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[26008] Re:[25998] [25996] リアリティ 投稿者:宮啓 投稿日:2018/10/12(Fri) 14:36  

> >  − − − 以上引用 − − −
> >
> >
> >  上記が事実か否か。リアリティか?
> >
> >  クリシュナムルティが真実か否かは、ただこのような陳述内容の信ぴょう性のみによる。
>
> その信ぴょう性は何から来るか? 私には言語化なしの実物の理解が、Kの言う記述の指していることと一致するていると確信できるところにあると確信している。しかしまだ疑っている。Kの言説に自分の理解が及んでいないところがまだ残っているから。だがこの生を生きていくには見ることによる実物の理解だけで充分であるから、既知からの自由を最後まで読んで終わりにしようと思っている。老人が生きていくのは身体の世話だけでも大変だから、おしゃべりくらいにして。


 ゴトさんが述べるところの「見るに入る」とは、>言語化なしの実物の理解−−のことであったのですね。
 それゆえ、>この生を生きていくには見ることによる実物の理解だけで充分である−−となるのですね。

 この「言語化なしの実物の理解」は、上記引用文「思考のコントロール」にて、その詳細が記されているところの事柄であったのですね。

 この『既知からの自由』まで、ゴトさんと共に読んでいくことができ、ありがたく思っています。

 多くを学ぶことができそうです。

 本国のクリシュナムルティ理解の第一人者のゴトさんに感謝しています。

 本国には禅の達人等は多々居ることと思います。

 この「思考のコントロール」では、禅とクリシュナムルティ理解の本質的な相違が記されているようにも思います。

 禅の高僧もなおクリシュナムルティ理解に及ばないのであれば、ゴトさんは世界におけるクリシュナムルティ理解の第一人者なのかもしれません。真理の第一人者。


[26007] 高齢化社会 投稿者:無明 投稿日:2018/10/12(Fri) 13:02  

高齢化社会で、最も深刻な問題は介護の問題。とくに老老介護。長年連れ添ってきた相方のオシメを果たして取り替えられるだろうか?
私は非である。もはや葛藤は避けられぬ。
葛藤なしに生きる、などというのは、寝言、戯言に過ぎぬ。


[26006] Re:[26003] [26000] 思考を観察をする自己とされる自己 投稿者:無明 投稿日:2018/10/12(Fri) 12:51  

> > 後記
> >  真理を得る、実現する、というのは、結局のところ、「真の私(真我)の発見」に尽きるようです。宗教、哲学の目的は結局はここ。汝ゆえに我れあり。

訂正 汝自身を知れ。我ゆえに我あり。
でした。

後記というのは、余計だったようです。個人的な感想。

> >  Kがよくいう「出会う お方」というのは、これ。

これかも? ということです。もちろん憶測。ひょっとしたら真我のことではないか?しかしKは、イメージで言ったかも知れないので、ほんとのところはよくわかりません。
>
> 真我の発見に尽きると言うとき、それは言語化された次元で語ることになり、生きている実物を掴めません。

言っていることがよくわかりません。
そもそも「生きている実物」って何ですか?
あなたは掴んだんですか?
抽象的ですね。


>ともかく生きている実物を見ての言語化抜きの理解を掴んでいないと、言葉上の論義になってしまう恐れがありませんか?

とにかく「生きている実物」って何ですか?
「言語化なしの理解」って何?

例えばの話。桜を見れば、一目で「サクラ」とわかるでしょう。
当たり前ですが。
私たちは毎日、生きている実物を見て暮らしています。
それを見て感じたり、判断したりしているのは私たちの心です。


[26005] Re:[25997] [25994] [25993] [25992] [25991] [25990] [25987] [25985] 科学を絶対信じない 投稿者:無明 投稿日:2018/10/12(Fri) 12:03  

> > 疑問があります。あなたはKの見える聞いた文言に対話しているのですか?
> > ただ本当にそれだけ?
>
> 私は、私の心の動きを見ることがある状態で見ることによって言語化なしの理解が得られることを知りました。

知った?知識ですか?

>これは新しい芽氏との出会いとクリシュナムルティの本を読むことで伝わってきて実現したことです。それを私は実物あるいは実物を知っているというふうに言っています。

知っている?知識ですか?
新しい芽氏は、問うことしか言ってません。
どのように気づいているかです。
余計なことは言いません。
>
> 実物、あるいは実物の理解がわかっていると言語を使ってのコミュニケーションは可能です。言語化なしの実物の理解が自ずと通じます。


実物の理解?
見ればわかるでしょう。即座に。
そんなことは誰でもやっている。だからこうして生きている。
目に見えているものは幻ではない。

>
>
> これで答えになっているでしょうか?


