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[25194] Re:[25193] [25191] [25190] [25189] [25188] [25187] [25186] [25185] [25184] 意味・価値とは何か 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/18(Sun) 13:04  

> > > > > > > > > 意味・価値はどういうものか、私は恥ずかしながらよく知らなかった。ようやく、意味、価値は聖なるものとか理念、理想ではないという話を聞いた。
> > > > > > > > >
> > > > > > > > > 生き物でない鉱物的世界には意味も価値もないだろう。植物はちょっとわからないが、動物の実存的な生の中にこそ意味、価値はあると。そこから意味、価値は発生すると。
> > > > > > > > >
> > > > > > > > > アメーバみたいな原始的な、直接の接触でしか世界を知覚できない動物では、さすがに単なる反射行動のみがあるかどうか、動物行動学者も判定できないそうだ。実際には、心地よい何かにぶつかった時にはそれを全身で包んで離さないようにするとか、心地よくないものに対しては大急ぎで離れるような人間的に見えてしまう行動をとるとかするので、困ってしまうそうだ。
> > > > > > > > >
> > > > > > > > > しかし、少し進化した動物で触手のようなものを持つと、自分の本体が対象と接触する前に知覚することができる―遠隔知覚という。視覚や聴覚が代表的それである。身体と離れては考えられない。
> > > > > > > > >
> > > > > > > > > これにより対象との接触に空間と時間のゆとりが生じ、欲望衝動の意味・価値が審級できるようになったという事らしい。しかし、何をしたいかというその本心は本来一瞥的に理解出来るるものですね。
> > > > > > > > >
> > > > > > > > > 哲学の話の方はこれからどう進むのかまだ全然わかりません。
> > > > > > > >
> > > > > > > >
> > > > > > > >  聖なるものがあるとすれば、それは思考によって検証されえないことをクリシュナムルティは述べています。
> > > > > > > >
> > > > > > > >  ゴトさんは、聖なるものではない世界についての検証を行っているのでしょうか・・。。
> > > > > > >
> > > > > > >
> > > > > > > 思考は聖なるものを創り出すことができます。道端で拾った人面に見える木片が、毎日眺め、花を備えてやると聖なるものに見えてしまいます。聖なるものには用心しなければなりません。意識が判定できるものなのか?!
> > > > > > >
> > > > > > > それで物事の確信できる立脚点は何なのか? 哲学者の追求するところについて行っています。竹田氏(以下T氏)プラトン、アリストテレスから始まり、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガーの巨峰から現代にいたる哲学者、思想家のすべてと言えるほどの人の功績と過誤を検証し、つまり思考の到達したところと過誤を検証しながら、確かな立脚点を探しているように見えます。私はそれについていきたいのです。
> > > > > > >
> > > > > > > 昔風に聖と俗という区分をすれば、T氏の言うところは俗にも見えますが、思考の確かな立脚点を知ることができたら、それは新しい境地を開くと確信しています。
> > > > > > >
> > > > > > > 思考の確かな立脚点が見つかるかどうか、興味ある問題でしょう。今はあまりにもいい加減な使い方がされています。自然科学の領域ですら、立脚点がしっかりしているようで、それがどこに行くかも知らないのです。
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > >  その「確信」を希求する主体とは何でしょうか。。
> > > > > >
> > > > > >  その主体こそが「非立脚体」ではないでしょうか。。
> > > > >
> > > > >
> > > > > その主体は私でも、T氏でも、人間でもいいのですが、人間というと観念的に普通捉えるのですがそうでなく、生活世界の中に生きていて、情動、衝動、切迫、思考感情、欲望を感じて動く実存的な人間として追及するという事です。
> > > > >
> > > > > ですから、条件付けを持ち、浄化が済んだなどと言えるものでない凡人(覚者ではない人)が思い立って尋究します。それゆえ、もちろんしっかりした立脚点を知らず、知らないことを
> > > > > 知って、今まで人間が調べてきたことを調べなおしています。
> > > > >
> > > > > 多くの精緻を極めた宗教的教理があります。これらは遺憾ながら対立し普遍的になり得ないとしか思えません。それで哲学の中に起きている動きを注目して見ています。
> > > > >
> > > > > 今私では理解しにくい難しいところが出てきて、しかもそれが真理にかかわるところですが、意味がくみ取れず、苦戦しています。
> > > >
> > > >
> > > >  その真理に関わるところは聖なるものとは別の何かなのか・・、あるいは、聖なるものと関わりを有する何かなのか・・。
> > >
> > > ハイデガーの存在論にかかわるところで、その存在論がよくわからないというか私が知らなさすぎるのです。人間存在がその本当のところは隠されているが、それがともかく顕現するときそれが真理だというようなことですが、その辺が妙にわかりません。
> > >
> > > >
> > > >  真理を知識に固定することができるのか・・。
> > > >
> > > >  思考の産物は真理と共存し得るのか。。
> > >
> > > 思考が真理を認識できるとして議論するところが間違っているとのことのようです。
> > >
> > > >
> > > >  私の個人的な感想としては、「思考の産物」と「真理」の共存の試みを為しているように見受けられるのです。
> > > >  これは、人類が始まって200万年間、試みられたことではないでしょうか。。
> > >
> > > まあ、哲学は古代ギリシャのころからですが、そこで現代のいま進路を変えるという事です。
> > >
> > > 世界そのものを人間が認識するという事は不可能なので、それはやめるのですが、それは世界がないと言う事ではなく、世界があることは人間の共通の確信、不可疑性のことです。物理学のやってきたことも同様に普遍的に信じることのできるものです。
> > > しかし、人間的「身体「」の領域と人間的「意識」の領域は異なった領域として了解する限りで、それぞれの洞察と関係は洞察することができる。その始発点は我々の持つ「現前意識」である。
> > >
> > > やっとこの辺まで来ました。ここからどう新しい筋道を歩み始めるのか、興味を持ってつかみたいのですが。。
> >
> >
> >  それはわるいことではないのですが・・。
> >
> >  際限のない時間を要するのではないでしょうか・・。
> >
> >  1万年後も、その議論は続いているように感じます。
> >
> >  今、変わらなければ・・、未来も変わっていないように思われます。
> >
> >  「光陰矢の如し・・」とは「現前意識」の世界での現象であり、現にある真理の世界では「光陰矢の如し・・」の現象は無く、「今変わるか否か・・」ではないでしょうか。。
> >
> >  クリシュナムルティは「光陰矢の如し・・」とは一言も述べていないのです。
> >
> >  私は、個的有機体を有する有限な時間を、「光陰矢の如し・・」に費やすことをよしとしないのです。。
>
>
> クリシュナムルティと同じように変容を遂げた人は一人もいなかった。つまり変容を遂げるために個人が浄化に努めるという事は「光陰矢の如し・・」に有限な時間を費やすことでしょうか。


