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[26227] Re:[26226] [26225] [26207] 過去からの自由16−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/11/05(Mon) 15:28  

> > 何故愛の気質が人間から失われたか、それは思考の規律と観察・見ることの規律を人間が見失ってしまったからだ。
>
>
>  子どもは、その規律が失われている場合に、容易に指摘する。「王様は裸だ!!」と・・。
>
>  しかし、世渡りが上手くなるにつれ、利益が無ければ指摘はしない。指摘した相手が不機嫌となり、こちらを憎むかもしれない。触らぬ神に祟りなし・・、と。
>
>  これが、幻想、欺瞞、虚飾、すなわちイメージ、観念、思考の産物が蔓延する要因ではないか。。
>
>  相手の幻想、欺瞞、虚飾、すなわちイメージ、観念、思考の産物に気づいても、それをなかなか指摘できない関係。社会。


しかしながら人間の意識、言葉を使っての伝搬、思考による対象の姿のリプリゼントは、本質的に観念、イメージによってなされる。生きて現前している真理、実在、愛等々と呼ばれるこのものについては沈黙が規律である。

 心・意識・思考・言葉イメージ・観念は社会の運用のための道具であって、愛とか美とか真理と呼ばれる領域の道具ではない。規律があるとき、見ての理解の領域が開け秩序・摩擦なきエネルギーの流れがある。これがクリシュナムルティの話してくれたことの根本の理解だと思うに至りました。
>
>  幻想やイメージは、容易に現実を生み出す。
>
>  天皇が神であるというイメージは、容易に本国において現実化したように。。現在は朝鮮半島北部でそれが起こっている。
>
>  なぜ、人は指摘しないのか。

片っ端から非国民のレッテルをはられることが目に見えていたから。不良の仲間たちのような裏社会には天皇や皇后や軍隊をあざ笑うざれ歌は流れていたが。
>
>
> > > 終り (ゴト訳)


[26226] Re:[26225] [26207] 過去からの自由16−4 投稿者:宮啓 投稿日:2018/11/04(Sun) 19:04  

> > 16章−4 [情熱]
> >
> >  人間はなぜこのものを欠いているのか自問したことが今までにないでしょうか? 人間は子供を儲け、セックスを好み、優しさ、仲間同士、友人同士では何かを一緒に分け合う性質を持っています。しかしこのもの ― 人間がそれを持っていないには何故でしょう? 汚れた街を一人で歩いているときやバスの中で座っているとき、あるいは休日に海辺にいたり、森の中を沢山の鳥や木や流れや動物と共に歩いているとき、時たまぼんやりと不思議に思ったことはないでしょうか ― 何百万年も生きてきて、人間がこのものを、この途方もない、しおれることを知らない花を手にしていないのは何故かと問う気になったことがなかったでしょうか? 何故あなたは人間として、そんなにも有能で、賢く、狡猾で、競争的なのに、このように素晴らしい技術を持ち、空や地下や海底に行き、途方もない電子頭脳を発明するのに ― 何故この大事な一つのものを持っていないのでしょうか? あなたのハートがなぜ空虚なのかというこの問題にあなたが真剣に直面したことがあるのかどうか私は知りません。
>
>
> 人間は利口で狡猾でさえあるに、『あなたのハートがなぜ空虚なのかというこの問題にあなたが真剣に直面したことがあるのかどうか私は知りません』― これが今の人間個人に対しても全人類に対しても共通の、究極の、唯一の愛から出る言葉なのだ。涙がにじむ。
>
>
> >  もし自分自身にその質問をしたのなら、あなたの答えはどうなのでしょう ― どんな曖昧さあるいは狡猾さもないあなたの直接の答えは? あなたの答えはその質問をする中の強烈さとその緊急性に一致しているでしょう。しかしあなたは激しくも切迫もしておらず、それはエネルギーを、情熱であるエネルギーを持っていないからです。そして情熱なしには ― 背後に激烈さを伴う情熱、その中にどんな隠された欲望もない情熱なしには、どのような真理も発見できません。情熱はむしろ恐るべきものであり、なぜならもし情熱を持つなら情熱は自分をどこに運び去るかも知れないからです。
>
>
> 人間は切迫性、緊急性を漠然と感じるが、先き送りしてしまう。
>
>
> >  それゆえ、なぜこの愛の気質が自分の中に失われているか、なぜハートの中にこの炎がないのか、自分自身で見出そうとするその情熱のためのエネルギーを持たない理由は、もしかすると恐怖でしょうか? 自分自身の心とハートを非常に綿密に調べてみるなら、なぜ情熱を持たないか知るでしょう。なぜそれを持っていないか見出そうとすることの中で情熱的であるなら、情熱がそこにあるのを知るでしょう。完全な否定によってのみ、それは情熱の最高の形態です、あの愛であるものが生まれます。謙虚と同じように愛は育成できません。謙虚はうぬぼれが完全に終わるときに生じます ― そのとき謙虚であることはどんなことか決して知らないでしょう。謙虚であるとはどんなことか知っている人間は虚栄心の強い人です。同じように、生の道を見出すため、実際のあるがままを見てそれを超えるため、自分の心とハート、神経、目、全存在を注ぎ、そして完全に、全体的に、いま生きている生を否定するとき ― 醜いもの、残虐なもののその否定そのものの中にこそ、そうでない他のもの(the other)が生じます。自分が沈黙していることを知り、自分が愛していることを知っている人は、愛が何であるか、沈黙が何であるか知っていないのです。
>
>
> 何故愛の気質が人間から失われたか、それは思考の規律と観察・見ることの規律を人間が見失ってしまったからだ。