[26004] Re:[26000] 思考を観察をする自己とされる自己 投稿者:南方 投稿日:2018/10/12(Fri) 11:43  

> 質問者
>
> 「想念観察」をする自己とされる自己はいかに区別されうるのですか?
>
> 答え
>
>  自己観察において、「誰が観察者なのか。自己の断片の一つが観察者を装って、他の断片を観察しているのではないか」
>
>  ここでクリシュナムルティが言及する自我の構造は、一方の自己が他方に対して、観察主体として働くことがこともあれば、その逆もあり、実際には区別のしようもない同一の心理として見られているわけです。
>  これが自我の真の構造だとすれば、観察する自己は観察される自己にすぎぬイタチごっこの関係において言葉の上でだけで可能な構造ということになり、自己観察は究極的には成り立たないということになるでしょう。
>  これがその言葉通りのものならば、自己とは実体のない見かけ上の関係にすぎぬということになります。
>
>  こうした見地は実は単純な「心理現象」の観点にほかならず、自我を成り立たせている自我原理そのものについての根本的な哲学原理として言われたものではないでしょう。
>  それが「心理現象」の観点でしかないと言うのは以下の理由からです。
>  それはまさにクリシュナムルティが
> 「私は読書をしている、という思考が実際の読書にかわって現在の体験になる」と述べている通り、ここで言及している「自己観察」とは心理体験の範囲にとどまるものだからです。
>  ところが人々は、心理次元に尽きるレベルで問題にされてしまっている自己観察の問題をそのまま自己原理の次元にあてて解釈しようとしています。
>  自己観察は心理体験としては、どの自己が真の観察者であるかないか言い当てることはできない領域に初めから留まっています。
>  つまりクリシュナムルティは自己観察そのものではなく、あくまで「自己観察者の心理」のついて語っただけにすぎません。
>  ですから、自己観察者の心理として、自己観察はたんにイタチごっこの自己関係でしかない。といったことにもなりかねません。
>  こうした心理を前提にして、
>  「だから自己は見かけ上のものだ」と言ってしまうとすれば、この論法こそが、心理次元の哲学次元へのせっそうのないゆふえんであり、飛躍した移入ということになるのです。
>
>  中略
>
>  「私の中で相争う二人の私がいる」
>  という場合、実は、実はその二人の自己関係を観る真の自己が、その次元から離れたところに存在すると、いうことです。
>
> (注 私がよく例に出す観音様の手のひらで踊る二人の孫悟空)
>  
>  第三番目のこの真の自己の関係の中に解消されているものでなければ、そうした自我の心理構造に還元されたり固定されたりうものではないのです。
>  自我を自我の心理と同じにみるという過ちは西洋の大多数の哲学者に限らず、心理学者に多く見られるものです。深入りすべきではありません、充分な注意が必要です。
>
>  ある人の個人情報紙から引用しました。
>
> 後記
>  真理を得る、実現する、というのは、結局のところ、「真の私(真我)の発見」に尽きるようです。宗教、哲学の目的は結局はここ。汝ゆえに我れあり。
>  Kがよくいう「出会う お方」というのは、これ。
>
>


エサウが身体を司る自分の指導をしてくれます。

ヨセフが自我の部分の自分の指導をしてくれます。

ヤコブが自己の部分の自分の指導をしてくれます。

聖書を秘教的に読むとこのように捉えることができます。




[26003] Re:[26000] 思考を観察をする自己とされる自己 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/12(Fri) 11:43  

> 後記
>  真理を得る、実現する、というのは、結局のところ、「真の私(真我)の発見」に尽きるようです。宗教、哲学の目的は結局はここ。汝ゆえに我れあり。
>  Kがよくいう「出会う お方」というのは、これ。

真我の発見に尽きると言うとき、それは言語化された次元で語ることになり、生きている実物を掴めません。ともかく生きている実物を見ての言語化抜きの理解を掴んでいないと、言葉上の論義になってしまう恐れがありませんか?


[26002] Re:[26001] [25999] [25997] [25994] [25993] [25992] [25991] [25990] [25987] [25985] 科学を絶対信じない 投稿者:南方 投稿日:2018/10/12(Fri) 11:36  

> > > 実物、あるいは実物の理解がわかっていると言語を使ってのコミュニケーションは可能です。言語化なしの実物の理解が自ずと通じます。
> > >
> > >
> > > これで答えになっているでしょうか?
> >
> > 結局人それぞれということでしょうか。。。
> >
> > 普遍的な教えというものがあるとしたら、それはそれで怖い気もしますし、役に立ちそうな気もしますし、正直わからないですね。
> >
> > 僕もKには救われたくちですから。しかしそれから先へ進もうと決めた時、なにかここが陳腐に感じたものですから失礼ながら書き込みをさせて頂きました。
> >
> > Kを極めるのも道なのでしょうか。どうぞお身体には気をつけて。
>
> 返信くださってありがとうございます。
> なお陳腐性があるという事は実物を見ることが徹底して分かっていないという事だと思います。

そうですかねー?私の心はできていると言っていますが。私は人に依存せずに自分の心の面倒は自分でみようと思っています。自分の心を信用せずに何を信用するのか?ゴトさんを?


