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[24880] 心を変える瞑想(2) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/03(Wed) 16:08  

心を変える瞑想(2)

K: 宗教は自分自身の心で、聖なるものを理解すること、発見することを意味します。そしてまた、永遠と謂うようなものがあるかどうかを。宗教は美、善を、それはまた卓越を意味するのですが、そして聖なるものを見いだすこと、あるいは出会うことを意味します。そして思考によって触れられていないものの探究を意味します。なぜなら思考は時間であり、思考は測ることであるからです。そして名前がなく、時間のないもの、始めと終わりを持っていないものがあるのかどうか、あるいはないのかどうかを見いだすこと、そのすべてが宗教です。そしてすでに言ったように、その心の性質なしには、それは爆発的であり、黙従的ではないのですが、心のその性質なしにはあなたは絶対に必要である文化、少数の人によってではなく宗教的な心によってもたらされた文化を持つことはできません。それはあなた自身への光、他の人の光でなくあなた自身で見いだした光を意味します。そういったすべてが宗教に含まれています。

ゴト: 宗教というのは知っているようでよくは知らないものの代表のようなものです。それについてKは確固として話し始めました。鋼鉄(はがね)のような言葉で。

K: それゆえ、瞑想は聖なるものの探究です。そしてまた見いだすこと−いや、これらは言葉です、永遠があるかどうかを見いだすことはできません−それを感じること、実際に時間を越えた心のその性質を持つことです。それで、それが私達が一緒にしようとしていることです。私たちは一緒に瞑想しようとしているのではありません、それは別の偽物、想像の、ロマンチックなナンセンスです。しかし、瞑想するとはどういうことか、そして神聖であるそのものに出会い、そこから時間を越えているかも知れないものに移ることのできる、自由の能力を持つということはどういうことか、私たちは一緒に見いだそうとしています。

ゴト: そして瞑想の持つ意義が示されました。

K: これは非常に複雑な問題です。そして複雑なものは、心が実際に非常に単純であるとき、幼稚ではなく、未熟ではなく、単純であるときのみ理解することができます。しかしあなた方の大抵はおそらく本を読んだり、どこかの導師のところに行ったりしました。あるいは瞑想のあなた自身の形を考案したりし、それゆえ既に、あなたが瞑想と呼んでいるものを背負わされています。そして瞑想が何であるか見いだすためには、あなたは探究する必要があります、自分の特定の形の瞑想を脇にやる必要がああリます。さもなければ自分がしていることが本物か虚偽か見いだすことができません。さて、人が聖と呼んでもよいものを探究するためには、あなたはとても、どんな本も、 どんな指導者も、 どんな導師も、 どんな方式の権威も受け入れることはできません。なぜならあなたの心は自由に探究することが、自由に見出すことができなければならないからです。そしてあなたはこれをすることができるでしょうか? あなたがここに座って聞いているときに、瞑想について知っているすべてを脇にやることができるでしょうか? そしてそれは、あなたの心が日課の中で、習慣の中で、機械的に作動しているため非常に困難でしょう。そしてそのように慣れているものを捨てることは、途方もなく困難になります。なぜなら心は機械的に行動するように条件付けられており、この機械的習慣を捨てることは極度に困難であるからです。その危険を見る必要があります。そのとき、あなたがその危険を見るなら、そのときそれは力を持ちません。危険な動物を見るとき、あなたはそれをそのままにしておきます。それは力を持ちません。危険が存在するのはあなたが知らないときだけです。

ゴト: ここで聖なるものの探究、瞑想に伴う危険について話が始まります。この問題は真実と思って幻想につかまる危険があることです。従来からの方法、権威が山ほどあってそれらは自由な心を機械的に鈍磨するばかりです。その危険について確固とした警告がありました、

