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[25621] トンチンカン 投稿者:無明 投稿日:2018/07/09(Mon) 18:35  

>仮の話として・・。

??
何でここで妄想が出てくるのか。

>もしも、明日、自分以外の世界の全ての男性が犬に、世界の全ての女性が猫になったとしたら。。

 私の自我は弱まっていないだろうか。。

 月日が経つうちに、自他の区別が弱まっていかないだろうか。。

??
あまりのトンチンカン。低レベル。
せっかくのクリシュナムルティの検討に水を差す。
対話についていけないようだ。


[25620] Re:[25619] [25616] [25614] [25609] Timeless Stillness より 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/09(Mon) 09:38  

> 条件付けはいつか必ず発動します。その一瞬は条件付けの生の姿がいやおうなしに出ます。それに気づく。
>
> 条件付けが今思考によって練って、練って、練り上げて出ている時は思考に覆われて直接見れません。観察者は思考者なのです。しかし、感情が、思考が形づくる間もなく飛び出るとき(以前本音が飛び出すときと書きました)、いやでも直視されてしまいます。見えてしまいます。これがチャンスです。それは図らずしてやってきます。不図(ふと)やってきます。予期することなしにやってきます。だからあるがままの姿を見ることができます。


この時の見る自分は断片化していないんだ。全体として見ているんだ。歪みなしに!(投稿した瞬間にわかりました)


[25619] Re:[25616] [25614] [25609] Timeless Stillness より 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/09(Mon) 09:24  

> > 命名が古い軌道を走り出すきっかけなのだ!とKが言います。
> >
> > 名づけずに見ている。これが第一の関門ですが、これはコメントとしてはっきりしています。
> >
> > 名づけることなしに見ていることは困難だと言われればそうですが…
> >
> > > ここに感情があります。それは事実です。精神はその事実になんらかの用語や、意見や、評価や、非難がましい態度をもってアプローチします。それらは死んだものです。理解できますか? それらは死んでいるものです。何の価値もありません。それらはただの記憶、その事実のうえで働く記憶です。
> >
> > どうしても名づける前の嫉妬の感情の噴出に気づく! その時何が起こるかわかりませんが、それこそが多分唯一の入口でしょう。ここから先に進みましょう。
> >
> > > Bombay 8th Public Talk 28th March 1956
>
>
>  「条件付け」が目に見えるもの、内面で感じられるものにフィルターをかけているようです。。
>
>  したがって、外の現にあるものを、そのまま見ることはできず、内面にある現にあるものを、そのまま見ることができないようです。
>
>  このフィルターすなわち条件付けを見ることができるか。

条件付けはいつか必ず発動します。その一瞬は条件付けの生の姿がいやおうなしに出ます。それに気づく。

条件付けが今思考によって練って、練って、練り上げて出ている時は思考に覆われて直接見れません。観察者は思考者なのです。しかし、感情が、思考が形づくる間もなく飛び出るとき(以前本音が飛び出すときと書きました)、いやでも直視されてしまいます。見えてしまいます。これがチャンスです。それは図らずしてやってきます。不図(ふと)やってきます。予期することなしにやってきます。だからあるがままの姿を見ることができます。



[25618] Re:[25609] Timeless Stillness より(3) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/08(Sun) 22:57  

