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[25694] 恐怖イコール思考 投稿者:無明 投稿日:2018/07/24(Tue) 18:06  

>あるがままで、居なさい。
否定も肯定もなしに、ただ、それで居なさい。
「わたし」が無いのは、恐怖ではありません。
恐怖は思考の得意分野です。
ほんとうにあるがままであるなら、恐怖はありません。
「わたし」を明け渡す、一切を許し受け入れるとは、そういう事です。
自由とはそういう事です。
それは虚無ではなく、充実した楽しみです。
ゼロではなく、ひとつです。


感想

恐怖イコール思考。恐怖は思考の得意分野。

ライオンが怖い。雷親父が怖い。崖が怖い。というの思考のなせる業(わざ)。
その証拠に無垢の赤ちゃんは、それらに対して恐怖はない。




[25693] わたしは誰か? 投稿者:無明 投稿日:2018/07/24(Tue) 17:01  

わたしは誰か?「真我の目覚めるとき」花岡修平

さて、「わたしは誰か?」

ラマナ・マハルシの教えの中核をなす、言葉です。



わたしは誰か?と問いかける事で、わたしは身体に由来する存在

ではない事をまず理解します。



ところが、わたしは誰か?と、昼も夜も問い続ける事では、

望んでいる答えは見出せません。

誰だろう・・・誰だろう・・・と思い出す作業を始めるなら、

要点を外しているのです。



もしも、宗教として、ラマナを崇拝し、信じ、

彼の言葉に忠実に励もうとしているなら、

それは、彼の言葉を全く理解していない事になるのです。

信じる事、崇拝する事が、言葉の奥にある深い意味を洞察

する事を妨げるからです。

信じるから、そこで止まり続けます。

ラマナが言っているのは、わたしは誰か?、

その誰かを探せという事ではないのです。



言葉に、言葉以外の、実に様々な意味を見てとれる事を、

我々は経験で知っています。

ところが人は、未知のものであればあるほど、

言葉に忠実になろうとします。



わたしは誰か?と問いかける事で、その誰かである「わたし」

を見つけようとします。

その誰かである「わたし」は思考を発しているその「わたし」

である事は、誰にも明白です。

その「思考者であるわたし」を、一生懸命見つけようとしているのです。



ただそれだけのために、ラマナがそのような事を言うはずはないのです。



しかも、その行為自体が思考そのものである事に、まったく気づきません。



ここでも、おなじみの、無限ループに陥ります。



誰か?と問い続ける事で、あたかもその、誰かが、見えてくるかのように

思ってしまいます。



わたしは誰か?と問いかけ、その誰かである「わたし」を見ているその、

見ている「わたし」に気付きません。



わたしは誰か?と問い、その誰かである「わたし」を見るのではなく、

その誰かである「わたし」を見ている「わたし」を知るのです。



思考者の「わたし」を見ている、観察者の「わたし」です。



見る者は、見られる者である。



そうまで言っても、その誰か?にこだわり続けます。

何がなんでも、誰か?が重要なのだと、信じて疑いません。



わたしは誰か?など、どうでもいいのです。

誰か?と問い、思考している「わたし」を見ている「わたし」に気付いたなら、

速やかに、その見ている「わたし」に向き直りなさい!と言う事です。



それが静寂であることを、まず気付かなくてはなりません。



ところが、またまた、誰か?に戻ってしまいます。

すなわち、その静寂に気付いているのは誰か?と言い出すのです。



思考がどうしても、思考に引き戻します。

自我のレベルでは感覚できる事ではありません。

思考している「わたし」を見ている「わたし」に気付いたら、

それに向き直り、そこに留まって、あとは一切、

言葉を思い浮かべてはいけません。



そこに留まって、無思考でいて、沈黙し、

静寂を感覚していなければなりません。



たったこれだけの事なのに、

たったこれだけの事が成し難いのです。



