雑感
[トップに戻る] [留意事項] [ワード検索] [管理用]
おなまえ
Eメール メールアドレスは入力禁止
タイトル
コメント 【コメント中のURLは先頭のhを抜いて書き込んで下さい。】
コメント中には参照先URLと同じURLを書き込まないで下さい
参照先
暗証キー (記事メンテ用)

[24029] Re:[24027] [24026] [23991] [23990] [23979] [23975] 意識の統合と分裂 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/07/04(Tue) 11:01  

> >  歌舞伎の海老蔵が奥さんの臨終の際、奥さんから「愛している」と言われたと告白されていましたが、そういった「愛している」とは違います。
>
> それは他人にはわからないのでは? 死に臨んで言う言葉は神秘な直感なのでかもしれません。

  海老蔵さんのいう愛は、世間一般でいうところの愛。愛し愛される相対の世界。
 覚者といわれている人の愛というのは、そういった相対的な愛というものを超えたもの。
 絶対的な愛。たとえ相手に憎まれようとも愛する世界。イエスは、ぶたれたら、頬を差し出せと。Kの言葉には、隣人の苦しみは、即自分の苦しみとある。
 わかりやすく対比する意味で、海老蔵さんの言葉を紹介しました。
>
> >  普遍的な愛ということか、言葉でいうのがむずかしい。誤解を受ける言葉。

> >  たぶんゴトさんの心境では、人や自然を分け隔てなく「愛せる」境地に成っているのだと思われます。
> >  それに対し、自分自身では、人や事象を、分別なく分け隔てなく、愛するというのは不可能です。その前に「自分」というのが出る。

 普通の人は、大体は自分第一主義。私の会社。私の家族。私の何とか。何事も自分優先。
> >
> >  ゴトさんとの会話の途中だったのですが、ゴトさんの24025を見終わったあと、ふと上記のことが浮かびました。
>
> 愛については仰せの通りです。しかし問題は愛という言葉をシンボルとしては人は知っていますが、実際には知らず、多くの人が思考で解釈してやってみても、思ったようには何も実現しないという事です。理屈を超えたところにあるのでしょう。

 言葉としては、全ての人は知っています。どういうものかは知りません。
 古今からその言葉は使われていますが、本質の意味を知らない。

> > > >  腹が立たないのではなく、腹がたったで、その都度「見る」。その「見る」の継続。継続すればその内腹が立たなくなる。
>
> 見る時、あるがままのものを見るのならいいが、観念化してシンボルとして見ているなら、感情(例えば腹立ち)は強化される。抑圧するならストレスが増える。
 「あるがままに見る」という言葉が、シンプルすぎてかえってむずかしい。
 思考なしに事象を見るのか、それともその都度、浮かぶ思考を見るのかが、あいまい。
 たとえば、ムッとするといったような気持ちは誰でもわかります。そのあと言語化が起きる。それは頭の中だけであり、口に出して言語化するというのは、まれでしょう。よほど腹に据えた時、言葉に出す。
>
> >  結局、そのとき起きたことを「慈愛の目」で見てるかどうかに尽きる。
> > 周囲に対して、自身に対しても。
>
> その通りですが、慈愛の目で見ているかが残念ながら皆目わからない。

 これまでの、ゴトさんの言葉を伺った限りでは、ゴトさんは、ひょっとしたら「慈愛の目」で、見たり気づいたり、知覚されているのなと思った次第。
 何故なら、分別なく、分け隔てなく見ていると、言われたので。
 違ってたら訂正します。本人にはその自覚がないようで。

 ただ「見る」「気づく」「知覚する」だけで、分別がとれてしまうのでしたら凄いですね。
 だとすると、全ての人にあてはまってもいいですが、何故実現しないのだろう。

>
> >  想像ですが、「覚者」と言われた方々は、そのような心境が出来ているのではないでしょうか?それまでの精神遍歴は、各自それぞれですが。
>
> そうかもしれませんが、想像しても実際には何をしているのか?

 覚者は分別の観念がないのでは、ということです。あなたは、「無分別」を実現されているので、この覚者の気持ちは。よくおわかりになるのでは。
 普通の凡人はこのことが実現していないので、この「無分別」の境地は、想像にすぎなくなる。
 覚者と凡人を比較したまで。
>
>
> > > 一度見るとそれは終わるのでは?それ以外のことが起きれは新たに見る。
> >
> >  慈愛の目でみれば、即座に思考の終焉。
>
> うむ、そうですが、慈愛の目で実際に見るとはどういう事だろう? 前提条件なしに見ているだろうか?

 慈愛の目で見ないから、思考は継続される。
 クリシュナムルティは慈愛の目で見てるから、そのつど思考は終焉する。
 この違いは、言葉で言うのは難しいが「境地」が違う、ということではないだろうか。
 クリシュナムルティと同じ人間なのに、何故普通の人は実現できないのだろうか?私の考察では、境地が違う、というしかないでしょう。
 何かきっかけになるものがないと、心境の変化が起きないようです。
 クリシュナムルティの心境の変化は、伝記によると弟の死と記されている。
 何かのエポイックなきっかけ。
>
> >  「気づき」は見えている、聞こえている、知覚しているということだから、人の基本的な機能。出来る出来ないの話ではない。
> >  問題は、どのように気づいているか。慈愛の目で気づいているのか?それとも?
> >
> > > それは実際に何を意味するかはっきりしません。いや象徴的な意味で使われているのはわかります。変化することなのでしょうが、それもその実際はあなたにとって言葉的には覚者になることなどと言えますが、実際に何が起こるか言えないでしょう。
> >
 どのように気づいているか、というのは新しい芽氏が、いわれた言葉ですが、それだけではわからず、慈愛の目で気づいているかどうか、といわれれば分かる気がします。あ、そういうことかと。
 あなたのいわれる慈愛=覚者ということではありません。
 慈愛というのは、覚者の専売特許ではなく、誰でももっているものです。
 小さなお孫さんを、じっと身守るあなたの姿は、「慈愛」そのものでしょう。お孫さんの一挙手一挙手をじっと身守る。
 母親は、常に心配の目で見ている。慈愛ではない。
 これやっちゃだめ。あれやっちゃだめは、愛情の吐き違い。まさにかまいすぎ。
 真の母親は、子供に好きなこと、やりたいことをとことんやらせる。そこに学びがある。藤井四段の母親のように。





