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[25394] Re:[25390] [25385] [25381] [25376] [25373] 既知からの自由 1−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/09(Sat) 11:30  

> > > > > [人間の探求・苦悶する心]
> > > > >
> > > > > 人間はどの時代にも自分自身を超え、物質的な幸福を超えた何かを ― 真理とか神とか真の実在と呼ぶ何か、時間のない状態 ― 環境や思考や人間の堕落によってかき乱されない何かを求めてきました。
> > > >
> > > > ウーム、これは西洋の有閑階級の心理なのかな? 哲学青年的な感じもする。
> > >
> > >
> > >  もっと身近に見渡すと、多くの家に仏壇や神棚があるのではないだろうか。手入れを要する墓も有していないだろうか。
> > >
> > >  死後の世界を信じていないだろうか。先だった人があの世で待っていると期待していないだろうか。
> > >
> > >  これらが、>人間はどの時代にも自分自身を超え、物質的な幸福を超えた何かを ― 真理とか神とか真の実在と呼ぶ何か、時間のない状態 ― 環境や思考や人間の堕落によってかき乱されない何かを求めてきました。−−、これに当てはまるのではないでしょうか。。
> > >
> > >  それゆえに、自身の死後に、その中心が存続すると期待していないだろうか。
> > >
> > >
> > > > >  人間は常にこう問うてきました。すべては何なのでしょうか? 生は一体何か意味を持つのでしょうか? 巨大な生の混乱、残虐、反抗、戦争、宗教とイデオロギーと国家の果てしない分裂を見、深い永久的な挫折感をもって人間は問います。なすべきことは何でしょうか、私たちが生と呼ぶこのものは何でしょうか、それを超える何かがあるのでしょうか?
> > > >
> > > > 貧乏青年の文句のような感じになった。
> > >
> > >
> > >  人は、明るいことは良いことで暗いことは悪いことだという優劣判断・価値判断を有していないだろうか。
> >
> >
> > はい、有しています。そこに大きな共通部分と条件付けによる差異もあります。
> >
> > >  貧乏青年の文句は、現にあるものを言い当てているのだろうか、それとも誇張なのだろうか。
> > >
> > >  これが誇張ではなく、現にある事実関係であることを見ることが、>深い永久的な挫折感をもって人間は問います。なすべきことは何でしょうか、私たちが生と呼ぶこのものは何でしょうか、それを超える何かがあるのでしょうか?−−、この「問い」を生むのではないでしょうか。
> >
> > そうかもしれない…。
> >
> > >  そして、この「問い」から>人間はどの時代にも自分自身を超え、物質的な幸福を超えた何かを ― 真理とか神とか真の実在と呼ぶ何か、時間のない状態 ― 環境や思考や人間の堕落によってかき乱されない何かを求めてきました。−−、この希求が始まるのかもしれません。
> >
> > はい。とにかくこの希求が実際にあることは否めない事実です。
> >
> > >  このモチベーションが、クリシュナムルティ理解への取り組みにおいて不可欠ではないでしょうか。
> >
> >
> > うーん、ちょっとわかりません。苦悩から入るという事もあるかも。
>
>
>  ブッダの時代を憶測してみると、苦悩人の割合が今よりもだいぶ高かったのではないかと思います。
>
>  ブッダ存命中から、多くの弟子や信奉者を有していた。そして死後、瞬く間に広大な地域に広がり世界的宗教となった。
>
>  これに比して、クリシュナムルティの場合は音声記録や映像記録の活用、飛行機等の交通機関での移動等、ブッダよりも活動しやすい環境にも関わらず、娯楽人の割合がだいぶ高いために、クリシュナムルティの音声記録や映像記録(あるいはそれをまとめた文献)を見る者は少ないのではなかろうか。
>
>  ブッダの時代もクリシュナムルティの時代も一長一短あるのかもしれません。


娯楽人の割合が今は増えている ― 実に簡潔でぴったりした表現だなあ、面白い。つまり生活レベルが変わってきている。それが何を意味するかはまだよくわからないが…。

>
> > >  そのような意味においては、暗いことは劣り明るいことが優れているという価値判断は、真理ではなく、深い条件付けではなかろうか。。
> >
> > 真理という本体があるのかどうかは、まだ分からないこと。人類の共同確信としてのみあるという事ではないか? 価値判断は共同確信としてあるが、深いところに条件付けがあり、差異があって混乱しているのではないだろうか?
>
>
>  断片化している中心にとっては、分別として比較と非難・正当化は避けえないのかもしれません。
>
>  ただし、客観的に見ることは難しいことではないように思います
>
>  北朝鮮の指導部が、明るさをモットーに生きていて、その醜さを見ることは難しいことではないのでは。。
>
>  奴隷制度時代のアメリカでの白人の明るさ。
>
>  男尊女卑時代の本国(戦前)の男性の明るさ。
>
>  飢餓人のそばを通りすがる先進諸国観光客の明るさ。
>
>  明るいことは暗いことより優れているのか。
>
>  例えば、仮に、もしも、ゴトさんの母が戦争で亡くなってしまっていたとしたら・・。
>
>  今のゴトさんと異なるゴトさんになっていたのではないでしょうか。。
>
>  その場合において、そのどちらのゴトさんにおいても、優劣の差異はないのではないでしょうか。
>
>  あるのでしょうか。。


