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[25174] Re:[25162] [25160] [25153] [25151] [25145] [25143] [25142] [25141] 無題 投稿者:南方 投稿日:2018/03/09(Fri) 16:03  

> > > 「人間は言語ゲームによって約定の体系として世界を構成し、そのことで初めて「力の論理」が貫徹する動物性から離脱した」ーー 竹田青嗣「欲望論」第1巻より引用
> > >
> > > フムフムと私は聞いて、では人間世界で、哲学は何をしようとしているかという目で哲学を観ます。それは人間世界の暴力原理の縮減、現実世界が持つ「現実論理」に対抗するものとなるべきであるとのことです。実際にははっきりした対立根拠をまったく提供しえないでいるのが現状のようです。
> > >
> > > そこで人間の持っている始原のエネルギーの性質と言語ゲームの影響が、どのように人類の普遍的理解になっていくか、そこらに関心があって見ています。
> > >
> > > これは始原のエネルギー(力or衝動?)と人間の精神の言語を通じての関わり具合なのでしょうか?
> >
> >
> > そうですね。
> >
> > 言葉づかいは人を変えて、そして、世界を変えるのです。
>
>
> この間テレビで見たと思いますが、いろいろ紛争はあるが先進国の間ではかなり長く戦争がなく、人類は平和を享受している。



表立った戦争はないが、職場でのたわいのない人間関係にも戦争はつきものです。あいつはいけ好かない、馬が合わない、等。それはそれで、人間味があってよろしいかと。口や態度に出る・出すまでになったらおしまいかな。そこは人格の品の問題。たくさんいます、馬が合わない人。でも、分かろうとする気持ちはあるのですが、むこうがそれを示さないと一方通行で後味悪い。じゃあ、もういいかと諦めの境地。



>今ある紛争は発展途上国の民族・部族的のものが多く、文明、知識の普及の効果と寄与に対して無視できないようなものがあると聞いたように思います。
>

発展途上国といえば、アフリカが代表例でしょうか。ルワンダという国は、ベルギーの植民地政策によって内戦が際限なく繰り広げられるようになった。文明・知識の普及にも問題あり。


> 精神的な事柄の変化というものは計量しがたい面があって難しいですね。つまらないことですが、昔はいい紳士が、軽く飲んですいた道路を車でぶっ飛ばすのは、何事にも代えがたい快感ですねと言っていました。今では考えられないことですね。


低学歴のものが、努力もせずに、給料が低いなどと愚痴を言う。困った、高学歴の上司はそれをなだめる。
高学歴も低学歴も関係ない、と認識しているのはどちらのほうか、その葛藤はいかばかりか。観察していると、こちらも胸が痛くなる。

土方も30萬は超える給料を貰える時代に、日本人はどこへ向かうのか。なにを見失っているのか。


[25173] Re:[25172] [25171] [25170] [25169] 哲学の意義 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/08(Thu) 23:51  

> > 竹田青嗣さんの本は何とかわかるようにきちんと達筆で書かれています。第1部 存在と認識のところは読みました。認識の起点として本体を知るという事をやめ、人間の純粋な意識に映るところから開始することで、普遍性につながる可能性があるとしています。ここはKと一致しているかもしれません。
> > 第2部は世界と欲望についてです。世界は単なる存在でなく、人間の生の舞台としてとらえる立場です。
> >
> > これから先、彼が何を言わんとしているかぐらいはわかりたいと思っています。時間がかかりそうですが。
>
>
>
>  時間の世界のできごとは際限なく時間を要することをクリシュナムルティは述べています。
>
>  おそらく、1万年後にも、この哲学に並ぶ・あるいは凌ぐ哲学が勃興しているかもしれません。
>
>  時間を超えたできごと。時間を超えた世界。この世界でのみ不毛を突破できるのではないでしょうか。。

時間を超えた世界というのは心理的死の世界、つまり、欲望を超えた世界、その時、生・現実の世界はどうなっているのかという事があるような気がしてきました。
名もなく清く美しいがたぶん貧乏?、矛盾がない、葛藤がない聖人ばかりの世界? こう書くと誰もが眉唾物だと思うでしょう! これがはっきり言えないようでは共同確信もあり得ませんね。我ながら情けない。

竹田氏は「意識」に浮かぶ欲望、情動、衝迫、思考を生の始原として哲学を組み立てようとしています。人間臭い哲学の方をもうちょっと勉強してみます。これがKの判断や解釈なしに思考・感情を見ていると同じ出発点なのかどうかはまだわかりません。


[25172] Re:[25171] [25170] [25169] 哲学の意義 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/08(Thu) 14:09  

