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[25425] Re:[25417] [25415] [25401] [25388] 既知からの自由1−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/10(Sun) 19:09  

> > > > [伝統的接近法・世間体という罠]
> > > >
> > > > それゆえ、この不安な、やましい、恐ろしい、競争的な生活を超えた何かが実際にあるかどうかを発見するには、全く完全に異なる接近をしなければならないと私には思われます。伝統的接近法は周辺から内部へであり、時間と訓練と放棄を通じて、徐々にあの内面の花、あの内面の美と愛に出会う事です ― 事実としては自分自身を狭い、とるに足らない、つまらないものにするためにあらゆることをすること、少しづつ脱皮し、時間をかけ、明日はやろう、次の生はやろうという事です ― そしてついに中心に達するとき、人はそこには何もないことを見出します。なぜなら心は無能力に、鈍く無感覚にされてしまっているからです。
> > > >
> > > >  この過程を観察して、人は自分自身に問います、全く違う接近法はないだろうか ― すなわち、中心から爆発することはできないだろうか?と。
> > >
> > >
> > >  上記の接近法の説明について『クリシュナムルティ・ノート』p78に参考となる文面があるので、情報提供させてください。
> > >
> > >
> > >  前略(この文面の直前には、「ザ・アーザー」についての記述がある・・)
> > >
> > >  コップは、その形や色やデザインだけがコップではなくて、コップの中の空虚も含めてコップです。コップは、形の中に入れられた空虚です。その空虚がなければ、コップもないし、形もないでしょう。我々は、意識を外面的な姿形によって、その高さと深さの限界や思考と感情の限界によって知ります。しかし、それらは全て意識の外面的な形です。我々は、外面的なものから内面的なものを見つけ出そうと試みます。それは可能なのでしょうか?理論や推論には意味がありません。それらは、あらゆる発見を実際に妨げます。我々は、外面的なものから内面的なものを見つけ出そうと試みます。未知のものを見つけ出そうと願って、既知のものから探りを入れます。内面的なものから外面的なものへ探りを入れることはできるでしょうか?外面的なものから探りを入れる道具を我々は知っています。しかし、未知のものから既知のものへ探りを入れる道具が果たして存在するでしょうか?存在するでしょうか?そしてどのように存在するのでしょうか?ありえません。もしもそれが存在するなら、それは認識できるということになります。そしてもし認識できるなら、それは既知の領域の中ということになります。
> > >
> > >  以下省略
> > >
> > >  − − − 以上引用 − − −
> >
> >
> > この引用文を前に、私は立ちすくんでしまいました。わからないし、引っかかるので。
> >
> > 内部から外部を探る道具なんてないに決まっています。それで外部から探るのですが、内部(心)は不可視のブラックボックスです。ただそこへのインプットとアウトプット(思考、感情、欲望など)は分かります。確かに理論や推測に意味はありません。それらは発見を実際に妨げます。しかし入出力に観察(これはフィードバック入力になる)から発見(心の新しい出力)がひょいと起こることはあると思っています。これがすべて求める過程だと言われている気がしますが、観察が、求める気持ちなしの受動的なものであれば、発見がありうると思います。
>
>
>  クリシュナムルティは、「自由とは意識からの自由」とも述べています。
>
>  この「意識」とは、時間の過程の中の意識(外面的な意識)と、時間の外の意識(内面的な意識)の二つがあるとしてクリシュナムルティは取り扱っているようです。
>
>  内面的な意識(時間の外の意識)に触れるためには、外面的な意識がすっかり止まねばならぬ(空っぽにならねばならぬ)・・、これがクリシュナムルティが述べていることの一つです。