昼と夜という意味での明暗は、夜行性動物を除いて、夜は不安な時間帯で、朝が来るとホッとするのが実際でしょう。しかし人間は文明のせいで、現代はそういう事はなくなった。

ソクラテスのころのギリシャは文明の夜明けと言われるが、当時の都市国家の市民は奴隷制の上に成り立っていた。女性も奴隷並みに取り扱われ、その人たちの気持ちはあまり歴史に残っていない ― これは暗の部分か? ユダヤ教、キリスト教はその暗の部分から発生した宗教なのだろうか?

人間は育つ過程で、様々な幸、不幸に出会う。これもどうしようもない明暗か?

それを意識するとき、人は宗教に向かうのか?

>
> > >  そのような無意識下の条件付けは、クリシュナムルティを鏡として照らし出されるように見受けられます。
> >
> > はい。 
> >
> > >
> > > > >  そして常に求めてきた多くの名前を持つこの名称のないものを見出すことなく、信仰を ― 救世主や理想に対する信仰をはぐくんできました ― そして信仰は不可避的に暴力を生みます。
> > > >
> > > > 信仰は組織化されると内部の派閥争い、信者に対する異端審問、異教間の対立・宗教戦争・民族間の戦争を生んだ。
> > > >
> > > > >  生と呼ぶこのたえざる戦いの中で、共産主義社会であれ、いわゆる自由主義社会であれ、私たちは自分が育てられた社会に従って行動の基準を定めようとします。私たちはヒンドゥ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、あるいはたまたま何であろうがその教徒としての自分たちの伝統の一部として、行動の規範を受け入れます。何が正しく何が間違った振る舞いか、何が正しく何が間違った考えか教えてくれる誰かを当てにします。そしてこの様式に従う中で、私たちの行為と思考は機械的になり、反応は自動的になります。この事は自分自身の中に非常に容易に観察できます。
> > > >
> > > > 非常に容易に観察できる…ここは引っかからないです。
> >
> > ただし今疑問が起きました。宗教の規範も人類が生み出したものです。これが間違っているかどうかを審問しなければならないのか?、それとも自分で考えないで受け入れることが悪いのか? この二つは違っているのか、同じことなのか?
>
>  自分で考えて受け入れることは、学校教育や家庭教育では否定されます。
>
>  「なんで、先生の言うことが聞けないのか・・!!」
>
>  「どうして、親の言う事に反抗するのか・・!!!バシッ・・      」
>
>
>  したがって、一旦条件づけられた精神を、自身によって解放することが肝要と思います。
>
>  自身による再教育。。


なるほど。しかし学校教育は子供にとって親や社会から強制されるものですが、宗教は成人が自分で考え、主体性と自由意志でその道に進むという事がありそうです。しかし確かに宗教ですら、親や社会によって子供の時から放り込まれるというとがあるでしょうね。その条件付けから自由になることはひどく難しそうです。

