雑感
[トップに戻る] [留意事項] [ワード検索] [管理用]
おなまえ
Eメール メールアドレスは入力禁止
タイトル
コメント 【コメント中のURLは先頭のhを抜いて書き込んで下さい。】
コメント中には参照先URLと同じURLを書き込まないで下さい
参照先
暗証キー (記事メンテ用)

[26457] 無題 投稿者:無明 投稿日:2019/02/07(Thu) 08:03  

KB会というのは仏教に関する講義であってクリシュナムルティとは何ら関係ありません。
クリシュナムルティのいう「言葉への隷従」を助長するだけです。
仏教に関心ある人が聞くだけの話。


[26456] 無題 投稿者:無明 投稿日:2019/02/07(Thu) 07:49  

KB会のアップはやめてください。意味ありません。


[26455] 190130KB会動画アップ 投稿者:宮啓 投稿日:2019/02/06(Wed) 17:45  

 190130KB会の動画アップされています。

 https://www.youtube.com/user/KrishBohm/videos



[26454] Re:[26452] 最初のザーネン講話 7-1 投稿者:宮啓 投稿日:2019/02/06(Wed) 17:43  

> 1961年ザーネン公開講話 7−1
>
> よければ、一昨日話していたことを続けましょう。それは瞑想というものの内容全体でした。東洋では、瞑想は、事柄に非常に深く入って行ったそれらの人々にとっては、とても重要な毎日の出来事です。そしておそらく、欧米ではそんなに切迫したことでも真剣なことでもありません。しかし、それは生の全過程に関係するので、それに何が含まれているか熟慮すべきであると思います。
>
>  いつも言っているように、もしもあなたが単に言葉あるいは句を追い、言葉のレベルに留まるに過ぎないなら、まったく効果がなく無意味でしょう。あなた方が知的にこの問題を追うだけのとき、それは墓に棺の後について行くようなものです。しかしそれを非常に深く調べるなら、それは生の中のもっとも途方のないものごとをあらわにします。申し上げたように、私たちはでき上がった本の最初の章を取り扱っているのではありません。なぜなら、生の全過程に終わりはないからです。しかし私達は問題点を、それらが起こるとおりに熟慮しなければなりません。
>
>  おわかりになるように、私たちはそれをいくぶん深く、包括的に調べようとしています。しかしまず、何が否定的な思考で何が肯定的な思考であるか理解することが必要だと思います。私は「否定的」と「肯定的」というそれら二つの言葉を対立する意味で用いているのではありません。私たちの多くは肯定的に考えます。私たちは蓄積し、加えます。あるいはそれが便利で利益になるときは、取り去ります。肯定的な思考は模倣的、順応的であり、社会の型やそれが望むものに適応します。そしてその肯定的な思考に私たちの大部分は満足します。私にとっては、そのような肯定的な思考はどこにも導いてくれません。
>
>
> ゴト: 私達は瞑想を調べ生の全過程をあらわにしようとしている(とのこと)。最初に何が否定的な思考で、何が肯定的な思考であるかを理解しておくことになりました。
>
>
>  さて、否定的思考は肯定的思考の反対物ではありません。それはまったく異なった状態、異なった過程です。そして私たちが少しでも先に進み得る前に、そのことを明確に理解しなければならないと私は思います。否定的思考は心を全面的に裸にすることです。否定的思考は、反応の貯蔵所である脳を静かにさせます。
>
>  あなたは脳が非常に活動的で絶えず反応していることに気づいたに違いありません。脳は反応しなければなりません。さもなければそれは死んでいます。そしてその反応の中で、それは肯定的思考と呼ぶ肯定的過程を作り出します。そしてこれらはすべて防御的、機械的です。あなた自身の思考を観察したなら、私が話していることは非常に簡単であり、複雑でないことが見えるでしょう。
>  最初のことは脳が充分気づいていること、反応することなしに敏感であることだと私には思われます。それゆえ否定的に考えることが必要だと私は感じます。私たちはこの事を後程更に討論できるかもしれませんが、しかしあなたがこれを把握するなら、否定的思考は何の努力も包含していないのに、肯定的思考は努力を必ず包含していることを見るでしょう−葛藤である努力、その中に達成、抑圧、拒絶が含まれています。
>  どうか作動しているあなた自身の心、働いているあなた自身の脳を見守ってください。単に私の言葉を聞かないでください。言葉は深い意味を持っていません。それらは単に伝えるため、伝達するために使われているに過ぎません。言葉の上のレベルに留まるなら、はるか遠くに行くことはできません。
>
>
> ゴト: 肯定的思考と否定的思考という事は欧米ではよく言われることなのでしょうか? 後ほど討論できるかもしれないと言いながら、要点を指摘するだけでさっと通り過ぎてしまいました。
>
>
>  それで私たちは皆−教育を通して、文化を通して、社会、宗教などの影響を通して−非常に活動的な脳を持っています。しかし心の全体は非常に鈍いのです。そして脳を静かに、それにもかかわらず充分敏感に、活動的に、だが防御物を育成しないようにすることは、あなたがそのことに少しでも突っ込んで行ったのであればわかるように、非常に困難な課題です。そして脳がものすごく活動的であるがまったく静かであることは何の努力も伴ないません。
>  私たちの多くにとって、努力は私たちの生存の一部に見えます。どうも私たちはそれなしに生きることができないようです。朝起きる努力、学校に行く努力、事務所に行く努力、継続する活動を維持する努力、誰かを愛そうとする努力。私たちの全生涯は、生まれた瞬間から墓に入る瞬間まで、努力の連続です。努力は葛藤を意味します。そしてあなたがものごとをそうであるままに、事実をそうであるままに観察するなら、まったく努力はありません。しかし私たちは、意識的にも無意識的にも、決して私たち自身をそうであるままに観察したことがないのです。私たちは私たち自身の中に見るものを、常に変え、置換し、変容させ、抑圧します。そのすべては葛藤を意味します。そして葛藤の中にある心、脳は決して静かでありません。そして深く考えるためには、非常に深く行くためには、私たちは鈍い脳でなく、眠っている脳でなく、信念によって、防御によって麻痺した脳ではなく、強烈に活動的で、そのうえ静かな脳を必要とします。
>
>
> ゴト: 私達は非常に活動的な脳を持っているのですが、それは努力(葛藤を意味する)で非常に鈍くなっていると。事実をあるがままに観察するなら全く努力はないのに、葛藤の生を送るがゆえに、活動的であってかつ静かな脳の状態を知らない……。
>
>
>  心の全体を鈍くするのは葛藤です。それで私たちがこの瞑想の問題を調べるつもりなら、深く広く生を調査するつもりなら、始めから葛藤と努力を理解しなければなりません。あなたが注意していたなら、私たちの努力は常に獲得すること、何かに成ること、成功することだということがわかるでしょう。それゆえ葛藤と挫折が、その惨めさ、希望と絶望を伴なってあるのです。そしていつも葛藤の中にあるものは鈍くなります。絶えず葛藤の中にある人たちを、そしてその人たちがいかに鈍いかを知りませんか? それゆえ、非常に遠く、非常に深く旅をするためには、葛藤と努力の問題を完全に理解しなければなりません。努力、葛藤は、肯定的な思考があるとき生じます。否定的な思考があるとき、それは思考の最高の形ですが、そのとき何の努力も何の葛藤もありません。
>
>
> ゴト: 私達は葛藤と努力をよく理解する必要がある。葛藤と努力は肯定的思考(獲得、成ること、成功)があるとき生じる。否定的思考(思考の最高の形態)があるとき、何の努力も葛藤もない。


 ただ見ることの内容が、とても多くの意味を含んでいることを示しているようです。

 ただ見ることが、「瞑想」ということでしょうか。


> (続く)


[26453] 否定的思考 投稿者:無明 投稿日:2019/02/06(Wed) 08:37  

思考の運動が、ふと止んで全体が見えているとき、「否定的思考」あるいは「否定的接近」と呼ぶのであって、否定的思考というものがあるということではない。
否定的思考イコール「思考の最高」という表現は妙です。
最高というのは比較の言葉であって、「最高の思考」って何ぞやということになる。
否定的に考えるというのも、妙な表現。
人間には思考の運動というのが常にあり、つまり考える作業というのは、肯定的思考です。
人間というのははのべつくまなく考えている、という事実だけがあって、それは最高も最低もないでしょう。
その思考の運動がふと止むとき、全体が見えている。


