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[24940] Re:[24939] [24938] [24937] 無題 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/21(Sun) 08:29  

> > > 非本質的なことの消去はどうやって実現するのだろうか。非本質的なことが全く明らかに見えたとき笑って、終わるのだろうか?
> > >
> > > 一度見た前進的な私がその理解をときたま忘れているそきのころ初期のころ、永遠の私が気づきの暗示をほのめかしてくれるのだろうか?
> > >
> > > 闘うとはどういう事だろうか?非難や逃避や錯覚などに走り、目をそらしていないかと見ていることだろうか。
> >
> >
> >  「解放の習慣」。これが確立されれば、「到達」、すなわち「根源的な変容」に無頓着でいてよいと思います。
>
> はい、そうでしょうね。
>
> >  「解放の習慣」にて、小さな事柄においても、それが解放されるときに「完全」「完成」が含まれており、この「完全」「完成」は、根源的な変容の「完全」「完成」と同等である旨を、クリシュナムルティは述べていますね([24927] 「解放の習慣」参照)。
>
> つまり、小さな解放であれ、完全でないと完全な解放そのものが起こらないでしょう。
>
> >  私たち一般ピープルが求めるのは、「根源的な変容」よりはむしろ「解放の習慣」ということではないでしょうか・・。これなら見通しが持てるところの・・。
> >
> >  そして、それが「最初で最後の自由」かもしれないのです。。
>
> 見通しはつかないでしょうが、非本質的なことのとりこになっていたという真実を見ることは本質的なことを見たわけで、解放という事の本質の理解が始まったわけですね。


 クリシュナムルティを読みこんでいると、クリシュナムルティならこれは非本質的な事柄と言うだろうと、頭で類推できます。
 そのようにして、頭によって非本質的なことのとりこになっていたという真実を類推することは比較的容易であるが、直接知覚することは難しい・・。断崖を見るように、毒蛇を見るように見る・・。これは私にとっては容易なことではない。
 そこで「生」がやってきて挑戦をもたらす・・。それを見せるために・・。



> 解放の習慣に入るという事は、苦しみが求める気持ちへ導くのだと思うのですが、恨みや憎しみを抱いたり、かえって逸れてしまう場合もあります。そこの分かれ目はどういう事にあるのでしょうか?生計を立てることが決して容易ではないので、解放とか自由に目が向かないのでしょうか、自由をはき違えることもありそうです。
>
> そんなふうに考えもしたりしています。


 私が今感じている分かれ目は、「快楽感覚」に対して、これが非本質的な事柄であることが見えるか・・。ということではないでしょうか・・。

 現代の娯楽産業は華々しい。まさに先端の科学技術の応用が娯楽の先鋭化と安価に向けられている・・。
 一昔前までは定年退職が近づいてくるころ、退職後の趣味や生活で、何をやろうか・・、やることがないので、今から手習いでも始めようか・・、趣味でも見つけようか・・と将来に不安を抱く50代も少なくなかったように見受けられる。
 しかし、今はエンターテインメントの進化と安価によって、暇をもてあそぶことを心配しなくてよいようだ・・。

 その「快楽感覚」に対して、頭で「それはとるに足りないことだ・・、しかし、誰にも迷惑をかけていないので、それをやり続けてもよいではないか・・」と、「快楽感覚」を理解してしまう。

 「快楽感覚」は、その他にも、安心・安全の確保による快楽感覚等々、種々多様です。

 これが世間一般では、肯定され、良いように評価され、奨励されてもいる。

 この「快楽感覚」への対応の仕方によって、分かれ目が生じてくるのではないでしょうか・・。


[24939] Re:[24938] [24937] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/20(Sat) 21:54  

> > 非本質的なことの消去はどうやって実現するのだろうか。非本質的なことが全く明らかに見えたとき笑って、終わるのだろうか?
> >
> > 一度見た前進的な私がその理解をときたま忘れているそきのころ初期のころ、永遠の私が気づきの暗示をほのめかしてくれるのだろうか?
> >
> > 闘うとはどういう事だろうか?非難や逃避や錯覚などに走り、目をそらしていないかと見ていることだろうか。
>
>
>  「解放の習慣」。これが確立されれば、「到達」、すなわち「根源的な変容」に無頓着でいてよいと思います。

はい、そうでしょうね。

>  「解放の習慣」にて、小さな事柄においても、それが解放されるときに「完全」「完成」が含まれており、この「完全」「完成」は、根源的な変容の「完全」「完成」と同等である旨を、クリシュナムルティは述べていますね([24927] 「解放の習慣」参照)。

つまり、小さな解放であれ、完全でないと完全な解放そのものが起こらないでしょう。

>  私たち一般ピープルが求めるのは、「根源的な変容」よりはむしろ「解放の習慣」ということではないでしょうか・・。これなら見通しが持てるところの・・。
>
>  そして、それが「最初で最後の自由」かもしれないのです。。

見通しはつかないでしょうが、非本質的なことのとりこになっていたという真実を見ることは本質的なことを見たわけで、解放という事の本質の理解が始まったわけですね。

解放の習慣に入るという事は、苦しみが求める気持ちへ導くのだと思うのですが、恨みや憎しみを抱いたり、かえって逸れてしまう場合もあります。そこの分かれ目はどういう事にあるのでしょうか?生計を立てることが決して容易ではないので、解放とか自由に目が向かないのでしょうか、自由をはき違えることもありそうです。

そんなふうに考えもしたりしています。


[24938] Re:[24937] 無題 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/20(Sat) 10:35  

> 非本質的なことの消去はどうやって実現するのだろうか。非本質的なことが全く明らかに見えたとき笑って、終わるのだろうか?
>
> 一度見た前進的な私がその理解をときたま忘れているそきのころ初期のころ、永遠の私が気づきの暗示をほのめかしてくれるのだろうか?
>
> 闘うとはどういう事だろうか?非難や逃避や錯覚などに走り、目をそらしていないかと見ていることだろうか。


 「解放の習慣」。これが確立されれば、「到達」、すなわち「根源的な変容」に無頓着でいてよいと思います。

 「解放の習慣」にて、小さな事柄においても、それが解放されるときに「完全」「完成」が含まれており、この「完全」「完成」は、根源的な変容の「完全」「完成」と同等である旨を、クリシュナムルティは述べていますね([24927] 「解放の習慣」参照)。

 私たち一般ピープルが求めるのは、「根源的な変容」よりはむしろ「解放の習慣」ということではないでしょうか・・。これなら見通しが持てるところの・・。

 そして、それが「最初で最後の自由」かもしれないのです。。


[24937] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/19(Fri) 22:22  

非本質的なことの消去はどうやって実現するのだろうか。非本質的なことが全く明らかに見えたとき笑って、終わるのだろうか?

一度見た前進的な私がその理解をときたま忘れているそきのころ初期のころ、永遠の私が気づきの暗示をほのめかしてくれるのだろうか?

