雑感
[トップに戻る] [留意事項] [ワード検索] [管理用]
おなまえ
Eメール メールアドレスは入力禁止
タイトル
コメント 【コメント中のURLは先頭のhを抜いて書き込んで下さい。】
コメント中には参照先URLと同じURLを書き込まないで下さい
参照先
暗証キー (記事メンテ用)

[26353] Re:[26352] [26350] [26349] [26348] 最初のザーネン講話3−4 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/03(Thu) 09:46  

> > さて、思考者、経験者を総合したようなものとして自己または自我があります。これの本性を見破ることが難しい。これが、観念、イメ−ジ、知識、経験などが絡みついて出来ている疑似生命体、ロボットのようなものだと実感できるといいが、私たちはほかに生きているという過程を知っているような、いないようなところがあって、それが問題です。
> >
> > そこでどうしても判断なしに見ているという事を実際に掴む・異なる過程を知るしかないかと私は思います。判断(反応)なしに見ている過程には自我、自己と言われる中心は機能していません。
>
>
>  >ほかに生きているという過程−−、>異なる過程−−、中心(思考者・経験者)が無い場合の、他の過程があるのですね。。
>
>  それを実際に掴むしかない。


それは実はたくさんあります。あらゆる宗教は行(ぎょう)、勤行というようなお勤めの行事を持っています。それはそれなりの効果があって信者を持っています。しかしご利益を得るというように搾取と絡んでしまいました。
 クリシュナムルティは判断なしに見る、聞く、知覚する、気づきという形でその本質を具体的に示しています。

 そこでこの講話の3−5に入ってみたらいかがでしょう。


[26352] Re:[26350] [26349] [26348] 最初のザーネン講話3−4 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/02(Wed) 22:03  

> >  最後までいくには、>情熱、強烈さ、高度に敏感な心を要します−−、すなわちエネルギーを要するとのこと。
>
>
> ま、エネルギーはいるんですが、敏感に感受する方向でそこに待機しているという事ですか。
>
>
> >  探求したい、深くまで進みたい、クリシュナムルティを読みたいと思うときは、仕事などで疲れているときではなく、朝起きて、まだ昨日の疲れが残っている朝ではなく、葛藤(ストレス等も含め)がなく、心穏やかですっきりしている気分の時。
> >  あるいは、瞑想等で心底からすっきり軽やかになっているとき。
> >
> >  そのような心が探求のためのエネルギーを有し、>まさに終りまで行き、ものごとの本質を発見する−−、これができやすい素地となるようだ。。
>
>
> まさにそういう感じですね。
>
>
> >  >それは自己矛盾のまさに根源です。−−、クリシュナムルティは、「一般ピープルは矛盾の中に居る」旨を述べている。その矛盾は、あれこれと頭の整理をしたり、気持ちの整理をすれば正せるようなものではなく、自我の確立自体、「私」の存在自体が、矛盾の根源となるようだ。。
> >
> >  これを直接知覚できるだろうか。
> >
> >
> >  葛藤なしに生きることが出来るでしょうか? >それは、実際には、自己達成と対立するものの葛藤の問題全体を調べること、そしてより多くの経験、より多くの感情、より広い地平を際限なく熱望している思考者、経験者に対して、何か実在性があるかどうかを見ることを意味します。−−
> >
> >  この一説がとても重要になるように感じます。
>
>
> うむ、そのようです。
>
>
> >  「自己達成と対立するもの」、朝の車での通勤で、割り込まれたらイラッっとする。この割り込まれることが、ひとつの「自己達成と対立するもの」。同僚との会話の中で、カチンとくる言葉。この相手の言葉が「自己達成と対立するもの」。職場で心細くなる(不安になる)状況。この状況が「自己達成と対立するもの」。これらの葛藤の問題全体を調べる。
> >
> >  そして、ゴトさんが述べたように、>そしてより多くの経験、より多くの感情、より広い地平を際限なく熱望している思考者、経験者に対して、何か実在性があるかどうかを見ることを意味します。−−
> >
> >
> >  この「実在性があるかどうか?」これが難しい。
> >
> >  答えは「ない」と分かっているがゆえに、観念で「ない。」と答えたくない。
> >
> >  本当に「ない」と直接知覚したい。
>
>
> はい。その気持ちわかります。
>
>
> >  しかし、知覚できることは、この肉体と、この半生の記憶と同一化している思考者・経験者の実在性である。
>
>
> それは思考、考えかと思います。実際に思考者は知覚としてはその発する思考しかありません。すなわち、ある一連の思考から推察判断して思考者という考え・推論像が生じるわけです。経験者も同じです。実際に知覚できるのは思考のみです。もちろんそれに対抗するあるがままのものの発するものも知覚されます。


