雑感
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[25709] 分離 投稿者:無明 投稿日:2018/07/28(Sat) 08:52  

分離という言葉が、このサイトでよく出てきます。花岡修平氏が「分離」について、どのように述べているか参考に紹介します。
感性が優れた人の文章は違う。


分離はない

主語を使わない、あるいは、犬とか猫とか、木とか空とか雲とか、名詞を使わない。
そのような事が、何の役に立つのかと言う事を、以前申し上げました。

これは、世界に置かれた個々についての境目を消し去る事なのです。

そのような気持ちで周囲を見てみると、見える全てが全体的に、分かれずに、
あたかもひとつの全部がただ部分的に模様が違っているように見えるのです。

注意深く読んでください。一読では伝わりません。
感覚に入れなければ伝わりません。

つまり、まず全てが現れる場が用意されて、場そのものの様々な変容が模様となって
見えているという事です。

その場とはつまり、そのために費やされる程の意識の事であり、この身体も、世界の一々も、そしてこの「わたし(という観念)」も、同じ意識エネルギーを利用して現されていて、ほんとうは区分が無く、これら全てがひとつだと言う事です。


これは「あるがまま」あるものを、そのとおり「あるがまま」見ている状態です。
模様の違いには気づいても、模様の違いの境目が個々としての境目である見方は消えているのです。

全部に気づいていながら、「あるがまま」見ている状態。
全的に見ているそこに、「わたし」という特別な状態はありません。

特定の範囲を示す言葉、名前を思い浮かべたとき、そこには分離が生じます。
分離するから、区別が生じ、区別するから「わたし」が現れます。
名前は、世界を個々に区別する魔法となるのです。

それはまた、世の中(人々の営み)に摩擦(苦しみ)を生じさせる魔法でもあります。
名前で分離し、区別するから比較をしてしまいます。

比較が格差を際立たせ、それによって人々は不平等からなる不満を思うのです。

一々に名前を適用せず、全体を見て、しかも違いにも気づいている。
気づいていても、その違いによって区別しない。
あくまでも、全的に見る。

それは現れというこの今を、「あるがまま」見ている姿であって、それは全く赤ちゃんの見方です。
赤ちゃんも個々の形や色の違いは気づいているのでしょうが、個々という見方を知るはずもありません。

なぜなら、言葉も名前も知らないからです。
まったく、現れを、現れるがまま見て、名前を付けず、世界と「わたし」という分離もなく、素直にただ見ているだけです。

そのような赤ちゃんには、「わたし」はありません。
あるのは、見ている状態だけがあるのです。
在る事に「気づいている」だけです。
価値的に断定もせず、裁きもしません。

嬉しく快適であれば笑い、そうでなければ泣いている。
始めてみる世界は、彼にとって驚きでしょう。
五感の感覚は新鮮でしょう。

そのように世界を見て見なさい。

我々だって、一瞬一瞬が、初めて見る世界なのです。
今見ている世界は、さっきの世界ではありません。
それは既に、記憶に落ちて消えてしまいました。
この今の世界が新鮮でないはずがありません。
新鮮でないのは、過去の、消え去った世界を見ているのです。
それは、記憶側のイメージを適用して見ているだけで、今を見ていません。

この今、初めて見る世界を、全的に享受するのです。
美しくないはずがありません。
輝いていないはずがありません。

しかし、美しくても「美しい」とかも思わず、ただ感動しなければいけません。
言葉を思い浮かべる事無く、ただ世界に感動してみるのです。

それができるだけの天真さを、誰もが以前は持っていました。
そのような純粋な者であったのです。

それが、世界の一々に名前を付け、区別し、意味づけをした結果、というより、そのような手法を(世間から)押し付けられ、「あたりまえ」としたから、我々はこの世界以外の真実を忘却してしまいました。

神を悟る事は、人として生まれた事の重大な意義です。
しかし、「神」という「名前」を付けてしまうから、「わたし」と「神」は分離してしまいます。

それには、ほんとうは名前はありません。
ほんとうは、我々は、それでもあるのです。
それしか無いのです。
それだけが在るのです。

その「それ」に気づいていて、しかも、世界にも気づいていて、一切を全的に見る事が
できるでしょうか。

世界にも「それ」を見る事ができるでしょうか。

ここからは、全く言葉が適用できないゾーンです。
感性に委ね、感覚し、「それ」と「世界」の隔たりが無い事に気づけるでしょうか。
この感動、この驚き、この素晴らしさに泣けるでしょうか。

何も目的を持たず、到達しようという思いを捨て、あるがままを享受しようとするなら、何かが起こるでしょう。

実は、分離は分離を超え、一元に帰るために現れます。
苦悩は苦悩を超え、苦悩など無く、ただ在る事に気づくために現れます。

神は概念です。
「わたし」は観念です。

名付ける事で意味づけているだけではないでしょうか。

唯一実体は、「在る」そのそれです。
それを「わかる」事ができるでしょうか。

共に在り、また、それで在る事を、わかる事ができるでしょうか。
この全てを、愛する事ができるでしょうか。

永遠という概念を超え、つまり、初めも終わりも永遠も適用する意味など無いその「在る」で在る事に納得できるでしょうか。

だからと言って、そんな事を考える必要はありません。
ただ、それで在るかどうかです。
それで在るとき、自ずと知る事になります。
人はそれ自身で知るように出来ているのです。



[25708] Re:[25707] 既知からの自由6-2 投稿者:無明 投稿日:2018/07/28(Sat) 08:39  

> 6章-2 [怒り]
>
>  暴力のもっとも一般的な表現の一つは怒りです。私の妻や妹が攻撃されるとき、私は当然怒ると言います。自分の国が、自分の考えや、主義や、生き方が攻撃されたとき、私は当然怒ります。自分の習慣や取るに足らないちっぽけな意見が攻撃されたときもまた怒ります。足の指を踏まれたり侮辱されたとき怒りますし、もしあなたが私の妻と駆け落ちしたら私は嫉妬し、その嫉妬は、妻は私の所有物だから、正当だと見なされます。

はい。妻は私の所有物です。体裁のいい永久家政婦です。便利屋です。その妻が浮気でもしたら烈火のごとく怒ります。その深層心理は、妻がよその男に走られたら困るという恐怖心からくる。
世の旦那方の気持ちを代弁しました。もちろん口には出しません。

>そしてこの全ての怒りは道徳的に正当化されます。でも国のために殺すこともまた正当化されます。そこで怒り、それは暴力の一部ですが、について話している時、私たちは怒りを正しいあるいは正しくない怒りという観点から、自分の性向や環境的な衝動にしたがって見るのでしょうか、それとも怒りのみを見るのでしょうか? いったい正しい怒りがあるのでしょうか? それともただ怒りのみがあるのでしょうか? 