闘うとはどういう事だろうか?非難や逃避や錯覚などに走り、目をそらしていないかと見ていることだろうか。


[24936] Re:[24935] [24906] 消去の過程 その7 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/19(Fri) 20:23  

> >  『白い炎』p113 より引用 (コスモス・ライブラリー 発行 大野純一 編訳)
> >
> >
> >  先日言いましたように、「私」−−すなわち、全体から分離した個人−−の真の教育は、永遠の「私」と、あらゆるものと絶えず闘いながら前進する「私」があることに気づくことにあるのです。その「私」の一方の要素は永遠であり、他方の要素は前進するのです。すなわち、訓練と教育を必要とする「私」は、常に永遠なるものへと前進していくのです。で、永遠なる部分と前進する部分とが統合・結合される時、自由と真理が実現されるのです。前進していく「私」は知的でも感情的でもありません。<生>は純粋に知的でも純粋に感情的でもありません。あなた方は純粋に知的でも純粋に感情的でもなく、その両者の混合物なのです。
>
>  永遠の「私」と前進していく「私」がると。これは実感されるものなのでしょう。私には定かでありませんが。前進する私の方はだれにもわかります。(ゴト)


 >あらゆるものと絶えず闘いながら前進する「私」−−、人の生活を「あらゆるものと絶えず闘いながら前進する」と表現しています。
 現在の先進諸国においても、人は「あらゆるものと絶えず闘いながら前進する」とクリシュナムルティは述べています。隣の隣人と、自身の内面の対立する欲望(願望・好み等々)と、上司や先輩と、後輩や、あれやこれやと・・。

 一般ピープルは、それを他者や外部のせいにして非難的に見る。探求者は自我の特性として外部の自我と私の自我として見る。


> >  社会、集団は常に個人を抑圧しようとする傾向があり、ゆえに絶えず社会と闘い、集団と闘っている個人−−そういう個人、前進する「私」−−は、集団、大衆から完全に離れ、ゆえに彼らによって支配され、コントロールされ、抑圧されえない基準、価値をもつべきです。ただし、この基準はすっかり個人主義的であるべきだというのではありません。というのは、個人主義的基準は時々変わるので、さほど重要ではないからです。が、「私」、前進的な「私」が、消去の過程を経た後にみずからの内に確立する基準は永遠です。自分自身の力で発見し、すべての集団、すべての個人主義的願望を超越し、あの前進的な「私」と永遠なる「私」を統合するためには、前進的な「私」−−絶えず経験を求め、願望に駆り立てられ、恐怖に支配され、外部環境によって制限され、腐敗しやすい愛、憎しみ、情熱、慰めを求めようとする願いによって左右され、外面的権威に適合し、孤独を恐れている「私」−−としてのあなた方は、そういったすべてのものを克服しなければならないのです。


>  社会、集団の持つ基準、価値というものは(相対的、局部的であるので)前進する私の基準、価値にはなり得ないものである。前進する私は自分で(永遠の)基準、価値を発見していかなければならないと。(ゴト)



 消去の過程の項目をひとつひとつ見てみると、確かに、>集団、大衆から完全に離れ、ゆえに彼らによって支配され、コントロールされ、抑圧されえない基準、価値をもつ−−、これに近づくように思える。


> >  前進的な「私」を理解しないかぎり、あなた方は永遠なる「私」−−普遍的な「私」、あなた方のものであり、私のものでもある「私」、世界中のあらゆる人の「私」、全人類の「私」、存在でも非存在でもなく、知でも非知でもなく、行為でも無行為でもない「私」−−に至り、それに避難することはできません。前進的な「私」を回避して、初めも終わりも持たず、静謐で、あらゆる走者の前にあるあの「私」に至ることはできないのです。前進的な「私」と永遠なる「私」が統合され、両者の調和がもたらされる時、真の祝福、真の幸福があり、苦闘、時間と空間、誕生と死、存在に終止符が打たれるのです。しかしこれが否定的・消極的な状態だと想像しないでください。それは否定的でも肯定的でもないのです。制限された前進的な「私」が−−経験によって、苦闘、悲嘆、奮闘、恍惚、苦痛によって−−絶えず追求しているこの幸福、この真理、この自由に至り、それを掌中に収めるには、つかの間のものと永遠のもの、前進的なものと永続的なものとの間に調和をもたらさねばなりません。
>
>  前進する私が相対的、局所的な基準、価値から自由に物事を(永遠の目で)見、行動できるとき、社会、組織の基準価値も永遠のそれに調和する可能性が出てくる。(ゴト)


 >つかの間のものと永遠のもの、前進的なものと永続的なものとの間に調和をもたらさねばなりません。−−、これは本質的な事柄と非本質的な事柄の間に、調和をもたらすということなのか・・?

 自我や非本質的な事柄を滅却・消滅させるのではなく、共に生き、両者の間に調和をもたらす・・。


> >  自分自身以外の誰も自分を救うことはできない−−そこに人間の偉大さがあるのです。人間の中に宇宙は潜在的に存在しており、そして彼の目的はそれを悟ることです。その絶対的状態に至るには、前進的な「私」は、経験によって、熟慮、思慮によって、恐怖に駆られないことによって、前進的な「私」と永遠の「私」の統合を阻んでいるものを退け、除去しなければならないのです。これは単に思弁をめぐらされるべき哲学でも、単なる知的体操でもありません。それは、生きられ、身体的にあなた方のすべての行動に現されなければならない、<生>それ自体であり、その全体なのです。
> >
> >  − − − 以上引用 − − −
> >
> >  つづく
>
> 永遠からの働きかけと社会、組織からの負の影響も大きい。それら非本質的な事柄の非難・敵視でなく、聡明な理解が必要です。


 クリシュナムルティが人生の目的や生きる意味を述べることは珍しいが、以下のように述べているようです。

 >人間の中に宇宙は潜在的に存在しており、そして彼の目的はそれを悟ることです。−−

 そのような壮大な目的のためなら、消去の過程へ舵を切ることに損はないようだ・・。度胸が出てくるようだ・・。

 ただ、能動的に目的達成を求めることができない・・、自我が増大するから・・。なりゆくこと、時間の世界に捕まるから。

 それゆえに、そこから先は、戦後のクリシュナムルティを聴く方がためになるように感じます。


[24935] Re:[24906] 消去の過程 その7 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/19(Fri) 15:37  

>  『白い炎』p113 より引用 (コスモス・ライブラリー 発行 大野純一 編訳)
>
>
>  先日言いましたように、「私」−−すなわち、全体から分離した個人−−の真の教育は、永遠の「私」と、あらゆるものと絶えず闘いながら前進する「私」があることに気づくことにあるのです。その「私」の一方の要素は永遠であり、他方の要素は前進するのです。すなわち、訓練と教育を必要とする「私」は、常に永遠なるものへと前進していくのです。で、永遠なる部分と前進する部分とが統合・結合される時、自由と真理が実現されるのです。前進していく「私」は知的でも感情的でもありません。<生>は純粋に知的でも純粋に感情的でもありません。あなた方は純粋に知的でも純粋に感情的でもなく、その両者の混合物なのです。

 永遠の「私」と前進していく「私」がると。これは実感されるものなのでしょう。私には定かでありませんが。前進する私の方はだれにもわかります。(ゴト)

>  社会、集団は常に個人を抑圧しようとする傾向があり、ゆえに絶えず社会と闘い、集団と闘っている個人−−そういう個人、前進する「私」−−は、集団、大衆から完全に離れ、ゆえに彼らによって支配され、コントロールされ、抑圧されえない基準、価値をもつべきです。ただし、この基準はすっかり個人主義的であるべきだというのではありません。というのは、個人主義的基準は時々変わるので、さほど重要ではないからです。が、「私」、前進的な「私」が、消去の過程を経た後にみずからの内に確立する基準は永遠です。自分自身の力で発見し、すべての集団、すべての個人主義的願望を超越し、あの前進的な「私」と永遠なる「私」を統合するためには、前進的な「私」−−絶えず経験を求め、願望に駆り立てられ、恐怖に支配され、外部環境によって制限され、腐敗しやすい愛、憎しみ、情熱、慰めを求めようとする願いによって左右され、外面的権威に適合し、孤独を恐れている「私」−−としてのあなた方は、そういったすべてのものを克服しなければならないのです。

