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[25435] 無題 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/11(Mon) 15:31  

<しかし、牛車からジェット機までの外部の変化は、人間の心理にいろいろな変化を与えないのだろうか?

はい。携帯電話の進化。スマートフォンの出現は人間の心理に大きく影響を与えています。


一つの例。
この前何人かで会食したのですが、人との対話の最中、何人かはスマホをいじっている。つまり話題が自分と関係ないと見るやスマホを取り出す。
いまの子供は面と気持ちを伝えられないという。何でもSNS
一部の人は、スマホの乱用は人のコミニュケーション能力を著しく欠如すると警告する。なんでも機械に依存。
先が思いやられる。人類の疲弊。
わらじ履きの時代に生きた釈迦。1986年に亡くなったクリシュナムルティもビックリ。
自分の子供にスマホを持たせないと思っても、学校へ行くと「いじめ」にあう。
やな時代になったものだ。
思考依存からAI依存へ。


[25434] 続き 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/11(Mon) 15:07  

詳しく見て見ましょう

 <そしてあなた自身とは、個人としてのあなたとは何でしょうか? 私は人間と個人の間には違いがあると考えます、



<個人は局地的な存在であって、特定の国で生活し、特定の文化、特定の社会、特定の宗教に属しています。

局地的な存在?
はい。私は日本で生まれ、そこで生活しています。様々な文化、社会。影響を受けて育っています。


<人間は局地的存在ではありません。あらゆる場所にいます。

私はたまたま日本で生まれたが、世界中には様々な地域で、様々な文化、社会で生きている。つまり人間はあらゆる場所に住んでいる。例えば北極のエスキモー。

<もし個人が生の広大な場の特定の隅で行動するだけなら、その時彼の行動は全体と全く無関係です。

特定の地域ですか ?
さっきいったように、極地に住んでいる人は、私たち日本で生きている人には無関係です。

<ですから私たちは部分でなく全体について話していることを心に留めておかねばなりません。

何でですか?

<なぜなら大の中に小はあり得ますが、小の中に大はないからです。個人は小さな条件づけられた、惨めな、欲求不満の存在であり、自分の小さな神と小さな伝統に満足していますが、

はい。

<他方人間は世界の全体の幸福、全体の惨めさ、全体の混乱に関係しているのです。

個人も人間も混乱していることは同じではないでか?
個人も全体も同じ。個人の集合が全体だからです。

個人と全体が違うというのがイマイチわからない。
人間どこにいようとも心理的には同じものを抱えている。何万年も。
ということだったらわかります。
個人も人間も同じではないですか?. 違いはありません。


[25433] 個人と人間 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/11(Mon) 14:37  

25430
前半
個人と人間とは違いがあると言っておきながら、
後半は
個人はすべて人類であり、人間なのです
と言っている。

わかりやすくいうと、個人と人間は違うと言いながら、個人と人間は同じと言っている。矛盾した文章。

ここは意味がわからない。

元々Kは人類は個人の集合体と言っていなかったでしょうか?

個人と人間(人類)は違うというのは奇妙です。初めて聞きました。


[25432] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/11(Mon) 13:11  

孔子は死ぬとき誰も変わらなかったことを確認して穏やかに笑いながらしんでいった。飯尾さんも誰も変わらないことを確認して穏やかにアルツハイマーになられた。私も悟るまでそうしようと思う。


[25431] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/11(Mon) 13:07  

新潟知事選、 若い人たちの勝利に終わった。今やマスコミは若者をコントロールできない。


[25430] Re:[25428] 既知からの自由 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/11(Mon) 10:53  

> [人間と個人・生存の戦い]
>
>  神、真理、実在、あるいはそれをどう呼ぼうとも、それがあるかどうかという問いは本や司祭、哲学者や救世主によっては決して答えられません。自分自身のほかには誰も何もその問いに答えることはできず、そしてそのことが自分自身を知らなければならない理由です。未熟さは自己についてのまったくの無知の中にのみあります。自分自身を理解することが知恵の始まりです。

