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[24778] Re:[24761] [24756] 聖なるもの? 投稿者:外野席 投稿日:2017/11/10(Fri) 11:32  

>  そもそも「生の中の聖なるもの」の聖なるものって何?

 クリシュナムルティにいわせれば、「生の中の聖なるもの」とは、思考の産物。つまり空想やイメージであって実体のないもの。

 だったら「生の中の聖なるもの」といった思わせぶりなタイトルをつけるのではない。
「生の中の聖なるもの」とは何か、という好奇心をもった読者に対しては最後はいつものは肩すかし。
 すべては思考の産物なり(クリシュナムルティ)。この考えは唯識と同じ。
 すべては「識」なり。(唯識論)
 生長の家「全ては心の影」

 はたしてそうだろうか?




[24777] 無題 投稿者:外野席 投稿日:2017/11/10(Fri) 09:30  

24775の内容は、「自己の変容」という題名で、すでに出版されています。訳者は松本恵一氏。訳者によってニュアンスが全然変わってしまいます。驚きました。この内容は、過去の読者会で、再三とりあげたものです。

訳者によってクリシュナムルティに対する全然ニュアンスがかわってしまう。
たとえば、悟った人、真理を会得した人が訳すのと、たんなる頭でっかちの学者タイプが訳すのでは、全然ニュアンスが異なったしまう。

高岡光という人が、書物の中で、日本の出版界を厳しく批判してるのはわかる気がします。クリシュナムルティの真意が、全然伝わったいないと。
著書「クリシュナムルティ・水晶の革命家」


[24776] 生中の聖なるもの(4) 投稿者:ゴト 投稿日:2017/11/10(Fri) 09:28  

クリシュナムルティ: さて、私は知らないので調べています―私は瞑想を調べています。それは何を意味するのでしょうか? 私は最初に、心は絶対的に静かでなければならないことを見ます。なぜならそれが静かでないなら、明確に見ることができないからです。それがすべてです。

質問: (聞き取れない)

クリシュナムルティ: いいえ、あなたの言うことを傾聴したいのなら、私はあなたの言っていることを聞かなくてはならないことがわかります―私は気を散らすことはできません。私はあなたの言うことを傾聴したい、したがって私の注意は努力を要しません。何故なら好奇心があるから、あなたの言いたいことを見出そうと熱心だからです。したがって努力はありません。聞くためには、見るためには、心は完全に静かでなければならないということが非常に明確に見えます。それがすべてです。そして私の関心はあなたのいうことを傾聴することです。私の関心は明確に見ることです。したがって心は静かです。

質問: 私たちはある困難に入りつつあるように思いますが...

クリシュナムルティ: 多くの困難。

質問: ...この時点において、私たちは矛盾を言葉として話し始めているからです。聞くためには、心は静かですが、聞いている、何を聞いている―音? 静かさを強調するその音―そこで、もう一度。それであなたは、聞くためには心は静かでなければならないと言いました。しかしそれははっきりと矛盾です―聞くために静かなことは。

クリシュナムルティ: いいえ、あなた。

質問: 言葉は矛盾していますが現実ではありません。

クリシュナムルティ: よろしい、あなたがそれを理解したのなら、そのときそれは単純です。明確に見るためには...

質問: ...心に色があってはなりません。

ゴト: ここで、この種探究の際の言葉による問題の発生が取り上げられ、解決されています。言葉が指し示す実際(ここでは現実)が対話者同士でしっかり見つめられていれば、理解があり進めます。
実際がつかめないで言葉(のイメージ)で進めようとすると脇道の議論に入り、多くの困難が生じます。

クリシュナムルティ: それがすべてです、あなた。そして心を静かにさせることは馬鹿げています。心を静かであるように強いることは馬鹿げています―それは静かなのではありません。また、心を静かにする方式にしたがうことは絶対的に愚かです―それがもっとも偉大な導師によって与えられようが、最低の導師によってであろうが。

そこで私は見ます。瞑想の中への私の探求の中で、私は見ます。静かである心の性質の洞察があります。あなたは洞察を持ちますか? いいえ? あなたは持っていない、持っている? 何故持っていない? 木、あなたの女友達、山を見たいなら、他の人たちが言っていることを聞きたいなら、あなたは静かであるに違いないのではないでしょうか? 困難は何でしょうか? したがってあなたの困難はこうです、あなたは聞きたいのではありません。見たいのではありません。

質問: 一瞬の間見ます。次にそれは消えてしまいます。

クリシュナムルティ: 何故それは消えるのでしょう―あなたはそれを一瞬の間見ます、それは消えます。よろしい、それを消えさせてください。あなたはすべてのものを持ちたいのではないでしょうか? あなたは非常に貪欲です。知覚のただの一秒で充分です。

それで私は瞑想を調べています。私は私の身体が静かで、くつろいでいなければならないのを見ます。そのときそのくつろぎの状態の中で、血液はより容易に脳に行きます。したがって人々は種々の姿勢で座ることを、ほら、足を組んで座ること、そういったあらゆるゲームを唱導します。あるいは横になったり何かをしたり、歩いたりできます。それは問題ではありません。それで身体は敏感で、生き生きして、すばやく、しなやかでなければならないのではないでしょうか? あなたの身体はすばやく、しなやかで、敏感ですか? 明らかにそうではありません。なぜならあなたは食べ過ぎ、充分体操せず、喫煙、飲酒―し続けます。そしてなお、「さて、私は日常の生活を続けている。私は静かな心が欲しい。それにどうやって取り組むか、私に教えてください」と言います。それゆえあなたはあなたの快楽すべてを望み、そして他の快楽を獲得するのです。こういったすべてはあまりに子供じみています! さて、問題はこうです。思考は静かであることができるでしょうか? 心は思考、考える機構全体を意味します。どうやって思考は静かであればいいでしょうか?

