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[25608] Re:[25602] 既知からの自由3−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/06(Fri) 12:09  

> [気付き]
>
>  注意は集中と同じものではありません。集中は排除です。注意は、全的な気付きであり、排除ではありません。私たちは大抵、自分の話している事だけでなく、環境、周りの色彩、人々、木の形、雲、水の動きにも気づいていないように思われます。おそらくそれは私たちが自分自身に、自分自身のとるに足らない小さな問題、観念、快楽、追求、野心に非常に関心があるので、客観的に気づいていないからです。しかもなお私たちは気付きに対して多くのことを話します。かつてインドで私は車で旅行していました。お抱え運転手が運転していて、私は隣に座っていたのです。後ろに三人の紳士がいて非常に熱心に気づきを議論し、私に気づきについて質問していました。そして不運にも運転手がよそを見ていた瞬間山羊を轢いてしまったのですが、三人の紳士はなお気付きを議論していたのです ― 山羊を轢いてしまったことに全く気付かないで。この注意の欠如が、気付いていようとしていたその紳士たちに指摘されたとき、彼らは非常に驚きました。

議論したりしていると他のことには気づかない。それはそうです。でも女性の悲鳴や消防車のサイレンには気づきます。これらは特に注意を喚起する音ですから。他の並みの音では気づかない。そこらは私たちはよく知っています。排除ではない全的な気付きとなるとはてな?、となります。

>  そして私たちの大抵にとって、それは同じです。私たちは外部の物事あるいは内部の物事に気づいていません。もし小鳥、ハエ、葉、あるいは複雑さのすべてを持つ人間の美を理解したいなら、自分のすべての注意を注がねばならず、それは気づきです。そして自分の全部の注意を注ぐことができるのはあなたが気遣うときのみです。それはあなたが理解することを本当に愛しているということを意味します ― その時あなたは自分のハートと心のすべてを、見いだすことに注ぎます。

そんなふうに私はだれを愛しているだろう?・・・

>  そのような気付きは部屋の中で蛇と住んでいるようなものです。蛇のあらゆる動きを見守ります。それが立てる微かな音にも、とても、とても敏感です。そのような注意の状態は全体的なエネルギーです。そのような気付きの中で自分自身の全体が、瞬時に明らかにされます。

蛇を怖がっているのわわかるが、上の文の気づかい、愛はどこにあるのだろう? これは関係のない話なのだろうか? 赤ん坊を気遣っている母親の注意の方がまだしもよく分かるのですが。

>  自分自身を非常に深く見ているとき、より深く進むことができます。「より深く」という言葉を使うとき比較しているのではありません。私たちは比較の中で考えます ― 深いと浅い、幸福と不幸、私たちは常に測り、比較しています。さて浅いまたは深いというそんな状態が自分自身の中にあるでしょうか? 「私の心は浅く、取るに足らず、狭く、限られている」と言うとき、どうやってこれら全てのことを知るのでしょうか? なぜなら自分の心をあなたの、より柔軟で、より能力があり、より聡明で油断のない心と比較したからです。私は自分の取るに足らなさを比較なしに知るでしょうか? 空腹なとき、その空腹を昨日の空腹と比べはしません。昨日の空腹は観念です、記憶です。
>
>  私がいつもあなたを対象として測り、あなたのようであろうと苦闘しているなら、その時は私は、私のあるがままを自分自身で否定しているのです。したがって私は幻想をつくり出しているのです。私が自分自身を分析し、自分についての知識に少しづつ加えたり、国家、救世主あるいはイデオロギーの何であろうが、外観の何かに同一化するときと丁度同じように、比較はどんな形であれ、より大きな幻想とより多くの惨めさに導くという事を理解するとき ― そのような過程はすべてより大きな順応、従ってより大きな葛藤に導くだけであることを理解するとき ― このすべてを見るとき私はそれを完全に捨てます。その時私の心はもはや求めてはいません。これを理解することは非常に重要です。その時心はもはや模索、捜索、探索していません。これは心があるがままの物事に満足しているという意味ではなく、そのような心は幻想を持たないのです。そのような心はその時まったく違った次元の中に移ることができます。私たちが通常その中で生きている次元、苦痛、快楽、恐怖である毎日の生は、心を条件付け、心の性質を制限していて、そして苦痛、快楽、恐怖が去ったときは(それはもはや喜びを持たないという意味ではありません。喜びは快楽とは全く異なる何かです) ― そのとき心は葛藤のない、「他者」の感覚のない、異なる次元の中で機能します。

比較し、測ることを捨てる時、心は別の次元に入ると。

>  言葉の上ではただここまで来ることができるだけです。向こうにあるものは言葉にできません。なぜなら言葉はそのものではないからです。今までは記述し、説明することができましたが、言葉や説明は扉を開けることはできません。扉を開くのは日々の気づきと注意です ― どのように話すか、何を言うか、どのように歩くか、何を考えるかについての気づきです。それは部屋を掃除し、整理しておくのに似ています。部屋を整理しておくことはある意味で重要ですが、しかし別の意味では全く重要ではありません。部屋に秩序は無ければなりませんが、しかし秩序は扉や窓を開かないでしょう。扉を開くのは意欲や欲望ではありません。あなたはどうしてもあの別のものを招くことはできません。あなたができるすべては部屋に秩序を保つことです。それはそれ自体で美徳であり、それがもたらすもののためではありません。正気で、合理的で、秩序正しくあること。その時おそらく、幸運なら、窓が開き、そよ風が入ってくるでしょう。あるいは入らないかもしれません。それはあなたの心の状態に依ります。そしてその心の状態は自分自身によってのみ理解されることができます。それを見守り、そして決してそれを形作ろうとせず、味方せず、反対せず、同意せず、正当化せず、非難せず、判断しないことによって ― それは何の選択もなしに見守ることを意味します。そしてこの無選択の気づきからたぶん扉は開くでしょう。そして葛藤も時間もないあの次元が何か知るでしょう。