> >  哲学や医療倫理の範疇を超え、クリシュナムルティ理解を深めたハートのみぞ知る・・ということではないでしょうか・・。
>
>
> どうも哲学者同士がほかの人の哲学理論を理解するのが容易ではないようです。今2回目の通読をしていますが、すごく大変のようです。
>
> 自然科学、物理学の領域ですら大変のようですね。相対性理論のアインシュタインと量子力学のボーアがお互いを理解しえなかった。
>
> クリシュナムルティ理解もハート次第となると万単位の年数がかかるのだろうか。
>
> 竹田青嗣さんの本は何とかわかるようにきちんと達筆で書かれています。第1部 存在と認識のところは読みました。認識の起点として本体を知るという事をやめ、人間の純粋な意識に映るところから開始することで、普遍性につながる可能性があるとしています。ここはKと一致しているかもしれません。
> 第2部は世界と欲望についてです。世界は単なる存在でなく、人間の生の舞台としてとらえる立場です。
>
> これから先、彼が何を言わんとしているかぐらいはわかりたいと思っています。時間がかかりそうですが。



 時間の世界のできごとは際限なく時間を要することをクリシュナムルティは述べています。

 おそらく、1万年後にも、この哲学に並ぶ・あるいは凌ぐ哲学が勃興しているかもしれません。

 時間を超えたできごと。時間を超えた世界。この世界でのみ不毛を突破できるのではないでしょうか。。


[25171] Re:[25170] [25169] 哲学の意義 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/07(Wed) 22:08  

>  哲学や医療倫理の範疇を超え、クリシュナムルティ理解を深めたハートのみぞ知る・・ということではないでしょうか・・。


どうも哲学者同士がほかの人の哲学理論を理解するのが容易ではないようです。今2回目の通読をしていますが、すごく大変のようです。

自然科学、物理学の領域ですら大変のようですね。相対性理論のアインシュタインと量子力学のボーアがお互いを理解しえなかった。

クリシュナムルティ理解もハート次第となると万単位の年数がかかるのだろうか。

竹田青嗣さんの本は何とかわかるようにきちんと達筆で書かれています。第1部 存在と認識のところは読みました。認識の起点として本体を知るという事をやめ、人間の純粋な意識に映るところから開始することで、普遍性につながる可能性があるとしています。ここはKと一致しているかもしれません。
第2部は世界と欲望についてです。世界は単なる存在でなく、人間の生の舞台としてとらえる立場です。

これから先、彼が何を言わんとしているかぐらいはわかりたいと思っています。時間がかかりそうですが。




[25170] Re:[25169] 哲学の意義 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/05(Mon) 15:54  

> クリシュナムルティの言っていることに深く関心を持ち、まじめに調べた人はまず初めに主観的、個的確信に達するのではないでしょうか。しかしその個的確信をほかの人と共有することは、それが主観的経験の範囲内にあるとき、まずできないと言っていいと思います。
>
> それが集会、会報、書籍の発行などにより広まるようになると、共同的確信とでも言えるようなものがそのなかに発生します。民族宗教や世界宗教は大変規模の大きいものです。これらはしかし普遍的確信とは言えないでしょう。
>
> 普遍的確信と言えるものは最も基礎的な自然的世界の存在確信、次に数学的、自然科学的領域における共通認識、共通了解ですか。個的確信でも世界的に影響する信念のエネルギーの強さもあるでしょうが、私たちが真理と叫ぶものも、このような確信、信念であることはそれでいいでしょうか。神のような人は真理を語るでしょうが、神を客観的に認識できそうもないという共同確信の方が強そうです。
>
> さて、普遍的確信が数学や自然科学の、我々が了解する領域内にしかないとき、人文科学の分野にない時、善悪、正義−不正義には確固たる根拠が見いだせないとなる。とめどもなく変貌する医術の倫理は人の欲望のなすままにしていいのか、世界の紛争の中に民族の浄化的傾向が見られるが、これらに思考はどう答えるのかが哲学の現在の使命だろう。哲学には荷が重すぎるのだろうか。あるかないかわからない人間の持つ聖性の出動に委ねるという事しかないのだろうか。ことはある程度人の意識に上がってはいるが。。


 例えば、宇宙人が居るとして、クリシュナムルティ理解は宇宙人にとっても普遍的に通じているのではないでしょうか・・。地球の数学が宇宙人にとっても成り立つように・・。

 次に、将来、人類の存亡の危機に際して、宇宙人は地球の人類に助力を与えるのか否か。

 助力を与えるとすれば、「いかにして」が登場する。

 助力を与えないとすれば、「なぜ・・」が登場する。

 この「いかにして」や「なぜ・・」に対応する応答は、思考の限界を超えているように感じています。

 哲学や医療倫理の範疇を超え、クリシュナムルティ理解を深めたハートのみぞ知る・・ということではないでしょうか・・。


[25169] 哲学の意義 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/05(Mon) 10:49  

