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[25543] Re:[25542] [25540] [25533] [25532] [25530] 既知からの自由2−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/23(Sat) 08:54  

> > >  坐禅、哲学。
> > >
> > >  坐禅は関係の鏡の中ではなく学ぼうとするので不毛。
> >
> > ウーム、{生きた現実の}関係の中ではなく・・・とカッコ内を加えたい。
> > >
> > >  哲学は、知識から始めるので不毛。
> >
> > 古代ギリシャで知識もろくにないところから哲学は始まったと言えないか? 知識で組み立てらない領域に思いをはせるのが哲学の本来の姿とも思える。それが今、成立するか消滅するかの瀬戸際にあるではないかと思う。
> >
> > クリシュナムルティのといたところを本当に理解したい。それは何を言っているのか。
>
>
>  これがクリシュナムルティが聴いたら一番喜ぶところではないでしょうか。。
>
>  「クリシュナムルティのといたところを本当に理解したい」、これが最初で最後の到達点なのかもしれません。
>
>  渡辺さんにはこれがなかったのです。ここまでは至れなかった。。あの名訳にもかかわらず。
>
>  私には、これがクリシュナムルティ理解への取り組みの到達点のように感じられます。
>
>  これがあれば哲学に意味があり、坐禅に意味がある。
>
>  すなわち、クリシュナムルティは真の哲学者であり、真の瞑想家であったのではないでしょうか。。


ウーム、確かにひょっとするとそうかもしれない。このところいつも唸らされています。


[25542] Re:[25540] [25533] [25532] [25530] 既知からの自由2−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/23(Sat) 08:01  

> >  坐禅、哲学。
> >
> >  坐禅は関係の鏡の中ではなく学ぼうとするので不毛。
>
> ウーム、{生きた現実の}関係の中ではなく・・・とカッコ内を加えたい。
> >
> >  哲学は、知識から始めるので不毛。
>
> 古代ギリシャで知識もろくにないところから哲学は始まったと言えないか? 知識で組み立てらない領域に思いをはせるのが哲学の本来の姿とも思える。それが今、成立するか消滅するかの瀬戸際にあるではないかと思う。
>
> クリシュナムルティのといたところを本当に理解したい。それは何を言っているのか。


 これがクリシュナムルティが聴いたら一番喜ぶところではないでしょうか。。

 「クリシュナムルティのといたところを本当に理解したい」、これが最初で最後の到達点なのかもしれません。

 渡辺さんにはこれがなかったのです。ここまでは至れなかった。。あの名訳にもかかわらず。

 私には、これがクリシュナムルティ理解への取り組みの到達点のように感じられます。

 これがあれば哲学に意味があり、坐禅に意味がある。

 すなわち、クリシュナムルティは真の哲学者であり、真の瞑想家であったのではないでしょうか。。
 




[25541] 既知からの自由2-2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/22(Fri) 16:47  

[条件付け]

 しかし、生まれる瞬間から死ぬ瞬間まで、心が「私」という狭い型の中で特定の文化によって形作られるとき、どうやって私たちは自由に見、学ぶことができるでしょうか? 何世紀も私たちは国籍、カースト、階級、伝統、宗教、言語、教育、文学、芸術、習慣、慣例、あらゆる種類の宣伝、経済的圧力、食べ物、住んでいる風土、自分の家族、自分の友達、自分の経験 ― 考えることのできるあらゆる影響によって条件づけられてきました ― したがって、あらゆる問題に対する私たちの反応は条件づけられています。

 自分が条件づけられていることに気づいているでしょうか? それが自分に尋ねるべき最初のことです。どうやって条件付けから自由になるかではなく。あなたは決してそれから自由になれないかも知れず、そして「私はそれから自由にならなければならない」というなら、別の形の条件付けという別の罠に落ちるかもしれません。それゆえ自分が条件付けられているという事に気づいているでしょうか? あなたが木を見て「あれは樫の木だ」、「バンヤンの木だ」と言うときでさえ、木に名づけることは、それは植物学の知識ですが、あなたの心を非常に条件付けているので、あなたと実際に木を見ていることの間に言葉が入ってくるということをわかっていますか? 木と出会うためには手を木に当てなければならないのであって、言葉は木に触れるのを助けはしないでしょう。

 どうやって自分が条件づけられているのを知りますか? 何が教えてくれるでしょうか? 何が空腹だと教えてくれるでしょうか? ― 理論としてではなく空腹であるという実際の事実を? 同様に、どうやって自分が条件づけられているという実際の事実を見いだしますか? 問題、挑戦に対する自分の反応によってではないでしょうか? あなたはあらゆる挑戦に対し自分の条件付けにしたがって反応し、条件付けが不適切なので常に不適切に反応します。