 はい。葛藤があるときに思考者の存在が強まるので、そのときに思考者を見てみると、思考者は思考でした。知覚できるのは思考としての思考者だけです。

 そして、>ある一連の思考から推察判断して思考者という考え・推論像が生じるわけです。経験者も同じです。−−、そのように思考が、「当個体主体断片化意識」の観念を組み立てるのですね。

 その組み立てる思考力が未熟な乳幼児は、個体として生きながらも、当個体が断片化(バラバラに)された「私」という観念(イメージ)を有さないのですね。

 人類は、誕生以来、二百万年間も「当個体主体断片化意識」を思考で組み立て、これを「私」として最高権威として祭り上げていたのですね。

 そして、当個体の「生」はこの最高権威に服従せざるを得なくなることが必然となってしまう。
 これが、>より多くの経験、より多くの感情、より広い地平を際限なく熱望している思考者、経験者−−、すなわち「当個体主体断片化意識」に服従する反応となる。その服従自体が矛盾であり、葛藤となる。

 「あなた」とは「当個体主体断片化意識」という観念であった。それゆえに、地上の個体数と同数の「当個体主体断片化意識」が存在し得る。脳の作用として。観念として。実在ではなく。
 

> さて、思考者、経験者を総合したようなものとして自己または自我があります。これの本性を見破ることが難しい。これが、観念、イメ−ジ、知識、経験などが絡みついて出来ている疑似生命体、ロボットのようなものだと実感できるといいが、私たちはほかに生きているという過程を知っているような、いないようなところがあって、それが問題です。
>
> そこでどうしても判断なしに見ているという事を実際に掴む・異なる過程を知るしかないかと私は思います。判断(反応)なしに見ている過程には自我、自己と言われる中心は機能していません。


 >ほかに生きているという過程−−、>異なる過程−−、中心(思考者・経験者)が無い場合の、他の過程があるのですね。。

 それを実際に掴むしかない。


[26351] 最初のザーネン講話3−5 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/02(Wed) 20:42  

1961年ザーネンの公開講話 3回目の5

 このことは私たちが先日 討論していた、見ることとはどういうことかという問題を実際に含みます。私たちは生、他の人、木を観念、意見、記憶を通して見ているのでしょうか? それとも生や人や木と直接に親交しているのでしょうか? 私たちは観念、記憶、判断を通して見ており、それゆえ決して見ていないと私は思います。同様に、私は私自身を私が「実際にそうである」ように見るのでしょうか、あるいは私自身を私が「そうあるべき」もの、または私が「そうであってきた」もののように見るのでしょうか?


ゴト: この問題は承知していますが、実際はどうでしょうか。


 言い換えると、意識は分割できるでしょうか? 私たちは非常に安易に無意識と意識的な心、そして両方のそれの中の多くの様々な層について話します。そのような層、そのような部分があり、それらはお互いに対立しています。私たちはすべてのこれらの層を一つ一つ詳しく調査し、それらを捨てたり、理解しようとしなければならないでしょうか―それは非常にうんざりするし、問題を処理する効果のないやり方です―、それともすべての区別、全部のものを払いのけ、意識全体に気づいていることが出来るでしょうか?


ゴト: 意識を区分し、分析的に調べるのは取捨選択につながり、うんざりするだけで効果がなく、そうではなくて、意識全体、実際には意識に上るものにすっかり気づいているということかな。


 私が先日言っていたように、何かに全体的に気づいているためには知覚が、観念によって薄く色をつけられていない見ることがなければなりません。何かをすっかり、全体として見ることは動機、目的があるならできません。私たちが変更にかかわっているなら、実際にそうであるものを見ていません。私たちは違わなければならない、私たちが見るものをよりよい、より美しいものに変えなければならないという観念にかかわっているなら、そのとき私たちは「そうであるもの」の全体を見ることはできません。そのとき心は単に変化、変更、改良、改善にかかわっているに過ぎません。