クリシュナムルティの言っていることに深く関心を持ち、まじめに調べた人はまず初めに主観的、個的確信に達するのではないでしょうか。しかしその個的確信をほかの人と共有することは、それが主観的経験の範囲内にあるとき、まずできないと言っていいと思います。

それが集会、会報、書籍の発行などにより広まるようになると、共同的確信とでも言えるようなものがそのなかに発生します。民族宗教や世界宗教は大変規模の大きいものです。これらはしかし普遍的確信とは言えないでしょう。

普遍的確信と言えるものは最も基礎的な自然的世界の存在確信、次に数学的、自然科学的領域における共通認識、共通了解ですか。個的確信でも世界的に影響する信念のエネルギーの強さもあるでしょうが、私たちが真理と叫ぶものも、このような確信、信念であることはそれでいいでしょうか。神のような人は真理を語るでしょうが、神を客観的に認識できそうもないという共同確信の方が強そうです。

さて、普遍的確信が数学や自然科学の、我々が了解する領域内にしかないとき、人文科学の分野にない時、善悪、正義−不正義には確固たる根拠が見いだせないとなる。とめどもなく変貌する医術の倫理は人の欲望のなすままにしていいのか、世界の紛争の中に民族の浄化的傾向が見られるが、これらに思考はどう答えるのかが哲学の現在の使命だろう。哲学には荷が重すぎるのだろうか。あるかないかわからない人間の持つ聖性の出動に委ねるという事しかないのだろうか。ことはある程度人の意識に上がってはいるが。。


[25168] Re:[25167] [25166] [25164] 見ること―5 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/03(Sat) 19:42  

> > > これで見ることは終わりとします。どうもご静聴ありがとうございました。
> >
> >
> >  こちらこそ、ありがとうございました。
> >
> >  ところで、このグループの長との打ち合わせや、大きなプロジェクトの時には、クリシュナムルティと出会っていたのでしょうか・・。あるいは、以前お伺いしました盤珪禅師との出会いの中での出来事でしょうか・・。
> >
> >  生の中で、自己理解、自己観察が行われている様が見受けられるように感じました。
> >
> >  もうひとつ、「死んで見ている受動性」が、当時、努力なし意志の力なしに為されるさまが見受けられましたが、その後も、クリシュナムルティ理解と共に、「死んで見ている受動性」が度々あったのか・・、今現在もあるのか・・?をお伺いしたいところです・・。
> >
> >  私の場合は、逆境にあるときには、自ずと「死んで見ている受動性」が自然に為されるのですが、順境にあるときには、なかなか為されないように思います。
>
>
> 私がクリシュナムルティに出会ったのは精神世界の本を読みだしての後期です。しかしです。盤珪禅師に出会ったのはその前で、私は禅師の教えを心の状態を見る鏡としていたのですが、言葉があまりにも少なく簡単で、Kを知ってからはそちらに夢中になりました。私も理屈っぽい近代人なのですね。
>
> 私の思考は自分を観察することが好きでした。ただし、見るのではなく思考で観察しています。それで自己批判に陥ります。しかし自分を深くとがめる正義の人ではなく、ちゃらんぽらんでした。
>
> 死んで見るはおっしゃるように逆境の時はそうなります。しかし、大きな逆境はほかには一つです。その時は死んで長い間見ています。小さな修羅場はあまたありますが、死んだように心を定めて臨みます。しかし、それは短期決戦で済みますね。現在はそんなことが起きませんが、いつでもそうありうる心でいますよ。ただ普段はリラックスしていますが。
>
> 今は妻の長電話にイラつかなくなっただけでも極楽にいるような気分です。というかそんなことは忘れて暮らしています。昔はいちいち苛ついていたんですね。


 思考で見る(観察する)こととハートで見る(観察する)ことの差異が「見ること」のポイントかもしれませんね。。

 見ることを通して、奥さんの長電話に対する条件付けも浄化されているのですね・・。


[25167] Re:[25166] [25164] 見ること―5 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/03(Sat) 09:52  