正しい怒りがあるか、怒りのみがあるか。

>いい影響とか悪い影響はなく、影響のみがありますが、自分に合わない何かによって影響されるとき私はそれを悪い影響と言うのです。

怒りというのは周囲に、よくない影響を与えます。自分自身にも。
なんとも言えない不快な気持ちになる。
人の喧嘩を見ると気分が悪い。とくに夫婦喧嘩。

>

>  あなたが自分の家族、国、旗と呼ばれる色のついた布切れ、信念、観念、教義、自分の必要なものや所有するものを守る瞬間、まさにその守ることが怒りを示します。ですからどんな説明も正当化もなしに、「自分の所有物を守らねばならない」とか「怒ったのは正しかった」とか「怒るなんて私はなんと愚かなのか」と言うことなしに、怒りを見ることができるでしょうか? 

言葉なしに怒りを見ることができるか。

>怒りをそれだけの何かのように見ることが出来ますか? それを完全に、客観的に見ることが出来ますか、

ここで「客観的に見る」という言葉が出てきた。K の記述では、あまり見たことがない。

>それは怒りを防御したり非難したりしないという事ですが? 出来ますか?
>
>  あなたに敵意を持っているとき、あるいはあなたがなんと素晴らしいんだと思っているとき、私はあなたを見ることが出来るでしょうか? あなたを見ることが出来るのはこのようなことが含まれていない或る注意を持って見るときだけです。では、私は怒りをそれと同じように見ることが出来るでしょうか? それは私が当の事柄に対して晒されていること、抵抗しないこと、この途方もない現象をそれに対する何の反応もなしに見つめていることを意味します。


別な著書「自我の終焉」では、怒りに直面する人はほとんどいないとある。
ほとんどいないとは、全然いないと同じではないだろうか?
>
>  怒りは自分の一部であるので、怒りを冷静に見ることは非常に困難ですが、

怒りを冷静に見る?
あなたはできないことを我々に言われるのだろうか。

>しかしそれが私のしようとしていることです。ここに私が、暴力的な人間がいます、黒、褐色、白色あるいは紫色だろうが。この暴力を遺伝で受け継いだのか社会が私の中に生み出したのかには、私は関わってはいません。私が関心のある全ては暴力から自由であることがいったい可能かどうかということです。暴力から解放されることが私にとっては全てです。それは私にはセックスや食べ物や地位よりもっと重要です。というのは暴力は私を堕落させているからです。それは私を破壊しており、世界を破壊しています。そして私はそれを理解したいのです。それを越えたいのです。私はこの世界中のあらゆる怒りと暴力に責任を感じます。私は責任を感じます ― ただの言葉ではありません ― そして自分に「自分自身が怒りを越え、暴力を越え、困難を越える時のみ何かをすることができる」と言います。自分自身の中の暴力を理解しなければならないという私の持つこの感情が、見いだそうとするとてつもない活力と情熱をもたらすのです。

なんで世界中の暴力に責任を感じるのですか。
>
>  しかし暴力を越えるにはそれを抑制できません、否定できません、「暴力は自分の一部だ、そういうことだよ」とか「私はそれを欲しない」と言う事はできません。私はそれを見なければなりません、学ばなければなりません。暴力と非常に親密にならなければならず、それを非難したり正当化したりするなら親密にはなれません。

暴力と親密?
あなたは何をおっしゃっているのですか。
そうではなく、暴力を手放すことです。即座に。

>にもかかわらず、私達は非難するのです。正当化するのです。それゆえ、さしあたり、非難したり、正当化することをやめようと言っているのです。

暴力を非難したり、正当化することはやめようということですか?
世間では暴力を非難しています。戦争反対というのもそうです。
>
> (続く)


[25707] 既知からの自由6-2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/28(Sat) 07:11  

6章-2 [怒り]

 暴力のもっとも一般的な表現の一つは怒りです。私の妻や妹が攻撃されるとき、私は当然怒ると言います。自分の国が、自分の考えや、主義や、生き方が攻撃されたとき、私は当然怒ります。自分の習慣や取るに足らないちっぽけな意見が攻撃されたときもまた怒ります。足の指を踏まれたり侮辱されたとき怒りますし、もしあなたが私の妻と駆け落ちしたら私は嫉妬し、その嫉妬は、妻は私の所有物だから、正当だと見なされます。そしてこの全ての怒りは道徳的に正当化されます。でも国のために殺すこともまた正当化されます。そこで怒り、それは暴力の一部ですが、について話している時、私たちは怒りを正しいあるいは正しくない怒りという観点から、自分の性向や環境的な衝動にしたがって見るのでしょうか、それとも怒りのみを見るのでしょうか? いったい正しい怒りがあるのでしょうか? それともただ怒りのみがあるのでしょうか? いい影響とか悪い影響はなく、影響のみがありますが、自分に合わない何かによって影響されるとき私はそれを悪い影響と言うのです。

 あなたが自分の家族、国、旗と呼ばれる色のついた布切れ、信念、観念、教義、自分の必要なものや所有するものを守る瞬間、まさにその守ることが怒りを示します。ですからどんな説明も正当化もなしに、「自分の所有物を守らねばならない」とか「怒ったのは正しかった」とか「怒るなんて私はなんと愚かなのか」と言うことなしに、怒りを見ることができるでしょうか? 怒りをそれだけの何かのように見ることが出来ますか? それを完全に、客観的に見ることが出来ますか、それは怒りを防御したり非難したりしないという事ですが? 出来ますか?

