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[25488] 変性意識 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/15(Fri) 20:25  

参考

変性意識の概略(「ウィキペディア」より)

Altered state of consciousnessという表現は、1966にArnold M. Ludwigが提唱し[1]、1969年発行のチャールズ・タート(英語版)の著作[2]を通じて一般に知られるようになった。Altered state of mindまたはaltered state of awarenessともいう。

通常の覚醒時のベータ波意識とは異なる、一時的な意識状態をさす。人々がその体験を共有することも可能であり、社会学分野において研究対象となっている。

変性意識状態は「宇宙」との一体感、全知全能感、強い至福感などを伴い、この体験は時に人の世界観を一変させるほどの強烈なものと言われる。その体験は精神や肉体が極限まで追い込まれた状態、瞑想や薬物の使用などによってもたらされるとされる。また催眠等による、非常にリラックスした状態を心理学でこういうこともある。

トランスパーソナル心理学ではこれを、人間に肯定的な効果をもたらすものとして研究する。また精神疾患に対する有効な療法として、一時的にこの状態を患者に与える方法が活用されている。

宮台真司は、心理学における変性意識の、社会学的な写像(カウンターパート、対応物)がカリスマであると言った[3]。

変性意識状態の代表としてトランス状態を挙げることができる[4]。

様々な面で応用可能な自己の精神操作としてスポーツ、教育、ビジネスの場でも取り組まれる事も多い。(この操作を引き起こす為、スポーツ選手は小さな仕草や動き・決まったポーズを取る「ルーティン」と呼ばれる動作を取る事がよく見られる。)


[25487] 既知からの自由1−5 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/15(Fri) 20:00  

[自己変容・エネルギーの浪費]

 では、あなたと私は、どんな外部の影響もなしに、どんな説得もなしに、どんな処罰の恐怖もなしに、自分自身の中に ― 私たちの存在のまさにその本質に、全体的な革命、心理的な変容をもたらすことができるでしょうか? その結果私たちはもはや残忍、暴力、競争、心配、怖れ、貪欲、嫉妬、その他、自分が日常生活をしているこの腐敗した社会を作り上げた私たちの性質が少しも現れることなしにいられるでしょうか?
 私は哲学や神学上の観念の構造、神学的概念を公式化しているのではないということを、最初から理解することが重要です。イデオロギーはすべて全く馬鹿げていると私には思われます。重要なことは人生の哲学ではなく、私たちの日常生活の中で実際に起きていることを、内面的にまた外面的に観察することです。起きていることを非常に綿密に観察し調べるなら、それは知的な概念に基づいているのが見えるでしょう。そして知性は存在の全体の場ではありません。それは断片であり、そして断片は、どんなに利口に組み立てられていても、どんなに古く伝統的でも、なお存在の小さな部分にすぎません。ところが私たちは生の全体を取り扱わなければならないのです。そして世界で起きていることを見る時、私たちは外部と内部の過程はないことを理解し始めます。ただ一つの単一の過程があるだけであり、それは全体の、全部の動きです。内部の動きはそれ自身を外部の動きとして表現し、外部は内部に再び作用しています。これを見ることができるのが必要とされる全てであると私には思われます。なぜなら私たちがどのように見るかを知るなら、その時全部のことは非常に明確になるからで、そして見るためには哲学も、教師もいりません。誰もあなたにどうやって見るか教える必要はありません。あなたはただ見るだけです。

 その時あなたは、この全体の光景を見て、それを言葉の上でなく実際に見て、容易に、自発的に、自分自身を変容させることができるでしょうか? それが真の問題です。精神に完全な革命をもたらすことができるでしょうか?


 このような質問に対するあなたの反応はどのようなものでしょうか?「私は変わりたいと思いません」と言うかもしれません。そして多くの人々は変わりたいと思わないのです。特に社会的に経済的にかなり安泰な人や、教条的な信念を保持し、そのままのあるいは少しばかり修正した形の、自分自身と物事を受け入れることに満足している人はそうです。それらの人々に私たちは関わってはいません。あるいはもっと微妙に「ところで、それは難し過ぎて、私向きではない」というかもしれません。その場合にはすでに自分を閉ざしてしまい、調べることをやめてしまっており、さらに進んでも何にもならないでしょう。でなければ「自分自身の中に根本的な内面の変化が必要なことはわかりますが、どうやってそれをもたらすべきでしょうか? どうか道を示し、それへ向けて私を助けてください」と言うかもしれません。もしそう言うなら、その時あなたが関わっているものは変化それ自身ではなく、根本的な革命に本当に関心があるのではありません。単に変化をもたらす方法、体系を探しているだけです。