> > ある時、仕事で別のグループの長と二人で打ち合わせの場にいました。相手から何か要望があるという事です。話しを聴くと、ある作業をやる必要があるが誰も経験がない。それについては私の班がいつもやっていることであり、それでその部分だけをやってくれないかという事でした。ただし一回こっきりでなく、かなりの期間続くという事でした。
> >
> > 私の反応は大した仕事ではないし引き受けていいのですが、それをそれを行う作業者の長が何というかでした。確かに上部に通すほどの作業ではないのですが、筋を通してくれと言われると厄介なことになります。それで私は咄嗟に答えられず、渋りました。相手は状況を説明しましたが、ピンとこず、押し問答になりかけたとき、相手が大きな声で、「私が直接相談に来ているのですよ」と言いました。私はそれでようやく相手の事情になかなかのところがあるのがぴんと来て、一方自分が厄介になるかもしれないとの配慮ばかりしていたことに気づき、気分が一新して締まり、引き受けました。そんなに長く問答したわけでなく、短い時間で話はついたのですが、相手の班長とは気持ちが通じての淡交がありました。
> >
> > 自己中心的は自分の都合、希望するところ、やり易さなどが次々に心に浮かぶことでわかります。それで全体が目に入らないのです。この心の在り方の差はわかるようになります。
> > ちょっと話が変わりますが、知的好奇心は厄介です。高級のものから低級のものまで、魅惑され心を占有されることになります。ここはまだよくわからないところです。
> >
> > そこでも一つ死の感覚という事に触れておきます。精神的に死ぬという意味のです。
> > 私のやっていた仕事は大きく膨らんで、研究所、現場、メーカーが乗り出すやや大きなプロジェクトになっていました。私はだが肝心のところがどうしてもうまくいかず、あるレベルで実用になっても、今一つ十分に解決できないと思って、ついに上司のところに行ってその旨話しました。
> >
> > 上司は「この仕事は今や我々の手を離れて大きな組織全体の仕事となって、各方面の人が必死に各々の場で取り組んでいる。今それをどうすることもできず、見守っていくほか何もできない」と言いました。私は今やそれはやり始めの時と違い、自分で止めたり、舵を切ることなど出来ないものになって動いているのだとわかりました。
> >
> > それからの日々は日常的な用事を少しばかり果たすほか、まな板の上のコイのように、つまり精神的に死んでじたばたは一切せず、事態の推移を見守る日々が続きました。
> > いつ大きなサメががっぽりと口を開けてすべてを終わりにするかと思っていましたが、何事も起きずに推移し、一時代を劃して次の時代と移っていきました。
> > 死んで見ている受動性に対し、能動性って何だろうと改めて思います。
> >
> > これで見ることは終わりとします。どうもご静聴ありがとうございました。
>
>
>  こちらこそ、ありがとうございました。
>
>  ところで、このグループの長との打ち合わせや、大きなプロジェクトの時には、クリシュナムルティと出会っていたのでしょうか・・。あるいは、以前お伺いしました盤珪禅師との出会いの中での出来事でしょうか・・。
>
>  生の中で、自己理解、自己観察が行われている様が見受けられるように感じました。
>
>  もうひとつ、「死んで見ている受動性」が、当時、努力なし意志の力なしに為されるさまが見受けられましたが、その後も、クリシュナムルティ理解と共に、「死んで見ている受動性」が度々あったのか・・、今現在もあるのか・・?をお伺いしたいところです・・。
>
>  私の場合は、逆境にあるときには、自ずと「死んで見ている受動性」が自然に為されるのですが、順境にあるときには、なかなか為されないように思います。


私がクリシュナムルティに出会ったのは精神世界の本を読みだしての後期です。しかしです。盤珪禅師に出会ったのはその前で、私は禅師の教えを心の状態を見る鏡としていたのですが、言葉があまりにも少なく簡単で、Kを知ってからはそちらに夢中になりました。私も理屈っぽい近代人なのですね。

私の思考は自分を観察することが好きでした。ただし、見るのではなく思考で観察しています。それで自己批判に陥ります。しかし自分を深くとがめる正義の人ではなく、ちゃらんぽらんでした。

死んで見るはおっしゃるように逆境の時はそうなります。しかし、大きな逆境はほかには一つです。その時は死んで長い間見ています。小さな修羅場はあまたありますが、死んだように心を定めて臨みます。しかし、それは短期決戦で済みますね。現在はそんなことが起きませんが、いつでもそうありうる心でいますよ。ただ普段はリラックスしていますが。