 社会、集団の持つ基準、価値というものは(相対的、局部的であるので)前進する私の基準、価値にはなり得ないものである。前進する私は自分で(永遠の)基準、価値を発見していかなければならないと。(ゴト)

>  前進的な「私」を理解しないかぎり、あなた方は永遠なる「私」−−普遍的な「私」、あなた方のものであり、私のものでもある「私」、世界中のあらゆる人の「私」、全人類の「私」、存在でも非存在でもなく、知でも非知でもなく、行為でも無行為でもない「私」−−に至り、それに避難することはできません。前進的な「私」を回避して、初めも終わりも持たず、静謐で、あらゆる走者の前にあるあの「私」に至ることはできないのです。前進的な「私」と永遠なる「私」が統合され、両者の調和がもたらされる時、真の祝福、真の幸福があり、苦闘、時間と空間、誕生と死、存在に終止符が打たれるのです。しかしこれが否定的・消極的な状態だと想像しないでください。それは否定的でも肯定的でもないのです。制限された前進的な「私」が−−経験によって、苦闘、悲嘆、奮闘、恍惚、苦痛によって−−絶えず追求しているこの幸福、この真理、この自由に至り、それを掌中に収めるには、つかの間のものと永遠のもの、前進的なものと永続的なものとの間に調和をもたらさねばなりません。

 前進する私が相対的、局所的な基準、価値から自由に物事を(永遠の目で)見、行動できるとき、社会、組織の基準価値も永遠のそれに調和する可能性が出てくる。(ゴト)

>  自分自身以外の誰も自分を救うことはできない−−そこに人間の偉大さがあるのです。人間の中に宇宙は潜在的に存在しており、そして彼の目的はそれを悟ることです。その絶対的状態に至るには、前進的な「私」は、経験によって、熟慮、思慮によって、恐怖に駆られないことによって、前進的な「私」と永遠の「私」の統合を阻んでいるものを退け、除去しなければならないのです。これは単に思弁をめぐらされるべき哲学でも、単なる知的体操でもありません。それは、生きられ、身体的にあなた方のすべての行動に現されなければならない、<生>それ自体であり、その全体なのです。
>
>  − − − 以上引用 − − −
>
>  つづく

永遠からの働きかけと社会、組織からの負の影響も大きい。それら非本質的な事柄の非難・敵視でなく、聡明な理解が必要です。


[24934] Re:[24933] [24905] 消去の過程 その6 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/18(Thu) 15:55  

> > 『白い炎』p108 より引用 (コスモス・ライブラリー 発行 大野純一 編訳)
> >
> >
> >  もし私が言わんとしていることをあなた方が理解されれば、あなた方の行為、活動は、−−真の「私」を見出したがゆえに、−−悲しみをもたらしたり、悲しみの元になる束縛を招いたりしなくなるでしょう。そのようにしてすべての動揺がやむことによって、錯覚あるいは迷妄からの自由が起こるのです。
>
>  昨夜NHKスペシャルで「遺児のいま」を観ました。阪神大震災の時のことです。「お父さんとお母さんにあいたい!」、「お父さんとお母さんのいるところに行きたい!」遺児の悲痛な叫びを聞いていたら涙がとめどもなき出てきました。
>
> 昔のその時の放送で、少したって被災した子供の卒業式を、避難所になっていた学校を整理して何とか卒業式にこぎつけた先生のインタヴューを見ていました。その男の先生が「遠い親戚に避難していた子供たちが来てくれました」と明るく言いながら、大粒の涙をはらはらと流していました。その時部屋に妻が入ってきて、私の様子を目にとめ、どうしたのと聞かれました。私は説明しようとしたのですが、舌がもつれて話になりませんでした。
>
> 他にも、震災で老いた母親がタンスの下敷きになってどうしても助けられません。火災が迫ってきます。それでも老いた父親は離れれません。「お母さんの分も生きて!」と父親を引っ張ってその中年の女性は逃げたそうですが、その時、お母さんを見捨てたと思ったそうです。その女性は全くの焼け野原の中に翌朝来て、焼けた一本の木がぽつんと立っているので自宅とわかるそうですが、そこでインタヴューに、途切れ途切れに重い口調で答えていました。
>
> ここには本質的なものがあって、それを見ていると私は思います。(ゴト)


 自我を介した事柄は、その多くが非本質的なものではあるが、本能的な事柄(子育て本能{親子の愛着}・繁殖本能{性欲・恋愛欲等}・群れ本能{仲間意識:友愛等}等)は、本質的なものとして大切にしたいですね・・。それらの本能が人類において機能しなくなれば、ホモ・サピエンスは絶滅することは本質的な事実ですね。。