ゴト: >心は思考、考える機構全体を意味します。−−心あるいは思考が静かであるという事は、生起している事柄をしっかりと追っていることに違いないと思いますが、それはとても全体的な事柄で、一局部を鍛錬するようなものでないことは確かです。

質問: 本当に観察することに興味があるとき思考は静かであると、あなたはついさっき言いました。

クリシュナムルティ: はい、あなた、私は検討しています―あなたの思考は静かですか?

質問: いいえ。

クリシュナムルティ: したがってあなたは探求していないのです。

質問: そのとおりです。ただそこに座っている私の一部があります。

クリシュナムルティ: したがってあなたは探求していないのです―私は探求していると言います。私は言います。思考は静かであり、必要なとき論理的に、正気に、非個人的に、生き生きと働くことが、そして残りの時間―働いているすべての時間ではなく、静かであることができるでしょうか?

質問: あなた。探求しているなら、それは既に静かです。

クリシュナムルティ: あなた、あなたがこのことをしているなら、思考は静かです。しかしあなたはそれをしていないのではないでしょうか? いいえ、したがって私たちは探求しているのです―私はあなたのために探求しています。見てください、私たちの生のすべては考えることに費やされているのではないでしょうか? 私たちの生の大部分は思考の活動です。思考は、意識的あるいは無意識的に際限なく進み続けます。それはそうですか、そうでないですか? さてどうやってあなたはこの機構をしばらく終りにしますか?

ゴト: >さてどうやってあなたはこの機構をしばらく終りにしますか?−−おしゃべりが終わりになっている状態、見る、聴くに自ずと全力が傾けられている状態、意図せずして生じている状態ですが……

質問: (聞き取れない)

クリシュナムルティ: したがってあなたはそれをどうしますか―それゆえ話さないでください。私は見出したい。私は思考がいつも続かなければならないのかどうか見出すために、それに心血を注ぎたいのです。あるいは私は「二つの思考の間に間隙があるだろうか。あるいは思考は異なる形をとる一つの連続した運動なのだろうか?」と言います。あなたは探求していません。あなたはこういったことを何も、一度もしたことがないのです。

質問: 思考の間に間隙があります。

クリシュナムルティ: 二つの思考の間に間隙があります。女性の方がそうだと言います。私はその間隙を知っていますと彼女は言います。さてその間隙に何が起こりますか? それは飽きたことによる間隙でしょうか―どうか調べてください―はい とか いいえと言わないでください―飽きたことによる、退屈による、白昼夢による間隙、それともそれは意識のある間隙でしょうか?

質問: (聞き取れない)

クリシュナムルティ: 私はあなたのために質問しているのです。私のためではなく。

質問: あなたはそれを皆のために尋ねているのではない?

クリシュナムルティ: 私はここにいる皆のために尋ねています。

質問: それならあなたはあなたのために尋ねています。それはあなたのためです。私たちは一緒に動いているでしょうか?

クリシュナムルティ: いいえ、一緒に動いていません。単純な理由のためです。あなたはこの問題を決して調べたことがありません。心は、それは思考の道具です、それは記憶、経験、知識、そういったすべてである思考です―いつも働いているのでしょうかどうでしょうか? そして私はあなたのために調べていると言います。あなたはこの思考が自然に終る時間を少しでも見つけますか? あるいは二つの思考の間に間隙がありますか? あるいはその間隙は怠惰、怠慢、疲労であるのか、それともあなたはこの間隙に気づいているのでしょうか? そしてこの間隙に気づいているなら、そのとき何が起こりますか?

質問: その間隙にはエネルギーがあります―それがエネルギーであるものです。

クリシュナムルティ: エネルギーがその間隙の中にある。また他の思考を取り上げるために? あなたは推測しているのですか? 不幸にも―これは私たちの悩みです―あなたはこれを調べていません。

ゴト: 思考の間隙、これがなんであるか、私たちは調べたことがない! これは本当です。私も。

質問: 私たちはどんな解答もあなたの言うことも同時に認識します。

クリシュナムルティ: それゆえあなたはそれを認識します。

質問: 私が関係する限り、あなたの言っていることはこうです。私が心全体と私の得たあらゆるものを探求するためにつぎ込むなら、そのとき私の心は静かです。

クリシュナムルティ: 私はそれを言いませんでした、あなた。私は単純に言いました。あなたが誰かの言うことを聞きたいなら、あなたはかなり静かでなければならないのではないでしょうか? それがすべてです。

ゴト: 思考の間隙を調べることがみんな手が出そうにないので、またスタートの地点に帰りました。

質問: (聞き取れず)

クリシュナムルティ: 待ってください。私は聞きたいのです、聞きます、私は聞きたいのではなく―言葉なしの聞く事があるでしょうか?―

質問: あるかもしれません。

クリシュナムルティ: 私はそれを引き渡します。実験してください。あなた。それをいまやってください。言葉なしに聞くことができるかどうか見出してください。その聞くことの性質が何か見出してください。そしてその性質が想像されたものか実際のものか見出してください。

質問: あなた、これをしようとするとき、私の持っている弱点は、心がそれ自身に指示を与えることです。

ゴト: 思考なしの聴くことと言う単純な点に戻りましたが、それにも困難があると。

クリシュナムルティ: ええ、あなた、それは思考の一部です。おわかりですね、あなたが一度も「瞑想」という言葉を聞いたことがなければなあと思います。あなたが一度も静かであるとはどんなことか聞いたことがなければなあと思います。あなたが一度も、心が静かなとき、その向こうに起こるかもしれないことを聞いたことがなければなあと思います。もしもあなたが一度もこれらのことを何も聞いたことがなくて、ありのままのあなたの生を―ありのままの―すなわち、私たちの葛藤、私たちの悲惨、私たちの悲しみを処理するだけであるなら、それの解決のなかに、他のもの(the other)が起こるかもしれないでしょうに。しかしあなたはそれを解決していませんが、他のものを望んでいます。それが私が、もしもあなたが知ることなしに始めることができたらなあ、と言う理由です。私は思考によって触れられていない実在があるかどうか知りません―私は本当に知らないのです。私はそのように宗教的な心があるかどうか、本当に知らないのです―その言葉の正統的な意味においてではなく―宗教的、聖なるものを見ることができるそれ。生の中に神聖な何かがあるでしょうか? これを探求しましょうか? 生の中に神聖なものがあるかどうか見出すために、私たちは一緒にこのことを調べることができるでしょうか? 私たちがそれを見出さないなら生は無意味になります。いいえ?

