雑感
[トップに戻る] [留意事項] [ワード検索] [管理用]
おなまえ
Eメール メールアドレスは入力禁止
タイトル
コメント 【コメント中のURLは先頭のhを抜いて書き込んで下さい。】
コメント中には参照先URLと同じURLを書き込まないで下さい
参照先
暗証キー (記事メンテ用)

[26467] Re:[26466] 最初のザーネン講話 7-3 投稿者:南方 投稿日:2019/02/08(Fri) 18:24  

> 1961年ザーネン公開講話 7−3
>
>  さて、次に何が起こりますか? 今までのところ、伝達するために言葉を用いてきました。だが言葉はものではありません。「静けさ」という言葉は静けさではありません。そこでどうかこのことを理解してください。静けさがあるためには、心は言葉から自由でなければならないことを。
>
>


なぜ静かでなければいけないのか?
言葉から自由でなければいけない?断定ですか?Kの願望
そんなにこの世の苦を受け入れられない?




[26466] 最初のザーネン講話 7-3 投稿者:ゴト 投稿日:2019/02/08(Fri) 17:56  

1961年ザーネン公開講話 7−3

 さて、次に何が起こりますか? 今までのところ、伝達するために言葉を用いてきました。だが言葉はものではありません。「静けさ」という言葉は静けさではありません。そこでどうかこのことを理解してください。静けさがあるためには、心は言葉から自由でなければならないことを。


ゴト: 静けさがあるには心は言葉から自由でなければならない!


 さて、心が実際に静かで、したがって活発で自由であり、伝達、表現、達成にかかわっていないとき−そのとき創造があります。その創造は幻視ではありません。キリスト教徒はキリストの幻視を持ちます。ヒンドゥー教徒は彼ら自身の小さな神々、あるいは大きな神々の幻視を持ちます。彼らは彼らの条件付けにしたがって反応しているのです。彼らは彼らの幻を投影しているのであり、彼らが見るものは彼らの背景から出ているのです。彼らが見るものは事実ではなくて、彼らの願い、欲望、願望、希望から投影されているのです。しかし注意深く静かな心は、すべての条件付けから脱したので幻視を持ちません。したがってそのような心は創造が何であるかを知ります−それはいわゆる音楽家、画家、詩人の創造性とまったく違います。

 そのとき、あなたがそこまで行ったなら、時間がなく空間がない、したがって測ることのできないものを見ている、あるいは受取っている心の状態があるということを見るでしょう。そして見られ、感じられているもの、そして経験している状態は瞬時のものであり、しまい込んでおけるものではありません。

 それゆえ、測ることのできない、名付けることのできない、言葉を持たないその実在は、心が創造の状態の中で、完全に自由で静かである時のみ生じます。創造の状態は、ただのアルコールが入った、興奮した状態ではありません。しかし、ひとが理解して、この自己認識をやり通して、羨望、野心、貪欲のすべての反応から自由であるとき、そのときあなたは創造は常に新しく、それゆえ常に破壊的であることがわかるでしょう。そして創造は決して社会の枠組みの内に、限られた個性の枠組みの内にあることができません。したがって実在を求める限られた個性は意味を持たないのです。そしてその創造があるとき、ひとが集めたあらゆるものの全面的な破壊があり、したがって常に新しいものがあります。そして新しいものは常に真実であり、測り知れません。


ゴト: 最後に、言葉から自由で静かな心だけがあずかれる創造についての話があって、今回のクリシュナムルティの講話は終わりです。私は幻影の話は理解できます。実在を求めてもそれは個性の限界の外にあることもわかります。しかし創造そのものについてはただ静かに聞いたにとどまります。


質問: 全体的な注意の状態と動機のない欲望−それらは同じものでしょうか?