 私は、これまで、非本質的な事柄に対して着目しており、本質的な事柄については、あまり着目していなかったことに気づきました。

 本質的な事柄を見つけることは、以外と難しい・・。


> >  もし任意の時にあなたの精神・心が動揺させられうるなら、その時には永遠なるものについての真の把握、真の理解はやみます。「私」が動揺しないようにし、それによって純粋で、しなやかで、冷静で、強く、決然としており、バランスのとれた精神・心を持つためには、あなた方は任意の時に精神・心の均衡を乱しかねないすべての非本質的なものを消去しなければなりません。真の「私」−−万人の内なる「私」−−についての真の理解は、すべての非本質的なものからの離脱から起こるのです。そして非本質的なものは、束縛する恐怖、限定、願望の産物です。消去の過程によってのみ、あなた方はすべての錯覚から自由になり、あの確信の状態に至ることができるのです。
>
> それは断つと言えばその通りですが、簡単に断てない。そこはどうなるのかな?(ゴト)
>
> >  全体から「私」が分離しているかぎり、限定、苦痛、悲観、生と死、時間、空間、そして錯覚があるのです。
> >  完成はすべての不完全を退けるがゆえに、「私」は腐敗を免れ、自由に他ならないあの美、あの全体の部分にならねばならないのです。そして蜜蜂たちが春を、香しい花々を待ちわびるように、人は「私」を発見する時を待ちわびるのです。少なくともここにおられる間は、あなた方はこの一事に集中し、本質的なものについてのあの確信を培い、すべての非本質的なものを退けるようにしていただきたい。なぜなら、それが真の「私」の特質である純粋な英知だからです。
> >  もしあなた方が自分が放棄しているもののことを知らなければ、放棄にはなんの価値もありません。もしあなた方が、私がそうするように言うがゆえに、または恐れのゆえに放棄するのなら、あなた方は少しも放棄しているのではなく、古いものにかわって新しいものを築いているのです。
> >  真理−−で、それによって私が何を意味しているかを慎重に説明したわけですが−−は、すべての社会、すべての組織化された信念、すべての思想体系にとって危険なものとなります。もし個人−−あなた、または他の誰か−−がこの真理を持てば、彼は自動的に、自分のまわりのすべての非本質的なものを爆破する火薬庫になるでしょう。が、彼はそれを組織化することはできません。もしあなた方がその真理を知覚し、その真理を生き、そしてその真理の一部になれば、その時にはあなた方はすべての靄(もや)を晴らす日光のようになるのです。
> >  私が話している真理は、非本質的なすべてのものにとって危険なものです。が、何が非本質的で何が本質的かは、あなた方自身が見出さなければなりません。私の口からそれを告げることはできないのです。
> >  <生>あるいは真理を組織化すること(組織を作って追求すること)はできません。もし私がロンドンに行きたければ、私に切符を与えてくれる組織を私は利用します。が、もし組織が私を天国に導くことができると主張したら、私はそれを用いないでしょう。なぜなら私は、天国は私の外にある場所ではないことを知っているからです。言わんとしていることがおわかりですか?
> >  すべての信念、救済についてのすべての観念、特定の天国に導かれるという観念は、思考を組織化しようとする企てです。が、思考を組織化し、それによって精神を虜(とりこ)にすることはできないのです。
> >  重要なのはあなた方自身であって、世界を変えるためにあなた方が何をするかでも、どのようにするかでもないのです。もしあなた方が心優しくて親切なら、もしあなた方の表情があなた方の思考・感情を示していれば、そしてもしあなた方が本当に嬉々としていれば、その時には、なぜあなた方がこの混乱した世界でそのようにしていられるのかを見るために、あらゆる人があなた方のところにやって来るでしょう。
> >  そこで要点に戻りましょう。非本質的なすべてのものを一掃するあのダイナミックなエネルギーの中心にならなければならないのは、個人としてのあなた方であって、組織の一員としてのあなた方ではないのです。もしあなた方が、何かが真実であると知っているがゆえにそれについて確固としていれば、その時にはあなた方は世界を変えるでしょう。が、もしもあなた方自身が不確かなら、世界を変えることはできないのです。私が言っていることの真実を確信するためには、あなた方はどうすべきなのでしょう?
> >  まず第一に、あなた方の人生が権威に基づいて築かれているかどうか、あなた方の神々や恐怖が本当に存在するのかどうかを熟考し、それから内面的な消去の過程によって人生の真の価値を見出し始めなければなりません。本質的なものを内面的に確立すること、それがあなた方の最も重要な仕事なのです。
> >  昨日私が救済にまつわる恐怖について話した時、私は崇拝、祈り、外面的な神々、権威、迷信、儀式、教会、寺院、聖所といったものにすがりつくことを意味したのです。そういったすべてを恐れることは、あなた方が依然として非本質的なものにすがりついていることを示しています。偽善的にならず、本当に正直にしてください。そうすればあなた方は、いかにそれらのものがあなた方の人生を左右しているかがわかるでしょう。
> >  あなた方はクリシュナムルティが言っていることを世の中に向かって告げ知らせようとしておられる。もしクリシュナムルティがこれこれのことは非本質的だと言い、しかるにあなた方がそれらの非本質的なものをおこない、それらに耽っていれば、部外者は当然こう言うでしょう。「もしクリシュナムルティがあなた方の人生を変えなかったのなら、もしあなた方自身の精神と心が変わらなかったら、私に告げても無駄なのではありませんか?」。私はあなた方を納得させたいのではなく、ただ私が言っている本質的なことをあなた方が本当に確信するやいなや、あなた方は自然に自分自身を変えるであろうと言うことに気づいてほしいのです。それこそが重要なのです。
> >
> >
> >  あなた方は、何が「私」に非腐敗性の衣をまとわせる本質的なものかについて充分に確信し、そしてその衣をまとっているがゆえに、腐敗しやすいすべてのものにとって危険な存在にならねばならないのです。
> >  非本質的なものを作り上げるのは、あなた方個々人です。それらはひとりでに出てくるわけではありません。あなた方がそれらを作り上げるのは、本質的なものと非本質的なものとをどう識別したらいいかわからないからです。世界中のモスクや寺院や教会を築いたのは誰でしょう?迷信深い人々、司祭たち−−すなわち、あなた方や私のような個々人です。そしてその私たちに永続的なものとつかの間のものを見分ける力が欠けているからです。
> >  あなた方が非本質的なものを表に出さなくなる時、自然に本質的なものを創り出すでしょう。そしてその創造は最大の重要性を持つでしょう。なぜなら、それは単に古いものから手を引くことではなく、新しいものを創造することだからです。
> >  私にはあなた方が何を考えているか、私が言っていることをどのように解釈しているかわかりません。結局私は、私が話していることを、あなた方の思い描くようにではなく、私が理解しているとおりに理解していただきたいのです。毎朝私が話したことがどんな結果を生んだか、お互いにどのように理解したか?それが重要なのであり、それこそが私たちが討論すべきことなのです。
> >  私が話していることは生の全体についてであり、ですからそれを30分で理解してしまおうとしたり、何気なく坐って私が言うことを軽々しく討論したりしないでいただきたい。私が話している間はとても集中し、それ以外の時間は他の無数のことがらで頭をいっぱいにしていれば、理解はおぼつかないのです。正しい理解は一瞬にして起こるわけではありません。それはたゆみない努力の結果です。あなた方が真の理解力を身に付けるのは、たゆみない再調整、置換、破壊、収集によってなのです。
> >  私がこれまでお見受けしたかぎりでは、あなた方は私が言っていることの一部だけを受け入れ、その部分だけを切り取って、それについて議論しているようです。で、その小さな部分は、全体から切り離されているので、なんの価値も持っていません。重要なのは全体、一個の具体的なまとまりとしての生の全体なのです。そしてその中の様々な苦闘、苦痛、悲しみは、あなた方が全体を一瞥した時にのみ理解されうるのです。
> >
> >  − − − 以上引用 − − −
> >
> >  つづく
>
> 読みました。方法や結果(具体的目標)をKが与えることはないという事はわかりました。観察、見ることについてはどうなのだろう?確かに組織的に瞑想するととは否定されるが。自分の振る舞いを全体として自分で一所懸命に見始めることがすべてなのでしょうか?


[24933] Re:[24905] 消去の過程 その6 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/18(Thu) 10:52  

> 『白い炎』p108 より引用 (コスモス・ライブラリー 発行 大野純一 編訳)
>
>
>  もし私が言わんとしていることをあなた方が理解されれば、あなた方の行為、活動は、−−真の「私」を見出したがゆえに、−−悲しみをもたらしたり、悲しみの元になる束縛を招いたりしなくなるでしょう。そのようにしてすべての動揺がやむことによって、錯覚あるいは迷妄からの自由が起こるのです。

 昨夜NHKスペシャルで「遺児のいま」を観ました。阪神大震災の時のことです。「お父さんとお母さんにあいたい!」、「お父さんとお母さんのいるところに行きたい!」遺児の悲痛な叫びを聞いていたら涙がとめどもなき出てきました。

昔のその時の放送で、少したって被災した子供の卒業式を、避難所になっていた学校を整理して何とか卒業式にこぎつけた先生のインタヴューを見ていました。その男の先生が「遠い親戚に避難していた子供たちが来てくれました」と明るく言いながら、大粒の涙をはらはらと流していました。その時部屋に妻が入ってきて、私の様子を目にとめ、どうしたのと聞かれました。私は説明しようとしたのですが、舌がもつれて話になりませんでした。

他にも、震災で老いた母親がタンスの下敷きになってどうしても助けられません。火災が迫ってきます。それでも老いた父親は離れれません。「お母さんの分も生きて!」と父親を引っ張ってその中年の女性は逃げたそうですが、その時、お母さんを見捨てたと思ったそうです。その女性は全くの焼け野原の中に翌朝来て、焼けた一本の木がぽつんと立っているので自宅とわかるそうですが、そこでインタヴューに、途切れ途切れに重い口調で答えていました。