 もし私があなたに体系を与えるほど愚かで、そしてもしあなたがそれに従うほど愚かならば、あなたは単にコピーし、模倣し、従い、受け入れているだけです。そしてそうするとき、あなたは自分自身の中に他人の権威を作り上げており、それゆえあなたとその権威の間に葛藤があります。これこれの事をするように教えられたので、それをしなければならないと感じますが、しかもなおそうする事ができません。自分が従うべきであると考える体系と相容れない自分自身の特有の傾向、成功、圧力をあなたは持っており、それゆえ矛盾があります。ですから体系のイデオロギーと日常の生存の実際との間で二重生活を過ごすでしょう。イデオロギーに順応しようとして自分自身を抑圧する ― ところが実際に真実なのは、イデオロギーでなくてあなたのあるがままです。他人にしてがって自分自身を学ぼうとするなら、あなたは常に受け売り人間のままでしょう。

 「私は変わりたい、どうやるか教えてください」と言う人はとても熱心で、とても真剣なように思われますが、そうではありません。自分の中に秩序をもたらしてくれると期待できる権威を望んでいるのです。しかし権威は本当に内的秩序をもたらすことができるでしょうか? 外から押し付けられる秩序は常に無秩序を生むに違いありません。あなたはこの真理を知的には理解するかもしれませんが、しかし心がもはやどんな権威も、本、教師、妻や夫、両親、友人や社会の権威を投影しないように、それを実際に適用できるでしょうか? なぜなら私たちは常にある方式の型の内部で機能しているので、方式がイデオロギーと権威になるからです。しかし「どのようにして私は変わることができるでしょうか?」という質問が新しい権威を組み立てることを本当に見る瞬間、あなたは永久に権威を終えたのです。

 もう一度はっきり述べましょう。私は自分が自分の存在の根源から完全に変化しなければならないことを見ます。伝統はこの巨大な怠惰、受容、服従をもたらしたので、私はもはやどのような伝統にも依存することはできません。変わるのを助けてくれるよう他人に頼ることはとてもできません。どんな教師にも、どんな神、どんな信念、どんな体系、どんな外部の圧力あるいは影響にも。その時何が起きるでしょうか?

 まず第一に、あなたは全ての権威を拒否できますか? もし出来るなら、それはあなたはもはや恐れていないことを意味します。何世代も自分と共に持ち運んできた偽りのものを拒否するとき、どんな種類の重荷であれ捨て去るとき、何が起きるでしょうか? あなたはより多くのエネルギーを持っているのではないでしょうか? より多くの能力、より多くの精力、より大きな強烈さと活力を持っています。もしこれを感じないなら、その時は重荷を捨て去っていません、権威の死んだ重さを捨ててはいないのです。

 しかしそれを捨て去り、全く恐怖のない ― 過ちを犯すという恐怖のない、正しいあるいは間違ったことをするという恐怖のない ― このエネルギーを持つとき、その時そのエネルギー自体が変容ではないでしょうか? 私たちは途方もない量のエネルギーを必要とし、それを恐怖を通じて浪費していますが、あらゆる形の恐怖を捨て去ることから生じるこのエネルギーがあるとき、そのエネルギー自体が根本的な内面の革命を生み出します。それについてしなければならないことは何もありません。

 それゆえあなたは自分自身と共に残されます。それがこのこと全てについて真剣である人にとって、あるべき実際の状態です。そしてもはや助けを求めて誰かや何かに頼っていないので、あなたはすでに自由に発見できます。自由があるとき、エネルギーがあります。自由があるときは決して間違ったことをすることができません。自由は反抗とは全く違います。自由があるときには、正しかったり、間違ったりするというような事はないのです。あなたは自由であり、その中心から行動します。それゆえ恐怖はなく、そして恐怖のない心は大いなる愛が可能です。そして愛があるときは望むことをすることができます。


(続く)


[25486] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/14(Thu) 18:00  

自分を知るものはすべてを知る。このことわざは間違いだ。しかし、自分をまずしることなしにすべてを知ることはできないというのは正しい。まず4段階で自己知にいたり、5段階で他者もしらなけくてはいけない。自己知と言っても理屈ではない。それは何があっても無意識に陥らない覚醒した至福の意識である。クリシュナムルティはここまではいった。


[25485] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/14(Thu) 17:55  

まず4段階で偽りの自我は落ちる。野心、偽りの名声などは自己知によって落ちる。あなたがそれらを求めるのは自分がなにかをしらないからだ。しかし他者への無知は残る。5段階のとき、他者への無知は消え、無思考になる。知だけが残る。


[25484] コピー人間 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/14(Thu) 17:48  


>私の場合、クリシュナムルティよりも上手い文言表現があれば、私なりの言葉で話したいのですが・・、なかなかクリシュナムルティ以上の言葉がないが故に、そして話の持って行き方も、クリシュナムルティ以上の持って行き方がないが故に、どうしても、クリシュナムルティの文言表現と、クリシュナムルティの持って行き方に頼らざるをえないという立場です。