自分自身を知らなければならないという事は、アテネの時代から言われているし、Kも基本的なこととして言及しているという知識はある。しかし自分でそこを見て、実感・理解しているかどうかは怪しい。自信が持てない。

>  そしてあなた自身とは、個人としてのあなたとは何でしょうか? 私は人間と個人の間には違いがあると考えます、個人は局地的な存在であって、特定の国で生活し、特定の文化、特定の社会、特定の宗教に属しています。人間は局地的存在ではありません。あらゆる場所にいます。もし個人が生の広大な場の特定の隅で行動するだけなら、その時彼の行動は全体と全く無関係です。ですから私たちは部分でなく全体について話していることを心に留めておかねばなりません。なぜなら大の中に小はあり得ますが、小の中に大はないからです。個人は小さな条件づけられた、惨めな、欲求不満の存在であり、自分の小さな神と小さな伝統に満足していますが、他方人間は世界の全体の幸福、全体の惨めさ、全体の混乱に関係しているのです。

個人と人間というここにある見方・考え方は、この本を訳したから当然知っているはずなのに、頭の中になかった。今度注目できるのは、ここ一年近く哲学の本を読んだおかげである。傾聴した。

>
>  私たち人間は何百万年の間そうであったままです ― とてつもなく貪欲で、羨望的で、攻撃的で、嫉妬深く、不安で、絶望しており、たまさかの喜びと愛情の閃きを伴うに過ぎません。私たちは憎しみ、恐怖、優しさの奇妙な混合物です。暴力と平和の両方です。牛車からジェット機まで外部の進歩はありましたが、心理的には個人は全く変わっておらず、世界中の社会の構造は個人によってつくり出されてきたのです。外部の社会の構造は、人間関係の内部の心理的な構造の結果です。というのは個人は人間の全経験、全知識、全行為の結果だからです。各人一人一人が全ての過去の倉庫です。個人は全て人類である人間なのです。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。


何百万年か前に人類は誕生したが、背は低く、1メーター20くらいで、脳も小さかった。背が高く、脳の重量が増したのは2万年ぐらい前に過ぎない。人の心理状態は少なくとも脳の重量が増すことによって変わっていると思う。がそんなことは置いといて、人間らしくなってからは心理状態は変わっていないという事だと聞きました。
 しかし、牛車からジェット機までの外部の変化は、人間の心理にいろいろな変化を与えないのだろうか?

>  権力、地位、信望、名声、成功、等々に対する欲望と共に生きている競争的な文化の中で、自分自身の内部と外部で実際に起きていることを観察しましょう ― 自分がそんなにも誇りにしている業績を観察しましょう。憎悪、敵意、残忍さ、果てしない戦争を引き起こしている、あらゆる形の関係の中に葛藤があるあなたが生と呼ぶこの場を観察しましょう。この場、この生が私たちの知っているすべてです。そして生存の巨大な戦いを理解できないので、私たちは当然それを恐れ、あらゆる種類の巧妙な方法でそれからの逃避を見つけます。そして私たちはまた未知のものを恐れます ― 死を恐れ、明日の彼方にあるものを恐れます。それゆえ私たちは既知のものを恐れ、また未知のものを恐れています。それが私たちの日常生活であり、その中に希望はありません。それゆえあらゆる形の哲学、あらゆる形の神学的概念は、あるがままの現実からの単なる逃避にすぎません。


この生存の場についての記述は傾聴します。
生を見て理解できない。はい、そこに恐怖が生じ、いろいろ考える、それは逃避に過ぎない ― 問題の解決につながらないと。ここは引っかかる。哲学は形而上学的で理念に引っかかっていた。それを乗り越え、変化している。それが全く役立たないという根拠が古い状態に対してしか成立しない。


[25429] 汝自身を知れ 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/11(Mon) 05:46  

「汝自身を知れ」というのは古今からの聖賢たちによって、言われた言葉です。自己を知る。
自己とはなんぞや。
Kに言わせれば自己とは思考イコール過去の経験一切喝采。自己がなければ何もない。つまり自己=記憶