 あなたに敵意を持っているとき、あるいはあなたがなんと素晴らしいんだと思っているとき、私はあなたを見ることが出来るでしょうか? あなたを見ることが出来るのはこのようなことが含まれていない或る注意を持って見るときだけです。では、私は怒りをそれと同じように見ることが出来るでしょうか? それは私が当の事柄に対して晒されていること、抵抗しないこと、この途方もない現象をそれに対する何の反応もなしに見つめていることを意味します。

 怒りは自分の一部であるので、怒りを冷静に見ることは非常に困難ですが、しかしそれが私のしようとしていることです。ここに私が、暴力的な人間がいます、黒、褐色、白色あるいは紫色だろうが。この暴力を遺伝で受け継いだのか社会が私の中に生み出したのかには、私は関わってはいません。私が関心のある全ては暴力から自由であることがいったい可能かどうかということです。暴力から解放されることが私にとっては全てです。それは私にはセックスや食べ物や地位よりもっと重要です。というのは暴力は私を堕落させているからです。それは私を破壊しており、世界を破壊しています。そして私はそれを理解したいのです。それを越えたいのです。私はこの世界中のあらゆる怒りと暴力に責任を感じます。私は責任を感じます ― ただの言葉ではありません ― そして自分に「自分自身が怒りを越え、暴力を越え、困難を越える時のみ何かをすることができる」と言います。自分自身の中の暴力を理解しなければならないという私の持つこの感情が、見いだそうとするとてつもない活力と情熱をもたらすのです。

 しかし暴力を越えるにはそれを抑制できません、否定できません、「暴力は自分の一部だ、そういうことだよ」とか「私はそれを欲しない」と言う事はできません。私はそれを見なければなりません、学ばなければなりません。暴力と非常に親密にならなければならず、それを非難したり正当化したりするなら親密にはなれません。にもかかわらず、私達は非難するのです。正当化するのです。それゆえ、さしあたり、非難したり、正当化することをやめようと言っているのです。

(続く)


[25706] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/07/27(Fri) 19:32  

>  さて私が暴力的な人間であるということが私に明らかでなければなりません。私は、怒りの中の暴力、私の性的要求の中の暴力、敵意を生み出す憎悪の中の暴力、嫉妬の中の暴力などを経験しました ― 私は経験しました。私は知りました。そして自分自身に言います。「私はこの問題全体を戦争に現れたただの一断片だけでなく、動物にも存在し私もその一部である人間のこの攻撃性を理解したい」と。
>
>  この攻撃性を理解したい。・・・

この攻撃性を理解することが重要。それには自身の暴力性を調べる
>
> >  暴力は単に他の人を殺すことではありません。とげとげしい言葉を使うとき、人を無視するそぶりをするとき、恐怖があるため服従するとき、それは暴力です。ですから暴力は単に神の名のもとでの、社会や国家の名のもとでの、組織的な虐殺だけではありません。暴力はずっと微妙で、ずっと深く、そして私達は暴力のまさにその深みを調べようとしているのです。
>
> 暴力の深みに入って行く。・・・

何故そうなるのか。
外部に暴力があるのはわかりきっている。そうではなく、内部を調べる。暴力の正体。



[25705] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/07/27(Fri) 19:26  

真我に目覚めていない人間のクリシュナムルティの解説はいりません。
思考が解説してもしょうがない。
クリシュナムルティがいうように何で、自身にある暴力性に向き合うことをしないのか。
トランプとか北朝鮮など関係ないだろう。
外部しか見ようとしない。







[25704] Re:[25703] [25702] 既知からの自由6-1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/27(Fri) 15:02  

> > 6章-1 [暴力]
> >
> > 恐怖、快楽、悲しみ、思考そして暴力は全て相互に関係しています。私達のほとんどは暴力に、誰かを嫌ったり、特定の人種や集団の人たちを憎んだり、他人に対して敵対的な感情を持つことに快楽を味合います。しかしあらゆる暴力が終わった心の状態には、葛藤と憎悪と恐怖を伴う暴力の快楽とは全く異なる喜びがあります。
>
>  >私達のほとんどは暴力に、誰かを嫌ったり、特定の人種や集団の人たちを憎んだり、他人に対して敵対的な感情を持つことに快楽を味合います。−− 事実ですがこうも的確に示されると怖い現実ですね。
>  >しかしあらゆる暴力が終わった心の状態には、葛藤と憎悪と恐怖を伴う暴力の快楽とは全く異なる喜びがあります。−− これも事実ですが、実際にそれを知っている、微かなその香気だけにせよ、人でないと言えない言明です。


 >恐怖、快楽、悲しみ、思考そして暴力は全て相互に関係しています。−−、恐怖と快楽の関係は、前に記されている。そして、「暴力の中の快楽」についても明確に陳述された。

 暴力を見るときに、恐怖を見るときのように、その全体を見ようとするならば、「恐怖」「快楽」「悲しみ」「思考」「葛藤」「憎悪」そして「暴力」を、全体として見る。


> >  暴力の根源そのものまで進み、それから解放されることが出来るでしょうか? さもなければ私達は果てしなく互いに戦って生きていくでしょう。それがあなたの望む生き方なら ― 殆どの人がそうしている様ですが ― その時は続けてください。「おや、残念ですが、暴力は決して終わることはできません」と言われるのなら、あなたと私に交流の手段はなく、あなたは自分を閉ざしてしまったのです。しかしもし違った生き方があるかも知れないと言われるならば、互いに交流できるかも知れません。
>
>  この探求の旅に加わって交流できるのは、群れ集う人の中の異例の人になりそうですね。


 「暴力の中の快楽」これが暴力を惹きつける。娯楽の中で暴力的な事柄は重要な刺激的要素となっている。実際の人間関係においても、いじめなど暴力が絶えない。
 特に「勝ち組」は暴力の刺激を放棄しにくい。人の上に立って、下の者たちを支配したがる。その典型的な例がトランプ。彼は快楽の湯ぶねに浸かっている。暴力を手放す気はない。


 暴力の中に、快楽と共に、恐怖や葛藤、憎悪や悲しみを見ることができるか。もしも、これができなければ、「暴力の中の快楽」によって暴力に惹きつけられ続けるのではなかろうか。

 暴力から離れるのは、暴力と共にある「恐怖」「悲しみ」「憎悪」そして「葛藤」を見る場合ではなかろうか。


> >  そこで自分自身の中のあらゆる形の暴力を完全に終わらせ、そしてなおこのぞっとするような残虐な世界に生きることが可能かどうか、交流できる私達で一緒に考えましょう。私はそれは可能だと思います。私は自分に少しの憎悪、嫉妬、心配または恐怖を持ちたくありません。私は完全に平和に生きたいのです。それは死にたいという事ではありません。私は、とても満ち、とても豊かで、とても美しいこの素晴らしい地上で生きたいのです。木、花、川、草原、女性、男の子や女の子を見たいし、同時に自分自身や世界と完全に平和に生きたいのです。私は何をすることができるでしょうか?
>
>  これが私の本当に望むささやかな願いです。