今は妻の長電話にイラつかなくなっただけでも極楽にいるような気分です。というかそんなことは忘れて暮らしています。昔はいちいち苛ついていたんですね。


[25166] Re:[25164] 見ること―5 投稿者:宮啓 投稿日:2018/03/03(Sat) 08:36  

> ある時、仕事で別のグループの長と二人で打ち合わせの場にいました。相手から何か要望があるという事です。話しを聴くと、ある作業をやる必要があるが誰も経験がない。それについては私の班がいつもやっていることであり、それでその部分だけをやってくれないかという事でした。ただし一回こっきりでなく、かなりの期間続くという事でした。
>
> 私の反応は大した仕事ではないし引き受けていいのですが、それをそれを行う作業者の長が何というかでした。確かに上部に通すほどの作業ではないのですが、筋を通してくれと言われると厄介なことになります。それで私は咄嗟に答えられず、渋りました。相手は状況を説明しましたが、ピンとこず、押し問答になりかけたとき、相手が大きな声で、「私が直接相談に来ているのですよ」と言いました。私はそれでようやく相手の事情になかなかのところがあるのがぴんと来て、一方自分が厄介になるかもしれないとの配慮ばかりしていたことに気づき、気分が一新して締まり、引き受けました。そんなに長く問答したわけでなく、短い時間で話はついたのですが、相手の班長とは気持ちが通じての淡交がありました。
>
> 自己中心的は自分の都合、希望するところ、やり易さなどが次々に心に浮かぶことでわかります。それで全体が目に入らないのです。この心の在り方の差はわかるようになります。
> ちょっと話が変わりますが、知的好奇心は厄介です。高級のものから低級のものまで、魅惑され心を占有されることになります。ここはまだよくわからないところです。
>
> そこでも一つ死の感覚という事に触れておきます。精神的に死ぬという意味のです。
> 私のやっていた仕事は大きく膨らんで、研究所、現場、メーカーが乗り出すやや大きなプロジェクトになっていました。私はだが肝心のところがどうしてもうまくいかず、あるレベルで実用になっても、今一つ十分に解決できないと思って、ついに上司のところに行ってその旨話しました。
>
> 上司は「この仕事は今や我々の手を離れて大きな組織全体の仕事となって、各方面の人が必死に各々の場で取り組んでいる。今それをどうすることもできず、見守っていくほか何もできない」と言いました。私は今やそれはやり始めの時と違い、自分で止めたり、舵を切ることなど出来ないものになって動いているのだとわかりました。
>
> それからの日々は日常的な用事を少しばかり果たすほか、まな板の上のコイのように、つまり精神的に死んでじたばたは一切せず、事態の推移を見守る日々が続きました。
> いつ大きなサメががっぽりと口を開けてすべてを終わりにするかと思っていましたが、何事も起きずに推移し、一時代を劃して次の時代と移っていきました。
> 死んで見ている受動性に対し、能動性って何だろうと改めて思います。
>
> これで見ることは終わりとします。どうもご静聴ありがとうございました。


 こちらこそ、ありがとうございました。

 ところで、このグループの長との打ち合わせや、大きなプロジェクトの時には、クリシュナムルティと出会っていたのでしょうか・・。あるいは、以前お伺いしました盤珪禅師との出会いの中での出来事でしょうか・・。

 生の中で、自己理解、自己観察が行われている様が見受けられるように感じました。

 もうひとつ、「死んで見ている受動性」が、当時、努力なし意志の力なしに為されるさまが見受けられましたが、その後も、クリシュナムルティ理解と共に、「死んで見ている受動性」が度々あったのか・・、今現在もあるのか・・?をお伺いしたいところです・・。

 私の場合は、逆境にあるときには、自ずと「死んで見ている受動性」が自然に為されるのですが、順境にあるときには、なかなか為されないように思います。


[25165] Re:[25163] お金がなぜ人格を養うか。 投稿者:ゴト 投稿日:2018/03/02(Fri) 17:20  

> 喧嘩をしないと人間性は深まらないんじゃないでしょうか。企業ってのも喧嘩をさせないシステムに思えます。不生産的な人間を排除してしまうと思うんです。

私は妻と若い時喧嘩ばかりしていたのですが、それって何をしていたかというと、理非を競っているようで本当は自分の相手に対する優位を獲得しようとしていたような気がします。

ある程度歳をとるといつの間にかしなくなっていました。そして若い時なんでけんかしていたのか思い出せません。妻も覚えていないと言います。

あ、一例を思い出しました。60歳を過ぎたころと思いますが、「ほらほらご飯をこぼす」「亭主に向かってなんというものの言いよう」。こんなのしょうがないですね。さすがのこの頃は怒りから抜け出ました。怒りって空を切る心的エネルギーの発揮なのでしょうか?お互い相手に対して利くと思える間は発揮するわけです。上位にありたい間はです。

企業は喧嘩をさせない。能率を下げる人間を排除する。そうかもしれませんね。心的エネルギーの発動なしにさらっと文句を伝えることは難しい。それができる人が(いい意味での)普通にものが言える人だと母が言っていました。


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