ゴト: 何かを変えよう、何とかしようと思って見ているなら、そうであるものをすっかり見るのではなく、選択して見てしまうという事か。反応が出るでしょう。


 そこで私は、区別、層、意識の中の対立する観念に捕われることなしに、私自身を、私がそうであるままに意識全体として見ることが出来るでしょうか? あなたが今までに何かの瞑想をしたかどうか私にはわかりません―そして今直ちにそれを論じようとしてはいません。しかし、あなたがしたことがあるなら、瞑想の中の葛藤、思考を制御しようとする意志とさまよう思考を観察したに違いありません。それは私たちの意識の一部です―制御しよう、形作ろう、満足しよう、成功しよう、安全を見つけようというその衝動。そして同時に、そのすべての馬鹿らしさ、無益さ、無用さの一見。私たちの多くは私達自身の周囲の壁として働く行為や、観念や、抵抗の意志を発達させようとします。その壁の内側で私たちは葛藤のない状態に留まろうと望みます。


ゴト: 思考の一部である思考者がさ迷う思考を制御しようとする有様の一見。自分の周囲に壁を築いてその中に葛藤のない状態をつくろうとすることの一見。それらはみな自分が起こしている問題にすぎないのか。


 さて、この葛藤のすべての全体を見ること、そしてその全体と接触していることができるでしょうか? このことは葛藤の全体という観念と接触していることや、私が使用している言葉と同一化することではありません。そうではなくすべての葛藤の悲しみ、惨めさ、熱望、苦闘を伴なう、人間存在の全体という事実と接触していることを意味します。それは事実と直面すること、それと共に生きることを意味します。


ゴト: はい。

(続く)


[26350] Re:[26349] [26348] 最初のザーネン講話3−4 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/02(Wed) 14:45  

>  最後までいくには、>情熱、強烈さ、高度に敏感な心を要します−−、すなわちエネルギーを要するとのこと。


ま、エネルギーはいるんですが、敏感に感受する方向でそこに待機しているという事ですか。


>  探求したい、深くまで進みたい、クリシュナムルティを読みたいと思うときは、仕事などで疲れているときではなく、朝起きて、まだ昨日の疲れが残っている朝ではなく、葛藤(ストレス等も含め)がなく、心穏やかですっきりしている気分の時。
>  あるいは、瞑想等で心底からすっきり軽やかになっているとき。
>
>  そのような心が探求のためのエネルギーを有し、>まさに終りまで行き、ものごとの本質を発見する−−、これができやすい素地となるようだ。。


まさにそういう感じですね。


>  >それは自己矛盾のまさに根源です。−−、クリシュナムルティは、「一般ピープルは矛盾の中に居る」旨を述べている。その矛盾は、あれこれと頭の整理をしたり、気持ちの整理をすれば正せるようなものではなく、自我の確立自体、「私」の存在自体が、矛盾の根源となるようだ。。
>
>  これを直接知覚できるだろうか。
>
>
>  葛藤なしに生きることが出来るでしょうか? >それは、実際には、自己達成と対立するものの葛藤の問題全体を調べること、そしてより多くの経験、より多くの感情、より広い地平を際限なく熱望している思考者、経験者に対して、何か実在性があるかどうかを見ることを意味します。−−
>
>  この一説がとても重要になるように感じます。


うむ、そのようです。


>  「自己達成と対立するもの」、朝の車での通勤で、割り込まれたらイラッっとする。この割り込まれることが、ひとつの「自己達成と対立するもの」。同僚との会話の中で、カチンとくる言葉。この相手の言葉が「自己達成と対立するもの」。職場で心細くなる(不安になる)状況。この状況が「自己達成と対立するもの」。これらの葛藤の問題全体を調べる。
>
>  そして、ゴトさんが述べたように、>そしてより多くの経験、より多くの感情、より広い地平を際限なく熱望している思考者、経験者に対して、何か実在性があるかどうかを見ることを意味します。−−
>
>
>  この「実在性があるかどうか?」これが難しい。
>
>  答えは「ない」と分かっているがゆえに、観念で「ない。」と答えたくない。
>
>  本当に「ない」と直接知覚したい。