>
> > > > >  何世紀もの間、私たちは教師や権威、書物や聖者によって匙で食べさせてもらってきました。私たちは「それについて全部教えてください ― あの丘や山や大地の向こうには何があるのでしょうか?」と言い、彼らの説明で満足しますが、それは私たちが言葉で生きており、私たちの生は浅薄で空虚ことなことを意味します。私たちは受け売り人間なのです。自分の傾向、性癖によって誘導されるか、あるいは境遇と環境によって受け入れるよう強制されるかのどちらかで、教えられたものを頼りにして生きています。私たちはあらゆる種類の影響の結果であり、私たちの中に新しいものは何もなく、自分自身で発見したものは何もありません。独創的で、本来の純粋さを保った明確なものは何もないのです。
> > > >
> > > > 人類にはガリレオやコペルニクスやレオナルド・ダ・ヴィンチ(隠れて解剖図を描いた)、ほか数々の天才を生んだ。誰もが天文学や解剖学に通じる必要はない。そのことはそのこととして、自分でしっかり考えなければならないことも確かにある。とまあ私はそう思うのだが、そこで何を明確に自分で考えなければいけないのか、また人類はどう動いているのか、自分で考えたことはあるのかな。それともKの本をもっと読んだ方がいいのかな。
> > >
> > > > >  神学の歴史を通じて、もし私たちがある儀式を行ない、ある祈りやマントラを繰り返し、ある型に従い、欲望を抑え、思考を制御し、情熱を昇華させ、食欲を制限し、性的な放縦を慎むなら、心と肉体の十分な苦悩の後で、この小さな生を超越した何かを発見するだろうと、宗教的指導者によって保証されてきました。そしてそれは何百万のいわゆる宗教的な人が長年の間、行ってきたことです。孤立して、砂漠や山や洞窟に入ったり、村から村へ托鉢の旅を続けたり、あるいは集団で修道院に入り、確立した型に従う事を自分の心に強いたりしました。しかし苦悶する心、打ちひしがれた心、すべての混乱から逃れることを望む心、規律と順応を通じて鈍くされた心 ― このような心は、どれほど長く求めても、それ自体の歪みに従って見出すだけでしょう。
> > > >
> > > > ここは今のところ引っかかりません。
> > > > >
> > > > > (続く)
> > >
> > >
> > >  私も、今のところ、引っかかりません。
> > >
> > >  それよりも、やくざの世界で生まれ育った幼子が、周囲のやくざの教えを受けて育つ様を見させて貰ったような、強烈な印象を受けました。
> > >
> > >  人類とは、そのように育つ脳を有しているようです。
> >
> > はい。家族で受け継がれていく部分と、社会からの影響を受けて変わって行く部分のある集団的生き物ですが、個人の主体性と自由というものはあるのか、どうなのか?その辺の関心を持って読んでいきます。
> >
> > >  ただ、先進諸国の人々は、それに気づかずに、明るさをモットーに、やくざをしているようです。10億人の飢餓人を足下に置いて。
> >
> >
> > 先進国も世界の文明、社会がどんどん変わっていきますから、いやおうなしに新たな問題に突き当たります。
>
>
>  はい。


人は社会に順応する親によって育てられますが、その時物事を自分で考える、あるいは慣習を自分でよく審問することを教えることが必要ですね。


[25393] 初めは誰かをあてにする 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/09(Sat) 11:25  


>
> マインドの働きは今のところブラックボックスで、人間にはわからないでいるというのが現実ではないかと思う。マインドが生む思考、感情、洞察などは気づくことができる。主観的にですが。しかし他者の言動や振る舞いから、他者も同じように感じているという共同の確信を持っているだけだが。
>
> >何が正しく何が間違った振る舞いか、何が正しく何が間違った考えか教えてくれる誰かを当てにします。そしてこの様式に従う中で、私たちの行為と思考は機械的になり、反応は自動的になります。この事は自分自身の中に非常に容易に観察できます。
>
> ここから出発しましょう。

ここも議論が必要。私たちは人生にいきずまったとき、誰かの助けを借りたいと思うだろう。どうやって生きたらいいか。そこで本屋で、ヒントが得られそうな本を探そうとする。
要するにはじめは誰かをあてにする。


[25392] Re:[25388] 既知からの自由1−2 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/09(Sat) 11:14  

> [伝統的接近法・世間体という罠]


伝統的接近法?いきなり難しい言葉がでてきましたね。
大野さんや十菱さんの本によると、ここはアプローチになってます。私としてはこの方がピンとくる。この意味は接近する。

>
> それゆえ、この不安な、やましい、恐ろしい、競争的な生活を超えた何かが実際にあるかどうかを発見するには、全く完全に異なる接近をしなければならないと私には思われます。伝統的接近法は周辺から内部へであり、時間と訓練と放棄を通じて、徐々にあの内面の花、あの内面の美と愛に出会う事です ― 事実としては自分自身を狭い、とるに足らない、つまらないものにするためにあらゆることをすること、少しづつ脱皮し、時間をかけ、明日はやろう、次の生はやろうという事です ― そしてついに中心に達するとき、人はそこには何もないことを見出します。なぜなら心は無能力に、鈍く無感覚にされてしまっているからです。

ここは伝統的な方法。例えば禅などの修行方式をを否定しているのでしょうか。世間でいう練習、訓練、メソッドなども当てはまるでしょうか。つまりある目的を果たすための方法。



>
>  この過程を観察して、人は自分自身に問います、全く違う接近法はないだろうか ― すなわち、中心から爆発することはできないだろうか?と。
>
>  世界は伝統的な接近法を受け入れ従います。私たち自身の中の無秩序の主要な原因は他人によって約束された実在を探し求めることです。私たちは快適な精神生活を保障してくれる誰かに機械的に従います。私たちの大部分は政治的圧政と独裁には反対しますが、心と生き方を歪める他人の権威、圧政を内面的には受け入れるという事は、もっとも驚くべき事です。ですからもしすべてのいわゆる精神的権威、すべての式典、儀式及び教義を完全に拒絶するなら、それは私たちが一人で立ち、既に社会と一致しないことを意味します。私たちは世間が尊敬する人間であるのをやめます。世間が尊敬する人間はあの無限の、計り知れない、実在に近づくことは到底できません。

