雑感
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[25876] Re:[25864] 既知からの自由10−4 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/18(Tue) 15:01  

> 10[愛]−4


 これがまだコメントされていないのですが。。

 もしかして、忘れられていないのかと・・、老婆心ながら。。



[25875] Re:[25874] 見ることは困難? 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/18(Tue) 14:16  

> >さて、見ることは生において最も困難なことの一つです ― 聞くことも ― 見ることと聞くことは同じです。
>
> 実に単純な疑問なのだが、「見ることは困難」とはどういうことだろう?
> 見ること、聞くことは「即座」ではないのか?
> 少なくともわたしには即座である。そこにあるから。
> 目を開れば自ずと見える。
> それとも私はKのいう「見る」を勘違いしているのだろうか?
> 何で困難なのか?
>
> >心配事で目が見えなくなるなら、日没の美しさを見ることはできません。ほとんどの人は自然との接触を失っています。文明はますます大都会に向かっています。私たちはますます都会人になっており、込み合ったアパートに住み、朝晩に空を見る空間もほとんどなく、それゆえ多くの美との接触を失っているのです。あなたが気づいているかどうか知りませんが、日の出や日の入り、月の光や水に反射する光を見る人のいかに少ないことか。

見ることは何で困難なのか? とても難しい質問ですね。Kはどういう事を言っているのだろう?

とりあえずここで言っていることは、自然を見る、聴く、触れるという事が都会人にとって非常に困難であると言っています。まず第一に自然がない、風の音、雨の音さえこの頃遮音がよくて聞こえない。第二に用事をしていない時にはテレビやスマホを見るとかして、自然を見ない。

要するに大宇宙のとるに足らない(ここは異議のある人が多いかと思いますが)人間の創り出す雑用や騒音の中にのめり込んでいて、大自然と接触していないという事は言えそうです。

しかし見ることの難しさはそんなことだけではないように思います。次の12章は「観察者と観察されるもの」で当分見る話は続くようです。

別のむずかしさがあります。

> そして私のような誰かがやってきて、「それは本当に愛だろうか?」と尋ね、自分自身の内側を見るように求めます。そしてそれは心を乱すので見ないよう努めます ― あなたはむしろ魂とか政治や経済状況を論じたいのです ― しかし見る羽目に追い込まれるとき、いつも愛とだ思っていたものがまったく愛ではないことを実感します。それは相互の満足、相互の利用なのです。−− このような見ることが出てくるので見ることは厄介です。ここの見るは何でしょうね。
 朝、講堂の窓辺にとまった小鳥のさえずりを聴いて説法の代わりにした。これは何を意味するのでしょうね。



[25874] 見ることは困難? 投稿者:無明 投稿日:2018/09/18(Tue) 11:21  

>さて、見ることは生において最も困難なことの一つです ― 聞くことも ― 見ることと聞くことは同じです。

実に単純な疑問なのだが、「見ることは困難」とはどういうことだろう?
見ること、聞くことは「即座」ではないのか?
少なくともわたしには即座である。そこにあるから。
目を開れば自ずと見える。
それとも私はKのいう「見る」を勘違いしているのだろうか?
何で困難なのか?

>心配事で目が見えなくなるなら、日没の美しさを見ることはできません。ほとんどの人は自然との接触を失っています。文明はますます大都会に向かっています。私たちはますます都会人になっており、込み合ったアパートに住み、朝晩に空を見る空間もほとんどなく、それゆえ多くの美との接触を失っているのです。あなたが気づいているかどうか知りませんが、日の出や日の入り、月の光や水に反射する光を見る人のいかに少ないことか。



[25873] 既知からの自由11−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/17(Mon) 10:52  

11章−1 [見ることと聞くこと] [芸術]

私たちは愛の性質を調べてきました。そして問題に対してより一層入ること、より一層気づくことが必要な地点に来たと私は思います。多くの人々にとって愛は、慰め、安心、残りの人生に対していつも情緒的満足が保証されることを意味することがわかりました。そして私のような誰かがやってきて、「それは本当に愛だろうか?」と尋ね、自分自身の内側を見るように求めます。そしてそれは心を乱すので見ないよう努めます ― あなたはむしろ魂とか政治や経済状況を論じたいのです ― しかし見る羽目に追い込まれるとき、いつも愛とだ思っていたものがまったく愛ではないことを実感します。それは相互の満足、相互の利用なのです。