質問: 多分、それが生が無意味である理由でしょう。今そうであり、私は他に何も知りません。

ゴト: 生の中に神聖なものがあるか?と言う疑問をKが提出しました。人はそれを知らず、生は無意味なのだと認めるしかありません。

クリシュナムルティ: あなた方皆さんは知りません、動けません。見てください、私は進みます。私は生の中に聖なる何かがあるかどうか見出したい―人間がつくり出したイメージの中で神聖なのではなく、神聖なことがあるという観念の中でではなく、宗教的な本や世間の偶像の中でではなく。なぜならそのすべては人間によって組み立てられてきたからです。イエス、仏陀、彼らは皆思考によって、苦悩の中にある、絶望の中にある、凄まじい悲しみと苦痛と恐怖の中にある思考によって組み立てられてきたのです。それゆえ、思考は「それは神聖だ」と言うのです。それは明瞭ではないでしょうか? そして私は、明らかにそれは神聖ではないと言います。私は以前ある友人を知っていました―ある日森の中を歩いていたとき、彼は人間の顔を持った一切れの木を見つけました。そこで彼はそれを家に持ち帰り、マントルピースの上に置きました。それを眺め、何と途方もないものであるかと言いました。何故ならそれは活力を持っていたからです―雨、その上を歩く人がその形を作り出しました。そしてある日、それ、その木切れに花を持って行き、その側に置きました。するとそれはなおいっそう美しく見えました。それで毎日彼は花を加え、徐々に、一年もすると、それは彼の人生でもっとも神聖なものになったのです。

したがってそれは神聖ではありません。私はその木片を、祭壇を組み立てるように、最も神聖なものにすることができます。あるいは、ご存知のように、キリスト教徒、彼らの神話、彼らの偶像はただ心の空想の産物にすぎません。それは神聖ではありません。私は生の中に神聖な何かがあるかどうか見出したい。すなわち、生、死の中に、愛の中に。私たちは一緒に歩いているでしょうか? さてどうやって見出しますか? なぜなら、私は、その美の発見がないなら生はむしろ浅薄で空虚になることを見るからです。私は多くのものを発明することができます。何かについて果てしなく瞑想しながら座っていることができます。それはすべてとてもとても浅薄で、むしろ子供じみて愚かになります。そこで私は去れ、と言います。私はそのすべてを押しやります。では何が神聖でしょうか? 愛は神聖でしょうか―心配、恐怖、嫉妬を持つ、支配する、所有する愛。愛と呼ばれる、性、快楽、苦痛、苦悩、そのすべてである人間の関係―それは神聖でしょうか? 私は知りません―あなたはどう思いますか?

質問: 明らかにそうではありません。

クリシュナムルティ: 明らかにそうではない、何故?

質問: 何故ならあなたがそれを私たちに示したからです。

クリシュナムルティ: 私はそれを示しませんでした、あなた、それを見守ってください。あなたは何故と言います。私はあなたに示しましょう。あの木片は神聖になりました。それゆえ思考はそれを神聖にします。思考は愛を現状のものにしました。それゆえ思考は何も神聖にすることはできません。さあ、あなた。それが仏陀、キリスト、クリシュナであろうが、何であろうが、観念―思考は何も神聖にすることはできません。この事の美しさがおわかりですね、あなた。それを見出すために、それに思いがけず出会うために―感情、思考は決して木を美しく、山を美しく、あなたの顔を愛らしくすることはできません、思考はそれをそうすることができません。したがって思考、それは記憶の反応です、測定可能な思考は決して神聖ではあり得ません。

それで聖なるものは思考がない瞬間です。そしてそのとき、思考は「私は測定する。そしてそれをもっと欲しい」と言います。そのときそれは快楽になります。そして思考は際限なく快楽を追求します。それゆえ、すべての寺院、すべての教会、すべてのモスクは思考によって快楽のために組み立てられており、したがってその中に神聖なものは何もありません。

質問: どうすれば出来る...

クリシュナムルティ: 待ってください、私はそれをあなたに示そうとしています。そこで心は思考なしにあることが、そして必要なときに思考を用いることが出来るでしょうか? それは思考がない心が思考を使用し、思考と共に生きることが出来るということです。調和して。一つのものともう一つのものではなく。そしてこれが瞑想です。そのため心は思い違いがありません。そして思い違いはあなたが達成することを望むとき起こります。あなたが「私はそれを獲得しなければならない」と言うとき、するとそのとき、あなたは獲得するものを発明することができ、それを得たと思います。しかし、常にあなたがマントルピースの上のあの木切れを思い出すことが出来るなら―おわかりですか?

それゆえ私の心、それゆえ私の心全体が神聖です―その内容が神聖なのではなく。私はあなたがこのすべてと出会っているかどうかなと思います―完全に空である心のその性質。そしてその空虚、空間、静寂から思考は作動できます。これはすべて私の描写です、わかりますか―それはあなたのではありません。

さて、私たちの僅かの人がこれを一緒に見るなら、そしてそれが私のやあなたのものではないなら、しかしそれはそうなのですが、そのとき私たちは新しい世代をつくり出します。そしてそのときあなたは人々を変えることに、権力にある人々の心を変えることに悩まされないでしょう。彼らは変える価値がありません。権力にあるどんな人も腐敗しています。

私たちの誰かは一緒に旅をしたでしょうか? ある点まで。それは充分でしょうか?