ここは宗教団体のあり方を否定しているのでしょうか。教祖や教師、グルの言う通りやれば心の平安は約束される。
悩みや苦しみを脱去するためには偉い人、あるいは悟った人の話を聞く、あるいは本を読む。
>
>  あなたは今や絶対的に虚偽であるもの ― 伝統的接近法 ― を否定することによって出発しました。

伝統的接近法は「虚偽」と断定している。仏教の信仰者、座禅をやるものにとっては頭の痛いところだろう。人によっては反発する。
なお渡辺氏は今持って「接心」なるものを続けている。

>しかしもし反発としてそれを否定するならあなたはもう一つの型を創り出していて、その罠にはまるでしょう。この否定は非常にいい考えだと知的に自分自身に告げてもそれについて何もしないなら、それ以上少しも行くことはできません。けれども、その愚かさと未熟さを理解するのでそれを否定するならば、あなたが自由であって怖れていないので、


>それを途方もない英知で拒絶するならば、

途方も無い英知?


<自分自身の中とあなたの周りに大きな動揺を引き起こすでしょうが、だがあなたは世間体の罠から抜け出すでしょう。その時あなたはもはや求めてはいないことを見出すでしょう。それが学ぶべき最初のことです。 ― 求めないことが。求める時は、実はウィンドーショッピングをしているに過ぎないのです。

ここは議論がいるところです。
求めないというのはどういうことか。無目的ということか。
>
> (続く)


[25391] 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/09(Sat) 10:37  

> クリシュナムルティはゴチャゴチャ難しいことを述べていたが、結局愛があればいい、優しければいいんだよということに過ぎない。

はい。おっしゃるとおり。
結局クリシュナムルティは「愛」を説いているということです。
もちろんこの愛というのは俗的な世間的な愛でないことは言うまでもありません。元々生物が持っている交換作用(コミニュケーション作用)。人間以外の動物はそれで生きていますが、残念ながら人間は思考が邪魔をしているということです。思考のベールが取れると自ずと「愛の作用」が現れる。

蛇足ながらかって飯尾氏はクリシュナムルティの欠点は「しゃべりすぎ」だと言ってました。
言葉が多いと解釈が増える。金言です。


[25390] Re:[25385] [25381] [25376] [25373] 既知からの自由 1−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/09(Sat) 07:49  

> > > > [人間の探求・苦悶する心]
> > > >
> > > > 人間はどの時代にも自分自身を超え、物質的な幸福を超えた何かを ― 真理とか神とか真の実在と呼ぶ何か、時間のない状態 ― 環境や思考や人間の堕落によってかき乱されない何かを求めてきました。
> > >
> > > ウーム、これは西洋の有閑階級の心理なのかな? 哲学青年的な感じもする。
> >
> >
> >  もっと身近に見渡すと、多くの家に仏壇や神棚があるのではないだろうか。手入れを要する墓も有していないだろうか。
> >
> >  死後の世界を信じていないだろうか。先だった人があの世で待っていると期待していないだろうか。
> >
> >  これらが、>人間はどの時代にも自分自身を超え、物質的な幸福を超えた何かを ― 真理とか神とか真の実在と呼ぶ何か、時間のない状態 ― 環境や思考や人間の堕落によってかき乱されない何かを求めてきました。−−、これに当てはまるのではないでしょうか。。
> >
> >  それゆえに、自身の死後に、その中心が存続すると期待していないだろうか。
> >
> >
> > > >  人間は常にこう問うてきました。すべては何なのでしょうか? 生は一体何か意味を持つのでしょうか? 巨大な生の混乱、残虐、反抗、戦争、宗教とイデオロギーと国家の果てしない分裂を見、深い永久的な挫折感をもって人間は問います。なすべきことは何でしょうか、私たちが生と呼ぶこのものは何でしょうか、それを超える何かがあるのでしょうか?
> > >
> > > 貧乏青年の文句のような感じになった。
> >
> >
> >  人は、明るいことは良いことで暗いことは悪いことだという優劣判断・価値判断を有していないだろうか。
>
>
> はい、有しています。そこに大きな共通部分と条件付けによる差異もあります。
>
> >  貧乏青年の文句は、現にあるものを言い当てているのだろうか、それとも誇張なのだろうか。
> >
> >  これが誇張ではなく、現にある事実関係であることを見ることが、>深い永久的な挫折感をもって人間は問います。なすべきことは何でしょうか、私たちが生と呼ぶこのものは何でしょうか、それを超える何かがあるのでしょうか?−−、この「問い」を生むのではないでしょうか。
>
> そうかもしれない…。
>
> >  そして、この「問い」から>人間はどの時代にも自分自身を超え、物質的な幸福を超えた何かを ― 真理とか神とか真の実在と呼ぶ何か、時間のない状態 ― 環境や思考や人間の堕落によってかき乱されない何かを求めてきました。−−、この希求が始まるのかもしれません。
>
> はい。とにかくこの希求が実際にあることは否めない事実です。
>
> >  このモチベーションが、クリシュナムルティ理解への取り組みにおいて不可欠ではないでしょうか。
>
>
> うーん、ちょっとわかりません。苦悩から入るという事もあるかも。