[26452] 最初のザーネン講話 7-1 投稿者:ゴト 投稿日:2019/02/05(Tue) 18:45  

1961年ザーネン公開講話 7−1

よければ、一昨日話していたことを続けましょう。それは瞑想というものの内容全体でした。東洋では、瞑想は、事柄に非常に深く入って行ったそれらの人々にとっては、とても重要な毎日の出来事です。そしておそらく、欧米ではそんなに切迫したことでも真剣なことでもありません。しかし、それは生の全過程に関係するので、それに何が含まれているか熟慮すべきであると思います。

 いつも言っているように、もしもあなたが単に言葉あるいは句を追い、言葉のレベルに留まるに過ぎないなら、まったく効果がなく無意味でしょう。あなた方が知的にこの問題を追うだけのとき、それは墓に棺の後について行くようなものです。しかしそれを非常に深く調べるなら、それは生の中のもっとも途方のないものごとをあらわにします。申し上げたように、私たちはでき上がった本の最初の章を取り扱っているのではありません。なぜなら、生の全過程に終わりはないからです。しかし私達は問題点を、それらが起こるとおりに熟慮しなければなりません。

 おわかりになるように、私たちはそれをいくぶん深く、包括的に調べようとしています。しかしまず、何が否定的な思考で何が肯定的な思考であるか理解することが必要だと思います。私は「否定的」と「肯定的」というそれら二つの言葉を対立する意味で用いているのではありません。私たちの多くは肯定的に考えます。私たちは蓄積し、加えます。あるいはそれが便利で利益になるときは、取り去ります。肯定的な思考は模倣的、順応的であり、社会の型やそれが望むものに適応します。そしてその肯定的な思考に私たちの大部分は満足します。私にとっては、そのような肯定的な思考はどこにも導いてくれません。


ゴト: 私達は瞑想を調べ生の全過程をあらわにしようとしている(とのこと)。最初に何が否定的な思考で、何が肯定的な思考であるかを理解しておくことになりました。


 さて、否定的思考は肯定的思考の反対物ではありません。それはまったく異なった状態、異なった過程です。そして私たちが少しでも先に進み得る前に、そのことを明確に理解しなければならないと私は思います。否定的思考は心を全面的に裸にすることです。否定的思考は、反応の貯蔵所である脳を静かにさせます。

 あなたは脳が非常に活動的で絶えず反応していることに気づいたに違いありません。脳は反応しなければなりません。さもなければそれは死んでいます。そしてその反応の中で、それは肯定的思考と呼ぶ肯定的過程を作り出します。そしてこれらはすべて防御的、機械的です。あなた自身の思考を観察したなら、私が話していることは非常に簡単であり、複雑でないことが見えるでしょう。
 最初のことは脳が充分気づいていること、反応することなしに敏感であることだと私には思われます。それゆえ否定的に考えることが必要だと私は感じます。私たちはこの事を後程更に討論できるかもしれませんが、しかしあなたがこれを把握するなら、否定的思考は何の努力も包含していないのに、肯定的思考は努力を必ず包含していることを見るでしょう−葛藤である努力、その中に達成、抑圧、拒絶が含まれています。
 どうか作動しているあなた自身の心、働いているあなた自身の脳を見守ってください。単に私の言葉を聞かないでください。言葉は深い意味を持っていません。それらは単に伝えるため、伝達するために使われているに過ぎません。言葉の上のレベルに留まるなら、はるか遠くに行くことはできません。


ゴト: 肯定的思考と否定的思考という事は欧米ではよく言われることなのでしょうか? 後ほど討論できるかもしれないと言いながら、要点を指摘するだけでさっと通り過ぎてしまいました。