>  参考になるかもしれません。引用します。
>
>
> 条件づけの解除
>
> クリシュナムルティ:あなたがすべてにおいて真剣なら、精神の条件づけを解除することができるかどうかは最も根本的な問題の一つであるにちがいありません。世界のさまざまな地域で、それぞれの文化と社会道徳のなかで、人間がとても深く条件づけられているのが観察されます。人はある線に沿って考え、パターンにしたがって行動し、働いています。
>
> 彼は過去の背景を通して現在に関係します。彼はたくさんの知識を培ってきました。彼は何百万年の経験をもっています。教育、文化、社会道徳、宣伝、宗教のすべてが彼を条件づけてきました。そして彼はこれらに対して特定のリアクションをします。そのリアクションは条件づけの別のかたちです。
>
> この条件づけの意味の全体を、それがどのように人々を国家的、宗教的、社会的、言語的に分割しているのかを十分注意深く見なければなりません。その分割は途方もない障壁であり対立と暴力を生み出しました。
>
> 完全に平和で創造的に生きようとすれば――我々はまもなくこの「平和」と「創造」という言葉の中に入っていくことになるでしょう――その道を生きようとすれば、この条件づけを精神の表面的、周辺的なものとしてだけでなく、深く潜在的なものとしても理解しなければなりません。この条件づけの全ての構造が露わになるかどうかを発見しなくてはなりません。そしてそれが発見されたとき、それを超えるために何ができるでしょう。
>
> 自分が条件づけられているのを観察して「精神の条件づけを解除することは不可能だ」と言えば問題はそれで終わりです。人は決して条件づけから出られないだろうという公式をもって始めれば探求は終わりです。人はすでに抵抗した。そしてその問題に答えた。それで終わりです。そのときはその条件づけをさらに飾り立てることができるだけです。しかしこれにずっと深く入っていって問題の全体に気づいたら、そのときは何をするでしょう。これが非常に真摯な挑戦であって掃いて捨てるようなものでないならどう反応するでしょう。それが命にかかわるような人生にとってきわめて重要なことなら、どう反応するでしょう?
>
> あなたがこの条件づけを発見したとすれば、どうやって発見したのでしょう? 自分自身で観察したのでしょうか、それとも誰かがそれをあなたに言ったのでしょうか? これは本当に極めて重要な質問です。誰かにそう言われて「はい。私は条件づけられています」と言っているのであれば、あなたは助言に反応しているということです。それは現実のことではありません。それは単にあなたが受け入れ、それに同意したという言語上の概念でしかありません。それとあなた自身で発見することとは全く別のことです。自分で発見すれば、それは恐ろしく致命的なものであり、あなたはそこから脱出する道を探す情熱をもつからです。
>
> あなたが探求し、捜索し、その中を見て条件づけられていることを発見したのでしょうか? そうであれば「誰」がそれを発見したのでしょうか?観察者なのか、試験官なのか、分析者なのか?「誰」がその混乱と狂気のすべてを、この条件づけがこの世界に原因をもつことを観察し、考査し、分析しているのでしょうか。「誰」が観察によってこの条件づけの構造とその結果を発見したのでしょうか?
>
> 外側と内側で何が起こっているかを観察して――対立、戦争、悲惨、内と外での混乱(外側はその人の一部分です)――をすぐそばで観察して(これが世界中で起こっていることです)私は自分が条件づけられていることを発見しました。この条件づけの結果を見つけました。
>
> そこにその、彼が条件づけられていることを発見した観察者がいます。すると疑問が湧いてきます。その観察者は彼が観察して発見したものと別のものなのか、それは彼自身から分離したものなのか? それが分離したものなら、再びそこで分割があり、そのためどのように条件づけを克服するか、どのようにしてこの条件づけから自由になるか、それについて何をすれば良いかという葛藤が生じます。そこに二つの分離したもの、二つの分離した運動、観察者と観察されるものがあるのかどうかを発見しなけばなりません。
>
> それらは分離しているでしょうか? それとも観察者が観察されたのでしょうか? これを見出すことはとてつもなく重要です。それを見れば考え方の全体が完全に変化します。それは最も根底的な発見であり、その結果、道徳の構造や[内側で続く]途切れることのない知識は自分自身にとって全く違った意味をもつようになります。
>
> あなた自身でこれを発見したのかどうか、それが事実であると言われてきたことを受け入れたのか、それとも「それはそういうものだ」と外側で語る代理人なしに自分自身で発見したのかを見定めることです。それがあなたの発見なら、それはものすごいエネルギーを解放します。それは今まで観察者と観察されるもの分離の間で浪費されてきたものです。
>
> 途切れることなく続く知識の連鎖(心理的条件づけ)はエネルギーの浪費です。知識は観察者によって集められてきました。観察者はその知識を使って活動します。しかしその知識は活動から分離したものです。よってここに葛藤があります。そしてこの知識――それが彼の条件づけの本質です――を保持している実体はその観察者なのです。自分でこの基本的な原則を発見しなくてはなりません。それは原則であって、何か固定してとっておけるようなものではありません。それは決して再びあとで尋ねることのできないリアリティーです。
>
> 心理学的に言って、この観察者が観察されたというシンプルな事実を発見した精神に何が起こるでしょうか。これが発見されて、高次の自己とか魂とかいう身体から分離したものの概念によって長いこと条件づけられてきた精神の質に何が起きるでしょう?この発見が目的のない自由[何かのための自由ではない自由]への扉を開かないなら、それはいまだにちょっとした知的な思いつきであって、人をどこへも導きません。
>
> しかしそれが実際に発見であり、実際のリアリティであるならそこに自由があるはずです。それは好きなことをする自由や、希望をかなえる自由や、何かになる自由や、決定する自由ではありません。また好きなように考え、望み通りに行動する自由でもありません。自由な精神が選択するでしょうか? 選択はこれかあれかを決定することを意味しています。しかしいったい選択が必要としているものは何でしょう?(どうかみなさん、これは言葉の上だけの声明ではないのです。我々はその中に入っていって、その中で毎日生きなければなりません。そのとき、これのもつ美しさや生命力や情熱や激しさを見出すでしょう)
>
> 選択は決定を含意しています。決定は意志の行動です。これをしようかあれをしようかと意志を働かせている実体とは誰でしょう。どうか注意深くついて来てください。観察者が観察されたのなら、もはや何を決定する必要があるでしょうか? 心理的に、選択に基づく何らかの決定があるとき、それは精神が混乱していることを示しています。はっきり理解している精神は選択しません。ただ行動だけがあります。透明さが失われるのは観察者と観察されるものの分割があるときです。
>
>
>  以上引用