[25428] 既知からの自由 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/11(Mon) 00:23  

[人間と個人・生存の戦い]

 神、真理、実在、あるいはそれをどう呼ぼうとも、それがあるかどうかという問いは本や司祭、哲学者や救世主によっては決して答えられません。自分自身のほかには誰も何もその問いに答えることはできず、そしてそのことが自分自身を知らなければならない理由です。未熟さは自己についてのまったくの無知の中にのみあります。自分自身を理解することが知恵の始まりです。

 そしてあなた自身とは、個人としてのあなたとは何でしょうか? 私は人間と個人の間には違いがあると考えます、個人は局地的な存在であって、特定の国で生活し、特定の文化、特定の社会、特定の宗教に属しています。人間は局地的存在ではありません。あらゆる場所にいます。もし個人が生の広大な場の特定の隅で行動するだけなら、その時彼の行動は全体と全く無関係です。ですから私たちは部分でなく全体について話していることを心に留めておかねばなりません。なぜなら大の中に小はあり得ますが、小の中に大はないからです。個人は小さな条件づけられた、惨めな、欲求不満の存在であり、自分の小さな神と小さな伝統に満足していますが、他方人間は世界の全体の幸福、全体の惨めさ、全体の混乱に関係しているのです。


 私たち人間は何百万年の間そうであったままです ― とてつもなく貪欲で、羨望的で、攻撃的で、嫉妬深く、不安で、絶望しており、たまさかの喜びと愛情の閃きを伴うに過ぎません。私たちは憎しみ、恐怖、優しさの奇妙な混合物です。暴力と平和の両方です。牛車からジェット機まで外部の進歩はありましたが、心理的には個人は全く変わっておらず、世界中の社会の構造は個人によってつくり出されてきたのです。外部の社会の構造は、人間関係の内部の心理的な構造の結果です。というのは個人は人間の全経験、全知識、全行為の結果だからです。各人一人一人が全ての過去の倉庫です。個人は全て人類である人間なのです。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。

 権力、地位、信望、名声、成功、等々に対する欲望と共に生きている競争的な文化の中で、自分自身の内部と外部で実際に起きていることを観察しましょう ― 自分がそんなにも誇りにしている業績を観察しましょう。憎悪、敵意、残忍さ、果てしない戦争を引き起こしている、あらゆる形の関係の中に葛藤があるあなたが生と呼ぶこの場を観察しましょう。この場、この生が私たちの知っているすべてです。そして生存の巨大な戦いを理解できないので、私たちは当然それを恐れ、あらゆる種類の巧妙な方法でそれからの逃避を見つけます。そして私たちはまた未知のものを恐れます ― 死を恐れ、明日の彼方にあるものを恐れます。それゆえ私たちは既知のものを恐れ、また未知のものを恐れています。それが私たちの日常生活であり、その中に希望はありません。それゆえあらゆる形の哲学、あらゆる形の神学的概念は、あるがままの現実からの単なる逃避にすぎません。


[25427] Re:[25426] [25425] [25417] [25415] [25401] [25388] 既知からの自由1−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/11(Mon) 00:19  

