雑感
[トップに戻る] [留意事項] [ワード検索] [管理用]
おなまえ
Eメール メールアドレスは入力禁止
タイトル
コメント 【コメント中のURLは先頭のhを抜いて書き込んで下さい。】
コメント中には参照先URLと同じURLを書き込まないで下さい
参照先
暗証キー (記事メンテ用)

[25071] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/02/05(Mon) 19:24  

https://soundcloud.com/taishi-ohira-745737342/vishraamah please listen

新しい芽氏の絵とコラボ。


[25070] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/02/05(Mon) 17:13  

セヴァ〔無私の奉仕〕は瞑想よりもよい霊性修行の形であるということを知りなさい。あなたの隣にもがき苦しんでいる人がいて、あなたがその人を親切に扱わず、その人を助けるためにできる限りの努力をしないなら、神はあなたが行う瞑想を高く評価することができるでしょうか? もがき苦しんでいる人から離れた場所でジャパや瞑想による自己救済に没頭していてはいけません。姉妹の間を歩いて、助けを施す機会を探しなさい。ただし、舌には神の御名を置き、心の目には神の姿が映っているようにしなさい。それこそが最高の霊性修行です!


[25069] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/02/04(Sun) 20:28  

今日、久しぶりに芹沢さん(二つの月さん)と話した。映画音楽を手がけてるらしい。


[25068] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/02/04(Sun) 19:13  

女子教育
資源の再配分

これは私は、実際の社会の復活に必要な要素だと思う。


[25067] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/02/04(Sun) 09:35  

肉体 三次元 物質
アストラル体 四次元 感情
メンタル体 五次元 理性
マナス体 5.5次元 霊的知性
ブッディ体 6次元 直観
アートマ体 7次元 意志


[25066] Re:[25064] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/02/03(Sat) 22:59  