これは条件付けの解除と題されていますが、眼目としては観察者と観察されるものの話ですね。「既知からの自由」ではこれは12章に出てきます。それを読んでからにしましょう。私はこの件についてはリアルな理解を持っていないのです。見ることだけがあるとか、観察者のいない観察という言い方でないとわからないのです。



[25617] Re:[25615] [25609] Timeless Stillness より(2) 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/08(Sun) 18:47  

> >  参考になるかもしれません。引用します。
> >
> >
> > 気づきについて
>
> 前略
>
> > 気持ちが巻き込まれていなければ、視覚的な木への気づきがあるとき、その関係[私と木との結びつき]に分割はありません。しかし木への心理的な反応があれば、その反応は条件づけられた反応であり過去の記憶と経験の反応であって、それが関係を分割します。この反応こそが関係の中で「私」と呼ばれることになるものと「私でないもの」との誕生なのです。これがどのようにしてあなたがあなた自身を世界との関係の中に位置づけるかということです。これがあなたが個人と社会を作り出すやりかたです。
>
> 以下私と私でないものや個人と社会の分離の起源が述べられているが、これがよくわからない。心理的反応と私と私でないものの分離は果たして同じなのだろうか?
>
> > 我々は世界をあるがままにではなく、記憶である「私」との様々な関係において見ます。この分割は[現実の]人生と、[心の中で]繁茂していくものすべて――それが精神的存在と呼ばれます――の分割であり、ここからすべての対立と分割が立ち上がるのです。このことにはっきりと気づいていますか?木への気づきがあるときは、そこに[価値]評価はありません。しかし、木への感情的な反応があれば、木が好き嫌いで判断されれば「私」と「私でないもの」の分割が起きます。この「私」は観察されるものとは別のものです。この「私」は関係の中の過去の記憶と過去の経験による反応です。
>
>
> 私の素朴な疑問は、別に木に対して悪意も敵意も 持っていないし、夏の木陰はうれしいが、「私」はいないのかな?
>
> > それに気づいて、何も判断せずに木を観察し、何も判断せずにそれへの反応や反作用を観察できるでしょうか。こうして我々は木を見ることと自分自身を見ることの両方で分割の原理を、「私」と「私でないもの」の原理を根絶します。
>
> ただ見ることが分割の原理や「私」・自我の原理を根絶すると言います。ここはわかるのだが、自我・「私」とはそもそもなにかというとわからない。


 仮の話として・・。

 もしも、明日、自分以外の世界の全ての男性が犬に、世界の全ての女性が猫になったとしたら。。

 私の自我は弱まっていないだろうか。。

 月日が経つうちに、自他の区別が弱まっていかないだろうか。。


[25616] Re:[25614] [25609] Timeless Stillness より 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/08(Sun) 18:40  