[24028] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/07/03(Mon) 00:02  

24027は今日朝からぼつぼつと長い時間推敲して書いたのですが、書き終えて投稿して読み直すとまだあなたの言いたいことにまともに答えていないことがわかりました。

返信を期待して待っています。


[24027] Re:[24026] [23991] [23990] [23979] [23975] 意識の統合と分裂 投稿者:ゴト 投稿日:2017/07/02(Sun) 23:46  

>  結局、人を愛せるかどうかではないですか。人に限らず、自然に対しても。
> 人に対して、分別なく愛せるかどうか。分け隔てなく。
>  この愛するという言葉、いうまでもなく世間でいうところの俗的に使う愛ではありません。相対的な愛というか、それらを超えたもの。たしかに思考を超えたものとそういうことになります。結局クリシュナムルティは「愛」を説いていると。
>  歌舞伎の海老蔵が奥さんの臨終の際、奥さんから「愛している」と言われたと告白されていましたが、そういった「愛している」とは違います。

それは他人にはわからないのでは? 死に臨んで言う言葉は神秘な直感なのでかもしれません。

>  普遍的な愛ということか、言葉でいうのがむずかしい。誤解を受ける言葉。
>  愛と言えば,キリスト教も同じように説いています。しかし、歴史の現実は真逆になっている。
>  Kの記述でも「気づき」とか「見る」という言葉を持ち出すと、かえってわからなくなるようです。
>  たぶんゴトさんの心境では、人や自然を分け隔てなく「愛せる」境地に成っているのだと思われます。
>  それに対し、自分自身では、人や事象を、分別なく分け隔てなく、愛するというのは不可能です。その前に「自分」というのが出る。
>
>  ゴトさんとの会話の途中だったのですが、ゴトさんの24025を見終わったあと、ふと上記のことが浮かびました。

愛については仰せの通りです。しかし問題は愛という言葉をシンボルとしては人は知っていますが、実際には知らず、多くの人が思考で解釈してやってみても、思ったようには何も実現しないという事です。理屈を超えたところにあるのでしょう。

>
>  前回の続き
>
> > >  腹が立たないのではなく、腹がたったで、その都度「見る」。その「見る」の継続。継続すればその内腹が立たなくなる。

見る時、あるがままのものを見るのならいいが、観念化してシンボルとして見ているなら、感情(例えば腹立ち)は強化される。抑圧するならストレスが増える。

>  結局、そのとき起きたことを「慈愛の目」で見てるかどうかに尽きる。
> 周囲に対して、自身に対しても。

その通りですが、慈愛の目で見ているかが残念ながら皆目わからない。

>  想像ですが、「覚者」と言われた方々は、そのような心境が出来ているのではないでしょうか?それまでの精神遍歴は、各自それぞれですが。

そうかもしれませんが、想像しても実際には何をしているのか?


> > 一度見るとそれは終わるのでは?それ以外のことが起きれは新たに見る。
>
>  慈愛の目でみれば、即座に思考の終焉。

うむ、そうですが、慈愛の目で実際に見るとはどういう事だろう? 前提条件なしに見ているだろうか?

> > >  それとも、本当に「気づき」が出来れば,二度と腹立ちが起きなくなる。そういうことですか。
>
>  これは愚問でした。
> >
> > 「気づき」は見えたことの別の言い方。
> > 本当に気づきができればとおっしゃいますが、タラレバでは言葉は操れてもその実際は見えないからわからないでしょう。
>
>  「気づき」は見えている、聞こえている、知覚しているということだから、人の基本的な機能。出来る出来ないの話ではない。
>  問題は、どのように気づいているか。慈愛の目で気づいているのか?それとも?
>
> > それは実際に何を意味するかはっきりしません。いや象徴的な意味で使われているのはわかります。変化することなのでしょうが、それもその実際はあなたにとって言葉的には覚者になることなどと言えますが、実際に何が起こるか言えないでしょう。
>
>  何が起きているか、慈愛の目で観察する。別な言葉でいうと、深く観察する。
>  どのように気づいているかどうか。慈愛の目で、気づいてるかどうか。
> >
> > >  普通は前者、見ることを継続しようとしたが、そのうち見ることをやめる。
>  見るということを「方法」と見てしまうと続かない。巷では「気づきのトレーニング」として訓練化している。
> >
> > 実際とのつながりが実はわかっていない観念を使って行動を決めるという事、これが実は問題ではないですか?
>
>  現実には、思考が次々出てきますから、それを、いちいち「心理的思考」「そうでない思考」というように、別けることは不可能でしょう。

ただ見るというのは判別しながら見ることではない。判別も何もなしに見ている。

>  馬鹿野郎位はわかりますが、現実の日常生活は心理的思考、実用的思考と、微妙に入り交じっている。
>  ですから、全ての思考をまず疑えと、新しい芽氏はいう。
>  彼の場合は、自身の思考でさえも疑うという。その点徹底しています。
>  彼曰く、自身の思考は信用しない。

そうですか? ただ見ると言うなら垂れ流しのような感じもあるから、疑って、しかし受動的に見る。それは至高の敏感さで見ているという事。
これは疑って見ることにより自然に実現するのでなく、手に入れようとするなら「ミラ取りがミイラ」になる。それが言葉上でわかるのでなく、ほんとに全身全霊でわかるなら、気づき、敏感に気づくことはおのずと起こる。

> >
> > 心理的観念が私はいつの間にかなくなっているのです。それで感情が煮えくり返るとい事がありません。
>
>  そうですか。心理的思考に感情が降り回されることはない。
>
> > 気づきの継続とか、見ることの継続ではなく、自分の握りしめていた思い込みの中の怪しげなものが消えればそれで終わりです。
>
>  「思い込みの中の怪しげなもの」?
>  それをいちいち確認するのが大変ですね。

あなたはそれを確認しようという。それゆえいつも分別者、解釈者がいるのです。つまりそれが思考者です。慈愛の目ではなく思考の目で見ているのでは? そうなるのは言葉に従って行動する(ロボット的?)という事が習慣的になっていて、創造的発想がないという事なのだろうか?