 それで私たちは皆−教育を通して、文化を通して、社会、宗教などの影響を通して−非常に活動的な脳を持っています。しかし心の全体は非常に鈍いのです。そして脳を静かに、それにもかかわらず充分敏感に、活動的に、だが防御物を育成しないようにすることは、あなたがそのことに少しでも突っ込んで行ったのであればわかるように、非常に困難な課題です。そして脳がものすごく活動的であるがまったく静かであることは何の努力も伴ないません。
 私たちの多くにとって、努力は私たちの生存の一部に見えます。どうも私たちはそれなしに生きることができないようです。朝起きる努力、学校に行く努力、事務所に行く努力、継続する活動を維持する努力、誰かを愛そうとする努力。私たちの全生涯は、生まれた瞬間から墓に入る瞬間まで、努力の連続です。努力は葛藤を意味します。そしてあなたがものごとをそうであるままに、事実をそうであるままに観察するなら、まったく努力はありません。しかし私たちは、意識的にも無意識的にも、決して私たち自身をそうであるままに観察したことがないのです。私たちは私たち自身の中に見るものを、常に変え、置換し、変容させ、抑圧します。そのすべては葛藤を意味します。そして葛藤の中にある心、脳は決して静かでありません。そして深く考えるためには、非常に深く行くためには、私たちは鈍い脳でなく、眠っている脳でなく、信念によって、防御によって麻痺した脳ではなく、強烈に活動的で、そのうえ静かな脳を必要とします。


ゴト: 私達は非常に活動的な脳を持っているのですが、それは努力(葛藤を意味する)で非常に鈍くなっていると。事実をあるがままに観察するなら全く努力はないのに、葛藤の生を送るがゆえに、活動的であってかつ静かな脳の状態を知らない……。


 心の全体を鈍くするのは葛藤です。それで私たちがこの瞑想の問題を調べるつもりなら、深く広く生を調査するつもりなら、始めから葛藤と努力を理解しなければなりません。あなたが注意していたなら、私たちの努力は常に獲得すること、何かに成ること、成功することだということがわかるでしょう。それゆえ葛藤と挫折が、その惨めさ、希望と絶望を伴なってあるのです。そしていつも葛藤の中にあるものは鈍くなります。絶えず葛藤の中にある人たちを、そしてその人たちがいかに鈍いかを知りませんか? それゆえ、非常に遠く、非常に深く旅をするためには、葛藤と努力の問題を完全に理解しなければなりません。努力、葛藤は、肯定的な思考があるとき生じます。否定的な思考があるとき、それは思考の最高の形ですが、そのとき何の努力も何の葛藤もありません。


ゴト: 私達は葛藤と努力をよく理解する必要がある。葛藤と努力は肯定的思考(獲得、成ること、成功)があるとき生じる。否定的思考(思考の最高の形態)があるとき、何の努力も葛藤もない。

(続く)


[26451] 思考の仕組み(続き) 投稿者:無明 投稿日:2019/02/05(Tue) 11:19  

たとえば、心の中で、相手にわからせようとして強制したりしているときに、実は自分の体を痛めているのはないか?
それが興奮とか、苦痛のという形で、感じられている。
それは怒りに思考の思い違いの行為です。

もちろんそれを、現実の相手にぶつけて、叱ることもできますが、相手を感情的に痛めつけているだけで、破壊し排除しょうとしているだけでは?
怒りの思考は、相手に現実に上手く伝えることはしないので、思い違いでは?


気づいているというのは、実際あるもの、起きているものに、直に知覚されている、という意味です。
従って、そのものに思考が介入すると、あるものに気づいていないとなる。
我々が普段使っている。気づいている、というのと意味が異なり注意を要します。

非難や正当化のない気づきの例

直前まで怒っていたが、今は関わる何に関しても、非難や正当化は止んでいます。
今、その怒りの経過が思い出されて出てきても、その思い出の中には
非難や正当化があり、記憶された怒りの感情が出てくるし、その中で何をやってるかわかる。
自然に思い出が流れているだけで、新たな非難や正当化はなく、気づいているだけです。

隣の人が怒っていて、非難や正当化、感情の動きが、何をやらかしているのか、隣に私には、ひしひしと伝わり、敏感に感じられます。
その怒りのありようが私の中にあります。
しかし私は、その怒りに、そして相手に、自分自身に、同情も、抵抗もなく、非難や正当化もなく、怒りに乗っとられておらず、巻き込まれていません。
ただ、全てに、親密に接している、気づいているだけなのです。




[26450] 非難や正当化のない気づき 投稿者:無明 投稿日:2019/02/05(Tue) 09:51  

新しい芽氏の引用2013年5月3日

何かの関わりの中で生じる葛藤、例えば怒りに正当化なしに気づいている状態について。

関わりの中で、葛藤、怒りに非難正当化なしに気づいているとは、実際に今あるものに知覚されているという意味です。

注 知覚されるのだから、知覚そのもののことです。関わるその時にあるもの。つまり、いろいろ思ったことの内容は、情報であって、思考上はわかるけれど、知覚されている、今あるものではない。