こういう記述もあるのですか。初めて知りました。これはわかります。見ることだけがあるときの意識が内面的意識ですね。

>
> > > >  世界は伝統的な接近法を受け入れ従います。私たち自身の中の無秩序の主要な原因は他人によって約束された実在を探し求めることです。私たちは快適な精神生活を保障してくれる誰かに機械的に従います。私たちの大部分は政治的圧政と独裁には反対しますが、心と生き方を歪める他人の権威、圧政を内面的には受け入れるという事は、もっとも驚くべき事です。ですからもしすべてのいわゆる精神的権威、すべての式典、儀式及び教義を完全に拒絶するなら、それは私たちが一人で立ち、既に社会と一致しないことを意味します。私たちは世間が尊敬する人間であるのをやめます。世間が尊敬する人間はあの無限の、計り知れない、実在に近づくことは到底できません。
> > > >
> > > >  あなたは今や絶対的に虚偽であるもの ― 伝統的接近法 ― を否定することによって出発しました。しかしもし反発としてそれを否定するならあなたはもう一つの型を創り出していて、その罠にはまるでしょう。この否定は非常にいい考えだと知的に自分自身に告げてもそれについて何もしないなら、それ以上少しも行くことはできません。けれども、その愚かさと未熟さを理解するのでそれを否定するならば、あなたが自由であって怖れていないので、それを途方もない英知で拒絶するならば、自分自身の中とあなたの周りに大きな動揺を引き起こすでしょうが、だがあなたは世間体の罠から抜け出すでしょう。その時あなたはもはや求めてはいないことを見出すでしょう。それが学ぶべき最初のことです。 ― 求めないことが。求める時は、実はウィンドーショッピングをしているに過ぎないのです。
> > > >
> > > > (続く)
> > >
> > >
> > >  >けれども、その愚かさと未熟さを理解するのでそれを否定するならば、あなたが自由であって怖れていないので、それを途方もない英知で拒絶するならば、−−、伝統的な接近法、すなわち周辺(外面的なもの)から内部(内面的なもの)へ探りを入れる。既知のものから未知のものを探る、このような伝統的な接近法を見て、見ることによって、>その愚かさと未熟さを理解する−−、そして、その時の即座の行為として、>それを途方もない英知で拒絶する−−。
> > >
> > >  そのときには、ビカミングが止む、すなわち求めなくなる。
> > >
> > >  それほど強烈に見ることができるのか。。
> > >
> > >  私には、まだそこまでは見えていないようだ。。
> >
> > 「強烈に見る」というところが気になります。受動的にしかも強烈に見るというのは何か? 既知のものなしに(一例をあげれば判断なしに)見ている ― そういう事ですか。
>
>
>  実際に断崖に立った時、実際にハブと遭遇した時。
>
>  人は強烈に見るのではないでしょうか。

はて、そうかもしれませんが、恐怖ですくんでいるかもしれません。またおべっかを言われたとき、強烈に見るでなくわかって聞いている状態にあるでしょう。

>  ただ、漠然と見る・感じる・・、これによっては>それを途方もない英知で拒絶するならば、自分自身の中とあなたの周りに大きな動揺を引き起こすでしょう−−、このことが起きることはないのではないでしょうか。

強烈でないが、ただ漠然と見る・感じるという状態でもないのですが。

>  それが起こるには、断崖を見るように、毒蛇を見るように、見れるかどうか。。


断崖、毒蛇という記述もありますが、Kの講話を一心に聞いているとします。その時鳥がケーンと鳴く、自動車の警笛が鳴る。それは予期せずに鮮烈に聞こえてしまう。これが時間のない内面の意識で聞くというもの。とまあ私はこう思っているわけです。これはこのくらいにしておきませんか。私の意は一応話したと思います。


[25424] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/10(Sun) 18:22  

宮啓さんのいい方をすると、年功序列のもとに明るいとしより達。女尊男卑のもとに明るい女性達。他者の苦しみに鈍感な人たち。


[25423] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/10(Sun) 16:29  

政治家なども先進国に比べて若者が少ない。年寄り優遇が当たり前になってる。このまま古い考えをした老人共がのさばり続けると日本は潰れる。


[25422] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/10(Sun) 16:12  

政府は年金カットと消費税増税を断行すべき。20%の消費税は先進国では普通。400万が平均給与時代に250万の年金は異常。若者を解放せよ。


[25421] Re:[25414] 真の女性解放 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/10(Sun) 16:07  

> 真の女性解放というのが言われ出したのは、つい最近のことである。それまでは女性は○○の道具に過ぎなかった。家電の発達で、最近こそ女性の労働は楽になったが、それまでは女性の労働は過酷そのものだった。全ては手作業。明治の女性は、米俵1表かついだという。生活のために。子供ためならえんやこらっと。苦労苦労の連続。
> その間、大地震、大戦と二度の苦難を味わう。ちょうど我々を産んだ時代である。
> 戦前までは悪名高き「男尊女卑」時代。それを日本では何千年も続く。女性は権力者の道具に利用され、子供を産む道具とみなされ、もちろん恋愛の自由などない。世界のほとんどがそうだろう。すべてはしきたり権威のために。
>
> ところで少子化のことだが、大部分の女性は産みたくても産めない状況が社会の背景にある。ようするに旦那の給料だけではやっていけない。しかも社会に根強く残る「男女差別」真の女性解放には程遠い。
>       だから金の問題じゃない。性格の問題だって言ってる。貧乏な国がそれだけでは少子化にならない。恋愛離れの若い世代の当事者である私がいうのだからまちがいない。