葛藤がない。時間がない。それは実現すように思いますが、そして日常生活もできると思いますが、しかし全的な気付き、あるいは全注意の位置づけがよくわからない。何か超常的、神秘的に感じる気がします。母親の幼児に対する気配り、注意ならわかりますが。皆さんのご意見を聴きたいものです。

> (3章 終わり)


[25607] Re:[25604] [25601] [25596] 見る 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/05(Thu) 11:23  

> > > > 1日24時間見るというのは、もちろん誇張した言い方ですが、そのぐらい自分の思考を見張れということです。いつ暴君になるかわからない。いつエゴが顔出すか。イエスの「寝ずの番人」をする。
> > >
> > > <見る、聞くはいつも行われている気がするんですが…
> > >
> > > あの〜、ここのところを確認しておきましょう。
> > > 一般の人の見る、聞くの対象は「外部」です。
> > > 人の話を聞く、鳥の声を聞く。対象は「人」「鳥」。
> > > 全くの当たり前の話です。
> > >
> > > 私たちが話し合っている「見る」「聞く」の対象は「内部」です。
> > > 内部というのは、もちろん私たちの心です。精神世界でいうところの心を見る。(観る)。いわば内観のこと。座禅瞑想というのは、内面で動く心を見るということ。
> > >
> > > 具体的にいうと、鳥の声をを聞く、というとき、鳥の声を聞くと同時に、内部、つまり心に起きる反応を見るということです。

鳥の鳴き声は外部から発している知るが、私たちが見ているのは脳内で意識に浮かんだ、目と頭脳が画像処理をしたノウハウのいっぱい詰まった情報です。心の動き、思考の反応も頭の中に浮かぶので、対ベルギー戦で、日本が2点取った時は、「ええっ! どうなってんの」と仰天したのが外部も内部もなく現場でわかるので、それを同時に感じることなんかあったり前田のクラッカーで、内部とか外部と何でごちゃどちゃ言うのかわからない。

以下略。ここから出発しませんか?


[25606] Re:[25603] [25594] [25587] 既知からの自由 3-1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/05(Thu) 10:46  

> > > [意識・生の全体性]

省略

> > ここには引っかかるところはありません。そのままに聞いています。
>
> わたしには大いにあります。が、ここはそのままにしましょう。

はい、そうしましょう。

> > >  私たちは意識の一つの小さな片隅に没頭しており、それが私たちの生の殆どです。残りは、それを私たちは潜在意識と呼びますが、そのすべての動機、その恐怖、その人種的遺伝的素質を含めて、どうやってその中に入るか知りさえしません。さてお尋ねします、いったい潜在意識というようなものはあるのでしょうか? 私たちはその言葉を好き勝手に使います。私たちはそのようなものが有ることを受け入れ、精神分析者と心理学者のすべての専門的なわけの分からない言い回しが言葉の中にしみこんでいます。しかしそのようなものは有るのでしょうか? そしてそれにこのような途方もない重要性を与えるのは何故でしょうか? 私にはそれは意識的な心と同じように取るに足らない愚かなものだと思われます ― 狭く、頑迷で、条件づけられ、心配しまた卑劣なものであると思われます。
>
> 潜在意識の話はいりません。
> >
> > 意識には近く、感覚、思考、感情が浮かんでは去り、また多様な違った何かが浮かび、去る。この意識は人間の意識であって、主観的に知っているし、他者もほぼ同じような意識を持つという事は関係を通じて確かなことだとして疑わない。
>
> 同じような意識を持つ?
> 同じ人間なら誰でも思い悩む。それはそうですが、人間一人一人考えかた、感じ方が違います。それが「個性」です。

個性というか、差異ぐらいでいいことが多い気がする。

> >  で、この意識を通じて心の入力を知ることができます。
>
> 入力?

入力と出力の両方と書いた気にでいたのだが、入力だけになっていた。呆けたな。
入力は景色や人の言ったことなど。出力は反応や解釈等。これが意識に浮かぶのでわかる。

> >しかし心の中身や構造は知ることができず、推察し仮説を立てることしか現在はできません。したがって潜在意識は仮説です。そして隠れている部分思いも狭く、頑迷で条件付けられ、心配しまた卑劣であるようだという事にはまあ、そう思われます。
>
> ですから潜在意識の話はやめましょう。私たちが問題にしてるのは「表面意識」です。「顕在意識」ともいう。何を思っているかは、表に出さないとわかりません。

はい、そうしましょう。

> > >  そこで単にその一部や断片にではなく、意識の全部の場にすっかり気づいていることは可能でしょうか? 全体に気づいていることができるなら、その時は部分的な注意ではなく、全体の注意でずっと機能しているのです。これを理解することが重要です。何故ならあなたが意識の場全体にすっかり気づいているとき、摩擦がないからです。摩擦があるのはあなたが、思考、感情、行為のすべてである意識を、異なったレベルに分ける時だけです。
>
> で、意識全体に気付いているというのはどういうことですか。わたしはジャングルの例を出しますがそういうことでいいですか?