 ゴトさんは、>変容を遂げるために個人が浄化に努めるという事−−、これを為しているのですね。。それなら安心しました。クリシュナムルティ理解への取り組みとは別のことに取り組んでいるのかと思っていました。。


> 現前意識が、自由な主体性を持ち行動できるようになったら、現実が力の原理で押し切られないような、はっきりした妥当性を持つ言論をうちたてることは当然必要ですが、それは哲学の主要な仕事です。意味、価値、正・不正、善悪、これらがまっとうに議論され、力の論理など吹き飛ばすことが必要です。そうでなければ戦争はなくならない。


 「クリシュナムルティの陳述」を聴く耳を持たない「力」が、哲学を聴く耳を持つ可能性があると、ゴトさんは感じているのですね。その「力」を、「大衆」や「統治者」「資産家」とどのような呼び名に変えてもオーケーです。


> なお光陰矢の如しの問題ですが、過ぎ去った時間を後悔することなく、これからの短さを気に留めない人は永遠のいまに生きています。


 クリシュナムルティの世界に生きていることが確認でき、安心しました。


[25193] Re:[25191] [25190] [25189] [25188] [25187] [25186] [25185] [25184] 意味・価値とは何か 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/18(Sun) 11:38  

> > > > > > > > 意味・価値はどういうものか、私は恥ずかしながらよく知らなかった。ようやく、意味、価値は聖なるものとか理念、理想ではないという話を聞いた。
> > > > > > > >
> > > > > > > > 生き物でない鉱物的世界には意味も価値もないだろう。植物はちょっとわからないが、動物の実存的な生の中にこそ意味、価値はあると。そこから意味、価値は発生すると。
> > > > > > > >
> > > > > > > > アメーバみたいな原始的な、直接の接触でしか世界を知覚できない動物では、さすがに単なる反射行動のみがあるかどうか、動物行動学者も判定できないそうだ。実際には、心地よい何かにぶつかった時にはそれを全身で包んで離さないようにするとか、心地よくないものに対しては大急ぎで離れるような人間的に見えてしまう行動をとるとかするので、困ってしまうそうだ。
> > > > > > > >
> > > > > > > > しかし、少し進化した動物で触手のようなものを持つと、自分の本体が対象と接触する前に知覚することができる―遠隔知覚という。視覚や聴覚が代表的それである。身体と離れては考えられない。
> > > > > > > >
> > > > > > > > これにより対象との接触に空間と時間のゆとりが生じ、欲望衝動の意味・価値が審級できるようになったという事らしい。しかし、何をしたいかというその本心は本来一瞥的に理解出来るるものですね。
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> > > > > > > > 哲学の話の方はこれからどう進むのかまだ全然わかりません。
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> > > > > > >  聖なるものがあるとすれば、それは思考によって検証されえないことをクリシュナムルティは述べています。
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> > > > > > >  ゴトさんは、聖なるものではない世界についての検証を行っているのでしょうか・・。。
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> > > > > > 思考は聖なるものを創り出すことができます。道端で拾った人面に見える木片が、毎日眺め、花を備えてやると聖なるものに見えてしまいます。聖なるものには用心しなければなりません。意識が判定できるものなのか?!
> > > > > >
> > > > > > それで物事の確信できる立脚点は何なのか? 哲学者の追求するところについて行っています。竹田氏(以下T氏)プラトン、アリストテレスから始まり、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガーの巨峰から現代にいたる哲学者、思想家のすべてと言えるほどの人の功績と過誤を検証し、つまり思考の到達したところと過誤を検証しながら、確かな立脚点を探しているように見えます。私はそれについていきたいのです。
> > > > > >
> > > > > > 昔風に聖と俗という区分をすれば、T氏の言うところは俗にも見えますが、思考の確かな立脚点を知ることができたら、それは新しい境地を開くと確信しています。
> > > > > >
> > > > > > 思考の確かな立脚点が見つかるかどうか、興味ある問題でしょう。今はあまりにもいい加減な使い方がされています。自然科学の領域ですら、立脚点がしっかりしているようで、それがどこに行くかも知らないのです。
> > > > >
> > > > >
> > > > >  その「確信」を希求する主体とは何でしょうか。。