> > > > > > [伝統的接近法・世間体という罠]
> > > > > >
> > > > > > それゆえ、この不安な、やましい、恐ろしい、競争的な生活を超えた何かが実際にあるかどうかを発見するには、全く完全に異なる接近をしなければならないと私には思われます。伝統的接近法は周辺から内部へであり、時間と訓練と放棄を通じて、徐々にあの内面の花、あの内面の美と愛に出会う事です ― 事実としては自分自身を狭い、とるに足らない、つまらないものにするためにあらゆることをすること、少しづつ脱皮し、時間をかけ、明日はやろう、次の生はやろうという事です ― そしてついに中心に達するとき、人はそこには何もないことを見出します。なぜなら心は無能力に、鈍く無感覚にされてしまっているからです。
> > > > > >
> > > > > >  この過程を観察して、人は自分自身に問います、全く違う接近法はないだろうか ― すなわち、中心から爆発することはできないだろうか?と。
> > > > >
> > > > >
> > > > >  上記の接近法の説明について『クリシュナムルティ・ノート』p78に参考となる文面があるので、情報提供させてください。
> > > > >
> > > > >
> > > > >  前略(この文面の直前には、「ザ・アーザー」についての記述がある・・)
> > > > >
> > > > >  コップは、その形や色やデザインだけがコップではなくて、コップの中の空虚も含めてコップです。コップは、形の中に入れられた空虚です。その空虚がなければ、コップもないし、形もないでしょう。我々は、意識を外面的な姿形によって、その高さと深さの限界や思考と感情の限界によって知ります。しかし、それらは全て意識の外面的な形です。我々は、外面的なものから内面的なものを見つけ出そうと試みます。それは可能なのでしょうか?理論や推論には意味がありません。それらは、あらゆる発見を実際に妨げます。我々は、外面的なものから内面的なものを見つけ出そうと試みます。未知のものを見つけ出そうと願って、既知のものから探りを入れます。内面的なものから外面的なものへ探りを入れることはできるでしょうか?外面的なものから探りを入れる道具を我々は知っています。しかし、未知のものから既知のものへ探りを入れる道具が果たして存在するでしょうか?存在するでしょうか?そしてどのように存在するのでしょうか?ありえません。もしもそれが存在するなら、それは認識できるということになります。そしてもし認識できるなら、それは既知の領域の中ということになります。
> > > > >
> > > > >  以下省略
> > > > >
> > > > >  − − − 以上引用 − − −
> > > >
> > > >
> > > > この引用文を前に、私は立ちすくんでしまいました。わからないし、引っかかるので。
> > > >
> > > > 内部から外部を探る道具なんてないに決まっています。それで外部から探るのですが、内部(心)は不可視のブラックボックスです。ただそこへのインプットとアウトプット(思考、感情、欲望など)は分かります。確かに理論や推測に意味はありません。それらは発見を実際に妨げます。しかし入出力に観察(これはフィードバック入力になる)から発見(心の新しい出力)がひょいと起こることはあると思っています。これがすべて求める過程だと言われている気がしますが、観察が、求める気持ちなしの受動的なものであれば、発見がありうると思います。
> > >
> > >
> > >  クリシュナムルティは、「自由とは意識からの自由」とも述べています。
> > >
> > >  この「意識」とは、時間の過程の中の意識(外面的な意識)と、時間の外の意識(内面的な意識)の二つがあるとしてクリシュナムルティは取り扱っているようです。
> > >
> > >  内面的な意識(時間の外の意識)に触れるためには、外面的な意識がすっかり止まねばならぬ(空っぽにならねばならぬ)・・、これがクリシュナムルティが述べていることの一つです。
> >
> >
> > こういう記述もあるのですか。初めて知りました。これはわかります。見ることだけがあるときの意識が内面的意識ですね。
> >
> > >