 それに気づくとき、この人種、宗教、文化の条件付けは拘束されている感じをもたらさないでしょうか? 条件付けの一つの形、国籍だけを取り上げ、真剣に、完全に気づき、それを楽しむか反抗するかを、そしてもし反抗するなら、全ての条件付けを打破することを望むかどうかを見ましょう。自分の条件付けに満足しているなら明らかにそれについて何もしないでしょう。しかし条件付けに気づくときもし満足していないなら、あなたは条件付けなしには何事も決してしないということを実感するでしょう。決してしません! それゆえあなたは死んだものと一緒に過去の中に生きているのです。


 快楽を続けたり苦痛を避けたりする中で葛藤があるときのみ、いかに条件づけられているか自分で見ることができるでしょう。周りのあらゆることが完全に幸福なら、妻はあなたを愛し、あなたは妻を愛し、素敵な家、素敵な子供と沢山のお金があるなら、自分の条件付けに全く気付きません。しかし妨害があるとき ― 妻が誰かほかの人を見たり、金を失ったり、戦争あるいは何か他の苦痛や心配に脅かされるとき ― その時自分が条件づけられていることをしります。何かの種類の妨害に対して苦闘したり、何かの外部または内部の脅威に対して自分を守るとき、その時自分が条件づけられていることを知ります。そして殆どの私たちは殆どの時間、表面的にあるいは深く妨害されているので、まさにその妨害が、私たちが条件づけられているという事を示します。動物は可愛がられている限り申し分なく反応しますが、敵対される瞬間凶暴な性質の全体が出てきます。

 私たちは生を妨害されます。政治、経済情勢、恐怖、残虐、自分自身のだけでなく世界の悲しみ。そしてそのことから、どんなにひどく狭く条件づけられているか実感します。ではどうすればいいでしょうか? 大抵の人がするようにその妨害を受け入れ、それに耐えて生きますか? 背中の痛みに耐えて生きることに慣れるように、それに慣れますか? それを我慢しますか?

 私たち誰もの中に、物事を我慢し、それらに慣れ、それらを環境のせいにする傾向があります。「ああすべてがうまくいっていたなら私は違っていただろうに」あるいは「機会があればやって見せるのに」とか「あんなひどい目に遭ったので私は押し潰されたのだ」と言い、常に自分のうまくいかないことを他人や、環境や、経済情勢のせいにします。

 妨害に慣れてしまうならそれは心が鈍くなったことを意味します。丁度自分の周囲の美に慣れてしまうと、もはやそれに気づかないのと同じです。無関心に、固く、冷淡になり、そして心はますます鈍くなります。妨害に慣れないなら、ある種の薬を飲んだり、政治団体に加入したり、叫んだり、書いたり、フットボールの試合や寺院や教会に行ったり、あるいは別の娯楽を見つけることによってそれから逃げようと試みます。

 なぜ私たちは実際の事実から逃げるのでしょうか? 私たちは死を恐れます ― 一例として取り上げているだけですが ― そして私たちはあらゆる種類の理論、希望、信念を死の事実を隠すためにつくり出しますが、事実はなおそこにあります。事実を理解するためにはそれを見つめなければならず、それから逃げてはなりません。私たちはたいてい死だけでなく生も恐れています。家族のために恐れ、世論を、自分の職や安全を失うことを、沢山のほかのことを恐れています。単純な事実は私たちは恐れているという事であり、これやあれを恐れているという事ではありません。ではなぜ事実に直面しないのでしょう?

 現在の中でのみ事実に直面することができます。そして事実から常に逃げているため、それが現在あると決して認めないなら、決してそれに直面することはできません。そして逃避のあらゆる網を養成してきたので、私たちは逃避の習慣に捕らえられるのです。


 さて、あなたがともかく敏感で、ともかく真剣なら、自分の条件付けに気づくのみならず、またそれが帰着する危険に、それがどんな残忍さや憎悪に導くかに気づくでしょう。では、なぜ、自分の条件付けの危険を見てもあなたは行動しないのでしょうか? 怠惰だから、怠惰にはエネルギーが欠けているからでしょうか? ですが通り道のヘビとか、崖とか、火事のような即座の肉体的危険を見るなら、あなたはエネルギーを欠いてはいないでしょう。では、なぜ、自分の条件付けの危険を見るとき行動しないのでしょう? もし民族主義が自分自身の安全に対して危険なのを見たら行動しないでしょうか?