> > > > >
> > > > >  その主体こそが「非立脚体」ではないでしょうか。。
> > > >
> > > >
> > > > その主体は私でも、T氏でも、人間でもいいのですが、人間というと観念的に普通捉えるのですがそうでなく、生活世界の中に生きていて、情動、衝動、切迫、思考感情、欲望を感じて動く実存的な人間として追及するという事です。
> > > >
> > > > ですから、条件付けを持ち、浄化が済んだなどと言えるものでない凡人(覚者ではない人)が思い立って尋究します。それゆえ、もちろんしっかりした立脚点を知らず、知らないことを
> > > > 知って、今まで人間が調べてきたことを調べなおしています。
> > > >
> > > > 多くの精緻を極めた宗教的教理があります。これらは遺憾ながら対立し普遍的になり得ないとしか思えません。それで哲学の中に起きている動きを注目して見ています。
> > > >
> > > > 今私では理解しにくい難しいところが出てきて、しかもそれが真理にかかわるところですが、意味がくみ取れず、苦戦しています。
> > >
> > >
> > >  その真理に関わるところは聖なるものとは別の何かなのか・・、あるいは、聖なるものと関わりを有する何かなのか・・。
> >
> > ハイデガーの存在論にかかわるところで、その存在論がよくわからないというか私が知らなさすぎるのです。人間存在がその本当のところは隠されているが、それがともかく顕現するときそれが真理だというようなことですが、その辺が妙にわかりません。
> >
> > >
> > >  真理を知識に固定することができるのか・・。
> > >
> > >  思考の産物は真理と共存し得るのか。。
> >
> > 思考が真理を認識できるとして議論するところが間違っているとのことのようです。
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> > >
> > >  私の個人的な感想としては、「思考の産物」と「真理」の共存の試みを為しているように見受けられるのです。
> > >  これは、人類が始まって200万年間、試みられたことではないでしょうか。。
> >
> > まあ、哲学は古代ギリシャのころからですが、そこで現代のいま進路を変えるという事です。
> >
> > 世界そのものを人間が認識するという事は不可能なので、それはやめるのですが、それは世界がないと言う事ではなく、世界があることは人間の共通の確信、不可疑性のことです。物理学のやってきたことも同様に普遍的に信じることのできるものです。
> > しかし、人間的「身体「」の領域と人間的「意識」の領域は異なった領域として了解する限りで、それぞれの洞察と関係は洞察することができる。その始発点は我々の持つ「現前意識」である。
> >
> > やっとこの辺まで来ました。ここからどう新しい筋道を歩み始めるのか、興味を持ってつかみたいのですが。。
>
>
>  それはわるいことではないのですが・・。
>
>  際限のない時間を要するのではないでしょうか・・。
>
>  1万年後も、その議論は続いているように感じます。
>
>  今、変わらなければ・・、未来も変わっていないように思われます。
>
>  「光陰矢の如し・・」とは「現前意識」の世界での現象であり、現にある真理の世界では「光陰矢の如し・・」の現象は無く、「今変わるか否か・・」ではないでしょうか。。
>
>  クリシュナムルティは「光陰矢の如し・・」とは一言も述べていないのです。
>
>  私は、個的有機体を有する有限な時間を、「光陰矢の如し・・」に費やすことをよしとしないのです。。


クリシュナムルティと同じように変容を遂げた人は一人もいなかった。つまり変容を遂げるために個人が浄化に努めるという事は「光陰矢の如し・・」に有限な時間を費やすことでしょうか。

現前意識が、自由な主体性を持ち行動できるようになったら、現実が力の原理で押し切られないような、はっきりした妥当性を持つ言論をうちたてることは当然必要ですが、それは哲学の主要な仕事です。意味、価値、正・不正、善悪、これらがまっとうに議論され、力の論理など吹き飛ばすことが必要です。そうでなければ戦争はなくならない。

なお光陰矢の如しの問題ですが、過ぎ去った時間を後悔することなく、これからの短さを気に留めない人は永遠のいまに生きています。


[25192] 現前意識の無際限 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/18(Sun) 08:25  

 古代ギリシャから続く現前意識の無際限性を典型的に表現しているサイトを見つけました。

 クリシュナムルティは、これを「思考の産物」「時間の世界」等の言葉で発信しました。

 http://www.geocities.jp/andreaskjp/bookindex3.htm


[25191] Re:[25190] [25189] [25188] [25187] [25186] [25185] [25184] 意味・価値とは何か 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/18(Sun) 08:03  