 私が「愛には明日はなく、昨日もありません」とか「中心がないとき愛がある」というとき、それは私にとっては現実ですが、あなたにとってはそうではありません。それを引用し、決まり文句にするかもしれませんが、それは正当性を持ちません。あなたはそれを自分自身で見るべきですが、そうするには見るための自由が、あらゆる非難、あらゆる判断、あらゆる同意や不同意からの自由がなければなりません。

 さて、見ることは生において最も困難なことの一つです ― 聞くことも ― 見ることと聞くことは同じです。心配事で目が見えなくなるなら、日没の美しさを見ることはできません。ほとんどの人は自然との接触を失っています。文明はますます大都会に向かっています。私たちはますます都会人になっており、込み合ったアパートに住み、朝晩に空を見る空間もほとんどなく、それゆえ多くの美との接触を失っているのです。あなたが気づいているかどうか知りませんが、日の出や日の入り、月の光や水に反射する光を見る人のいかに少ないことか。

 自然との接触を失ったので、私たちは自ずと知的能力を発達させる傾向にあります。非常にたくさんの本を読み、多くの美術館やコンサートに行き、テレビを見、そのほか多くの娯楽を持ちます。私たちは際限なく他人の考えを引用し、芸術について非常に多くを考え、語ります。私たちがそんなに芸術に依存するのは何故でしょうか? それはある種の逃避、刺激なのでしょうか? 自然と直接接触しているなら、飛んでいる鳥の動きを見つめ、空のあらゆる動きの美しさを見、日の影を見つめ、ほかの人の顔の美しさを見るなら、絵を見に美術館に行きたいと考えるでしょうか? おそらく自分の周りのあらゆるものをどのように見るか知らないので、よりよく見えるよう刺激するある種のドラッグに頼るのです。

 毎朝弟子に話をしていた。ある宗教の教師に話があります。ある朝教壇に立ってちょうど始めようとしたとき、一羽の小鳥が来て窓の敷居に止まりさえずり始め、元気一杯歌いました。それから鳴きやみ飛び去り、教師は「今朝の説教はおしまい」と言ったのです。

(続く)


[25872] 我々の思考はありのままのものから逃避するプロセスです。 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/15(Sat) 18:48  

 Timeless Stillnessサイトの「拒絶される恐怖」から引用します。

 参照:http://timelessstillness.web.fc2.com/index.html


  拒絶される恐怖

Q:私にはたくさんの友人がいます。しかし彼らに拒絶されることを絶え間なく恐れています。私はどうするべきでしょう。
クリシュナムルティ:何が問題なのでしょう。拒絶と恐怖が問題なのかそれとも依存についての質問でしょうか。我々はなぜ友人を持ちたいのでしょう。友人を持つべきでないとは思わず友人を持つ必要性があると感じるとき、他人への依存があるとき、それは何を表しているのでしょう。それは自分のなかにある不足感を表しているのではないでしょうか。孤独感は内面の貧しさを示していないでしょうか。孤独で内面的に貧しく不足感を感じることが、我々を友人や愛や行動や観念や所有や知識や技術へと振り向かせます。

それは内面が貧しいと我々は外にあるものに依存するということです。それでその外側のものが非常に重要なものになります。何かを自分自身から逃避する手段として利用していれば、それが非常に重要になるのは当然です。我々はものや観念や人にしがみつきます。心理的にそれらに依存しているからです。それがなくなると友人に拒絶される場合のように喪失感を感じるため、それを失うことを恐れます。ですから依存は内面の不確かさや貧しさを表しているのです。そして我々が他人を利用したり依存したりしているかぎりはそれを失う恐怖があります。

ではこの孤独感や内面の貧しさや空虚さは何らかの精神的な活動で満たすことができるでしょうか。私に提案させてもらえれば、どうかあなた自身の精神を見張りながら話を聴いて下さい。そうすれば自分で答えを見つけるでしょう。私は我々が進めている経験を記述しているだけです。でもあなた自身でそれを経験するためには、あなたはたんに言葉を追うだけでなく受動的な注意深さを持たなければなりません。