 ブッダの時代を憶測してみると、苦悩人の割合が今よりもだいぶ高かったのではないかと思います。

 ブッダ存命中から、多くの弟子や信奉者を有していた。そして死後、瞬く間に広大な地域に広がり世界的宗教となった。

 これに比して、クリシュナムルティの場合は音声記録や映像記録の活用、飛行機等の交通機関での移動等、ブッダよりも活動しやすい環境にも関わらず、娯楽人の割合がだいぶ高いために、クリシュナムルティの音声記録や映像記録(あるいはそれをまとめた文献)を見る者は少ないのではなかろうか。

 ブッダの時代もクリシュナムルティの時代も一長一短あるのかもしれません。


> >  そのような意味においては、暗いことは劣り明るいことが優れているという価値判断は、真理ではなく、深い条件付けではなかろうか。。
>
> 真理という本体があるのかどうかは、まだ分からないこと。人類の共同確信としてのみあるという事ではないか? 価値判断は共同確信としてあるが、深いところに条件付けがあり、差異があって混乱しているのではないだろうか?


 断片化している中心にとっては、分別として比較と非難・正当化は避けえないのかもしれません。

 ただし、客観的に見ることは難しいことではないように思います

 北朝鮮の指導部が、明るさをモットーに生きていて、その醜さを見ることは難しいことではないのでは。。

 奴隷制度時代のアメリカでの白人の明るさ。

 男尊女卑時代の本国(戦前)の男性の明るさ。

 飢餓人のそばを通りすがる先進諸国観光客の明るさ。

 明るいことは暗いことより優れているのか。

 例えば、仮に、もしも、ゴトさんの母が戦争で亡くなってしまっていたとしたら・・。

 今のゴトさんと異なるゴトさんになっていたのではないでしょうか。。

 その場合において、そのどちらのゴトさんにおいても、優劣の差異はないのではないでしょうか。

 あるのでしょうか。。


> >  そのような無意識下の条件付けは、クリシュナムルティを鏡として照らし出されるように見受けられます。
>
> はい。 
>
> >
> > > >  そして常に求めてきた多くの名前を持つこの名称のないものを見出すことなく、信仰を ― 救世主や理想に対する信仰をはぐくんできました ― そして信仰は不可避的に暴力を生みます。
> > >
> > > 信仰は組織化されると内部の派閥争い、信者に対する異端審問、異教間の対立・宗教戦争・民族間の戦争を生んだ。
> > >
> > > >  生と呼ぶこのたえざる戦いの中で、共産主義社会であれ、いわゆる自由主義社会であれ、私たちは自分が育てられた社会に従って行動の基準を定めようとします。私たちはヒンドゥ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、あるいはたまたま何であろうがその教徒としての自分たちの伝統の一部として、行動の規範を受け入れます。何が正しく何が間違った振る舞いか、何が正しく何が間違った考えか教えてくれる誰かを当てにします。そしてこの様式に従う中で、私たちの行為と思考は機械的になり、反応は自動的になります。この事は自分自身の中に非常に容易に観察できます。
> > >
> > > 非常に容易に観察できる…ここは引っかからないです。
>
> ただし今疑問が起きました。宗教の規範も人類が生み出したものです。これが間違っているかどうかを審問しなければならないのか?、それとも自分で考えないで受け入れることが悪いのか? この二つは違っているのか、同じことなのか?