> > > > > > > 意味・価値はどういうものか、私は恥ずかしながらよく知らなかった。ようやく、意味、価値は聖なるものとか理念、理想ではないという話を聞いた。
> > > > > > >
> > > > > > > 生き物でない鉱物的世界には意味も価値もないだろう。植物はちょっとわからないが、動物の実存的な生の中にこそ意味、価値はあると。そこから意味、価値は発生すると。
> > > > > > >
> > > > > > > アメーバみたいな原始的な、直接の接触でしか世界を知覚できない動物では、さすがに単なる反射行動のみがあるかどうか、動物行動学者も判定できないそうだ。実際には、心地よい何かにぶつかった時にはそれを全身で包んで離さないようにするとか、心地よくないものに対しては大急ぎで離れるような人間的に見えてしまう行動をとるとかするので、困ってしまうそうだ。
> > > > > > >
> > > > > > > しかし、少し進化した動物で触手のようなものを持つと、自分の本体が対象と接触する前に知覚することができる―遠隔知覚という。視覚や聴覚が代表的それである。身体と離れては考えられない。
> > > > > > >
> > > > > > > これにより対象との接触に空間と時間のゆとりが生じ、欲望衝動の意味・価値が審級できるようになったという事らしい。しかし、何をしたいかというその本心は本来一瞥的に理解出来るるものですね。
> > > > > > >
> > > > > > > 哲学の話の方はこれからどう進むのかまだ全然わかりません。
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > >  聖なるものがあるとすれば、それは思考によって検証されえないことをクリシュナムルティは述べています。
> > > > > >
> > > > > >  ゴトさんは、聖なるものではない世界についての検証を行っているのでしょうか・・。。
> > > > >
> > > > >
> > > > > 思考は聖なるものを創り出すことができます。道端で拾った人面に見える木片が、毎日眺め、花を備えてやると聖なるものに見えてしまいます。聖なるものには用心しなければなりません。意識が判定できるものなのか?!
> > > > >
> > > > > それで物事の確信できる立脚点は何なのか? 哲学者の追求するところについて行っています。竹田氏(以下T氏)プラトン、アリストテレスから始まり、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガーの巨峰から現代にいたる哲学者、思想家のすべてと言えるほどの人の功績と過誤を検証し、つまり思考の到達したところと過誤を検証しながら、確かな立脚点を探しているように見えます。私はそれについていきたいのです。
> > > > >
> > > > > 昔風に聖と俗という区分をすれば、T氏の言うところは俗にも見えますが、思考の確かな立脚点を知ることができたら、それは新しい境地を開くと確信しています。
> > > > >
> > > > > 思考の確かな立脚点が見つかるかどうか、興味ある問題でしょう。今はあまりにもいい加減な使い方がされています。自然科学の領域ですら、立脚点がしっかりしているようで、それがどこに行くかも知らないのです。
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> > > >  その「確信」を希求する主体とは何でしょうか。。
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> > > >  その主体こそが「非立脚体」ではないでしょうか。。
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> > >
> > > その主体は私でも、T氏でも、人間でもいいのですが、人間というと観念的に普通捉えるのですがそうでなく、生活世界の中に生きていて、情動、衝動、切迫、思考感情、欲望を感じて動く実存的な人間として追及するという事です。
> > >
> > > ですから、条件付けを持ち、浄化が済んだなどと言えるものでない凡人(覚者ではない人)が思い立って尋究します。それゆえ、もちろんしっかりした立脚点を知らず、知らないことを
> > > 知って、今まで人間が調べてきたことを調べなおしています。
> > >
> > > 多くの精緻を極めた宗教的教理があります。これらは遺憾ながら対立し普遍的になり得ないとしか思えません。それで哲学の中に起きている動きを注目して見ています。
> > >
> > > 今私では理解しにくい難しいところが出てきて、しかもそれが真理にかかわるところですが、意味がくみ取れず、苦戦しています。
> >
> >
> >  その真理に関わるところは聖なるものとは別の何かなのか・・、あるいは、聖なるものと関わりを有する何かなのか・・。
>
> ハイデガーの存在論にかかわるところで、その存在論がよくわからないというか私が知らなさすぎるのです。人間存在がその本当のところは隠されているが、それがともかく顕現するときそれが真理だというようなことですが、その辺が妙にわかりません。
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> >  真理を知識に固定することができるのか・・。
> >
> >  思考の産物は真理と共存し得るのか。。
>
> 思考が真理を認識できるとして議論するところが間違っているとのことのようです。
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> >  私の個人的な感想としては、「思考の産物」と「真理」の共存の試みを為しているように見受けられるのです。
> >  これは、人類が始まって200万年間、試みられたことではないでしょうか。。
>
> まあ、哲学は古代ギリシャのころからですが、そこで現代のいま進路を変えるという事です。
>
> 世界そのものを人間が認識するという事は不可能なので、それはやめるのですが、それは世界がないと言う事ではなく、世界があることは人間の共通の確信、不可疑性のことです。物理学のやってきたことも同様に普遍的に信じることのできるものです。
> しかし、人間的「身体「」の領域と人間的「意識」の領域は異なった領域として了解する限りで、それぞれの洞察と関係は洞察することができる。その始発点は我々の持つ「現前意識」である。
>
> やっとこの辺まで来ました。ここからどう新しい筋道を歩み始めるのか、興味を持ってつかみたいのですが。。


