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[24196] Re:[24193] [24192] [24190] [24187] [24180] [24167] 私とはなにか? 投稿者:南方 投稿日:2017/08/18(Fri) 19:54  

> そして、花のようにはいかず、醜くもある人間とは。その根源である意識そして記憶、思考とは何か。そこをKは説いた。
>
> 人間だからこそ美しくありたいものである。花のように。
>
>
>



意識というベースがあり、それは記憶を蓄積している。その記憶から思考が発生し、判断を下す。
そのように現実をみているのが人間です。

例えば、ムスっとしている人を見かけると、たちまち記憶がよみがえりムスっとしている人に受けた嫌な思い出、記憶がよみがえる。

自分がいやな思いをしている記憶から派生してくる思考がある。それは当然あの人は嫌な人にちがいないというレッテル貼り。

すると、実際はムスっとしているだけなのに、嫌な人になってしまう。思考はそのようにして現実を歪曲していく。

あるがままにみるなら、その人は何か嫌なことでもあったのだろうかと心配したり、生まれつきそんな顔なのかもしれない、という選択が生まれる。そのどれをとっても結局はレッテル貼りであるとには変わりないが、選択が増えたということは自由を意味する。

あるがままにみるなら、その人は意識であり、神でありまた自分と同じであるという認識である。たまたま人生経験が違い色が違うだけであり、川は川であり花は花なのである。

そのように人を見ると、少しは醜いというレッテル貼りも剥がれ落ちる。

その人の醜さを改善しよとするよりは、こういう作業が必要とされるのかもしれない。

Kは私の記憶を掃除しよう、そしてそこから派生する思考からの判断をよく見る手助けをしてくれるようである。実際憑き物がどんどん落ちていく感覚がある。


[24195] Re:[24160] [24124] [24120] 「見る」ということ。 投稿者:ゴト 投稿日:2017/08/18(Fri) 16:59  

> 続き
> > > > >  私は未だ、ゴトさんが述べるような「全的に見る」ことが、すぐにはできないようです。
> > >
> > >  これは宮啓氏のコメントですが、こういったコメントが出てくること自体がわからない。
> > >  「全的に見る」ということについて何をイメージしてるのか。
> > >  すぐにできない?
> >
> > Kが言おうが、誰が言おうができないことが世の中には多いのではないでしょうか? 汝の敵を愛せよ! できれば戦争など起きません。
>
>  え〜と質問の趣旨ですが、あなたはしばしばKのいう「見ること」を実現していることをこの掲示板で公言していらっしゃる。Kの「気づき」を得ていると。

Kの言う「見ること」を実現していると公言している、Kの言う「気づき」を得ていろと。

そういうふうなことを言ったことは確かですが、私は「見ること」と「気づき」は、水と氷のように同じ事かもしれませんが、別の時に別の形で起こったことです。

それがKの言った見る、あるいは気づきであるかどうかは私はわかりませんが、その出来事が何をもたらしてくれたかの全体を振り返るとき、私は私なりの道を確信をもって歩んでいます。それがKの言った道のまだ入り口かもしれないが、ほかの生き方をする気はありません。

ここで最初に発見した見ることは怒りが増幅し始める時、見ることに転換することです。その時、今こそ思考を見るチャンスだという思考?がさっと走りました。

気づきの最初は禁煙の初期のころです。たばこを吸うのは自由ではない。吸わされているのだというのが私の理解でした。これを思っただけではタバコはやめられません。その後、タバコを吸うときはほとんど無意識にタバコに手が伸びるのですが、理解があった後は手が伸びると不思議に気づくのです。そして吸うべきか、そうすると自由が失われるという事が頭にくっきりと浮かびます。なおタバコは机の上に封を切っていつでも喫えるように置いてあります。一瞬頭でどうするかが浮かびますが結果はいつもやめました。それが一日に数度、1週間近く続いて、いつの間にか手が伸びることがなくなっていきました。