K: 私は瞑想が何であるか見いだしたい、なぜなら私は、他の人たちがそれについて言ったことを何も知らないからです。そして私は他の人たちがそれについて言ったことを知りたくありません。私が虚栄心が強いということではなく、私がうぬぼれているということではなく、私が最初の経験を持ちたいということではなく、それらの人たちの言うことが妥当性を持っているかどうか知らないからです。彼らは私自身と同様に神経症的で、愚かで、狡猾で、当てにならず、幻想的、幻想に捕えられているかも知れません。私は探究している人間として話しています。私は個人的に自分自身について話していません。それゆえ私は人間、普通の人間です。そして現存する宗教は、その儀式、教義と迷信、権威、そのすべてと共に、正当性、意味、意義をまったく持っていないという実際を見ます。そのような心は「私は見いだしたい、私は瞑想するということはどういうことか見いだしたい」と言います。なぜなら、それはひょっとすると、聖なるものを示現する周囲、環境、雰囲気であるかもしれないからです。そこで私はああいったすべてを脇にやらなければなりません。そしてあなたもそうしていると思います。さもなければ私たちはお互いに伝達することができません。私たちが思考で組み立てたものすべての虚偽をあなた自身で見ない限り。それは、あなたは宗教と呼びますが、まったく何の意味も持っていないのです。そのことを見るなら、そのときあなたはこれらの事柄の中の権威をすべて捨てるでしょう−医師の権威ではありません。警官の権威ではありません。それは法に従っています。しかしあなたはどうしても法に従いません。あなたは利口すぎるのです。法を避けるあらゆる種類の曲がりくねったやり方をつくります。それはあなたの悲惨です。

ゴト: 現存の宗教はすべて、何の正当性、意味、意義も持っていないという実際を見て、それらすべてを捨てる。この確固さを感じます。ここに起こりそうな非難や迷いの記述もあります。ここで再度切ります。


[24879] Re:[24878] [24877] 『英知へのターニングポイント(思考のネットワーク)』 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/03(Wed) 08:42  

> >  『英知へのターニングポイント(思考のネットワーク)』を読み終えました。
> >
> >  後半のアムステルダムトーク(全2回)は、自身の「家」を秩序だて整頓することが、「瞑想」の大前提であるという陳述と、そして「瞑想」について述べられています。
> >
> >  ゴトさんが述べるように、クリシュナムルティの神髄が、本人のダイジェストとして、わずか全2回のみに集約されているように感じます。
> >
> >  1981年アムステルダムトークをご紹介頂き感謝しております。
>
>
> アムステルダム・トークをそのように感じられたとのこと、こちらこそ嬉しく思います。
>
> 実は家の秩序はちゃんとあると思っていました。しかしみんなの体力の衰えと共に炊事掃除洗濯などの家事が今まで通りにはやっていけなくなるとともに、どんどん変わっていかなければならないのですが、あまりにも変化が激しいので、凡人には大変です。
>
> 普通にやっていたことへの執着があるので、維持しようとする苦闘がどうしてもあります。私はそれに気づきますが、家人の方はどうしても無理をし、できないで葛藤します。話すのも耳が遠くなると、おしゃべりそのものが大変なのです。
>
> だから、こうしなければならぬ、こうしたいなどから行為が出ると、すなわち、思考から出る当然とか、目的を経由して行為が出るのが習いとなっていると、変化が起こるとき、摩擦葛藤が生じるのですね。大いに学んでいます。
> 息子は歩いて10分ぐらいのところに住んでいますが、毎日の日常生活には離れていますし、一緒に住むような大邸宅は建てかねます。


 人類は「老い」の苦労があるのですね。ブッダが述べた生老病死の「老」の苦労と察します。

 「人類は『老い』の苦労がある」という現にある事実を知覚すれば秩序があるのだが、「私は特別に『老い』で苦労している」と見間違えると自己憐憫と葛藤という無秩序で、自身の「家」がごったがえす・・ということですね。。

 クリシュナムルティが述べるには、60年かけて、皆さんの家を整頓してきた旨が『英知へのターニングポイント(思考のネットワーク)』で述べられています。


[24878] Re:[24877] 『英知へのターニングポイント(思考のネットワーク)』 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/02(Tue) 23:43  

>  『英知へのターニングポイント(思考のネットワーク)』を読み終えました。
>
>  後半のアムステルダムトーク(全2回)は、自身の「家」を秩序だて整頓することが、「瞑想」の大前提であるという陳述と、そして「瞑想」について述べられています。
>
>  ゴトさんが述べるように、クリシュナムルティの神髄が、本人のダイジェストとして、わずか全2回のみに集約されているように感じます。
>
>  1981年アムステルダムトークをご紹介頂き感謝しております。


