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[23886] 見るに入る 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/05/23(Tue) 10:13  

> >  「見るに入る」とはゴトさんの言葉です。
>
> 見ることに入るは、新しい芽さんが時たま言われていたことです。それを唱道するという事ではなく、さりげなくおっしゃることがあったという事です。で、もちろん私はそれを核心と感じていました。

「見る」ことと、「見るに入る」とは、どう違うのですか?
「見る」というのは、今までのあなたの言われたことをまとめると、「見る」「聞く」「知覚する」。いわゆる人の基本的な機能です。
 新しい芽流にいうと、「見えている」「聞こえている」「気づいている」
 それのことと「見るに入る」とは、どう違うのか?

 私の疑問は「見る」「聞く」「知覚する」というだけでは、わかりづらく、そういうことは、人がいつもやっていることではないでしょうか。それとKのいう「見る」というのは、どう違うのか、という説明が足りません。
 一般の人は「見る」だけであって、「見るに入る」ということはやってない。そういうことですか?
 それで「見るに入る」というのは、具体的にどういうことですか?

> そしてこの板でそう話しています。それは私の責任ですが、そう言いたくはありません。そんなことは忘れて一生懸命話していたいです。

 「見る」という説明よりも一生懸命話したい?
>
> >
> >  この「見るに入る」と「方向を変える」は同義ではないでしょうか。
>
> その通りです。

 方向を変える? ここにきてわからない言葉が出てきました。
 どこから、どっちの方向に変えるのですか?
>
> >
> >  そして、これは個人に起こるのではないでしょうか。

個人に起こる?
知覚は人の基本的機能であり、「個人」だけに起こるものではないでしょう。人全員に起きるものです。そもそも「起きる」という表現が妙。
具わっている。備わっている。生まれた時から。
あなた個人に起きて、私個人に起きるというものではない。
人全員に備わっている。基本的な知覚機能。五感。
>
> もちろん。しかし、それは宇宙の創造の一部でもあります。


創造?
どのようにその言葉を使っているのでしょうか?例えば神が宇宙を創造したとか。
クリシュナムルティが、もし創造という言葉を使うとき、どのように使うのでしょうか。




[23885] シュタイナー 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/05/23(Tue) 09:52  

 KB会の掲示板で、ルドルフ・シュタイナーについて述べている箇所があったので紹介します。Kのいうこととどう違うのだろうか?  
 シュタイナーというのはKと同じ神智学出身。何かとKと比較される。名前はよく聞くが,本を詳しく読んだことがない。以下を読んでシュタイナーはそういうこと言ってるのかと思った次第。このシュタイナーの本は今でも本屋で平積みにされ、シュタイナー教育を提唱するシュタイナー学校が神奈川の藤野にある。あれから40年、クリシュナムルティは普及の面でだいぶ差をつけられたようだ。ある本屋では、Kの本「片隅からの自由」が、一冊本棚の片隅に置かれているだけである。シュタイナーやラジネーシは、今でも平積みがされている。広報を怠ったツケがここに表れている。
 それはどうあれ私がシュタイナーを、今イチ好きでないのは、以下のように「霊」という言葉がさかんに出てくるからである。原文はスピリットなのだろうか。ソウルなのだろうか。

引用  人間死んだらどうなるかの説明

 神智学〜人智学のシュタイナーですが、人が亡くなったあとについてこんな風に書いています。ちょっと長いですが引用済みません:

「いま霊となった人間は霊の形成する諸力を現実として体験する。そこにいる思考存在の中には、彼自身の肉体的本性の思考内容もまた存在する。人はこの肉体的本性から離れている自分を感じる。霊的存在だけが自分に属すると感じられる。そして自分の遺体をもはや物質としてではなく、記憶の中でのように、思考存在として見るとき、その遺体は明らかにすでに外界に属するものとして目の前に現れる。人は自分の肉体を外界の一部分として、外界に属する或る物として、考察することを学ぶ。
 もはや、自分の体的本性を、自分の自我に親和したものとは考えず、したがってそれを他の外界から区別しようとはしなくなる。外界全体の中に、自分がこの世で受けてきた身体をも含めて、ひとつの統一性を感じるようになる。自分の受けてきた体も、周囲の世界と一つに融合するのである。このように、物質的、身体的現実の諸現像を、自らもそれに属していた統一体として観ることによって、人は環境と自分との親和と統一を次第に学び取る。人は自分に向って今ここでお前のまわりにひろがっているものは、かつてはお前自身であったのだ、ということを学ぶ。」