 子どもは、その規律が失われている場合に、容易に指摘する。「王様は裸だ!!」と・・。

 しかし、世渡りが上手くなるにつれ、利益が無ければ指摘はしない。指摘した相手が不機嫌となり、こちらを憎むかもしれない。触らぬ神に祟りなし・・、と。

 これが、幻想、欺瞞、虚飾、すなわちイメージ、観念、思考の産物が蔓延する要因ではないか。。

 相手の幻想、欺瞞、虚飾、すなわちイメージ、観念、思考の産物に気づいても、それをなかなか指摘できない関係。社会。

 幻想やイメージは、容易に現実を生み出す。

 天皇が神であるというイメージは、容易に本国において現実化したように。。現在は朝鮮半島北部でそれが起こっている。

 なぜ、人は指摘しないのか。


> > 終り (ゴト訳)


[26225] Re:[26207] 過去からの自由16−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/11/04(Sun) 16:25  

> 16章−4 [情熱]
>
>  人間はなぜこのものを欠いているのか自問したことが今までにないでしょうか? 人間は子供を儲け、セックスを好み、優しさ、仲間同士、友人同士では何かを一緒に分け合う性質を持っています。しかしこのもの ― 人間がそれを持っていないには何故でしょう? 汚れた街を一人で歩いているときやバスの中で座っているとき、あるいは休日に海辺にいたり、森の中を沢山の鳥や木や流れや動物と共に歩いているとき、時たまぼんやりと不思議に思ったことはないでしょうか ― 何百万年も生きてきて、人間がこのものを、この途方もない、しおれることを知らない花を手にしていないのは何故かと問う気になったことがなかったでしょうか? 何故あなたは人間として、そんなにも有能で、賢く、狡猾で、競争的なのに、このように素晴らしい技術を持ち、空や地下や海底に行き、途方もない電子頭脳を発明するのに ― 何故この大事な一つのものを持っていないのでしょうか? あなたのハートがなぜ空虚なのかというこの問題にあなたが真剣に直面したことがあるのかどうか私は知りません。


人間は利口で狡猾でさえあるに、『あなたのハートがなぜ空虚なのかというこの問題にあなたが真剣に直面したことがあるのかどうか私は知りません』― これが今の人間個人に対しても全人類に対しても共通の、究極の、唯一の愛から出る言葉なのだ。涙がにじむ。


>  もし自分自身にその質問をしたのなら、あなたの答えはどうなのでしょう ― どんな曖昧さあるいは狡猾さもないあなたの直接の答えは? あなたの答えはその質問をする中の強烈さとその緊急性に一致しているでしょう。しかしあなたは激しくも切迫もしておらず、それはエネルギーを、情熱であるエネルギーを持っていないからです。そして情熱なしには ― 背後に激烈さを伴う情熱、その中にどんな隠された欲望もない情熱なしには、どのような真理も発見できません。情熱はむしろ恐るべきものであり、なぜならもし情熱を持つなら情熱は自分をどこに運び去るかも知れないからです。


人間は切迫性、緊急性を漠然と感じるが、先き送りしてしまう。


>  それゆえ、なぜこの愛の気質が自分の中に失われているか、なぜハートの中にこの炎がないのか、自分自身で見出そうとするその情熱のためのエネルギーを持たない理由は、もしかすると恐怖でしょうか? 自分自身の心とハートを非常に綿密に調べてみるなら、なぜ情熱を持たないか知るでしょう。なぜそれを持っていないか見出そうとすることの中で情熱的であるなら、情熱がそこにあるのを知るでしょう。完全な否定によってのみ、それは情熱の最高の形態です、あの愛であるものが生まれます。謙虚と同じように愛は育成できません。謙虚はうぬぼれが完全に終わるときに生じます ― そのとき謙虚であることはどんなことか決して知らないでしょう。謙虚であるとはどんなことか知っている人間は虚栄心の強い人です。同じように、生の道を見出すため、実際のあるがままを見てそれを超えるため、自分の心とハート、神経、目、全存在を注ぎ、そして完全に、全体的に、いま生きている生を否定するとき ― 醜いもの、残虐なもののその否定そのものの中にこそ、そうでない他のもの(the other)が生じます。自分が沈黙していることを知り、自分が愛していることを知っている人は、愛が何であるか、沈黙が何であるか知っていないのです。