 答えは見ないということです。知的な分析の過程を通じて民族主義が自滅に導くのを見るかもしれませんが、しかしそこには感情を動かす内容がないのです。感情を動かす内容があるときのみあなたは活力に満ちるのです。

 自分の条件付けの危険を単に知的な概念として見るなら、それについて決して何もしないでしょう。危険を単なる観念として見るときには観念と行動の間に葛藤があり、その葛藤はあなたのエネルギーを奪い取ります。行動するのは、条件付けとその危険を即座に、崖を見るように見る時のみです。それゆえ見えることが行動です。

 私たちはたいてい不注意に生を歩みます。育てられてきた環境にしたがって思慮なく反応しながら。そしてこのような反応は一層の束縛、一層の条件付けを作り出すだけです。しかし自分の全注意を自分の条件付けに注ぐ瞬間、あなたは過去から完全に自由であるのを、過去は自然に脱落するのを見るでしょう。

(終わり)


[25540] Re:[25533] [25532] [25530] 既知からの自由2−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/22(Fri) 16:40  

始めを思い切ってカットしました。しかし、最後の文は前の文を踏まえて書かれています。カットはしすぎかも知れません。

> > 学ぶことは感受性による。身体を鈍らせないように。これは全体的動きだから。
> >
> > >
> > >  何であっても理解するためにはそれと共に生きなければなりません。観察しなければなりません。その内容、その性質、その構造、その動きを全て知らなければなりません。あなたは今までに自分自身と一緒に生きることを試みたことがありますか? もしそうであるなら、自分自身が静的な状態ではなく、新鮮な生きたものであることを見始めるでしょう。そして生きているものと共に生きるためにはあなたの心もまた生きていなければなりません。心が意見や判断や価値に捉えられているなら、心は生きていることは出来ません。
> >
> >
> > 理解するとは、共に生きる、観察すること。意見や判断価値に捉えられていては生きた観察はあり得ないと。
> >
> > >
> > >  自分の心とハートの、自分の全存在の動きを観察するためには、自由な心がなければなりません。議論で一方に味方し、単に言葉について論争し、同意したり同意しなかったりする心ではなく、むしろ理解しようという意向を持ってついていく心です ― そうすることは非常に難しいことです。なぜなら私たちの大抵は自分自身の存在をどのように見、あるいは聞くかを、どのように川の美しさを見、木の間のそよ風を聴くかより、少しもよくは知らないからです。
> > >
> >
> > 自由が登場。理解しようという意向を持ってついていく心。そうすることは非常に難しい?
> >
> > >  非難や正当化をするときは明確に見ることはできないし、心がとめどなく喋っているときもできません。その時はあるがままのものを観察していないのです。私たちが自分自身で作った投影を見ているに過ぎません。各人が自分はそうであると考えるもの、あるいはあるべきものというイメージを持っており、そのイメージ、その心像が、自分自身を実際にそうであるままに見ることを完全に妨げます。
> > >
> >
> > 投影、イメージを見ていて、あるがままに見ることを完全に妨げる!
> >
> > >  どんなものでも単純に見るということは世界で最も難しいことの一つです。なぜなら私たちの心は非常に複雑で単純さという性質を失っているからです。私は服や食べ物の単純さ、腰布だけをつけたり、断食の記録を破ったり、聖者達が培うあの未熟なナンセンスの何かを言っているのではありません。そうではなく、恐怖なしに直接にものを見ることができる単純さ ― 自分自身を実際にそうであるままにどんな歪みもなしに見ることができる単純さを言っているのです ― 私たちが嘘をついている時は私たちは嘘をついていると言うことです、それを隠したり、それから逃げたりするのではなく。
> > >
> > >  また自分自身を理解するためには非常な謙虚さを必要とします。もし「私は私自身を知っている」と言って始めるなら、すでに自分自身について学ぶことをやめているのです。あるいは「私はただの記憶、観念、経験、伝統の集まりだから私自身について学ぶことはたいしてない」と言うなら、その時もまた自分自身について学ぶことをやめているのです。何であれ達成した瞬間、あなたはあの無垢と謙虚の性質を失います。結論を持つ瞬間あるいは知識から調べ始める瞬間、あなたは終りなのです。というのはその時あらゆる生きているものを古い項目で解釈しているからです。ところが、足場を持たないなら、確実性、達成がないなら、見たり、達成したりする自由があります。そして自由と共に見るときそれはいつも新しいのです。確信している人は死んでいる人間です。
> > >
> >
> > 単純さ、無垢、謙虚はあるがままに見る、理解する、学ぶことの一環として出てくるのか。発見です。
> >  自自分自身を知るという事は、知識の集積という人間的意識の分野で行うのではなく、過去をわきにおいといて見る、即時の理解という(原初意識?の)経路でのみなされるし、それ(ある種のフィードバック?)がないといけない、混乱が生じるという事か?
> > >
> > > (続く)
>
>
>  坐禅、哲学。
>
>  坐禅は関係の鏡の中ではなく学ぼうとするので不毛。