ゴト: Kは自分で生の中の聖なるものについて探求し、話してくれました。

質問: (聞き取れず)

クリシュナムルティ: 彼らをして破壊させましょう。彼らは破壊しています。

質問: (聞き取れず)

クリシュナムルティ: 彼らは世界を破壊しています。全ての政治家は一緒になって世界を破壊しています。私たちは何をしようとしているのでしょう―彼らを一掃しますか? あなたと私は彼らに対して投票します―90%の人々はその種のことを望んでいます。彼らは権力、地位、名声を望んでいます。私たちは、私達自身のハートを変えることなしに、他人のハートを変えることを望んでいます。他人について悩むことなく、あなた自身で始めてください。それは決まり文句に聞こえますがそうではありません。

ゴト: この質問は政治権力を持っているものにどう関係すればいいかという事だったのでしょうか。

質問: 私はある点を明らかにしたいのです。あなたは、私はそう思うのですが、何も神聖ではないと言いました。そしてそのときあなたは快楽の追求について言い始め、私はどんなふうにしてあなたがそれを結び付けたかわかりませんでした。

クリシュナムルティ: 私はそれを覚えていません、あなた。私はそれを繰り返すことができません。

質問: あなたは聖なるものへの探求を話していました。そのときあなたは続けて、何も神聖でないと言いました。

クリシュナムルティ: 知っています―わかりました。理解しました。見てください、あなた。幸福や大きな喜びがあるとき、あなたはたくさん学びます。心が幸福で、くつろいで、喜んでいるときのみ、あなたはたくさん学びます。そして聖なるものを探求する中で、たぶんあなたが見る一瞬、心が何ものであることもなしに、それ自身を完全に見る一瞬があります。その瞬間はもっとも途方もない瞬間です。そしてそれを見て、思考がやってきて「私はそれをもっと持たなければならない」と言います。そしてそれが快楽の始まりです。喜びではなく。おわかりですか? 喜びは快楽を超えた何かです。しかし一度香りをかぎそれを味合うとき、思考は「私はそれをもっと持たなければならない」と言います。これを知っていませんか? あなたはセックスを持ちました。そして一度でもそれを持ったなら思考が「それを続けよう」と言います。美しい夕焼けを見、その瞬間思考はまったくありません。完全なその美しさの喜びがあります。そのとき数分おくれて思考がやってきて、「あの山に戻ろう、それはそんなに素晴らしいものだった」と言います。それゆえ思考は常に苦痛を避け、快楽を追求しているのです。これは非常に単純です。

聖なるものを見出すためには、心はそれ自身の全部の内容を知らなければなりません。そしてその内容が意識をつくります。おわかりですか、あなた。意識はその内容です。内容がないなら他の何かがあります。ないでしょうか? 私の心の内容が悩み、憤り、成就を望むこと、苦しさ、心配、恐怖、そんなにも多くの事への恐れ、これやあれをしたいと思うことであるなら、それが私の意識の内容です。内容がないとき、まったく違った何かがあります。そして私たちは内容の一つを聖なるものにしようとします。おわかりですか? それが全部の内容、意識や無意識を知らなければならない理由です。そしてそれは別の問題です。

ゴト: この最後の質問に、Kは思考が意識の内容の一つを聖なるものにしようとすることを、つまり快楽として手に入れようとすること、それゆえそれに聖なものはないことを含みの多い形で答えてくれました。これで補足的質問も併せて今回の公開対話話は終了しました。

(訳者: N.Goto)2001.04.掲載


[24775] 変質の催促 投稿者:外野席 投稿日:2017/11/10(Fri) 09:11  

> http://jiddu-krishnamurti.net/jp/krishnamurti-the-urgency-of-change/krishnamurti-the-urgency-of-change-01-awareness


こういうクリシュナムルティ関連のサイトがあるとは知りませんでした。さがせばあるものですね。南方さんありがとうございます。
いろんな方が訳されています。

以下引用

変質の催促
ジッドゥ・クリシュナムルティ
目次
変質の催促’気づき’
変質の催促‘神はいますか?’
変質の催促’怖れ’
変質の催促’この世界にどう住むか
クリシュナムルティ日本語

クリシュナムルティの検索ページ。 >>>

変質の催促

変質の催促’気づき’

質問者:あなたは「気づき」こそがあなたが教えようとしていることだとよく言いますが、気づきとは何でしょうか?私はあなたの話を聞いたり本を読んだりして理解に努めてきましたが、まだよく分かりません。それが修行でないことは知っていますし、修行も反復練習も思想体系も戒律も日課も全く関係ないとあなたが言う理由を理解しています。私はその重要性が分かっています、というのもそうでなければそれは機械的になり、しまいに心が鈍く愚かになりますから。できればあなたと一緒にこの気づきが何を意味するかという疑問を最後まで探求させて下さい。あなたはこの語に幾つかの特別で深い意味付けをしているようですが、依然として私には誰でも常に何が起きているか気づいているように見えます。私は自分が怒るとき怒っていることを知っていますし、自分が悲しいとき悲しんでいることを知っていますし、自分が喜ぶとき喜んでいることを知っています。

クリシュナムルティ:怒りや悲しみや喜びに私たちが本当に気づいているのだろうかと思います。又はそれらが完全に過ぎ去った時にのみこれらのことに気づくのでしょうか?何一つ知らないゼロの状態から始めてみましょう。自説を譲らぬ主張も、捉え所のない主張も、いかなる主張もせずにこの疑問を探求しましょう、もし本当にとても深く辿り着けたならその心がおそらく至ったことのない驚くべき状態を、表面の気づきでは至り得ない側面を明らかにするこの疑問を。その表層から始めてやり遂げましょう。私たちは自分の目で見て、五感で周りのものを感じます-その花の色、その花の上のそのハチドリ、このカリフォルニアの太陽の光、いろいろな音色や音量の無数の音、奥行きや高さ、木の陰やその木そのもの。私たちは同様に自分自身の体を感じます、体はこれら様々な種類の表面、感覚を認識する道具です。もしこれらの認識が表面にとどまるなら何一つ混乱しません。あの花、あのパンジー、あの薔薇は、そこにある、それだけのことです。好みも比較も好き嫌いも無く、何らの心理的な関わり合いもなく私たちの前にあるだけです。この表面の知覚の認識又は気づきは明らかでしょうか?それは現代科学の全ての機器を利用して、星々にも、海の底にも、科学的観察の最先端にも広げられ得ます。