アムステルダム・トークをそのように感じられたとのこと、こちらこそ嬉しく思います。

実は家の秩序はちゃんとあると思っていました。しかしみんなの体力の衰えと共に炊事掃除洗濯などの家事が今まで通りにはやっていけなくなるとともに、どんどん変わっていかなければならないのですが、あまりにも変化が激しいので、凡人には大変です。

普通にやっていたことへの執着があるので、維持しようとする苦闘がどうしてもあります。私はそれに気づきますが、家人の方はどうしても無理をし、できないで葛藤します。話すのも耳が遠くなると、おしゃべりそのものが大変なのです。

だから、こうしなければならぬ、こうしたいなどから行為が出ると、すなわち、思考から出る当然とか、目的を経由して行為が出るのが習いとなっていると、変化が起こるとき、摩擦葛藤が生じるのですね。大いに学んでいます。
息子は歩いて10分ぐらいのところに住んでいますが、毎日の日常生活には離れていますし、一緒に住むような大邸宅は建てかねます。


[24877] 『英知へのターニングポイント(思考のネットワーク)』 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/02(Tue) 22:38  

 『英知へのターニングポイント(思考のネットワーク)』を読み終えました。

 後半のアムステルダムトーク(全2回)は、自身の「家」を秩序だて整頓することが、「瞑想」の大前提であるという陳述と、そして「瞑想」について述べられています。

 ゴトさんが述べるように、クリシュナムルティの神髄が、本人のダイジェストとして、わずか全2回のみに集約されているように感じます。

 1981年アムステルダムトークをご紹介頂き感謝しております。
 


[24876] Re:[24875] 心を変える瞑想(1) 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/02(Tue) 16:32  