私が私として責任を持って、見ると気付きについて言えることは以上です。

なお、全身全霊で事に当たるときの無意識と、無意識に煙草に手が伸びるの無意識は明らかに別物ですね。しかし、このことをどう一般的に言い表したらいいのかは、私にはわかりません。

>  ところが宮啓氏は、あなたのいう「全的気づき」(全的に見る)は、すぐにできないと嘆いている。その差はどこにあるのかという疑問だと思います。

昔、Kコミという同人誌があり、主催のF氏がKの翻訳の短い部分をプリントして皆に教えてくれたのですが、見ると言ってもそれはうまくいくときもあるし、そうはいかない時もあるし、一気にできなければではなく、ゲームをするように、雨の日も晴れた日もあるけれど楽しんでやってくださいと。かなりうろ覚えなのですが、いっぺんにうまくすべに対応していこうというのは達成心が働いているでしょう? それでポチポチ行こうは、駆り立てられていないという事で、落ち着いた心境と拝察しています。


> 「全的に見る」イコールawarenessを実現している、と受け取りました。

これは私のことですか? 『全的に見る』=awareness が実際にはどういう状態を指しているのか私にはわかりません。私の知っていることは見るは、Kはseeとかlookと言ってますし、awareは気づくで統一しています。

「全的に見る」イコールawarenessと言い切ることは私はしていません。Kがそういった記憶は浮かばないし、私自身はそう言い切れません。

私の見ると気づきの実際はどういう事かは言いました。感情が増幅していくことはないし、感情を正当化してなだめようとする思考は浮かびませんし、仮にあるなら見て消えていくまでです。コンプレックスの数々が終わったようです。

> > > > >  ボチボチ、生のさ中でやってゆくことを心がけています。
> > >
> > >  「全的に見る」ということをボチボチやる?
> > >  「見る」というのは即座でやって「時間」ではない。

完璧にできないなどと言わずに日ごろポチポチと起こるのに任せる。焦らない。

> > > > 「見る」という心のものが忘れられて生きているなら、実は見て、気づいて生きているかもしれず、それが学びの姿でしょう。
> > >
> > >  ?
> > >  「見る」「気づいている」「知覚している」というのは人の基本的な機能。
> > > 出来る出来ないの話ではない。毎日こうして生きているわけだから。
> >
> > 「全的に」ができていないという事でしょう。

怒りがあるとき増幅するのが普通でしょうが、その時基本的機能である見ることはシャットアウトされ、怒りに乗っ取られてしまう。どんな場合も見ることは困難な場合がある。

> 「全的な気づき」ってどういうことなのか改めて疑問が浮かびました。できないというより、どのような心的状態なのか、よくわからないのでは。
>  あれほどKの本を読んでいるのに関わらず。

本ではわからないでしょう。感情や思考に乗っ取られて、実は見ることがどこかにいっていることには気づいてい人が多いでしょう。

> > >  毎日の日常生活で私たちの思考と感情と感覚が経験が習慣的な「とりこ」になっているかいなかの問題。
> > >  日常的な習慣に陥っているとすれば当然毎日毎日新鮮には生きられない。
> > >  あらゆる種類のものに漠然と関心が失われていて、感覚も知性も身体までも麻痺している状態に陥っている。理解力は透明さを欠き、あらゆる出来事が重苦し連鎖に感じてしまう。そして自身さえもこの中で見失われる。
> > >  こうしたマンネリ状態を打破するには「意識的に見る」ことが肝要。
> > >  今の私の思考と感情の感性に身を置いているということを、しっかりと自覚して、心の習慣を克服し、自身の心に新たな経験の可能性に対する関心を与えることであり、その関心こそが最大の基礎と思われます。

心の習慣を克服しようとするとき、苦闘が始まる。これが人間の陥っている古来からの習慣で、それは禁煙しよう、禁酒しようという苦闘と同じことではないでしょうか。

> > そのように最大の関心を置くと目的になり、成りゆく過程に落ち込み、ミイラ取りがミイラになります。そこが見えているのでまあポチポチと行こうかと。なかなかの心境かと存じます。
>
>  言っていることが妙です。
>  ここで言っていることはイエスの教えと宇宙哲学を総合したもので、関心を持つということに対してクリシュナムルティも述べている。
>  自身の内面に何が起きてるか関心を持ちなさいと。鳥の声を聞くように自身の内面に耳を傾ける。

関心を持ちなさいと言っても関心はあなたの思ったように動きますか?異性や快楽、あるいは悟りの達成に向きませんか?