何故愛の気質が人間から失われたか、それは思考の規律と観察・見ることの規律を人間が見失ってしまったからだ。

> 終り (ゴト訳)


[26224] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/11/04(Sun) 14:17  

彼の言ってることは狭い。狭い川のような教えだ。覚者の教えは、全てを乗せれる。オカルトもエロスも政治も乗せれる大海のような教えだ。


[26223] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/11/04(Sun) 14:14  

クリシュナムルティの足りないところは、人それぞれ段階やタイプが違い、段階によって教えも違うということの認識であった。初めから、クリシュナムルティは、自分自身の解放しか興味がなかった。彼は本気で全体を向上させようとかいう慈悲を持ってなかった。


[26222] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/11/04(Sun) 13:55  

クリシュナムルティは、般若つまり智慧はあったが、方便、慈悲はなかった。女性原理である般若に加えて、方便という男性原理を使えるのが覚者。彼は、生涯真理をときつづけて、だれも導けなかった。第4段階の智慧で終わった。


[26221] Re:[26219] [26218] [26217] [26215] [26213] [26210] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/11/04(Sun) 09:08  

> > > > > > ある日、清らかな修道院で解脱に達した、僧がいた。彼は全てを捨て、愛と慈悲に満ちた完成された人格者だった。 ある日酔っ払いを助けてくれとその聖者に頼む人がいた。彼は酔っ払いに清らかな生活の素晴らしさを語った。その言葉は彼の体験から出ていた真実であったが、酔っ払いは、怒って聖者を叩き出した。次に呼ばれた人は、清濁併せ持つ賢者で彼には、醜く汚い世界に入って行き楽しめる力があった。彼は酔っ払いの恨みや怒りの世界に入って行き、一緒に酒を飲み愚痴を言い意気投合してしまった。そうして彼は酔っ払いを救った。        第4段階の愛と慈悲だけでは、ひとは導けない、第5段階の自由とか力、不気味なもの闇のなかに入って行く力が必要なのだ。
> > > > >
> > > > >
> > > > > 救いというのは相手の依存をもたらします。私は救うよりその人から学ぶことが多かった。自分は救うに値するほど高尚な人間ではなかったと。己の傲慢を知った。依存さしてさらにことを悪化させる結果となってしまった。その人から自分への尊重を奪い取ってしまった。私への尊重だけが残り私は途方にくれた。 救う自分とか、善行をなす自分という意識があれば、それはすでに違うのです。偉大さは偉大さが消えたところにある。
> > >
> > >
> > > 今瞑想で自意識を捨てました。誰が認めることも出来ませんし、それが本当かどうかも定かではないですが、心は自意識を捨てたと語ります。あとは、日々の生活のなかでそれを確かめるしかないですね。捨てる自分もない。リラックスが深まると全体や自然との境界線が消えていく。調和と美は我の不在である。
>
>
>
> 捨てて捨てても、最後に私は在るという感覚だけはのこりました。なるということから解放された状態。重荷を降ろした状態。どこにも拡がりもせず、守りもしない状態。意見も解釈も持たない状態。今の所これでいいような気がします。 さらに私はあるから、私が消えてあるだけが残ると5段階。


[26220] Re:[26219] [26218] [26217] [26215] [26213] [26210] 無題 投稿者:南方 投稿日:2018/11/04(Sun) 07:23  

> > > > > > ある日、清らかな修道院で解脱に達した、僧がいた。彼は全てを捨て、愛と慈悲に満ちた完成された人格者だった。 ある日酔っ払いを助けてくれとその聖者に頼む人がいた。彼は酔っ払いに清らかな生活の素晴らしさを語った。その言葉は彼の体験から出ていた真実であったが、酔っ払いは、怒って聖者を叩き出した。次に呼ばれた人は、清濁併せ持つ賢者で彼には、醜く汚い世界に入って行き楽しめる力があった。彼は酔っ払いの恨みや怒りの世界に入って行き、一緒に酒を飲み愚痴を言い意気投合してしまった。そうして彼は酔っ払いを救った。        第4段階の愛と慈悲だけでは、ひとは導けない、第5段階の自由とか力、不気味なもの闇のなかに入って行く力が必要なのだ。
> > > > >
> > > > >
> > > > > 救いというのは相手の依存をもたらします。私は救うよりその人から学ぶことが多かった。自分は救うに値するほど高尚な人間ではなかったと。己の傲慢を知った。依存さしてさらにことを悪化させる結果となってしまった。その人から自分への尊重を奪い取ってしまった。私への尊重だけが残り私は途方にくれた。 救う自分とか、善行をなす自分という意識があれば、それはすでに違うのです。偉大さは偉大さが消えたところにある。
> > >
> > >
> > > 今瞑想で自意識を捨てました。誰が認めることも出来ませんし、それが本当かどうかも定かではないですが、心は自意識を捨てたと語ります。あとは、日々の生活のなかでそれを確かめるしかないですね。捨てる自分もない。リラックスが深まると全体や自然との境界線が消えていく。調和と美は我の不在である。
>
>
>
> 捨てて捨てても、最後に私は在るという感覚だけはのこりました。なるということから解放された状態。重荷を降ろした状態。どこにも拡がりもせず、守りもしない状態。意見も解釈も持たない状態。今の所これでいいような気がします。