 >私は自分に少しの憎悪、嫉妬、心配または恐怖を持ちたくありません。私は完全に平和に生きたいのです。それは死にたいという事ではありません。私は、とても満ち、とても豊かで、とても美しいこの素晴らしい地上で生きたいのです。木、花、川、草原、女性、男の子や女の子を見たいし、同時に自分自身や世界と完全に平和に生きたいのです。−−、「真のユートピア」とはこのようなものかもしれません。。外面的な事柄ではなく、内面的な事柄が記されている。
 私の幼児期の記憶では、なぜか、そのような世界に生きていたような記憶があるが・・。


> >  外部の社会の中の暴力 ― 戦争、暴動、国家の対立、階級闘争 ― だけでなく、自分の内部においてもまた、暴力をどんなふうに見るかを知れば、おそらくそれを越えることが出来るでしょう。
> >
> >  ここに一つの非常に複雑な問題があります。何世紀につぐ何世紀もの間、人間は暴力的でした。宗教は世界中で人を手なずけようとしてきましたが、どれ一つ成功しませんでした。ですからこの問題に入って行くなら、少なくとも非常に真剣でなければならないと思われます。なぜならそれは私達を全く違う領域に導くだろうからです。しかし単に知的な楽しみのためにこの問題をもてあそぶなら、、殆ど得るものはないでしょう。
>
>  はい。


 前回、恐怖を見ることによって、自我が終焉し、時間のない世界へ移行したように、暴力を見ることによっても、それができることをほのめかしているようだ。。



> >  この問題について自分は非常に真剣なのだが、世界中の非常に多くの他の人たちが真剣でなく、それについて何かをする用意ができていない限り、自分のすることは何の役に立つのだろうかと感じるかもしれません。私は他の人たちがそれを真剣に取り上げようが取り上げまいが気にしません。私はそれを真剣に取り上げ、それで十分です。そんなことまで私の知ったことではありません。私自身が、一人の人間として、この暴力の問題について強く感じており、自分自身の中で自分が暴力的でないのを見たいのです ― しかし私はあなたや他の人に「暴力的であってはいけない」と言うことは出来ません。それは意味がありません ― あなたが自分でそれを望まない限り。そこであなた自身がこの暴力の問題を理解することを本当に欲するなら、探求の旅を一緒に続けましょう。
>
>  >世界中の非常に多くの他の人たちが真剣でなく、それについて何かをする用意ができていない限り、自分のすることは何の役に立つのだろうかと感じるかもしれません。−− 私もそう考え、絶望的な気分になります。
>  >私はそれを真剣に取り上げ、それで十分です。・・・私自身が、一人の人間として、この暴力の問題について強く感じており、自分自身の中で自分が暴力的でないのを見たいのです −− ハイ、よくわかりました。ここにKの教え(探求というべきか)の根本精神があります。これは自分のみの平安にかかわっていることではありません。
>  ここまでこの章の導入部です。


 他者の変容を願っても、本人が>あなたが自分でそれを望まない限り−−、その願いは無意味となる。

 他者の変容によって世の中の変容を願うのではなく、まずは自身の変容。



> >  この暴力の問題は外側にあるのでしょうか、それともここにあるのでしょうか? 問題を外部の世界で解決したいのでしょうか、それとも暴力自体を、それが自分の中にあるので問題にしているのでしょうか? 自分の中で暴力から自由なら、「暴力、取得欲、貪欲、羨望、残虐性に満ちた世界で、私はどうやって生きていけばよいのだろうか? 私は破滅させられるのではないだろうか?」という質問が起きます。それは必然的に問われる当然の質問です。そのような質問をするとき、あなたは実際には平和に生きていないように私には思われます。平和に生きているなら全く何の問題もありません。軍隊に参加するのを拒否するので投獄されるかも知れないし、戦うのを拒否するので銃殺されるかも知れません ― しかしこれは問題ではありません。あなたは銃殺されます。このことを理解することは途方もなく重要です。
>
>  >自分の中で暴力から自由なら、「暴力、取得欲、貪欲、羨望、残虐性に満ちた世界で、私はどうやって生きていけばよいのだろうか? 私は破滅させられるのではないだろうか?」という質問が起きます。それは必然的に問われる当然の質問です。そのような質問をするとき、あなたは実際には平和に生きていないように私には思われます。平和に生きているなら全く何の問題もありません。−− 上記のような質問をするとき、実際には平和に生きていないように思われるというのはそうですね。平和に生きているなら、物事は問題にはならずに何とかするでしょう。熊に出会った時のように。
>  心の平和な人間にはサバイバルという問題もない!?・・・


 野生を見ていると、防衛力を備えています。いも類のほとんどは毒を有しています。食べられないために。

 そこで、人は防衛力を有せずには、他者の暴力、取得欲、貪欲、羨望、残虐性の餌食になるのではないのか?という問いが>必然的に問われる当然の質問−−となるとのこと。

 ネアンデルタール人はホモ・サピエンスにやられた。

 アメリカ大陸原住民は西洋人にやられた。

 アフリカ大陸原住民は奴隷となった。

 防衛力なしに搾取されるのではないのか・・という問い。

 この問いは二元性(自他の区別)から発せられる問いである。

 二元性を生きている中には平和はありえない。二元性の生の中には、生死がある。

 自他の区別なく、生死の区別がないところでは、そのような問いは生じない。>平和に生きているなら全く何の問題もありません。軍隊に参加するのを拒否するので投獄されるかも知れないし、戦うのを拒否するので銃殺されるかも知れません ― しかしこれは問題ではありません。あなたは銃殺されます。このことを理解することは途方もなく重要です。−−、始まりは自由からということでしょうか。

 前回の恐怖を見ることによって、二元性から離れ、平和に生き、そうであれば、>このことを理解することは途方もなく重要です−−、このことを理解できる。


 前回の真理の核心事項が活きてくる。


> >  私達は暴力を事実として、観念としてではなく、人間に存在する事実として理解しようとしており、そして人間とは私自身です。そして問題に入って行くには私はそれに対して完全に傷つきやすく、開いていなければなりません、私は自分自身を自分自身にさらけ出さなければなりません ― 必ずしも私をあなたにさらけ出すのではなく、何故ならあなたは興味がないかもしれませんから ― しかし私は、どの地点でも止まってもうこれ以上行けないと言うことのない、終わりまでこのものを正確に見ることを要求する心の状態になければなりません。
>
>  暴力を観念として取り上げるのでなく、事実(リアル)として正確に見るという態度を貫く。自分に防御の障壁を張り巡らすことなく。


