると
「なろう」とすると分離した私が出てくる。それは過去の産物。心理的二元性の始まり。ではどうすれば?それも過去の産物の私を産み出す。こういうループに気づきましょうということはKは言っているのですか?


[24790] 無題 投稿者:南方 投稿日:2017/11/12(Sun) 04:06  

ここまでのゴト氏と外野氏の問答からあきらかになったこと。

自我の「私」には目が無い。木から目へと見るという視覚作用がある。そして、好き嫌いの反応がある。この反応は、自我の「私」には目が無いことを考えると、見るという一連のエネルギーの異なった作用形態であることがわかる。

もっと言えば自我の「私」の好き嫌いの反応は過去の記憶を見てくるものであり、現在の見ている木そのものではない。


[24789] Re:[24788] [24787] [24786] 反応への気づき 投稿者:ゴト 投稿日:2017/11/11(Sat) 23:59  

>  どのように見るかが肝要です。
>  どのように気づいているか。どんなふうに気づいているか。

ただ見ています。ただ聞いています。ただ知覚しています。

>  一つ質問しましょう。
>  思考が次々想起しているとき、どうやって「見る」んですか。
>  そのとき思考を止めるんですか?

いいえ。何もしません。

>  ドアを見ればいいのに、何で「あるもの」という抽象的な言葉を使うのですか。
>  ドア(木)を見るのは誰でもできますよ。こんなのは問題ではない。当たり前の話です。

いいえ、木も花も、実はあまりよく見、感じていません。関心があまりないから。

>  問題は反応を見る、ということです。
>  反応が起きたとき、「誰」が見ますか?

普通は反応と心が同一化しています。だから正確に言えば、わかる(認識・分別・判断はしている)けれど見てはいません。あなたの言い方で言うと孫悟空が見ている。

>  火中の栗では、火は見えません。火の外に出なければ。

? 業火の中にいることぐらいはわかるのではないですか?


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