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[25905] 既知からの自由11−3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/24(Mon) 11:08  

11章ー3 [イメージ] [問題]

 如何なる先入観もイメージもなく見るときのみ、生の中の何事にも直接接触することができます。全ての関係は本当に想像上のものです ― つまり、思考によってつくられたイメージに基づいています。私があなたにあるイメージを持ち、あなたが私にイメージを持つなら、当然お互いを実際のありのままに見てはいません。私たちが見ているのは自分がお互いに関して造ったイメージであり、そのことは触れ合いを妨げ、それが関係が悪くなる理由です。

 あなたを知っていると私が言うとき、あなたを昨日知ったということを意味します。あなたを実際にいま知っていません。知っている全てはあなたについての私のイメージです。そのイメージはあなたが私を誉めたり侮辱して言ったこと、私に対してしたことによって組み立てられます ― そのイメージはあなたについて持っている全ての記憶によって組み立てられます ― そしてあなたの私についてのイメージも同様に組み立てられ、関係を持つのはそれらのイメージであり、それはお互いに本当に交流するのを妨げます。

 長い間一緒に暮らしてきた二人はお互いのイメージを持っており、それは本当に関係を持つことを妨げます。関係を理解すれば協力することができますが、協力はイメージや象徴やイデオロギー的概念を通じてはとても存在できません。お互いの間の真の関係を理解するときのみ愛の可能性があり、そして愛はイメージを持つとき否定されます。したがって、どのようにイメージを自分の妻、夫、隣人、子供、国、指導者、政治家、神についてつくっているか、知的にではなく実際に日常生活において理解することが重要です ― あなたはイメージしか持っていないのです。

 これらイメージはあなたとあなたが観察するものの間に空間をつくり、その空間に葛藤があります。そこで私たちがいま一緒に見いだそうとしていることは、私たちが自分自身の外部のみならず内部にもつくりだした空間、あらゆる関係の中で人々を分離する空間から、自由になることが可能かどうかです。

 さて問題に払う注意そのものがまさにその問題を解決するエネルギーです。完全な注意を払うとき ― 自分の全てでという意味ですが ― 観察者は全くありません。全的エネルギーである注意の状態のみがあり、その全的エネルギーは英知の最高の形です。当然その心の状態は完全に沈黙しているはずであり、その沈黙、その静寂は全的注意があるとき生じ、訓練された静寂ではありません。観察者も観察されるものもないその完全な沈黙は宗教的な心の最高の形です。しかしその状態の中で起きていることを言葉にすることはできません。なぜなら言葉で言われたことは事実ではないからです。自分自身で見いだすためには、あなたはそれを通らなければなりません。

 あらゆる問題はほかのあらゆる関係に関連しているので、一つの問題を完全に解決できるなら ― それが何であっても構いません ― ほかの全ての問題に容易に出会い解決できることがわかるでしょう。ここで言っていることは、もちろん心理的問題です。問題は時間の中だけに、つまりその問題に不完全に出会うときのみ存在することをすでに見てきました。それゆえ問題の性質と構造に気づいてそれを完全に見なければならないだけでなく、問題が起きる都度それに直面し、直ちに解決し、それが心に根を下ろさないようにしなければなりません。問題を一か月または一日、あるいは数分間でさえ持続させてしまうなら、それは、心を歪めます。それゆえ問題に即座に何の歪みもなしに出会い、即座に、完全にそれから解放され、心に記憶、ひっかき傷を残さないことができるでしょうか? これらの記憶は私たちが持ち運んでいるイメージであり、生と呼ばれるこの途方もないものに出会うのはこれらのイメージなのです。それゆえ矛盾があり、したがって葛藤があります。生はまさに現実です ― 生は抽象ではありません ― そして生にイメージを持って出会うとき問題があります。

(続く)


[25904] Re:[25893] 既知からの自由11ー2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/24(Mon) 10:53  

11章の2は無名さんとずいぶん話したのでもういいかとも思いますが、自分のコメントを書いた方がいいかと思って書きます。

> 11章ー2 [美] [厳しさ]
>
>  最も難しいことの一つは、外部のものだけでなく内部の生も、自分自身で本当に明確に見ることだと私は思います。木や花や人を見ると言うとき、実際に見ているでしょうか? それとも単にその言葉がつくり出したイメージを見ているだけなのでしょうか? つまり、木や、光と喜びに満ちた夕方の雲を見るとき、ただ目で、そして知的に見るだけでなく、全的に、完全に、実際に見ているでしょうか?


確かに風景をカメラでやたら撮って、本人は何を見ているのかという事もあります。
 だがここでは、全的に、完全に、実際に見ているでしょうか? という話のようですね。


>  あなたは一本の木のような対象物を、どんな連想も、それについて得たどんな知識もなしに、あなたと木の間に遮蔽物をつくって木をありのままに見ることを妨げるどんな偏見、どんな判断、どんな言葉もなしに見ることを実験したことがありますか? それをやってみて、木を全存在で、全エネルギーを注いで観察するとき、実際に何が起こるか見て下さい。その強烈さの中に観察者は全くないことを見いだすでしょう。注意だけがあります。観察者と観察されるものがあるのは不注意があるときです。何かを完全な注意で見ているとき、概念や、公式や記憶の入る余地はありません。このことを理解することが重要です。何故なら私たちは非常に注意深い探求を必要とすることに入りつつあるからです。
>
>  完全な自己放棄で木や星やきらめく川の水を見る心だけが美とは何かを知ります。そして実際に見ているとき私たちは愛の状態にあります。普通は比較したり、人が組み立てたものを通じて美を知りますが、それは私たちが美を何かの対象に起因すると考えていることを意味します。 私は、私が美しい建築であると考えるものを見、そしてその美を自分の建築の知識のせいで、またそれを私が見たほかの建築と比較することによって味わうのです。しかしいま私は自分自身に「対象なしに美はあるだろうか?」と尋ねています。検閲者、経験者、思考者である観察者がいるとき、美は外部の何か、観察者が見て判断する何かであるため、美はありません。だが観察者がないとき ― そしてこのことは大変な瞑想、探求を必要とします ― そのとき対象なしの美があります。