ここには本質的なものがあって、それを見ていると私は思います。(ゴト)

>  もし任意の時にあなたの精神・心が動揺させられうるなら、その時には永遠なるものについての真の把握、真の理解はやみます。「私」が動揺しないようにし、それによって純粋で、しなやかで、冷静で、強く、決然としており、バランスのとれた精神・心を持つためには、あなた方は任意の時に精神・心の均衡を乱しかねないすべての非本質的なものを消去しなければなりません。真の「私」−−万人の内なる「私」−−についての真の理解は、すべての非本質的なものからの離脱から起こるのです。そして非本質的なものは、束縛する恐怖、限定、願望の産物です。消去の過程によってのみ、あなた方はすべての錯覚から自由になり、あの確信の状態に至ることができるのです。

それは断つと言えばその通りですが、簡単に断てない。そこはどうなるのかな?(ゴト)

>  全体から「私」が分離しているかぎり、限定、苦痛、悲観、生と死、時間、空間、そして錯覚があるのです。
>  完成はすべての不完全を退けるがゆえに、「私」は腐敗を免れ、自由に他ならないあの美、あの全体の部分にならねばならないのです。そして蜜蜂たちが春を、香しい花々を待ちわびるように、人は「私」を発見する時を待ちわびるのです。少なくともここにおられる間は、あなた方はこの一事に集中し、本質的なものについてのあの確信を培い、すべての非本質的なものを退けるようにしていただきたい。なぜなら、それが真の「私」の特質である純粋な英知だからです。
>  もしあなた方が自分が放棄しているもののことを知らなければ、放棄にはなんの価値もありません。もしあなた方が、私がそうするように言うがゆえに、または恐れのゆえに放棄するのなら、あなた方は少しも放棄しているのではなく、古いものにかわって新しいものを築いているのです。
>  真理−−で、それによって私が何を意味しているかを慎重に説明したわけですが−−は、すべての社会、すべての組織化された信念、すべての思想体系にとって危険なものとなります。もし個人−−あなた、または他の誰か−−がこの真理を持てば、彼は自動的に、自分のまわりのすべての非本質的なものを爆破する火薬庫になるでしょう。が、彼はそれを組織化することはできません。もしあなた方がその真理を知覚し、その真理を生き、そしてその真理の一部になれば、その時にはあなた方はすべての靄(もや)を晴らす日光のようになるのです。
>  私が話している真理は、非本質的なすべてのものにとって危険なものです。が、何が非本質的で何が本質的かは、あなた方自身が見出さなければなりません。私の口からそれを告げることはできないのです。
>  <生>あるいは真理を組織化すること(組織を作って追求すること)はできません。もし私がロンドンに行きたければ、私に切符を与えてくれる組織を私は利用します。が、もし組織が私を天国に導くことができると主張したら、私はそれを用いないでしょう。なぜなら私は、天国は私の外にある場所ではないことを知っているからです。言わんとしていることがおわかりですか?
>  すべての信念、救済についてのすべての観念、特定の天国に導かれるという観念は、思考を組織化しようとする企てです。が、思考を組織化し、それによって精神を虜(とりこ)にすることはできないのです。
>  重要なのはあなた方自身であって、世界を変えるためにあなた方が何をするかでも、どのようにするかでもないのです。もしあなた方が心優しくて親切なら、もしあなた方の表情があなた方の思考・感情を示していれば、そしてもしあなた方が本当に嬉々としていれば、その時には、なぜあなた方がこの混乱した世界でそのようにしていられるのかを見るために、あらゆる人があなた方のところにやって来るでしょう。
>  そこで要点に戻りましょう。非本質的なすべてのものを一掃するあのダイナミックなエネルギーの中心にならなければならないのは、個人としてのあなた方であって、組織の一員としてのあなた方ではないのです。もしあなた方が、何かが真実であると知っているがゆえにそれについて確固としていれば、その時にはあなた方は世界を変えるでしょう。が、もしもあなた方自身が不確かなら、世界を変えることはできないのです。私が言っていることの真実を確信するためには、あなた方はどうすべきなのでしょう?
>  まず第一に、あなた方の人生が権威に基づいて築かれているかどうか、あなた方の神々や恐怖が本当に存在するのかどうかを熟考し、それから内面的な消去の過程によって人生の真の価値を見出し始めなければなりません。本質的なものを内面的に確立すること、それがあなた方の最も重要な仕事なのです。
>  昨日私が救済にまつわる恐怖について話した時、私は崇拝、祈り、外面的な神々、権威、迷信、儀式、教会、寺院、聖所といったものにすがりつくことを意味したのです。そういったすべてを恐れることは、あなた方が依然として非本質的なものにすがりついていることを示しています。偽善的にならず、本当に正直にしてください。そうすればあなた方は、いかにそれらのものがあなた方の人生を左右しているかがわかるでしょう。
>  あなた方はクリシュナムルティが言っていることを世の中に向かって告げ知らせようとしておられる。もしクリシュナムルティがこれこれのことは非本質的だと言い、しかるにあなた方がそれらの非本質的なものをおこない、それらに耽っていれば、部外者は当然こう言うでしょう。「もしクリシュナムルティがあなた方の人生を変えなかったのなら、もしあなた方自身の精神と心が変わらなかったら、私に告げても無駄なのではありませんか?」。私はあなた方を納得させたいのではなく、ただ私が言っている本質的なことをあなた方が本当に確信するやいなや、あなた方は自然に自分自身を変えるであろうと言うことに気づいてほしいのです。それこそが重要なのです。
>
>
>  あなた方は、何が「私」に非腐敗性の衣をまとわせる本質的なものかについて充分に確信し、そしてその衣をまとっているがゆえに、腐敗しやすいすべてのものにとって危険な存在にならねばならないのです。
>  非本質的なものを作り上げるのは、あなた方個々人です。それらはひとりでに出てくるわけではありません。あなた方がそれらを作り上げるのは、本質的なものと非本質的なものとをどう識別したらいいかわからないからです。世界中のモスクや寺院や教会を築いたのは誰でしょう?迷信深い人々、司祭たち−−すなわち、あなた方や私のような個々人です。そしてその私たちに永続的なものとつかの間のものを見分ける力が欠けているからです。
>  あなた方が非本質的なものを表に出さなくなる時、自然に本質的なものを創り出すでしょう。そしてその創造は最大の重要性を持つでしょう。なぜなら、それは単に古いものから手を引くことではなく、新しいものを創造することだからです。
>  私にはあなた方が何を考えているか、私が言っていることをどのように解釈しているかわかりません。結局私は、私が話していることを、あなた方の思い描くようにではなく、私が理解しているとおりに理解していただきたいのです。毎朝私が話したことがどんな結果を生んだか、お互いにどのように理解したか?それが重要なのであり、それこそが私たちが討論すべきことなのです。
>  私が話していることは生の全体についてであり、ですからそれを30分で理解してしまおうとしたり、何気なく坐って私が言うことを軽々しく討論したりしないでいただきたい。私が話している間はとても集中し、それ以外の時間は他の無数のことがらで頭をいっぱいにしていれば、理解はおぼつかないのです。正しい理解は一瞬にして起こるわけではありません。それはたゆみない努力の結果です。あなた方が真の理解力を身に付けるのは、たゆみない再調整、置換、破壊、収集によってなのです。
>  私がこれまでお見受けしたかぎりでは、あなた方は私が言っていることの一部だけを受け入れ、その部分だけを切り取って、それについて議論しているようです。で、その小さな部分は、全体から切り離されているので、なんの価値も持っていません。重要なのは全体、一個の具体的なまとまりとしての生の全体なのです。そしてその中の様々な苦闘、苦痛、悲しみは、あなた方が全体を一瞥した時にのみ理解されうるのです。
>
>  − − − 以上引用 − − −
>
>  つづく

読みました。方法や結果(具体的目標)をKが与えることはないという事はわかりました。観察、見ることについてはどうなのだろう?確かに組織的に瞑想するととは否定されるが。自分の振る舞いを全体として自分で一所懸命に見始めることがすべてなのでしょうか?