 すなわち、クリシュナムルティの陳述へともってゆくしか能がない私です。。

まさに能無し。
何であなたは自分の言葉で話そうとしないのか。あなたはKのコピー人間ですか。要するにセコハン(中古)人間。ガラクタのコピー。生きた言葉ではない。
クリシュナムルティ以上と言っていますがあなたは何様ですか。
他の人は自由にしゃべっているのではないですか。
あまりにも表現が稚拙です。人をあれこれ言う資格はない。
あまりもKに依存している。渡辺氏から「Kなんか捨てちまえ」といわれた意図が今だわからぬようだ。


[25483] Re:[25461] [25457] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/14(Thu) 17:39  

> > 1知識  2自由  3幸福  4義務  5安らぎ    この5つの順番で精神は発達する。
>
>
> この4義務というのはいったい何だい? 不思議な感じがする。自分の幸福を求めることに飽き他者への責任感に目覚め義務を果たすことに喜びをかんじる人は四段階に近い。


[25482] チェンジオブユアステージ 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/14(Thu) 17:30  

自然といえば木々や鳥、虫など様々ですね。
木の葉がその様に生い茂るのは必然か偶然か。
全ては原始的波動のなせるわざだと思いを馳せれば必然。
僕個人として(そのようなものがあるとして、まぁあるように錯覚又は思い込むことはよくしますが)木の葉の姿、状態や状況などは、風が北から吹くのも偶然、突風が吹くのも偶然、鳥がたまたま土に糞をして肥料となるのも偶然。。。

要するに自我に立つか無我に立つか自己に立つか、はたまた真我に立つか、そのスタンスで世界の見えようは変わるということで、それだけでも、とても世界や人間というのは面白いですね。

科学はとっくに天道説から地動説へ。
ところが人間の精神は、今だ天道説。つまりは自己中心。
ここで聖賢、覚者は、見方を変える。視点を変える。
チェンジオブステージ。舞台が変えるだけ。
「自己」が消えれば、「対立」は消え、自ずと視界は開ける。
見方が変わる。此岸から彼岸へ。





[25481] Re:[25474] 残された生 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/14(Thu) 16:35  

> >人間の持っている基本的性質はいいところもあります。がしかし、悲しすぎます。
> それで責任とかでなく、私は人間として何とかしたいのです。私個人のためでなく。
>
> 一体何をされたいんですか?
> あなたは救世主として、人類を救いたいのですか?


私はやりたいことをしています。救世主なんてとんでもない。

> ちなみに私自身は残された生は、好きなことをして暮らしていきます。何か問題ありますか。

いいえ、ほとんど同じです。私はやりたいことをして生きています。

> 余談ですが、もし世界平和を憂うというなら、一生懸命祈ったらいかがですか?
> 実際問題、私たちには、それしかできないでしょう。確自それぞれの「生活」があります。


私は祈りなんかしたくないです。ただ悲しみを続けたくはありません。それでそのためにやりたいことがあるかというと何も見つかりません。何をしたらいいかわかりません。

それで勉強しています。調べたくなったことを調べて勉強しています。勉強したいことはおのずと私に現れてきます。それをやっています。

> 私の知人にそのような人がいます。私は世界平和には関心ありません。身近でさえ小さな問題が起きるのにです。
> その身近な人が平和に暮らしていれば、それでいいのではないですか。普通の生活が大事なことです。
> 幸い身近には、大きなトラブルがあったことはありません。

普通の生活は大変ですが、何とかやっていけています。でも八十歳台後半という事はいつ何が起こっても不思議ではありません。という事は、この掲示板がいつなくなっても不思議でないという事です。だが、それは天下の一大事ではないでしょう?


[25480] Re:[25468] [25466] [25464] [25455] [25442] [25436] [25430] [25428] 既知からの自由 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/14(Thu) 15:45  

> >  実は、私がひっかかっていたのは、渡辺さんがクリシュナムルティの本流から逸れて坐禅の流れに入っていったように、ゴトさんはクリシュナムルティの本流から逸れて哲学に行ってしまわないか・・と心配していたからでした。。
> >
> >  しかも、なぜ、これほどクリシュナムルティに詳しいのに、なぜ、逸れるのか?
> >
> >  なぜ、なぜ、・・・と、なぜを百回言っても、まだ足りぬほど・・理解できなかったのです。
> >
> >  しかし、上述のゴトさんの返答を聴いて、少し安心しました。。
> >
> >  ゴトさんはクリシュナムルティから逸れてはいなかったのですね。。
>
>
> 私は哲学については理系のせいもあってものすごい素人ですよ。そちらに行くという心配はご無用です。
>
> といってもクリシュナムルティの信奉者という事ではありません。もっとも以前はKの受け売り人間的なところが多かったですが、必死になってそこから脱出し、自分で個人としてではなく人間として考えられるように努めてきました。
>
> これは普遍性という事ですね。「時間の終焉」でKは普遍性という事を言って終わりにしています。今「既知からの自由」を読んで、当時からKが普遍的な目、言い換えれば哲学的でもある目を持っているように感じて驚き、熟読しています。