ウム、観察者なしにものを見ている、それは子供のときなど普通にあるでしょう。がそれは記憶に残りません。が大人になるとまあ大抵観察者、ミィがいるのです。


>  美は観察者と観察されるものの完全な放棄の中にあります。そして自己放棄があり得るのは完全な厳しさがあるときのみです ― 過酷さ、制裁、規則と服従を伴う聖職者の厳しさではなく ― 衣服、考え、食物、振舞の質素さではなく ― 完全に単純である厳しさであり、それは完全な謙虚さです。そのとき達成することはなく、登る梯子もありません。最初の一歩があるだけでその第一歩が永遠の一歩です。


観察者、ミィ、「私」、中心、なしに見る。その時心はしゃんとして謙虚に一人でいるのですが、その状態をKは厳しさのある状態と言っています。その全的に完全に見ている中に美があります。


>  例えば一人、あるいは誰かと歩いていて、そして話すのをやめたとしましょう。自然に囲まれており、犬も吠えず、車の通る音も、鳥の羽ばたきさえもありません。あなたは完全に沈黙しており、まわりの自然もまた全く沈黙しています。観察者と観察されるものの両方のその沈黙な中に ― 観察者が彼の観察したものを思考に翻訳しないとき ― その沈黙の中に違う質の美があります。自然も観察者もありません。全く、完全に、ただ一人の心の状態があります。それは一人です ― 孤立ではありません ― 静寂の中にただ一人、そしてその静寂は美です。あなたが愛するとき観察者がいるでしょうか? 愛が欲望と快楽であるときのみ観察者がいます。欲望と快楽が愛と関連していないとき、愛は強烈です。愛は、美のように、日々全く新しいものです。すでに述べたように、愛は昨日や明日を持ちません。

愛や美についてKが語り始めました。それは完全に全的に、実際に見る心の状態と関連しています。次にいきましょう。

> (続く)


[25903] 自然と終戦当時 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/24(Mon) 07:40  

終戦のころ、私は郷里にいました。そのころの生活は水道もガスもなく、井戸水をポンプで汲み、薪を焚いて飯を炊きました。薪は山から切って運んだ木をまきに割って使います。その斧は自分で研ぎあげます。

野菜は自分の畑でつくれたものを食べます。サツマイモの葉や茎は成長が早く、ずいぶん食べました。梅、酢みかん、ゆず、柿なども木があって自足です。渋柿も剥いて干しておくと甘くなります。シジミや青のりも潮のはいる川で自分で採ります。ウナギは夜川に入って取るので、子供にはやらしてくれません。台風が来ると川が濁って昼でも取れるので、数匹取って、かば焼きで食べました。

とまあこんな具合で人間が自分の直接働いて飯を食っていたのです。ごはんは配給米でしたが。だが人は主人公で、自分で働いて食っていった時代です。失業なんてありません。

戦後少ないですが復員してきた人もいました。そういう一家は中心の働き手が戻って生き生きとしていました。農家の人です。都会の人は働き口がない。ノイローゼになってもおかしくない時代でした。

この先どんな時代が来るかは見当がつきません。自分で自然の食物をつくり、採取して生きる時代など想像できません。どんな文明社会を創り出すか、その主体性を確保できるのか、押し流され人間になるのか? 孫、ひ孫の世代の生命力に待つしかない。


[25902] Re:[25901] [25900] [25899] [25893] 既知からの自由11ー2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/23(Sun) 21:51  

> > > > 11章ー2 [美] [厳しさ]
> > > >
> > > >  最も難しいことの一つは、外部のものだけでなく内部の生も、自分自身で本当に明確に見ることだと私は思います。木や花や人を見ると言うとき、実際に見ているでしょうか? 
> > >
> > > 自分自身で内部の生を明確に見るというが、一体何を明確に見るというのか?抽象的でよくわかりません。
> >
> > 具体的に書いてみます。孤島でお父さんが灯台守をしています。奥さんはいないで二人の幼い子供兄妹がいます。おばあさんがいてお父さんに、子供を町の家に引き取って学校にもやると言います。子供は嫌だ、どうしてもお父さんと一緒にいたいと言います。お父さんはその去った奥さん(実は要請)が忘れられず、町に行かず孤島にいたいのです。人はどうにもならないとしか思えない葛藤、苦悩、悲しみを持って生きています。このような生の外部も内部も関連した状態は見るとわかるでしょう。


まず最初にお詫びします。文章の漢字変換を間違えました!
> 「父さんはその去った奥さん(実は要請)が忘れられず、町に行かず孤島にいたいのです。」 ここの奥さん(実は要請)は要請でなく、妖精です。奥さんは実は妖精だったのです。お父さんは妖精と子をなしたのです。アイルランドはそういう妖精の伝説がまだ生きている国のようです。


> そこで言われているのは、その人の置かれた立場、状況を言われているのではないですか。
> 私の質問は内部の生を明確に見ているかどうかです。
> この人の例をとると、灯台守の父親は、自身の内部の生を明確に見てるかどうか。
> いつまでも感傷にしたっている間は過去の思考に占領されていることになる。つまり内部の生を明確にみていない。
> この人は、心の内部に浮かぶ思考を疑って、見ているかどうか。
> いつまでも亡くなった人を思うようでは、過去の記憶にふりまわされているということです。
> そこが見えてるかどうか。
> 見えてないと、ていつまでも葛藤、悩み、悲しみを抱えることになる。
> 奥さんはいないのだから。

私の話は例としては現実でないファンタジーなので、無名さんと話するには不適だったかもしれません。しかし、現実にもよくある話ではないですか。そして私にはおばあさん、父、子供の兄妹の言うことが矛盾しているが実にまっとうに思えます。だが町に移って住むと言うのは、理知的な思考の解決で、悲しみも矛盾もなくなせません。解決には愛が世界の隅々に浸透して社会ごと愛に浸されなければなりません。
 それは夢のような話ですが、そうでないとこの矛盾は解決しません。その愛の心はどういう事か私たちにわかるようにKは説いてくれています。


> > > >それとも単にその言葉がつくり出したイメージを見ているだけなのでしょうか? つまり、木や、光と喜びに満ちた夕方の雲を見るとき、ただ目で、そして知的に見るだけでなく、全的に、完全に、実際に見ているでしょうか?
>
> つまりその人は、何で孤島にしがみつくのか自問自答したことがあるだろうか。
> 子供のためを真摯に思うなら、町に出ていっている。
> 孤島にこだわるのは、一種のエゴだろう。