ですから内面が貧しいために、我々は仕事や知識や愛や各種の活動によってこの貧しさから逃げ出そうとします。我々はラジオを聴き、最新の本を読み、思いつきや美徳を実行し、信仰や何であれ自分から逃避する助けになるものを受入れます。我々の思考はありのままのものから逃避するプロセスです。でもその内面の空虚さは隠したり満たしたりできるものでしょうか。逃避しないときだけその真実を知ることができます。それは極端に骨の折れることです。人は自分が逃避していることに気づかなくてはいけません。そしてあらゆる逃避が似ているということや高級な逃避などないということを見なければいけません。

あらゆる逃避は飲酒から神までどれも似たようなものです。なぜなら人は自分自身であり内面の貧しさであるありのままのものから逃避しているからです。孤独感と内面の不足感の問題に向かい合ってそれを理解し解消できるのは本当に逃避するのをやめるときだけです。それは知識にも経験にも覆い隠せません。この孤独と内面の不足感はたんなる暇人や自分にしか関心がない人の問題ではなく、金持ちも貧乏人も知性あふれる人も鈍い人も含んだ世界中すべての人間の問題です。

そもそも内面の空虚さを覆い隠すことができるでしょうか。あなたが何かに逃避してそれを覆い隠すことに失敗すれば、すべての逃避がむなしいことだと知るはずです。そうではないでしょうか。心理的な不足感は決して満たしたり覆い隠したり豊かにすることができないということを知るために別の逃避を試す必要はありません。一つの逃避を完全に理解すれば逃避のすべてのプロセスが理解されるでしょう。

そのとき何が起きるでしょう。人は空虚さとともに、孤独感とともに残されます。そこで疑問が湧いてきます。この孤独感は寂しさを感じている実体と別のものだろうかと。それは違うように見えます。それは空虚さを感じている実体ではありません。しかしその彼自身が空虚です。そしてその空虚さを感じている実体と彼が空虚さと呼ぶその状態との分離はその状態に名前やラベルを与えることによってのみ生じるのです。あなたがその状態を名づけないとき、そこに観察者と観察されるものの分離がないことを見るでしょう。観察者は観察されたその不足感です。別の言い方をすればそれを名づけないとき経験者と経験されるものの統合が起こるのです。そのとき孤独で不充分なものとしてあなたが避けてきた状態が本当にそういうものなのか、それとも恐怖を目覚めさせる「孤独」という言葉へのたんなる反作用[反動]なのかをより深く見極めることができるでしょう。

恐怖を目覚めさせるのは言葉でしょうかそれとも事実でしょうか。いったい恐ろしい事実というものがあるでしょうか。それとも事実についての観念が恐怖を作るのでしょうか。このプロセス全体を辿れば、あなたはありのままのものから逃避しようとする欲望がないときにはそこに恐怖がないことがわかるでしょう。そしてそのときありのままのものが変容します。なぜならそのときその精神はもはやありのままでいることを恐れないからです。その状態のなかには孤独や不足しているという感覚はありません。それはありのままのものです。あなたが深く進んでいけば精神がもはやその状態を拒絶も受入れもしないのを見るでしょう。それゆえ精神は沈黙します。そのときだけ孤独や不足感として認定されたものから自由になる可能性があります。

しかしここへ来てあなたはこの内面的な不足感と逃避と依存のプロセスを全体として理解する必要があります。あなたは逃避と逃避の手段がどれほど重要になっているか、それがあなたが逃避しているものよりもはるかに重要になっていることを見なくてはいけません。思考者と彼が孤独と呼ぶ状態との分割を発見し、自分でそれがたんなる言葉上のものか現実にあるものか見極めなくてはなりません。それが言葉の上のものならその分割は続いていきます。しかしあなたがそれに名前をつけなければ、もはや孤独と呼ばれることのないひとつの状態があるだけです。そこに精神がそれを超えたものを発見する可能性があります。

 − − − 以上引用 − − −

 >我々の思考はありのままのものから逃避するプロセスです。−−、そうではないでしょうか。。


 たとえば、[25867]を例にとると、>個人がわが子を思っていざというときに出すエネルギーは、なかなかのものがあるのではないでしょうか? そして見知らぬ人に対しても結構親切にふるまうのではないかと思います。−−