[24932] Re:[24931] [24930] [24929] [24925] [24924] [24904] 消去の過程 その5 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/17(Wed) 21:46  

> > > 勇気がいるという事は葛藤が起きていると私は感じます。その時は機が熟していない、何かが残っている、見逃されているものがあるのではないかと思います。ただ現代社会は複雑に絡み合って矛盾がありますから、一筋縄ではいかず、個人では手の施しようのないものが多くあります。あるがままのものと対立するのでは理解になるのだろうか?そんな疑問を感じます。先に進むことは学びであり、全体との関連の中で起こることです。個人にできることは受動的に注意深くしていることだけのように思います。(ゴト)
> >
> >
> >  私の目には「比較」が入っていたようです。クリシュナムルティの陳述がオールorナッシング的に聞こえるので、私はオールではないので、ナッシングだと思い、オールへ舵を切るには度胸が不足していることを感じていたのです。
> >
> >  週末に、その岐路に立って、舵を切りきれない私は、一億年先だと半ば諦めていたところ、週明けに職場へ行くと、半ば落ち込んでいた私にとっては予想以上に明るく開けた場所に見えました。これならいけるのではないか・・。と・・、また持ち直していました。
> >
> >  ここで嬉しいことは、私は勇気を絞って舵を切ろうとか、勇気がないから諦めようとか・・等々の心理操作を一切行わず、また、観念を操作して決心しようとかの積極的な活動を一切行わなかったにも関わらず、事態が好転してゆく様が、自然の流れの中で(まったくの努力なしで)進んでゆくことが、微笑ましく感じられていました。
>
> 素晴らしい。クリシュナムルティの名を出すか否かにかかわらず、パッションが新しい芽を出しかけているのかもしれません。そういう雰囲気が生まれると、みんなに明るさ、あるいは本質的な意味での心よさとして無意識的にしても感じられているものですから容易にはしぼみません。それが最初の自由で、もしかすると最後の自由で他にはないのかもしれませんね。


 もしも、それが>それが最初の自由で、もしかすると最後の自由で他にはないのかもしれませんね−−、その通りだとしても驚きません・・。そのささやかなそれで・・よいと思います。

 何十年もかけて、そのささやかなそれ・・に辿り着いたとしても、まったく悔いがありません。

 私は努力も犠牲も特に払っていないがゆえに、ささやかなそれで・・よいのです。


> >  その後に、「ウォードハウスの覚え書き」を読んで、オールorナッシングではないことをクリシュナムルティが述べていることに改めて気づきました。
> >
> >
> >
> >  >さらにあなた方は慣習、隣人たちが言うことへの恐れから自由でなければなりません。が、これはかなり困難です − 神々への恐れから自由になることよりもずっと困難なのです。−−、本当に、この困難を突破したのか・・。
> >
> >  >それからあなた方は喪失と獲得 − 金銭的、物質的、感情的、精神的喪失と獲得 − への恐れから自由にならなければなりません。−−、本当に、この金銭的、物質的、感情的、精神的喪失と獲得、これから自由になったのか・・。
> >
> >  >生と死への恐怖から自由でなければなりません。−−、本当に死への恐怖から自由になったのか・・。
> >
> >
> >  上記の問いに対するものも、オールorナッシングではないということですね。
> >  「解放の習慣」を生きる中で、次第に無頓着になる。
>
> オールorナッシングでない境地が見えだすことは素晴らしいことです。それも解放の一形態かな。
> >
> >
> > > > > >  そしてあなた方がその状態に至ると、永遠なるものの衣を纏うことができるのです−−それに至る以前にではなく。もしあなた方の精神と心の中に少しでも腐敗因子があれば、あなた方は腐敗を免れることはできません。
> > > > > >  さらに人間は、自由であるがゆえに、進んでみずからに制限を加える[訳注:好き勝手なことをしたり、放縦になることをみずからに許さない]のです。すなわち、人間は、彼を導くいかなる外部の権威も持たず、いかなる神の支配も受けないがゆえに、まさに自由に自分の望みどおりにするのです。彼は元来自由なのですが、みずからに制限を加えることによってみずからを自由にすべく努めていくのです。自由であるがゆえに(非本質的なものを)拒絶し、そのようにしてみずからを制限することによって、自由へと成長していくのです。あなた方は自由ではないでしょうか?まさに自分の望みどおりのことをしています。誰もあなた方を導いておらず、何が正しく何が間違っているかを誰もあなた方に教えてはいません。あなた方は、自分がすべき行為の選択、自分が感じるべき感情の選択、自分が考えるべき思考の選択においてまったく自由なのです。あなた方はまさに自由であるがゆえに、制限されるのです。たとえあなた方を導き、監督し、支配している超人的存在がおり、その存在は自由だとしても、あなた方自身はなお制限され、自由ではないのです。まさにあなた方は自由に自己選択できるがゆえに、あなた方の選択は制限され、それゆえあなた方の願望、思考は制限されるのです。自由であるがゆえにみずからに制限を加えるのです。獲得し、しかる後に放棄し、集め、しかる後に捨てることによって、あなた方は自分が意識するしないにかかわらずその部分になっているあの(本然の)<生>に他ならない自由に向かって成長するのです。自由であるがゆえに、あなた方は願望によって経験を蓄えるのです。願望は経験を求めます。経験はそのはけ口なのです。そして経験によってあなた方はあの状態−−すべての経験を味わい、あらゆる願望を持ったがゆえに至る、それらを越えたあの状態−−へと成長していくのです。
> > >
> > >  したいことができるというより、自分の心がどう動こうとしているかを見てついていく感じでいます。(ゴト)
> >
> >
> >  これが>先に進むことは学びであり、全体との関連の中で起こることです。個人にできることは受動的に注意深くしていることだけのように思います。−−、ということですね・・。
> >
> >  そして、これが「解放の習慣」を生きている。
> >
> >
> >
> >
> > > > >  非本質的なことにとらわれる時は自由を失っている、つまりお金にとりこになっているようなものですね。(ゴト)
> > > >
> > > >
> > > >  それが見えていて、そこに留まっている。腐敗因子があっても、見えていても、それを消去できないでいる・・。
> > >
> > >  ささやかな安定して収入の確保と1000億ドルの投資をするのは金につられることの質が違うのですが、そこははっきりしていますか。(ゴト)
> >
> >
> >  お金にはそれほど執着していないが、妻子への愛着には執着が大きい。しかし、これも「比較」の目で見ており、オールorナッシング的でないならば、「解放の習慣」から外れてはいないかもしれません。
>
> 妻子を大事にすることは本質的なことではない? そういう時もあると思います。職や命までかけて動くときが。がその時は妻子も了解してくれるでしょう。そのくらいの心のつながりは口に出さずともあるとしたもんですが。(冷や汗)
> >
> >
> > > > > >  あなた方が「私」の本質、その純粋さ、その力を知らないかぎり、「私」に対して鈍感なのです。あの輝ける「私」を発見し、あの静謐、あの乱しがたい状態、あの力と確信を備えるためには、以上述べたような消去の過程を経なければなりません。もし「私」が腐敗を免れ、完全に至るべきなら、それは徹底的に不完全さを免れなければなりません。なぜなら、完成はすべての不完全を拒むからです。消去、拒否、放棄−−あるいは、これらに相当するあなた方のお気に入りのもの−−の過程によって、あなた方は「私」が静謐で、明晰で、純粋で、決然とし、エネルギッシュで情熱的な状態にある、そういう精神と心の状態に至らねばなりません。で、あなた方がその状態に至る時、あなた方は「私」を教育し始めることができます。精神と心を永遠なるものの見地で陶冶するためには、すべての非本質的なものを取り除かねばならないのです。別の機会に言いましたように、非本質的なものは恐怖によって引き起こされるので、それらを取り除くことによって、あなた方は永遠なるもの、永続的なるもの、すなわち「私」に至るのです。それは、あなた方が世界を離れ、修道院に籠もり、あるいは出家しなければならないという意味ではなく、「私」の表現であるこの世界に住みながら、「私」の本性を理解しなければならないということです。そしてこの「私」を発見するためには、(非本質的な)あらゆるものを剥ぎ取らねばならないのです。それが唯一の直進路なのです。
> > > > >
> > > > >  非本質的なものを否定した時、あなたは「私」を教育し始めることができる?これは何を言い出しているのだろう。私はこれで終わりで後は生きることだけがあると思っていました。生の中ではもちろん学びが山ほどあるでしょうが。次を読まないとわからないかも。(ゴト)
> > > >
> > > >
> > > >  この>あなたは「私」を教育し始めることができる−−、これは『真理の種子』の中で、クリシュナムルティの元家庭教師との対話で「本然の生」について述べられているところのものと思います。
> > >
> > > そこを上に引用してくださってありがとうございます。
> >
> >  役に立って嬉しく思います。
> >
> >  この「本然の生」が完成形として、オールorナッシングではなく、その中間があったのですね。クリシュナムルティがその「ウォードハウスの覚え書き」の中で陳述していますね・・。
> >
> >
> >  クリシュナムルティが述べる「根源的な変容」とは、その完成形としての「本然の生」の達成を意味していたのかもしれません。
> >
> >  すなわち、「本然の生」の達成は、誰も成し遂げることができないほど希少なものだが、それをビジョンに持ち、それに近づく人々は居るということでしょうか・・。
> >
> >  新しい世代とは、「本然の生」が達成される世代と言うよりも、「本然の生」の達成をビジョンに持ち、これに近づこうとする世代・・ということであれば・・、見通しが出てくるのですね。。
>
> はい。そう思っています。それが儚い願望かどうかと思考は言いますが、静かに見ているだけです。長文ごめんなさい。「その6」に進みましょう。