さあ、それはよくわかりません。そう少しKの話しを聴きたいと思います。

> > 意識全体を眺めることができるか? そのように見ている時摩擦がない? 意識を異なった意識に分ける時摩擦がある??
> >  意識と無意識の間の対立というようなことを言っているのだろうか? よくわからないので先を読みましょう。
>
>
> はい。先に進みましょう。
> >
> > >  私たちは断片的に生きています。事務所で一つのものであり、家庭ではもう一つのものです。民主主義について語り、心の中では独裁的です。隣人を愛することについて語り、でも戦争で彼を殺します。他の部分と無関係に働き、見ている一部があります。自分自身の中のこのバラバラな存在に気づいていますか? 
>
> いえ、気付いていません。
>
> >そしてそれ自身の機能、それ自身の思考を断片にしてしまった頭脳にとって ― そんな頭脳にとって全体の場に気づいていることは可能でしょうか? 意識の全体を完全に、全部見ることは、全的な人間であることを意味しますが、それは可能でしょうか?
>
> さあ、わかりません。
> >
> > 心の中に断片化したいくつかの構造があり、職場や仕事場で使いわけているので矛盾が生じている?、そうかもしれません。そんな頭脳に全体に気づいていることことができるでしょうか?と。
> >
> > >  もし、途方もない複雑さ全てを含めて「私」、自己、の全構造を理解しようとするために、一層づつ覆いを取り、あらゆる思考、感情、動機を調べながら、一歩一歩進むならば、分析的過程に巻き込まれてしまい、数週間、数か月、数年かかるかも知れません ― そして自分自身を理解する過程の中に時間を許すなら、あらゆる形の歪みを認めざるを得ません。なぜなら自分は複雑な存在で、それに連鎖的に作用しているあらゆる種類の圧力、緊張、影響を受け、動き、生きていて、もがき、欲し、拒んでいるからです。それであなたは自分でこれは道ではないことを見いだすでしょう。自分自身を見る唯一のやり方は全的で、即座で、時間を伴わないことを理解するでしょう。
>
> 即座?時間ではなく。
>
> >そして心が断片化されていないときのみ自分自身の全体を見ることができます。全体の中に見るものが真理です。
>
> ?
> >
> > 言っていることがわかってきました。断片化した複雑な心で見る、分析的に調べるのではだめだと言っています。心が断片化していないときにのみ、自自分自身の全体を見ることができると。
> >
> > >  さてそうすることが出来るでしょうか? 私たちの大部分はできません。なぜなら決して問題にそんなに真剣に接近しないし、決して本当に自分自身を見ないからです。決してしません。他人を非難し、物事を言い逃れ、あるいは見ることを恐れています。しかし全的に見るとき、あなたは自分の全部の注意を、自分の全存在、自分自身のあらゆる物、自分の目、自分の耳、自分の神経を傾注するでしょう。そしてその時恐怖の余地、矛盾の余地はなく、したがって葛藤はありません。
>
> ?
> 葛藤がない?

心がバラバラになっていればその間で葛藤、対立があります。統合されていれば葛藤・対立はない。

> > ここでは全体的に見るという事をKは説いてくれました。しかし断片的に生きている私たちにはできそうもありません。どうなりますか?
> >
> > > (続く)
>
> 先に行きましょう。


[25605] 同じ単語に違う訳 投稿者:無明 投稿日:2018/07/05(Thu) 09:51  

同じ単語を片方では自覚する。片方では気づいている。
自覚する、と気づいている、では、全くニュアンスが異なる。

十菱氏の訳
意識の全領域の全てを自覚する

大野氏の訳
意識の全領野に全体的に気づいている。

こでいう全体的に自覚する、と全体的に見る、気づいているでは、意味が違ってしまう。

自覚というのは、例えば出世して課長になったとき、これからは「課長」ということをしっかりと自覚する。
あるいは男として自覚する。男らしさの追求。今置かれた立場を、鮮明にする。その自覚。

気づいているという日本後の使い方は、財布を忘れたことに気づく、に象徴されるように、気づかれる対象があるということ。
何かに気づくというように。鳥の声に気づく。
もちろん鳥の声に焦点があってることが前提。あってないと鳥が鳴いても気づかない。日常でもよく起こる。

このように「自覚」と「気づく」は違う。

私は初め、十菱さんの「自己変革の方法」を購入。その用語の使用法に慣れてしまった。その後、違う方が、「気づいている」と訳されたので、幾分違和感をかんじたものである。

自覚というのは、今置かれた立場を「再確認」するということである。常に自分に問う。



[25604] Re:[25601] [25596] 見る 投稿者:無明 投稿日:2018/07/04(Wed) 19:12  

> > > 1日24時間見るというのは、もちろん誇張した言い方ですが、そのぐらい自分の思考を見張れということです。いつ暴君になるかわからない。いつエゴが顔出すか。イエスの「寝ずの番人」をする。
> >
> > <見る、聞くはいつも行われている気がするんですが…
> >
> > あの〜、ここのところを確認しておきましょう。
> > 一般の人の見る、聞くの対象は「外部」です。
> > 人の話を聞く、鳥の声を聞く。対象は「人」「鳥」。
> > 全くの当たり前の話です。
> >
> > 私たちが話し合っている「見る」「聞く」の対象は「内部」です。
> > 内部というのは、もちろん私たちの心です。精神世界でいうところの心を見る。(観る)。いわば内観のこと。座禅瞑想というのは、内面で動く心を見るということ。
> >
> > 具体的にいうと、鳥の声をを聞く、というとき、鳥の声を聞くと同時に、内部、つまり心に起きる反応を見るということです。
> >
> > それが、ずっと 私たちが話し合ってきた「見る」ということではないですか。
>
>
> そうなんですが、ここに内部、外部という話が入ってきます。内部外部とは何なのかという事が入っています。これが厄介です。