> >  参考になるかもしれません。引用します。
> >
> >
> > 気づきのプロセス
>
> ここから始めますが、かなり省略するつもりです。
>
> 前略
>
> > それではもう少し先へ進みましょう。あなたが自分が貪欲で暴力的で妬み深いということに気づくと何が起きますか? 妬みを取り上げてみましょう。自分が妬み深いことに気づいていますか? どうか私と一緒に一歩一歩進んでください。そして決まったやり方[公式]にしたがっているのではないことを心に留めておいて下さい。これを公式化すれば、すべての意味を失ってしまうでしょう。私は気づきのプロセスを包み拡げています。しかしたんにそれを心で描写することによって学ぶだけなら、今いる場所に居つづけることになります。それに反し、自分が条件づけられているのを見始めれば――それは私が今説明していることに、リアルタイムであなた自身の精神の作動に気づくということですが――あなたは実際に変容が可能になる地点にやってくることになります。
> >
> > そうやってあなたは気づきます。外の物事とそれらへ解釈にだけでなく、[無意識の]妬みにも気づき始めたのです。では自分自身の妬みに気づいたとき何が起こりますか? それを非難するのではないでしょうか? あなたはそれは間違っている、妬んではいけない、愛するべきであると言います。それは理想です。事実はあなたが妬んでいるということです。一方理想はあなたがそうあるべきものです。理想の追求のなかであなたは二元性を作り出します。そこには絶え間ない葛藤があり、あなたはその葛藤に捕われます。
>
> 老婆心で言いますが、条件付けから来る理想の追求があれば葛藤にとらわれます。
>
> > 私が描写しているプロセスにリアルタイムで気づいていますか? そこにはただひとつのこと、あなたが妬み深いということがあります。その他のもの、その理想は無意味です。それは現実のものではありません。そして精神が理想から自由であること、反対物から自由であることは精神にとって非常に難しいことです。なぜなら特定の文化の伝統を通して何世紀にもわたり、我々は英雄とその実例を、完全な人間の理想像を受け入れるように言われて、それに向かって奮闘してきたからです。それが我々が訓練されて来たことです。我々は妬みを妬まないことに変えたいと思います。しかし決してそれを変える方法を発見できません。そして終わりのない葛藤に捕らわれます。
>
> 嫉妬は醜いと言われてもどうしようもなく、開き直って嫉妬深くふるまうか、直そうとして葛藤に苦しむか、そこはみんな知っています。
>
> > さて、精神が自分が妬み深いことに気づいた時、まさにその妬み深いという言葉は非難的です。これについて来ていますか? その感情のまさにそのネーミングが非難がましいのです。しかし精神は言葉によってしか考えることができません。一つの感情がわき起こり、それとともにある言葉が定義されます。そしてその感情は決してその言葉から独立できません。妬みのような感情があるとき、そこに名づけがあります。それであなたはいつも新しい感情に古い観念や蓄積された伝統によってアプローチするのです。感情はいつも新しいのにいつも古い用語に翻訳されます。
>
> 命名が古い軌道を走り出すきっかけなのだ!とKが言います。
>
> > では、精神は妬みのような感情を名づけずに新しいものとして来たらしめることができるでしょうか? その感情の名づけそのものが、それを捕まえて古い枠組みに入れることでそれを古いものにしています。それでは精神は感情を名づけず、名前で呼ぶことによって翻訳せず、その結果非難したり受け入れたりせずにその感情を事実としてただ観察することが可能でしょうか?
>
> 名づけずに見ている。これが第一の関門ですが、これはコメントとしてはっきりしています。
>
> > 自分で経験してみれば、あなたはどれほど精神にとって言語化しないこと、事実に名前をつけないことが難しいかを見ることになるでしょう。それはある感情をもったとき、その感情を名づけないままひとつの事実として純粋に見つめることができるかということです。あなたが感情をもち、それを名づけずにその最後まで実際に追うことができれば、あなたは自分にとても不思議なことが起こっているのに気づくでしょう。現状では精神は事実にアプローチするのに意見や、価値観や、評価や、否認や受容を伴っています。それがあなたがしていることです。
>
> 名づけることなしに見ていることは困難だと言われればそうですが…
>
> > ここに感情があります。それは事実です。精神はその事実になんらかの用語や、意見や、評価や、非難がましい態度をもってアプローチします。それらは死んだものです。理解できますか? それらは死んでいるものです。何の価値もありません。それらはただの記憶、その事実のうえで働く記憶です。
> >
> > 精神は事実に死んだ記憶によってアプローチします。そのため事実は精神の上で働けません。しかしその精神が価値づけをせず、評価も非難も受容も同一化もせずにただ観察すれば、あなたはその事実それ自体が途方もない活力をもっているのを発見するでしょう。なぜならそれは新しいからです。新しいものは古いものを追い払えます。ゆえに、そこに妬まないようにしようとする奮闘はなく、妬みの完全な終止があります。力強さと活力をもっているのはその事実であって、その事実についてのあなたの評価や意見ではありません。その事実をまっすぐに貫いて、その最初から最後までを知ることが気づきのプロセスの全体です。
> どうしても名づける前の嫉妬の感情の噴出に気づく! その時何が起こるかわかりませんが、それこそが多分唯一の入口でしょう。ここから先に進みましょう。
>
> > Bombay 8th Public Talk 28th March 1956