[26001] Re:[25999] [25997] [25994] [25993] [25992] [25991] [25990] [25987] [25985] 科学を絶対信じない 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/12(Fri) 11:22  

> > 実物、あるいは実物の理解がわかっていると言語を使ってのコミュニケーションは可能です。言語化なしの実物の理解が自ずと通じます。
> >
> >
> > これで答えになっているでしょうか?
>
> 結局人それぞれということでしょうか。。。
>
> 普遍的な教えというものがあるとしたら、それはそれで怖い気もしますし、役に立ちそうな気もしますし、正直わからないですね。
>
> 僕もKには救われたくちですから。しかしそれから先へ進もうと決めた時、なにかここが陳腐に感じたものですから失礼ながら書き込みをさせて頂きました。
>
> Kを極めるのも道なのでしょうか。どうぞお身体には気をつけて。

返信くださってありがとうございます。
なお陳腐性があるという事は実物を見ることが徹底して分かっていないという事だと思います。そこを通り抜けるようなおしゃべりをしたいと思っています。


[26000] 思考を観察をする自己とされる自己 投稿者:無名 投稿日:2018/10/12(Fri) 11:17  

質問者

「想念観察」をする自己とされる自己はいかに区別されうるのですか?

答え

 自己観察において、「誰が観察者なのか。自己の断片の一つが観察者を装って、他の断片を観察しているのではないか」

 ここでクリシュナムルティが言及する自我の構造は、一方の自己が他方に対して、観察主体として働くことがこともあれば、その逆もあり、実際には区別のしようもない同一の心理として見られているわけです。
 これが自我の真の構造だとすれば、観察する自己は観察される自己にすぎぬイタチごっこの関係において言葉の上でだけで可能な構造ということになり、自己観察は究極的には成り立たないということになるでしょう。
 これがその言葉通りのものならば、自己とは実体のない見かけ上の関係にすぎぬということになります。

 こうした見地は実は単純な「心理現象」の観点にほかならず、自我を成り立たせている自我原理そのものについての根本的な哲学原理として言われたものではないでしょう。
 それが「心理現象」の観点でしかないと言うのは以下の理由からです。
 それはまさにクリシュナムルティが
「私は読書をしている、という思考が実際の読書にかわって現在の体験になる」と述べている通り、ここで言及している「自己観察」とは心理体験の範囲にとどまるものだからです。
 ところが人々は、心理次元に尽きるレベルで問題にされてしまっている自己観察の問題をそのまま自己原理の次元にあてて解釈しようとしています。
 自己観察は心理体験としては、どの自己が真の観察者であるかないか言い当てることはできない領域に初めから留まっています。
 つまりクリシュナムルティは自己観察そのものではなく、あくまで「自己観察者の心理」のついて語っただけにすぎません。
 ですから、自己観察者の心理として、自己観察はたんにイタチごっこの自己関係でしかない。といったことにもなりかねません。
 こうした心理を前提にして、
 「だから自己は見かけ上のものだ」と言ってしまうとすれば、この論法こそが、心理次元の哲学次元へのせっそうのないゆふえんであり、飛躍した移入ということになるのです。

 中略

 「私の中で相争う二人の私がいる」
 という場合、実は、実はその二人の自己関係を観る真の自己が、その次元から離れたところに存在すると、いうことです。

(注 私がよく例に出す観音様の手のひらで踊る二人の孫悟空)
 
 第三番目のこの真の自己の関係の中に解消されているものでなければ、そうした自我の心理構造に還元されたり固定されたりうものではないのです。
 自我を自我の心理と同じにみるという過ちは西洋の大多数の哲学者に限らず、心理学者に多く見られるものです。深入りすべきではありません、充分な注意が必要です。

 ある人の個人情報紙から引用しました。

後記
 真理を得る、実現する、というのは、結局のところ、「真の私(真我)の発見」に尽きるようです。宗教、哲学の目的は結局はここ。汝ゆえに我れあり。
 Kがよくいう「出会う お方」というのは、これ。




[25999] Re:[25997] [25994] [25993] [25992] [25991] [25990] [25987] [25985] 科学を絶対信じない 投稿者:南方 投稿日:2018/10/12(Fri) 09:39  

> > 疑問があります。あなたはKの見える聞いた文言に対話しているのですか?
> > ただ本当にそれだけ?
>
> 私は、私の心の動きを見ることがある状態で見ることによって言語化なしの理解が得られることを知りました。これは新しい芽氏との出会いとクリシュナムルティの本を読むことで伝わってきて実現したことです。それを私は実物あるいは実物を知っているというふうに言っています。
>
> 実物、あるいは実物の理解がわかっていると言語を使ってのコミュニケーションは可能です。言語化なしの実物の理解が自ずと通じます。
>
>
> これで答えになっているでしょうか?

結局人それぞれということでしょうか。。。

普遍的な教えというものがあるとしたら、それはそれで怖い気もしますし、役に立ちそうな気もしますし、正直わからないですね。

僕もKには救われたくちですから。しかしそれから先へ進もうと決めた時、なにかここが陳腐に感じたものですから失礼ながら書き込みをさせて頂きました。

Kを極めるのも道なのでしょうか。どうぞお身体には気をつけて。




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