> > > > > >  世界は伝統的な接近法を受け入れ従います。私たち自身の中の無秩序の主要な原因は他人によって約束された実在を探し求めることです。私たちは快適な精神生活を保障してくれる誰かに機械的に従います。私たちの大部分は政治的圧政と独裁には反対しますが、心と生き方を歪める他人の権威、圧政を内面的には受け入れるという事は、もっとも驚くべき事です。ですからもしすべてのいわゆる精神的権威、すべての式典、儀式及び教義を完全に拒絶するなら、それは私たちが一人で立ち、既に社会と一致しないことを意味します。私たちは世間が尊敬する人間であるのをやめます。世間が尊敬する人間はあの無限の、計り知れない、実在に近づくことは到底できません。
> > > > > >
> > > > > >  あなたは今や絶対的に虚偽であるもの ― 伝統的接近法 ― を否定することによって出発しました。しかしもし反発としてそれを否定するならあなたはもう一つの型を創り出していて、その罠にはまるでしょう。この否定は非常にいい考えだと知的に自分自身に告げてもそれについて何もしないなら、それ以上少しも行くことはできません。けれども、その愚かさと未熟さを理解するのでそれを否定するならば、あなたが自由であって怖れていないので、それを途方もない英知で拒絶するならば、自分自身の中とあなたの周りに大きな動揺を引き起こすでしょうが、だがあなたは世間体の罠から抜け出すでしょう。その時あなたはもはや求めてはいないことを見出すでしょう。それが学ぶべき最初のことです。 ― 求めないことが。求める時は、実はウィンドーショッピングをしているに過ぎないのです。
> > > > > >
> > > > > > (続く)
> > > > >
> > > > >
> > > > >  >けれども、その愚かさと未熟さを理解するのでそれを否定するならば、あなたが自由であって怖れていないので、それを途方もない英知で拒絶するならば、−−、伝統的な接近法、すなわち周辺(外面的なもの)から内部(内面的なもの)へ探りを入れる。既知のものから未知のものを探る、このような伝統的な接近法を見て、見ることによって、>その愚かさと未熟さを理解する−−、そして、その時の即座の行為として、>それを途方もない英知で拒絶する−−。
> > > > >
> > > > >  そのときには、ビカミングが止む、すなわち求めなくなる。
> > > > >
> > > > >  それほど強烈に見ることができるのか。。
> > > > >
> > > > >  私には、まだそこまでは見えていないようだ。。
> > > >
> > > > 「強烈に見る」というところが気になります。受動的にしかも強烈に見るというのは何か? 既知のものなしに(一例をあげれば判断なしに)見ている ― そういう事ですか。
> > >
> > >
> > >  実際に断崖に立った時、実際にハブと遭遇した時。
> > >
> > >  人は強烈に見るのではないでしょうか。
> >
> > はて、そうかもしれませんが、恐怖ですくんでいるかもしれません。またおべっかを言われたとき、強烈に見るでなくわかって聞いている状態にあるでしょう。
> >
> > >  ただ、漠然と見る・感じる・・、これによっては>それを途方もない英知で拒絶するならば、自分自身の中とあなたの周りに大きな動揺を引き起こすでしょう−−、このことが起きることはないのではないでしょうか。
> >
> > 強烈でないが、ただ漠然と見る・感じるという状態でもないのですが。
> >
> > >  それが起こるには、断崖を見るように、毒蛇を見るように、見れるかどうか。。
> >
> >
> > 断崖、毒蛇という記述もありますが、Kの講話を一心に聞いているとします。その時鳥がケーンと鳴く、自動車の警笛が鳴る。それは予期せずに鮮烈に聞こえてしまう。これが時間のない内面の意識で聞くというもの。とまあ私はこう思っているわけです。これはこのくらいにしておきませんか。私の意は一応話したと思います。
>
>
>  そのときに、>その愚かさと未熟さを理解するのでそれを否定するならば、あなたが自由であって怖れていないので、それを途方もない英知で拒絶するならば、自分自身の中とあなたの周りに大きな動揺を引き起こすでしょうが、だがあなたは世間体の罠から抜け出すでしょう。その時あなたはもはや求めてはいないことを見出すでしょう。それが学ぶべき最初のことです。−−、これが起きているということでしょうか。。
>
>  それとも、これが起こることについての理解は、とりあえず先送りにするということでしょうか。。
>
>  私にとっては、それが今は未だ起きていない・・。として十分なのですが‥。