ゴト: この質問は今回の講話の掉尾にふさわしい。


クリシュナムルティ: 皆さん、欲望はもっとも途方のないものではないでしょうか? 私たちにとって、欲望はたいへんな苦悩にさいなまれています。私たちは欲望を葛藤として知り、それゆえ私たちはそれにそのような制限をつけました。そして私たちの欲望はそんなにも限定され、そんなにも狭く、そんなにも取るに足らず、そんなにも凡庸です。自動車を欲しがり、もっと美しいことを望み、達成したがり。見てください、そのすべてがいかに取るに足らないか! そして私は何の苦悩もない、何の希望も絶望もない欲望があるかどうか疑わしく思います! あります。しかしそれは欲望が葛藤を引き起こす間は理解することができません。しかし、欲望の、動機、苦悩、自己否定、鍛練、人が通り抜ける労苦の全体の理解があるとき、そのすべてが理解され、解消され、そのためそれが完全に消えるとき−そのとき、たぶん欲望は他の何かです。それは愛かもしれません。そして愛はその表現を持っているかもしれません。愛は明日を持ちません。それは過去のことを考えません−それは脳は愛に基づいて作動しないということです。私はあなたが今までにそれをじっと見ていたことがあるかどうか知りません。いかに脳が愛に干渉し、愛は上品でなければならないと言い、それを神聖なものと罪深いものに分割し、常にそれを形作り、制御し、指導し、それを社会の型やそれ自身の経験に適合させているかを。

 しかし愛情の、愛の状態があります。その中で脳は干渉しません。そして、おそらくその愛は見出されるでしょう。しかしなぜ比較するのでしょう? なぜ「それはこのようなのか、あのようなのか」と言うのでしょう?

 ほら、皆さん、雨粒をそれが空から落ちるとき見守ったことが今までにあるかどうか私は知りません。その一粒はすべての河、すべての大海、すべての流れとあなたが飲む水の性質を持つのです。しかしその一つの雨滴は河になるだろうと思っていません。それはただ落ちます。完全で、全体で。同様に、心がすべてのこの自己認識を通り抜けたとき、それは完全です。その状態の中に比較はありません。創造であるものは比較のものではありません。そしてそれは破壊的であるので、その中に古いものは何もありません。

 それゆえ、言葉の上や知的にではなく、ひとはこの自己認識の過程を今から果てしなく通り抜けて行かなければなりません。なぜなら自己認識に終わりはないからです。そして終わりを持っていないので、それは始まりを持ちません。したがってそれは今です。

 私が話したいもう一つのことがあります−それはなぜ崇拝したいのかということです。私たちは皆 象徴、キリスト、仏陀、を崇拝することを望みますね。なぜ? 私は多くの説明を与えることができます。あなたはより偉大なものと同一化したい、あなたが真実であると思うものにあなた自身を捧げたい、神聖なものの現存の下にいたい、などなど。しかし、崇拝する心は死につつある、衰退しつつある心です。あなたが月へ行こうとしている英雄や、過去 あるいは現在の英雄、あるいは演壇に腰掛けている人のどれを崇拝しようが、それは皆同じです。あなたが崇拝するなら、そのときあの創造は決して生じ得ません、決してあなたの近くに来ないでしょう。そしてその途方もない状態を知らない心は果てしなく苦しみます。それゆえ、この崇拝の問題を理解したとき、そのとき、秋に木の葉が落ちるようにそれは次第に消えます。そのとき心は何の障害もなしに進むことができます。


ゴト: 愛という言葉をこのようなものか、あのようなものかと尋ねる私たち個、しかし私たちは雨の一滴のように全体性を持つものかもしれない……。形は比喩的な説話のようで、動機のない愛からの贈りものか。それから崇拝の話も。

(終わり)