子供を真摯に思うなら町に連れて行くのは問題かもしれません。自然から切り離されてしまう。

> > > 全的に完全に見るとは、一体どういうことか?
> > > 思考なしに、ということ?
> >
> > 私があげた例を見て、おばあさんが正しいとか、お父さんは思い出に執着しているとか、子供のは親の決定に従うべきだとかいう人は、思考でとやかく言っています。感情、悲しみをも理解して見ている人、世の中がつくりだした社会の介入も見ている人が全的に見ている人です。
>
> 私が思うには、その灯台守の人は、自分勝手です。エゴです。
> 全的に見れば愛があふれ、子供といっしょに町に行くでしょう。
> それを亡き妻の感傷にしたって、孤島に残るというのは、寓の骨頂。
> いかんせん。思考に未練があるということ。
> 妻に未練があるのではなく、「妻」という思考に未練がある。ここにこの人は気づいていない。まさに自己憐憫

そこを確かめるには全的に完全に見ないといけない。

> > > >  あなたは一本の木のような対象物を、どんな連想も、それについて得たどんな知識もなしに、あなたと木の間に遮蔽物をつくって木をありのままに見ることを妨げるどんな偏見、どんな判断、どんな言葉もなしに見ることを実験したことがありますか? 
> > >
> > > ありません。

そう、それが人間の悲しみです。


> > > >それをやってみて、木を全存在で、全エネルギーを注いで観察するとき、実際に
> > 何が起こるか見て下さい。
> > >
> > > お言葉ですが、全存在で、全エネルギーを注いで観察するというのはどういうことですか?
> > > 対象物に対してを目を凝らしてギュっ と観察することですか?
> > > 凝視?
> > > それとも全存在、全エネルギーというのは金剛力で見ることですか?
> > >
> > >
> >
> > 例えばですが父と母との争いを胸を痛めて必死に見ている子供の気持ちが全存在で、全エネルギ−を注いで見るという事でしょう。凝視とか金剛力とか区別的に判断するのではなく、全的に、つまり、分別心なしに見ていることが全的であることです。
>
> あなたは受動的に全的エネルギーが注がれろと、お思いなのだろうか?
> あなたの言われた例は、全的エネルギーと関係ありません。
> 夫婦喧嘩を見ている子供は悲嘆にくれるだけであって、全的エネルギーが、注がれるというのはおかしいでしょう。
> 子供はそのとき、自身の内面を見てますか?
> 見てないでしょう。明らかに。
> 意識の矛先は、夫婦の争いをリアルに向いています。つまり外部。
> ここでいう内部というのは、自分自身の心の内部のことです。つまりは思考の動き。外部というのは目に見える世界。
> もう一度言うと、外部では夫婦が争っています。
> それに対しての反応が「内部」。
> 私自身、言いたくないですが、子供のころ相当嫌な思いをしました。
> 繰り返すと、反応を見るというのは、自分の内部で起きる思考の動き、流れを見るということです。
> 例えば、相手に対し馬鹿野郎、この野郎が浮かんだら、「馬鹿野郎」「この野郎」という思考を見る。
> 問題は、この時、人間は感情的になってしまうということです。見るどころではない。意識の矛先は相手に向けているから。憎しみのエネルギー


全エネルギーで見るという事は、思考や感情にはエネルギーを向けずに、エネルギーが見、聴くことだけに全部向かっている心の状態です。

> > > >その強烈さの中に観察者は全くないことを見いだすでしょう。
> > >
> > > 見てる時、思考はないということですか?
> >
> > はい。
> >
> > > それが強烈ということですか?
> >
> > はい。その時結論も分別もありません。それが観察者がいないという事です。強烈という事は力士のようなすごい力という事ではなく、見る、聴く、感じることだけにエネルギーが向かっているという事です。一生懸命なことです。

> > > >注意だけがあります。観察者と観察されるものがあるのは不注意があるときです。何かを完全な注意で見ているとき、概念や、公式や記憶の入る余地はありません。このことを理解することが重要です。
> > >
>
> 言葉ではわかります。何とでも説明できます。問題は、現場での「実感」
>
> > > つまり思考は介入しない。不注意というのは思考が介入すること。
> >
> > そうです。
> >
> > > >何故なら私たちは非常に注意深い探求を必要とすることに入りつつあるからです。
> > >
> > > 言ってることはわからないではないですが、どうやって思考を追い出すのですか?
> > > 考えないということ?
> > > 「注意深い探求」というのがよくわからない

今の事実だけに注意があり、過去の知識で思考しない。自己が消えている。
> >
> > ただただひたすらに見ていること。全エネルギーで見ている。それが注意で、思考は顔を出せない。
>
> ですから言葉ではいえます。
> >
> > > >  完全な自己放棄で木や星やきらめく川の水を見る心だけが美とは何かを知ります。
> > > 完全な自己放棄って何ですか?
> > > 誰でも木や星を見てますよ。
> >
> > そうですが全エネルギーを注ぐことはない。
>
> そうです。
> >
> > > >そして実際に見ているとき私たちは愛の状態にあります。
> > >
> > > 何で急に愛の話になるのですか。
> >
> > 全エネルギーを注いで何かを見ている時、思考も自己もなく見ている。それが愛という状態にあることなのだ、と教えてくれています。
>
> 何で愛なのか。
> 私は以前、新しい芽氏の言葉を紹介した。どのように気づいているか。愛の気持ちで気づいているのかと氏はいう。
> そのように愛というのは自ら発するものである。
> 何がエネルギーを注いでいる時が愛なのか?