そして神または「私は在る」というものにマインドの注意を向けると両者は合致し沈黙がのこる。


[26219] Re:[26218] [26217] [26215] [26213] [26210] 無題 投稿者:南方 投稿日:2018/11/04(Sun) 06:55  

> > > > > ある日、清らかな修道院で解脱に達した、僧がいた。彼は全てを捨て、愛と慈悲に満ちた完成された人格者だった。 ある日酔っ払いを助けてくれとその聖者に頼む人がいた。彼は酔っ払いに清らかな生活の素晴らしさを語った。その言葉は彼の体験から出ていた真実であったが、酔っ払いは、怒って聖者を叩き出した。次に呼ばれた人は、清濁併せ持つ賢者で彼には、醜く汚い世界に入って行き楽しめる力があった。彼は酔っ払いの恨みや怒りの世界に入って行き、一緒に酒を飲み愚痴を言い意気投合してしまった。そうして彼は酔っ払いを救った。        第4段階の愛と慈悲だけでは、ひとは導けない、第5段階の自由とか力、不気味なもの闇のなかに入って行く力が必要なのだ。
> > > >
> > > >
> > > > 救いというのは相手の依存をもたらします。私は救うよりその人から学ぶことが多かった。自分は救うに値するほど高尚な人間ではなかったと。己の傲慢を知った。依存さしてさらにことを悪化させる結果となってしまった。その人から自分への尊重を奪い取ってしまった。私への尊重だけが残り私は途方にくれた。 救う自分とか、善行をなす自分という意識があれば、それはすでに違うのです。偉大さは偉大さが消えたところにある。
> >
> >
> > 今瞑想で自意識を捨てました。誰が認めることも出来ませんし、それが本当かどうかも定かではないですが、心は自意識を捨てたと語ります。あとは、日々の生活のなかでそれを確かめるしかないですね。捨てる自分もない。リラックスが深まると全体や自然との境界線が消えていく。調和と美は我の不在である。



捨てて捨てても、最後に私は在るという感覚だけはのこりました。なるということから解放された状態。重荷を降ろした状態。どこにも拡がりもせず、守りもしない状態。意見も解釈も持たない状態。今の所これでいいような気がします。


[26218] Re:[26217] [26215] [26213] [26210] 無題 投稿者:明日を暗示する黄昏 投稿日:2018/11/03(Sat) 11:49  

> > > > ある日、清らかな修道院で解脱に達した、僧がいた。彼は全てを捨て、愛と慈悲に満ちた完成された人格者だった。 ある日酔っ払いを助けてくれとその聖者に頼む人がいた。彼は酔っ払いに清らかな生活の素晴らしさを語った。その言葉は彼の体験から出ていた真実であったが、酔っ払いは、怒って聖者を叩き出した。次に呼ばれた人は、清濁併せ持つ賢者で彼には、醜く汚い世界に入って行き楽しめる力があった。彼は酔っ払いの恨みや怒りの世界に入って行き、一緒に酒を飲み愚痴を言い意気投合してしまった。そうして彼は酔っ払いを救った。        第4段階の愛と慈悲だけでは、ひとは導けない、第5段階の自由とか力、不気味なもの闇のなかに入って行く力が必要なのだ。
> > >
> > >
> > > 救いというのは相手の依存をもたらします。私は救うよりその人から学ぶことが多かった。自分は救うに値するほど高尚な人間ではなかったと。己の傲慢を知った。依存さしてさらにことを悪化させる結果となってしまった。その人から自分への尊重を奪い取ってしまった。私への尊重だけが残り私は途方にくれた。 救う自分とか、善行をなす自分という意識があれば、それはすでに違うのです。偉大さは偉大さが消えたところにある。
>
>
> 今瞑想で自意識を捨てました。誰が認めることも出来ませんし、それが本当かどうかも定かではないですが、心は自意識を捨てたと語ります。あとは、日々の生活のなかでそれを確かめるしかないですね。捨てる自分もない。リラックスが深まると全体や自然との境界線が消えていく。調和と美は我の不在である。


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