> > 心理的なイメージのシステムが構築されています。そのなかにお化けがいるのです。そのお化けの正体が見えればそれまでなのです。心理的なシステムが崩壊します。
>
>  よく柳を比喩に出しますね。柳が幽霊に見える。

そう本気で思います。実体としてわかる言葉もたくさんあります。しかし慈愛は言葉で説明できますが、それは意識できないものです。意識しているならそれは偽物でしょう。本物は無意識、無心で行われているのでしょう。

> > どうやってお化け退治をやるか、それが世界に通じるようにする必要があります。
>  感情が動かなければ、問題は起きません。ようするに何が感情を動かしているのか。
>  人は感情的になるから問題がおきるわけです。感情が露になると対立を呼ぶ。
>  ですから、社会に出ると人は感情を表に出さない術を学ぶ。不平不満を内に溜め、そのはけ口を求める。
>  人間は感情の動物と言われる所以。喜怒哀楽は必要不可欠。その中で怒りの感情だけ、なくそうというのは虫が良過ぎる。
>  権力の理不尽さに対して怒りは必要不可欠。

そう言ってその結果起こるのは権力の交代劇になってしまいます。

>  感情のコントロールせよというのは、ほとんどの覚者がいうわけですが、クリシュナムルティは、感情についての言及があまり見受けられない。思考、思考というだけで。
>  感情の動きなんか、体に反影されるので、すぐわかるのではないですか。
>  腹がたっていることはリアルタイムでわかる。そのときは頭は炎上している。
>  まさに火中の栗。
>
> > とりあえず、新参者、若輩者、目下、こう言った観念はお化けだ!という事でいいでしょうか?
>
>  幽霊ですか。そういった言葉は、その人を見れば即座にわかります。
>  しかし、人生を長く生きている中高年はプライド、人生観、価値感を、無意識に形成している。長い時間かけて。それが行動原理というか、自身の生きる時の指針となっている。

その通り。ほんとはどこかでちゃんとわかっている。それを捨てる気がないという事がもう一つあり、それが頭の固い権力層や支配層にある。成功者層とも言えるかな。

>  そういったものは、どこで見るのだろうか?人と関わり合うとき出てくるのだろうか。やりとりで。しかし、その人のスタンスでそれ自体は問題ありません。

それを必死に維持しようとする執着が当然の生死をかけて守りたいものになっている。
それもそういう人たちのあるがままでもある。そういう人たちが自分で気づいて捨ててくれなければどうしようもない。

>  各自自分の意見をもつということは当然のことです。問題は他人の意見を聞くことにある。相手の言い分をまず認める。相手に自分の意見を押し付けない。互いに理解する。相互理解への道。

相互理解の道と言って現状と無知が継続される。無知とはブッダもKも言っているが、覚者と祭り上げて、自分の執着は捨てない。普通の人が言えば防衛機制が働いて抵抗する。

>  イエスのいう、隣人を愛せよ、なんてのいうのは土台無理。隣人を理解する。それだったら万人に可能。

本当に理解するということは愛することでもある。


[24026] Re:[23991] [23990] [23979] [23975] 意識の統合と分裂 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/07/02(Sun) 11:30  

 結局、人を愛せるかどうかではないですか。人に限らず、自然に対しても。
人に対して、分別なく愛せるかどうか。分け隔てなく。
 この愛するという言葉、いうまでもなく世間でいうところの俗的に使う愛ではありません。相対的な愛というか、それらを超えたもの。たしかに思考を超えたものとそういうことになります。結局クリシュナムルティは「愛」を説いていると。
 歌舞伎の海老蔵が奥さんの臨終の際、奥さんから「愛している」と言われたと告白されていましたが、そういった「愛している」とは違います。
 普遍的な愛ということか、言葉でいうのがむずかしい。誤解を受ける言葉。
 愛と言えば,キリスト教も同じように説いています。しかし、歴史の現実は真逆になっている。
 Kの記述でも「気づき」とか「見る」という言葉を持ち出すと、かえってわからなくなるようです。
 たぶんゴトさんの心境では、人や自然を分け隔てなく「愛せる」境地に成っているのだと思われます。
 それに対し、自分自身では、人や事象を、分別なく分け隔てなく、愛するというのは不可能です。その前に「自分」というのが出る。

 ゴトさんとの会話の途中だったのですが、ゴトさんの24025を見終わったあと、ふと上記のことが浮かびました。


 前回の続き

> >  腹が立たないのではなく、腹がたったで、その都度「見る」。その「見る」の継続。継続すればその内腹が立たなくなる。

 結局、そのとき起きたことを「慈愛の目」で見てるかどうかに尽きる。
周囲に対して、自身に対しても。
 想像ですが、「覚者」と言われた方々は、そのような心境が出来ているのではないでしょうか?それまでの精神遍歴は、各自それぞれですが。
>
> 一度見るとそれは終わるのでは?それ以外のことが起きれは新たに見る。

 慈愛の目でみれば、即座に思考の終焉。
>
> >  それとも、本当に「気づき」が出来れば,二度と腹立ちが起きなくなる。そういうことですか。

 これは愚問でした。
>
> 「気づき」は見えたことの別の言い方。
> 本当に気づきができればとおっしゃいますが、タラレバでは言葉は操れてもその実際は見えないからわからないでしょう。

 「気づき」は見えている、聞こえている、知覚しているということだから、人の基本的な機能。出来る出来ないの話ではない。
 問題は、どのように気づいているか。慈愛の目で気づいているのか?それとも?