簡単です。目に見えるものが外部です。内部というのは私たちの内面「心・こころ」です。
座禅や瞑想は、この内部を見るために「外部」を遮断します。これを 別名「内観」と云います。
精神世界や宗教をかじっている人なら当たり前の話です。
ところが、精神世界を知らない一般の人には、こういう話は理解できなようです。自分を見ると言ってもチンピンカンプン。

>心が思考と同一化している時、思考は内部のものです。しかし心が思考と同一化していないとき、思考は外部のものです。

はじめて聞きました。何で、いきなり同一化の話が出てくるのですか?
同一化というのは内部の思考の話であって、内部と外部は関係ないでしょう。
自分の思考と同一化というのはあくまで内部の話。
ようするに、外部に見えるものに対し、自分の思考と同一化して見てしまう。
よくある例えで、あるものに対し、赤い色眼鏡をかけて見ると、そにあるものは赤く見える。
思考なしに見えるとは、色眼鏡なしに見ること。あなたがよくいうでしょう。
もう一度言うと、私たちに周囲にあるものには、「対象」です。つまり外部。内部というのは、私たちの心、内面。思考。
私たちがやりがちなのは、その見える対象に対して「思考のベール」をかけてしまうこと。嫌いな人間がいるとすれば「嫌い」というレッテルを貼り付けているにすぎない。それが同一化。事実は人間がいるだけ。

>説明のため同一化という言葉を持ち込んでしまいましたが、そこに何かを感じ取ってください。別の言葉を用いれば、真我が見ている時

?真我は関係ありません。見てるのは自分です。
そこに花があれば、花を見てるには自分です。その花に対し、何だかんだ評価をしているのが自分が繰り出す思考。
それと「分離」というのKの使う心理的概念で、思考が生じなければ、対立するのはなく、「一体」ということです。
実際の事実は相対世界です。

>思考は内部のものか外部のものかという事です。内と外という区別はないという言い方もあります。

思考は当然、内部です。頭の中にある。思考は外部?なんて表現は聞いたことがありません。
哲学でいうと自分の思考イメージというのは、自分自身を対象化したもです。
>
> 次に進みますが、このことをちょっと心に留めておいてください。

クリシュナムルティのいう のは あくまで心理的な思考の言及だけです。心の内部だけの話。これを踏まえて読まないと、混乱します。
その点、飯尾氏は徹底してました。
>
> > それを、いつも行われていると言われてしまうと、話がすすみません。
> > もう一度いうと、私たちが普段やっている見るは、外部を見ています。これは当たり前の話です、このことを話し合っているのではありません。
> >
> > 思考なしに見る、ただ見るというのは、そうしないと内部の声が聞こえないからです。要するに反応を見る。
>
> 思考なしにと言うと、言葉のパラドックスにつかまります。思考なし思考を見るというパラドックスです。しかしただ見るという言い方でわかるなら、もちろんそれでいいのです。

ただ見る、という方では感情が動く内容の時に見る、ということを今回発見しました。やみくもに見る、ということではない。
自分に対して一切の妥協を許さない方なら、ただひたすら見るでもいいでしょう。
私はそういう人を知っている。一切のエゴの妥協がない。
ですから私は、はじめからそういう人の真似は できないと言っている。

それと「思考を見る」という言い回しは使わない。又、思考「が」見るというのも奇妙。

>
> > その反応を見るにはイエスのように常に見てなけれならない。
>
> ええと肩ひじ張って見ているのでなく、心が何も意図することなくただ心がオープンになっていればいいのです。

そうすると、あなたのいう「ひょいと見る」あるいは「ふと見る」ことが可能ということですか?
>
> > 飯尾氏も、言い方を変えて、自分の思考さえ常に疑う、と表現されました。同じことです。ホントかどうか。

自分の思考さえ信用しない。徹底してますね。
>
> 普通反応、つまり気に入っている考えは同一化して素通りになるので、疑ってと注意を喚起したのでしょうか?

ほとんどの人は同一化している。私はこう思う。私はこう感じる。
人がこだわりを持っていることがわかる。核心に触れると守ろうとする。自分が、思考なしに、予備知識なしで聞いていると、人の話がよくわかる。するとその人に聞きたくなる。問いたくなる。質問したくなる。


[25603] Re:[25594] [25587] 既知からの自由 3-1 投稿者:無明 投稿日:2018/07/04(Wed) 18:08  

> > [意識・生の全体性]
> >
> > 自分の条件付けに気づくとき、あなたは自分の意識の全体を理解するでしょう。


条件付けというのは、あなたに言わせれば、意識の一部です。
その一部に気づくとき、何で意識の全体を理解するのですか。
全体を理解するのでなければ、一部は見えません。


>意識は思考が機能しまた関係が存在する全体の場です。全ての動機、意図、欲望、快楽、恐怖、インスピレーション、熱望、希望、悲しみ、喜びがその場の中にあります。

注 インスピレーションいわば霊感の類は違うでしょう。

>しかし私たちはこの意識を活動中のものと潜伏中のもの、上部のものと下の層のものに分けるようになりました ― すなわち、表面の日常の思考、感情、活動のすべてと、そしてその下のいわゆる潜在意識、私たちのよく知らないものです。それは時たまある暗示、直感、夢を通じてそれ自身を表現します。