[25420] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/10(Sun) 15:56  

東アジアでは女性差別などより年功序列のほうがよっぽど深刻。若者は抑圧されてる。ピケティも言ってるが政府は若者に投資すべき。


[25419] Re:[25418] [25416] 無題 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/10(Sun) 15:31  

> > クリシュナムルティノートブック(邦題「神秘体験」)
> > この本についてあまり深入りしない方がよさそうです。
> > 老婆心ながら申し上げました。
> >
> > 「ザ・アザー」ではなく「アザーネス」
> > この件について何人かKに詳しいと見られる人にお聞きしたが満足した答えではなかった。満足というより的確な答え。

25418はミス投稿です。すいません。同じ文章を載せてしまいました。
Kの神秘体験については、他の分野で同じような体験をされた方々がいらっしゃます。神秘体験を少しでも理解するには、同じ体験を共有した記述を理解する必要があるでしょう。
(「神秘体験」を検索)
K関係では私の知る限り、渡辺、森本両氏。他の学者タイプの訳者は神秘体験の理解は難しいです。インドに行ったことのない人間は、インドを語ることはできないと同じように。

なお、飯尾氏に、このことを訪ねたことがありましった。日常の日々そのものが新鮮であり、神秘体験だと。
これは違うのではないかと思います。

見るもの、感じるもの、生きとし生けるものに対し、なつかしさをおぼえ、至福、喜び、慈愛の気持ちに包まれる。そこには自他の境はない。まさに一体の境地。私はあなた、あなたは私。すべては「一つ」アローン。


[25417] Re:[25415] [25401] [25388] 既知からの自由1−2 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/10(Sun) 15:14  

> > > [伝統的接近法・世間体という罠]
> > >
> > > それゆえ、この不安な、やましい、恐ろしい、競争的な生活を超えた何かが実際にあるかどうかを発見するには、全く完全に異なる接近をしなければならないと私には思われます。伝統的接近法は周辺から内部へであり、時間と訓練と放棄を通じて、徐々にあの内面の花、あの内面の美と愛に出会う事です ― 事実としては自分自身を狭い、とるに足らない、つまらないものにするためにあらゆることをすること、少しづつ脱皮し、時間をかけ、明日はやろう、次の生はやろうという事です ― そしてついに中心に達するとき、人はそこには何もないことを見出します。なぜなら心は無能力に、鈍く無感覚にされてしまっているからです。
> > >
> > >  この過程を観察して、人は自分自身に問います、全く違う接近法はないだろうか ― すなわち、中心から爆発することはできないだろうか?と。
> >
> >
> >  上記の接近法の説明について『クリシュナムルティ・ノート』p78に参考となる文面があるので、情報提供させてください。
> >
> >
> >  前略(この文面の直前には、「ザ・アーザー」についての記述がある・・)
> >
> >  コップは、その形や色やデザインだけがコップではなくて、コップの中の空虚も含めてコップです。コップは、形の中に入れられた空虚です。その空虚がなければ、コップもないし、形もないでしょう。我々は、意識を外面的な姿形によって、その高さと深さの限界や思考と感情の限界によって知ります。しかし、それらは全て意識の外面的な形です。我々は、外面的なものから内面的なものを見つけ出そうと試みます。それは可能なのでしょうか?理論や推論には意味がありません。それらは、あらゆる発見を実際に妨げます。我々は、外面的なものから内面的なものを見つけ出そうと試みます。未知のものを見つけ出そうと願って、既知のものから探りを入れます。内面的なものから外面的なものへ探りを入れることはできるでしょうか?外面的なものから探りを入れる道具を我々は知っています。しかし、未知のものから既知のものへ探りを入れる道具が果たして存在するでしょうか?存在するでしょうか?そしてどのように存在するのでしょうか?ありえません。もしもそれが存在するなら、それは認識できるということになります。そしてもし認識できるなら、それは既知の領域の中ということになります。
> >
> >  以下省略
> >
> >  − − − 以上引用 − − −
>
>
> この引用文を前に、私は立ちすくんでしまいました。わからないし、引っかかるので。
>
> 内部から外部を探る道具なんてないに決まっています。それで外部から探るのですが、内部(心)は不可視のブラックボックスです。ただそこへのインプットとアウトプット(思考、感情、欲望など)は分かります。確かに理論や推測に意味はありません。それらは発見を実際に妨げます。しかし入出力に観察(これはフィードバック入力になる)から発見(心の新しい出力)がひょいと起こることはあると思っています。これがすべて求める過程だと言われている気がしますが、観察が、求める気持ちなしの受動的なものであれば、発見がありうると思います。