 「条件付け」が目に見えるもの、内面で感じられるものにフィルターをかけているようです。。

 したがって、外の現にあるものを、そのまま見ることはできず、内面にある現にあるものを、そのまま見ることができないようです。

 このフィルターすなわち条件付けを見ることができるか。


[25615] Re:[25609] Timeless Stillness より(2) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/08(Sun) 17:10  

>  参考になるかもしれません。引用します。
>
>
> 気づきについて

前略

> 気持ちが巻き込まれていなければ、視覚的な木への気づきがあるとき、その関係[私と木との結びつき]に分割はありません。しかし木への心理的な反応があれば、その反応は条件づけられた反応であり過去の記憶と経験の反応であって、それが関係を分割します。この反応こそが関係の中で「私」と呼ばれることになるものと「私でないもの」との誕生なのです。これがどのようにしてあなたがあなた自身を世界との関係の中に位置づけるかということです。これがあなたが個人と社会を作り出すやりかたです。

以下私と私でないものや個人と社会の分離の起源が述べられているが、これがよくわからない。心理的反応と私と私でないものの分離は果たして同じなのだろうか?

> 我々は世界をあるがままにではなく、記憶である「私」との様々な関係において見ます。この分割は[現実の]人生と、[心の中で]繁茂していくものすべて――それが精神的存在と呼ばれます――の分割であり、ここからすべての対立と分割が立ち上がるのです。このことにはっきりと気づいていますか?木への気づきがあるときは、そこに[価値]評価はありません。しかし、木への感情的な反応があれば、木が好き嫌いで判断されれば「私」と「私でないもの」の分割が起きます。この「私」は観察されるものとは別のものです。この「私」は関係の中の過去の記憶と過去の経験による反応です。


私の素朴な疑問は、別に木に対して悪意も敵意も 持っていないし、夏の木陰はうれしいが、「私」はいないのかな?

> それに気づいて、何も判断せずに木を観察し、何も判断せずにそれへの反応や反作用を観察できるでしょうか。こうして我々は木を見ることと自分自身を見ることの両方で分割の原理を、「私」と「私でないもの」の原理を根絶します。

ただ見ることが分割の原理や「私」・自我の原理を根絶すると言います。ここはわかるのだが、自我・「私」とはそもそもなにかというとわからない。


[25614] Re:[25609] Timeless Stillness より 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/08(Sun) 14:57  