そのときは、怒りの仕組み、関係にもたらすものに、気づいている。
誰かのしていることとの関わりで、怒って、感情的に巻き込まれて、非難や正当化の中で、どうこうしようと動いているときは、怒りに気づいていない。
怒りに非難や正当化なしに気づいているとき、今あるものの全体に、非難や正当化なしに気づいている。
だから、関わりの中で誰かのしていることに非難や正当化なしに気づいている。
このような葛藤に気づいている状態はあるのですが、このときの偽りの、葛藤のある今あるものは変化するでしょう。
心のこの状態は肯定的にこういう状態だとは言えません。
肯定的に言えるなら、それに沿って方法として訓練すれば、そうなれるのですが、そうではなく、単に非難や正当化がないというように否定的しかに言えないものです。

様々な経験から、様々な先入観から、この心の状態は拒絶されます。
例えば、どうやってこの心の状態になったらいいのかと。
このやり方は平凡で大したことないだろう、もっと効果的な別のやり方があるのだから。
自分の怒り、感情は非難しない、正当化もしない、だが、相手のしていることは非難するのだ。そうでないと恐れないにだから。

経験、先入観を全て脇にどけて、何かの関わりで生じる葛藤や非難に気づいていると何があるでしょうか?

注 思考の仕組みについて

思考の思惑としては、怒るときは、相手に上手くやり方を教えようとしているつもりだけれども、納得させようとしているつもりだけれど。つもりと、実際に起きていることが食い違っていませんかということ。
では思考の仕組みの実際にしていることと、現在にもたらされている、実際のものは何なのか?
それは考えてわかるものではなく、現実に知覚されているときに見えることができるということ。