>  まず人間というのは関心を持たないと見ることはしません。興味、好奇心。人間はそのように出きている。科学の発達は「宇宙や自然のしくみはどうなっているのか」という好奇心から、はじまった。
>  あなたも釣りに関心あるから、釣りをしにいくし、Kに関心あるから本を読むわけです。関心がなければ読みませんね。
>  クリシュナムルティはそのように、自身の内面、思考の動きをついてどのように気づいていくのか関心をもてといいます。つまりは思考過程を見る。
>  イエスの有名な言葉「自身の想念に対して寝ずの番人」をせよ、というのと同じ。それだけ厳しくあたるということ。Kは思考という危険分子を監視せよとまでいっている。
>  しかし、たいていの人は無関心。自身に目を向けることはない。

その通りです。理性的思考が向けと言っても本心では向いていません。ほかのことに向いているのです。

> > >  イエスの自身の想念に対して「寝ずの番人をせよ」と言った意味がわかる気がします。たやすいことではないですが。
> > >  さらにイエスは、人間は、起きていて見ていない状態ともいいます。まさにはっきり見ていない。目覚めていない。そこではっきり「見る」ことを強調する。意識的に。
> > >  たしかに私たちの日常は見ているようで見ていない。漠然とした関心しか払っていない。
> >
> > 「全的に見る」―普通の人はほとんどができていない、それでは人のことより自分のことという事ですね。
>
>  はいそうです。これこそぼちぼちと。もうこの歳(とし)になると、さほど大きな問題はない。あとは世間的勤めをはたすだけです。誰にも迷惑かけぬよう。
>  断斜離の日々。

断捨離を知らないのでウィキペディアを引いた。
心の背負った過去の重荷も捨てれますように。それを苦闘にしないで。即時の理解があれば重荷は消えます。


[24194] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/18(Fri) 13:40  


知ってるの反対は知らないではない。

知らないと知ってるの両者を超えた知ってるがある。
それは知らないようにも見える。

知とは、何かを知ろうとする意志であり、それは憎しみによって成り立っているんだな。

知を超えた英知とは、うちがわに一切邪悪な破壊衝動がない状態。

それは、一切の破壊衝動や、死を免れている。

ラーマクリシュナなどの聖者がときに、子供のようで無知にみえるのは、この宇宙意識にあるからだ。


[24193] Re:[24192] [24190] [24187] [24180] [24167] 私とはなにか? 投稿者:南方 投稿日:2017/08/18(Fri) 13:03  

> 肉体も「死」を向かえれば焼かれて灰になり、土に成る。元の原子に還る。
> 又、生命が新たに生じれば、又「命」が宿ることに成る。
> あらゆる生物はその繰り返し。
> その意味で始まりもなく,終わりもない。これが生命の実相。
>



私たちは花のようなものなのですね。始まりも終わりもない種から生まれやがて枯れ行く。そして、春が来れば、相変わらず桜は咲き、夏が来れば向日葵が咲き、秋が来れば秋桜が咲くように。
その刹那的なものだからこそ美しく儚い、人間、生命。
そして、花のようにはいかず、醜くもある人間とは。その根源である意識そして記憶、思考とは何か。そこをKは説いた。

人間だからこそ美しくありたいものである。花のように。





[24192] Re:[24190] [24187] [24180] [24167] 私とはなにか? 投稿者:外野 投稿日:2017/08/18(Fri) 09:34  