 死を厭わずについてゆく。



> >  さて私が暴力的な人間であるということが私に明らかでなければなりません。私は、怒りの中の暴力、私の性的要求の中の暴力、敵意を生み出す憎悪の中の暴力、嫉妬の中の暴力などを経験しました ― 私は経験しました。私は知りました。そして自分自身に言います。「私はこの問題全体を戦争に現れたただの一断片だけでなく、動物にも存在し私もその一部である人間のこの攻撃性を理解したい」と。
>
>  この攻撃性を理解したい。・・・
>
> >  暴力は単に他の人を殺すことではありません。とげとげしい言葉を使うとき、人を無視するそぶりをするとき、恐怖があるため服従するとき、それは暴力です。ですから暴力は単に神の名のもとでの、社会や国家の名のもとでの、組織的な虐殺だけではありません。暴力はずっと微妙で、ずっと深く、そして私達は暴力のまさにその深みを調べようとしているのです。
>
> 暴力の深みに入って行く。・・・


 死を厭うことなく。


> >  自分をインド人またはイスラム教徒、キリスト教徒、ヨーロッパ人あるいは他の何であれそう呼ぶとき、あなたは暴力的です。なぜそれが暴力的なのか分かりますか? なぜなら自分を残りの人間から分離しているからです。自分を信念、国籍、伝統、によって分離するとき、それは暴力を生みます。それゆえ暴力を理解しようと努めている人はどの国にも、どの宗教、どの政党や部分的な組織にも属しません。その人は人間の全的理解に関心があるのです。
>
>  人間の間に分離をもたらすものに対する探求心・注目。


 自他の区別、二元性がすでに暴力ということなのか。。平和には生きていない・・とは、このことか・・。>そのような質問をするとき、あなたは実際には平和に生きていないように私には思われます。平和に生きているなら全く何の問題もありません。軍隊に参加するのを拒否するので投獄されるかも知れないし、戦うのを拒否するので銃殺されるかも知れません ― しかしこれは問題ではありません。あなたは銃殺されます。このことを理解することは途方もなく重要です。−−



> >  さて暴力について二つの主な考え方があります。その一つは「暴力は人間の生得のものである」と言います。そしてもう一つは「人間がその中で生きている社会的文化的遺産の結果である」と言います。私達はどちらの派に属するかに関わってはいません ― それは重要なことではありません。重要なことは私達が暴力的であるという事実であり、その理由ではありません。
>
> 暴力の種々相が示されましたが、その依って来るゆえんには関わらない。今ある実際のリアルな暴力に関わるという事か。アプローチの仕方が述べられている。


 その依って来るゆえんについては、延々と討論することができるほどの幅広さを有している。しかし、それは脇において、直接知覚できる暴力に焦点を絞る。



> > (続く)


[25703] Re:[25702] 既知からの自由6-1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/27(Fri) 11:26  

> 6章-1 [暴力]
>
> 恐怖、快楽、悲しみ、思考そして暴力は全て相互に関係しています。私達のほとんどは暴力に、誰かを嫌ったり、特定の人種や集団の人たちを憎んだり、他人に対して敵対的な感情を持つことに快楽を味合います。しかしあらゆる暴力が終わった心の状態には、葛藤と憎悪と恐怖を伴う暴力の快楽とは全く異なる喜びがあります。

 >私達のほとんどは暴力に、誰かを嫌ったり、特定の人種や集団の人たちを憎んだり、他人に対して敵対的な感情を持つことに快楽を味合います。−− 事実ですがこうも的確に示されると怖い現実ですね。
 >しかしあらゆる暴力が終わった心の状態には、葛藤と憎悪と恐怖を伴う暴力の快楽とは全く異なる喜びがあります。−− これも事実ですが、実際にそれを知っている、微かなその香気だけにせよ、人でないと言えない言明です。

>  暴力の根源そのものまで進み、それから解放されることが出来るでしょうか? さもなければ私達は果てしなく互いに戦って生きていくでしょう。それがあなたの望む生き方なら ― 殆どの人がそうしている様ですが ― その時は続けてください。「おや、残念ですが、暴力は決して終わることはできません」と言われるのなら、あなたと私に交流の手段はなく、あなたは自分を閉ざしてしまったのです。しかしもし違った生き方があるかも知れないと言われるならば、互いに交流できるかも知れません。

 この探求の旅に加わって交流できるのは、群れ集う人の中の異例の人になりそうですね。

>  そこで自分自身の中のあらゆる形の暴力を完全に終わらせ、そしてなおこのぞっとするような残虐な世界に生きることが可能かどうか、交流できる私達で一緒に考えましょう。私はそれは可能だと思います。私は自分に少しの憎悪、嫉妬、心配または恐怖を持ちたくありません。私は完全に平和に生きたいのです。それは死にたいという事ではありません。私は、とても満ち、とても豊かで、とても美しいこの素晴らしい地上で生きたいのです。木、花、川、草原、女性、男の子や女の子を見たいし、同時に自分自身や世界と完全に平和に生きたいのです。私は何をすることができるでしょうか?

 これが私の本当に望むささやかな願いです。

>  外部の社会の中の暴力 ― 戦争、暴動、国家の対立、階級闘争 ― だけでなく、自分の内部においてもまた、暴力をどんなふうに見るかを知れば、おそらくそれを越えることが出来るでしょう。
>
>  ここに一つの非常に複雑な問題があります。何世紀につぐ何世紀もの間、人間は暴力的でした。宗教は世界中で人を手なずけようとしてきましたが、どれ一つ成功しませんでした。ですからこの問題に入って行くなら、少なくとも非常に真剣でなければならないと思われます。なぜならそれは私達を全く違う領域に導くだろうからです。しかし単に知的な楽しみのためにこの問題をもてあそぶなら、、殆ど得るものはないでしょう。

 はい。

>  この問題について自分は非常に真剣なのだが、世界中の非常に多くの他の人たちが真剣でなく、それについて何かをする用意ができていない限り、自分のすることは何の役に立つのだろうかと感じるかもしれません。私は他の人たちがそれを真剣に取り上げようが取り上げまいが気にしません。私はそれを真剣に取り上げ、それで十分です。そんなことまで私の知ったことではありません。私自身が、一人の人間として、この暴力の問題について強く感じており、自分自身の中で自分が暴力的でないのを見たいのです ― しかし私はあなたや他の人に「暴力的であってはいけない」と言うことは出来ません。それは意味がありません ― あなたが自分でそれを望まない限り。そこであなた自身がこの暴力の問題を理解することを本当に欲するなら、探求の旅を一緒に続けましょう。