[26449] Re:[26447] 最初のザーネン講話 6-4 投稿者:宮啓 投稿日:2019/02/04(Mon) 20:24  

> 1961年ザーネン公開講話 6−4
>
> 質問: 悲しみがあるとき、確かに、それについて何かしようと望むのは避けられません。
>
>
> ゴト: 質問についても、なぜ人はこういう質問をするのかを尋究してみよう。この場合、自分の心をただ見ていることができず、絶えず何かを希求していることが結論として浮かんでしまうのだ。そしてそれを変える見地しかない。
>
>
> クリシュナムルティ: あなた、私たちが先日言っていたように、私たちは快楽と共に生きようと望むのではないでしょうか? 私たちは快楽を変えようと求めません。それが昼も夜も永続的に続くことを望みます。それを変えたいとは思いません。それが去らないように、それに触れよう、一息いれようとさえしません。私たちはそれを手離したくないのではないでしょうか? 私たちは私たちを大喜びせるもの、歓喜、快楽、興奮を与えてくれるもの−教会に行くこと、ミサに行くこと、などなどのようなものに執着します。これらのものは私たちに大きな興奮、感動を与え、私たちはその気持ちを変えようとは望みません。それは人をものごとの源に近く感じさせ、その興奮を望むのではないでしょうか? なぜ私たちは同じように、悲しみについて何かすることを望むことなしに、同じ強烈さで悲しみと共に生きることができないのでしょうか? あなたは今までにそれをしてみたことがありますか? 今までに肉体的な苦痛と共に生きようとしたことがありますか? 今までに騒音と共に生きようとしたことがありますか?
>
>  それを簡単にしましょう。犬が夜吠えていて、あなたは眠りたいと思います。そして吠え続けるとき、あなたはどうしますか? あなたはそれに抵抗しませんか? あなたは物を投げたり、ののしったり、それに対してできることは何でもします。しかしもしもその代わりにその音と共に過ごし、何の抵抗もなしに吠えているのを聞くなら、不快感があるでしょうか? あなたが今までにこれをやってみたことがあるかどうか知りません。何かのときにそれをやって見るべきです。抵抗しないことを。快楽を押しのけないのと同じ様に、抵抗なしに、選択なしに、決して逃避を求めず、決して希望にふけらず、ふけることによって絶望を招くことなく、同じ様に悲しみと生きることができないでしょうか−ただそれと生きることが?
>
>  ほら、何かと共に生きるということは、それを愛するということですね。誰かを愛するとき、あなたはその人と一緒に生きたい、その人と一緒にいたいと思わないでしょうか? 同様に、人は悲しみと共に生きることができます。加虐的にではなくて、その全体像を見ながら。決してそれを避けようとするのではなくて、それの力、強烈さ、そしてそれのまったくの浅薄さもまた感じながら−それは、それについてあなたは何もできないということを意味します。何といっても、あなたはあなたに強烈な快楽を与えるものに何もしようとは思いません。あなたはそれを変えようとは思いません。それを流れさせようと思います。同様に、悲しみと共に生きることは、実際には、悲しみを愛することを意味し、そしてそれは多くのエネルギー、多くの理解を要します。それは心が事実から逃避していないかどうかを見るために、いつも見守っているということです。逃避することは恐ろしく容易です。薬物を服用することが、酒を飲むことが、ラジオをつけることが、本を開くことが、おしゃべりなどなどができます。しかしひたすら、全面的に、何かとともに生きることは、それが快楽であろうが苦痛であろうが、強烈に油断のない心を必要とします。そして心がそのように油断のないとき、それはそれ自身の行為を作り出します−というよりは、行為が事実から生じます。そして心は事実について何もする必要はありません。
>
>
> ゴト: 快楽と苦痛、一方を保ち、他方からは逃げたい。この二元性を基に人の心は動いている。これはわかったぞ!
>
>
> 質問: 肉体的な苦痛の場合、医者に行くべきでないのでしょうか?
>
>
> ゴト: 肉体的苦痛に心が心理的苦痛をさらに追加する。
>
>
> クリシュナムルティ: 確かに、私が何かの種類の肉体的病気にかかっているなら。私たちがそのような質問を尋ねるときのかなり浅いのでなくて? 私たちは肉体的苦痛だけでなく心理的な苦しみを、何かの観念、何かの信念、誰かのために経験する精神的な苦しみのすべてを話しているのです。そして私たちは、内面の悲しみからまったく自由であることができるかどうかを私たち自身に尋ねているのです。あなた、身体の有機体は機械であり、それは具合も悪くなるのです。そしてそれについてできる最善のことをし、それとうまくやっていかなければなりません。しかし、機械的な有機体が心に干渉せず、誤らせ、歪めないように、そして身体の病気にかかわらず心は健全なままであるように気をつけることができます。そして私たちの問題は、心が、それはすべての葛藤、悲惨と悲しみと同様にすべての楽しみの源ですが、肉体的な病気やその他もろもろによって汚染されず、悲しみから自由であることができるかどうかです。