 それはわるいことではないのですが・・。

 際限のない時間を要するのではないでしょうか・・。

 1万年後も、その議論は続いているように感じます。

 今、変わらなければ・・、未来も変わっていないように思われます。

 「光陰矢の如し・・」とは「現前意識」の世界での現象であり、現にある真理の世界では「光陰矢の如し・・」の現象は無く、「今変わるか否か・・」ではないでしょうか。。

 クリシュナムルティは「光陰矢の如し・・」とは一言も述べていないのです。

 私は、個的有機体を有する有限な時間を、「光陰矢の如し・・」に費やすことをよしとしないのです。。


[25190] Re:[25189] [25188] [25187] [25186] [25185] [25184] 意味・価値とは何か 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/18(Sun) 00:34  

> > > > > > 意味・価値はどういうものか、私は恥ずかしながらよく知らなかった。ようやく、意味、価値は聖なるものとか理念、理想ではないという話を聞いた。
> > > > > >
> > > > > > 生き物でない鉱物的世界には意味も価値もないだろう。植物はちょっとわからないが、動物の実存的な生の中にこそ意味、価値はあると。そこから意味、価値は発生すると。
> > > > > >
> > > > > > アメーバみたいな原始的な、直接の接触でしか世界を知覚できない動物では、さすがに単なる反射行動のみがあるかどうか、動物行動学者も判定できないそうだ。実際には、心地よい何かにぶつかった時にはそれを全身で包んで離さないようにするとか、心地よくないものに対しては大急ぎで離れるような人間的に見えてしまう行動をとるとかするので、困ってしまうそうだ。
> > > > > >
> > > > > > しかし、少し進化した動物で触手のようなものを持つと、自分の本体が対象と接触する前に知覚することができる―遠隔知覚という。視覚や聴覚が代表的それである。身体と離れては考えられない。
> > > > > >
> > > > > > これにより対象との接触に空間と時間のゆとりが生じ、欲望衝動の意味・価値が審級できるようになったという事らしい。しかし、何をしたいかというその本心は本来一瞥的に理解出来るるものですね。
> > > > > >
> > > > > > 哲学の話の方はこれからどう進むのかまだ全然わかりません。
> > > > >
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> > > > >  聖なるものがあるとすれば、それは思考によって検証されえないことをクリシュナムルティは述べています。
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> > > > >  ゴトさんは、聖なるものではない世界についての検証を行っているのでしょうか・・。。
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> > > > 思考は聖なるものを創り出すことができます。道端で拾った人面に見える木片が、毎日眺め、花を備えてやると聖なるものに見えてしまいます。聖なるものには用心しなければなりません。意識が判定できるものなのか?!
> > > >
> > > > それで物事の確信できる立脚点は何なのか? 哲学者の追求するところについて行っています。竹田氏(以下T氏)プラトン、アリストテレスから始まり、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガーの巨峰から現代にいたる哲学者、思想家のすべてと言えるほどの人の功績と過誤を検証し、つまり思考の到達したところと過誤を検証しながら、確かな立脚点を探しているように見えます。私はそれについていきたいのです。
> > > >
> > > > 昔風に聖と俗という区分をすれば、T氏の言うところは俗にも見えますが、思考の確かな立脚点を知ることができたら、それは新しい境地を開くと確信しています。
> > > >
> > > > 思考の確かな立脚点が見つかるかどうか、興味ある問題でしょう。今はあまりにもいい加減な使い方がされています。自然科学の領域ですら、立脚点がしっかりしているようで、それがどこに行くかも知らないのです。
> > >
> > >
> > >  その「確信」を希求する主体とは何でしょうか。。
> > >
> > >  その主体こそが「非立脚体」ではないでしょうか。。
> >
> >
> > その主体は私でも、T氏でも、人間でもいいのですが、人間というと観念的に普通捉えるのですがそうでなく、生活世界の中に生きていて、情動、衝動、切迫、思考感情、欲望を感じて動く実存的な人間として追及するという事です。
> >
> > ですから、条件付けを持ち、浄化が済んだなどと言えるものでない凡人(覚者ではない人)が思い立って尋究します。それゆえ、もちろんしっかりした立脚点を知らず、知らないことを
> > 知って、今まで人間が調べてきたことを調べなおしています。
> >
> > 多くの精緻を極めた宗教的教理があります。これらは遺憾ながら対立し普遍的になり得ないとしか思えません。それで哲学の中に起きている動きを注目して見ています。
> >
> > 今私では理解しにくい難しいところが出てきて、しかもそれが真理にかかわるところですが、意味がくみ取れず、苦戦しています。
>
>
>  その真理に関わるところは聖なるものとは別の何かなのか・・、あるいは、聖なるものと関わりを有する何かなのか・・。

ハイデガーの存在論にかかわるところで、その存在論がよくわからないというか私が知らなさすぎるのです。人間存在がその本当のところは隠されているが、それがともかく顕現するときそれが真理だというようなことですが、その辺が妙にわかりません。

>
>  真理を知識に固定することができるのか・・。
>
>  思考の産物は真理と共存し得るのか。。

思考が真理を認識できるとして議論するところが間違っているとのことのようです。

>
>  私の個人的な感想としては、「思考の産物」と「真理」の共存の試みを為しているように見受けられるのです。
>  これは、人類が始まって200万年間、試みられたことではないでしょうか。。