質問者:はい、理解していると思います。

クリシュナムルティ:つまりあなたは、その薔薇と宇宙と人々が、もし結婚なさっているなら奥さんが、星々が、海が、山々が、微生物が、原子が、中性子が、この部屋が、そのドアが、本当にあると分かっています。では次の段階;これらのものについてあなたが考えたり、その方たちについてあなたが感じることは、それらやその方たちに対するあなたの心理的反応です。そしてこれを私たちは思考とか感情と呼びます。そういうわけで表面の気づきはとても単純な問題です:そのドアがそこにあります。でもそのドアの説明はそのドアではありませんし、あなたが感情的にその説明に関わりあうとき、あなたにはそのドアが見えません。この説明は一言かもしれませんし科学論文かもしれませんし強く感情のこもった受け答えかもしれません;これらの何一つとしてそのドアそのものではありません。このことは初めから正しく理解するためにとても重要です。もし私たちがこれを理解しないなら混乱を深めるでしょう。説明は説明されるものとは決して違います。今でも私たちは何かを説明していますが、そして私たちにはそうする必要がありますが、私たちが説明しているものは私たちの説明そのものではありません、ですのでこの会話を通して正しく心に留め置いて下さい。言葉をそれが説明するものと決して混同しないように。言葉は決して現実ではありません、問題が私事になり、言葉によって感情的になってしまう気づきの二番目の段階では、私たちは簡単にわれを忘れます。

そういうわけでその木の、その鳥の、そのドアの表面の気づきがあり、それに対して思考や感覚や感情といった反応があります。さて私たちがこの反応に気づき始めるとき、私たちはそれを気づきの第二段階と呼べましょう。その薔薇について気づきがあり、その薔薇に対する反応について気づきがあります。しばしば私たちはその薔薇に対するこの反応に気づきません。現実には同じ気づきがその薔薇を見て、この反応を見ます。これは一つの動作であり、外的な気づきとか内的な気づきとか言うのは間違いです。その木を見ていかなる心理的な関わり合いも持たなければ、関係に分離はありません。でもその木に対する心理的な反応があれば、その反応は条件付けられた反応であり、それは過去の記憶や経験の反応であり、その反応は関係の分離です。この反応が私たちが関係において「私」とか「私以外」と呼ぶことになるものの始まりです。これはあなたがどのようにご自身を世界と関係づけるかということです。これはあなたがどのように個人と共同体を考案するかということです。世界はあるがままではなく、記憶の「私」との種々の関わりにおいて見られます。この分離が「私」の人生であり、私たちが心理的なことと呼ぶ全てのことの百花繚乱であり、ここから全ての対立や分断が生じます。あなたはこれに気づいていることがはっきりしていますか?その木の気づきがあるとき、評価はありません。でもその木に対する反応があれば、その木が好き嫌いで判断されれば、この意識の中に「私」と「私以外」として、観察される対象とは違う「私」として分離が起きます。この「私」は、関係において、過去の記憶や経験の反応です。では、いかなる審査も伴わないその木の気づきや観察はあり得るでしょうか、いかなる審査も伴わない反応や反動の観察があり得るでしょうか?こうして私たちは分離の原理-「私」と「私以外」の原理-を根絶します、その木と私たち自身の両方を見ることによって。

質問者:あなたについてゆけるよう頑張っています。私が正しく理解したか確認しましょう。その木の気づきがあります、これは理解しています。その木に対する心理的反応があります、これも理解しています。心理的反応は過去の記憶や経験によって作り上げられます、それは好き嫌いであり、その木と「私」に分離します。はい、私は全て理解していると思います。

クリシュナムルティ:これはその木そのものほどにはっきりしていますか、又は単純に説明が分かりやすいということでしょうか?覚えておいてください、私たちが既に言ったとおり、説明されることは説明ではありません。あなたは何を得たのでしょうか、そのことでしょうか、それともその説明でしょうか?

質問者:そのことだと思います。

クリシュナムルティ:したがって事実を見ての説明に「私」は登場しません。あらゆる事実を見る中に「私」はありません。「私」か見るかのどちらかしか存在せず、この二つは両立し得ません。「私」は見ません。「私」は見えませんし、気づけません。質問者:ここで止めてよいですか?その感覚がつかめたように思います、でも十分に理解せねばなりません。明日また来てもよろしいでしょうか?

***

質問者:私はあなたが昨日言ったことを本当に-字面だけでなく-理解したと思います。その木の気づきがあります、その木に条件付けられた反応があります、そしてこの条件付けられた反応は対立です、それは記憶と過去の経験の作用です、それは好き嫌いです、それは偏見です。偏見のこの反応が私たちが「私」とか審査官とか呼ぶものの始まりであることも理解しています。「私」や「私自身」が全ての関係に存在しているのがはっきり分かります。では「私自身」は関係の外にいるのでしょうか?