> 心を変える瞑想
>
> J.Krishnamurti Madras 4th Public Talk 15th December 1974
>
> Meditation Which Transforms the Mind
>
> K: 私たちはこの三週間の間、聞くという問題、見る術と学ぶ術について一緒に話しあってきました。言われていることに少々の注意を払った人たちは、自分の環境、社会的条件、貧困、退廃、人々の集団全部の堕落に気づいたに違いありません。人はこの国が経ている堕落の事実のみならず、また新たに生まれ変わるとはどういうことか、単に思考の玩具に過ぎないのではなく、それ自身にはいり込み、探究し、思考の不幸と破壊的な性質のすべてを持つ思考のすべての運動を、独力で発見することができる心を持つということはどういうことか、気づいたに違いありません。そしてまたそのような心の意味だけでなく、深さと美と実際を理解するためには、宗教とは何かという探究を通じてそれに到達しなければなりません。多分私たちは有益に、宗教でないものを最初に見ることができるでしょう。明らかにそれは思考の産物ではありません。
>
> ゴト: 今ここにいる人は聞くという事、見るすべ、学ぶすべを話し合ってきた人です。この社会の堕落に気づき、思考の破壊的性質を自分の中に入り込んで独力で気づいたに違いないとのこと。
> そして今深さと美を実際に理解するためには、宗教は何かという探究を通じてそれに到達しなければなりませんと。これがこのトークの主旨ですね。
>
> K: 私たちの宗教はすべて、西洋であろうが東洋であろうが思考に基づいています。その救世主、その導師、そのシステム、その信仰と教義、儀式、そして毎日耽る取るに足りない小さな礼式のすべてを伴う宗教的構造の全体は、本質的に思考の産物です。私たちの宗教のすべては思考の運動に、恐怖、希望、そして私たちが存在すると願うものへの信仰の感覚に基づいています。そういったすべては、非常に注意深く念入りに観察するなら、この思考の運動の産物であり、それは物質的です。それゆえこれらの宗教の中には精神的なものは絶対に何もないのです。いいですか?
>
> ゴト: これらの宗教の中には精神的なものは絶対に何もないと厳しく言われています。私の心はシンとなり、沈黙します。
>
> K: 私たちはこういったすべてを共有し、探索しています。受容したり否定したりしているのではなく、共に探究し、それゆえお互いに伝達しています。私たちが自分の私的な思考、意見、判断を持つなら、お互いに伝達すること、交流することはできません。そしてそれは調査することを、探究すること、探査することを不可能にします。そして私たちがいましているように、言葉の上だけでなく言葉を超えて、共に伝達しあっているときは、言葉を、言葉の意味を理解するだけでなく、また言葉の間に横たわっているものを見いだし、行間を読むことができるように努め、言葉の背後にある特別な深い意味を聞くことが必要です。そういったすべてが伝達の中に含まれています。それは生の問題に関わっている真剣な二人の友として、一緒に熟考することです。
>
> ゴト: これは言葉上の議論でなく、探求を共にする重要な事柄です。
>
> K: それで世界の中に進行している事を観察するとき、アラブとユダヤの間、ヒンズーとイスラムの間などなどの政治的、経済的分離の世界の中だけでなく、また様々な宗教をも見るとき、それは決して人類に平和をもたらしませんでした。とんでもない。そしてそれらの分裂、そしてそれらは本質的に思考に基づいているので分裂するに違いありません。それで宗教とは何でしょうか? その言葉で私たちは何を意味しているのでしょうか? 私たちはそうでないものを知っています−宗教の名前で進行するサーカスのすべて。どうか侮辱されたと思わないでください、私たちはただ事実を述べているだけです。すべての教会と寺院とモスク、思考によって組み立てられてきたすべての建物は、美しいけれども−いくつかの礼拝堂、いくつかのモスク、いくつかの寺院は途方もなく美しいのですが、しかしそれは真実とはまったく何の関係もありません。そして人が本当に、言葉の上でなく、そういったすべてを捨てるとき、誰かがそれを捨てなければならないと言うから、あるいはあなたより良く知っているとあなたの感じる誰かが「これは宗教ではない」と言うからではありません、そのときはあなたは捨てていません、それは単に権威を受け入れているに過ぎないのです。そして精神的な事柄であなたが権威を受け入れるとき、それは腐敗、堕落の本質そのものです。いいですか? あなたはなお私と共にいますか? 言葉の上で、それとも実際に?
>
> あなたがそのすべてのナンセンス、それは意味がないということですが、を捨てるとき、そのとき、真剣であるなら、宗教が何を意味するか私たちは見いだし始めることができます。おわかりですか? 儀式、祭式、寺院とあなたが毎日の醜い生活に対する補償として行なう誓い。あなたは寺に行くことを誓い、そして補償としてあらゆる種類のことをします。そういったすべて−信仰、教義、儀式、私的礼拝は、宗教がそうであるものの真実と何の関係もありません。
>
> ゴト: 今行われている宗教的儀式等は権威を受け入れることと関係している限り、何の意味もなく、そこでは日頃の行いの補償的行為があるのだろうかと。
>
> K: そして人がまじめであるなら、宗教は新しい文化の核であるので、宗教なしに文化はありません。そして世界に宗教はないので文化はありません。あなたは美しい絵を持ち、すばらしい文学作品を書き、とても並外れた絵を描き、すばらしい音楽を作曲するかも知れませんが、それは文化ではありません。それは心の新しい性質をもたらしません。そして私たちの周りの世界全体が崩壊、堕落しているとき、私たちは心の新しい性質を必要とします。そして、ある人々がしようとしているように、単に古い宗教を復活させることは無意味です。しかし、そうでなければなりませんが、深く関心がある人間は、もし世界に、 飢餓に、戦争に、崩壊に、偽善に、進行している不正直の全体に関心があるなら、ひとはまったくのまじめさの中で、宗教的な心の真の意義が何であるか見いださなければなりません。なぜなら新しい文化をもたらすことができるのはそのような心だけであるからです。ある宗教的な心ではなく、一人のひとの宗教的な心ではなく、人間の宗教的な心です。それはあなたです、それは一緒にということです。昔は、歴史の中を観察し周りのものごとを見つめたなら、宗教的指導者がありました。その言葉そのものがまさに宗教の否定です−宗教的世界の指導者。おわかりですか? なぜなら宗教的な事柄の中に運動があるとき、その運動そのものが堕落の要因であるからです。なぜならそのときあなたは従っているからです、単に他の人の権威を受け入れているに過ぎないからです。権威の性質と構造を理解するとき、それに洞察をもつとき、精神的な事柄の中には話し手のそれを含めて権威はありません。
>
> ゴト: 新しい文化をもたらす新しい心は宗教的な心です。新しい宗教的権威者の運動ではありません、そこには従う心があるからです。その新しい心は人間の宗教的な心であって、それはあなたです。それは一緒という事ですと。
> この辺あたりまでが序論でしょうか。ここでいったん区切ります。