まあ、哲学は古代ギリシャのころからですが、そこで現代のいま進路を変えるという事です。

世界そのものを人間が認識するという事は不可能なので、それはやめるのですが、それは世界がないと言う事ではなく、世界があることは人間の共通の確信、不可疑性のことです。物理学のやってきたことも同様に普遍的に信じることのできるものです。
しかし、人間的「身体「」の領域と人間的「意識」の領域は異なった領域として了解する限りで、それぞれの洞察と関係は洞察することができる。その始発点は我々の持つ「現前意識」である。

やっとこの辺まで来ました。ここからどう新しい筋道を歩み始めるのか、興味を持ってつかみたいのですが。。


[25189] Re:[25188] [25187] [25186] [25185] [25184] 意味・価値とは何か 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/16(Fri) 20:48  

> > > > > 意味・価値はどういうものか、私は恥ずかしながらよく知らなかった。ようやく、意味、価値は聖なるものとか理念、理想ではないという話を聞いた。
> > > > >
> > > > > 生き物でない鉱物的世界には意味も価値もないだろう。植物はちょっとわからないが、動物の実存的な生の中にこそ意味、価値はあると。そこから意味、価値は発生すると。
> > > > >
> > > > > アメーバみたいな原始的な、直接の接触でしか世界を知覚できない動物では、さすがに単なる反射行動のみがあるかどうか、動物行動学者も判定できないそうだ。実際には、心地よい何かにぶつかった時にはそれを全身で包んで離さないようにするとか、心地よくないものに対しては大急ぎで離れるような人間的に見えてしまう行動をとるとかするので、困ってしまうそうだ。
> > > > >
> > > > > しかし、少し進化した動物で触手のようなものを持つと、自分の本体が対象と接触する前に知覚することができる―遠隔知覚という。視覚や聴覚が代表的それである。身体と離れては考えられない。
> > > > >
> > > > > これにより対象との接触に空間と時間のゆとりが生じ、欲望衝動の意味・価値が審級できるようになったという事らしい。しかし、何をしたいかというその本心は本来一瞥的に理解出来るるものですね。
> > > > >
> > > > > 哲学の話の方はこれからどう進むのかまだ全然わかりません。
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> > > >  聖なるものがあるとすれば、それは思考によって検証されえないことをクリシュナムルティは述べています。
> > > >
> > > >  ゴトさんは、聖なるものではない世界についての検証を行っているのでしょうか・・。。
> > >
> > >
> > > 思考は聖なるものを創り出すことができます。道端で拾った人面に見える木片が、毎日眺め、花を備えてやると聖なるものに見えてしまいます。聖なるものには用心しなければなりません。意識が判定できるものなのか?!
> > >
> > > それで物事の確信できる立脚点は何なのか? 哲学者の追求するところについて行っています。竹田氏(以下T氏)プラトン、アリストテレスから始まり、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガーの巨峰から現代にいたる哲学者、思想家のすべてと言えるほどの人の功績と過誤を検証し、つまり思考の到達したところと過誤を検証しながら、確かな立脚点を探しているように見えます。私はそれについていきたいのです。
> > >
> > > 昔風に聖と俗という区分をすれば、T氏の言うところは俗にも見えますが、思考の確かな立脚点を知ることができたら、それは新しい境地を開くと確信しています。
> > >
> > > 思考の確かな立脚点が見つかるかどうか、興味ある問題でしょう。今はあまりにもいい加減な使い方がされています。自然科学の領域ですら、立脚点がしっかりしているようで、それがどこに行くかも知らないのです。
> >
> >
> >  その「確信」を希求する主体とは何でしょうか。。
> >
> >  その主体こそが「非立脚体」ではないでしょうか。。
>
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> その主体は私でも、T氏でも、人間でもいいのですが、人間というと観念的に普通捉えるのですがそうでなく、生活世界の中に生きていて、情動、衝動、切迫、思考感情、欲望を感じて動く実存的な人間として追及するという事です。
>
> ですから、条件付けを持ち、浄化が済んだなどと言えるものでない凡人(覚者ではない人)が思い立って尋究します。それゆえ、もちろんしっかりした立脚点を知らず、知らないことを
> 知って、今まで人間が調べてきたことを調べなおしています。
>
> 多くの精緻を極めた宗教的教理があります。これらは遺憾ながら対立し普遍的になり得ないとしか思えません。それで哲学の中に起きている動きを注目して見ています。
>
> 今私では理解しにくい難しいところが出てきて、しかもそれが真理にかかわるところですが、意味がくみ取れず、苦戦しています。


 その真理に関わるところは聖なるものとは別の何かなのか・・、あるいは、聖なるものと関わりを有する何かなのか・・。

 真理を知識に固定することができるのか・・。

 思考の産物は真理と共存し得るのか。。

 私の個人的な感想としては、「思考の産物」と「真理」の共存の試みを為しているように見受けられるのです。
 これは、人類が始まって200万年間、試みられたことではないでしょうか。。


[25188] Re:[25187] [25186] [25185] [25184] 意味・価値とは何か 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/16(Fri) 19:21  