はい。その気持ちわかります。


>  しかし、知覚できることは、この肉体と、この半生の記憶と同一化している思考者・経験者の実在性である。


それは思考、考えかと思います。実際に思考者は知覚としてはその発する思考しかありません。すなわち、ある一連の思考から推察判断して思考者という考え・推論像が生じるわけです。経験者も同じです。実際に知覚できるのは思考のみです。もちろんそれに対抗するあるがままのものの発するものも知覚されます。


さて、思考者、経験者を総合したようなものとして自己または自我があります。これの本性を見破ることが難しい。これが、観念、イメ−ジ、知識、経験などが絡みついて出来ている疑似生命体、ロボットのようなものだと実感できるといいが、私たちはほかに生きているという過程を知っているような、いないようなところがあって、それが問題です。

そこでどうしても判断なしに見ているという事を実際に掴む・異なる過程を知るしかないかと私は思います。判断(反応)なしに見ている過程には自我、自己と言われる中心は機能していません。


[26349] Re:[26348] 最初のザーネン講話3−4 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/01(Tue) 20:40  

> 1961年ザーネンの公開講話 3回目の4
>
>  まさに終りまで行き、ものごとの本質を発見するためには、情熱、強烈さ、高度に敏感な心を要します―情報に通じた心、知識を詰め込まれた心ではなく。情熱なしに敏感であることはできません。そして情熱、見出そうとするこの活力は、私達自身の内部の絶え間のない戦いによって鈍くされます。不幸にも私たちは苦闘と葛藤を避け難いものとして受け入れ、日に日により無感覚で鈍くなります。その極端な形は精神病につながります。しかし普通私たちは教会、観念、あらゆる種類の浅薄なものごとの中に逃避を見つけます。そこで、葛藤なしに生きることが出来るでしょうか? それとも、私たちは社会によって、私達自身の野心、貪欲、羨望、成功の追求によって非常に深く条件づけられているので、葛藤を良いこととして、目的を持った高尚なこととして受け入れるのでしょうか? もしも私たちの一人一人が、私たちが実際に葛藤をどう考えるか見出すことができるなら、それは有益であるだろうにと私は思います。私たちはそれを受け入れるのでしょうか、あるいはそれに捉えられ、それからどうやって逃げ出せばいいかわからないのでしょうか、それとも多くの逃避に満足するのでしょうか?
>
>
> ゴト: 葛藤と苦闘を続けて疲れ果て鈍くなるか、ビールをはじめとする娯楽でストレスを解消し逃避し続けるか、いずれにせよ疲れて鈍くなるに違いないことはわかってきました。
>
>
>  それは、実際には、自己達成と対立するものの葛藤の問題全体を調べること、そしてより多くの経験、より多くの感情、より広い地平を際限なく熱望している思考者、経験者に対して、何か実在性があるかどうかを見ることを意味します。
>
>
> ゴト: 熱望を掻き立てる犯人なのか、思考者、経験者は!
>  思考者、経験者の実在性が検討の対象として出てきました。これは昨日言ったことと同じかな。
>
>
>  思考のみがあり思考者はないのでしょうか? 経験している状態のみがあり経験者はないのでしょうか? 記憶を通して経験者が生じるやいなや、葛藤があるに違いありません。私はそれは、あなたがそれを考えたことがあるなら、かなり簡単であると思います。それは自己矛盾のまさに根源です。私たちの多くにとって思考者がもっとも重要になっていますが、思考がではありません。経験者がもっとも重要になっていますが経験している状態がではありません。
>
>
> ゴト: クリシュナムルティのヒントによると、思考、経験が重要だそうです。
>  思考者、経験者がいる限り、なまの思考、なまの経験もありませんが、直接の生の思考、経験を重要視することがほとんどの人にとって問題意識にも上っていません。
>
> (続く)


 最後までいくには、>情熱、強烈さ、高度に敏感な心を要します−−、すなわちエネルギーを要するとのこと。

 探求したい、深くまで進みたい、クリシュナムルティを読みたいと思うときは、仕事などで疲れているときではなく、朝起きて、まだ昨日の疲れが残っている朝ではなく、葛藤(ストレス等も含め)がなく、心穏やかですっきりしている気分の時。
 あるいは、瞑想等で心底からすっきり軽やかになっているとき。