> 自身の宇宙がなくなるとき、私たちは客観的宇宙になるのでないだろうか。

私たちの肉体が朽ちれば、元の原子に還るだけです。その根本的なエネルギーは不変。宇宙があるかぎり。


このことを簡単にコップと水の例で述べてみましょう。
コップを私たちの肉体とみなします。
コップに入っている水は、一応「魂」と呼びます。別名意識エネルギー。あるいは「せいめいのはたらき」。
水の色、つまり赤青黄などの色は私たちの個性。
コップがこわれると、水は変化します。液体から気体に。又外気の温度によっては固体にもなる。水はこのように様々に変化する。その場に様々な様相を見せる。
その繰り返し。
肉体も「死」を向かえれば焼かれて灰になり、土に成る。元の原子に還る。
又、生命が新たに生じれば、又「命」が宿ることに成る。
あらゆる生物はその繰り返し。
その意味で始まりもなく,終わりもない。これが生命の実相。

> >  さて「神」とは何だろう?「仏」とは?

> 神とはそれぞれの人が神でなないでしょうか。
> 神社では神様のところには鏡が置かれていると以前読んだことがあります。

おっしゃるとおりです。いきなり本題になりました。
仏教では人間に「仏性」がある。
キリスト教は内なる神性な自我(真我)

 注 
 これは正統派エマーソンの主張であり、大多数のキリスト教は「神」という概念を人間の外に置き、宗教界の権威として利用した。このことに反することをいうと迫害されることは歴史が証明。それは今現在も続いている。カトリック、プロセスタント。人間と神をはっきりわけている。人間の上座に「神」。


ラーマクリシュナは、人間は神の化身。
アダムスキーは神とは人間の意識。
あの喜劇王のチャプリンは映画の中で「人間の心の中に神がある」といっています。考えてみると皆同じことを言ってる様な気がします。


[24191] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/17(Thu) 21:46  

太陽の光は理智の力に似ています。ヴェーダは理智に卓越性を与えています。ヴェーダはこうに述べています。

ブッディ グラーフヤム アティーンドリヤム
知性は感覚を超えている


だからこそガンディーは、「おお神よ、万人に良き知性を授けたまえ」(サブ コー サンマティ デー バガヴァン)と祈ったのです。ですから、理智は正しい道に方向づけられなくてはなりません。皆さんは、無知を捨て去り、報恩の念を育てなくてはなりません。暗闇は無知の象徴です。理智という太陽は、無知という暗闇を追い払い、怠惰という氷を溶かします。「闇を払う者」(トーモーガナヤ)、「氷を溶かす者」(ヒマガナ)と呼ばれる太陽は、「忘恩や忘恩の徒を破壊する者」(クルタガナヤ)とも呼ばれます。恩知らずな人は、太陽に見限られた盲人のようなものです。皆さんの報恩の念は、社会への無私の奉仕や、模範に値する高徳な振る舞いとして、水路を開かれなければなりません。


https://www.youtube.com/watch?v=Uh1FAwznGlQ


[24190] Re:[24187] [24180] [24167] 私とはなにか? 投稿者:南方 投稿日:2017/08/17(Thu) 15:24  

>  すべてのものは変化する。私たちは一刹那をとらえて「ある」といっているだけです。
>  その変化を支えているのが、宇宙の根源的なエネルギー。はじまりも、終わりになく永遠。
>  自己が「ある」か「ない」ではなく、それぞれ宇宙の場において顕れている。宇宙という言葉がおおげさなら生活空間。
>



なるほど。ピンときました。ありがとうございます。





>  著者の本は、理解するのが非常にむずかしいので、これは私のあくまで個人的な参考意見として受け取ってください。
>  ことの詳細については本を読んでもらうしかないですね。難解ですが。
>  ここでいう「神」と「意識」の違いについて、読解力のない私にはうまく説明できません。
>
>