 はい。

 私は、それまでに「見通し」が持てなかったようです。変容があまりにも遠く、見えなかったようです。

 初めて「見通し」が持てて、ゴトさんの気持ちが分かるような気がしました・・。


[24931] Re:[24930] [24929] [24925] [24924] [24904] 消去の過程 その5 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/17(Wed) 18:06  

> > > > >  この消去の過程の後、以上すべての非本質的なものから手を切った後に何が残るでしょう?お教えしましょう。動揺させられることのない静謐な精神と心、柔軟で、活気に満ち、情熱的な精神と心です。それらすべてを拒否した人の精神と心はバランスがとれ、強く、確信に満ち、恍惚とし、明晰で純粋で、決然としているのです。
> > > >
> > > >  ここです。ここの「以上すべての非本質的ななものから手を切った時、…」の中の『非本質的なもの』、これです。
> > > >
> > > > ここの「非本質的なもの」が、今回印刷して読んだ時、私には否定的なものを一瞥に照らし出す普遍的な言葉にとして心に飛び込んできました。
> > > >
> > > > 本質的と非本質的なものは、知覚と並んで直観できるものですよね。犬や猫やキリンは一目でそれとわかります。人類の共通に持つ直観です。本質的であるかどうかなら、心がだいぶさび付いていますが、そのつもりで心を使えばわかるのではないですか?自分で実験することができるでしょう。これで一億年問題になやまずに済みそうな気がします。(ゴト)
> > >
> > >
> > >  クリシュナムルティ理解に取り組んで変ることは、本質的なものと非本質的なものを自然と見分けることができる「目(心・精神)」が育つことだと感じています。
> > >
> > >  そして、それがありありと見えたとしても、なおも、非本質的なものの中に留まろうとする自分が見えるのです。
> > >
> > >  これが「一億年問題」の本質であるように思います。
> > >
> > >
> > >  >あなた方自身の内にこの断絶を生み出すには勇気、弁別力が必要ですが、あなた方はまだそれをお持ちではない。あなた方は、自分に好都合な程度までは歩みますが、けっして最後まで歩もうとはしません。(その1より引用)−−、これがよく見えます。
> > >
> > >  勇気が100パーセントあっても、弁別力が不十分であれば、その先へは進めない。
> > >
> > >  又、弁別力が100パーセントあっても、勇気が不十分であれば、その先へは進めない。
> > >
> > >
> > >  勇気と弁別力の両方が十分に育つことは容易なことではないのか・・。
> >
> >  もし、ありありと見えるのであれば、その時判別力というより100%の明晰さがあります。その時勇気がいるとは思えませんが。ありありと見えているというのが思考が言っているのではない限りですが。
> >
> > 勇気がいるという事は葛藤が起きていると私は感じます。その時は機が熟していない、何かが残っている、見逃されているものがあるのではないかと思います。ただ現代社会は複雑に絡み合って矛盾がありますから、一筋縄ではいかず、個人では手の施しようのないものが多くあります。あるがままのものと対立するのでは理解になるのだろうか?そんな疑問を感じます。先に進むことは学びであり、全体との関連の中で起こることです。個人にできることは受動的に注意深くしていることだけのように思います。(ゴト)
>
>
>  私の目には「比較」が入っていたようです。クリシュナムルティの陳述がオールorナッシング的に聞こえるので、私はオールではないので、ナッシングだと思い、オールへ舵を切るには度胸が不足していることを感じていたのです。
>
>  週末に、その岐路に立って、舵を切りきれない私は、一億年先だと半ば諦めていたところ、週明けに職場へ行くと、半ば落ち込んでいた私にとっては予想以上に明るく開けた場所に見えました。これならいけるのではないか・・。と・・、また持ち直していました。
>
>  ここで嬉しいことは、私は勇気を絞って舵を切ろうとか、勇気がないから諦めようとか・・等々の心理操作を一切行わず、また、観念を操作して決心しようとかの積極的な活動を一切行わなかったにも関わらず、事態が好転してゆく様が、自然の流れの中で(まったくの努力なしで)進んでゆくことが、微笑ましく感じられていました。