 クリシュナムルティは、「自由とは意識からの自由」とも述べています。

 この「意識」とは、時間の過程の中の意識(外面的な意識)と、時間の外の意識(内面的な意識)の二つがあるとしてクリシュナムルティは取り扱っているようです。

 内面的な意識(時間の外の意識)に触れるためには、外面的な意識がすっかり止まねばならぬ(空っぽにならねばならぬ)・・、これがクリシュナムルティが述べていることの一つです。


> > >  世界は伝統的な接近法を受け入れ従います。私たち自身の中の無秩序の主要な原因は他人によって約束された実在を探し求めることです。私たちは快適な精神生活を保障してくれる誰かに機械的に従います。私たちの大部分は政治的圧政と独裁には反対しますが、心と生き方を歪める他人の権威、圧政を内面的には受け入れるという事は、もっとも驚くべき事です。ですからもしすべてのいわゆる精神的権威、すべての式典、儀式及び教義を完全に拒絶するなら、それは私たちが一人で立ち、既に社会と一致しないことを意味します。私たちは世間が尊敬する人間であるのをやめます。世間が尊敬する人間はあの無限の、計り知れない、実在に近づくことは到底できません。
> > >
> > >  あなたは今や絶対的に虚偽であるもの ― 伝統的接近法 ― を否定することによって出発しました。しかしもし反発としてそれを否定するならあなたはもう一つの型を創り出していて、その罠にはまるでしょう。この否定は非常にいい考えだと知的に自分自身に告げてもそれについて何もしないなら、それ以上少しも行くことはできません。けれども、その愚かさと未熟さを理解するのでそれを否定するならば、あなたが自由であって怖れていないので、それを途方もない英知で拒絶するならば、自分自身の中とあなたの周りに大きな動揺を引き起こすでしょうが、だがあなたは世間体の罠から抜け出すでしょう。その時あなたはもはや求めてはいないことを見出すでしょう。それが学ぶべき最初のことです。 ― 求めないことが。求める時は、実はウィンドーショッピングをしているに過ぎないのです。
> > >
> > > (続く)
> >
> >
> >  >けれども、その愚かさと未熟さを理解するのでそれを否定するならば、あなたが自由であって怖れていないので、それを途方もない英知で拒絶するならば、−−、伝統的な接近法、すなわち周辺(外面的なもの)から内部(内面的なもの)へ探りを入れる。既知のものから未知のものを探る、このような伝統的な接近法を見て、見ることによって、>その愚かさと未熟さを理解する−−、そして、その時の即座の行為として、>それを途方もない英知で拒絶する−−。
> >
> >  そのときには、ビカミングが止む、すなわち求めなくなる。
> >
> >  それほど強烈に見ることができるのか。。
> >
> >  私には、まだそこまでは見えていないようだ。。
>
> 「強烈に見る」というところが気になります。受動的にしかも強烈に見るというのは何か? 既知のものなしに(一例をあげれば判断なしに)見ている ― そういう事ですか。


 実際に断崖に立った時、実際にハブと遭遇した時。

 人は強烈に見るのではないでしょうか。

 ただ、漠然と見る・感じる・・、これによっては>それを途方もない英知で拒絶するならば、自分自身の中とあなたの周りに大きな動揺を引き起こすでしょう−−、このことが起きることはないのではないでしょうか。

 それが起こるには、断崖を見るように、毒蛇を見るように、見れるかどうか。。


[25416] 無題 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/10(Sun) 14:00  

クリシュナムルティノートブック(邦題「神秘体験」)
この本についてあまり深入りしない方がよさそうです。
老婆心ながら申し上げました。

「ザ・アザー」ではなく「アザーネス」
この件について何人かKに詳しいと見られる人にお聞きしたが満足した答えではなかった。満足というより的確な答え。


[25415] Re:[25401] [25388] 既知からの自由1−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/10(Sun) 13:51  