>
>  何といっても、私たちはみな毎日歳をとって行きますが、しかし確かに、経験、知識、悲惨の凄まじい重荷によって押しつぶされないで、心を若く、新鮮に、無垢に保つことができます。真実であるものを、神、あるいはどんな名前をそれに与えることをあなたが好むにしても、それがあるかどうか発見したいのであれば、若い心、無垢の心が絶対に必要であると私は感じます。年老いた心、痛めつけられ、苦しみで一杯の心は決してそれを見出せません。そして悲しみを必要な何かに、いつかはあなたを天国に導くものにすることは馬鹿げています。キリスト教では、苦しみは悟りへの道として称賛されます。人は苦しみから、暗黒から自由でなければなりません。そのときのみ光があり得るのです。
>
>
> ゴト: 苦闘することによって人間は円熟の境地に達するのだと思ってきた。新鮮で無垢な心だけが真実を見うるのだそうな。
>
>
> 質問: 私のまわりにそれほど多くの悲しみを見るとき、私が悲しみから自由であることができるでしょうか?
>
>
> ゴト: 確かに多くの人が悲しんでいるを周囲に見ます。質問はもっともですが、クリシュナムルティの説くことがまだわかっていないみたい。
>
>
> クリシュナムルティ: それについてあなたはどう思いますか? 東洋に、インドに、アジアに行くと多くの悲しみ、物理的な悲しみ、肉体的悲しみ、飢餓、衰退、貧困を見るでしょう。それが一つの型の悲しみです。現代社会に来ると、あらゆる人が外側の牢獄を飾るのに余念がなく、けた外れに富み、繁栄していますが、彼等もまた内面的に非常に貧しく、非常に空虚です。またも悲しみがあります。あなたはそれについて何をすることができますか? あなたは私の悲しみについて何をすることが出来ますか? あなたは私を助けることができますか? それをよく考えてください、皆さん。
>
>  私は今朝、半時間ほど、悲しみを、そしてどうやってそれから自由であるかを話してきました。私はあなたを助けているでしょうか、現実にあなたがそれを免れている、悲しみからすっかり自由なので、別の日にそれを持ち運ばないという意味で助けているでしょうか? 私はあなたを助けているでしょうか? 私はそうは思いません。確かにあなたはすべての仕事をあなた自身でしなければなりません。私はただ指し示しているだけです。道標は、いつまでも道標を読んでそこに腰掛けていることは無駄であるという意味で、価値がありません。あなたは孤独に直面し、それの、それに含まれているすべての、まさに果てまで行かなければなりません。私は世界の悲しみを助けられるでしょうか? 私たちは私たち自身の苦悩と絶望を知るだけでなく、他の人たちの顔の中にもまたそれを見ます。あなたはそれを通って自由になりに行く扉を指し示すことができます。しかし大部分の人は扉を通って運ばれることを望むのです。彼らは彼らを運んでくれそうな人を、彼らはそう思うのですが、崇拝し、彼を救世主、大師にします−それはすべてまったくのナンセンスです。
>
>
> ゴト: 自分自身で物事にシンプルに接することを実感・理解するしかないのだが、そのシンプルに直視するという事は実は自分でできることなのだ。目を見開いて行えば!
>
>
> 質問: 自由な人間は、他の人を助けることができないなら、他の人に対してどんな役に立つのでしょう?
>
>
> ゴト: 誰にでも自由な心で付き合ってくれるというか、見守ってくれるよ。干渉するのでなく。
>
>
> クリシュナムルティ: いかにひどく私たちは功利主義者なのでしょう、そうではないですか? 私たちはあらゆるものを私たち自身の利益のため、あるいは他の誰かの利益のために使用するのです。道端の花は何の役に立つのでしょう? 山の向こうの雲は何の役に立つのでしょう? 愛の使用法は何なのでしょう? 愛を使用することができますか? 慈善は何かの用途を持つでしょうか? 謙遜は誰か利用者を持つでしょうか? 野心に満ちている世界の中で野心なしにいること−それは何かの用途を持つでしょうか? 親切であること、優しいこと、心の広いこと−これらのことは心の広くない人に対して何の役にも立たないものです。自由な人は野心に駆られている人間にとってまったく役に立ちません。そして私たちの大部分は野心に、成功を求める欲望に捕われているので、彼はほとんど意味のないものです。彼は自由について話すかもしれませんが、私たちが関心があるのは成功です。彼があなたに話すことのできるすべては、川のもうひとつの岸に渡って来て、空の美しさ、簡素であることの素晴らしさを見ることです。愛すること、親切であること、心の広いこと、野心なしにあること。もうひとつの岸に達したいと思う人はごく少ないのです。したがってそこにいる人はほとんど役に立ちません。たぶん、あなたは彼を教会におき、彼を崇拝するでしょう。それがすべてです。