 宗教や哲学、思考の産物には精神的なものは絶対にない。

 これを聴いて、私たちは思考の産物に依存していることを知ります。

 日本神道や沖縄シャーマニズムの中にも、精神的なものは絶対にない。

 はい。ただし、現世利益はあるように感じます。

 シャーマニズムの現世利益については、『クリシュナムルティとは誰だったのか』に詳述されています。

 現世利益までは否定していない。と受け取りました。


 私たちは、宗教や哲学から得る現世利益(安心・安全等)に依存しがちであり、そして、依存は腐敗を免れ得ないと、クリシュナムルティは述べているようです。

 しかし、その現世利益をなかなか放棄できない。比較的楽に得られる特効薬の働きを有するがゆえに・・。

 比較的楽に日々を過ごし、安楽に生きたい。

 そこに「生」がやってきて、その平穏を破壊するのだろうか・・。

 生の全体性の中に、北朝鮮が含まれていることは、現にある事実だろうか‥。

 私たちは、いずれ死する時が訪れることは、現にある事実だろうか‥。

 これが生の全体性なのだろうか・・。


[24875] 心を変える瞑想(1) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/02(Tue) 13:53  

心を変える瞑想

J.Krishnamurti Madras 4th Public Talk 15th December 1974

Meditation Which Transforms the Mind

K: 私たちはこの三週間の間、聞くという問題、見る術と学ぶ術について一緒に話しあってきました。言われていることに少々の注意を払った人たちは、自分の環境、社会的条件、貧困、退廃、人々の集団全部の堕落に気づいたに違いありません。人はこの国が経ている堕落の事実のみならず、また新たに生まれ変わるとはどういうことか、単に思考の玩具に過ぎないのではなく、それ自身にはいり込み、探究し、思考の不幸と破壊的な性質のすべてを持つ思考のすべての運動を、独力で発見することができる心を持つということはどういうことか、気づいたに違いありません。そしてまたそのような心の意味だけでなく、深さと美と実際を理解するためには、宗教とは何かという探究を通じてそれに到達しなければなりません。多分私たちは有益に、宗教でないものを最初に見ることができるでしょう。明らかにそれは思考の産物ではありません。

ゴト: 今ここにいる人は聞くという事、見るすべ、学ぶすべを話し合ってきた人です。この社会の堕落に気づき、思考の破壊的性質を自分の中に入り込んで独力で気づいたに違いないとのこと。
そして今深さと美を実際に理解するためには、宗教は何かという探究を通じてそれに到達しなければなりませんと。これがこのトークの主旨ですね。

K: 私たちの宗教はすべて、西洋であろうが東洋であろうが思考に基づいています。その救世主、その導師、そのシステム、その信仰と教義、儀式、そして毎日耽る取るに足りない小さな礼式のすべてを伴う宗教的構造の全体は、本質的に思考の産物です。私たちの宗教のすべては思考の運動に、恐怖、希望、そして私たちが存在すると願うものへの信仰の感覚に基づいています。そういったすべては、非常に注意深く念入りに観察するなら、この思考の運動の産物であり、それは物質的です。それゆえこれらの宗教の中には精神的なものは絶対に何もないのです。いいですか?

ゴト: これらの宗教の中には精神的なものは絶対に何もないと厳しく言われています。私の心はシンとなり、沈黙します。

K: 私たちはこういったすべてを共有し、探索しています。受容したり否定したりしているのではなく、共に探究し、それゆえお互いに伝達しています。私たちが自分の私的な思考、意見、判断を持つなら、お互いに伝達すること、交流することはできません。そしてそれは調査することを、探究すること、探査することを不可能にします。そして私たちがいましているように、言葉の上だけでなく言葉を超えて、共に伝達しあっているときは、言葉を、言葉の意味を理解するだけでなく、また言葉の間に横たわっているものを見いだし、行間を読むことができるように努め、言葉の背後にある特別な深い意味を聞くことが必要です。そういったすべてが伝達の中に含まれています。それは生の問題に関わっている真剣な二人の友として、一緒に熟考することです。