はい



>  前述したようにプロセスには、はじめも終わりもありません。インドのガンジス河を思い浮かべるとイメージできます。川の流れには、はじめも終わりもない。プロセスのみ。
>  小説「シッダルタ」で、長年真理を探究してきたシッダルタは、渡し守(実は聖者)のアドバイスを受けて、川のほとりで瞑想中悟ったという話は有名。小説家ヘルマンヘッセの金字塔と言われる。
> (渡し守の言葉「私はただ傾聴する。邪心を持たぬ。それだけだ」)
>  盟友ゴービンだは仏院で長年修業しても悟れないでいる。
> シッダルタ曰く時間は実在しない。「いつか」というのは迷いにすぎぬ。
>  「水は絶えず流れ、しかも常にそこに存在し、常に在り、終始同一であり、しかも瞬間瞬間に新たであった!」
>  「川はいたるところにおいて、源泉において、河口において、滝において、渡し場において、早瀬において、山において、いたるところに同時に存在する。川にとっては現在だけが存在する。過去という影も、未来という影も存在しない」
>


わかりやすいです。



> > > > > > つまり、私を知ることは宇宙を知ることであり、宇宙を知る
> > > > > >
> > > > > > ことは私をしることである。
> > >
> > >  私を知ることは、宇宙を知ることと同じ。何故なら宇宙を観察しているのは私だから。私がなければ宇宙もない。
> >
> > 中心としての宇宙は消滅しても、一部としての宇宙は残るのでは?
>
>  もちろん客観的に見ますと、私個人が死んでも、もちろん宇宙はあります。主観的に見たらどうでしょう。自分が死んだら真っ暗。宇宙がないのと同じです。認識できないのですから。
>  意識、心からの立ち場からすれば、自身の肉体が朽ちると、宇宙がないのと同じということになります。外界(宇宙、自然)を認識するのは誰あろう自身の意識だからです。
>





自身の宇宙がなくなるとき、私たちは客観的宇宙になるのでないだろうか。




> > >  宗教の役割は人を救うこと。
>
> > 救うということは救われてないという、前提を刷り込むこと。
>
>  仏教でいう苦から解放。キリスト教は悩めることから救う。その前提は神を信じること。仏に仕えること。信仰の世界。
>  無宗教の人でも正月は神社におまいりをする。神社では神様ということがでてくる。神という言葉はキリスト教でないようで。
>  さて「神」とは何だろう?「仏」とは?
>
>
>


神とはそれぞれの人が神でなないでしょうか。
神社では神様のところには鏡が置かれていると以前読んだことがあります。


[24189] Re:[24185] [24183] [24182] [24179] [24178] [24176] [24174] [24173] [24172] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/17(Thu) 13:56  

> > > > > > >  マスコミは事実を報道するのみ。
> > >
> > > 見たくない事実や、隠された事実や、何十年もたって探り出された事実もある。報道の自由のない国もある。
> > >
> > > > > > たくさんの報酬をもらって好きなことを喋り捲ってるマスコミの人たちに世界を変えるきなどない。
> > >
> > > 「たくさんの報酬をもらって好きなことを喋り捲ってるマスコミの人たち」これはレッテルを貼るというもの。背後にあるリアリティを見ていないのでは。
> > > > >
> > > > >  いったい誰に吹き込まれたの?
> > > > >
> > > >
> > > > ちょっとかんがえればわかること
> >
> > 最も恥ずべきなのは、人が聞きたくもないことを一方的なしゃべり続けるメディアの人々である(村上龍氏)
>
> 私は村上龍氏を知らないし、氏がどういう場面でその言を発したのかも知らない。断片的にそういう面をメディアの人が持っているのはそうだ。然し、それは、あいつは「イスラエル人だ」「あいつはパレスチナ人だ」「ISだ」「〇〇だ」というのと大同小異だ。
>
> それともう一つ、社会の現実はあるがままのもの・現実だ。それを見て理解することが探究だ。非難正当化は思考のもの。


端的に事実を言うことは非難ではない。


恥ずべきとは、思いと言葉と行いが大きくかけ離れている。という意味。思考が非難正当化して、葛藤してるわけじゃない。


[24188] Re:[24186] [24184] 無題 投稿者:YHWH 投稿日:2017/08/17(Thu) 13:52  

> > メディアの数々の偏向報道の罪は大きい。
>
> 何がそれをもたらしているのだろうか?