全エネルギーを注ぐことはおのずと発する。

> > > >普通は比較したり、人が組み立てたものを通じて美を知りますが、それは私たちが美を何かの対象に起因すると考えていることを意味します。 私は、私が美しい建築であると考えるものを見、そしてその美を自分の建築の知識のせいで、またそれを私が見たほかの建築と比較することによって味わうのです。しかしいま私は自分自身に「対象なしに美はあるだろうか?」と尋ねています。
> > >
> > > 仏像は誰が見ても美しいです。偏見はありません。
> > >
> > そういう時観察者・思考がそう言っているのです。次を読んでください。
>
> そうではなく、実際の話です。実際に仏像を見たことを言っている。
> 万人共通の美意識をもっているから、みんな桜を見に行くのではないですか。
> 富士山は美しい。星は美しい。花は美しい
> > >
> > > >検閲者、経験者、思考者である観察者がいるとき、美は外部の何か、観察者が見て判断する何かであるため、美はありません。だが観察者がないとき ― そしてこのことは大変な瞑想、探求を必要とします ― そのとき対象なしの美があります。
> > >
> > > ここへきて瞑想、探求の話になった。
> >
> > いえ、観察者がいない時(エネルギ−が見ることだけに注がれている時)対象なしの美があるとKが言っています。
>
> さっきいった花、星、山を見ているときは対象のない美です。
> 思考が生じると二元的になる。分離
> 例「きれい」「きたない。「自分」と「他人」
>

分離なく見ている時は対象に美があるのか、いや、自分も一体で、その時、美だけがあるということですか。

> > > >  美は観察者と観察されるものの完全な放棄の中にあります。そして自己放棄があり得るのは完全な厳しさがあるときのみです ― 過酷さ、制裁、規則と服従を伴う聖職者の厳しさではなく ― 衣服、考え、食物、振舞の質素さではなく ― 完全に単純である厳しさであり、それは完全な謙虚さです。そのとき達成することはなく、登る梯子もありません。最初の一歩があるだけでその第一歩が永遠の一歩です。
>
> と、Kは言っている。
> > >
> > > どうも話が飛躍しすぎるようです。これでは一般の人はついていけません。
> > > >
> > > >  例えば一人、あるいは誰かと歩いていて、そして話すのをやめたとしましょう。自然に囲まれており、犬も吠えず、車の通る音も、鳥の羽ばたきさえもありません。あなたは完全に沈黙しており、まわりの自然もまた全く沈黙しています。観察者と観察されるものの両方のその沈黙な中に ― 観察者が彼の観察したものを思考に翻訳しないとき ― その沈黙の中に違う質の美があります。自然も観察者もありません。全く、完全に、ただ一人の心の状態があります。
> > >
> > > 私は登山の時、途中の山林で、一人っきりになったことがあります。周りが誰もいない。自然のみ。そのとき言いようのない恐怖に襲われたことがあります。まさに孤立。
> > >
> > > >それは一人です ― 孤立ではありません ― 静寂の中にただ一人、そしてその静寂は美です。あなたが愛するとき観察者がいるでしょうか? 愛が欲望と快楽であるときのみ観察者がいます。欲望と快楽が愛と関連していないとき、愛は強烈です。愛は、美のように、日々全く新しいものです。すでに述べたように、愛は昨日や明日を持ちません。
> > >
> > > 何で愛が出てくるのですか?愛は前章のテーマで、今章のテーマは「見る、聞く」です。
> >
> > 愛と美はどのような状態であるかを、見る、聴くとの関連を使ってはっきりと述べられつつあります。
> >
> > > >
> > > > (続く)
> > >
> > > よく読んで見ると、具体的なことが書かれていないことに気づきます。
> > > ただ見るだけじゃわからない。私たちは常に何かを見てますが、エネルギーなど使っていないでしょう。見てるだけですから。
> >
> > 見ているというのはエネルギーを使いますよ。老人になるとよくわかります。疲れたとき居眠りします。目を見張るという事が大変です。目がかすんできます。
>
> エネルギーを使うというのは、運動するときです。
> 普段やらないことをやるとき。
> 神田明神の階段を上がったら、翌日、腿がパンパンになった。
> 映画やテレビを見ているとき、とくにエネルギーは使いません。見るだけですから。終わってあと疲れますが。
> > >
> > > 結局ここでは、全存在、全エネルギーで見るというのは、どういうことか、ということになる。
> >
> > そうです。それは美、愛、自己放棄、思考や観察者の不在などの全部にかかわります。
> >
> > > 例えば、そこに木という対象物があるとき、何かを感じとれということだろうか?
> >
> > 別に必要なければ通りすがりに見るだけでいいのではないですか? 家人が元気がよさそうならそんなに見ません。何か気になるなら見守ります。
>
> 全的エネルギーの話をしている。それで木の例を出した。
> 植物学者は徹底的に観察します。花々、茎など。
> 科学者は顕微鏡を見ます。細菌のかすかな動きを見のがさないために並み外れた注意力、観察力を必要とします。
> これは全的エネルギーです。文字どうり、意を注ぐ。注意。
> 我々は木など関心ないので通りすがるだけです。
> ですからクリシュナムルティは、まず自分自身の内面に何が起きてるのか関心を持つことからはじめなさいというわけです。

それが第一歩ですね。しかし植物学者は常に思考で記述する。この時記憶は働いていないのだろうか?


[25901] Re:[25900] [25899] [25893] 既知からの自由11ー2 投稿者:無名 投稿日:2018/09/23(Sun) 14:48  

> > > 11章ー2 [美] [厳しさ]
> > >
> > >  最も難しいことの一つは、外部のものだけでなく内部の生も、自分自身で本当に明確に見ることだと私は思います。木や花や人を見ると言うとき、実際に見ているでしょうか? 
> >
> > 自分自身で内部の生を明確に見るというが、一体何を明確に見るというのか?抽象的でよくわかりません。
>
> 具体的に書いてみます。孤島でお父さんが灯台守をしています。奥さんはいないで二人の幼い子供兄妹がいます。おばあさんがいてお父さんに、子供を町の家に引き取って学校にもやると言います。子供は嫌だ、どうしてもお父さんと一緒にいたいと言います。お父さんはその去った奥さん(実は要請)が忘れられず、町に行かず孤島にいたいのです。人はどうにもならないとしか思えない葛藤、苦悩、悲しみを持って生きています。このような生の外部も内部も関連した状態は見るとわかるでしょう。


そこで言われているのは、その人の置かれた立場、状況を言われているのではないですか。
私の質問は内部の生を明確に見ているかどうかです。
この人の例をとると、灯台守の父親は、自身の内部の生を明確に見てるかどうか。
いつまでも感傷にしたっている間は過去の思考に占領されていることになる。つまり内部の生を明確にみていない。
この人は、心の内部に浮かぶ思考を疑って、見ているかどうか。
いつまでも亡くなった人を思うようでは、過去の記憶にふりまわされているということです。
そこが見えてるかどうか。
見えてないと、ていつまでも葛藤、悩み、悲しみを抱えることになる。
奥さんはいないのだから。
 
>
>
> > >それとも単にその言葉がつくり出したイメージを見ているだけなのでしょうか? つまり、木や、光と喜びに満ちた夕方の雲を見るとき、ただ目で、そして知的に見るだけでなく、全的に、完全に、実際に見ているでしょうか?