私にとってはの「私」には個人としての私と人間としての私があるらしいです。今まで私はKがそう言ったのをはっきり記憶していませんでした。それが今回既知からの自由を読んでいてわかりました。それで1−3に進みます。Kは人間の問題を述べているのでしょう。


[25426] Re:[25425] [25417] [25415] [25401] [25388] 既知からの自由1−2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/10(Sun) 22:00  

> > > > > [伝統的接近法・世間体という罠]
> > > > >
> > > > > それゆえ、この不安な、やましい、恐ろしい、競争的な生活を超えた何かが実際にあるかどうかを発見するには、全く完全に異なる接近をしなければならないと私には思われます。伝統的接近法は周辺から内部へであり、時間と訓練と放棄を通じて、徐々にあの内面の花、あの内面の美と愛に出会う事です ― 事実としては自分自身を狭い、とるに足らない、つまらないものにするためにあらゆることをすること、少しづつ脱皮し、時間をかけ、明日はやろう、次の生はやろうという事です ― そしてついに中心に達するとき、人はそこには何もないことを見出します。なぜなら心は無能力に、鈍く無感覚にされてしまっているからです。
> > > > >
> > > > >  この過程を観察して、人は自分自身に問います、全く違う接近法はないだろうか ― すなわち、中心から爆発することはできないだろうか?と。
> > > >
> > > >
> > > >  上記の接近法の説明について『クリシュナムルティ・ノート』p78に参考となる文面があるので、情報提供させてください。
> > > >
> > > >
> > > >  前略(この文面の直前には、「ザ・アーザー」についての記述がある・・)
> > > >
> > > >  コップは、その形や色やデザインだけがコップではなくて、コップの中の空虚も含めてコップです。コップは、形の中に入れられた空虚です。その空虚がなければ、コップもないし、形もないでしょう。我々は、意識を外面的な姿形によって、その高さと深さの限界や思考と感情の限界によって知ります。しかし、それらは全て意識の外面的な形です。我々は、外面的なものから内面的なものを見つけ出そうと試みます。それは可能なのでしょうか?理論や推論には意味がありません。それらは、あらゆる発見を実際に妨げます。我々は、外面的なものから内面的なものを見つけ出そうと試みます。未知のものを見つけ出そうと願って、既知のものから探りを入れます。内面的なものから外面的なものへ探りを入れることはできるでしょうか?外面的なものから探りを入れる道具を我々は知っています。しかし、未知のものから既知のものへ探りを入れる道具が果たして存在するでしょうか?存在するでしょうか?そしてどのように存在するのでしょうか?ありえません。もしもそれが存在するなら、それは認識できるということになります。そしてもし認識できるなら、それは既知の領域の中ということになります。
> > > >
> > > >  以下省略
> > > >
> > > >  − − − 以上引用 − − −
> > >
> > >
> > > この引用文を前に、私は立ちすくんでしまいました。わからないし、引っかかるので。
> > >
> > > 内部から外部を探る道具なんてないに決まっています。それで外部から探るのですが、内部(心)は不可視のブラックボックスです。ただそこへのインプットとアウトプット(思考、感情、欲望など)は分かります。確かに理論や推測に意味はありません。それらは発見を実際に妨げます。しかし入出力に観察(これはフィードバック入力になる)から発見(心の新しい出力)がひょいと起こることはあると思っています。これがすべて求める過程だと言われている気がしますが、観察が、求める気持ちなしの受動的なものであれば、発見がありうると思います。
> >
> >
> >  クリシュナムルティは、「自由とは意識からの自由」とも述べています。
> >
> >  この「意識」とは、時間の過程の中の意識(外面的な意識)と、時間の外の意識(内面的な意識)の二つがあるとしてクリシュナムルティは取り扱っているようです。
> >
> >  内面的な意識(時間の外の意識)に触れるためには、外面的な意識がすっかり止まねばならぬ(空っぽにならねばならぬ)・・、これがクリシュナムルティが述べていることの一つです。
>
>
> こういう記述もあるのですか。初めて知りました。これはわかります。見ることだけがあるときの意識が内面的意識ですね。