金銭欲、自分だけ富んでればいいという自己満足。


[24187] Re:[24180] [24167] 私とはなにか? 投稿者:外野 投稿日:2017/08/17(Thu) 11:26  


> >  注 クリシュナムルティは、よくプロセス(過程)という言葉を使われるがこの意味を指す。言わば思考過程、思考のプロセス、
>
> いきなりこのプロセスが思考過程に飛躍したので分かりずらいです。もうちょっと噛み砕いてお願いします。

 この難しい文章にコメントくださいましてありがとうございます。この「注」のコメントは私の個人的見解であって、よけいだったようです。
 クリシュナムルティのいう思考過程ですが、(心理的)思考というのは、よく見てますと、現れては消えて、現れては消え、その繰り返しです。その過程は、よく見ますと「実体」のないものとわかります。実体がないとは、現実ではないこと。観念の世界ということになります。心理的思考の代表、いい悪い、好き嫌い、比較というのは個人的な思いにほかなりません。「思い」と「事実」とは違う。
 たとえば目の前にパソコンがありますが、「パソコン」と呼ばれるものは目の前に存在しますが、「パソコン」というのは言葉であり、たんなるレッテル、記号です。つまり実体がない。
 実体とは目の前にパソコンが「ある」こと。ここでわかりやすく「ある」(存在と言う概念)と申し上げましたが、著者の弁によると、難しいいいかたですが、顕れている、というのが正確だそうです。(顕現)
 パソコンは見た目は変化がないようですが、長い目で見ると変化しています。当然いずれは烈化します。長い時間がたつと。物質、生命何でもそう。これは分子レベルの話であり、日常生活ではどうでいいことです。さしさわりはない。
 人間は3ヶ月で細胞が入れ替わるという。「別人」になったかというとそうではなく、以前として「本人」。これが不思議な所。私たちを支えている意識というものが不変ということを物語っている。(ここでいう意識の意味は原理)
 すべてのものは変化する。私たちは一刹那をとらえて「ある」といっているだけです。
 その変化を支えているのが、宇宙の根源的なエネルギー。はじまりも、終わりになく永遠。
 自己が「ある」か「ない」ではなく、それぞれ宇宙の場において顕れている。宇宙という言葉がおおげさなら生活空間。

> >  そのようなもとでは、宇宙はあたかもそれ自体で、自己意識を有し、かつ、自己意識を拡大させるように営まれている人格的作用のプロセスの総体のようでさえある。
> > 自己意識は存在するのではなく成立する。
> > 秘密は神にあるのではなく、この意識の成立原理、またはその作用の中にある。
> > われわれが透明な直観を有したとき明らかにされるのは、神ではなく意識についての神秘である。
> > 神はそれ以上に秀れたものにとって代わられる。
>
> ここがちょっと、神は。。。代わられる。どういうこと?

 キリスト教では「神」というものが最高概念ですが、ヒンズー教では「神」以上の概念を発見したということです。古代インドのウパニシャッド哲学の「アートマン」「フラフマン」という概念がそうです。宇宙の最高原理が人間にも内在されている。著者の研究では、それを「意識の成立原理」と呼んでいます。
 著者の本は、理解するのが非常にむずかしいので、これは私のあくまで個人的な参考意見として受け取ってください。
 ことの詳細については本を読んでもらうしかないですね。難解ですが。
 ここでいう「神」と「意識」の違いについて、読解力のない私にはうまく説明できません。


>
> > 古代インド人の人々が直観していたのはまさにこの意識の成立原理であった。
> >
> > 注 人類の叡智の最高潮といわれるインドのウパニシャッド哲学に詳実されている。ブラフマン、アートマンという言葉、「意識」にあたる。
> >
> >  それについて空(くう)という呼び方が登場し、やがて「無」という概念にとって代わられたときに、実際にはインドは西欧諸国よりも物質主義に堕してしまったのでる。