>  参考になるかもしれません。引用します。
>
>
> 気づきのプロセス

ここから始めますが、かなり省略するつもりです。

前略

> それではもう少し先へ進みましょう。あなたが自分が貪欲で暴力的で妬み深いということに気づくと何が起きますか? 妬みを取り上げてみましょう。自分が妬み深いことに気づいていますか? どうか私と一緒に一歩一歩進んでください。そして決まったやり方[公式]にしたがっているのではないことを心に留めておいて下さい。これを公式化すれば、すべての意味を失ってしまうでしょう。私は気づきのプロセスを包み拡げています。しかしたんにそれを心で描写することによって学ぶだけなら、今いる場所に居つづけることになります。それに反し、自分が条件づけられているのを見始めれば――それは私が今説明していることに、リアルタイムであなた自身の精神の作動に気づくということですが――あなたは実際に変容が可能になる地点にやってくることになります。
>
> そうやってあなたは気づきます。外の物事とそれらへ解釈にだけでなく、[無意識の]妬みにも気づき始めたのです。では自分自身の妬みに気づいたとき何が起こりますか? それを非難するのではないでしょうか? あなたはそれは間違っている、妬んではいけない、愛するべきであると言います。それは理想です。事実はあなたが妬んでいるということです。一方理想はあなたがそうあるべきものです。理想の追求のなかであなたは二元性を作り出します。そこには絶え間ない葛藤があり、あなたはその葛藤に捕われます。

老婆心で言いますが、条件付けから来る理想の追求があれば葛藤にとらわれます。

> 私が描写しているプロセスにリアルタイムで気づいていますか? そこにはただひとつのこと、あなたが妬み深いということがあります。その他のもの、その理想は無意味です。それは現実のものではありません。そして精神が理想から自由であること、反対物から自由であることは精神にとって非常に難しいことです。なぜなら特定の文化の伝統を通して何世紀にもわたり、我々は英雄とその実例を、完全な人間の理想像を受け入れるように言われて、それに向かって奮闘してきたからです。それが我々が訓練されて来たことです。我々は妬みを妬まないことに変えたいと思います。しかし決してそれを変える方法を発見できません。そして終わりのない葛藤に捕らわれます。

嫉妬は醜いと言われてもどうしようもなく、開き直って嫉妬深くふるまうか、直そうとして葛藤に苦しむか、そこはみんな知っています。

> さて、精神が自分が妬み深いことに気づいた時、まさにその妬み深いという言葉は非難的です。これについて来ていますか? その感情のまさにそのネーミングが非難がましいのです。しかし精神は言葉によってしか考えることができません。一つの感情がわき起こり、それとともにある言葉が定義されます。そしてその感情は決してその言葉から独立できません。妬みのような感情があるとき、そこに名づけがあります。それであなたはいつも新しい感情に古い観念や蓄積された伝統によってアプローチするのです。感情はいつも新しいのにいつも古い用語に翻訳されます。

命名が古い軌道を走り出すきっかけなのだ!とKが言います。

> では、精神は妬みのような感情を名づけずに新しいものとして来たらしめることができるでしょうか? その感情の名づけそのものが、それを捕まえて古い枠組みに入れることでそれを古いものにしています。それでは精神は感情を名づけず、名前で呼ぶことによって翻訳せず、その結果非難したり受け入れたりせずにその感情を事実としてただ観察することが可能でしょうか?

名づけずに見ている。これが第一の関門ですが、これはコメントとしてはっきりしています。

> 自分で経験してみれば、あなたはどれほど精神にとって言語化しないこと、事実に名前をつけないことが難しいかを見ることになるでしょう。それはある感情をもったとき、その感情を名づけないままひとつの事実として純粋に見つめることができるかということです。あなたが感情をもち、それを名づけずにその最後まで実際に追うことができれば、あなたは自分にとても不思議なことが起こっているのに気づくでしょう。現状では精神は事実にアプローチするのに意見や、価値観や、評価や、否認や受容を伴っています。それがあなたがしていることです。

名づけることなしに見ていることは困難だと言われればそうですが…

> ここに感情があります。それは事実です。精神はその事実になんらかの用語や、意見や、評価や、非難がましい態度をもってアプローチします。それらは死んだものです。理解できますか? それらは死んでいるものです。何の価値もありません。それらはただの記憶、その事実のうえで働く記憶です。
>
> 精神は事実に死んだ記憶によってアプローチします。そのため事実は精神の上で働けません。しかしその精神が価値づけをせず、評価も非難も受容も同一化もせずにただ観察すれば、あなたはその事実それ自体が途方もない活力をもっているのを発見するでしょう。なぜならそれは新しいからです。新しいものは古いものを追い払えます。ゆえに、そこに妬まないようにしようとする奮闘はなく、妬みの完全な終止があります。力強さと活力をもっているのはその事実であって、その事実についてのあなたの評価や意見ではありません。その事実をまっすぐに貫いて、その最初から最後までを知ることが気づきのプロセスの全体です。
どうしても名づける前の嫉妬の感情の噴出に気づく! その時何が起こるかわかりませんが、それこそが多分唯一の入口でしょう。ここから先に進みましょう。