> > > > 意味・価値はどういうものか、私は恥ずかしながらよく知らなかった。ようやく、意味、価値は聖なるものとか理念、理想ではないという話を聞いた。
> > > >
> > > > 生き物でない鉱物的世界には意味も価値もないだろう。植物はちょっとわからないが、動物の実存的な生の中にこそ意味、価値はあると。そこから意味、価値は発生すると。
> > > >
> > > > アメーバみたいな原始的な、直接の接触でしか世界を知覚できない動物では、さすがに単なる反射行動のみがあるかどうか、動物行動学者も判定できないそうだ。実際には、心地よい何かにぶつかった時にはそれを全身で包んで離さないようにするとか、心地よくないものに対しては大急ぎで離れるような人間的に見えてしまう行動をとるとかするので、困ってしまうそうだ。
> > > >
> > > > しかし、少し進化した動物で触手のようなものを持つと、自分の本体が対象と接触する前に知覚することができる―遠隔知覚という。視覚や聴覚が代表的それである。身体と離れては考えられない。
> > > >
> > > > これにより対象との接触に空間と時間のゆとりが生じ、欲望衝動の意味・価値が審級できるようになったという事らしい。しかし、何をしたいかというその本心は本来一瞥的に理解出来るるものですね。
> > > >
> > > > 哲学の話の方はこれからどう進むのかまだ全然わかりません。
> > >
> > >
> > >  聖なるものがあるとすれば、それは思考によって検証されえないことをクリシュナムルティは述べています。
> > >
> > >  ゴトさんは、聖なるものではない世界についての検証を行っているのでしょうか・・。。
> >
> >
> > 思考は聖なるものを創り出すことができます。道端で拾った人面に見える木片が、毎日眺め、花を備えてやると聖なるものに見えてしまいます。聖なるものには用心しなければなりません。意識が判定できるものなのか?!
> >
> > それで物事の確信できる立脚点は何なのか? 哲学者の追求するところについて行っています。竹田氏(以下T氏)プラトン、アリストテレスから始まり、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガーの巨峰から現代にいたる哲学者、思想家のすべてと言えるほどの人の功績と過誤を検証し、つまり思考の到達したところと過誤を検証しながら、確かな立脚点を探しているように見えます。私はそれについていきたいのです。
> >
> > 昔風に聖と俗という区分をすれば、T氏の言うところは俗にも見えますが、思考の確かな立脚点を知ることができたら、それは新しい境地を開くと確信しています。
> >
> > 思考の確かな立脚点が見つかるかどうか、興味ある問題でしょう。今はあまりにもいい加減な使い方がされています。自然科学の領域ですら、立脚点がしっかりしているようで、それがどこに行くかも知らないのです。
>
>
>  その「確信」を希求する主体とは何でしょうか。。
>
>  その主体こそが「非立脚体」ではないでしょうか。。


その主体は私でも、T氏でも、人間でもいいのですが、人間というと観念的に普通捉えるのですがそうでなく、生活世界の中に生きていて、情動、衝動、切迫、思考感情、欲望を感じて動く実存的な人間として追及するという事です。

ですから、条件付けを持ち、浄化が済んだなどと言えるものでない凡人(覚者ではない人)が思い立って尋究します。それゆえ、もちろんしっかりした立脚点を知らず、知らないことを
知って、今まで人間が調べてきたことを調べなおしています。

多くの精緻を極めた宗教的教理があります。これらは遺憾ながら対立し普遍的になり得ないとしか思えません。それで哲学の中に起きている動きを注目して見ています。

今私では理解しにくい難しいところが出てきて、しかもそれが真理にかかわるところですが、意味がくみ取れず、苦戦しています。


[25187] Re:[25186] [25185] [25184] 意味・価値とは何か 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/16(Fri) 09:17  

> > > 意味・価値はどういうものか、私は恥ずかしながらよく知らなかった。ようやく、意味、価値は聖なるものとか理念、理想ではないという話を聞いた。
> > >
> > > 生き物でない鉱物的世界には意味も価値もないだろう。植物はちょっとわからないが、動物の実存的な生の中にこそ意味、価値はあると。そこから意味、価値は発生すると。
> > >
> > > アメーバみたいな原始的な、直接の接触でしか世界を知覚できない動物では、さすがに単なる反射行動のみがあるかどうか、動物行動学者も判定できないそうだ。実際には、心地よい何かにぶつかった時にはそれを全身で包んで離さないようにするとか、心地よくないものに対しては大急ぎで離れるような人間的に見えてしまう行動をとるとかするので、困ってしまうそうだ。
> > >
> > > しかし、少し進化した動物で触手のようなものを持つと、自分の本体が対象と接触する前に知覚することができる―遠隔知覚という。視覚や聴覚が代表的それである。身体と離れては考えられない。
> > >
> > > これにより対象との接触に空間と時間のゆとりが生じ、欲望衝動の意味・価値が審級できるようになったという事らしい。しかし、何をしたいかというその本心は本来一瞥的に理解出来るるものですね。
> > >
> > > 哲学の話の方はこれからどう進むのかまだ全然わかりません。
> >
> >
> >  聖なるものがあるとすれば、それは思考によって検証されえないことをクリシュナムルティは述べています。
> >
> >  ゴトさんは、聖なるものではない世界についての検証を行っているのでしょうか・・。。
>
>
> 思考は聖なるものを創り出すことができます。道端で拾った人面に見える木片が、毎日眺め、花を備えてやると聖なるものに見えてしまいます。聖なるものには用心しなければなりません。意識が判定できるものなのか?!
>
> それで物事の確信できる立脚点は何なのか? 哲学者の追求するところについて行っています。竹田氏(以下T氏)プラトン、アリストテレスから始まり、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガーの巨峰から現代にいたる哲学者、思想家のすべてと言えるほどの人の功績と過誤を検証し、つまり思考の到達したところと過誤を検証しながら、確かな立脚点を探しているように見えます。私はそれについていきたいのです。
>
> 昔風に聖と俗という区分をすれば、T氏の言うところは俗にも見えますが、思考の確かな立脚点を知ることができたら、それは新しい境地を開くと確信しています。
>
> 思考の確かな立脚点が見つかるかどうか、興味ある問題でしょう。今はあまりにもいい加減な使い方がされています。自然科学の領域ですら、立脚点がしっかりしているようで、それがどこに行くかも知らないのです。