[26465] 無題 投稿者:南方 投稿日:2019/02/08(Fri) 14:42  

楽な生き方を探さなければ、人生は楽になる。


[26464] 無題 投稿者:南方 投稿日:2019/02/08(Fri) 14:22  

つまりこの世が苦しくない生き方なんてないのである。

人生とは苦しさが本質だから。そう作られているのである。


[26463] 無題 投稿者:南方 投稿日:2019/02/08(Fri) 14:06  

今生限りか輪廻転生かは、自分の心の在り方次第で決定できる。

あの世が苦しい心の在り方であれば生まれ変わってくるし、あの世が苦しくない心の在り方であれば生まれ変わってこない。

それが心底分かって生きるのが解脱である。


[26462] 嫉妬 投稿者:無明 投稿日:2019/02/08(Fri) 11:22  

嫉妬というのは、自分自分にある価値基準から生み出される。この際新しい芽氏の文章から改めて学ばせていただきました。
価値基準。あるべき姿。理想のイメージ。新しい芽流にいうと、どうこうしようとする動き。
例えば自分の奥さんが、他人の見知らぬ男と親しげに話していたら。
平常心を保つのは難しくなるでしょう。浮気までいかないまでも、いい気持ちではない。
学校時代、自分の好きな子が、イケメンの男が交際してるとなると、その男に嫉妬が芽生える。こういった話はよくあります。

それもこれも自分自身にある価値基準のなせる業。いわば理想のイメージ。奥さんに対し、常に良妻賢母のイメージを抱いていると、その奥さんがいざ浮気すると、大変なことになる。
理想のイメージというのは、現実に「ない」ものであり、そのないもので、現実を見ようとするから、摩擦あるいは葛藤が起きる。

その時起きた不快な気持ちを見る、ということではなく、その時の思考の仕組みをきっぱりと見るということです。

クリシュナムルティに関わっている人の理解というのは、その時起きた現象、知覚されたものを、ただ見る、思考なしにみる。という捉え方がほとんどです。しかしそうではないということを新しい芽氏から、学びました。
思考の仕組み、思考過程。例えば、ある出来事で、嫌な気持ちが起きたとき、嫌な気持ちを、そのまま見るということではなく、嫌な気持ちになったときのリアルタイムの思考の仕組みを見る。
現実にないものを繰り出して、現実を見ようとするからおかしくなる。
奥さんが浮気をすれば、そのまま事実を受け止め、腹をたてることもない。あとは理由を聞くだけ。



[26461] Re:[26458] 最初のザーネン講話 7-2 投稿者:宮啓 投稿日:2019/02/08(Fri) 10:40  

>  自己認識のこの過程の中で、あなたは静かな心は死んだ心ではないということ、それは途方もなく活動的であるということを見出すでしょう。それは達成の活動ではありません。加え 減じること、行き 至り 成ることの活動ではありません。なぜならその強烈に活動的な状態は、何の追求もなしに、何の努力もなしに生じたからです。いつもそれはあらゆる事を、その存在のあらゆる相を理解しています。どんな種類の抑制もなく、それゆえどんな恐怖も、模倣も、順応もなかったのです。そして心がこれらすべてのことをしたのでないなら、静けさはあり得ません。
>
>
> ゴト: ……。


 般若心経の以下の一節を思い浮かべました。


   不生不滅 不垢不浄 不増不減


> (続く)


[26460] 苦闘の気づき2 投稿者:無明 投稿日:2019/02/08(Fri) 10:18  

新しい芽氏の引用

質問者
嫌な気持ちを何とかしようとする、といっても現実には何とかならないのではないしょうか?
対処するとよけい嫌な気持ちになります。

答え

歩行者を嫌な気持ちで見ないで、静かに歩行者を見よう、運転も自在にしようとか、嫌な気持ちをそのまま保持し、これ以上興奮しないでとどめようとか、何でもない気持ちに変えようとか、様々に、歩行者を嫌がる動きの、自分の運転を通したい動きの、反対のもの、改良、制御をしても、一瞬は心地よくても、結局はうまくいきません。

歩行者を邪魔だ、どけと、自分の運転をそのままで進もうとしても、何とかしようというのも、そもそも嫌な気持ちをを得るだけで、現実に何とかならないのではないですか?

さて、対処すると嫌な気持ちが続くというのは結論なので、嫌がることは、そのありようは、実際の事実として、しっかり持っていて、今も歩行者を嫌がるありようを持っているということでしょうか?

そうではなく、対処は何をしても、一時的には心地よいなど、すぐ、よけいに嫌になると限りませんが、全体としてうまくいかないというには実際に起きてることなので、その知覚から、あがき、対処も含めて、嫌がるありよう自体がすっかり止んでいるでしょうか?