クリシュナムルティ:私たちは私たちの反応がいかに重々しく条件付けられているかを見てきました。「私」が関係の外にいるかどうかをあなたが尋ねるとき、これらの条件付けられた反応から解放されていない限り思惑含みの質問になります。それはお分かりでしょうか?そういうわけで私たちの最初の疑問は条件付けられた反応の外に「私」がいるかどうかではなく、全ての私たちの感情を含んだ心がこの条件付けから解き放たれ得るかどうかです、どちらが過去でしょう?過去は「私」の方です。現在には「私」は居ません。心が過去と向き合っている限りそこに「私」が居ます、そして心は過去です、心は「私」です。

あなたは心があるとか過去があるとか言えません、それが数日前の過去であれ一万年前の過去であれ。で、私たちは問うています:心は自身を昨日から解放できるか?さて幾つかのことが込み入ってますね?先ず最初に表面の気づきがあります。次に条件付けられた反応の気づきがあります。次に心は過去であり、心はこの条件付けられた反応であるという認識があります。次に心が自身を過去から解き放てるかという疑問があります。そしてこの全てが気づきの単一の働きです、というのもこれに終わりはないからです。私たちが心は過去だと言うとき、この認識は言葉で表現された結論ではなく現在の事実の認識です。フランス人は事実のこのような認識を表す言葉を持っています、それをconstatationと彼らは言います。心が過去から解き放たれ得るかどうかを私たちが問うとき、あのまさに過去である審査官-「私」-がこの疑問を問うているのでしょうか?

質問者:心は過去から解放され得るでしょうか?

クリシュナムルティ:誰がその疑問を提起しているのでしょうか?非常に沢山の対立、記憶、経験の責めを負う存在でしょうか-問うているのは彼でしょうか-又はこの疑問は自ずと生じたのでしょうか、事実の理解の外側に?もしその疑問を提起しているのが傍観者だとしたら彼は自ずと事実から逃げようとしています、というのも傍観者は言います、私は長らく苦痛やトラブルや悲しみの中で生きてきた、私はこの終わりの無いもがきを越えて行きたい。もし傍観者がその目的で疑問を問うのなら、答えは何らかの逃げ道へと避難するでしょう。人は事実に背を向けるか、直視するかです。そして言葉も象徴も事実に後ろ向きです。実際、単にこの問いを発すること自体が既に逃げのふるまいですよね?この疑問が逃げのふるまいか否かに気づきましょう。もしそうなら、それは雑音です。傍観者がいなければ、そこには静寂があり、全ての過去の完全な打ち消しがあります。質問者:私は迷子になってしまいました。どのようにすれば数秒で過去を拭い去れるでしょうか?

クリシュナムルティ:私たちが気づきについて話していることを心に留め置きましょう。私たちは協力して気づきについての疑問を話し合っているのです。

その木があります、そしてその木に条件付けられた反応があります、それは関係における「私」であり、対立のまさに中心である「私」です。ではその疑問を問うているのはこの「私」でしょうか?-「私」が、既に私たちが言ったとおり、まさに過去の仕組みである「私」が問うているのでしょうか?もしその疑問が過去の仕組みから問われているのでなければ、もしその疑問が「私」によって問われているのでなければ、過去の仕組みはありません。その仕組みがその疑問を問うとき、自ずと事実との関係に向き合い、自ずとぎょっとして自身から逃げ出すために行動します。この仕組みがその疑問を問わないとき、それは自身との関係において行動していません。要点を繰り返します:その木があります、その言葉があります、その木に対する反応があります、それは審査官、もしくは「私」で、過去から来ます;そして疑問があります:私はこの騒ぎともがきの全てから逃れられるのか?もし「私」がこの疑問を問うているなら、この問いは「私」をそのままにしておきます。

では、それに気づいたので、「私」は疑問を問いません!気づいて、その言外の全ての意味が分かったので、疑問は問われ得ません。「私」は全く問いません、というのも罠が見えるからです。ではこの気づきの全てが表面的なのが分かりますか?これはその木を見る気づきと同じです。

質問者:他の種類の気づきはありますか?気づきに他の側面はありますか?

クリシュナムルティ:もう一度、慎重になりましょう、何かの目的を持ってこの疑問を問うているわけではないことをはっきりさせましょう。もし目的があるなら、条件付けられた反応の罠に逆戻りです。傍観者が完全に静かなとき、静かにさせられているのではないとき、よもや別種の気づきが生じますか?

質問者:傍観者がないとどんな行為があり得ますか-どんな疑問やどんな行為が?

クリシュナムルティ:もう一度、あなたは川のこちら側からこの疑問を問うているのですか、それとも向こう岸からですか?もしあなたが向こう岸にいるのなら、この疑問を問わないでしょう;もしあなたが向こう岸にいるのなら、あなたの行為は向こう岸からでしょう。そういうわけでこちらの岸の気づきがあります、その全ての仕組み、その本質、その全ての罠とともに、そして罠から逃れようとすると別の罠にはまります。その全てのなんと一本調子なこと!気づきは私たちに罠の本質を示しました、これゆえ全ての罠に対する拒絶があります;そういうわけで心はもはや空っぽです。それは「私」の空っぽであり、罠の空っぽです。この心には異なる特徴が、気づきの別の側面があります。この気づきは気づいていることに気づきません。

質問者:何てことだ、これは難しすぎます。あなたは真実のようなことを言っている、真実に聞こえることを言っている、でも私はまだそこに至らない。違った切り口で言ってもらえませんか?私の罠から私を押し出してもらえませんか?