 自分で考えて受け入れることは、学校教育や家庭教育では否定されます。

 「なんで、先生の言うことが聞けないのか・・!!」

 「どうして、親の言う事に反抗するのか・・!!!バシッ・・      」


 したがって、一旦条件づけられた精神を、自身によって解放することが肝要と思います。

 自身による再教育。。


> > > >  何世紀もの間、私たちは教師や権威、書物や聖者によって匙で食べさせてもらってきました。私たちは「それについて全部教えてください ― あの丘や山や大地の向こうには何があるのでしょうか?」と言い、彼らの説明で満足しますが、それは私たちが言葉で生きており、私たちの生は浅薄で空虚ことなことを意味します。私たちは受け売り人間なのです。自分の傾向、性癖によって誘導されるか、あるいは境遇と環境によって受け入れるよう強制されるかのどちらかで、教えられたものを頼りにして生きています。私たちはあらゆる種類の影響の結果であり、私たちの中に新しいものは何もなく、自分自身で発見したものは何もありません。独創的で、本来の純粋さを保った明確なものは何もないのです。
> > >
> > > 人類にはガリレオやコペルニクスやレオナルド・ダ・ヴィンチ(隠れて解剖図を描いた)、ほか数々の天才を生んだ。誰もが天文学や解剖学に通じる必要はない。そのことはそのこととして、自分でしっかり考えなければならないことも確かにある。とまあ私はそう思うのだが、そこで何を明確に自分で考えなければいけないのか、また人類はどう動いているのか、自分で考えたことはあるのかな。それともKの本をもっと読んだ方がいいのかな。
> >
> > > >  神学の歴史を通じて、もし私たちがある儀式を行ない、ある祈りやマントラを繰り返し、ある型に従い、欲望を抑え、思考を制御し、情熱を昇華させ、食欲を制限し、性的な放縦を慎むなら、心と肉体の十分な苦悩の後で、この小さな生を超越した何かを発見するだろうと、宗教的指導者によって保証されてきました。そしてそれは何百万のいわゆる宗教的な人が長年の間、行ってきたことです。孤立して、砂漠や山や洞窟に入ったり、村から村へ托鉢の旅を続けたり、あるいは集団で修道院に入り、確立した型に従う事を自分の心に強いたりしました。しかし苦悶する心、打ちひしがれた心、すべての混乱から逃れることを望む心、規律と順応を通じて鈍くされた心 ― このような心は、どれほど長く求めても、それ自体の歪みに従って見出すだけでしょう。
> > >
> > > ここは今のところ引っかかりません。
> > > >
> > > > (続く)
> >
> >
> >  私も、今のところ、引っかかりません。
> >
> >  それよりも、やくざの世界で生まれ育った幼子が、周囲のやくざの教えを受けて育つ様を見させて貰ったような、強烈な印象を受けました。
> >
> >  人類とは、そのように育つ脳を有しているようです。
>
> はい。家族で受け継がれていく部分と、社会からの影響を受けて変わって行く部分のある集団的生き物ですが、個人の主体性と自由というものはあるのか、どうなのか?その辺の関心を持って読んでいきます。
>
> >  ただ、先進諸国の人々は、それに気づかずに、明るさをモットーに、やくざをしているようです。10億人の飢餓人を足下に置いて。
>
>
> 先進国も世界の文明、社会がどんどん変わっていきますから、いやおうなしに新たな問題に突き当たります。


 はい。


[25389] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/09(Sat) 00:08  

ちょっと早いかもしれませんが第1章の2を掲載しました。

そのうちにだんだん引っ掛かりが増えてくると思うので、そこではゆっくりするつもりです。


[25388] 既知からの自由1−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/08(Fri) 23:52  

[伝統的接近法・世間体という罠]

それゆえ、この不安な、やましい、恐ろしい、競争的な生活を超えた何かが実際にあるかどうかを発見するには、全く完全に異なる接近をしなければならないと私には思われます。伝統的接近法は周辺から内部へであり、時間と訓練と放棄を通じて、徐々にあの内面の花、あの内面の美と愛に出会う事です ― 事実としては自分自身を狭い、とるに足らない、つまらないものにするためにあらゆることをすること、少しづつ脱皮し、時間をかけ、明日はやろう、次の生はやろうという事です ― そしてついに中心に達するとき、人はそこには何もないことを見出します。なぜなら心は無能力に、鈍く無感覚にされてしまっているからです。

 この過程を観察して、人は自分自身に問います、全く違う接近法はないだろうか ― すなわち、中心から爆発することはできないだろうか?と。

 世界は伝統的な接近法を受け入れ従います。私たち自身の中の無秩序の主要な原因は他人によって約束された実在を探し求めることです。私たちは快適な精神生活を保障してくれる誰かに機械的に従います。私たちの大部分は政治的圧政と独裁には反対しますが、心と生き方を歪める他人の権威、圧政を内面的には受け入れるという事は、もっとも驚くべき事です。ですからもしすべてのいわゆる精神的権威、すべての式典、儀式及び教義を完全に拒絶するなら、それは私たちが一人で立ち、既に社会と一致しないことを意味します。私たちは世間が尊敬する人間であるのをやめます。世間が尊敬する人間はあの無限の、計り知れない、実在に近づくことは到底できません。

 あなたは今や絶対的に虚偽であるもの ― 伝統的接近法 ― を否定することによって出発しました。しかしもし反発としてそれを否定するならあなたはもう一つの型を創り出していて、その罠にはまるでしょう。この否定は非常にいい考えだと知的に自分自身に告げてもそれについて何もしないなら、それ以上少しも行くことはできません。けれども、その愚かさと未熟さを理解するのでそれを否定するならば、あなたが自由であって怖れていないので、それを途方もない英知で拒絶するならば、自分自身の中とあなたの周りに大きな動揺を引き起こすでしょうが、だがあなたは世間体の罠から抜け出すでしょう。その時あなたはもはや求めてはいないことを見出すでしょう。それが学ぶべき最初のことです。 ― 求めないことが。求める時は、実はウィンドーショッピングをしているに過ぎないのです。

(続く)


[25387] Re:[25382] 思考は物資か 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/08(Fri) 23:00  