思考の癖とはそういうものです。

自我の巧妙な手口です。



もしも人間に、言葉というものが無かったなら、

なんと容易に静寂に落ち着くことが出来たでしょう。

言葉があるから、いろいろなものに、意味づけをしたがります。

定義したがります。

断定してしまいます。



わたしは誰か?と問い続けなさい・・・と言われれば、

その事が重要だと断定します。

そうであるなら、問う事など止めるべきです。



真我に気付く方法は、別の方法もあるのですから。



それは、いわゆるサレンダーです。明け渡しです。

至高なる存在、神、あらゆるものの源泉に、全てを明け渡すのです。

ところが、これもできないと言うかもしれません。

独特の「恐れ」を感じるのです。



明け渡したとて、何も不安の素など無いというのに。

恐怖すべき何事も起こらないと言うのに、

にも関わらず明け渡せないのです。

明け渡せば、こんなにも楽になれると言うのに。



愛着が、執着が、それを許しません。

失うことへの恐れが、それを許しません。



どちらも、自我の恐るべきちからです。



たったこれだけの事が、なんと成し難いのでしょう。

不思議です。とても不思議です。



ラマナも、自らが真我であるのに、全く真我に気付かなことは、

不思議でしょうがないと言います。



この小さな自我に比べられないくらい大きな真我が

太刀打ちできないとは・・・



言葉を捨てなければいけません。

ただ、感覚してください。

言葉で、知識でわかろうとしてはだめなようです。

学問ではないのですから。

また、宗教でもありません。



だから、言葉を覚えていない幼子になりなさいと言っているのです。

言葉がなくても、彼は「わたし」なのです。

しかし、彼は「わたし」を知りません。

そういう自意識がないのです。

そのような幼子の彼は、全く「真実のわたし」

によって在る「わたし」なのです。



あなたが、「わたし」と言える「わたし」ではなく、

「わたし」が全くいない、「真実のわたし」の事を言っているのです。



感性にまかせてください。

それを信頼してください。




[25692] 既知からの自由5−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/22(Sun) 18:58  

5章の4 [恐怖の終わり]

 恐怖をどんな結論もなしに、恐怖について蓄積してきた知識のどんな干渉もなしに見つめることができますか? できないのなら、その時あなたが見つめているものは過去であり、恐怖ではありません。出来るならば、その時恐怖を初めて過去の干渉なしに見つめているのです。

 心が非常に静かなときにのみ見つめることができます。誰かが言っていることを聴くことができるのは、心がそれ自体でおしゃべりしていたり、それ自体の問題や心配について対話をしたりしていない時だけだというのと丁度同じです。同じように自分の恐怖を、それを解決しようと努めることなしに、その反対物、勇気を持ち込んだりせずに見ることができますか ― 実際にそれを見、それから逃げようとしないことができますか? 「恐怖を制御しなければならない、それを抜け出さなければならない、それを理解しなければならない」という時、あなたはそれから逃げようとしているのです。

 あなたは雲や、木や、川の流れを、それらは自分にとってあまり重要でないので、かなり静かな心で観察することができますが、自分自身を見つめることは、そこでは要求はとても実際的だし、反応はとても素早いので、遥かに困難です。そこで恐怖、または絶望、孤独、嫉妬、あるいは何かほかの醜い心の状態に直接接触するとき、心がそれを見るのに充分静かなほど、あなたはそれを非常に完全に見ることができるでしょうか?

 心は恐怖の種々の形ではなく、恐怖を知覚できるでしょうか ― あなたが恐れているものではなく、恐怖全体を知覚できるでしょうか? 恐怖の細部だけを見たり、自分の恐怖を一つ一つ処理しようとするなら、恐怖と共に生きることを学ぶという核心には決して到達しないでしょう。