> それは実際に何を意味するかはっきりしません。いや象徴的な意味で使われているのはわかります。変化することなのでしょうが、それもその実際はあなたにとって言葉的には覚者になることなどと言えますが、実際に何が起こるか言えないでしょう。

 何が起きているか、慈愛の目で観察する。別な言葉でいうと、深く観察する。
 どのように気づいているかどうか。慈愛の目で、気づいてるかどうか。
>
> >  普通は前者、見ることを継続しようとしたが、そのうち見ることをやめる。
 見るということを「方法」と見てしまうと続かない。巷では「気づきのトレーニング」として訓練化している。
>
> 実際とのつながりが実はわかっていない観念を使って行動を決めるという事、これが実は問題ではないですか?

 現実には、思考が次々出てきますから、それを、いちいち「心理的思考」「そうでない思考」というように、別けることは不可能でしょう。
 馬鹿野郎位はわかりますが、現実の日常生活は心理的思考、実用的思考と、微妙に入り交じっている。
 ですから、全ての思考をまず疑えと、新しい芽氏はいう。
 彼の場合は、自身の思考でさえも疑うという。その点徹底しています。
 彼曰く、自身の思考は信用しない。
 
>
> 心理的観念が私はいつの間にかなくなっているのです。それで感情が煮えくり返るとい事がありません。

 そうですか。心理的思考に感情が降り回されることはない。

> 気づきの継続とか、見ることの継続ではなく、自分の握りしめていた思い込みの中の怪しげなものが消えればそれで終わりです。

 「思い込みの中の怪しげなもの」?
 それをいちいち確認するのが大変ですね。
>
> 心理的なイメージのシステムが構築されています。そのなかにお化けがいるのです。そのお化けの正体が見えればそれまでなのです。心理的なシステムが崩壊します。

 よく柳を比喩に出しますね。柳が幽霊に見える。
>
> どうやってお化け退治をやるか、それが世界に通じるようにする必要があります。
 感情が動かなければ、問題は起きません。ようするに何が感情を動かしているのか。
 人は感情的になるから問題がおきるわけです。感情が露になると対立を呼ぶ。
 ですから、社会に出ると人は感情を表に出さない術を学ぶ。不平不満を内に溜め、そのはけ口を求める。
 人間は感情の動物と言われる所以。喜怒哀楽は必要不可欠。その中で怒りの感情だけ、なくそうというのは虫が良過ぎる。
 権力の理不尽さに対して怒りは必要不可欠。

 感情のコントロールせよというのは、ほとんどの覚者がいうわけですが、クリシュナムルティは、感情についての言及があまり見受けられない。思考、思考というだけで。
 感情の動きなんか、体に反影されるので、すぐわかるのではないですか。
 腹がたっていることはリアルタイムでわかる。そのときは頭は炎上している。
 まさに火中の栗。

> とりあえず、新参者、若輩者、目下、こう言った観念はお化けだ!という事でいいでしょうか?

 幽霊ですか。そういった言葉は、その人を見れば即座にわかります。
 しかし、人生を長く生きている中高年はプライド、人生観、価値感を、無意識に形成している。長い時間かけて。それが行動原理というか、自身の生きる時の指針となっている。
 そういったものは、どこで見るのだろうか?人と関わり合うとき出てくるのだろうか。やりとりで。しかし、その人のスタンスでそれ自体は問題ありません。
 各自自分の意見をもつということは当然のことです。問題は他人の意見を聞くことにある。相手の言い分をまず認める。相手に自分の意見を押し付けない。互いに理解する。相互理解への道。
 イエスのいう、隣人を愛せよ、なんてのいうのは土台無理。隣人を理解する。それだったら万人に可能。


[24025] Re:[24023] 腹立ちに直面するということ。 投稿者:ゴト 投稿日:2017/07/01(Sat) 23:27  

>  途中YHWHさんの投稿が入り、遅くなってしまいました。ここから肝心なところです。今まで「序章」という感じ。これから知識を棚上げして、生でやりとりをしようと思います。

大賛成です。しかし心理的知識以外の知識は活用しましょう。

>  幾分きついことをいい、あなたの「プライド」?を傷つけるか知れませんがご容赦下さい。
>  (えっ「プライド」などないというのは陰の声)

プライドはないのではないかな。

> > >  ここで聞きにくいことを一つお聞きしたいのですが、心理的なことについてです。あなたは今や長く生きて人生の先輩になりここまで生きてきました。これまでで、たとえば自分の年下のものに、指摘というか、ああだこうだいわれたとき、どんな気持ちになるかということです。
> > >  同僚や先輩なら、ああだこうだいわれても、そうは腹がたたないものですが、後輩、あるいは若輩のものにああだこうだといわれると気持ちのいいものではない。私なら当然腹がたつ。それが図星であっても。もちろん口にしませんが。「◯◯にいわれたくない」と。こういうのは、学校でも会社でもよくあることです。

若い時から争いになると何のためにやっているかばかばかしくなって、やめるというか、どうでもよくなってしまうという事がありました。
プライドのような観念的なことに執着・こだわりがあっても、すぐほどけてしまいます。

ただ母や、妻との間ではそうはいきませんでした。自分のことをなぜわかってくれないのかという事があったようです。これがなかなか抜けなかったがついに抜けた。

>  簡潔にいうと、年下、あるいは若輩に何か言われると腹がたってくるということです。
>  長い間生きていると、そういうことをよく経験する。会社でも家でも。
>  上司に注意されると「すいません」とぺこぺこ
>  部下に注意されると「生意気な」ということになる。
>  自分自身体験したことで、わかりやすく象徴的に書いている。誰にでも経験するという意味で。
>
> > >  さて貴方は、今や「気づき」を実現してるので、もし、仮に若い人から注意を受けても、動揺しない。平常心を保つということでしょうか。

動揺の元になる固定概念(例えばプライドとか若輩とか)が消えてきたのかな。

> > ええと若い人というのは確かにいます。しかしそれは新参者、目下のもの、若輩という意識あるいは観念なしです。

>  ことわっておきますが、あなたがKに出会う前の話を聞いている。上記の経験は誰でもあるはず。

若い時はたいてい痛いことを言われるので、反論できずに引きさがっていましたね。

>  Kに出会ってから、「分別」はなくなったというのではお互いの検討に成りません。

Kにあってから心理的思考は長い時計的時間をかけて消えていきました。それでいいのだと思いますが?そうでなければKは何なんのかという事になる。

>  よくある「気づき人」と「気づかない人」との対話に成りがち。同じ「土俵」ではない。
>  あなたは社会生活におくっていた時、そういった「分別」はないということですか。たとえば「男」「女」の区別なく。「若輩」「先輩」の区別なく。