 その「確信」を希求する主体とは何でしょうか。。

 その主体こそが「非立脚体」ではないでしょうか。。


[25186] Re:[25185] [25184] 意味・価値とは何か 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/15(Thu) 22:32  

> > 意味・価値はどういうものか、私は恥ずかしながらよく知らなかった。ようやく、意味、価値は聖なるものとか理念、理想ではないという話を聞いた。
> >
> > 生き物でない鉱物的世界には意味も価値もないだろう。植物はちょっとわからないが、動物の実存的な生の中にこそ意味、価値はあると。そこから意味、価値は発生すると。
> >
> > アメーバみたいな原始的な、直接の接触でしか世界を知覚できない動物では、さすがに単なる反射行動のみがあるかどうか、動物行動学者も判定できないそうだ。実際には、心地よい何かにぶつかった時にはそれを全身で包んで離さないようにするとか、心地よくないものに対しては大急ぎで離れるような人間的に見えてしまう行動をとるとかするので、困ってしまうそうだ。
> >
> > しかし、少し進化した動物で触手のようなものを持つと、自分の本体が対象と接触する前に知覚することができる―遠隔知覚という。視覚や聴覚が代表的それである。身体と離れては考えられない。
> >
> > これにより対象との接触に空間と時間のゆとりが生じ、欲望衝動の意味・価値が審級できるようになったという事らしい。しかし、何をしたいかというその本心は本来一瞥的に理解出来るるものですね。
> >
> > 哲学の話の方はこれからどう進むのかまだ全然わかりません。
>
>
>  聖なるものがあるとすれば、それは思考によって検証されえないことをクリシュナムルティは述べています。
>
>  ゴトさんは、聖なるものではない世界についての検証を行っているのでしょうか・・。。


思考は聖なるものを創り出すことができます。道端で拾った人面に見える木片が、毎日眺め、花を備えてやると聖なるものに見えてしまいます。聖なるものには用心しなければなりません。意識が判定できるものなのか?!

それで物事の確信できる立脚点は何なのか? 哲学者の追求するところについて行っています。竹田氏(以下T氏)プラトン、アリストテレスから始まり、カント、ヘーゲル、ニーチェ、フッサール、ハイデガーの巨峰から現代にいたる哲学者、思想家のすべてと言えるほどの人の功績と過誤を検証し、つまり思考の到達したところと過誤を検証しながら、確かな立脚点を探しているように見えます。私はそれについていきたいのです。

昔風に聖と俗という区分をすれば、T氏の言うところは俗にも見えますが、思考の確かな立脚点を知ることができたら、それは新しい境地を開くと確信しています。

思考の確かな立脚点が見つかるかどうか、興味ある問題でしょう。今はあまりにもいい加減な使い方がされています。自然科学の領域ですら、立脚点がしっかりしているようで、それがどこに行くかも知らないのです。


[25185] Re:[25184] 意味・価値とは何か 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/15(Thu) 12:09  

> 意味・価値はどういうものか、私は恥ずかしながらよく知らなかった。ようやく、意味、価値は聖なるものとか理念、理想ではないという話を聞いた。
>
> 生き物でない鉱物的世界には意味も価値もないだろう。植物はちょっとわからないが、動物の実存的な生の中にこそ意味、価値はあると。そこから意味、価値は発生すると。
>
> アメーバみたいな原始的な、直接の接触でしか世界を知覚できない動物では、さすがに単なる反射行動のみがあるかどうか、動物行動学者も判定できないそうだ。実際には、心地よい何かにぶつかった時にはそれを全身で包んで離さないようにするとか、心地よくないものに対しては大急ぎで離れるような人間的に見えてしまう行動をとるとかするので、困ってしまうそうだ。
>
> しかし、少し進化した動物で触手のようなものを持つと、自分の本体が対象と接触する前に知覚することができる―遠隔知覚という。視覚や聴覚が代表的それである。身体と離れては考えられない。
>
> これにより対象との接触に空間と時間のゆとりが生じ、欲望衝動の意味・価値が審級できるようになったという事らしい。しかし、何をしたいかというその本心は本来一瞥的に理解出来るるものですね。
>
> 哲学の話の方はこれからどう進むのかまだ全然わかりません。


 聖なるものがあるとすれば、それは思考によって検証されえないことをクリシュナムルティは述べています。

 ゴトさんは、聖なるものではない世界についての検証を行っているのでしょうか・・。。


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