 我が子が水に溺れているとき、思考なしに、水に飛び込み助けようとします。我が身を顧みることなしに。そのエネルギーは強大です。思考なしであれば、見知らぬ人に対しても同様です。

 これは明らかなことです。。

 クリシュナムルティが、>愛する誰かを失うときあなたは涙を流します−−、と愛について説明するとき、それは思考なしの愛について述べているのでしょうか。。

 明らかに思考の愛について述べているのではないでしょうか。。

 しかし、亡き母の愛を、クリシュナムルティの目の前に晒すことがままならない自己を回避するために、思考が働いているのではなかろうか?・・と問われているのです。

 その回避が、その後に続く文面、すなわち、

 >だが国家規模の大人数になると共同主観(共同幻想?)すなわち、愛国心や信念や信仰などというものがあって、これが厄介です。キリスト教は免罪符を売りました。人はそれを買って自分は救済されてと思います。マルチティン・ルターがこれを非難し、金もうけのもとを叩かれた誰かさんは法王に訴え・・・と大騒動が起きます。
 日中戦争や太平洋戦争も、今思うと何で戦争しなければならなかったのか不思議な気がします。

 Kの愛の話は私はよくわかるのですが、そしてその通りと思うのですが、何か文章としてみると特別なこの世のものとも思えない気がしないでもない。ごく普通の自然なことである気もしますが、そのようにふるまわなければと思うだけで足がすくみます。これは自分の考え方に問題があるわけですが…

思考の悪さというか問題は社会問題となるときの世論のような錯覚というか化け物じみた思潮にあるのではないかと思います。そして個人が思想的に育てられて自然なあるいは動物的な独立不羈の精神を失っているとか。考えてみれば基礎教育というものはありますが、国家社会に共同幻想を吹き込むところが行われるのも当然でしょう。それを打ち破るのも思考なのだろうか、これはおかしいと言える精神というか心情というかエモーションあるいは衝動のようなものがあるのだろうか?

しかしこの共同主観あるいは幻想が多人数の集団行動を起こし、ホモサピエンスの強さとして今の文明文化をつくったことを思うと、いったい何が主人なのだろう?−−

 上記に、現れていないだろうか・・、と感じるのですが。。


[25871] Re:[25868] 歴史の教育 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/15(Sat) 17:34  

>  Timeless Stillnessサイトの「歴史の教育」から引用します。
>
>  参考:http://timelessstillness.web.fc2.com/
>
>
> 歴史の教育
>
> Q:子供の教育にとって歴史はどういう意味をもっていますか。
>
> クリシュナムルティ:人間が自然と戦ってそれを征服したあげくにそれを破壊し汚染してきた歴史を、人が人と戦い、戦争がつねにあったという歴史を公正に曇りなく読めば、そこで人間が自由になるためにもがき、制度や組織の奴隷になったままの意識でそれから逃げ出すことを企て、結局はまた別の制度と組織を作るだけなのを見るでしょう。そこにあるのは永続する自由への苦闘です。

(中略)

>  − − − 以上引用 − − −

大変参考になる引用、有難うございました。


>  思考での対応は全てが試されたのではないでしょうか・・。
>
>  それでも、尚、思考を用いて解決を図ろうとするのはなぜでしょうか?
>
>  新しい哲学に望みを注ぐのはなぜでしょうか。。


政治、経済、倫理というものは結局思考を通じでなければ動かない気がします。言葉化して人々の意識の座に上るようにすることが必要です。たとえばクリシュナムルティの言葉・トークもそうです。他にも理解、洞察、愛から出た行動や言論が集合的に人間の共同主観に作用していきます。
 個人の主観のみでなく、生きて動いている共同主観に関心が生まれています。


[25870] Re:[25869] どのように気づいているか 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/15(Sat) 16:53  

> 新しい芽氏の
> どのように気づいているか、どんなふうに気づいているか、
> というのは「慈愛の目」で気づいているか、あるいは「愛の気持ち」で気づいているか。
> ただ気づいている、ということではなく。