 >世界中の非常に多くの他の人たちが真剣でなく、それについて何かをする用意ができていない限り、自分のすることは何の役に立つのだろうかと感じるかもしれません。−− 私もそう考え、絶望的な気分になります。
 >私はそれを真剣に取り上げ、それで十分です。・・・私自身が、一人の人間として、この暴力の問題について強く感じており、自分自身の中で自分が暴力的でないのを見たいのです −− ハイ、よくわかりました。ここにKの教え(探求というべきか)の根本精神があります。これは自分のみの平安にかかわっていることではありません。
 ここまでこの章の導入部です。


>  この暴力の問題は外側にあるのでしょうか、それともここにあるのでしょうか? 問題を外部の世界で解決したいのでしょうか、それとも暴力自体を、それが自分の中にあるので問題にしているのでしょうか? 自分の中で暴力から自由なら、「暴力、取得欲、貪欲、羨望、残虐性に満ちた世界で、私はどうやって生きていけばよいのだろうか? 私は破滅させられるのではないだろうか?」という質問が起きます。それは必然的に問われる当然の質問です。そのような質問をするとき、あなたは実際には平和に生きていないように私には思われます。平和に生きているなら全く何の問題もありません。軍隊に参加するのを拒否するので投獄されるかも知れないし、戦うのを拒否するので銃殺されるかも知れません ― しかしこれは問題ではありません。あなたは銃殺されます。このことを理解することは途方もなく重要です。

 >自分の中で暴力から自由なら、「暴力、取得欲、貪欲、羨望、残虐性に満ちた世界で、私はどうやって生きていけばよいのだろうか? 私は破滅させられるのではないだろうか?」という質問が起きます。それは必然的に問われる当然の質問です。そのような質問をするとき、あなたは実際には平和に生きていないように私には思われます。平和に生きているなら全く何の問題もありません。−− 上記のような質問をするとき、実際には平和に生きていないように思われるというのはそうですね。平和に生きているなら、物事は問題にはならずに何とかするでしょう。熊に出会った時のように。
 心の平和な人間にはサバイバルという問題もない!?・・・

>  私達は暴力を事実として、観念としてではなく、人間に存在する事実として理解しようとしており、そして人間とは私自身です。そして問題に入って行くには私はそれに対して完全に傷つきやすく、開いていなければなりません、私は自分自身を自分自身にさらけ出さなければなりません ― 必ずしも私をあなたにさらけ出すのではなく、何故ならあなたは興味がないかもしれませんから ― しかし私は、どの地点でも止まってもうこれ以上行けないと言うことのない、終わりまでこのものを正確に見ることを要求する心の状態になければなりません。

 暴力を観念として取り上げるのでなく、事実(リアル)として正確に見るという態度を貫く。自分に防御の障壁を張り巡らすことなく。

>  さて私が暴力的な人間であるということが私に明らかでなければなりません。私は、怒りの中の暴力、私の性的要求の中の暴力、敵意を生み出す憎悪の中の暴力、嫉妬の中の暴力などを経験しました ― 私は経験しました。私は知りました。そして自分自身に言います。「私はこの問題全体を戦争に現れたただの一断片だけでなく、動物にも存在し私もその一部である人間のこの攻撃性を理解したい」と。

 この攻撃性を理解したい。・・・

>  暴力は単に他の人を殺すことではありません。とげとげしい言葉を使うとき、人を無視するそぶりをするとき、恐怖があるため服従するとき、それは暴力です。ですから暴力は単に神の名のもとでの、社会や国家の名のもとでの、組織的な虐殺だけではありません。暴力はずっと微妙で、ずっと深く、そして私達は暴力のまさにその深みを調べようとしているのです。

暴力の深みに入って行く。・・・

>  自分をインド人またはイスラム教徒、キリスト教徒、ヨーロッパ人あるいは他の何であれそう呼ぶとき、あなたは暴力的です。なぜそれが暴力的なのか分かりますか? なぜなら自分を残りの人間から分離しているからです。自分を信念、国籍、伝統、によって分離するとき、それは暴力を生みます。それゆえ暴力を理解しようと努めている人はどの国にも、どの宗教、どの政党や部分的な組織にも属しません。その人は人間の全的理解に関心があるのです。

 人間の間に分離をもたらすものに対する探求心・注目。

>  さて暴力について二つの主な考え方があります。その一つは「暴力は人間の生得のものである」と言います。そしてもう一つは「人間がその中で生きている社会的文化的遺産の結果である」と言います。私達はどちらの派に属するかに関わってはいません ― それは重要なことではありません。重要なことは私達が暴力的であるという事実であり、その理由ではありません。

暴力の種々相が示されましたが、その依って来るゆえんには関わらない。今ある実際のリアルな暴力に関わるという事か。アプローチの仕方が述べられている。

> (続く)


[25702] 既知からの自由6-1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/26(Thu) 12:01  

6章-1 [暴力]

恐怖、快楽、悲しみ、思考そして暴力は全て相互に関係しています。私達のほとんどは暴力に、誰かを嫌ったり、特定の人種や集団の人たちを憎んだり、他人に対して敵対的な感情を持つことに快楽を味合います。しかしあらゆる暴力が終わった心の状態には、葛藤と憎悪と恐怖を伴う暴力の快楽とは全く異なる喜びがあります。

 暴力の根源そのものまで進み、それから解放されることが出来るでしょうか? さもなければ私達は果てしなく互いに戦って生きていくでしょう。それがあなたの望む生き方なら ― 殆どの人がそうしている様ですが ― その時は続けてください。「おや、残念ですが、暴力は決して終わることはできません」と言われるのなら、あなたと私に交流の手段はなく、あなたは自分を閉ざしてしまったのです。しかしもし違った生き方があるかも知れないと言われるならば、互いに交流できるかも知れません。

 そこで自分自身の中のあらゆる形の暴力を完全に終わらせ、そしてなおこのぞっとするような残虐な世界に生きることが可能かどうか、交流できる私達で一緒に考えましょう。私はそれは可能だと思います。私は自分に少しの憎悪、嫉妬、心配または恐怖を持ちたくありません。私は完全に平和に生きたいのです。それは死にたいという事ではありません。私は、とても満ち、とても豊かで、とても美しいこの素晴らしい地上で生きたいのです。木、花、川、草原、女性、男の子や女の子を見たいし、同時に自分自身や世界と完全に平和に生きたいのです。私は何をすることができるでしょうか?