 恐怖のような生きているものと共に生きるためには、途方もなく敏感で、何の結論を持たない、それゆえ恐怖のあらゆる動きについて行くことができる心とハートが必要です。そして観察しそれと共に生きるなら ― そしてこれはまる一日はかかりません。恐怖の全性質を知るのは一分か一秒でできます ― 非常に完全にそれと共に生きるならあなたは当然尋ねます。「恐怖と共に生きている実体は誰なのか? 恐怖を観察し、恐怖の中心的な事実に気づいているだけでなく、様々な形の恐怖の動きの全てを見つめているのは誰なのか? 観察者は、自分自身についてのたくさんの知識と情報を蓄積してきた死んだ実体、静的な存在なのだろうか、そして恐怖の動きを観察し、それと共に生きているのはその死んだものなのだろうか? 観察者は過去のものなのだろうか、それとも彼は生きているものなのだろうか?」あなたの答えは何でしょうか? 私に答えないで、自分自身に答えてください。あなた、観察者、は生きたものを見つめている死んだ実体ですか、それとも生きたものを見つめている生きているものでしょうか? なぜなら観察者には二つの状態が存在するからです。

 観察者は恐怖を望まない検閲官です。観察者は恐怖についての彼の全経験の総体です。それゆえ観察者は恐怖と呼ぶそのものとは別です。それらの間には空間があります。観察者は永久に恐怖を克服しようとし、あるいはそれから逃げようとします。そしてそのために彼自身と恐怖の間の戦いがあります ― この戦いはエネルギーの大変な浪費です。

 見つめるにつれて、観察者は何の確実性も実質もない単なる観念と記憶の束に過ぎないが、しかし恐怖は現実であること、そして自分が事実を抽象で理解しようとしていることを学びます。そんなことはもちろん出来ないのですが。しかし、実際のところ、「私は怖れている」という観察者は観察されるものつまり恐怖と何か異なるのでしょうか? 観察者は恐怖です。そしてそのことが実感されるときもはや恐怖を免れようとする努力の中でのエネルギーの浪費はなく、観察者と観察されるものの間の時空の隔たりは消えます。自分が恐怖の一部であり、それと別のものではないことを ― 自分が恐怖であることを ― 見るとき、あなたはそれについて何もすることはできません。その時恐怖は完全に終わります。

(5章 終わり)


[25691] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/07/22(Sun) 18:54  

自発的で楽しんで過ごしなさい。完璧でなくていい10%それができれば悟れる。


[25690] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/07/22(Sun) 18:50  

青空にとけていきそうだ。


[25689] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/07/22(Sun) 18:46  

頭で知ろうとするな。腹から知れ。


[25688] Re:[25687] [25685] [25677] 既知からの自由 5-3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/22(Sun) 12:51  

> > > 5章の3 [思考の断片化]
> > >
> > >  思考の機能の一つはいつも何かに占められていることです。私達の大抵は、心が絶えず何かで占められていることを望み、その結果実際のままに自分を見ることを妨げられているのです。空っぽであることを恐れています。自分の恐怖を見ることを恐れています。
> >
> > 占有とは興味深い課題ですね。することは本来いっぱいあるのに、少し疲れている時などやりたくない。その時休むという事がなかなかできない。何か楽しみ・刺激を求めて、かえって疲れてしまう。空っぽでいることができない。
>
>
>  することがない場合がある。すなわち暇なとき。
>
>  私たちは、テレビをつけるのではないでしょうか。あるいはパソコンに向かう。新聞・チラシ等々。
>
>  なぜそうするのか・・。それをクリシュナムルティは説明している。
>  それが、思考の機能のひとつである、と。
>
>  占有を望み、占有無き「空きスペース」の存在を忌み嫌う。
>  試しに、テレビとパソコンのコンセントを抜いてみると分かる。
>
>  思考が「空きスペース」を忌み嫌い、占有を望むことが。

暇があるときはそれが今ある課題、どうするか、今朝2回ほど読みましたが、読みましたが、今レスにトライしています。

>  思考の占有の場で、フィルターなしに「見る」ことはできないとクリシュナムルティは述べる。
>
>  そして、思考の占有の場では、その恐怖、すなわち>空っぽであることを恐れています。自分の恐怖を見ることを恐れています。−−、そのような現にある恐怖を見ることができない。思考のフィルターがかぶさっているがゆえに。
>
>  この思考の機能の一つが、クリシュナムルティ理解の普及を大きく阻害していることが見えてくる。
>
>  思考のフィルターの場で、クリシュナムルティを読んでも、ピンとこないのではないだろうか。現にあるものには気づかない世界で生きている人々にとっては。クリシュナムルティの陳述が、現実と無関係に思えてしまう。