> > [伝統的接近法・世間体という罠]
> >
> > それゆえ、この不安な、やましい、恐ろしい、競争的な生活を超えた何かが実際にあるかどうかを発見するには、全く完全に異なる接近をしなければならないと私には思われます。伝統的接近法は周辺から内部へであり、時間と訓練と放棄を通じて、徐々にあの内面の花、あの内面の美と愛に出会う事です ― 事実としては自分自身を狭い、とるに足らない、つまらないものにするためにあらゆることをすること、少しづつ脱皮し、時間をかけ、明日はやろう、次の生はやろうという事です ― そしてついに中心に達するとき、人はそこには何もないことを見出します。なぜなら心は無能力に、鈍く無感覚にされてしまっているからです。
> >
> >  この過程を観察して、人は自分自身に問います、全く違う接近法はないだろうか ― すなわち、中心から爆発することはできないだろうか?と。
>
>
>  上記の接近法の説明について『クリシュナムルティ・ノート』p78に参考となる文面があるので、情報提供させてください。
>
>
>  前略(この文面の直前には、「ザ・アーザー」についての記述がある・・)
>
>  コップは、その形や色やデザインだけがコップではなくて、コップの中の空虚も含めてコップです。コップは、形の中に入れられた空虚です。その空虚がなければ、コップもないし、形もないでしょう。我々は、意識を外面的な姿形によって、その高さと深さの限界や思考と感情の限界によって知ります。しかし、それらは全て意識の外面的な形です。我々は、外面的なものから内面的なものを見つけ出そうと試みます。それは可能なのでしょうか?理論や推論には意味がありません。それらは、あらゆる発見を実際に妨げます。我々は、外面的なものから内面的なものを見つけ出そうと試みます。未知のものを見つけ出そうと願って、既知のものから探りを入れます。内面的なものから外面的なものへ探りを入れることはできるでしょうか?外面的なものから探りを入れる道具を我々は知っています。しかし、未知のものから既知のものへ探りを入れる道具が果たして存在するでしょうか?存在するでしょうか?そしてどのように存在するのでしょうか?ありえません。もしもそれが存在するなら、それは認識できるということになります。そしてもし認識できるなら、それは既知の領域の中ということになります。
>
>  以下省略
>
>  − − − 以上引用 − − −


この引用文を前に、私は立ちすくんでしまいました。わからないし、引っかかるので。

内部から外部を探る道具なんてないに決まっています。それで外部から探るのですが、内部(心)は不可視のブラックボックスです。ただそこへのインプットとアウトプット(思考、感情、欲望など)は分かります。確かに理論や推測に意味はありません。それらは発見を実際に妨げます。しかし入出力に観察(これはフィードバック入力になる)から発見(心の新しい出力)がひょいと起こることはあると思っています。これがすべて求める過程だと言われている気がしますが、観察が、求める気持ちなしの受動的なものであれば、発見がありうると思います。

>
> >  世界は伝統的な接近法を受け入れ従います。私たち自身の中の無秩序の主要な原因は他人によって約束された実在を探し求めることです。私たちは快適な精神生活を保障してくれる誰かに機械的に従います。私たちの大部分は政治的圧政と独裁には反対しますが、心と生き方を歪める他人の権威、圧政を内面的には受け入れるという事は、もっとも驚くべき事です。ですからもしすべてのいわゆる精神的権威、すべての式典、儀式及び教義を完全に拒絶するなら、それは私たちが一人で立ち、既に社会と一致しないことを意味します。私たちは世間が尊敬する人間であるのをやめます。世間が尊敬する人間はあの無限の、計り知れない、実在に近づくことは到底できません。
> >
> >  あなたは今や絶対的に虚偽であるもの ― 伝統的接近法 ― を否定することによって出発しました。しかしもし反発としてそれを否定するならあなたはもう一つの型を創り出していて、その罠にはまるでしょう。この否定は非常にいい考えだと知的に自分自身に告げてもそれについて何もしないなら、それ以上少しも行くことはできません。けれども、その愚かさと未熟さを理解するのでそれを否定するならば、あなたが自由であって怖れていないので、それを途方もない英知で拒絶するならば、自分自身の中とあなたの周りに大きな動揺を引き起こすでしょうが、だがあなたは世間体の罠から抜け出すでしょう。その時あなたはもはや求めてはいないことを見出すでしょう。それが学ぶべき最初のことです。 ― 求めないことが。求める時は、実はウィンドーショッピングをしているに過ぎないのです。
> >
> > (続く)
>
>
>  >けれども、その愚かさと未熟さを理解するのでそれを否定するならば、あなたが自由であって怖れていないので、それを途方もない英知で拒絶するならば、−−、伝統的な接近法、すなわち周辺(外面的なもの)から内部(内面的なもの)へ探りを入れる。既知のものから未知のものを探る、このような伝統的な接近法を見て、見ることによって、>その愚かさと未熟さを理解する−−、そして、その時の即座の行為として、>それを途方もない英知で拒絶する−−。
>
>  そのときには、ビカミングが止む、すなわち求めなくなる。
>
>  それほど強烈に見ることができるのか。。
>
>  私には、まだそこまでは見えていないようだ。。

「強烈に見る」というところが気になります。受動的にしかも強烈に見るというのは何か? 既知のものなしに(一例をあげれば判断なしに)見ている ― そういう事ですか。


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