区別と言っても身分的上下とか、尊卑という観念がないという事です。誰にも一個人として対等であるが尊重して対するという事です。動物でも植物でも同じです。

>  私の知人は、定年後あるところに就職したが、若い社員から、手取り足取り基礎から教えられたと言う。「内心」屈辱だったとその人は言う。ときにはその若い奴に怒鳴られて。
>  あなたはそういったこととは無縁のようだ。

そうです。上の記述のようでは生きていくのが重くてしょうがないでしょう。シンボルシステムの中で生きているとそうなる。シンボルシステムというのは観念によってつくられたシステム(体系)ということです。思考の架空の世界の中にいる。

> > 私には子供もいるし、孫もいるし、ひ孫もいます。彼らも世の人のほとんどが確かに若い。それだけです。
>
>  そうですか。随分達観しましたね。同じ人でも、「身内」と「それ以外の人」では対応がかわるはずだが。

昔は身内の人(母と妻)に対しわがままだったことは先述しました。子供に対してはわがままを出すという事はありませんでした。成人してからは身内の一個の人として付き合っています。

> > だから何か言われたたらその事を考えます、もっともなこともあるし、誤解もあるし、いろいろあるでしょうが、まじめに受け取るべきだと思ったことは考えて返事するだけです。
>
>  そうですか。別に感情を乱すことはないと。

はい。注意して見ていると感情が出るという事はありません。
何かに断片的にこだわっていると関係の中に隙間が生じます。

> > >  分かりやすい例を言いうと、あなたは仮に釣りが未熟だとする。(あくまでたとえ。実際はわかりません。)釣りが上手な若い人にああだこうだ指摘を受けたとする。どう反応するか。これは釣りに限らず将棋でも何でもいいです。

私は飛び切りうまい数人の人のグループに囲まれて、そのリーダーに指導を受けていました。その人たち(私より10歳は年下)にはいつもダメだなあと言われていましたが、それは当たり前です。だから若い人は声をかけることはありません。
今は一人で釣っています。私はたぶん一番年寄りでしょう。声をかける人はありません。どこの誰なのだろうと思っているのでしょう。昔の仲間でまだ釣っている人にたまに出会うと並んで釣ります。

> > 私が下手なことは釣りをやっている人が少し見ればわかるでしょう。うまい人は普通自分からは声をかけないと思います。しかしもし声をかけてくれれば黙って聞きます。
>
>  仮によその人から「おたく釣りを何年やってんの。いつまでたってうまくならないね」
>  あなたは、黙って聞く。
>  私は、そのことを言われたら、内心腸(はらわた)が煮えくり返ります。
> 文字ドウリ虫酸が走る。
>  (あくまで、極端なケースをいってます。あしからず)
> >
> > >  あなたは人を、「若い」「中年」などと判別しないで受け取るということでしょうか。私なら人を見て反応する。
>
>  そうです。若い女性から、注意を受けると腸が煮えくり返る。
>  「何をこのアマ!」という感じ。
>  同僚なら、何も言わない。
> >
> > 若いとか、中年はよくわかる実際のことと結びついています。
> > 反応の仕様がありません。
>
>  そうですか。それでは検討のしようはないですか。
>  怒りに直面するということを検討しようとしても、あなたに「怒り」がないというのでは検討できません。
>  そういうのは、実際に修羅場を経験しないと検討できないかもしれません。

> > >  自分の若輩なのに、明らかにその人は悟っていると見る時、自分は力量不足でまだ悟りには程遠い。そのとき「やっかみ」が起きるかどうか。こいつわかいくせに。これも比較の論理ですが。

ええと、検討と言いますが、やっかみも私は経験していますよ。それを直視することを検討したいのですか?それは昔ずいぶん話しました。とにかくトライすること。反応や解釈が起こります。その中に引きずり込まれることに気づく。その気づいているままにいるのがじかに見ている、聴いている、感じているという事です。何が起ころうが見るに戻ることを繰り返しましょう。

>   読書会に参加したときのこと。何もかもわかっていると思われる人がいて、思わず「やっかみ」を感じたものです。
>  「こいつ、若いくせに悟ったやがる」と。自身のかけがえのなさのあらわれでもあります。
>
>  今日はここまで。後半の部分は、後日

どうも何か食い違っているな。
私は感情が起き、執着が強い人を否定はしていません。
その原因は、私もその一例ですが、観念を持ち、それを手放そうとしないからです。

それを理解して、悟って手放せばことは終わりです。見るとか気づくという事は、即時の理解や(ミニ)悟りと、言葉・言い表し方が違うだけで実際は同じことです。

シンボルシステムの大欠点を見破って、それに引きずり込まれることなく、扱うことがすべてです。


[24024] Re:[24022] 直感、ひらめき 投稿者:ゴト 投稿日:2017/07/01(Sat) 21:13  

>  藤井4段の活躍で、将棋の話題がテレビや新聞でとりあげられるようになった。
>  昨日のテレビでは、直感とか、直観という話になって、ある人がそれはどういったものか。プロの棋士に質問したが明確な答えは出ずじまい。
>  直感とはひらめき、インスピレーションなのか、あるいは過去の経験記憶なのか、ひらめきとは思考の産物なのか?今イチわからない。プロでも。
>  Kにいわせれば、それらはすべて過去の経験記憶であり、思考の産物なのだろうか?
>  では「新しい」というのはどういうことなのか。単に名付けたら「過去」になる。それだけの話?
>  自分自身、アマの二段までしかいかなかったヘボ将棋だが、体験によると、色々頭に浮かんだ手を選択して指すという感じ。プロの頭の中は、当然それ以上。なにしろ目隠しで、1局指してしまうのだか凄い。(実際現場で見たことがある。)
>  結局、記憶力、判断力の勝負なのだろうか?その中で「直感」(直観)とは何か?