そう見える時、それは重要な問題となる。それは岐路であるから。また出会う事のないかもしれない岐路であるから。

> > >  意識的には自分の恐怖に気づくことができますが、心のより深いレベルで恐怖に気づくでしょうか? そして隠され、秘められている恐怖をどうやって見いだしますか? 恐怖は意識的なものと潜在意識のものに分けられるでしょうか? これは非常に重要な質問です。専門家、心理学者、分析医は恐怖を深層と表層に分けてきましたが、もしあなたが心理学者の言うことや私の言うことに従うなら、私達の理論、定説、知識を理解しているのであって、自分自身を理解しているのではありません。あなたは自分自身をフロイトやユングに従って、あるいは私に従って理解することはできません。他人の説は何であれ少しも重要ではありません。恐怖が意識的なものと潜在意識的なものに分けられるのか? という質問をしなければならないのは、自分自身についてです。あるいは種々の形に解釈されているただ一つの恐怖があるだけでしょうか? ただ一つの欲望があります。欲望のみがあります。あなたは欲します。欲望の対象は変わりますが、欲望は常に同じです。ですからおそらく同様に恐怖のみがあります。あらゆる種類の物事を恐れますがただ一つの恐怖があるだけなのです。
>
>
>  クリシュナムルティが意思疎通の手法のひとつとしているものが、「問い」である。
>
>  クリシュナムルティが発する「問い」を聴く。
>
>  すなわち、>恐怖は意識的なものと潜在意識のものに分けられるでしょうか? これは非常に重要な質問です。専門家、心理学者、分析医は恐怖を深層と表層に分けてきましたが、もしあなたが心理学者の言うことや私の言うことに従うなら、私達の理論、定説、知識を理解しているのであって、自分自身を理解しているのではありません。あなたは自分自身をフロイトやユングに従って、あるいは私に従って理解することはできません。他人の説は何であれ少しも重要ではありません。恐怖が意識的なものと潜在意識的なものに分けられるのか? という質問をしなければならないのは、自分自身についてです。あるいは種々の形に解釈されているただ一つの恐怖があるだけでしょうか?−−
>
>
>  「問い」に対しての向き合い方も、ここで説明されている。これまで身につけた知識・記憶・経験(すなわち、心理学・精神医学的権威)を脇において、自ら自身に問うことが重要である旨。
>  一般的に、知識は心理的に権威ではないだろうか。

物理や数学の世界では先人の業績を踏まえて、自分が何を新しく見つけたかはっきり示さなければならない。だが思考の心理的な分野では全く違う。そこでは古い問題が堂々巡りしている。現にある課題を今看破する必要がある。

> > >  恐怖が分けられないことを実感するとき、あなたはこの潜在意識の問題を全く捨ててしまったこと、そしてそれゆえ心理学者と分析医を免れたことが分かるでしょう。恐怖は単一の動きでありそれ自体を種々のやり方で表現することを理解するとき、そしてその動きを見て、動きが進む対象を見るのではないとき、その時あなたは巨大な質問に直面しています。どうやってあなたはその動きを、心が育成してきた断片化なしに見ることができるでしょうか?
>
>
>  クリシュナムルティは、更に進んで、「問い」の手法で導こうとする。
>
>  我々は、焦らず、ついてゆくことができるか。。
>
>
>
>  一般的には、即決の報酬がないと、待てずに、いらだち、別の快楽探求へと旅立ってゆく。
>  それゆえに、クリシュナムルティ理解が普及しにくい。