>
> >
> > > > >  世界は伝統的な接近法を受け入れ従います。私たち自身の中の無秩序の主要な原因は他人によって約束された実在を探し求めることです。私たちは快適な精神生活を保障してくれる誰かに機械的に従います。私たちの大部分は政治的圧政と独裁には反対しますが、心と生き方を歪める他人の権威、圧政を内面的には受け入れるという事は、もっとも驚くべき事です。ですからもしすべてのいわゆる精神的権威、すべての式典、儀式及び教義を完全に拒絶するなら、それは私たちが一人で立ち、既に社会と一致しないことを意味します。私たちは世間が尊敬する人間であるのをやめます。世間が尊敬する人間はあの無限の、計り知れない、実在に近づくことは到底できません。
> > > > >
> > > > >  あなたは今や絶対的に虚偽であるもの ― 伝統的接近法 ― を否定することによって出発しました。しかしもし反発としてそれを否定するならあなたはもう一つの型を創り出していて、その罠にはまるでしょう。この否定は非常にいい考えだと知的に自分自身に告げてもそれについて何もしないなら、それ以上少しも行くことはできません。けれども、その愚かさと未熟さを理解するのでそれを否定するならば、あなたが自由であって怖れていないので、それを途方もない英知で拒絶するならば、自分自身の中とあなたの周りに大きな動揺を引き起こすでしょうが、だがあなたは世間体の罠から抜け出すでしょう。その時あなたはもはや求めてはいないことを見出すでしょう。それが学ぶべき最初のことです。 ― 求めないことが。求める時は、実はウィンドーショッピングをしているに過ぎないのです。
> > > > >
> > > > > (続く)
> > > >
> > > >
> > > >  >けれども、その愚かさと未熟さを理解するのでそれを否定するならば、あなたが自由であって怖れていないので、それを途方もない英知で拒絶するならば、−−、伝統的な接近法、すなわち周辺(外面的なもの)から内部(内面的なもの)へ探りを入れる。既知のものから未知のものを探る、このような伝統的な接近法を見て、見ることによって、>その愚かさと未熟さを理解する−−、そして、その時の即座の行為として、>それを途方もない英知で拒絶する−−。
> > > >
> > > >  そのときには、ビカミングが止む、すなわち求めなくなる。
> > > >
> > > >  それほど強烈に見ることができるのか。。
> > > >
> > > >  私には、まだそこまでは見えていないようだ。。
> > >
> > > 「強烈に見る」というところが気になります。受動的にしかも強烈に見るというのは何か? 既知のものなしに(一例をあげれば判断なしに)見ている ― そういう事ですか。
> >
> >
> >  実際に断崖に立った時、実際にハブと遭遇した時。
> >
> >  人は強烈に見るのではないでしょうか。
>
> はて、そうかもしれませんが、恐怖ですくんでいるかもしれません。またおべっかを言われたとき、強烈に見るでなくわかって聞いている状態にあるでしょう。
>
> >  ただ、漠然と見る・感じる・・、これによっては>それを途方もない英知で拒絶するならば、自分自身の中とあなたの周りに大きな動揺を引き起こすでしょう−−、このことが起きることはないのではないでしょうか。
>
> 強烈でないが、ただ漠然と見る・感じるという状態でもないのですが。
>
> >  それが起こるには、断崖を見るように、毒蛇を見るように、見れるかどうか。。
>
>
> 断崖、毒蛇という記述もありますが、Kの講話を一心に聞いているとします。その時鳥がケーンと鳴く、自動車の警笛が鳴る。それは予期せずに鮮烈に聞こえてしまう。これが時間のない内面の意識で聞くというもの。とまあ私はこう思っているわけです。これはこのくらいにしておきませんか。私の意は一応話したと思います。


 そのときに、>その愚かさと未熟さを理解するのでそれを否定するならば、あなたが自由であって怖れていないので、それを途方もない英知で拒絶するならば、自分自身の中とあなたの周りに大きな動揺を引き起こすでしょうが、だがあなたは世間体の罠から抜け出すでしょう。その時あなたはもはや求めてはいないことを見出すでしょう。それが学ぶべき最初のことです。−−、これが起きているということでしょうか。。

 それとも、これが起こることについての理解は、とりあえず先送りにするということでしょうか。。

 私にとっては、それが今は未だ起きていない・・。として十分なのですが‥。


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