直観とひらめきはどう違うか? これは難しいですね。知識で言います。

直感は答えがわかってもそれが何ゆえか、本人がわからないものだそうです。ひらめきはひらめいたらそのゆえんもわかるのだそうです。それゆえ、二つは違うものだそうです。

一目ぼれでこの人と感じてもその理由はわからないというのはほんとでしょうね。何百万年もの間積み上げられてきた無意識的な不可思議な何か。

藤井4段の将棋は、先週はテレビで見ました。直観もひらめきもあり、それは本人でないとわからない事でしょう。
私は子供の時から積み上げられた、コンピュータとの対戦を含むニューロンのネットワークが、人間の積み上げてきたものと違うのではないかと思います。


[24023] 腹立ちに直面するということ。 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/07/01(Sat) 10:45  

 途中YHWHさんの投稿が入り、遅くなってしまいました。ここから肝心なところです。今まで「序章」という感じ。これから知識を棚上げして、生でやりとりをしようと思います。
 幾分きついことをいい、あなたの「プライド」?を傷つけるか知れませんがご容赦下さい。
 (えっ「プライド」などないというのは陰の声)

> >  ここで聞きにくいことを一つお聞きしたいのですが、心理的なことについてです。あなたは今や長く生きて人生の先輩になりここまで生きてきました。これまでで、たとえば自分の年下のものに、指摘というか、ああだこうだいわれたとき、どんな気持ちになるかということです。
> >  同僚や先輩なら、ああだこうだいわれても、そうは腹がたたないものですが、後輩、あるいは若輩のものにああだこうだといわれると気持ちのいいものではない。私なら当然腹がたつ。それが図星であっても。もちろん口にしませんが。「◯◯にいわれたくない」と。こういうのは、学校でも会社でもよくあることです。

 簡潔にいうと、年下、あるいは若輩に何か言われると腹がたってくるということです。
 長い間生きていると、そういうことをよく経験する。会社でも家でも。
 上司に注意されると「すいません」とぺこぺこ
 部下に注意されると「生意気な」ということになる。
 自分自身体験したことで、わかりやすく象徴的に書いている。誰にでも経験するという意味で。

> >  さて貴方は、今や「気づき」を実現してるので、もし、仮に若い人から注意を受けても、動揺しない。平常心を保つということでしょうか。
>
> ええと若い人というのは確かにいます。しかしそれは新参者、目下のもの、若輩という意識あるいは観念なしです。

 ことわっておきますが、あなたがKに出会う前の話を聞いている。上記の経験は誰でもあるはず。
 Kに出会ってから、「分別」はなくなったというのではお互いの検討に成りません。
 よくある「気づき人」と「気づかない人」との対話に成りがち。同じ「土俵」ではない。
 あなたは社会生活におくっていた時、そういった「分別」はないということですか。たとえば「男」「女」の区別なく。「若輩」「先輩」の区別なく。
 私の知人は、定年後あるところに就職したが、若い社員から、手取り足取り基礎から教えられたと言う。「内心」屈辱だったとその人は言う。ときにはその若い奴に怒鳴られて。
 あなたはそういったこととは無縁のようだ。

> 私には子供もいるし、孫もいるし、ひ孫もいます。彼らも世の人のほとんどが確かに若い。それだけです。

 そうですか。随分達観しましたね。同じ人でも、「身内」と「それ以外の人」では対応がかわるはずだが。

> だから何か言われたたらその事を考えます、もっともなこともあるし、誤解もあるし、いろいろあるでしょうが、まじめに受け取るべきだと思ったことは考えて返事するだけです。

 そうですか。別に感情を乱すことはないと。
>
> >  分かりやすい例を言いうと、あなたは仮に釣りが未熟だとする。(あくまでたとえ。実際はわかりません。)釣りが上手な若い人にああだこうだ指摘を受けたとする。どう反応するか。これは釣りに限らず将棋でも何でもいいです。
>
> 私が下手なことは釣りをやっている人が少し見ればわかるでしょう。うまい人は普通自分からは声をかけないと思います。しかしもし声をかけてくれれば黙って聞きます。

 仮によその人から「おたく釣りを何年やってんの。いつまでたってうまくならないね」
 あなたは、黙って聞く。
 私は、そのことを言われたら、内心腸(はらわた)が煮えくり返ります。
文字ドウリ虫酸が走る。
 (あくまで、極端なケースをいってます。あしからず)
>
> >  あなたは人を、「若い」「中年」などと判別しないで受け取るということでしょうか。私なら人を見て反応する。

 そうです。若い女性から、注意を受けると腸が煮えくり返る。
 「何をこのアマ!」という感じ。
 同僚なら、何も言わない。
>
> 若いとか、中年はよくわかる実際のことと結びついています。
> 反応の仕様がありません。

 そうですか。それでは検討のしようはないですか。
 怒りに直面するということを検討しようとしても、あなたに「怒り」がないというのでは検討できません。
 そういうのは、実際に修羅場を経験しないと検討できないかもしれません。
>
> >  自分の若輩なのに、明らかにその人は悟っていると見る時、自分は力量不足でまだ悟りには程遠い。そのとき「やっかみ」が起きるかどうか。こいつわかいくせに。これも比較の論理ですが。

  読書会に参加したときのこと。何もかもわかっていると思われる人がいて、思わず「やっかみ」を感じたものです。
 「こいつ、若いくせに悟ったやがる」と。自身のかけがえのなさのあらわれでもあります。

 今日はここまで。後半の部分は、後日




[24022] 直感、ひらめき 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/07/01(Sat) 09:47  

 藤井4段の活躍で、将棋の話題がテレビや新聞でとりあげられるようになった。
 昨日のテレビでは、直感とか、直観という話になって、ある人がそれはどういったものか。プロの棋士に質問したが明確な答えは出ずじまい。
 直感とはひらめき、インスピレーションなのか、あるいは過去の経験記憶なのか、ひらめきとは思考の産物なのか?今イチわからない。プロでも。
 Kにいわせれば、それらはすべて過去の経験記憶であり、思考の産物なのだろうか?
 では「新しい」というのはどういうことなのか。単に名付けたら「過去」になる。それだけの話?
 自分自身、アマの二段までしかいかなかったヘボ将棋だが、体験によると、色々頭に浮かんだ手を選択して指すという感じ。プロの頭の中は、当然それ以上。なにしろ目隠しで、1局指してしまうのだか凄い。(実際現場で見たことがある。)
 結局、記憶力、判断力の勝負なのだろうか?その中で「直感」(直観)とは何か?