殆どの聴衆は即時の理解を自分自身が得ることなどできるわけがないと思い込んでおり、答えあるいは何らかのヒントを待つだけです。そして古い思考で議論するのみ。
>
>
>
> > >  全体的な恐怖があるだけですが、断片的に考える心はどうやってこの全体像を見ることができるでしょうか? できます? 私達は断片化した生を生きてきました。そして恐怖全体を思考の断片的な過程を通じてだけ見ることができるのです。思考の機構の全過程があらゆるものを断片に砕くことです。愛しそして憎む、敵と友、私の独特の個性と傾向、私の仕事、私の地位、私の名声、私の妻、私の子供、私の国とあなたの国、私の神とあなたの神 ― その全ては思考の断片化です。そしてこの思考が恐怖の全体の状態を見、あるいは見ようと努め、そしてそれを断片にしてしまいます。従って心がこの恐怖全体を見ることができるのは、思考の動きがない時だけであることがわかります。
>
>
>  恐怖を見るとき、その恐怖は「私の恐怖」として見ている。現にある恐怖は、本当に「私の恐怖」なのか。。もしも、「私の恐怖」であれば、全身全霊で自我は反応するのではないでしょうか。
>
>
> > > (続く)
> >
> > 思考のすべてを断片化してしまう事をこのような形で受け取ったのは初めてです。愕然として受け取りました。
> >
> > 虫の目で見るのと鳥の目で見るのとの違いですね。その違いの淵源はこんなところ(思考)にあったのか!
> >
> > 個々の恐怖から免れるのと違って、恐怖を一丸として終わりにするとはここから出ているのかとわかりました。


次は5章の最終回です。


[25687] Re:[25685] [25677] 既知からの自由 5-3 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/22(Sun) 09:30  

> > 5章の3 [思考の断片化]
> >
> >  思考の機能の一つはいつも何かに占められていることです。私達の大抵は、心が絶えず何かで占められていることを望み、その結果実際のままに自分を見ることを妨げられているのです。空っぽであることを恐れています。自分の恐怖を見ることを恐れています。
>
> 占有とは興味深い課題ですね。することは本来いっぱいあるのに、少し疲れている時などやりたくない。その時休むという事がなかなかできない。何か楽しみ・刺激を求めて、かえって疲れてしまう。空っぽでいることができない。


 することがない場合がある。すなわち暇なとき。

 私たちは、テレビをつけるのではないでしょうか。あるいはパソコンに向かう。新聞・チラシ等々。

 なぜそうするのか・・。それをクリシュナムルティは説明している。
 それが、思考の機能のひとつである、と。

 占有を望み、占有無き「空きスペース」の存在を忌み嫌う。
 試しに、テレビとパソコンのコンセントを抜いてみると分かる。

 思考が「空きスペース」を忌み嫌い、占有を望むことが。

 思考の占有の場で、フィルターなしに「見る」ことはできないとクリシュナムルティは述べる。

 そして、思考の占有の場では、その恐怖、すなわち>空っぽであることを恐れています。自分の恐怖を見ることを恐れています。−−、そのような現にある恐怖を見ることができない。思考のフィルターがかぶさっているがゆえに。

 この思考の機能の一つが、クリシュナムルティ理解の普及を大きく阻害していることが見えてくる。

 思考のフィルターの場で、クリシュナムルティを読んでも、ピンとこないのではないだろうか。現にあるものには気づかない世界で生きている人々にとっては。クリシュナムルティの陳述が、現実と無関係に思えてしまう。



> >  意識的には自分の恐怖に気づくことができますが、心のより深いレベルで恐怖に気づくでしょうか? そして隠され、秘められている恐怖をどうやって見いだしますか? 恐怖は意識的なものと潜在意識のものに分けられるでしょうか? これは非常に重要な質問です。専門家、心理学者、分析医は恐怖を深層と表層に分けてきましたが、もしあなたが心理学者の言うことや私の言うことに従うなら、私達の理論、定説、知識を理解しているのであって、自分自身を理解しているのではありません。あなたは自分自身をフロイトやユングに従って、あるいは私に従って理解することはできません。他人の説は何であれ少しも重要ではありません。恐怖が意識的なものと潜在意識的なものに分けられるのか? という質問をしなければならないのは、自分自身についてです。あるいは種々の形に解釈されているただ一つの恐怖があるだけでしょうか? ただ一つの欲望があります。欲望のみがあります。あなたは欲します。欲望の対象は変わりますが、欲望は常に同じです。ですからおそらく同様に恐怖のみがあります。あらゆる種類の物事を恐れますがただ一つの恐怖があるだけなのです。