> 思考は物質だ、と言い張るクリシュナムルティに対し、ボームがそれをたしなめる場面が出てくる。それでは今の科学は納得しないと、いわば通用しない。ソースイズマターがKの口癖のようだ。何かにつけてそれを口にする。ボームは物理の専門家だ。それに対しKは物理の知識はない。それで一向に議論が噛み合わない。そもそも思考は物質だなどというのはおかしな論理である。思考は物質ではなく「波」のようなものではないか、ボームは折衷案を出すと、Kは渋々納得したという。それもつかの間、またもや思考は物質だと。それでは思考はエネルギーではどうかという。例えば光は粒であり、波である。物質であって物質ではない。そういえば最近一部で「波動」という概念が出ている。新しい概念。私に言わせれば思考は想念波動そのものである。思考は物質ではない。それでは唯物論だろう。これは渡辺氏がユーチューブで説明している一部だが、他でもクリシュナムルティの矛盾点を鋭く指摘している。
> 脳の変容には「非物質」の働きかけが必要ではないかと、又しても矛盾したことをいってボームを困らす。全く手を焼く人だと。思考は物質と言って起きながらオカルトめいたことを言う。これでは世間の説得力を得られない。
> そもそも物理学の知識がないクリシュナムルティに宇宙の真理に探求なんていうのは土台無理な話。ボームとの対話によって知識不足を露呈。精神と物質は相入れない。


マインドの働きは今のところブラックボックスで、人間にはわからないでいるというのが現実ではないかと思う。マインドが生む思考、感情、洞察などは気づくことができる。主観的にですが。しかし他者の言動や振る舞いから、他者も同じように感じているという共同の確信を持っているだけだが。

>何が正しく何が間違った振る舞いか、何が正しく何が間違った考えか教えてくれる誰かを当てにします。そしてこの様式に従う中で、私たちの行為と思考は機械的になり、反応は自動的になります。この事は自分自身の中に非常に容易に観察できます。

ここから出発しましょう。


[25386] Re:[25384] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/08(Fri) 22:07  

> クリシュナムルティはゴチャゴチャ難しいことを述べていたが、結局愛があればいい、優しければいいんだよということに過ぎない。


いや、精神の振る舞い方が変わらないとどうにもならない点がないだろうか?


[25385] Re:[25381] [25376] [25373] 既知からの自由 1−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/08(Fri) 22:03  

> > > [人間の探求・苦悶する心]
> > >
> > > 人間はどの時代にも自分自身を超え、物質的な幸福を超えた何かを ― 真理とか神とか真の実在と呼ぶ何か、時間のない状態 ― 環境や思考や人間の堕落によってかき乱されない何かを求めてきました。
> >
> > ウーム、これは西洋の有閑階級の心理なのかな? 哲学青年的な感じもする。
>
>
>  もっと身近に見渡すと、多くの家に仏壇や神棚があるのではないだろうか。手入れを要する墓も有していないだろうか。
>
>  死後の世界を信じていないだろうか。先だった人があの世で待っていると期待していないだろうか。
>
>  これらが、>人間はどの時代にも自分自身を超え、物質的な幸福を超えた何かを ― 真理とか神とか真の実在と呼ぶ何か、時間のない状態 ― 環境や思考や人間の堕落によってかき乱されない何かを求めてきました。−−、これに当てはまるのではないでしょうか。。
>
>  それゆえに、自身の死後に、その中心が存続すると期待していないだろうか。
>
>
> > >  人間は常にこう問うてきました。すべては何なのでしょうか? 生は一体何か意味を持つのでしょうか? 巨大な生の混乱、残虐、反抗、戦争、宗教とイデオロギーと国家の果てしない分裂を見、深い永久的な挫折感をもって人間は問います。なすべきことは何でしょうか、私たちが生と呼ぶこのものは何でしょうか、それを超える何かがあるのでしょうか?
> >
> > 貧乏青年の文句のような感じになった。
>
>
>  人は、明るいことは良いことで暗いことは悪いことだという優劣判断・価値判断を有していないだろうか。


はい、有しています。そこに大きな共通部分と条件付けによる差異もあります。

>  貧乏青年の文句は、現にあるものを言い当てているのだろうか、それとも誇張なのだろうか。
>
>  これが誇張ではなく、現にある事実関係であることを見ることが、>深い永久的な挫折感をもって人間は問います。なすべきことは何でしょうか、私たちが生と呼ぶこのものは何でしょうか、それを超える何かがあるのでしょうか?−−、この「問い」を生むのではないでしょうか。

そうかもしれない…。

>  そして、この「問い」から>人間はどの時代にも自分自身を超え、物質的な幸福を超えた何かを ― 真理とか神とか真の実在と呼ぶ何か、時間のない状態 ― 環境や思考や人間の堕落によってかき乱されない何かを求めてきました。−−、この希求が始まるのかもしれません。

はい。とにかくこの希求が実際にあることは否めない事実です。

>  このモチベーションが、クリシュナムルティ理解への取り組みにおいて不可欠ではないでしょうか。


うーん、ちょっとわかりません。苦悩から入るという事もあるかも。

>  そのような意味においては、暗いことは劣り明るいことが優れているという価値判断は、真理ではなく、深い条件付けではなかろうか。。

真理という本体があるのかどうかは、まだ分からないこと。人類の共同確信としてのみあるという事ではないか? 価値判断は共同確信としてあるが、深いところに条件付けがあり、差異があって混乱しているのではないだろうか?