 そのような心が探求のためのエネルギーを有し、>まさに終りまで行き、ものごとの本質を発見する−−、これができやすい素地となるようだ。。


 >それは自己矛盾のまさに根源です。−−、クリシュナムルティは、「一般ピープルは矛盾の中に居る」旨を述べている。その矛盾は、あれこれと頭の整理をしたり、気持ちの整理をすれば正せるようなものではなく、自我の確立自体、「私」の存在自体が、矛盾の根源となるようだ。。

 これを直接知覚できるだろうか。


 葛藤なしに生きることが出来るでしょうか? >それは、実際には、自己達成と対立するものの葛藤の問題全体を調べること、そしてより多くの経験、より多くの感情、より広い地平を際限なく熱望している思考者、経験者に対して、何か実在性があるかどうかを見ることを意味します。−−

 この一説がとても重要になるように感じます。

 「自己達成と対立するもの」、朝の車での通勤で、割り込まれたらイラッっとする。この割り込まれることが、ひとつの「自己達成と対立するもの」。同僚との会話の中で、カチンとくる言葉。この相手の言葉が「自己達成と対立するもの」。職場で心細くなる(不安になる)状況。この状況が「自己達成と対立するもの」。これらの葛藤の問題全体を調べる。

 そして、ゴトさんが述べたように、>そしてより多くの経験、より多くの感情、より広い地平を際限なく熱望している思考者、経験者に対して、何か実在性があるかどうかを見ることを意味します。−−


 この「実在性があるかどうか?」これが難しい。

 答えは「ない」と分かっているがゆえに、観念で「ない。」と答えたくない。

 本当に「ない」と直接知覚したい。

 しかし、知覚できることは、この肉体と、この半生の記憶と同一化している思考者・経験者の実在性である。



[26348] 最初のザーネン講話3−4 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/01(Tue) 13:18  

1961年ザーネンの公開講話 3回目の4

 まさに終りまで行き、ものごとの本質を発見するためには、情熱、強烈さ、高度に敏感な心を要します―情報に通じた心、知識を詰め込まれた心ではなく。情熱なしに敏感であることはできません。そして情熱、見出そうとするこの活力は、私達自身の内部の絶え間のない戦いによって鈍くされます。不幸にも私たちは苦闘と葛藤を避け難いものとして受け入れ、日に日により無感覚で鈍くなります。その極端な形は精神病につながります。しかし普通私たちは教会、観念、あらゆる種類の浅薄なものごとの中に逃避を見つけます。そこで、葛藤なしに生きることが出来るでしょうか? それとも、私たちは社会によって、私達自身の野心、貪欲、羨望、成功の追求によって非常に深く条件づけられているので、葛藤を良いこととして、目的を持った高尚なこととして受け入れるのでしょうか? もしも私たちの一人一人が、私たちが実際に葛藤をどう考えるか見出すことができるなら、それは有益であるだろうにと私は思います。私たちはそれを受け入れるのでしょうか、あるいはそれに捉えられ、それからどうやって逃げ出せばいいかわからないのでしょうか、それとも多くの逃避に満足するのでしょうか?


ゴト: 葛藤と苦闘を続けて疲れ果て鈍くなるか、ビールをはじめとする娯楽でストレスを解消し逃避し続けるか、いずれにせよ疲れて鈍くなるに違いないことはわかってきました。


 それは、実際には、自己達成と対立するものの葛藤の問題全体を調べること、そしてより多くの経験、より多くの感情、より広い地平を際限なく熱望している思考者、経験者に対して、何か実在性があるかどうかを見ることを意味します。


ゴト: 熱望を掻き立てる犯人なのか、思考者、経験者は!
 思考者、経験者の実在性が検討の対象として出てきました。これは昨日言ったことと同じかな。


 思考のみがあり思考者はないのでしょうか? 経験している状態のみがあり経験者はないのでしょうか? 記憶を通して経験者が生じるやいなや、葛藤があるに違いありません。私はそれは、あなたがそれを考えたことがあるなら、かなり簡単であると思います。それは自己矛盾のまさに根源です。私たちの多くにとって思考者がもっとも重要になっていますが、思考がではありません。経験者がもっとも重要になっていますが経験している状態がではありません。


ゴト: クリシュナムルティのヒントによると、思考、経験が重要だそうです。
 思考者、経験者がいる限り、なまの思考、なまの経験もありませんが、直接の生の思考、経験を重要視することがほとんどの人にとって問題意識にも上っていません。