クリシュナムルティ:誰もあなたをあなたの罠から押し出せません-どんな導師も、どんな麻薬も、どんな呪文も、誰も、私自身も入れて-誰も、特に私自身は。あなたに必要なのは最初から最後まで気づくことだけです、途中で無頓着にならずに気づくことだけです。気づきのこの新しい特徴は注意です、そして注意の下には「私」によって作られる新境地はありません。注意は徳の最高の姿です、ゆえにそれは愛です。それはこの上ない知性であり、これらの人為的な罠の仕組みや本質にもし敏感でなければ注意はあり得ません。


南方氏
>>> これでゴトさんがただ見るということの言っている意味が理解できました。
> ようするに判断・解釈以前の気づきをただ見ることとおっしゃっているのですね。


ここのクリシュナムルティの文章をよく読めばわかりますが、ゴトさんのいう「ただ見る、聞く」というのと、ちょっと、言ってることの質が違います。意識レベルがまったく違う。
クリシュナムルティのいってることを理解するのは、あまりにも体験不足、力量不足だということです。他者のクリシュナムルティ関連の文献を見ればわかります。


[24774] Re:[24773] [24772] [24770] [24769] [24767] [24764] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/11/10(Fri) 07:24  

> > > > 私の言う「ただ見る」を追っかけて、直接の知覚・気づきのようなものだととらえてくださったようで、どうもありがとうございます。
> > > >
> > > > 心の状態について話し合えるといいですね。
> > >
> > >
> > > 今朝がた気づいたのですが、Kを読んで世の中と不調和になっている自分の心が何故そうなったのかと観察、実験していました。それでKを教えとしてではなく実際のことを言っているかどうかと思いましたが、まだ確証はできませんが実際のことを言っているのかな・・・という段階で止まっておいて自分で確認することにします。
> > >
> > > そしてKを読んで、ああ世の中はこうだと判断、解釈して絶望している自分に気づきました。Kは判断、解釈なしに実際を見なさいといっていますが。
> > >
> > > ここのところはどうですか?
> > >
> >
> > 判断、解釈なしに実際を見ているは、短く言えば、ただ見ているであり、そこから理屈抜きに行為が出てくるというふうに、割合単純に生きています。この掲示板に書くときはかなり考えが浮かばないで探している時間が多いです。
>
>
> ただ見ているは感情が無いですか?
>
> 感情が揺さぶられる時、判断解釈が生じてます。なくすと感情が消えます。それは喜びでも楽しみでも注意が必要ですね。

感情が何を指すかが問題ですが、判断から生じる怒りとか好き嫌いという感情なら、それは反応ですからありません。あるなら、ただ見ることができない感じですが。

ただ自由に見ている時のフィーリングのようなものがあるときもある気がします。


[24773] Re:[24772] [24770] [24769] [24767] [24764] 無題 投稿者:南方 投稿日:2017/11/09(Thu) 18:34  

> > >
> > > 私の言う「ただ見る」を追っかけて、直接の知覚・気づきのようなものだととらえてくださったようで、どうもありがとうございます。
> > >
> > > 心の状態について話し合えるといいですね。
> >
> >
> > 今朝がた気づいたのですが、Kを読んで世の中と不調和になっている自分の心が何故そうなったのかと観察、実験していました。それでKを教えとしてではなく実際のことを言っているかどうかと思いましたが、まだ確証はできませんが実際のことを言っているのかな・・・という段階で止まっておいて自分で確認することにします。
> >
> > そしてKを読んで、ああ世の中はこうだと判断、解釈して絶望している自分に気づきました。Kは判断、解釈なしに実際を見なさいといっていますが。
> >
> > ここのところはどうですか?
> >
>
> 判断、解釈なしに実際を見ているは、短く言えば、ただ見ているであり、そこから理屈抜きに行為が出てくるというふうに、割合単純に生きています。この掲示板に書くときはかなり考えが浮かばないで探している時間が多いです。


ただ見ているは感情が無いですか?

感情が揺さぶられる時、判断解釈が生じてます。なくすと感情が消えます。それは喜びでも楽しみでも注意が必要ですね。


[24772] Re:[24770] [24769] [24767] [24764] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/11/09(Thu) 17:33  

> >
> > 私の言う「ただ見る」を追っかけて、直接の知覚・気づきのようなものだととらえてくださったようで、どうもありがとうございます。
> >
> > 心の状態について話し合えるといいですね。
>
>
> 今朝がた気づいたのですが、Kを読んで世の中と不調和になっている自分の心が何故そうなったのかと観察、実験していました。それでKを教えとしてではなく実際のことを言っているかどうかと思いましたが、まだ確証はできませんが実際のことを言っているのかな・・・という段階で止まっておいて自分で確認することにします。
>
> そしてKを読んで、ああ世の中はこうだと判断、解釈して絶望している自分に気づきました。Kは判断、解釈なしに実際を見なさいといっていますが。
>
> ここのところはどうですか?
>

判断、解釈なしに実際を見ているは、短く言えば、ただ見ているであり、そこから理屈抜きに行為が出てくるというふうに、割合単純に生きています。この掲示板に書くときはかなり考えが浮かばないで探している時間が多いです。