私にはよくわからないが、気づくにも意識のどの階層から出てくるという差があるように思います。

例えば知識と理解とは全く異なった意識(精神)の階層にあるようだし、気づきという言葉は一つでも、自己意識の層から出てくる気付きと理解の層から出てくものと愛の階層から出るのもあるかもしれない。愛と理解の階層が別に分かれてあるのか同じところにあるのかも私にはわからない。

階層という言い方をするが実際は感覚の問題に過ぎないのだが。


[25869] どのように気づいているか 投稿者:無明 投稿日:2018/09/15(Sat) 10:54  

新しい芽氏の
どのように気づいているか、どんなふうに気づいているか、
というのは「慈愛の目」で気づいているか、あるいは「愛の気持ち」で気づいているか。
ただ気づいている、ということではなく。


[25868] 歴史の教育 投稿者:宮啓 投稿日:2018/09/14(Fri) 21:03  

 Timeless Stillnessサイトの「歴史の教育」から引用します。

 参考:http://timelessstillness.web.fc2.com/


歴史の教育

Q:子供の教育にとって歴史はどういう意味をもっていますか。

クリシュナムルティ:人間が自然と戦ってそれを征服したあげくにそれを破壊し汚染してきた歴史を、人が人と戦い、戦争がつねにあったという歴史を公正に曇りなく読めば、そこで人間が自由になるためにもがき、制度や組織の奴隷になったままの意識でそれから逃げ出すことを企て、結局はまた別の制度と組織を作るだけなのを見るでしょう。そこにあるのは永続する自由への苦闘です。

人類の歴史は部族の戦争の歴史であり、領地の、植民地の戦争の歴史であり、王たちと民族の戦争の歴史です。それらはすべていまだに続いています。部族意識は国民になって洗練されましたが、あるのはいまだに部族意識です。人の歴史は文化を含んでいます。それはすべての苦痛を通り抜けてきた人類の物語であり、様々な災害を、戦争を、宗教の信仰や、迫害を、尋問を、神の名における拷問を、平和の名において、理想の名においてなされたそれらすべてを通り抜けてきた人類の物語です。

それをどのように子供に教えるべきでしょうか。それが人間の、人類の物語なら、教育者と子供はともにその人間であり、それは彼らの物語であって、たんなる王たちと戦争の物語ではないということです。それは彼ら自身の物語なのです。

どうすれば教育者は生徒が彼自身の物語を理解するのを手助けすることができるでしょう。それは彼がその結果である過去の物語です。それが問題です。あなたが教育者で私が生徒なら、どうやって私が自分自身の本質と構造全体を理解するのを助けてくれますか。人類全体である私自身の、何百万年の結果である私の脳の本質と構造を。暴力、競争、攻撃性、野蛮、残酷さ、恐怖、快楽、そして一時の喜びとかすかな愛の香り、そのすべてが私のなかにあります。

あなたはこのすべてをどうやって理解させてくれるでしょう。それは教育者も彼自身を理解しなければならないことを、そうすれば生徒が自分を理解する助けになることを意味します。ですからそれは教師と生徒の間のコミュニケーションであり、そのコミュニケーションの過程で、彼は彼自身を理解しそれが私が私自身を理解するのを助けるのです。

それは教師や教育者がまず最初に自分自身を理解してから教えるべきだということではありません。それにはたぶん彼の残りの人生すべての時間がかかるでしょう。しかしその教育者と生徒の間には互いに研究し合う関係が生まれます。それが子供や生徒にできるでしょうか。あなたはどんな手法でそれを仕掛けられるでしょうか。それが問題です。

あなたは親としてどうこれに入って行けばよいのでしょう。どうやってあなたの子供が彼の精神の本質と構造の全体を、欲望や恐怖を、人生の運動の全体を理解するのを助ければよいのでしょう。それは大きな問題です。

我々は親や教師として新しい世代の人々をもたらす準備をしているでしょうか。まったく別の世代の人々はまったく異なった精神と心を持っているということを意味するからです。我々はそれを準備しているでしょうか。あなたが親なら、子供のために酒やタバコやマリファナやすべてのドラッグカルチャーを諦めるでしょうか。そしてあなたと子供がともに良い人間であるのを見るでしょうか。