 つまり、ここに書かれていることは悟りのようなものであり、自分という物質体が無くなり、自分が外界と一つであったと気づきただ一つの命だけがある、という事に目覚める過程です。

 さらにシュタイナーはこう書いています:

「しかし、こういうとき、それは古代インドのヴェーダンタの叡智の根本思想のひとつを語ったことになる。『賢者』はすでにこの世の生活の中で、他の者が死後体験するところのものを、即ち自分自身が一切万物と同質のものだという思想を、『これは汝に他ならない』という思想を、自分のものにしているのである。この思想は地上生活においては思考生活の努力目標であるが、『霊たちの世界』においては、霊的経験を通してますます明瞭になるひとつの直接的事実なのである。」(高橋巌訳)




[23884] Re:[23882] [23881] [23880] [23877] [23872] [23868] [23863] [23860] [23859] [23858] [23856] [23854] [23849] [23844] [23842] [23839] [23838] [23837] [23835] [23832] [23827] [23819] バンザイ! 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/22(Mon) 22:48  

>  「見るに入る」とはゴトさんの言葉です。

見ることに入るは、新しい芽さんが時たま言われていたことです。それを唱道するという事ではなく、さりげなくおっしゃることがあったという事です。で、もちろん私はそれを核心と感じていました。
そしてこの板でそう話しています。それは私の責任ですが、そう言いたくはありません。そんなことは忘れて一生懸命話していたいです。

>
>  この「見るに入る」と「方向を変える」は同義ではないでしょうか。

その通りです。

>
>  そして、これは個人に起こるのではないでしょうか。

もちろん。しかし、それは宇宙の創造の一部でもあります。

昔中学校で雨の日、体育の時間でしたが、クラスよりもっと人数が多かった気がしますが、体育館をぐるぐると列を組んで行進しました。
かなり長い時間を歩かされましたが、すると後半になって一人一人の歩きがよくなり、リズム感が生まれ、さっさっとした歩調で気持ちよく歩けました。今思うとシンクロが生じたのでしょうか。
つまり個人は、個人のようで、個人と言い切れない何かでもあるようです。

この件は私の方があなたの意を読み取れないで見当はずれのようなことを言っていたかもしれません。ともかくこんなことでもないと言えないことが出た、出せたという気がします。
どうもありがとう。



[23883] Re:[23879] [23874] 命名 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/05/22(Mon) 19:40  

> >  命名しているという事実がわかればいいのではないですか。嫌な奴がいるとき、自分が「嫌な」と命名している。事実はそこに人がいるだけ。
>
> なぜ「嫌な」と分類、命名するのだろう? 対処(少なくとも警戒)の必要があるからかな。それならそれで意味があるが…、最初の原始的感情とは不穏さの察知なのか。不穏さの察知は英知だろう。リアルな感覚。