ここで、歩行者も、運転する自分の気持ちも、実際に起きていることの直接の知覚という意味で、どうこうしようという思考を介さないで、そのまま見るということが起きると、平凡なようで、画期的なことではないでしょうか?

その時初めて、歩行者を邪魔だ、どけと嫌がり、自分の運転はそのまま続けようとする思考の動きの実際の出来事にもたらす意味が、そのままに見られる機会であり、基本的な解放の機会ではないですか?






[26459] 苦闘の気づき 投稿者:無明 投稿日:2019/02/07(Thu) 10:04  

引用 新しい芽氏 2013年11月6日

人より優位であると思っていたのに、ある出来事で、自分が下位と感じ、嫉妬に苦しむ。

注 我々の日常は、この繰り返しではなかろうか。社会、会社、学校でも。例えば自分よりできる人がいると、その人を妬んでしまう。
自分よりできないと感じると、その人を馬鹿にする。

そしてまた、嫉妬の苦痛を虚しく感じ、嫉妬しないようとし、努める。

注 その繰り返し。

うまくいかないので、一つのやり方として、嫉妬の気持ちに、ただ気づいていようとする。


上位と下位。私には優劣といったほうがわかりやすい。優越意識と劣等感。
嫉妬の気持ちにただ気づいている。Kを読む人は誰でも試みるだろう。実はそれもやり方に過ぎないと。

ところで、嫉妬の気持ちを嫌がって、嫉妬しないようにするとき、現実に見られているときにわかりうるとしては、理想の嫉妬しない状態と嫉妬の現状を比較していて、今下位であると感じ、理想の嫉妬しない状態を妬んでいるのでしょうか?

注 嫉妬というのは不快であり、嫌なものであるはずなのに、なぜ我々は繰り返すのだろうか?
ここでも比較の話が出てきました。嫉妬している時と、嫉妬していない時を比較してしまう。

これが事実として明確であるとき、本当にそうなら、人との、あるいは自分の状態の優位、下位の比較も、すべて止むことが起きうるでしょうか。そして人の、そして自分の現状にただ気づいているだけなのでしょうか?
そのとき嫉妬の意味の理解と嫉妬からの解放とが基本的に訪れているでしょうか?

注 人間社会には、優秀な人、そうでない人と別れてしまうには仕方のないところです。そこで劣等感をバネにして行動するか、その劣等感に甘んじてしまうか。

次は自転車の例

自転車で歩道を進むとき、歩行者との出会いがあり、緊張のある関わり、対処が生じます。
それだけでなく、自転車で歩道を進むとき、歩行者が邪魔だ、どけと嫌な気持ちになる。
また、嫌な気持ち自体が持ちたくないものなので、捨てたいがうまくいかない。
そこで、人の対処として、嫌な気持ちを、どうこうしようとしない、ただ気づいていることに留まろうとする。
この場合でも、嫉妬の場合と同様に、現実が直視されているときには、歩行者に対しても、嫌な気持ちに対しても、あってほしい状態との比較が採用されず、すっかり止むことがありえて、そのときは、比較の持つ意味が理解されている、嫌がること自体が消えているでしょうか?

注 我々は人間というのは、細かな日常生活でも、常に願望というか、こうあるべきだきという基準を常に持ち出す。嫉妬や自転車に乗ってる時でも。それが比較となってあらわれる。
ただ起きていることに「気づいている」ということではない。






[26458] 最初のザーネン講話 7-2 投稿者:ゴト 投稿日:2019/02/07(Thu) 09:05  

1961年ザーネン公開講話 7−2

 さて、あらゆる思考は機械的です。なぜならあらゆる思考は経験の、記憶の背景からの反応として生じるからです。そして思考は、機械的であるので、決して自由であることができません。それはその背景、教育、条件付けに依存して、合理的で、正気で、論理的であることができます。しかし思考は決して自由であることはできません。
 思考とは何であるかを見出すために、あなたがとにかく実験したかどうかわかりません。私は辞書のそれの定義や哲学者のそれについての考えではなくて、思考は反応であるということを観察したかどうかということを言っているのです。