[24021] Re:[24020] [24016] [24014] [24011] [24010] 「最初で最後の自由」 投稿者:ゴト 投稿日:2017/06/30(Fri) 15:32  

> > >  独特の用語というのは、「観察者」「条件づけ」「私」などで、他の精神世界の本にはないものです。
> > >  いきなりその言葉が出たとき、意味がわからないでしょう。その意味は本の中で解説していますが。いきなりその言葉を目にしてもわからない。
> >
> > 解説者も条件付けも「私」も日常用語で特別なことではないです。
>
>  あなたはそうかもしれません。Kの翻訳をやり言葉に慣れている。しかし、私や周りの日常生活では出てきません。

では分からないなりに先を聴くか、読書会で質問するとかすればいい。

>  それと私ですが、Kのいう「私」と、日常で使う私とは違います。Kのいう「私」が日常で出てくる筈がない。

「私」とカッコ付けしてあるから、なんか特別の意味を込めて言っているなとその場で直感するしかない。

>
> > >  白紙で聞くということですが、その人の自己流の解釈になりがちになる。人には各自の経験がそれぞれ違う。
> >
> > だから経験なしに白紙で聞く。そうすれば個人的色合いがなく自己流解釈がありえなくなる。解釈そのものができず、ただ聞く、読むになる。なかなかそうはいかないので、反応する。反応が出ると気づくなら素晴らしい。自分の条件付けがわかる。
>
>  各自が、Kの講話を白紙で聞いても、それぞれ見方、感じ方、考え方が違うのではないですか。
>  たとえば「あるがまま」という言葉がある。人によって解釈が違う。
>  思うがままに行為をするという人と、思考なしに行為をする人、というように見解がわかれる。
>  それは今までそれぞれ生きてきた過程が違うからでもあるし、理解力の違いでもある。

ではそのように聞く。

>  ただ聞くはいいが「あるがまま」という意味が今いちわからないというのが反応。
>  意味がわかれば,次に進める。

読書会ならだれかが読んでいるからとりあえず聞く。
自分が本を読んでいるなら考え抜くなり、放り出すなり、好きなようにする。

> > >  それと観察者。条件づけなど、学校で習ったことないから、普通の人にはわからないでしょう。何のことやら。
> >
> > 観察ぐらいはだれでも知っているし、
>
>  小学校のとき、理科の実験をしてますから、観察するという意味は誰でも知っています。
>
> >観察者は文字通り観察する者、それぐらいの応用力がなきゃ。
>
>  普通の人は全く知りません。精神世界関係でも出てこない。断言します。

しょうがない。わからない時に出来ることをするしかない。

> >条件付けなんて高校生なら間違いなく知っていると思うよ。
>
>  まったく知りません。普通の人も知らない。100%断言します。

>  試しに人に聞いてみたらどうですか。100人100人知らないと言うでしょう。ましてや日常で使うことではない。
>  全部「心理用語」です。「条件づけ」「私」「観察者」というのは。

言葉は心理が絡んでいる場合が多数ある。それは子供の時から学んでいる。


>  私たちの日常で,心理的話が出た試しはない。

馬鹿野郎と言われれば心理がすぐわかる。それゆえカッとする。

> > >  あなたのおっしゃりたいことは、Kの講話を聞くとき、自身の意見、考え方をいったん棚上げして疑問もはさまずに、一心に聴くということでしょう。それを白紙といっている。
> >
> > そうです。
>
>  そういった心構えで聞く。はじめからそうできる人はまれ。それほどKの講話、Kの読書は高度な集中力が要求される。

そうできない事が分かれば正直に自分にはできないなと分かればいい。すでに自分を学んでいる。

>  疲れたとき、眠い時に彼の本を読んでも議論についていくのが難しい。彼の本は読者に何よりも「目覚めた」意識状態を要求される。

その時は途中でいつの間にか眠ってしまう。目が覚めてからまた読めばいい。

>  (年配者には、根気がなく、長時間読むにはつらいものがある)
> >
> > >  そのことと、用語の解説とは別な事柄です。
> >
> > だから読むときに必要ではありません。ここはいいですか?
>
>  読むときに用語の解説は必要ないということでしょうか。あったとしたらその方が親切ではないでしょうか。形而上な難しいことが多すぎるので。

読書会なら後で聞けばいいし、一人で読んでいるなら、好きなように検討すればいい。
原文を訳すと、Kが説明がちょっと足りないかなと思うともう一言付け足してわかるようにし、先に進むという事がよくわかる。そのレベルに合わないとわかりにくい。

>  だから、Kの読者は、それぞれ自己流の解釈になる。

それで分かったつもりなら分かったと言えばいい。つじつまが合わないで変だなあと感じるなら、また考え直せばいい。

>  読む時に予備知識がないといくら読んでもわからないでしょう。いいですか。たとえば中学程度の学力では理解出来ないと言うことです。

それならKは高校以上の人を対象にしているなと理解すればいい。

>  一言で「聞く」といいますが、話し手にも、人にわかりやすく伝えるというのがある。誤解をまねかないよう。

しかし深遠なことはそうもいかない。学生は質問したり、仲間で調べあったり、参考書を読んで試験に臨むしかない。人に伝えるというのはよく理解できないならするべきでない。