> 第四の次元で、あなたは自分と思考が別個であること――自分は思考でないこと――を理解し始める。だから私が前に言ったように、無思考の状態が起こる時は、観照も必ず訪れる。思考がある時は、必ず観照は失われる。思考の合間、つまり思考と思考の合間の中で、あなたは思考から切り離された自己を悟るだろう。もうあなたと思考の間に、どんな繋がりもない。しかしその時ですら、あなたは頼りない観察者にすぎない。あらゆる努力は第四身体でこそなされるべきだが、あなたには大したことはできない。
>
>  私は第四身体の、ふたつの可能性について説明した――ひとつはすでに備わっているもの、もうひとつは瞑想によって得られるものだ。あなたはこのふたつの間を、行ったり来たりするだろう。最初の可能性は思考、第二の可能性は理解だ。第四身体の第二の可能性――ヴィヴェーク、または理解――に到達すると、意識とマインドの同化だけでなく、第四身体そのものも落ちる。第五身体に到達すると、ふたつのことが落ちる――すなわち第四身体、そしてこの同一化。
>
>  第五身体では、思考を起こすも起こさないも思うがままだ。ここで初めて、思考が自己同化に左右されることのない、ひとつの手段となる。怒りを引き起こそうと思えば、引き起こせるし、愛を起こそうと思えばそうできる。何も起こそうと思わなければ、自由にそうできる。半ば起こりかけた怒りを止めようと思えば、止るようにと命令できる。どんな思考であれ、引き起こしたいと思えば何でもやって来るし、望まざる思考は、マインドに押し入ってくる力もなくなるだろう。
>
> (中略)
>
>  自己同化は、第五身体で崩壊する。そして初めて、あなたは穏やかになり、空っぽになる。――しかも自分の自由な意思に基づいてだ。しかし必要があれば考えもする。だから、第五身体で初めて、あなたは考える力を利用できるようになる。第五身体の前では、思考にあなたは駆使され、第五身体の後では、あなたが思考を利用すると言った方がいいだろう。それ以前の段階で、「私は思う」と言うのは適切ではない。あなたもまた、第五身体になれば、思考が自分自身のものではないということを知るだろう。
>
> (中略)
>
>  考えるという行為は自分自身のものだが、思考は異邦人だ。あなたの内側で、この考えるという行為が始まるのは、第五身体の後だ。その後になれば、考えられるようになる。もはや単に、他人の思考を集めているだけではない。第五身体においては、考えるということが、まったく重荷にならない。自分自身のものだからだ。第五身体で生まれたこの考えについては――好きなように、どう呼んでもかまわないが――叡智や理解と呼べるだろう。
>
>  第五の次元で、あなたは独自の直感、独自の理解、独自の知性を得る。第五の次元で外側のあらゆる思考の影響は終わり、その意味であなたは、自分自身の主人となる。あなたは自己の実存に到達し、自分自身となる。今やあなたは独自の考え、独自の思考力、独自の目、独自の視界を持つ。ここから先は、望むことだけがあなたの元に訪れ、望まないことはまったく近づいて来なくなる。望むことだけ考え、他の思考に押し入られることはない。もうあなたは主人だ。ここでは、自己同化の問題は生じない。
>
>  第六身体では、考えるという行為さえも必要とされない。思考は第四身体まで付き物であり、思索と英知は、第五身体ではなくてはならないものだ。第六の次元では、こうしたことさえ終わりを告げる。そこでは、そういうものはまったく必要とされない。あなたは宇宙的になり、ブラフマンとひとつになる。もう他者は存在しない。
>
>  実のところ、あらゆる思考は、常に他者と関わっている。第四身体以前の思考は、他者と無意識的につながったものだ。第五身体における思考は、意識的なつながりだが、まだ他者との関わりがある。結局、なぜ思考が必要なのだろう? それはひとえに、他者との関係性を築くためだ。第四身体までの思考は無意識的なつながりだが、第五身体ではそれが意識的なものとなる。しかし第六身体では、つながりを結ぶ「他者」は存在しない。あらゆる関係性は終わり、宇宙的なものだけが残る。私とあなたは、もはやひとつだ。もう思考が存続する場所もなければ、理由もない。
>
>  第六の次元はブラフマン――一切の思考がない、宇宙的真実だ。ブラフマンには思考が存在しないため、ブラフマンには知がないと言われる。第四身体まで存在している思考は、実は無意識の思考であり、深い無知をはらんでいる。これは、自己の無知と闘うために、思考が必要とされているということを物語る。第五身体では、内側で自己知を得るが、まだ他者のものについては無知のままだ――他者は依然として存在する。だから、第五身体では考える必要がある。第六身体では、内側も外側も、私もあなたも、これもあれもまったく存在しない。もはや思考を正当だと判断するための相違というものが、一切存在しない。ただ、あるがままに在るだけだ。だから第六身体には、ただ知のみがあり、思考は存在しない。
>
>  第七身体には、知すら存在しない。知る者も、知られるものも、もはや存在しないからだ。だから第七の次元には、知さえも存在しない。第七の次元は知が欠けているのではなく、知を超えている。知なき世界と呼んでも構わない。だから、究極の意識を持つ人と、まったく無知な人が、同じように見えることがよくあるのだ。何しろ彼らは、よく同じような振る舞いをする。子供と光明を得た老人には、いつも大きな類似点があるのもこのためだ。彼らは実際に同じではないが、表面的には似ているように見える。ときどき光明を得た聖人は、子供のような行動をし、また子供の振る舞いの中に、しばしば聖なるものが垣間見える。時折、光明を得た人は、まったく無知な人間、完全な白痴のように見え、その様は誰も、彼ほど愚かにはなれないだろうと思えるほどだ。しかし聖人は知を超えているが、子供はいまだ知に至っていない。類似点は、両者とも知の外側にいるということだ。