何で潜在意識の話を出すのですか。ややこしくなるので表面意識だけにしましょう。
>
> ここには引っかかるところはありません。そのままに聞いています。

わたしには大いにあります。が、ここはそのままにしましょう。
>
> >  私たちは意識の一つの小さな片隅に没頭しており、それが私たちの生の殆どです。残りは、それを私たちは潜在意識と呼びますが、そのすべての動機、その恐怖、その人種的遺伝的素質を含めて、どうやってその中に入るか知りさえしません。さてお尋ねします、いったい潜在意識というようなものはあるのでしょうか? 私たちはその言葉を好き勝手に使います。私たちはそのようなものが有ることを受け入れ、精神分析者と心理学者のすべての専門的なわけの分からない言い回しが言葉の中にしみこんでいます。しかしそのようなものは有るのでしょうか? そしてそれにこのような途方もない重要性を与えるのは何故でしょうか? 私にはそれは意識的な心と同じように取るに足らない愚かなものだと思われます ― 狭く、頑迷で、条件づけられ、心配しまた卑劣なものであると思われます。

潜在意識の話はいりません。
>
> 意識には近く、感覚、思考、感情が浮かんでは去り、また多様な違った何かが浮かび、去る。この意識は人間の意識であって、主観的に知っているし、他者もほぼ同じような意識を持つという事は関係を通じて確かなことだとして疑わない。

同じような意識を持つ?
同じ人間なら誰でも思い悩む。それはそうですが、人間一人一人考えかた、感じ方が違います。それが「個性」です。


>  で、この意識を通じて心の入力を知ることができます。

入力?

>しかし心の中身や構造は知ることができず、推察し仮説を立てることしか現在はできません。したがって潜在意識は仮説です。そして隠れている部分思いも狭く、頑迷で条件付けられ、心配しまた卑劣であるようだという事にはまあ、そう思われます。

ですから潜在意識の話はやめましょう。私たちが問題にしてるのは「表面意識」です。「顕在意識」ともいう。何を思っているかは、表に出さないとわかりません。
>
> >  そこで単にその一部や断片にではなく、意識の全部の場にすっかり気づいていることは可能でしょうか? 全体に気づいていることができるなら、その時は部分的な注意ではなく、全体の注意でずっと機能しているのです。これを理解することが重要です。何故ならあなたが意識の場全体にすっかり気づいているとき、摩擦がないからです。摩擦があるのはあなたが、思考、感情、行為のすべてである意識を、異なったレベルに分ける時だけです。

で、意識全体に気付いているというのはどういうことですか。わたしはジャングルの例を出しますがそういうことでいいですか?
>
> 意識全体を眺めることができるか? そのように見ている時摩擦がない? 意識を異なった意識に分ける時摩擦がある??
>  意識と無意識の間の対立というようなことを言っているのだろうか? よくわからないので先を読みましょう。


はい。先に進みましょう。
>
> >  私たちは断片的に生きています。事務所で一つのものであり、家庭ではもう一つのものです。民主主義について語り、心の中では独裁的です。隣人を愛することについて語り、でも戦争で彼を殺します。他の部分と無関係に働き、見ている一部があります。自分自身の中のこのバラバラな存在に気づいていますか? 

いえ、気付いていません。

>そしてそれ自身の機能、それ自身の思考を断片にしてしまった頭脳にとって ― そんな頭脳にとって全体の場に気づいていることは可能でしょうか? 意識の全体を完全に、全部見ることは、全的な人間であることを意味しますが、それは可能でしょうか?

さあ、わかりません。
>
> 心の中に断片化したいくつかの構造があり、職場や仕事場で使いわけているので矛盾が生じている?、そうかもしれません。そんな頭脳に全体に気づいていることことができるでしょうか?と。
>
> >  もし、途方もない複雑さ全てを含めて「私」、自己、の全構造を理解しようとするために、一層づつ覆いを取り、あらゆる思考、感情、動機を調べながら、一歩一歩進むならば、分析的過程に巻き込まれてしまい、数週間、数か月、数年かかるかも知れません ― そして自分自身を理解する過程の中に時間を許すなら、あらゆる形の歪みを認めざるを得ません。なぜなら自分は複雑な存在で、それに連鎖的に作用しているあらゆる種類の圧力、緊張、影響を受け、動き、生きていて、もがき、欲し、拒んでいるからです。それであなたは自分でこれは道ではないことを見いだすでしょう。自分自身を見る唯一のやり方は全的で、即座で、時間を伴わないことを理解するでしょう。

即座?時間ではなく。

>そして心が断片化されていないときのみ自分自身の全体を見ることができます。全体の中に見るものが真理です。


>
> 言っていることがわかってきました。断片化した複雑な心で見る、分析的に調べるのではだめだと言っています。心が断片化していないときにのみ、自自分自身の全体を見ることができると。
>
> >  さてそうすることが出来るでしょうか? 私たちの大部分はできません。なぜなら決して問題にそんなに真剣に接近しないし、決して本当に自分自身を見ないからです。決してしません。他人を非難し、物事を言い逃れ、あるいは見ることを恐れています。しかし全的に見るとき、あなたは自分の全部の注意を、自分の全存在、自分自身のあらゆる物、自分の目、自分の耳、自分の神経を傾注するでしょう。そしてその時恐怖の余地、矛盾の余地はなく、したがって葛藤はありません。


葛藤がない?
>
> ここでは全体的に見るという事をKは説いてくれました。しかし断片的に生きている私たちにはできそうもありません。どうなりますか?
>
> > (続く)