>
>
> ゴト: クリシュナムルティも大変ですね、いろいろな質問が出ますから。
>
>
> 質問: 悲しみと共に生きることは悲しみの延長を意味します。そして私たちは悲しみの延長にひるみます。
>
>
> ゴト: 「悲しみよ、こんにちは」という人もいれば、ひるむ人もいる。
>
>
> クリシュナムルティ: 私は確かにそういうことを言ったのではなかったのです。醜さであろうが美であろうが、何かと共に生きるためには、非常に強烈でなければなりません。くる日もくる日もこれらの山と生きることは−それらに敏感でないなら、愛していないなら、いつもそれらの美しさ、それらの変わりゆく色と影、を見ていないなら−それにまったく鈍感になった農民のようになるでしょう。美は、それに敏感でないなら、醜さがそうなると同様に腐敗します。悲しみと共に生きることは山と共に生きることです。なぜなら悲しみは心を鈍く、愚かにするからです。悲しみと共に生きる事は終わりなしに見守る事を意味し、それは悲しみを引き延ばしません。あなたが全体のものを見るやいなや、それはなくなります。何かがすっかり見られるとき、それは終わります。私たちが悲しみの全構造、その組織、本性を見るとき、それを理論化するのでなく、現実に事実を、その全体を見るとき、そのときそれは立ち去ります。知覚の速さ、素早さは条件によります。しかし心が簡素、直接でないなら、心が、事実、「いまあるもの」を変えようと望んで、信念、希望、恐怖、絶望で乱れているなら、そのときあなたは悲しみを引き延ばしているのです。
>
>
> ゴト: 悲しみと共にいられないのは愛がないからなのだろうか、我々は至福の中にいても怯む存在なのだろうか?
>
>
> 質問: 私たちの偏見が行く手にあり、私たちはそれに取り組まなければなりません。そしてそれは時間を要するかもしれません。
>
>
> ゴト: 人は嘆き節というか、できない言い訳ばかりしているような気がする。
>
>
> クリシュナムルティ: あなた、自分が寂しいのを見ること、またそれから自分が逃避したがっているのに気づくことは共に瞬間的ではないでしょうか? 私が寂しいという事実、そして私が逃避したがっているという事実を私は瞬時に知覚できるのではないでしょうか? 私はまた即座にどんな形の逃避も寂しさという事実の回避であるのを見ることができます。その寂しさを私は理解しなければなりません。それを脇に押しのけることはできないのです。
>
>  ほら、私たちの難しさは、私はそう思うのですが、私たちが逃避する物事に非常に執着するということですね。それらは私たちにとって非常に重要です。それはそんなに途方もなく上品なことになったのです。私たちが上品にしているのをやめるなら、何が起こるか誰にも判らないと私たちは思います。したがって体面に執着することが非常に重要になります。そして寂しさ、あるいは何かほかのことをすっかり理解したいという事実ではないのです。
>
>
> ゴト: 私たちの悲しみは記憶の中に自分が再三再四生み出すイメージ、シンボルであるような。
>
>
> 質問: 強烈さを持っていないなら、それについて私たちは何をすることができるでしょうか?
>
> クリシュナムルティ: 私たちはその強烈さを望んでいるかどうかなと私は思います。強烈であることは破壊を意味するのではないでしょうか? それは、生の中で私たちが非常に重要だと考えてきたあらゆるものを粉砕するということを意味します。それでたぶん恐怖が私たちが強烈であることを妨げているのです。
>
>  ほら、私たちはみなひどく上品であることを望みますね。そうでないでしょうか? 年寄りも若者も。体面は社会による認識を意味します。そして社会は成功した、重要な人、有名な人を認識するだけで、残りの人を無視します。それで私たちは成功と体面を崇拝します。そして社会があなたを上品であるとかないとか思おうとあなたが気にかけないとき、成功を求めず、何者かになろうと望まないとき、そのとき強烈さがあります−それは恐怖がないということです。それは内部に葛藤がなく、矛盾がないということです。したがって、あなたは事実をとどのつまりまで追跡する豊富なエネルギーを持ちます。
>
>
> ゴト: そう、年齢にかかわらず、若者のようであれ!