> Bombay 8th Public Talk 28th March 1956


[25613] Re:[25612] 他者 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/08(Sun) 14:05  

>  ここは読者にとって一番わかりにくい部分ではなかろうか。
>
>
> >私がいつもあなたを対象として測り、あなたのようであろうと苦闘しているなら、その時は私は、私のあるがままを自分自身で否定しているのです。したがって私は幻想をつくり出しているのです。私が自分自身を分析し、自分についての知識に少しづつ加えたり、国家、救世主あるいはイデオロギーの何であろうが、外観の何かに同一化するときと丁度同じように、比較はどんな形であれ、より大きな幻想とより多くの惨めさに導くという事を理解するとき ― そのような過程はすべてより大きな順応、従ってより大きな葛藤に導くだけであることを理解するとき ― このすべてを見るとき私はそれを完全に捨てます。その時私の心はもはや求めてはいません。これを理解することは非常に重要です。その時心はもはや模索、捜索、探索していません。これは心があるがままの物事に満足しているという意味ではなく、そのような心は幻想を持たないのです。そのような心はその時まったく違った次元の中に移ることができます。
>
> ここで「次元」ということばが出てきた。
>
> >私たちが通常その中で生きている次元、苦痛、快楽、恐怖である毎日の生は、心を条件付け、心の性質を制限していて、そして苦痛、快楽、恐怖が去ったときは(それはもはや喜びを持たないという意味ではありません。喜びは快楽とは全く異なる何かです) ― そのとき心は葛藤のない、「他者」の感覚のない、異なる次元の中で機能します。
>
> ここでは「他者」となっているが、他のところでは「他者意識」(十菱)「他アザーネス」(大野)となっている。
>
> 異なる次元の中で機能する?
>
> >比較し、測ることを捨てる時、心は別の次元に入ると。
> ?
>
> >  言葉の上ではただここまで来ることができるだけです。向こうにあるものは言葉にできません。なぜなら言葉はそのものではないからです。今までは記述し、説明することができましたが、言葉や説明は扉を開けることはできません。扉を開くのは日々の気づきと注意です ― どのように話すか、何を言うか、どのように歩くか、何を考えるかについての気づきです。それは部屋を掃除し、整理しておくのに似ています。部屋を整理しておくことはある意味で重要ですが、しかし別の意味では全く重要ではありません。部屋に秩序は無ければなりませんが、しかし秩序は扉や窓を開かないでしょう。扉を開くのは意欲や欲望ではありません。あなたはどうしてもあの別のものを招くことはできません。
>
> あの別のもの?ここの文章は意味がわからない。
>
> >あなたができるすべては部屋に秩序を保つことです。それはそれ自体で美徳であり、それがもたらすもののためではありません。正気で、合理的で、秩序正しくあること。その時おそらく、幸運なら、窓が開き、そよ風が入ってくるでしょう。あるいは入らないかもしれません。それはあなたの心の状態に依ります。そしてその心の状態は自分自身によってのみ理解されることができます。それを見守り、そして決してそれを形作ろうとせず、味方せず、反対せず、同意せず、正当化せず、非難せず、判断しないことによって ― それは何の選択もなしに見守ることを意味します。そしてこの無選択の気づきからたぶん扉は開くでしょう。そして葛藤も時間もないあの次元が何か知るでしょう。
>
> 葛藤のないあの次元?
>
> >葛藤がない。時間がない。それは実現するように思いますが、そして日常生活もできると思いますが、しかし全的な気付き、あるいは全注意の位置づけがよくわからない。何か超常的、神秘的に感じる気がします。母親の幼児に対する気配り、注意ならわかりますが。皆さんのご意見を聴きたいものです。
>
> クリシュナムルティは、ここに来て思わせぶりな言葉遣いをしています。
> 別なもののあの次元と言ったところで一般の人には何のことかわからないでしょう。
>
> > (3章 終わり)