つまりその人は、何で孤島にしがみつくのか自問自答したことがあるだろうか。
子供のためを真摯に思うなら、町に出ていっている。
孤島にこだわるのは、一種のエゴだろう。

> >
> > 全的に完全に見るとは、一体どういうことか?
> > 思考なしに、ということ?
>
> 私があげた例を見て、おばあさんが正しいとか、お父さんは思い出に執着しているとか、子供のは親の決定に従うべきだとかいう人は、思考でとやかく言っています。感情、悲しみをも理解して見ている人、世の中がつくりだした社会の介入も見ている人が全的に見ている人です。

私が思うには、その灯台守の人は、自分勝手です。エゴです。
全的に見れば愛があふれ、子供といっしょに町に行くでしょう。
それを亡き妻の感傷にしたって、孤島に残るというのは、寓の骨頂。
いかんせん。思考に未練があるということ。
妻に未練があるのではなく、「妻」という思考に未練がある。ここにこの人は気づいていない。まさに自己憐憫
>
> > >  あなたは一本の木のような対象物を、どんな連想も、それについて得たどんな知識もなしに、あなたと木の間に遮蔽物をつくって木をありのままに見ることを妨げるどんな偏見、どんな判断、どんな言葉もなしに見ることを実験したことがありますか? 
> >
> > ありません。
> >
> > >それをやってみて、木を全存在で、全エネルギーを注いで観察するとき、実際に
> 何が起こるか見て下さい。
> >
> > お言葉ですが、全存在で、全エネルギーを注いで観察するというのはどういうことですか?
> > 対象物に対してを目を凝らしてギュっ と観察することですか?
> > 凝視?
> > それとも全存在、全エネルギーというのは金剛力で見ることですか?
> >
> >
>
> 例えばですが父と母との争いを胸を痛めて必死に見ている子供の気持ちが全存在で、全エネルギ−を注いで見るという事でしょう。凝視とか金剛力とか区別的に判断するのではなく、全的に、つまり、分別心なしに見ていることが全的であることです。

あなたは受動的に全的エネルギーが注がれろと、お思いなのだろうか?
あなたの言われた例は、全的エネルギーと関係ありません。
夫婦喧嘩を見ている子供は悲嘆にくれるだけであって、全的エネルギーが、注がれるというのはおかしいでしょう。
子供はそのとき、自身の内面を見てますか?
見てないでしょう。明らかに。
意識の矛先は、夫婦の争いをリアルに向いています。つまり外部。
ここでいう内部というのは、自分自身の心の内部のことです。つまりは思考の動き。外部というのは目に見える世界。
もう一度言うと、外部では夫婦が争っています。
それに対しての反応が「内部」。
私自身、言いたくないですが、子供のころ相当嫌な思いをしました。
繰り返すと、反応を見るというのは、自分の内部で起きる思考の動き、流れを見るということです。
例えば、相手に対し馬鹿野郎、この野郎が浮かんだら、「馬鹿野郎」「この野郎」という思考を見る。
問題は、この時、人間は感情的になってしまうということです。見るどころではない。意識の矛先は相手に向けているから。憎しみのエネルギー
>
> > >その強烈さの中に観察者は全くないことを見いだすでしょう。
> >
> > 見てる時、思考はないということですか?
>
> はい。
>
> > それが強烈ということですか?
>
> はい。その時結論も分別もありません。それが観察者がいないという事です。
>
> > >注意だけがあります。観察者と観察されるものがあるのは不注意があるときです。何かを完全な注意で見ているとき、概念や、公式や記憶の入る余地はありません。このことを理解することが重要です。
> >

言葉ではわかります。何とでも説明できます。問題は、現場での「実感」

> > つまり思考は介入しない。不注意というのは思考が介入すること。
>
> そうです。
>
> > >何故なら私たちは非常に注意深い探求を必要とすることに入りつつあるからです。
> >
> > 言ってることはわからないではないですが、どうやって思考を追い出すのですか?
> > 考えないということ?
> > 「注意深い探求」というのがよくわからない
>
> ただただひたすらに見ていること。全エネルギーで見ている。それが注意で、思考は顔を出せない。

ですから言葉ではいえます。
>
> > >  完全な自己放棄で木や星やきらめく川の水を見る心だけが美とは何かを知ります。
> > 完全な自己放棄って何ですか?
> > 誰でも木や星を見てますよ。
>
> そうですが全エネルギーを注ぐことはない。

そうです。
>
> > >そして実際に見ているとき私たちは愛の状態にあります。
> >
> > 何で急に愛の話になるのですか。
>
> 全エネルギーを注いで何かを見ている時、思考も自己もなく見ている。それが愛という状態にあることなのだ、と教えてくれています。

何で愛なのか。
私は以前、新しい芽氏の言葉を紹介した。どのように気づいているか。愛の気持ちで気づいているのかと氏はいう。
そのように愛というのは自ら発するものである。
何がエネルギーを注いでいる時が愛なのか?
>
> > >普通は比較したり、人が組み立てたものを通じて美を知りますが、それは私たちが美を何かの対象に起因すると考えていることを意味します。 私は、私が美しい建築であると考えるものを見、そしてその美を自分の建築の知識のせいで、またそれを私が見たほかの建築と比較することによって味わうのです。しかしいま私は自分自身に「対象なしに美はあるだろうか?」と尋ねています。
> >
> > 仏像は誰が見ても美しいです。偏見はありません。
> >
> そういう時観察者・思考がそう言っているのです。次を読んでください。

そうではなく、実際の話です。実際に仏像を見たことを言っている。
万人共通の美意識をもっているから、みんな桜を見に行くのではないですか。
富士山は美しい。星は美しい。花は美しい
> >
> > >検閲者、経験者、思考者である観察者がいるとき、美は外部の何か、観察者が見て判断する何かであるため、美はありません。だが観察者がないとき ― そしてこのことは大変な瞑想、探求を必要とします ― そのとき対象なしの美があります。
> >
> > ここへきて瞑想、探求の話になった。
>
> いえ、観察者がいない時(エネルギ−が見ることだけに注がれている時)対象なしの美があるとKが言っています。