ゴト: これは言葉上の議論でなく、探求を共にする重要な事柄です。

K: それで世界の中に進行している事を観察するとき、アラブとユダヤの間、ヒンズーとイスラムの間などなどの政治的、経済的分離の世界の中だけでなく、また様々な宗教をも見るとき、それは決して人類に平和をもたらしませんでした。とんでもない。そしてそれらの分裂、そしてそれらは本質的に思考に基づいているので分裂するに違いありません。それで宗教とは何でしょうか? その言葉で私たちは何を意味しているのでしょうか? 私たちはそうでないものを知っています−宗教の名前で進行するサーカスのすべて。どうか侮辱されたと思わないでください、私たちはただ事実を述べているだけです。すべての教会と寺院とモスク、思考によって組み立てられてきたすべての建物は、美しいけれども−いくつかの礼拝堂、いくつかのモスク、いくつかの寺院は途方もなく美しいのですが、しかしそれは真実とはまったく何の関係もありません。そして人が本当に、言葉の上でなく、そういったすべてを捨てるとき、誰かがそれを捨てなければならないと言うから、あるいはあなたより良く知っているとあなたの感じる誰かが「これは宗教ではない」と言うからではありません、そのときはあなたは捨てていません、それは単に権威を受け入れているに過ぎないのです。そして精神的な事柄であなたが権威を受け入れるとき、それは腐敗、堕落の本質そのものです。いいですか? あなたはなお私と共にいますか? 言葉の上で、それとも実際に?

あなたがそのすべてのナンセンス、それは意味がないということですが、を捨てるとき、そのとき、真剣であるなら、宗教が何を意味するか私たちは見いだし始めることができます。おわかりですか? 儀式、祭式、寺院とあなたが毎日の醜い生活に対する補償として行なう誓い。あなたは寺に行くことを誓い、そして補償としてあらゆる種類のことをします。そういったすべて−信仰、教義、儀式、私的礼拝は、宗教がそうであるものの真実と何の関係もありません。

ゴト: 今行われている宗教的儀式等は権威を受け入れることと関係している限り、何の意味もなく、そこでは日頃の行いの補償的行為があるのだろうかと。

K: そして人がまじめであるなら、宗教は新しい文化の核であるので、宗教なしに文化はありません。そして世界に宗教はないので文化はありません。あなたは美しい絵を持ち、すばらしい文学作品を書き、とても並外れた絵を描き、すばらしい音楽を作曲するかも知れませんが、それは文化ではありません。それは心の新しい性質をもたらしません。そして私たちの周りの世界全体が崩壊、堕落しているとき、私たちは心の新しい性質を必要とします。そして、ある人々がしようとしているように、単に古い宗教を復活させることは無意味です。しかし、そうでなければなりませんが、深く関心がある人間は、もし世界に、 飢餓に、戦争に、崩壊に、偽善に、進行している不正直の全体に関心があるなら、ひとはまったくのまじめさの中で、宗教的な心の真の意義が何であるか見いださなければなりません。なぜなら新しい文化をもたらすことができるのはそのような心だけであるからです。ある宗教的な心ではなく、一人のひとの宗教的な心ではなく、人間の宗教的な心です。それはあなたです、それは一緒にということです。昔は、歴史の中を観察し周りのものごとを見つめたなら、宗教的指導者がありました。その言葉そのものがまさに宗教の否定です−宗教的世界の指導者。おわかりですか? なぜなら宗教的な事柄の中に運動があるとき、その運動そのものが堕落の要因であるからです。なぜならそのときあなたは従っているからです、単に他の人の権威を受け入れているに過ぎないからです。権威の性質と構造を理解するとき、それに洞察をもつとき、精神的な事柄の中には話し手のそれを含めて権威はありません。

ゴト: 新しい文化をもたらす新しい心は宗教的な心です。新しい宗教的権威者の運動ではありません、そこには従う心があるからです。その新しい心は人間の宗教的な心であって、それはあなたです。それは一緒という事ですと。
この辺あたりまでが序論でしょうか。ここでいったん区切ります。