 それを調べなければならないので、どうかこれを追ってください。私があなたにありふれた質問を尋ねるなら、あなたは答えをよく知っているので即座に応答します。少しばかり複雑な質問が尋ねられるなら、脳が答えを見つけようと記憶を調べて働いている間、時間の遅れがあります。もう少し複雑な質問が尋ねられるなら、脳が考え、捜し、見出そうとしている間、時間の間隔はより長いのです。そしてまったくなじみのない質問を尋ねられるなら、そのとき、「私は知らない」と言います。しかし「私は知らない」というその状態は、本を調べたり誰かに尋ねたりすることによって、脳が答えを見つけようと待っている状態です。だがそれは答えを待っているのです。思考のこの過程全体は見るのがとても簡単だと私は思います。それは私たちがいつも皆やっていることです。それは私たちが集めた知識、経験の蓄えからの脳の反応です。


ゴト: クリシュナムルティは思考についての話から全体を見始めます。思考は反応です。はい。


 さて、「私は知らない」と言い、答えを待っている心の状態は、「私は知らない」と言い、答えを待っていない心の状態とはまったく違います。私はこのことをわかっていただきたいと思います。なぜならそれが明確でないなら、次のことがわからないだろうと思うからです。私たちはなお瞑想を話しており、脳と心の全問題を探っているのです。すべての思考の根源を理解しないなら、思考を超えることは不可能です。

 それで二つの状態があります。「私は知らない」と言い、答えを捜している脳があります。そして答えがないので知っていない、もう一つの状態があります。そのことを明確にしておくなら、そのとき私たちは前進して注意と集中の問題を調べることができます。


ゴト: 「私は知らない」と言い、答えを探していない状態を理解して、注意と集中の問題を調べると。


 誰もが集中が何であるか知っています。生徒も窓の外を見たいと思い、先生が「本を見なさい」というとき、それを知ります。子供は心に本を見るように強制します。彼が本当に窓の外を見たいとき、そこで葛藤があります。私たちの大抵は脳に集中するように強制する過程をよく知っています。そしてこの集中の過程は排除の過程ではないでしょうか? あなたは切り取ります。あなたは集中を妨げるどんなものも締め出します。したがって集中があるところ、注意散漫があります。わかりますか? 私たちは集中するよう訓練されてきたので、それは排除、切り取ることの過程ですが、したがって注意散漫が、それゆえ葛藤があります。

 さて、注意は集中の過程ではなく、その中に注意散漫はありません。注意はまったく違うものです。そして私はそれを調べようとしています。

 すみませんが、私たちが話しているこれは非常に真面目なことです。そしてここに来ることは、楽しみたいと思って音楽会に行くようなことではありません。それはあなたの側でのものすごい仕事を必要とします。それは望むとか望まないという感覚が何もなしに内部に入って行くことを意味します。あなたが真面目に追って行くことができないなら、そのときはただ静かに聞いてください、言葉を聞いてそれを忘れてください。しかしあなたがそれに深く入っていくなら、多くのことが含まれています。なぜなら私がそれにもう少し入って行くにつれて、自由が必要であるということが見えるでしょうから。心が努力をして、葛藤の中にあるところ、自由はありません。そして集中と、注意散漫に対する抵抗があるところ、そこにもまた自由はありません。しかし私たちが注意が何であるか理解するなら、そのとき私たちはまた、すべての葛藤がやんでおり、それゆえ心がまったく自由である可能性があるということも理解し始めています−表面の心のみでなく秘密の思考と欲望が隠れている無意識も。

 さて、私たちは集中が何であるか知っています。それで、注意とは何でしょうか? 私がその質問を尋ねます。すると私たち一人一人の本能的応答は答えを見つけること、説明を与えること、それを定義することです。そして定義が巧みであればあるほど、より満足します。私は定義を与えてはいません。そして私たちは言葉なしに調べているのです。それはきわめて骨の折れることです。私たちは否定的に調べているのです。肯定的思考で調べるなら、そのときあなたは注意の美を決して見出さないでしょう。しかし否定的思考が何であるかをあなたが理解してしまったなら−それは反応の見地で考えることではありません、脳は答えを求めていません−、そこであなたは注意が何であるか見出すでしょう。私はそれに少々突っ込んでいくつもりです。