その「良い」という言葉が意味するのは精神的に快調であると言う意味、何の摩擦もないという意味です。良いドアのように。分かりますか。良いモーターのように。また「良い」は全体を、ばらばらでないこと、断片化していないことも意味しています。そのように我々は教育を通して良い人間を、恐れない人間を、周りの人や未来や多くのもの、病気や貧困を恐れない人間をもたらす準備をしているでしょうか。

また、我々は子供や自分たち自身を統合するための準備をしているでしょうか。その「統合」という言葉が意味するのも全体であることです。それはあなたが意図していることだけを言うことであり、言ったことと別のことをしないことです。統合は正直であることを意味します。我々が幻想やロマンティックで観念的な理想や強い信念を持っていたら正直でいられるでしょうか。我々は信念に正直であるかもしれませんがそれは統合を意味しません。

我々は子供をこうやって世界に導きます。2、3歳までは甘やかし、それから彼らを戦争のために準備させます。歴史は人間というものを教えません。どれほど多くの母親が戦争で息子を殺されて泣かなくてはならなかったかを。我々はいまだにこの恐ろしい互いの殺害を終わらせることができません。

子供に教えるためには我々自身が良いものを要求する感情を持たねばなりません。「良い」は理想ではなく、全体であること、統合すること、恐れないこと、混乱していないことです。それらは理想ではなく行動です。我々は現実的[実際的]でいることができるでしょうか。そして教育を通して「良い」人間をもたらすことができるでしょうか。我々は本当に[今とは]別の文化、[今とは]別の人間を望んでいるでしょうか。混乱していない精神をもち、恐怖を持たず、優れて統合された人間を。

 − − − 以上引用 − − −


 思考での対応は全てが試されたのではないでしょうか・・。

 それでも、尚、思考を用いて解決を図ろうとするのはなぜでしょうか?

 新しい哲学に望みを注ぐのはなぜでしょうか。。


[25867] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/09/14(Fri) 19:37  

> 私たちが我が子らへと注ぐ愛着は、思考の範囲内、意識の範囲内のエネルギーであり、世界を完全な失敗へ向けて推進させるエネルギーであるようです。

> すなわち、アメリカ国民の最大多数派のトランプ支持者達は、我が子らを慈しむ慈悲深い親でもあるようです。
> そのような米国の親たちも、我が子らに対してはゴトさんの亡き母がゴトさんに尽くしたような親たちなのかもしれません。そうでしょうか。。

問題はいろいろあるでしょうが、ちょっと思ったことを書きます。

個人がわが子を思っていざというときに出すエネルギーは、なかなかのものがあるのではないでしょうか? そして見知らぬ人に対しても結構親切にふるまうのではないかと思います。

だが国家規模の大人数になると共同主観(共同幻想?)すなわち、愛国心や信念や信仰などというものがあって、これが厄介です。キリスト教は免罪符を売りました。人はそれを買って自分は救済されてと思います。マルチティン・ルターがこれを非難し、金もうけのもとを叩かれた誰かさんは法王に訴え・・・と大騒動が起きます。
 日中戦争や太平洋戦争も、今思うと何で戦争しなければならなかったのか不思議な気がします。

 Kの愛の話は私はよくわかるのですが、そしてその通りと思うのですが、何か文章としてみると特別なこの世のものとも思えない気がしないでもない。ごく普通の自然なことである気もしますが、そのようにふるまわなければと思うだけで足がすくみます。これは自分の考え方に問題があるわけですが…

思考の悪さというか問題は社会問題となるときの世論のような錯覚というか化け物じみた思潮にあるのではないかと思います。そして個人が思想的に育てられて自然なあるいは動物的な独立不羈の精神を失っているとか。考えてみれば基礎教育というものはありますが、国家社会に共同幻想を吹き込むところが行われるのも当然でしょう。それを打ち破るのも思考なのだろうか、これはおかしいと言える精神というか心情というかエモーションあるいは衝動のようなものがあるのだろうか?

しかしこの共同主観あるいは幻想が多人数の集団行動を起こし、ホモサピエンスの強さとして今の文明文化をつくったことを思うと、いったい何が主人なのだろう?


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