先に行きましょう。


[25602] 既知からの自由3−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/04(Wed) 15:11  

[気付き]

 注意は集中と同じものではありません。集中は排除です。注意は、全的な気付きであり、排除ではありません。私たちは大抵、自分の話している事だけでなく、環境、周りの色彩、人々、木の形、雲、水の動きにも気づいていないように思われます。おそらくそれは私たちが自分自身に、自分自身のとるに足らない小さな問題、観念、快楽、追求、野心に非常に関心があるので、客観的に気づいていないからです。しかもなお私たちは気付きに対して多くのことを話します。かつてインドで私は車で旅行していました。お抱え運転手が運転していて、私は隣に座っていたのです。後ろに三人の紳士がいて非常に熱心に気づきを議論し、私に気づきについて質問していました。そして不運にも運転手がよそを見ていた瞬間山羊を轢いてしまったのですが、三人の紳士はなお気付きを議論していたのです ― 山羊を轢いてしまったことに全く気付かないで。この注意の欠如が、気付いていようとしていたその紳士たちに指摘されたとき、彼らは非常に驚きました。

 そして私たちの大抵にとって、それは同じです。私たちは外部の物事あるいは内部の物事に気づいていません。もし小鳥、ハエ、葉、あるいは複雑さのすべてを持つ人間の美を理解したいなら、自分のすべての注意を注がねばならず、それは気づきです。そして自分の全部の注意を注ぐことができるのはあなたが気遣うときのみです。それはあなたが理解することを本当に愛しているということを意味します ― その時あなたは自分のハートと心のすべてを、見いだすことに注ぎます。

 そのような気付きは部屋の中で蛇と住んでいるようなものです。蛇のあらゆる動きを見守ります。それが立てる微かな音にも、とても、とても敏感です。そのような注意の状態は全体的なエネルギーです。そのような気付きの中で自分自身の全体が、瞬時に明らかにされます。


 自分自身を非常に深く見ているとき、より深く進むことができます。「より深く」という言葉を使うとき比較しているのではありません。私たちは比較の中で考えます ― 深いと浅い、幸福と不幸、私たちは常に測り、比較しています。さて浅いまたは深いというそんな状態が自分自身の中にあるでしょうか? 「私の心は浅く、取るに足らず、狭く、限られている」と言うとき、どうやってこれら全てのことを知るのでしょうか? なぜなら自分の心をあなたの、より柔軟で、より能力があり、より聡明で油断のない心と比較したからです。私は自分の取るに足らなさを比較なしに知るでしょうか? 空腹なとき、その空腹を昨日の空腹と比べはしません。昨日の空腹は観念です、記憶です。

 私がいつもあなたを対象として測り、あなたのようであろうと苦闘しているなら、その時は私は、私のあるがままを自分自身で否定しているのです。したがって私は幻想をつくり出しているのです。私が自分自身を分析し、自分についての知識に少しづつ加えたり、国家、救世主あるいはイデオロギーの何であろうが、外観の何かに同一化するときと丁度同じように、比較はどんな形であれ、より大きな幻想とより多くの惨めさに導くという事を理解するとき ― そのような過程はすべてより大きな順応、従ってより大きな葛藤に導くだけであることを理解するとき ― このすべてを見るとき私はそれを完全に捨てます。その時私の心はもはや求めてはいません。これを理解することは非常に重要です。その時心はもはや模索、捜索、探索していません。これは心があるがままの物事に満足しているという意味ではなく、そのような心は幻想を持たないのです。そのような心はその時まったく違った次元の中に移ることができます。私たちが通常その中で生きている次元、苦痛、快楽、恐怖である毎日の生は、心を条件付け、心の性質を制限していて、そして苦痛、快楽、恐怖が去ったときは(それはもはや喜びを持たないという意味ではありません。喜びは快楽とは全く異なる何かです) ― そのとき心は葛藤のない、「他者」の感覚のない、異なる次元の中で機能します。

 言葉の上ではただここまで来ることができるだけです。向こうにあるものは言葉にできません。なぜなら言葉はそのものではないからです。今までは記述し、説明することができましたが、言葉や説明は扉を開けることはできません。扉を開くのは日々の気づきと注意です ― どのように話すか、何を言うか、どのように歩くか、何を考えるかについての気づきです。それは部屋を掃除し、整理しておくのに似ています。部屋を整理しておくことはある意味で重要ですが、しかし別の意味では全く重要ではありません。部屋に秩序は無ければなりませんが、しかし秩序は扉や窓を開かないでしょう。扉を開くのは意欲や欲望ではありません。あなたはどうしてもあの別のものを招くことはできません。あなたができるすべては部屋に秩序を保つことです。それはそれ自体で美徳であり、それがもたらすもののためではありません。正気で、合理的で、秩序正しくあること。その時おそらく、幸運なら、窓が開き、そよ風が入ってくるでしょう。あるいは入らないかもしれません。それはあなたの心の状態に依ります。そしてその心の状態は自分自身によってのみ理解されることができます。それを見守り、そして決してそれを形作ろうとせず、味方せず、反対せず、同意せず、正当化せず、非難せず、判断しないことによって ― それは何の選択もなしに見守ることを意味します。そしてこの無選択の気づきからたぶん扉は開くでしょう。そして葛藤も時間もないあの次元が何か知るでしょう。

(3章 終わり)


[25601] Re:[25596] 見る 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/04(Wed) 14:51  