[24874] Re:[24873] 無題 投稿者:宮啓 投稿日:2018/01/01(Mon) 14:37  

> 新年明けましておめでとうございます。本年もどうかよろしく。
>
> 明日から「心を変える瞑想」を読もうと思って、ちらりとホームページを開いたら、「気づき、知覚、洞察の性質」が目に入って読んでしまいました。素晴らしい。こんな文章がこのサイトにはあってのか! 今はよくわかります。注釈はいりません。よかったら読んでください。
>
> 明日からは予定通り「心を変える瞑想」を読みます。


 新年、明けましておめでとうございます。

 さっそく、「気づき、知覚、洞察の性質」をプリントアウトしました。


 今年も、よろしくお願いします。。


[24873] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/01/01(Mon) 10:48  

新年明けましておめでとうございます。本年もどうかよろしく。

明日から「心を変える瞑想」を読もうと思って、ちらりとホームページを開いたら、「気づき、知覚、洞察の性質」が目に入って読んでしまいました。素晴らしい。こんな文章がこのサイトにはあってのか! 今はよくわかります。注釈はいりません。よかったら読んでください。

明日からは予定通り「心を変える瞑想」を読みます。


[24872] 読者の皆様へのご挨拶 投稿者:ゴト 投稿日:2017/12/31(Sun) 17:36  

今年も大みそかを迎えました。年間を通じて自分勝手に喚き散らし、相済みませんでした。

新年1年ぐらいは何とか生きていけるのではないかと勝手に思っています。

ではよい新年をお迎えください。皆様のご愛顧に深く感謝いたします。


[24871] Re:[24870] [24869] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/12/31(Sun) 17:19  

> > とうとう竹田青嗣氏の欲望論を読み終えました。自然科学と違って人文系の学はその立脚点、正当性がどこにありうるか、いまだ不明でここから議論しなければならない状況にある。
> >
> > 上掲書は哲学の歴史を、最近の脳科学に至るまでその成果と過誤を述べて、、哲学の進め方に根本的な改定を加えるものであると私は読みました。
> >
> > 第2巻はそれに従って人間と社会がいかに生成されてきたかを示し、心がいかに生成されるかを論じています。
> >
> > 第3巻は倫理と正義をしっかりした立脚点に基づいて示してくれるとのことですが、刊行が何年後になるか不明とのことです。
> >
> > 哲学の来し方を見ると思考というのは実に迷路に入りやすい代物であるという事がわかります。だがそれによって社会をつくり、動物の生とは異なる生を営んでいます。そこに哲学はどのような秩序をどのようにして創ることができるでしょうか。
> >
> > またKの言っている世界は、竹田氏の言っている世界とどういう関係があるのでしょうか? 今の私にはまだ全然わかりません。
>
>
>  以下は、私の考察です。
>
>  「思考」がクリシュナムルティ的世界を理解するには、とてつもないエネルギーと緻密さを要するのではないでしょうか。
>
>  そして、そのエネルギーと緻密さを「脳」は備えている。
>
>  しかし、そのエネルギーと緻密さが「抜け目ない自我の防衛と快楽」に用いられている。
>
>  その抜け目なさは、竹田氏とて免れ得ていない。
>
>  上記が、>Kの言っている世界は、竹田氏の言っている世界との関係−−ではないでしょうか。


抜け目なさは愚かさというか限界があるのかもしれません。
ともかく哲学の出発点は、生きている人間のこの世界(人間のつくった社会を含む)で、いかに生きるかという点に立っています。
そして戦争のごとく、力のみが支配することをいかに避けるかがいまだに見えていない、倫理、道徳はいまだその立脚点を見出していないことが自覚されています。そのためには革命により支配者の交代を目指すのではなく、倫理道徳の原理が明確にされ人々の共同確信となる事でしか実現はしないと。

そしてその探究は人間が、その日常の正解を生きる中で起きる知覚と感じ、情動、意図を意識しつつ、言語交流の中から審判を受けて明確に形成される確信が、社会を動かす力として働く。この最後のところはその正確さについて自信がないのですが、まあこんなことかとしてください。

それで新年からはKの本を読んでみます。


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