 私の場合、クリシュナムルティよりも上手い文言表現があれば、私なりの言葉で話したいのですが・・、なかなかクリシュナムルティ以上の言葉がないが故に、そして話の持って行き方も、クリシュナムルティ以上の持って行き方がないが故に、どうしても、クリシュナムルティの文言表現と、クリシュナムルティの持って行き方に頼らざるをえないという立場です。

 すなわち、クリシュナムルティの陳述へともってゆくしか能がない私です。。


[25479] Re:[25478] [25476] [25475] 神であって神ではない 投稿者:南方 投稿日:2018/06/14(Thu) 12:49  

> > > >仏様が言った、無我の境地「私でさえ私のもではない」ということを心底納得します。
> > > それを納得するには宇宙の因とは一つであることを、これもまた心底納得するまで考える必要があります。
> > > そうすると自身は神であり、またそうではないことがわかります。
> > >
> > > それらを納得できたらキリストの言う「人類皆兄弟姉妹」という言葉か心底納得できるはずです。
> > >
> > > ここでいう
> > > 「私でさえ私でない」
> > > 「自身は神であって、神ではない」
> > > とは、どのような意味ですか?
> > >
> >
> >
> > 思考というものは自然発生するものなので、私という思考さえ私のものではないということです。
>
> 思考というものは色々あって、「考え抜く」いう作業は、自分の脳で考えるということです。他人ではありません。又思考は自由自在にコントロールができます。自然発生的に生まれるものではない。イメージが次々と想起するのは、脳の性質といっていいでしょう。自然発生という表現は「偶然」という言葉が浮かんでしまいます。脳は必然です。宇宙も必然。偶然はない。思考は過去の記憶からの反応。その思考以外の知恵つまり叡智を得るには、思考を静めなければなりません。
> 思考を静めたとき、ようするに脳をニュートラルにしたとき、その脳の隙間から、外部から知恵がやってきることは古今の聖賢から言われていることです。アカシックレコードによって。曲を作る時、霊感の泉があふれたというモーツァルト、朝歯を磨いていた時、ふとアイデアが浮かんできた(相対性理論)というエピソードは有名です。逆説的にいえば、何も考えないときに叡智がやってくる。Kもよく思わせぶりに、「あちらから」という表現を使います。
> 今までにない斬新なアイデアを得たとき、自分の考えではなく「神」から得たと言ってもいいでしょう。
> そのとき私であって私ではない。人智を越えたもの。
> >
> > その現象というのは、なんといってもいいですがとりあえずここでは神としときますが、それが発生原であり、そういう意味では自身は神ではない。
>
> 思考は私の脳から生じてくる。この現象はまぎれもない「事実」です。「神」という表現は妙です。思考は神ということになっちゃう。
> >
> > しかしながら源とつながりその表現として具現化されている現象としては似姿としての神であるということです。
>
> 似姿?という神?
> そうではなく、すべては根元的な「意識」の問題です。ラーマクリシュナらが、人間は神であるというには、人間は神のように振る舞うことができるという意味であり、アダムスキーは神は人間の意識といいました。ここでいう意識という意味は原理としての意識(宇宙意識、ブラフマン)。根源の原初の意識。
> 要するに、人間は善と悪、どちらをとるか選択できるということです。自由意志を与えられている。例えば「いい人」になろうするならば善行をつみかさねることによって、神や仏に近ずく。それには上限はありません。自身の意識がますます宇宙的に深まります。同心円のように。逆に真反対の悪行を重ねると「自己矛盾」に陥ります。
> >



自然といえば木々や鳥、虫など様々ですね。
木の葉がその様に生い茂るのは必然か偶然か。
全ては原始的波動のなせるわざだと思いを馳せれば必然。
僕個人として(そのようなものがあるとして、まぁあるように錯覚又は思い込むことはよくしますが)木の葉の姿、状態や状況などは、風が北から吹くのも偶然、突風が吹くのも偶然、鳥がたまたま土に糞をして肥料となるのも偶然。。。

要するに自我に立つか無我に立つか自己に立つか、はたまた真我に立つか、そのスタンスで世界の見えようは変わるということで、それだけでも、とても世界や人間というのは面白いですね。




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