さっきいった花、星、山を見ているときは対象のない美です。
思考が生じると二元的になる。分離
例「きれい」「きたない。「自分」と「他人」

> >
> > >  美は観察者と観察されるものの完全な放棄の中にあります。そして自己放棄があり得るのは完全な厳しさがあるときのみです ― 過酷さ、制裁、規則と服従を伴う聖職者の厳しさではなく ― 衣服、考え、食物、振舞の質素さではなく ― 完全に単純である厳しさであり、それは完全な謙虚さです。そのとき達成することはなく、登る梯子もありません。最初の一歩があるだけでその第一歩が永遠の一歩です。

と、Kは言っている。
> >
> > どうも話が飛躍しすぎるようです。これでは一般の人はついていけません。
> > >
> > >  例えば一人、あるいは誰かと歩いていて、そして話すのをやめたとしましょう。自然に囲まれており、犬も吠えず、車の通る音も、鳥の羽ばたきさえもありません。あなたは完全に沈黙しており、まわりの自然もまた全く沈黙しています。観察者と観察されるものの両方のその沈黙な中に ― 観察者が彼の観察したものを思考に翻訳しないとき ― その沈黙の中に違う質の美があります。自然も観察者もありません。全く、完全に、ただ一人の心の状態があります。
> >
> > 私は登山の時、途中の山林で、一人っきりになったことがあります。周りが誰もいない。自然のみ。そのとき言いようのない恐怖に襲われたことがあります。まさに孤立。
> >
> > >それは一人です ― 孤立ではありません ― 静寂の中にただ一人、そしてその静寂は美です。あなたが愛するとき観察者がいるでしょうか? 愛が欲望と快楽であるときのみ観察者がいます。欲望と快楽が愛と関連していないとき、愛は強烈です。愛は、美のように、日々全く新しいものです。すでに述べたように、愛は昨日や明日を持ちません。
> >
> > 何で愛が出てくるのですか?愛は前章のテーマで、今章のテーマは「見る、聞く」です。
>
> 愛と美はどのような状態であるかを、見る、聴くとの関連を使ってはっきりと述べられつつあります。
>
> > >
> > > (続く)
> >
> > よく読んで見ると、具体的なことが書かれていないことに気づきます。
> > ただ見るだけじゃわからない。私たちは常に何かを見てますが、エネルギーなど使っていないでしょう。見てるだけですから。
>
> 見ているというのはエネルギーを使いますよ。老人になるとよくわかります。疲れたとき居眠りします。目を見張るという事が大変です。目がかすんできます。

エネルギーを使うというのは、運動するときです。
普段やらないことをやるとき。
神田明神の階段を上がったら、翌日、腿がパンパンになった。
映画やテレビを見ているとき、とくにエネルギーは使いません。見るだけですから。終わってあと疲れますが。
> >
> > 結局ここでは、全存在、全エネルギーで見るというのは、どういうことか、ということになる。
>
> そうです。それは美、愛、自己放棄、思考や観察者の不在などの全部にかかわります。
>
> > 例えば、そこに木という対象物があるとき、何かを感じとれということだろうか?
>
> 別に必要なければ通りすがりに見るだけでいいのではないですか? 家人が元気がよさそうならそんなに見ません。何か気になるなら見守ります。

全的エネルギーの話をしている。それで木の例を出した。
植物学者は徹底的に観察します。花々、茎など。
科学者は顕微鏡を見ます。細菌のかすかな動きを見のがさないために並み外れた注意力、観察力を必要とします。
これは全的エネルギーです。文字どうり、意を注ぐ。注意。
我々は木など関心ないので通りすがるだけです。
ですからクリシュナムルティは、まず自分自身の内面に何が起きてるのか関心を持つことからはじめなさいというわけです。



[25900] Re:[25899] [25893] 既知からの自由11ー2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/22(Sat) 14:56  

> > 11章ー2 [美] [厳しさ]
> >
> >  最も難しいことの一つは、外部のものだけでなく内部の生も、自分自身で本当に明確に見ることだと私は思います。木や花や人を見ると言うとき、実際に見ているでしょうか? 
>
> 自分自身で内部の生を明確に見るというが、一体何を明確に見るというのか?抽象的でよくわかりません。

具体的に書いてみます。孤島でお父さんが灯台守をしています。奥さんはいないで二人の幼い子供兄妹がいます。おばあさんがいてお父さんに、子供を町の家に引き取って学校にもやると言います。子供は嫌だ、どうしてもお父さんと一緒にいたいと言います。お父さんはその去った奥さん(実は妖精)が忘れられず、町に行かず孤島にいたいのです。人はどうにもならないとしか思えない葛藤、苦悩、悲しみを持って生きています。このような生の外部も内部も関連した状態は見るとわかるでしょう。


> >それとも単にその言葉がつくり出したイメージを見ているだけなのでしょうか? つまり、木や、光と喜びに満ちた夕方の雲を見るとき、ただ目で、そして知的に見るだけでなく、全的に、完全に、実際に見ているでしょうか?
>
> 全的に完全に見るとは、一体どういうことか?
> 思考なしに、ということ?

私があげた例を見て、おばあさんが正しいとか、お父さんは思い出に執着しているとか、子供のは親の決定に従うべきだとかいう人は、思考でとやかく言っています。感情、悲しみをも理解して見ている人、世の中がつくりだした社会の介入も見ている人が全的に見ている人です。

> >  あなたは一本の木のような対象物を、どんな連想も、それについて得たどんな知識もなしに、あなたと木の間に遮蔽物をつくって木をありのままに見ることを妨げるどんな偏見、どんな判断、どんな言葉もなしに見ることを実験したことがありますか? 
>
> ありません。
>
> >それをやってみて、木を全存在で、全エネルギーを注いで観察するとき、実際に
何が起こるか見て下さい。
>
> お言葉ですが、全存在で、全エネルギーを注いで観察するというのはどういうことですか?
> 対象物に対してを目を凝らしてギュっ と観察することですか?
> 凝視?
> それとも全存在、全エネルギーというのは金剛力で見ることですか?
>
>

例えばですが父と母との争いを胸を痛めて必死に見ている子供の気持ちが全存在で、全エネルギ−を注いで見るという事でしょう。凝視とか金剛力とか区別的に判断するのではなく、全的に、つまり、分別心なしに見ていることが全的であることです。

> >その強烈さの中に観察者は全くないことを見いだすでしょう。
>
> 見てる時、思考はないということですか?