4次元から7次元に至る人の心の変化についてはご苦労様でした。
しかしいつも思うのだが、私は生身の俗界で生きている人に働きかけているのかが問題ではないかと思う。
実際の社会機構の問題点をはっきりと明らかにすることが今や必要な気がするのですが。。
個人の境涯を高くすることが、マニアックな外見ながら組織になっては仕方がない。思考の創り出した社会的組織のネットワークが動にもほどけず、混乱のままに膨張しているのだろうか。どうなるか誰にも分からないという事かも。

しかし、終末が来ると誰もが悟るかも。


[25065] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/02/03(Sat) 22:18  

怒りも健康を害する大きな原因です。さらに、他の理由からも怒りは危険です。怒りは同調者に長い爪痕を残し、その一つひとつが最終的な崩壊の一因となります。ですから、心に怒りが生じたら、神は遍在であるということ、万人に内在して動機を与えているのは神であるということ、人生という劇の監督は神であるということを思い出し、その激情を抑えなければなりません。あなたに怒りを起こさせた出来事以外のことを考える、ナーマスマラナ(唱名)をする、ベッドに横になる、長い距離を歩く、冷たい水を飲む――これらを試みて、あなたが勝つまで自分と戦いなさい。他人と争ってはなりません。自分自身の衝動と戦いなさい。


[25064] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/02/02(Fri) 23:37  

第四の次元で、あなたは自分と思考が別個であること――自分は思考でないこと――を理解し始める。だから私が前に言ったように、無思考の状態が起こる時は、観照も必ず訪れる。思考がある時は、必ず観照は失われる。思考の合間、つまり思考と思考の合間の中で、あなたは思考から切り離された自己を悟るだろう。もうあなたと思考の間に、どんな繋がりもない。しかしその時ですら、あなたは頼りない観察者にすぎない。あらゆる努力は第四身体でこそなされるべきだが、あなたには大したことはできない。

 私は第四身体の、ふたつの可能性について説明した――ひとつはすでに備わっているもの、もうひとつは瞑想によって得られるものだ。あなたはこのふたつの間を、行ったり来たりするだろう。最初の可能性は思考、第二の可能性は理解だ。第四身体の第二の可能性――ヴィヴェーク、または理解――に到達すると、意識とマインドの同化だけでなく、第四身体そのものも落ちる。第五身体に到達すると、ふたつのことが落ちる――すなわち第四身体、そしてこの同一化。

 第五身体では、思考を起こすも起こさないも思うがままだ。ここで初めて、思考が自己同化に左右されることのない、ひとつの手段となる。怒りを引き起こそうと思えば、引き起こせるし、愛を起こそうと思えばそうできる。何も起こそうと思わなければ、自由にそうできる。半ば起こりかけた怒りを止めようと思えば、止るようにと命令できる。どんな思考であれ、引き起こしたいと思えば何でもやって来るし、望まざる思考は、マインドに押し入ってくる力もなくなるだろう。

(中略)

 自己同化は、第五身体で崩壊する。そして初めて、あなたは穏やかになり、空っぽになる。――しかも自分の自由な意思に基づいてだ。しかし必要があれば考えもする。だから、第五身体で初めて、あなたは考える力を利用できるようになる。第五身体の前では、思考にあなたは駆使され、第五身体の後では、あなたが思考を利用すると言った方がいいだろう。それ以前の段階で、「私は思う」と言うのは適切ではない。あなたもまた、第五身体になれば、思考が自分自身のものではないということを知るだろう。

(中略)

 考えるという行為は自分自身のものだが、思考は異邦人だ。あなたの内側で、この考えるという行為が始まるのは、第五身体の後だ。その後になれば、考えられるようになる。もはや単に、他人の思考を集めているだけではない。第五身体においては、考えるということが、まったく重荷にならない。自分自身のものだからだ。第五身体で生まれたこの考えについては――好きなように、どう呼んでもかまわないが――叡智や理解と呼べるだろう。