 クリシュナムルティが意思疎通の手法のひとつとしているものが、「問い」である。

 クリシュナムルティが発する「問い」を聴く。

 すなわち、>恐怖は意識的なものと潜在意識のものに分けられるでしょうか? これは非常に重要な質問です。専門家、心理学者、分析医は恐怖を深層と表層に分けてきましたが、もしあなたが心理学者の言うことや私の言うことに従うなら、私達の理論、定説、知識を理解しているのであって、自分自身を理解しているのではありません。あなたは自分自身をフロイトやユングに従って、あるいは私に従って理解することはできません。他人の説は何であれ少しも重要ではありません。恐怖が意識的なものと潜在意識的なものに分けられるのか? という質問をしなければならないのは、自分自身についてです。あるいは種々の形に解釈されているただ一つの恐怖があるだけでしょうか?−−


 「問い」に対しての向き合い方も、ここで説明されている。これまで身につけた知識・記憶・経験(すなわち、心理学・精神医学的権威)を脇において、自ら自身に問うことが重要である旨。
 一般的に、知識は心理的に権威ではないだろうか。



> >  恐怖が分けられないことを実感するとき、あなたはこの潜在意識の問題を全く捨ててしまったこと、そしてそれゆえ心理学者と分析医を免れたことが分かるでしょう。恐怖は単一の動きでありそれ自体を種々のやり方で表現することを理解するとき、そしてその動きを見て、動きが進む対象を見るのではないとき、その時あなたは巨大な質問に直面しています。どうやってあなたはその動きを、心が育成してきた断片化なしに見ることができるでしょうか?


 クリシュナムルティは、更に進んで、「問い」の手法で導こうとする。

 我々は、焦らず、ついてゆくことができるか。。



 一般的には、即決の報酬がないと、待てずに、いらだち、別の快楽探求へと旅立ってゆく。
 それゆえに、クリシュナムルティ理解が普及しにくい。



> >  全体的な恐怖があるだけですが、断片的に考える心はどうやってこの全体像を見ることができるでしょうか? できます? 私達は断片化した生を生きてきました。そして恐怖全体を思考の断片的な過程を通じてだけ見ることができるのです。思考の機構の全過程があらゆるものを断片に砕くことです。愛しそして憎む、敵と友、私の独特の個性と傾向、私の仕事、私の地位、私の名声、私の妻、私の子供、私の国とあなたの国、私の神とあなたの神 ― その全ては思考の断片化です。そしてこの思考が恐怖の全体の状態を見、あるいは見ようと努め、そしてそれを断片にしてしまいます。従って心がこの恐怖全体を見ることができるのは、思考の動きがない時だけであることがわかります。


 恐怖を見るとき、その恐怖は「私の恐怖」として見ている。現にある恐怖は、本当に「私の恐怖」なのか。。もしも、「私の恐怖」であれば、全身全霊で自我は反応するのではないでしょうか。


> > (続く)
>
> 思考のすべてを断片化してしまう事をこのような形で受け取ったのは初めてです。愕然として受け取りました。
>
> 虫の目で見るのと鳥の目で見るのとの違いですね。その違いの淵源はこんなところ(思考)にあったのか!
>
> 個々の恐怖から免れるのと違って、恐怖を一丸として終わりにするとはここから出ているのかとわかりました。


[25686] 雑観二題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/22(Sun) 00:57  

今日はNHKBS1でフェイクニュースとプライバシーという興味深い番組を観ました。

フェイクニュースは最近のネット上でのフェイクニュースの激増とその影響を、フランス大統領選挙の実際に起きた事実と合わせてその実態を伝えてくれるものでした。

少数の個人により流される偽情報が一日二日で何十万という規模に拡大します。追っかけて偽造文書が出ます。これがフランス自体からではない外国からの発信だそうです。フェイクニュースを調べて真偽を判定するメディアの協力活動もあります。選挙の直前にフェイクであると報道できたようです。