はい。

> それが強烈ということですか?

はい。その時結論も分別もありません。それが観察者がいないという事です。

> >注意だけがあります。観察者と観察されるものがあるのは不注意があるときです。何かを完全な注意で見ているとき、概念や、公式や記憶の入る余地はありません。このことを理解することが重要です。
>
> つまり思考は介入しない。不注意というのは思考が介入すること。

そうです。

> >何故なら私たちは非常に注意深い探求を必要とすることに入りつつあるからです。
>
> 言ってることはわからないではないですが、どうやって思考を追い出すのですか?
> 考えないということ?
> 「注意深い探求」というのがよくわからない

ただただひたすらに見ていること。全エネルギーで見ている。それが注意で、思考は顔を出せない。

> >  完全な自己放棄で木や星やきらめく川の水を見る心だけが美とは何かを知ります。
> 完全な自己放棄って何ですか?
> 誰でも木や星を見てますよ。

そうですが全エネルギーを注ぐことはない。

> >そして実際に見ているとき私たちは愛の状態にあります。
>
> 何で急に愛の話になるのですか。

全エネルギーを注いで何かを見ている時、思考も自己もなく見ている。それが愛という状態にあることなのだ、と教えてくれています。

> >普通は比較したり、人が組み立てたものを通じて美を知りますが、それは私たちが美を何かの対象に起因すると考えていることを意味します。 私は、私が美しい建築であると考えるものを見、そしてその美を自分の建築の知識のせいで、またそれを私が見たほかの建築と比較することによって味わうのです。しかしいま私は自分自身に「対象なしに美はあるだろうか?」と尋ねています。
>
> 仏像は誰が見ても美しいです。偏見はありません。
>
そういう時観察者・思考がそう言っているのです。次を読んでください。
>
> >検閲者、経験者、思考者である観察者がいるとき、美は外部の何か、観察者が見て判断する何かであるため、美はありません。だが観察者がないとき ― そしてこのことは大変な瞑想、探求を必要とします ― そのとき対象なしの美があります。
>
> ここへきて瞑想、探求の話になった。

いえ、観察者がいない時(エネルギ−が見ることだけに注がれている時)対象なしの美があるとKが言っています。
>
> >  美は観察者と観察されるものの完全な放棄の中にあります。そして自己放棄があり得るのは完全な厳しさがあるときのみです ― 過酷さ、制裁、規則と服従を伴う聖職者の厳しさではなく ― 衣服、考え、食物、振舞の質素さではなく ― 完全に単純である厳しさであり、それは完全な謙虚さです。そのとき達成することはなく、登る梯子もありません。最初の一歩があるだけでその第一歩が永遠の一歩です。
>
> どうも話が飛躍しすぎるようです。これでは一般の人はついていけません。
> >
> >  例えば一人、あるいは誰かと歩いていて、そして話すのをやめたとしましょう。自然に囲まれており、犬も吠えず、車の通る音も、鳥の羽ばたきさえもありません。あなたは完全に沈黙しており、まわりの自然もまた全く沈黙しています。観察者と観察されるものの両方のその沈黙な中に ― 観察者が彼の観察したものを思考に翻訳しないとき ― その沈黙の中に違う質の美があります。自然も観察者もありません。全く、完全に、ただ一人の心の状態があります。
>
> 私は登山の時、途中の山林で、一人っきりになったことがあります。周りが誰もいない。自然のみ。そのとき言いようのない恐怖に襲われたことがあります。まさに孤立。
>
> >それは一人です ― 孤立ではありません ― 静寂の中にただ一人、そしてその静寂は美です。あなたが愛するとき観察者がいるでしょうか? 愛が欲望と快楽であるときのみ観察者がいます。欲望と快楽が愛と関連していないとき、愛は強烈です。愛は、美のように、日々全く新しいものです。すでに述べたように、愛は昨日や明日を持ちません。
>
> 何で愛が出てくるのですか?愛は前章のテーマで、今章のテーマは「見る、聞く」です。

愛と美はどのような状態であるかを、見る、聴くとの関連を使ってはっきりと述べられつつあります。

> >
> > (続く)
>
> よく読んで見ると、具体的なことが書かれていないことに気づきます。
> ただ見るだけじゃわからない。私たちは常に何かを見てますが、エネルギーなど使っていないでしょう。見てるだけですから。

見ているというのはエネルギーを使いますよ。老人になるとよくわかります。疲れたとき居眠りします。目を見張るという事が大変です。目がかすんできます。
>
> 結局ここでは、全存在、全エネルギーで見るというのは、どういうことか、ということになる。

そうです。それは美、愛、自己放棄、思考や観察者の不在などの全部にかかわります。

> 例えば、そこに木という対象物があるとき、何かを感じとれということだろうか?

別に必要なければ通りすがりに見るだけでいいのではないですか? 家人が元気がよさそうならそんなに見ません。何か気になるなら見守ります。


[25899] Re:[25893] 既知からの自由11ー2 投稿者:無明 投稿日:2018/09/22(Sat) 10:47  

> 11章ー2 [美] [厳しさ]
>
>  最も難しいことの一つは、外部のものだけでなく内部の生も、自分自身で本当に明確に見ることだと私は思います。木や花や人を見ると言うとき、実際に見ているでしょうか? 

自分自身で内部の生を明確に見るというが、一体何を明確に見るというのか?抽象的でよくわかりません。

>それとも単にその言葉がつくり出したイメージを見ているだけなのでしょうか? つまり、木や、光と喜びに満ちた夕方の雲を見るとき、ただ目で、そして知的に見るだけでなく、全的に、完全に、実際に見ているでしょうか?

全的に完全に見るとは、一体どういうことか?
思考なしに、ということ?
>
>  あなたは一本の木のような対象物を、どんな連想も、それについて得たどんな知識もなしに、あなたと木の間に遮蔽物をつくって木をありのままに見ることを妨げるどんな偏見、どんな判断、どんな言葉もなしに見ることを実験したことがありますか? 

ありません。

>それをやってみて、木を全存在で、全エネルギーを注いで観察するとき、実際に何が起こるか見て下さい。

お言葉ですが、全存在で、全エネルギーを注いで観察するというのはどういうことですか?
対象物に対してを目を凝らしてギュっ と観察することですか?
凝視?
それとも全存在、全エネルギーというのは金剛力で見ることですか?