素晴らしい。クリシュナムルティの名を出すか否かにかかわらず、パッションが新しい芽を出しかけているのかもしれません。そういう雰囲気が生まれると、みんなに明るさ、あるいは本質的な意味での心よさとして無意識的にしても感じられているものですから容易にはしぼみません。それが最初の自由で、もしかすると最後の自由で他にはないのかもしれませんね。
>
>  その後に、「ウォードハウスの覚え書き」を読んで、オールorナッシングではないことをクリシュナムルティが述べていることに改めて気づきました。
>
>
>
>  >さらにあなた方は慣習、隣人たちが言うことへの恐れから自由でなければなりません。が、これはかなり困難です − 神々への恐れから自由になることよりもずっと困難なのです。−−、本当に、この困難を突破したのか・・。
>
>  >それからあなた方は喪失と獲得 − 金銭的、物質的、感情的、精神的喪失と獲得 − への恐れから自由にならなければなりません。−−、本当に、この金銭的、物質的、感情的、精神的喪失と獲得、これから自由になったのか・・。
>
>  >生と死への恐怖から自由でなければなりません。−−、本当に死への恐怖から自由になったのか・・。
>
>
>  上記の問いに対するものも、オールorナッシングではないということですね。
>  「解放の習慣」を生きる中で、次第に無頓着になる。

オールorナッシングでない境地が見えだすことは素晴らしいことです。それも解放の一形態かな。
>
>
> > > > >  そしてあなた方がその状態に至ると、永遠なるものの衣を纏うことができるのです−−それに至る以前にではなく。もしあなた方の精神と心の中に少しでも腐敗因子があれば、あなた方は腐敗を免れることはできません。
> > > > >  さらに人間は、自由であるがゆえに、進んでみずからに制限を加える[訳注:好き勝手なことをしたり、放縦になることをみずからに許さない]のです。すなわち、人間は、彼を導くいかなる外部の権威も持たず、いかなる神の支配も受けないがゆえに、まさに自由に自分の望みどおりにするのです。彼は元来自由なのですが、みずからに制限を加えることによってみずからを自由にすべく努めていくのです。自由であるがゆえに(非本質的なものを)拒絶し、そのようにしてみずからを制限することによって、自由へと成長していくのです。あなた方は自由ではないでしょうか?まさに自分の望みどおりのことをしています。誰もあなた方を導いておらず、何が正しく何が間違っているかを誰もあなた方に教えてはいません。あなた方は、自分がすべき行為の選択、自分が感じるべき感情の選択、自分が考えるべき思考の選択においてまったく自由なのです。あなた方はまさに自由であるがゆえに、制限されるのです。たとえあなた方を導き、監督し、支配している超人的存在がおり、その存在は自由だとしても、あなた方自身はなお制限され、自由ではないのです。まさにあなた方は自由に自己選択できるがゆえに、あなた方の選択は制限され、それゆえあなた方の願望、思考は制限されるのです。自由であるがゆえにみずからに制限を加えるのです。獲得し、しかる後に放棄し、集め、しかる後に捨てることによって、あなた方は自分が意識するしないにかかわらずその部分になっているあの(本然の)<生>に他ならない自由に向かって成長するのです。自由であるがゆえに、あなた方は願望によって経験を蓄えるのです。願望は経験を求めます。経験はそのはけ口なのです。そして経験によってあなた方はあの状態−−すべての経験を味わい、あらゆる願望を持ったがゆえに至る、それらを越えたあの状態−−へと成長していくのです。
> >
> >  したいことができるというより、自分の心がどう動こうとしているかを見てついていく感じでいます。(ゴト)
>
>
>  これが>先に進むことは学びであり、全体との関連の中で起こることです。個人にできることは受動的に注意深くしていることだけのように思います。−−、ということですね・・。
>
>  そして、これが「解放の習慣」を生きている。
>
>
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>
> > > >  非本質的なことにとらわれる時は自由を失っている、つまりお金にとりこになっているようなものですね。(ゴト)
> > >
> > >
> > >  それが見えていて、そこに留まっている。腐敗因子があっても、見えていても、それを消去できないでいる・・。
> >
> >  ささやかな安定して収入の確保と1000億ドルの投資をするのは金につられることの質が違うのですが、そこははっきりしていますか。(ゴト)
>
>
>  お金にはそれほど執着していないが、妻子への愛着には執着が大きい。しかし、これも「比較」の目で見ており、オールorナッシング的でないならば、「解放の習慣」から外れてはいないかもしれません。

妻子を大事にすることは本質的なことではない? そういう時もあると思います。職や命までかけて動くときが。がその時は妻子も了解してくれるでしょう。そのくらいの心のつながりは口に出さずともあるとしたもんですが。(冷や汗)
>
>
> > > > >  あなた方が「私」の本質、その純粋さ、その力を知らないかぎり、「私」に対して鈍感なのです。あの輝ける「私」を発見し、あの静謐、あの乱しがたい状態、あの力と確信を備えるためには、以上述べたような消去の過程を経なければなりません。もし「私」が腐敗を免れ、完全に至るべきなら、それは徹底的に不完全さを免れなければなりません。なぜなら、完成はすべての不完全を拒むからです。消去、拒否、放棄−−あるいは、これらに相当するあなた方のお気に入りのもの−−の過程によって、あなた方は「私」が静謐で、明晰で、純粋で、決然とし、エネルギッシュで情熱的な状態にある、そういう精神と心の状態に至らねばなりません。で、あなた方がその状態に至る時、あなた方は「私」を教育し始めることができます。精神と心を永遠なるものの見地で陶冶するためには、すべての非本質的なものを取り除かねばならないのです。別の機会に言いましたように、非本質的なものは恐怖によって引き起こされるので、それらを取り除くことによって、あなた方は永遠なるもの、永続的なるもの、すなわち「私」に至るのです。それは、あなた方が世界を離れ、修道院に籠もり、あるいは出家しなければならないという意味ではなく、「私」の表現であるこの世界に住みながら、「私」の本性を理解しなければならないということです。そしてこの「私」を発見するためには、(非本質的な)あらゆるものを剥ぎ取らねばならないのです。それが唯一の直進路なのです。
> > > >
> > > >  非本質的なものを否定した時、あなたは「私」を教育し始めることができる?これは何を言い出しているのだろう。私はこれで終わりで後は生きることだけがあると思っていました。生の中ではもちろん学びが山ほどあるでしょうが。次を読まないとわからないかも。(ゴト)
> > >
> > >
> > >  この>あなたは「私」を教育し始めることができる−−、これは『真理の種子』の中で、クリシュナムルティの元家庭教師との対話で「本然の生」について述べられているところのものと思います。
> >
> > そこを上に引用してくださってありがとうございます。
>
>  役に立って嬉しく思います。
>
>  この「本然の生」が完成形として、オールorナッシングではなく、その中間があったのですね。クリシュナムルティがその「ウォードハウスの覚え書き」の中で陳述していますね・・。
>
>
>  クリシュナムルティが述べる「根源的な変容」とは、その完成形としての「本然の生」の達成を意味していたのかもしれません。
>
>  すなわち、「本然の生」の達成は、誰も成し遂げることができないほど希少なものだが、それをビジョンに持ち、それに近づく人々は居るということでしょうか・・。
>
>  新しい世代とは、「本然の生」が達成される世代と言うよりも、「本然の生」の達成をビジョンに持ち、これに近づこうとする世代・・ということであれば・・、見通しが出てくるのですね。。

はい。そう思っています。それが儚い願望かどうかと思考は言いますが、静かに見ているだけです。長文ごめんなさい。「その6」に進みましょう。


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