 第五の次元で、あなたは独自の直感、独自の理解、独自の知性を得る。第五の次元で外側のあらゆる思考の影響は終わり、その意味であなたは、自分自身の主人となる。あなたは自己の実存に到達し、自分自身となる。今やあなたは独自の考え、独自の思考力、独自の目、独自の視界を持つ。ここから先は、望むことだけがあなたの元に訪れ、望まないことはまったく近づいて来なくなる。望むことだけ考え、他の思考に押し入られることはない。もうあなたは主人だ。ここでは、自己同化の問題は生じない。

 第六身体では、考えるという行為さえも必要とされない。思考は第四身体まで付き物であり、思索と英知は、第五身体ではなくてはならないものだ。第六の次元では、こうしたことさえ終わりを告げる。そこでは、そういうものはまったく必要とされない。あなたは宇宙的になり、ブラフマンとひとつになる。もう他者は存在しない。

 実のところ、あらゆる思考は、常に他者と関わっている。第四身体以前の思考は、他者と無意識的につながったものだ。第五身体における思考は、意識的なつながりだが、まだ他者との関わりがある。結局、なぜ思考が必要なのだろう? それはひとえに、他者との関係性を築くためだ。第四身体までの思考は無意識的なつながりだが、第五身体ではそれが意識的なものとなる。しかし第六身体では、つながりを結ぶ「他者」は存在しない。あらゆる関係性は終わり、宇宙的なものだけが残る。私とあなたは、もはやひとつだ。もう思考が存続する場所もなければ、理由もない。

 第六の次元はブラフマン――一切の思考がない、宇宙的真実だ。ブラフマンには思考が存在しないため、ブラフマンには知がないと言われる。第四身体まで存在している思考は、実は無意識の思考であり、深い無知をはらんでいる。これは、自己の無知と闘うために、思考が必要とされているということを物語る。第五身体では、内側で自己知を得るが、まだ他者のものについては無知のままだ――他者は依然として存在する。だから、第五身体では考える必要がある。第六身体では、内側も外側も、私もあなたも、これもあれもまったく存在しない。もはや思考を正当だと判断するための相違というものが、一切存在しない。ただ、あるがままに在るだけだ。だから第六身体には、ただ知のみがあり、思考は存在しない。

 第七身体には、知すら存在しない。知る者も、知られるものも、もはや存在しないからだ。だから第七の次元には、知さえも存在しない。第七の次元は知が欠けているのではなく、知を超えている。知なき世界と呼んでも構わない。だから、究極の意識を持つ人と、まったく無知な人が、同じように見えることがよくあるのだ。何しろ彼らは、よく同じような振る舞いをする。子供と光明を得た老人には、いつも大きな類似点があるのもこのためだ。彼らは実際に同じではないが、表面的には似ているように見える。ときどき光明を得た聖人は、子供のような行動をし、また子供の振る舞いの中に、しばしば聖なるものが垣間見える。時折、光明を得た人は、まったく無知な人間、完全な白痴のように見え、その様は誰も、彼ほど愚かにはなれないだろうと思えるほどだ。しかし聖人は知を超えているが、子供はいまだ知に至っていない。類似点は、両者とも知の外側にいるということだ。


[25063] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/02/02(Fri) 19:47  

彼女にわかれを告げた。死にそうな動物が必死で助けを求めてるのを、目の前で殺すような胸の痛みだった。


[25062] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/02/02(Fri) 00:43  

人生は、観念や思考を通じて間接的にみてるから耐えれるんだと思う。

ありのままの世界や人生は厳しすぎて、正視にたえない。


[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31] [32] [33] [34] [35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58] [59] [60] [61] [62] [63] [64] [65] [66] [67] [68] [69] [70] [71] [72] [73] [74] [75] [76] [77] [78] [79] [80] [81] [82] [83] [84] [85] [86] [87] [88] [89] [90] [91] [92] [93] [94] [95] [96] [97] [98] [99] [100]

処理 記事No 暗証キー
- LightBoard - Modified by isso