>その強烈さの中に観察者は全くないことを見いだすでしょう。

見てる時、思考はないということですか?
それが強烈ということですか?

>注意だけがあります。観察者と観察されるものがあるのは不注意があるときです。何かを完全な注意で見ているとき、概念や、公式や記憶の入る余地はありません。このことを理解することが重要です。

つまり思考は介入しない。不注意というのは思考が介入すること。


>何故なら私たちは非常に注意深い探求を必要とすることに入りつつあるからです。

言ってることはわからないではないですが、どうやって思考を追い出すのですか?
考えないということ?
「注意深い探求」というのがよくわからない
>
>  完全な自己放棄で木や星やきらめく川の水を見る心だけが美とは何かを知ります。

完全な自己放棄って何ですか?
誰でも木や星を見てますよ。


>そして実際に見ているとき私たちは愛の状態にあります。

何で急に愛の話になるのですか。

>普通は比較したり、人が組み立てたものを通じて美を知りますが、それは私たちが美を何かの対象に起因すると考えていることを意味します。 私は、私が美しい建築であると考えるものを見、そしてその美を自分の建築の知識のせいで、またそれを私が見たほかの建築と比較することによって味わうのです。しかしいま私は自分自身に「対象なしに美はあるだろうか?」と尋ねています。

仏像は誰が見ても美しいです。偏見はありません。



>検閲者、経験者、思考者である観察者がいるとき、美は外部の何か、観察者が見て判断する何かであるため、美はありません。だが観察者がないとき ― そしてこのことは大変な瞑想、探求を必要とします ― そのとき対象なしの美があります。

ここへきて瞑想、探求の話になった。

>  美は観察者と観察されるものの完全な放棄の中にあります。そして自己放棄があり得るのは完全な厳しさがあるときのみです ― 過酷さ、制裁、規則と服従を伴う聖職者の厳しさではなく ― 衣服、考え、食物、振舞の質素さではなく ― 完全に単純である厳しさであり、それは完全な謙虚さです。そのとき達成することはなく、登る梯子もありません。最初の一歩があるだけでその第一歩が永遠の一歩です。

どうも話が飛躍しすぎるようです。これでは一般の人はついていけません。
>
>  例えば一人、あるいは誰かと歩いていて、そして話すのをやめたとしましょう。自然に囲まれており、犬も吠えず、車の通る音も、鳥の羽ばたきさえもありません。あなたは完全に沈黙しており、まわりの自然もまた全く沈黙しています。観察者と観察されるものの両方のその沈黙な中に ― 観察者が彼の観察したものを思考に翻訳しないとき ― その沈黙の中に違う質の美があります。自然も観察者もありません。全く、完全に、ただ一人の心の状態があります。

私は登山の時、途中の山林で、一人っきりになったことがあります。周りが誰もいない。自然のみ。そのとき言いようのない恐怖に襲われたことがあります。まさに孤立。

>それは一人です ― 孤立ではありません ― 静寂の中にただ一人、そしてその静寂は美です。あなたが愛するとき観察者がいるでしょうか? 愛が欲望と快楽であるときのみ観察者がいます。欲望と快楽が愛と関連していないとき、愛は強烈です。愛は、美のように、日々全く新しいものです。すでに述べたように、愛は昨日や明日を持ちません。

何で愛が出てくるのですか?愛は前章のテーマで、今章のテーマは「見る、聞く」です。
>
> (続く)

よく読んで見ると、具体的なことが書かれていないことに気づきます。
ただ見るだけじゃわからない。私たちは常に何かを見てますが、エネルギーなど使っていないでしょう。見てるだけですから。

結局ここでは、全存在、全エネルギーで見るというのは、どういうことか、ということになる。
例えば、そこに木という対象物があるとき、何かを感じとれということだろうか?


[25898] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/09/22(Sat) 10:04  

女優樹木希林さんが亡くなった。彼女は常に高みから自分自身を眺め、物事を客観視していた人だった。常に人のためにということが頭にあったという。
素晴らしい人は、身近にいくらでもいる。生きた手本になる人が。岡山の子供を救ったボランティア の小畑さんもそうだ。
私の知人に、ただ傾聴するのみ。邪心を持たぬという人がいた。

宇宙、宇宙というが、人間こそ実は宇宙の体現ではなかろうか。
人間即宇宙。まさに小宇宙。我ゆえに我あり。神とは人間の意識なり。

動物の世界は、一見「弱肉強食」の世界に見えるが、実は愛の世界だ。
自分の命を他の動物に捧げているということだ。海の小動物は、たくさん卵を産んでも、ほとんどが食われてしまう。生き残るのはわずか。それを有史以来繰り返している。見事な奇跡のバランスが保たれている。他にもそう言ったことがいくらでもある。
酸素と炭酸ガスの微妙なバランスで人間は生かされている。

追記
余談だが、約1万年と言われる縄文時代は、争いなく、平和に暮らしていたとある文献を読んだことがある。カタカムナ文献。


[25897] 雑観 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/22(Sat) 00:21  

今日はWOWOWのアニメ・ファンタジー「ソング・オブ・ザ・シー 海のうた」21時〜を見て、始めの方から泣いていた。アイルランドの伝説をもとにした幻想的な作品で、すっかり魅せられてしまった。

これは人間がいかにいかに葛藤し、いかに愛を見つけ出すかの物語で、その人間的な善とも悪とも言えない葛藤が単純でよくわかるし、その凝り固まった苦悩or悲しみを解きほぐす愛をわかる人、その実現を助ける人、知らずして妨げる人が、主人公への愛でいさかいをやめ、一本筋の愛に目覚めて行くというストーリーだった。

ひょっとすると今の宇宙そのものが一応法則はあるが偶然の不条理で非合理的な世界かもしれない。科学者が観測した世界はそう見えるという事だった。人間が世界を愛で統合しなければ自分の幸福もない宿命にあるのかもしれない。


[25896] Kathryn 投稿者:Kathryn 投稿日:2018/09/21(Fri) 12:34  

これらのリリースに付属するほとんどのコンテンツは、私が情報を非常にうまく共有できるようにします。

https://www.goodreads.com/user/show/25656701-baccarat24hr


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