ここに出てくる幾つかの無明さんのコメントの気持ちはわかります。
どうしてもここを分かって価値あるものか、そうでないのか、そうでなければ何があるのかを掴まなければなりません。

ちょっと時間をいただいて整理してみましょう。


[25612] 他者 投稿者:無明 投稿日:2018/07/08(Sun) 10:51  

 ここは読者にとって一番わかりにくい部分ではなかろうか。


>私がいつもあなたを対象として測り、あなたのようであろうと苦闘しているなら、その時は私は、私のあるがままを自分自身で否定しているのです。したがって私は幻想をつくり出しているのです。私が自分自身を分析し、自分についての知識に少しづつ加えたり、国家、救世主あるいはイデオロギーの何であろうが、外観の何かに同一化するときと丁度同じように、比較はどんな形であれ、より大きな幻想とより多くの惨めさに導くという事を理解するとき ― そのような過程はすべてより大きな順応、従ってより大きな葛藤に導くだけであることを理解するとき ― このすべてを見るとき私はそれを完全に捨てます。その時私の心はもはや求めてはいません。これを理解することは非常に重要です。その時心はもはや模索、捜索、探索していません。これは心があるがままの物事に満足しているという意味ではなく、そのような心は幻想を持たないのです。そのような心はその時まったく違った次元の中に移ることができます。

ここで「次元」ということばが出てきた。

>私たちが通常その中で生きている次元、苦痛、快楽、恐怖である毎日の生は、心を条件付け、心の性質を制限していて、そして苦痛、快楽、恐怖が去ったときは(それはもはや喜びを持たないという意味ではありません。喜びは快楽とは全く異なる何かです) ― そのとき心は葛藤のない、「他者」の感覚のない、異なる次元の中で機能します。

ここでは「他者」となっているが、他のところでは「他者意識」(十菱)「他アザーネス」(大野)となっている。

異なる次元の中で機能する?

>比較し、測ることを捨てる時、心は別の次元に入ると。


>  言葉の上ではただここまで来ることができるだけです。向こうにあるものは言葉にできません。なぜなら言葉はそのものではないからです。今までは記述し、説明することができましたが、言葉や説明は扉を開けることはできません。扉を開くのは日々の気づきと注意です ― どのように話すか、何を言うか、どのように歩くか、何を考えるかについての気づきです。それは部屋を掃除し、整理しておくのに似ています。部屋を整理しておくことはある意味で重要ですが、しかし別の意味では全く重要ではありません。部屋に秩序は無ければなりませんが、しかし秩序は扉や窓を開かないでしょう。扉を開くのは意欲や欲望ではありません。あなたはどうしてもあの別のものを招くことはできません。

あの別のもの?ここの文章は意味がわからない。

>あなたができるすべては部屋に秩序を保つことです。それはそれ自体で美徳であり、それがもたらすもののためではありません。正気で、合理的で、秩序正しくあること。その時おそらく、幸運なら、窓が開き、そよ風が入ってくるでしょう。あるいは入らないかもしれません。それはあなたの心の状態に依ります。そしてその心の状態は自分自身によってのみ理解されることができます。それを見守り、そして決してそれを形作ろうとせず、味方せず、反対せず、同意せず、正当化せず、非難せず、判断しないことによって ― それは何の選択もなしに見守ることを意味します。そしてこの無選択の気づきからたぶん扉は開くでしょう。そして葛藤も時間もないあの次元が何か知るでしょう。

葛藤のないあの次元?

>葛藤がない。時間がない。それは実現するように思いますが、そして日常生活もできると思いますが、しかし全的な気付き、あるいは全注意の位置づけがよくわからない。何か超常的、神秘的に感じる気がします。母親の幼児に対する気配り、注意ならわかりますが。皆さんのご意見を聴きたいものです。

クリシュナムルティは、ここに来て思わせぶりな言葉遣いをしています。
別なもののあの次元と言ったところで一般の人には何のことかわからないでしょう。




> (3章 終わり)




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