(続く)


[26347] Re:[26344] [26342] [26341] 最初のザーネン講話3−2 投稿者:宮啓 投稿日:2019/01/01(Tue) 12:46  

> > > 1961年ザーネンの公開講話 3回目の3
> > >
> >  分離・断片化の内側が自我。分離・断片化があると野心と成功の崇拝は避けられない。よって、分離があるところに葛藤がある。。
> >
> >  なぜ分離・断片化するのだろうか。
> >
> >  分離・断片化しようとする欲望・渇望があるのだろうか。
>
>
> これからクリシュナムルティがどういうかが楽しみですが、問いがあったので今自分で考えてみると、観察者が自分を見る時、それは実体をではなく、作り上げた観念・イメ−ジを見ているのだと思います。見る側も実体でなく、思考者とか経験者とかの観念でできている機構にすぎず、それゆえ、分離しているかのごとき、心理劇を展開できるのでしょう。
>
> 自分自身が自分自身の実態・あるがままのものを感受する・気づく・知覚することだけが、即時の理解、精神の変容につながる過程なのでしょうね。


 自己理解の中に、問いへの答えがあるということですね。。

 他のどこでもない、自己の理解の中に。


[26346] Re:[26345] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2019/01/01(Tue) 12:39  

> 教えというのはそれだけで思考がストップしてします。
> よくKの教えというが自問自答力こそが真理へのエンジンであると思う。真理への道は教えではない。
>
> そこで究極の自分への質問とうことになるが、それは「私は誰か?」ということになると思う。これをひたすら自問自答する。何年も年々も、真剣に。
>
> それで得られた自分で出した本当に腑に落ちる答えこそが真理であると思うようになった。教えの中には真理はない。究極の質問の自問自答の中に真理はあると私は思う。

傾聴いたしました。日本語の訳はあなたは誰か?とまるで名前を聞くようになりますが、自分は如何なる存在であるのかを深く問う事ですね。

 「老いて学べば死して朽ちず」恩師が30年ほど前に話してくださったことです。これは教えとも言えますが、先生の思いの伝達なんですね。今老いた身で思い出すとなんだか涙が出そうです。お陰様で学ぶ心は尽きません。
>
>
> 明けましておめでとうございます。

有難うございます。
新年、皆様 元気で生きていきましょう。


[26345] 無題 投稿者:南方 投稿日:2019/01/01(Tue) 08:42  

教えというのはそれだけで思考がストップしてします。
よくKの教えというが自問自答力こそが真理へのエンジンであると思う。真理への道は教えではない。

そこで究極の自分への質問とうことになるが、それは「私は誰か?」ということになると思う。これをひたすら自問自答する。何年も年々も、真剣に。

それで得られた自分で出した本当に腑に落ちる答えこそが真理であると思うようになった。教えの中には真理はない。究極の質問の自問自答の中に真理はあると私は思う。


明けましておめでとうございます。


[26344] Re:[26342] [26341] 最初のザーネン講話3−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/12/31(Mon) 18:28  

> > 1961年ザーネンの公開講話 3回目の3
> >
>  分離・断片化の内側が自我。分離・断片化があると野心と成功の崇拝は避けられない。よって、分離があるところに葛藤がある。。
>
>  なぜ分離・断片化するのだろうか。
>
>  分離・断片化しようとする欲望・渇望があるのだろうか。


これからクリシュナムルティがどういうかが楽しみですが、問いがあったので今自分で考えてみると、観察者が自分を見る時、それは実体をではなく、作り上げた観念・イメ−ジを見ているのだと思います。見る側も実体でなく、思考者とか経験者とかの観念でできている機構にすぎず、それゆえ、分離しているかのごとき、心理劇を展開できるのでしょう。

自分自身が自分自身の実態・あるがままのものを感受する・気づく・知覚することだけが、即時の理解、精神の変容につながる過程なのでしょうね。


[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31] [32] [33] [34] [35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58] [59] [60] [61] [62] [63] [64] [65] [66] [67] [68] [69] [70] [71] [72] [73] [74] [75] [76] [77] [78] [79] [80] [81] [82] [83] [84] [85] [86] [87] [88] [89] [90] [91] [92] [93] [94] [95] [96] [97] [98] [99] [100]

処理 記事No 暗証キー
- LightBoard - Modified by isso