ウーム、{生きた現実の}関係の中ではなく・・・とカッコ内を加えたい。
>
>  哲学は、知識から始めるので不毛。

古代ギリシャで知識もろくにないところから哲学は始まったと言えないか? 知識で組み立てらない領域に思いをはせるのが哲学の本来の姿とも思える。それが今、成立するか消滅するかの瀬戸際にあるではないかと思う。

クリシュナムルティのといたところを本当に理解したい。それは何を言っているのか。

>
>  生だけが不毛ではなく、生きている。
>
>  学ぶとは、生と共に生きるということか・・。。

ウム、そうかもしれない。


[25539] Re:[25537] 自分自身を知る 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/22(Fri) 15:50  

以下のような返信は書きたくないが、しょうがない、書いてから次に移ろう。

> <自分自身を知れ、とおっしゃいますが、

 >自分自身を完全に理解することが極めて重要であるという点で一致するほど{わかっていません}が、自分自身を知ることってどういうことか、興味を持ったのでついていきます。[25532]

私はそうはっきりと自分の意識の状態を言っているので、あなたは見当違いのことを言っています。

>
> 次のクリシュナムルティの言葉
>
> 「なぜならありのままの自分自身に直面させられ、自分が空虚で、鈍く、愚かで、醜く、罪深く、不安で ― 取るに足りない、見掛け倒しの、受け売りの存在であるという事を見いだすからです。」
>
> あなたのいう「自分自身を知れ」というのは、こういうことを指すのですか?

上の引用では文意が通じません。

 > 誰かに従わないなら非常に孤独に感じます。その時は孤独でいなさい。なぜ一人でいることを恐れるのでしょう? なぜならありのままの自分自身に直面させられ、自分が空虚で、鈍く、愚かで、醜く、罪深く、不安で ― 取るに足りない、見掛け倒しの、受け売りの存在であるという事を見いだすからです。[25530]

誰かに従っていないので非常に孤独に感じる人にKはそう言っています。私はそんなことを言っていないと思いますが。

> 少なくとも全てあてはまるとは思いませんが、一つの例ですか。

疑問があれば自分でまず考える。一般の人間すべてに当てはまるか否かを問題にしているみたいだが、誰かに従っていないので非常に孤独に感じる人にKはそう言っているという文意の上に立って、そうかどうかを再考してください。

中略。

> いきなり上司に呼び出され、明日から地方へ転勤を命じられる。
> その瞬間、恐怖が生じる。その方がわかりやすい、その時、自身に起きる反応を見る。
> 会社への反感、子供の転勤をどうするかなど、様々な思いが生じる。そのときの反応がリアルタイムの反応。

確かにリアルタイムの反応です。それが自分自身を知るのとどういう関係にあるのでしょうか? 反応を見るというのはどういう事が起きているのでしょうか?


[25538] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/22(Fri) 12:59  

渡辺さんとは毎週話していますが、人間らしく頭脳明晰でいいおじさんです。


[25537] 自分自身を知る 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/22(Fri) 08:45  

<自分自身を知れ、とおっしゃいますが、

次のクリシュナムルティの言葉

「なぜならありのままの自分自身に直面させられ、自分が空虚で、鈍く、愚かで、醜く、罪深く、不安で ― 取るに足りない、見掛け倒しの、受け売りの存在であるという事を見いだすからです。」

あなたのいう「自分自身を知れ」というのは、こういうことを指すのですか?
少なくとも全てあてはまるとは思いませんが、一つの例ですか。
例えば嘘をついたら認めます。嘘をついた自分を認める。
それが自分自身を知る?