ゴト: 否定的思考、答えを探していない心、それらの全体的なかかわりが直覚的に心に感じられます。


 注意は集中ではありません。その中に注意散漫はありません。注意の中に葛藤はありません。結果を捜し求めることはありません。したがって脳は注意深いのです。それは限界を持っていないということです。それは静かです。注意はすべての知識が止んで、探究だけが存在しているときの心の状態です。

 いつか、簡単なことをやってみてください。散歩に出かけるとき、注意深くあってください。そのときあなたは脳が集中しているときより、ずっと多く聞こえてくる、見えるということを見出すでしょう。なぜなら注意は知っていない、したがって探究している状態であるからです。脳は原因なしに、動機なしに探究しています−それは純粋な研究、本当に科学的な心の性質です。それは知識を持っているかもしれませんが、その知識は探究に干渉しません。したがって注意深い心は集中することができます。しかし(その)集中は抵抗、排除ではありません。あなた方の何人か、これについてきているでしょうか?


ゴト: ついています。


 それゆえ、それことから進むために、この注意の状態は情報、知識、経験を詰め込まれていない心のものです。それは知らないで生きている心の状態です。この事は脳、心があらゆる影響、あらゆる命令、あらゆる制裁を完全に捨てたということです。それは権威を理解してしまい、野心、羨望、貪欲を解消してしまい、社会とそのすべての道徳にまったく対立します。それはもはや何事にも従いません。そのような心はそのとき続けて探究することができます。

 さて、深く探究することは静けさを必要とします。私があの山々を見、勢いよく流れ過ぎるままにせせらぎに耳を傾けたいなら、脳が静かでなければならないだけでなく、全体の心、意識的なものも無意識的なものもまた、見るために、まったく静かでなければなりません。脳がおしゃべりをしているなら、心が把握しよう、掴もうと思っているなら、そのとき、それは見ることではありません。それは流れの響きの美しさを聞くことではありません。それゆえ探究は自由と静けさを意味します。


ゴト: 探究は自由と静けさを意味します。はい。


 瞑想と集中を通じて静かな心を得る方法について人々が本を書いていますね。それについて書物が書かれてきました−私がそれらのどれかを読んだということではありません。人々が私のところにやってきて、それについて話しました。心を静かであるようにしつけることはまったく無意味です。心を静かであるようにしつけるなら、そのときあなたは衰退の状態にあります。恐怖を通して、貪欲、羨望、野心を通して順応するあらゆる心が死んだ、鈍い、愚かな心であるように。鈍い、愚かな心は静かであることができますが、それはちっぽけで取るに足らないままであるでしょう。そして新しいどんなものも決してそれに生じることはできません。


ゴト: はい。


 それゆえ注意深い心は葛藤がなく、したがって自由です。そしてそのような心は静まり、静かです。あなたがそこまで行ったかどうか私は知りません。あなたが行ったなら、私たちが話していることが瞑想であるということを知るでしょう。


ゴト: はい。


 自己認識のこの過程の中で、あなたは静かな心は死んだ心ではないということ、それは途方もなく活動的であるということを見出すでしょう。それは達成の活動ではありません。加え 減じること、行き 至り 成ることの活動ではありません。なぜならその強烈に活動的な状態は、何の追求もなしに、何の努力もなしに生じたからです。いつもそれはあらゆる事を、その存在のあらゆる相を理解しています。どんな種類の抑制もなく、それゆえどんな恐怖も、模倣も、順応もなかったのです。そして心がこれらすべてのことをしたのでないなら、静けさはあり得ません。


ゴト: ……。

(続く)


[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31] [32] [33] [34] [35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58] [59] [60] [61] [62] [63] [64] [65] [66] [67] [68] [69] [70] [71] [72] [73] [74] [75] [76] [77] [78] [79] [80] [81] [82] [83] [84] [85] [86] [87] [88] [89] [90] [91] [92] [93] [94] [95] [96] [97] [98] [99] [100]

処理 記事No 暗証キー
- LightBoard - Modified by isso