 外部の社会の中の暴力 ― 戦争、暴動、国家の対立、階級闘争 ― だけでなく、自分の内部においてもまた、暴力をどんなふうに見るかを知れば、おそらくそれを越えることが出来るでしょう。

 ここに一つの非常に複雑な問題があります。何世紀につぐ何世紀もの間、人間は暴力的でした。宗教は世界中で人を手なずけようとしてきましたが、どれ一つ成功しませんでした。ですからこの問題に入って行くなら、少なくとも非常に真剣でなければならないと思われます。なぜならそれは私達を全く違う領域に導くだろうからです。しかし単に知的な楽しみのためにこの問題をもてあそぶなら、、殆ど得るものはないでしょう。

 この問題について自分は非常に真剣なのだが、世界中の非常に多くの他の人たちが真剣でなく、それについて何かをする用意ができていない限り、自分のすることは何の役に立つのだろうかと感じるかもしれません。私は他の人たちがそれを真剣に取り上げようが取り上げまいが気にしません。私はそれを真剣に取り上げ、それで十分です。そんなことまで私の知ったことではありません。私自身が、一人の人間として、この暴力の問題について強く感じており、自分自身の中で自分が暴力的でないのを見たいのです ― しかし私はあなたや他の人に「暴力的であってはいけない」と言うことは出来ません。それは意味がありません ― あなたが自分でそれを望まない限り。そこであなた自身がこの暴力の問題を理解することを本当に欲するなら、探求の旅を一緒に続けましょう。


 この暴力の問題は外側にあるのでしょうか、それともここにあるのでしょうか? 問題を外部の世界で解決したいのでしょうか、それとも暴力自体を、それが自分の中にあるので問題にしているのでしょうか? 自分の中で暴力から自由なら、「暴力、取得欲、貪欲、羨望、残虐性に満ちた世界で、私はどうやって生きていけばよいのだろうか? 私は破滅させられるのではないだろうか?」という質問が起きます。それは必然的に問われる当然の質問です。そのような質問をするとき、あなたは実際には平和に生きていないように私には思われます。平和に生きているなら全く何の問題もありません。軍隊に参加するのを拒否するので投獄されるかも知れないし、戦うのを拒否するので銃殺されるかも知れません ― しかしこれは問題ではありません。あなたは銃殺されます。このことを理解することは途方もなく重要です。

 私達は暴力を事実として、観念としてではなく、人間に存在する事実として理解しようとしており、そして人間とは私自身です。そして問題に入って行くには私はそれに対して完全に傷つきやすく、開いていなければなりません、私は自分自身を自分自身にさらけ出さなければなりません ― 必ずしも私をあなたにさらけ出すのではなく、何故ならあなたは興味がないかもしれませんから ― しかし私は、どの地点でも止まってもうこれ以上行けないと言うことのない、終わりまでこのものを正確に見ることを要求する心の状態になければなりません。

 さて私が暴力的な人間であるということが私に明らかでなければなりません。私は、怒りの中の暴力、私の性的要求の中の暴力、敵意を生み出す憎悪の中の暴力、嫉妬の中の暴力などを経験しました ― 私は経験しました。私は知りました。そして自分自身に言います。「私はこの問題全体を戦争に現れたただの一断片だけでなく、動物にも存在し私もその一部である人間のこの攻撃性を理解したい」と。

 暴力は単に他の人を殺すことではありません。とげとげしい言葉を使うとき、人を無視するそぶりをするとき、恐怖があるため服従するとき、それは暴力です。ですから暴力は単に神の名のもとでの、社会や国家の名のもとでの、組織的な虐殺だけではありません。暴力はずっと微妙で、ずっと深く、そして私達は暴力のまさにその深みを調べようとしているのです。

 自分をインド人またはイスラム教徒、キリスト教徒、ヨーロッパ人あるいは他の何であれそう呼ぶとき、あなたは暴力的です。なぜそれが暴力的なのか分かりますか? なぜなら自分を残りの人間から分離しているからです。自分を信念、国籍、伝統、によって分離するとき、それは暴力を生みます。それゆえ暴力を理解しようと努めている人はどの国にも、どの宗教、どの政党や部分的な組織にも属しません。その人は人間の全的理解に関心があるのです。

 さて暴力について二つの主な考え方があります。その一つは「暴力は人間の生得のものである」と言います。そしてもう一つは「人間がその中で生きている社会的文化的遺産の結果である」と言います。私達はどちらの派に属するかに関わってはいません ― それは重要なことではありません。重要なことは私達が暴力的であるという事実であり、その理由ではありません。

(続く)



[25701] Re:[25699] [25692] 既知からの自由5−4 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/26(Thu) 09:19  

> > 5章の4 [恐怖の終わり]
> >
> >  恐怖をどんな結論もなしに、恐怖について蓄積してきた知識のどんな干渉もなしに見つめることができますか? できないのなら、その時あなたが見つめているものは過去であり、恐怖ではありません。出来るならば、その時恐怖を初めて過去の干渉なしに見つめているのです。
>
> はい。


 非難・正当化なしに見る場合において、恐怖を非難・正当化なしに見ることは難しい。条件付けは恐怖の瞬間後、非難し、回避、抵抗、抑圧、反撃、怒りの反応を生じさせる。


> >  心が非常に静かなときにのみ見つめることができます。誰かが言っていることを聴くことができるのは、心がそれ自体でおしゃべりしていたり、それ自体の問題や心配について対話をしたりしていない時だけだというのと丁度同じです。同じように自分の恐怖を、それを解決しようと努めることなしに、その反対物、勇気を持ち込んだりせずに見ることができますか ― 実際にそれを見、それから逃げようとしないことができますか? 「恐怖を制御しなければならない、それを抜け出さなければならない、それを理解しなければならない」という時、あなたはそれから逃げようとしているのです。
>
> はい。


 表立ってある恐怖はその存在に気づきやすいが、深層の恐怖はふっとしたときや夢の中で気づく。
 そのふっとしたときとは、心が非常に静かなときではなかろうか。
 あるいは、過去の恐怖と関連する事柄を見たり聞いたりすることで思い出し、その恐怖が蘇り、その深層の恐怖に気づくこともある。