 空(くう)とか無(む)というのは仏教の概念。キリスト教がユダヤ教から別れたように、仏教もヒンズー教から別れたのではないかな。一個人の出現によって。
> >
> >  注 現在の仏教の現状を見れなそれは明らかだろう。
> >
>
> お坊さんと話したことがあまりないのでよく知りませんが、
> そうなんですね。

 簡単に言うと葬式仏教。いわば現代は職業。お寺の空き地は駐車場というように、現実にお寺を経営させなければならない。
 なかにはもちろん真剣に修業している人もいます。高野山とか山伏など。詳しくは知りません。
 どうも日本人というのは昔から座禅というのが好きなようです。心を落ち着ける手段として。逆輸入されて今ヨーロッパで禅がブームだという。(NHKより)
>
> >  私の個人的見解では、「私」とは意識ということになる。わかりやすくいうと、未分化の意識、全体意識、宇宙意識。つまり分割前の原初の意識。
> > 意識の意味は(創造)原理。
> >  もちろんそれは私たちに内在している。原理として。そして宇宙はのべつくまく動いている。まさにプロセス。創造過程。それにははじまりも終わりもない。今だけがある。進行形。停止はない。
> >
>
> プロセスにははじまりと終わりはない?

 前述したようにプロセスには、はじめも終わりもありません。インドのガンジス河を思い浮かべるとイメージできます。川の流れには、はじめも終わりもない。プロセスのみ。
 小説「シッダルタ」で、長年真理を探究してきたシッダルタは、渡し守(実は聖者)のアドバイスを受けて、川のほとりで瞑想中悟ったという話は有名。小説家ヘルマンヘッセの金字塔と言われる。
(渡し守の言葉「私はただ傾聴する。邪心を持たぬ。それだけだ」)
 盟友ゴービンだは仏院で長年修業しても悟れないでいる。
シッダルタ曰く時間は実在しない。「いつか」というのは迷いにすぎぬ。
 「水は絶えず流れ、しかも常にそこに存在し、常に在り、終始同一であり、しかも瞬間瞬間に新たであった!」
 「川はいたるところにおいて、源泉において、河口において、滝において、渡し場において、早瀬において、山において、いたるところに同時に存在する。川にとっては現在だけが存在する。過去という影も、未来という影も存在しない」

> > > > > つまり、私を知ることは宇宙を知ることであり、宇宙を知る
> > > > >
> > > > > ことは私をしることである。
> >
> >  私を知ることは、宇宙を知ることと同じ。何故なら宇宙を観察しているのは私だから。私がなければ宇宙もない。
>
> 中心としての宇宙は消滅しても、一部としての宇宙は残るのでは?

 もちろん客観的に見ますと、私個人が死んでも、もちろん宇宙はあります。主観的に見たらどうでしょう。自分が死んだら真っ暗。宇宙がないのと同じです。認識できないのですから。
 意識、心からの立ち場からすれば、自身の肉体が朽ちると、宇宙がないのと同じということになります。外界(宇宙、自然)を認識するのは誰あろう自身の意識だからです。

> ホーキングの「宇宙の法則 解けない暗号」読んでます。一応科学も人間の心に迫ってるみたいです。

 そうですか。私は科学者の本は読んだことがないですね。ようするに科学者というのは目に見える現象論の追求だけです。
 現代医学も切った貼ったの世界。

> >  宗教の役割は人を救うこと。

> 救うということは救われてないという、前提を刷り込むこと。

 仏教でいう苦から解放。キリスト教は悩めることから救う。その前提は神を信じること。仏に仕えること。信仰の世界。
 無宗教の人でも正月は神社におまいりをする。神社では神様ということがでてくる。神という言葉はキリスト教でないようで。
 さて「神」とは何だろう?「仏」とは?





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