これは一市民の見分ける領域を超えています。今のIT技術の与える+と−はすごく巨大で個人の手には負えなくなるでしょう。組織の力に頼らざるを得ないですが、その組織が善と悪に分かれそうだし、小組織が力を持てるらしい。

人間(市民)が上部組織を制御できるかという問題は切迫した問題ですね。

プライバシーも同質の問題ですが、結局、上部組織にどの程度プライバシー情報を与えるかどうかという問題かも知れません。

古代ギリシャでは市民はなぜか個人情報を公開することが当然とされていたようです。個というものはとるに足らないもの?? 全体との分離がなければ個は明け渡せる? 現実はそうは行かない。極論を言えばヌード写真を役所やグーグルに渡せるかってなもんだ。誰が主人なのかだ。(これおかしい?)


[25685] Re:[25677] 既知からの自由 5-3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/21(Sat) 23:32  

> 5章の3 [思考の断片化]
>
>  思考の機能の一つはいつも何かに占められていることです。私達の大抵は、心が絶えず何かで占められていることを望み、その結果実際のままに自分を見ることを妨げられているのです。空っぽであることを恐れています。自分の恐怖を見ることを恐れています。

占有とは興味深い課題ですね。することは本来いっぱいあるのに、少し疲れている時などやりたくない。その時休むという事がなかなかできない。何か楽しみ・刺激を求めて、かえって疲れてしまう。空っぽでいることができない。

>  意識的には自分の恐怖に気づくことができますが、心のより深いレベルで恐怖に気づくでしょうか? そして隠され、秘められている恐怖をどうやって見いだしますか? 恐怖は意識的なものと潜在意識のものに分けられるでしょうか? これは非常に重要な質問です。専門家、心理学者、分析医は恐怖を深層と表層に分けてきましたが、もしあなたが心理学者の言うことや私の言うことに従うなら、私達の理論、定説、知識を理解しているのであって、自分自身を理解しているのではありません。あなたは自分自身をフロイトやユングに従って、あるいは私に従って理解することはできません。他人の説は何であれ少しも重要ではありません。恐怖が意識的なものと潜在意識的なものに分けられるのか? という質問をしなければならないのは、自分自身についてです。あるいは種々の形に解釈されているただ一つの恐怖があるだけでしょうか? ただ一つの欲望があります。欲望のみがあります。あなたは欲します。欲望の対象は変わりますが、欲望は常に同じです。ですからおそらく同様に恐怖のみがあります。あらゆる種類の物事を恐れますがただ一つの恐怖があるだけなのです。
>
>  恐怖が分けられないことを実感するとき、あなたはこの潜在意識の問題を全く捨ててしまったこと、そしてそれゆえ心理学者と分析医を免れたことが分かるでしょう。恐怖は単一の動きでありそれ自体を種々のやり方で表現することを理解するとき、そしてその動きを見て、動きが進む対象を見るのではないとき、その時あなたは巨大な質問に直面しています。どうやってあなたはその動きを、心が育成してきた断片化なしに見ることができるでしょうか?
>
>  全体的な恐怖があるだけですが、断片的に考える心はどうやってこの全体像を見ることができるでしょうか? できます? 私達は断片化した生を生きてきました。そして恐怖全体を思考の断片的な過程を通じてだけ見ることができるのです。思考の機構の全過程があらゆるものを断片に砕くことです。愛しそして憎む、敵と友、私の独特の個性と傾向、私の仕事、私の地位、私の名声、私の妻、私の子供、私の国とあなたの国、私の神とあなたの神 ― その全ては思考の断片化です。そしてこの思考が恐怖の全体の状態を見、あるいは見ようと努め、そしてそれを断片にしてしまいます。従って心がこの恐怖全体を見ることができるのは、思考の動きがない時だけであることがわかります。
>
> (続く)

思考のすべてを断片化してしまう事をこのような形で受け取ったのは初めてです。愕然として受け取りました。

虫の目で見るのと鳥の目で見るのとの違いですね。その違いの淵源はこんなところ(思考)にあったのか!

個々の恐怖から免れるのと違って、恐怖を一丸として終わりにするとはここから出ているのかとわかりました。


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