[24771] Re:[24768] [24763] [24760] 生の中の聖なるもの(3) 投稿者:宮啓 投稿日:2017/11/09(Thu) 11:52  

> 前中半を思い切って省略し、ここぞと思うところに縮めました。
>
> > >昼の間、私の一日は妨害された生存です。−−、生の自然の流れが妨害されている。
>
> そうです。人はなかなか、十分高いエネルギー状態で応答できません。
>
> 中略
>
> >  >うまく処理すべき無秩序がありませんか?    いいえ、ありません。−−、ここが洞察のしどころのようです。>あなたがうまく処理していることが無秩序です。−−、無秩序を「感受」したとき、「思考」が対抗します。感情に対抗する思考。教師はそうします。親はそうします。それが破壊のようです。大サーカス地獄。
>
> そうですね。人は見て対応が出る状態に、まれにしか入りません。
>
> > > クリシュナムルティ: 私が言うことをよく聞いてください―あなたはあなたの無秩序に気づいています。無秩序は基本的に矛盾を意味します。それは「あるがままのもの」に直面しないこと、見ないこと、そして「あるがままのもの」から離れることです。「あるがままのもの」から離れるとき、それが無秩序です。それを超えようとするとき、それが無秩序です。それを抑圧しようとするとき、それが無秩序です。しかし、あなたが「あるがままのもの」を見るとき、あなたはそれを超えるためのすべてのエネルギーを持ちます。それが秩序です。わかりましたか―私の言葉の上の説明ではなく、実際に、それに真剣に取り組みましたか。
> > >
> > > ゴト: 無秩序にどう向き合うか明確に述べられました。真剣に取り組んだか!とも。
> > > 真剣に見ることは、ほかのあらゆることを吹き飛ばす高いエネルギーの現前です。(このことが脳科学的にどういう状態を意味するのだろうか?)
> >
> >
> >  子供はそのエネルギーで泣き出します。泣きはらした後、すっきりしている。そのエネルギーのことかもしれません。違うかもしれません。
>
> 私にもわかりません。何とか変えようとしているのか、悲痛ととどまっているのか?……。私は孫を預かった時のことを思い出して言っているのですが。母親から離れるのがとても耐えがたく感じる時期があるようです。
>
> >
> > > クリシュナムルティ: 待ってください―それをどこまでも追求しましょう。ひとは小さなことについて妥協できます。しかし戦争は国家主義、原因の一つ、によって引き起こされるという事実が見えるとき、妥協がありますか? そこに何かの妥協がありますか?
> > >
> > > 質問: はい。
> > >
> > > クリシュナムルティ: 何ですって?
> > >
> > > 質問: はい。あなたが戦わないなら、結果は彼らがパスポートと国籍を取り上げます。
> > >
> > > クリシュナムルティ: そのときはパスポートを取り上げさせましょう。しかし幸運にも彼らは私に一つ与えました。そしておまえは旅行できないと言うなら、よろしい、私は旅行しません。私はいるところに留まります。
> > >
> > > 質問: しかし私は飢えるかもしれません。
> > >
> > > クリシュナムルティ: 飢えるなら飢えます。よろしい―あなた方はひどく脅えています。移りましょう。それで私は生活、昼間の生活、目がさめている時間の中に秩序をもたらしました。秩序があり、したがって脳は絶対的に静かであり、その状態の中で腐敗しません。そして目が覚めるとき、活力が得られました―それはあなたのものではなくて、私が言っていることです。
> > >
> > > ゴト: 妥協の問題は些事についてはいいですが、事が「人間であることの条件」であるとき、黙らざるを得ないこととなります。それでKは話しを移します。
> >
> >
> >  子供は妥協できる事柄では泣きだしません。
>
> ああ、そうですか、ええ。
>
> >
> > > クリシュナムルティ: さて、私は知らないので調べています―私は瞑想を調べています。それは何を意味するのでしょうか? 私は最初に、心は絶対的に静かでなければならないことを見ます。なぜならそれが静かでないなら、明確に見ることができないからです。それがすべてです。(続く)
> >
> >
> >  >あなたが「あるがままのもの」を見るとき、あなたはそれを超えるためのすべてのエネルギーを持ちます。それが秩序です。−−、そのとき静かな心がある。
>
> そう、それは神秘的な、あるいは特別な状態ではなく、はっきりと目が覚めたような、しゃんとした注意ある状態で、日常生活の中で現れることのできるものです。


 要約いただきありがとうございます。

 >そうですね。人は見て対応が出る状態に、まれにしか入りません。−−。私の場合は、まだ、「その場で見て対応できる」や「日常生活の中で現れることのできるもの」というレベルではないようです。

 夜寝る前や休日、ドタバタしていないとき、比較的心が落ち着いているときに、内側を探索し、バックグランドのタスク(無意識の思考)を探ります。タスクを見つければ、見ることによってタスクを終了させていきます。
 なかなか終了しないタスクは、さらにそのバックグランドまで探ります。それを探り当て、見ると大きなエネルギーとともに終了するようです。その後は、静かな精神の祝福とともに眠りにつくことができるようです。


[24770] Re:[24769] [24767] [24764] 無題 投稿者:南方 投稿日:2017/11/09(Thu) 10:43  

>
> 私の言う「ただ見る」を追っかけて、直接の知覚・気づきのようなものだととらえてくださったようで、どうもありがとうございます。
>
> 心の状態について話し合えるといいですね。


今朝がた気づいたのですが、Kを読んで世の中と不調和になっている自分の心が何故そうなったのかと観察、実験していました。それでKを教えとしてではなく実際のことを言っているかどうかと思いましたが、まだ確証はできませんが実際のことを言っているのかな・・・という段階で止まっておいて自分で確認することにします。

そしてKを読んで、ああ世の中はこうだと判断、解釈して絶望している自分に気づきました。Kは判断、解釈なしに実際を見なさいといっていますが。

ここのところはどうですか?



[24769] Re:[24767] [24764] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/11/09(Thu) 00:14  

> > http://jiddu-krishnamurti.net/jp/krishnamurti-the-urgency-of-change/krishnamurti-the-urgency-of-change-01-awareness
> >
> >
> > これでゴトさんがただ見るということの言っている意味が理解できました。
> > ようするに判断・解釈以前の気づきをただ見ることとおっしゃっているのですね。
> >
> >
>
>
>
> ちなみに私は価値・判断が出てしまった後の対処法として
> ホ・オポノポノを使ってます。
>
> 価値・判断が出ずただ見ることがずっとできればそれがベストですが、なんせ人間なので判断しないということができない。
> 気づくことはできますが。
> 気づくだけでも結構ですが、その価値観の記憶をクリーニングするということで使用してます。
> ゴトさんから言わせるとカルトっぽいですが。しないよりはましです。

私の言う「ただ見る」を追っかけて、直接の知覚・気づきのようなものだととらえてくださったようで、どうもありがとうございます。

ホ・オポノポノは知らなかったので、ウィキペディアで引きました。南方さんはこういう方面はよく知っている方でいらっしゃるようですね。心の状態について話し合えるといいですね。
私がオカルト的な本で読んでいるのは、バーバラ・アン・ブレナン著「白い手」上下、「光の手」上下ぐらいです。これがオカルトのどういう位置づけにあるのか知りませんが、私の知識のありようの手がかりとして一応書いておきます。



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