 ゴトさんのコメントが頼もしく感じます。

 なにかとても開けたように感じます。


> (第6回目の講話終わり)


[26448] 祈りと呪い 投稿者:南方 投稿日:2019/02/04(Mon) 18:31  

世界が神の御心のままに救われるように毎朝祈っていました。
すると、なぜか自分の中でしっくりこないものが残っていました。それを偽善と呼ぶのかなんなのか私は知りたいと思いました。人々の幸せそうな風景に私は自身を神だと思いました。私のおかげでこの世は救われていると傲慢にもそう思いました。私は自力で生計を立てていけません。社会が認めてくれないのです。そんな世の中を憎みました。腹が立って、やがてそれは憎悪に変わり、夕方私は心底世界を呪いました。

驚くべきことですが、人の中には祈りの神と呪いの神が混在しているようです。私はそれを自身の中に見ました。それを認めるだけで心が楽になりました。私は悪魔であり、天使なのだと。

これからは、神の御心のままに救われるように祈り、神の御心のままに堕落するよう呪います。


[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31] [32] [33] [34] [35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58] [59] [60] [61] [62] [63] [64] [65] [66] [67] [68] [69] [70] [71] [72] [73] [74] [75] [76] [77] [78] [79] [80] [81] [82] [83] [84] [85] [86] [87] [88] [89] [90] [91] [92] [93] [94] [95] [96] [97] [98] [99] [100]

処理 記事No 暗証キー
- LightBoard - Modified by isso