> >  あなたは雲や、木や、川の流れを、それらは自分にとってあまり重要でないので、かなり静かな心で観察することができますが、自分自身を見つめることは、そこでは要求はとても実際的だし、反応はとても素早いので、遥かに困難です。そこで恐怖、または絶望、孤独、嫉妬、あるいは何かほかの醜い心の状態に直接接触するとき、心がそれを見るのに充分静かなほど、あなたはそれを非常に完全に見ることができるでしょうか?
>
> 反応を見ることの困難さが身に沁みるがごとく示されました。


 >雲や、木や、川の流れを、それらは自分にとってあまり重要でない−−、これを非難・正当化なしに見ることは難しくない。

 >恐怖、または絶望、孤独、嫉妬、あるいは何かほかの醜い心−−、これを非難・正当化なしに見ることができるか。

 条件付けは非難・正当化の反応を引き起こすように働くのではないだろうか。

 他者の>恐怖、または絶望、孤独、嫉妬、あるいは何かほかの醜い心−−そのような心。あるいは映画やドラマの中の登場人物のそれに対しても、条件付けは非難・正当化の反応を引き起こす。




> >  心は恐怖の種々の形ではなく、恐怖を知覚できるでしょうか ― あなたが恐れているものではなく、恐怖全体を知覚できるでしょうか? 恐怖の細部だけを見たり、自分の恐怖を一つ一つ処理しようとするなら、恐怖と共に生きることを学ぶという核心には決して到達しないでしょう。
>
> ・・・



 もしも、非難・正当化しないならば、>恐怖と共に生きる−−、これを避けることはできないのではないだろうか。


 隣に幽霊が立っていたとして、逃げ出さずに、共に生き、観察する。
 死を覚悟していなければできない。自我であれば、必ず回避・抵抗・反撃の反応を起こす。


> >  恐怖のような生きているものと共に生きるためには、途方もなく敏感で、何の結論を持たない、それゆえ恐怖のあらゆる動きについて行くことができる心とハートが必要です。そして観察しそれと共に生きるなら ― そしてこれはまる一日はかかりません。恐怖の全性質を知るのは一分か一秒でできます ― 非常に完全にそれと共に生きるならあなたは当然尋ねます。「恐怖と共に生きている実体は誰なのか? 恐怖を観察し、恐怖の中心的な事実に気づいているだけでなく、様々な形の恐怖の動きの全てを見つめているのは誰なのか? 観察者は、自分自身についてのたくさんの知識と情報を蓄積してきた死んだ実体、静的な存在なのだろうか、そして恐怖の動きを観察し、それと共に生きているのはその死んだものなのだろうか? 観察者は過去のものなのだろうか、それとも彼は生きているものなのだろうか?」あなたの答えは何でしょうか? 私に答えないで、自分自身に答えてください。あなた、観察者、は生きたものを見つめている死んだ実体ですか、それとも生きたものを見つめている生きているものでしょうか? なぜなら観察者には二つの状態が存在するからです。
>
> ・・・


 観察者@:生きたものを見つめている死んだ実体

 観察者A:生きたものを見つめている生きているもの



> >  観察者は恐怖を望まない検閲官です。観察者は恐怖についての彼の全経験の総体です。それゆえ観察者は恐怖と呼ぶそのものとは別です。それらの間には空間があります。観察者は永久に恐怖を克服しようとし、あるいはそれから逃げようとします。そしてそのために彼自身と恐怖の間の戦いがあります ― この戦いはエネルギーの大変な浪費です。
>
> 死んだ(過去のものの束である)観察者の場合。


 恐怖以外にも、>絶望、孤独、嫉妬、あるいは何かほかの醜い心−−、これらを非難・正当化して見る観察者はエネルギーの浪費の反応を保持する。
 


> >  見つめるにつれて、観察者は何の確実性も実質もない単なる観念と記憶の束に過ぎないが、しかし恐怖は現実であること、そして自分が事実を抽象で理解しようとしていることを学びます。そんなことはもちろん出来ないのですが。しかし、実際のところ、「私は怖れている」という観察者は観察されるものつまり恐怖と何か異なるのでしょうか? 観察者は恐怖です。そしてそのことが実感されるときもはや恐怖を免れようとする努力の中でのエネルギーの浪費はなく、観察者と観察されるものの間の時空の隔たりは消えます。自分が恐怖の一部であり、それと別のものではないことを ― 自分が恐怖であることを ― 見るとき、あなたはそれについて何もすることはできません。その時恐怖は完全に終わります。
>
> >そして自分が事実を抽象で理解しようとしていることを学びます。−− 言葉であるいは観念的に理解しようとしていることがわかる。それはナンセンスなのだが。
>
> しかし恐怖は現実である。私が心理的に恐れている時、私が生きた恐怖です。この言い方はどうですか?
>
> > (5章 終わり)


 この>恐怖、または絶望、孤独、嫉妬、あるいは何かほかの醜い心の状態に直接接触するとき、心がそれを見るのに充分静かなほど、あなたはそれを非常に完全に見ることができるでしょうか?−−、このことを通して、自我が終焉し、観察者は観察されるものである場へと移行する。

 すなわち、時間の世界から時間がない世界への移行。次元の転換。

 ここで述べられていることが真理の核心事項であるように思われる。


[25700] 変容 投稿者:無明 投稿日:2018/07/26(Thu) 09:02  

> > 変容とか、大げさな言葉を繰り出す必要はない。
> > 変容したければどうぞ。としかいいようがない。
> > いつもいうが、この世に常住するものはない。すべてにおいて変化している。何で改めて変容するのか。
>
> 変化しているのは限定された領域の中にあって変容はないという事。(ではないだろうか?)

限定された領域?


参考

花岡修平

「大いなる変容とは、あるべき何かになる事ではなく、あるがままに戻る事です。赤ちゃんの無為に戻る事です。分離がそのように、倒錯を生み出すのです。」以下略。


単純に人間というものをとらえてみると、年月がたてば、我々は歳をとる。年輪を重ねるということです。「昨日」と「今」とは同じではない。
見た目で変化のないような「石」でさえも、内部の原子構造が変化する。長い年月によると風化します。
このようにミクロの世界もマクロの世界も変化している。
わたしがいうのは当たり前の現実世界。

仏教で言われているのは、とっくに過ぎ去っていく思考に、いつまでもしがみつくのが「迷い」と称している。
思いと事実は違う。

花岡氏のいうのはあるがままに戻ることが変容。
精神世界でいう「変容」というのは願望が含まれているのではないか、と問いかけている。例えば「悟りを得たい」「悟りたい」という願望。





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