>  そのような無意識下の条件付けは、クリシュナムルティを鏡として照らし出されるように見受けられます。

はい。 

>
> > >  そして常に求めてきた多くの名前を持つこの名称のないものを見出すことなく、信仰を ― 救世主や理想に対する信仰をはぐくんできました ― そして信仰は不可避的に暴力を生みます。
> >
> > 信仰は組織化されると内部の派閥争い、信者に対する異端審問、異教間の対立・宗教戦争・民族間の戦争を生んだ。
> >
> > >  生と呼ぶこのたえざる戦いの中で、共産主義社会であれ、いわゆる自由主義社会であれ、私たちは自分が育てられた社会に従って行動の基準を定めようとします。私たちはヒンドゥ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、あるいはたまたま何であろうがその教徒としての自分たちの伝統の一部として、行動の規範を受け入れます。何が正しく何が間違った振る舞いか、何が正しく何が間違った考えか教えてくれる誰かを当てにします。そしてこの様式に従う中で、私たちの行為と思考は機械的になり、反応は自動的になります。この事は自分自身の中に非常に容易に観察できます。
> >
> > 非常に容易に観察できる…ここは引っかからないです。

ただし今疑問が起きました。宗教の規範も人類が生み出したものです。これが間違っているかどうかを審問しなければならないのか?、それとも自分で考えないで受け入れることが悪いのか? この二つは違っているのか、同じことなのか?

> > >  何世紀もの間、私たちは教師や権威、書物や聖者によって匙で食べさせてもらってきました。私たちは「それについて全部教えてください ― あの丘や山や大地の向こうには何があるのでしょうか?」と言い、彼らの説明で満足しますが、それは私たちが言葉で生きており、私たちの生は浅薄で空虚ことなことを意味します。私たちは受け売り人間なのです。自分の傾向、性癖によって誘導されるか、あるいは境遇と環境によって受け入れるよう強制されるかのどちらかで、教えられたものを頼りにして生きています。私たちはあらゆる種類の影響の結果であり、私たちの中に新しいものは何もなく、自分自身で発見したものは何もありません。独創的で、本来の純粋さを保った明確なものは何もないのです。
> >
> > 人類にはガリレオやコペルニクスやレオナルド・ダ・ヴィンチ(隠れて解剖図を描いた)、ほか数々の天才を生んだ。誰もが天文学や解剖学に通じる必要はない。そのことはそのこととして、自分でしっかり考えなければならないことも確かにある。とまあ私はそう思うのだが、そこで何を明確に自分で考えなければいけないのか、また人類はどう動いているのか、自分で考えたことはあるのかな。それともKの本をもっと読んだ方がいいのかな。
>
> > >  神学の歴史を通じて、もし私たちがある儀式を行ない、ある祈りやマントラを繰り返し、ある型に従い、欲望を抑え、思考を制御し、情熱を昇華させ、食欲を制限し、性的な放縦を慎むなら、心と肉体の十分な苦悩の後で、この小さな生を超越した何かを発見するだろうと、宗教的指導者によって保証されてきました。そしてそれは何百万のいわゆる宗教的な人が長年の間、行ってきたことです。孤立して、砂漠や山や洞窟に入ったり、村から村へ托鉢の旅を続けたり、あるいは集団で修道院に入り、確立した型に従う事を自分の心に強いたりしました。しかし苦悶する心、打ちひしがれた心、すべての混乱から逃れることを望む心、規律と順応を通じて鈍くされた心 ― このような心は、どれほど長く求めても、それ自体の歪みに従って見出すだけでしょう。
> >
> > ここは今のところ引っかかりません。
> > >
> > > (続く)
>
>
>  私も、今のところ、引っかかりません。
>
>  それよりも、やくざの世界で生まれ育った幼子が、周囲のやくざの教えを受けて育つ様を見させて貰ったような、強烈な印象を受けました。
>
>  人類とは、そのように育つ脳を有しているようです。

はい。家族で受け継がれていく部分と、社会からの影響を受けて変わって行く部分のある集団的生き物ですが、個人の主体性と自由というものはあるのか、どうなのか?その辺の関心を持って読んでいきます。

>  ただ、先進諸国の人々は、それに気づかずに、明るさをモットーに、やくざをしているようです。10億人の飢餓人を足下に置いて。


先進国も世界の文明、社会がどんどん変わっていきますから、いやおうなしに新たな問題に突き当たります。


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