>  講演者は、聞く人のレベルによって内容を代えると聞くが、Kはその点どうなのだろうか。

わかっていないと感じれば言い方を変えたり、話題を転じてまたわかるように話しなおしたりしているようです。

>  実はKの未訳に、ペンギンリーダーのように、わかりやすく初心者に向けての会話があるみたいです。

それは読んだことがない。だが「最初で最後の自由」でも難しくてわかりにくい章と比較的わかりやすい章はある。
意味が分かっても、今まで美徳とされていた多くのことが偽物で何の価値もないと言われて否定されるのでわけが吞み込めないし、従来の徳と言われたことは大きな価値があるとしか思えない人がたくさんいるだろう。しかも反対が主張されるのではなく、反対は同類でしかないと言われるから、単純な二者択一の観念しかない人は理解できなくなる。

そういう人には理解が困難だろう。わかりやすいところから、何かこの人は従来に例のないことを言っていると思い、理解したいという情熱を持つ人でないと縁がないことになる。


[24020] Re:[24016] [24014] [24011] [24010] 「最初で最後の自由」 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/06/30(Fri) 11:46  

> >  独特の用語というのは、「観察者」「条件づけ」「私」などで、他の精神世界の本にはないものです。
> >  いきなりその言葉が出たとき、意味がわからないでしょう。その意味は本の中で解説していますが。いきなりその言葉を目にしてもわからない。
>
> 解説者も条件付けも「私」も日常用語で特別なことではないです。

 あなたはそうかもしれません。Kの翻訳をやり言葉に慣れている。しかし、普通の人の日常生活にはそういう言葉は一切出てきません。
 それと私という言葉ですが、Kのいう「私」と、日常で使う私とは違います。Kのいう「私」が日常で出てくる筈がない。
 日常で使う私は自分自身のこと。
 Kの言う私は、過去の経験記憶一切喝采。いわゆる精神活動全般。

> >  白紙で聞くということですが、その人の自己流の解釈になりがちになる。人には各自の経験がそれぞれ違う。
>
> だから経験なしに白紙で聞く。そうすれば個人的色合いがなく自己流解釈がありえなくなる。解釈そのものができず、ただ聞く、読むになる。なかなかそうはいかないので、反応する。反応が出ると気づくなら素晴らしい。自分の条件付けがわかる。

 各自が、Kの講話を白紙で聞いても、それぞれ見方、感じ方、考え方が違うのではないですか。
 たとえば「あるがまま」という言葉がある。人によって解釈が違う。
 思うがままに行為をするという人と、思考なしに行為をする人、というように見解がわかれる。
 それは今までそれぞれ生きてきた過程が違うからでもあるし、理解力の違いでもある。
 ただ聞くはいいが「あるがまま」という意味が今いちわからないというのが反応。
 意味がわかれば,次に進める。
>
> >  それと観察者。条件づけなど、学校で習ったことないから、普通の人にはわからないでしょう。何のことやら。
>
> 観察ぐらいはだれでも知っているし、

 小学校のとき、理科の実験をしてますから、観察するという意味は誰でも知っています。

>観察者は文字通り観察する者、それぐらいの応用力がなきゃ。

 普通の人は全く知りません。精神世界関係でも出てこない。

>条件付けなんて高校生なら間違いなく知っていると思うよ。

 まったく知りません。普通の人も知らない。ましてや私たちが普通日常で使う言葉ではない。全部「心理用語」です。「条件づけ」「私」「観察者」。私たちの日常では心理的話が出た試しはない。
>
> >  あなたのおっしゃりたいことは、Kの講話を聞くとき、自身の意見、考え方をいったん棚上げして疑問もはさまずに、一心に聴くということでしょう。それを白紙といっている。
>
> そうです。

 そういった心構えで聞く。はじめからそうできる人はまれ。それほどKの講話、Kの読書は高度な集中力が要求される。
 疲れたとき、眠い時に彼の本を読んでも議論についていくのが難しい。彼の本は読者に何よりも「目覚めた」意識状態を要求される。
 (年配者には、根気がなく、長時間読むにはつらいものがある)
>
> >  そのことと、用語の解説とは別な事柄です。
>
> だから読むときに必要ではありません。ここはいいですか?

 自身の意見はいったんおいといて話を聞くということであり、用語の意味とは別な事柄です。
 それで読むときは用語の解説は必要ないということでしょうか。あったとしたらその方が親切ではないでしょうか。形而上な難しい言葉が多すぎるので。いかようにも意味がとれてしまう。
 だから、Kの読者は、それぞれ自己流の解釈になる。100人から100人の解釈が。
 たとえば awareness に対して、正しい意味にとらえている人がどれだけいますか。

 読む時に予備知識がないといくら読んでもわからないでしょう。たとえば中学程度の学力では理解出来ないと言うことです。

 一言で「聞く」といいますが、話し手にも、人にわかりやすく伝えるというのがあります。誤解をまねかないよう。
 ある講演者は、聞く人のレベルによって内容を代えていると聞くが、Kはその点どうなのだろうか。
 実は、Kの未訳に、ペンギンリーダーのように、わかりやすく初心者に向けての会話があるみたいです。未確認ですが。「四季の瞑想」を読む限り。
 「あれっこんなこといってんの」。という感じ。初心者にまず,ノートに書きなさいというのもそうでしょう。
 はじめは、気づきは1分でいい、というのもそうです。人によって応対がことなるようで。
 瞬時瞬時気づく、ということが、はじめからできるということなら、誰も苦労しない。
 この「気づき」に関しては、他の章でやりましょう。
 誰でも、できるということをあなたはいいたいのかもしれないが、それでは、何で、クリシュナムルティの気づきはむづかしいなどと世間に流付されているのだろうか?
 片方は簡単?片方はむずかしい?




[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31] [32] [33] [34] [35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58] [59] [60] [61] [62] [63] [64] [65] [66] [67] [68] [69] [70] [71] [72] [73] [74] [75] [76] [77] [78] [79] [80] [81] [82] [83] [84] [85] [86] [87] [88] [89] [90] [91] [92] [93] [94] [95] [96] [97] [98] [99] [100]

処理 記事No 暗証キー
- LightBoard - Modified by isso