再録
「なぜならありのままの自分自身に直面させられ、自分が空虚で、鈍く、愚かで、醜く、罪深く、不安で ― 取るに足りない、見掛け倒しの、受け売りの存在であるという事を見いだすからです。」

事実として上記のことを認める。認めるというと、「見る」とは違う、言われそうです、

次の内容を

事実として見ている。

「なぜならありのままの自分自身に直面させられ、自分が空虚で、鈍く、愚かで、醜く、罪深く、不安で ― 取るに足りない、見掛け倒しの、受け売りの存在であるという事を見いだすからです。」

どうもピンと来ない。

いきなり上司に呼び出され、明日から地方へ転勤を命じられる。
その瞬間、恐怖が生じる。その方がわかりやすい、その時、自身に起きる反応を見る。
会社への反感、子供の転勤をどうするかなど、様々な思いが生じる。そのときの反応がリアルタイムの反応。








[25536] 誰かに従う 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/22(Fri) 08:25  

<誰かに従わないなら非常に孤独に感じます。その時は孤独でいなさい。なぜ一人でいることを恐れるのでしょう? 

この世の中には組織というものが あります。組織、わかりやすくいうと会社を例としてみましょう。会社という組織にいると、上司に楯突くはできません、命令に従わないと会社をクビになります。
上司に言われた仕事、ノルマをこなすのが、社員の役目です。出向、転勤も甘んじて受けます。
あなたのいう「誰かに従わない」というのは組織ではありえません。
孤独以前の問題。あなたは会社勤めをしたことがないから、そういわれるのではないですか。いつもあなたは長に祭り上げて、下積みの気持ちはわからないでしょう。
余談ですが、孤独を感じたことは、仕事がない時、失職したとき、社会から疎外された感じを受けました。
ですから、あなたのいう「誰かに従わない」から孤独を感じることはありません。

<なぜならありのままの自分自身に直面させられ、自分が空虚で、鈍く、愚かで、醜く、罪深く、不安で ― 取るに足りない、見掛け倒しの、受け売りの存在であるという事を見いだすからです。

人間は空虚、鈍感、愚か、罪深く、不安、見かけ倒しの受け売りの存在。
随分、人間を卑下しますね。全てネガチィヴ。いいところは何もない。〜〜〜〜受け売りの存在と見出すというのは、どういう意味ですか。自分がそれを認めろということですか。見かけだけの受け売り人間だと。私はそれには反論したい。

<事実に直面なさい。それを見なさい、それから逃げ出さないこと。逃げ出す瞬間恐怖が始まります。

事実に直面しろということですが、どういうことですか?
自分は空虚、鈍く、愚か、罪深く、不安、見かけ倒しの受け売りの存在ということをに認めろいうことですか。それともそれらを自覚せよ、ということですか?

それと事実に直面せず、何で逃げ出すと恐怖が始まるんですか。上司に従わないで会社をクビになる方がよほど恐怖です。そうではありませんか。


[25535] 怒りと偏見 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/21(Thu) 18:12  

>渡辺さんは、「クリシュナムルティが述べることが起こらなかった。」と述べているにも関わらず、クリシュナムルティの陳述内容を理解していると思い込んでいるのです。

この文章には、はらわたが煮えくり返った。
実は渡辺氏とは何回かお会いして、いくつか質問している。そこでは明瞭な解答をいただいた。
KB会以外に、クリシュナムルティの会の忘年会で、大野氏と共に参加していただいたことがある。そこではいろんな話を聞いた。
私にとっては世話になった方であり、ユーチューブでも大いに参考になっている。

そう言った大変世話になったその人に対し、何もわからない人間が、
クリシュナムルティの陳述内容を理解していると「思い込んでいる」とは恐れ入った。

そういうおたくこそ歪んだ偏見の塊である。まさに自己流の思い込みの世界。クリシュナムルティにまつわる背景など、全く無知であり、しかも情報源はネットのみ。
クリシュナムルティの言葉を絶対視して、それに従わない者は、排除するという独善主義に陥っているその典型。

それにしても、何で人のことが気になるのだろうか?
要するにクリシュナムルティの「誰も変わりやしなかった」。
これに引っかかっている。
何で渡辺氏が変わったどうかというのが気になるのか。ということだ。
そこをよく考えろ?
人が変わったかどうかでなく、何でそれが引っかかるのか?





[25534] 気配りの欠如。 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/21(Thu) 17:46  

宮啓、文章消せよ!!
長いと思わないのか。
相手側の人が文章を読むのが大変だろう。
いちいち遡登らなければならない。
いつも文章を消して短くしているのは相手方のゴトさんの方。
パソコンでなく、いつもスマホで投稿しているのか。
つまり消すのは相手任せ。

同じ文章を何度も載せることはない。会話の程を為さぬ。
まったく、他人への配慮も気配りもない。つまり愛の欠如。クリシュナムルティなど語る資格はない。

何ぼ偉そうなこと言っても、掲示板上で、愛の実践が出来なければしょうがない。絵に描いたよう餅。
おそらく、会社でも家でもそうなのだろう。気配りの欠如。




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