> > 1日24時間見るというのは、もちろん誇張した言い方ですが、そのぐらい自分の思考を見張れということです。いつ暴君になるかわからない。いつエゴが顔出すか。イエスの「寝ずの番人」をする。
>
> <見る、聞くはいつも行われている気がするんですが…
>
> あの〜、ここのところを確認しておきましょう。
> 一般の人の見る、聞くの対象は「外部」です。
> 人の話を聞く、鳥の声を聞く。対象は「人」「鳥」。
> 全くの当たり前の話です。
>
> 私たちが話し合っている「見る」「聞く」の対象は「内部」です。
> 内部というのは、もちろん私たちの心です。精神世界でいうところの心を見る。(観る)。いわば内観のこと。座禅瞑想というのは、内面で動く心を見るということ。
>
> 具体的にいうと、鳥の声をを聞く、というとき、鳥の声を聞くと同時に、内部、つまり心に起きる反応を見るということです。
>
> それが、ずっと 私たちが話し合ってきた「見る」ということではないですか。


そうなんですが、ここに内部、外部という話が入ってきます。内部外部とは何なのかという事が入っています。これが厄介です。心が思考と同一化している時、思考は内部のものです。しかし心が思考と同一化していないとき、思考は外部のものです。説明のため同一化という言葉を持ち込んでしまいましたが、そこに何かを感じ取ってください。別の言葉を用いれば、真我が見ている時思考は内部のものか外部のものかという事です。内と外という区別はないという言い方もあります。

次に進みますが、このことをちょっと心に留めておいてください。

> それを、いつも行われていると言われてしまうと、話がすすみません。
> もう一度いうと、私たちが普段やっている見るは、外部を見ています。これは当たり前の話です、このことを話し合っているのではありません。
>
> 思考なしに見る、ただ見るというのは、そうしないと内部の声が聞こえないからです。要するに反応を見る。

思考なしにと言うと、言葉のパラドックスにつかまります。思考なし思考を見るというパラドックスです。しかしただ見るという言い方でわかるなら、もちろんそれでいいのです。

> その反応を見るにはイエスのように常に見てなけれならない。

ええと肩ひじ張って見ているのでなく、心が何も意図することなくただ心がオープンになっていればいいのです。

> 飯尾も、言い方を変えて、自分の思考さえ常に疑う、と表現されました。同じことです。ホントかどうか。

普通反応、つまり気に入っている考えは同一化して素通りになるので、疑ってと注意を喚起したのでしょうか?


[25600] Re:[25595] [25594] [25587] 既知からの自由 3-1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/04(Wed) 14:03  

> > > [意識・生の全体性]
> > >
> > > 自分の条件付けに気づくとき、あなたは自分の意識の全体を理解するでしょう。意識は思考が機能しまた関係が存在する全体の場です。全ての動機、意図、欲望、快楽、恐怖、インスピレーション、熱望、希望、悲しみ、喜びがその場の中にあります。しかし私たちはこの意識を活動中のものと潜伏中のもの、上部のものと下の層のものに分けるようになりました ― すなわち、表面の日常の思考、感情、活動のすべてと、そしてその下のいわゆる潜在意識、私たちのよく知らないものです。それは時たまある暗示、直感、夢を通じてそれ自身を表現します。
> >
> > ここには引っかかるところはありません。そのままに聞いています。
>
>
>  >自分の条件付けに気づくとき、あなたは自分の意識の全体を理解するでしょう。−−
>
>
>  [25550]より引用します。
>
>  (前略)
>
>  現にあるもの「A」があるとします。
>
>  「A」を見て「A’」に見えるとします。
>
>  「A’」は投影(幻想)であり、現実のあるがままは「A」です。
>
>  ここで、「A」⇒「A’」、この投影過程が条件付けの働きではないでしょうか。
>
>  >あなたが木を見て「あれは樫の木だ」、「バンヤンの木だ」と言うときでさえ、木に名づけることは、それは植物学の知識ですが、あなたの心を非常に条件付けているので、あなたと実際に木を見ていることの間に言葉が入ってくるということをわかっていますか? 木と出会うためには手を木に当てなければならないのであって、言葉は木に触れるのを助けはしないでしょう。−−、
>
>  木を「A」、手で触れられることなく知識に収められた木を「A’」と置き換えることができるのではないでしょうか。
>
>  「A」⇒「A’」、ここに条件付けが挟まれている。
>
>
>  私がクリシュナムルティの陳述を聴いて感じることは、現にあるものから外れる投影、イメージ、結論等々は、何らかの条件づけが含意されているように思います。
>
>  −− 以上引用 −−
>
>
>  上記引用文の内容は、一見、論理的思考の結論を述べているように聞こえるかもしれませんが・・。実は、論理的文言を借りて、見えていることを表現することにトライしているのです。
>
>
>  「条件づけに気づくと、自分の意識の全体を理解する」とは、決してオーバー表現ではなく、私たちは、一般的に、現にあるものが見えていないことが含意されているように思います。


そうですね。見えていないと言うか、殆どの場合、見えるとすぐ条件付けに従って解釈、判断して、自然や自分に関係していると思います。


> > >  私たちは意識の一つの小さな片隅に没頭しており、それが私たちの生の殆どです。残りは、それを私たちは潜在意識と呼びますが、そのすべての動機、その恐怖、その人種的遺伝的素質を含めて、どうやってその中に入るか知りさえしません。さてお尋ねします、いったい潜在意識というようなものはあるのでしょうか? 私たちはその言葉を好き勝手に使います。私たちはそのようなものが有ることを受け入れ、精神分析者と心理学者のすべての専門的なわけの分からない言い回しが言葉の中にしみこんでいます。しかしそのようなものは有るのでしょうか? そしてそれにこのような途方もない重要性を与えるのは何故でしょうか? 私にはそれは意識的な心と同じように取るに足らない愚かなものだと思われます ― 狭く、頑迷で、条件づけられ、心配しまた卑劣なものであると思われます。
> >
> > 意識には近く、感覚、思考、感情が浮かんでは去り、また多様な違った何かが浮かび、去る。この意識は人間の意識であって、主観的に知っているし、他者もほぼ同じような意識を持つという事は関係を通じて確かなことだとして疑わない。
> >  で、この意識を通じて心の入力を知ることができます。しかし心の中身や構造は知ることができず、推察し仮説を立てることしか現在はできません。したがって潜在意識は仮説です。そして隠れている部分思いも狭く、頑迷で条件付けられ、心配しまた卑劣であるようだという事にはまあ、そう思われます。
> >
> > >  そこで単にその一部や断片にではなく、意識の全部の場にすっかり気づいていることは可能でしょうか? 全体に気づいていることができるなら、その時は部分的な注意ではなく、全体の注意でずっと機能しているのです。これを理解することが重要です。何故ならあなたが意識の場全体にすっかり気づいているとき、摩擦がないからです。摩擦があるのはあなたが、思考、感情、行為のすべてである意識を、異なったレベルに分ける時だけです。
> >
> > 意識全体を眺めることができるか? そのように見ている時摩擦がない? 意識を異なった意識に分ける時摩擦がある??
> >  意識と無意識の間の対立というようなことを言っているのだろうか? よくわからないので先を読みましょう。

今見ると、すべての事象が起こるとき、判断や解釈なしに見ていられるなら、それをが全体を見ていることであり、摩擦はないのではないか?

> > >  私たちは断片的に生きています。事務所で一つのものであり、家庭ではもう一つのものです。民主主義について語り、心の中では独裁的です。隣人を愛することについて語り、でも戦争で彼を殺します。他の部分と無関係に働き、見ている一部があります。自分自身の中のこのバラバラな存在に気づいていますか? そしてそれ自身の機能、それ自身の思考を断片にしてしまった頭脳にとって ― そんな頭脳にとって全体の場に気づいていることは可能でしょうか? 意識の全体を完全に、全部見ることは、全的な人間であることを意味しますが、それは可能でしょうか?


条件付けに従い判断解釈するとき、断片化しているのではなかろうか?


> > 心の中に断片化したいくつかの構造があり、職場や仕事場で使いわけているので矛盾が生じている?、そうかもしれません。そんな頭脳に全体に気づいていることことができるでしょうか?と。
> >
> > >  もし、途方もない複雑さ全てを含めて「私」、自己、の全構造を理解しようとするために、一層づつ覆いを取り、あらゆる思考、感情、動機を調べながら、一歩一歩進むならば、分析的過程に巻き込まれてしまい、数週間、数か月、数年かかるかも知れません ― そして自分自身を理解する過程の中に時間を許すなら、あらゆる形の歪みを認めざるを得ません。なぜなら自分は複雑な存在で、それに連鎖的に作用しているあらゆる種類の圧力、緊張、影響を受け、動き、生きていて、もがき、欲し、拒んでいるからです。それであなたは自分でこれは道ではないことを見いだすでしょう。自分自身を見る唯一のやり方は全的で、即座で、時間を伴わないことを理解するでしょう。そして心が断片化されていないときのみ自分自身の全体を見ることができます。全体の中に見るものが真理です。
> >
> > 言っていることがわかってきました。断片化した複雑な心で見る、分析的に調べるのではだめだと言っています。心が断片化していないときにのみ、自自分自身の全体を見ることができると。
> >
> > >  さてそうすることが出来るでしょうか? 私たちの大部分はできません。なぜなら決して問題にそんなに真剣に接近しないし、決して本当に自分自身を見ないからです。決してしません。他人を非難し、物事を言い逃れ、あるいは見ることを恐れています。しかし全的に見るとき、あなたは自分の全部の注意を、自分の全存在、自分自身のあらゆる物、自分の目、自分の耳、自分の神経を傾注するでしょう。そしてその時恐怖の余地、矛盾の余地はなく、したがって葛藤はありません。
> >
> > ここでは全体的に見るという事をKは説いてくれました。しかし断片的に生きている私たちにはできそうもありません。どうなりますか?
> >
> > > (続く)
>
>
>  『時間の終焉』にて、「個別的精神」と「普遍的精神」について述べられています。
>
>  クリシュナムルティの上記の陳述における「意識」は、この場合、「普遍的精神」について述べられているように思います。
>
>  この「個別的精神」と「普遍的精神」は、『伝統と神話を超えてDVDブック』にて、ボームとの対話で言葉を換えて出てきます。
>
>  「意識」の断片化とは、上記のクリシュナムルティの陳述においては、「自我」化のことではないでしょうか。。


自我とは何か?、それとはいずれしっかりと取り組む必要がありますね。


[25599] 見る2 投稿者:無明 投稿日:2018/07/04(Wed) 11:10  

おさらい


普通の人は、鳥の声を聞く。
これは人がいつもやっていること。
クリシュナムルティの見るは、鳥の声を聞く「自分」を見る。
これはたやすいことではない。

言い換えると、反応する自分を見る。
飯尾氏流に言い換えると、どのように反応するか、を見る。


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