「嫌なもの」とは過去の経験記憶からくるものと生理的なもの、感覚的なものからくるものもあるようです。
 食べ物を例にとると、過去一度も口にしないのに,見ただけで食べられないとか。
 フランスのエスカルゴ料理は、「日本のカタツムリ」を連想してしまい食べられませんでした。ようするにゲテものは苦手です。豚足、豚の耳など。
 納豆も食べられませんでした。あのネバネバが苦手。ネバーギブアップです。子供の頃の青っ鼻を連想してしてしまう。ようするに鼻たれ小僧をイメージする。
 これもイメージの為せる業でしょうか。
 人間関係もそうです。この人はどうも苦手。ウマがどうしてもあわないというのがある。これは感覚的なものでしょうか。
 若いとき、見た目の印象だけで、女性に嫌われたことがある。これなど生理的なものでしょうか。よくわからない。初対面で「過去の記憶」と言われてもピンときません。印象?
>
> >  記号、レッテルは自分が貼付けている。判断評価推理をしている自分がいる。そこに感情がからむとやっかい。
>
> そこで分別し、言葉化するとき、リアルさが消え、レッテルが感情を誘発するのだろうか?
 文字ドウリ、同一化とは言葉と一体化している姿。そこから感情が誘発する。人から「馬鹿」と言われれば、すぐさま人は反応する。「馬鹿」という意味を知っているからです。意味がわからなければ人は反応しませんね。何それって感じ。
 心の達人と言われる人は、意味はもちろんわかるが、意味に反応しない人のことをいうのだろうか。
 例えば、馬鹿と言われ、すぐさま反応するのではなく、逆に尋ねる。どうしてそのような言葉を使うのか、と。
>
> >  そこにはっきり思考を聞いていると感情は増幅しない。同一化しない。ここが画期的なところではないですか。
>
> 確かに。レッテルで置換することなくリアルな不穏さに注意深く臨む。理に適っている。画期的ともいえるが、わかれば普通ともいえる。

 あなたは「見る」ことは画期的ではなく普通と言われるのだろうか。この画期的という言葉は、実は新しい芽氏から借用した言葉です。氏は、どのようなときに画期的なことなのかは、忘れたしまいましたが、あなたはご存知ですか。どういうことか画期的なのか。
 「見る」「聞く」「知覚する」これだとあまりにも当たり前のような気がする。それでは何が画期的なのだろうか。
 たんに同一化しない?
>
> 分類することは言葉化以前に、つまり素早くなされる。そうでなければ食われてしまうかもしれない。そこでライオンに気づけばすぐ行為が起こる。逃げたり、隠れたり、戦闘態勢をとったり。

 人も動物も程度の差があれ、「危険」を察知すると「注意の状態」になります。注意の体勢になる。思考が入る隙間がない。これが「全注意」。ジャングルの中を想像してみましょう。いつ襲ってるか気の休まる暇はない。
 この注意の状態とは、車の運転と同じで、緊張状態を伴います。うっかり考えると事故に遭う(歩道でもよそ見すると自転車にぶつかります)
 Kのいう「注意の状態」(awareness) とは、さっき言った(警戒の)状態とはまったく逆で、すべてを受け入れている状態だと思います(受動的)。といって弛緩(リラックス)の状態ではなく、いわば「ニュートラル」の状態。頭脳にスムーズにエネルギーが流れている状態。一点の曇りのない状態。エネルギーが滞ってない状態。思考に囚われるとエネルギーが停滞します。いいアイデアは得られません。

>
> しかし人間同士だとそんなに慌てる必要はないので分別が先に立つ習慣ができたのか。それで英知の声は感じ取る間もなく、分別に進行してしまうのか?感情的こだわりの始まり。

 Kがいうには、人間というのは心理的思考には、まったく注意を払わないということです。外の猛獣には気をつけるが。内部の猛獣には注意を払わない。いわば野放し。
 心理的思考が、実はもっとも大きな危険物。そのことを認識する人は、ほとんどいない。何故ならそれらは快楽を保証するから、手放せないものになる。快は不快を伴う。それでも人はそれらを求める。あまりにも心地よいので。不快を得るとさらに快へ。

 アメリカと北朝鮮。互いに「面子」(メンツ)の争い。「権勢欲」剥き出し。
それらはいずれ「自滅」の方向へ。そういったことを彼らは自覚しない。敵は外部でなく内にある。

 こうして世の中の動きを外部から眺めると、世の中の動きが「滑稽」に見える。(たとえば今、国会でやってること)しかし、いざ当事者になると「ドツボ」にはまる。徹底的に自分を守る(保身)。
 もし、私が公務員ならそうなるでしょう。組織から離れたくないので。


[23882] Re:[23881] [23880] [23877] [23872] [23868] [23863] [23860] [23859] [23858] [23856] [23854] [23849] [23844] [23842] [23839] [23838] [23837] [23835] [23832] [23827] [23819] バンザイ! 投稿者:宮啓 投稿日:2017/05/22(Mon) 18:42  

> > > >  ここで述べられている主題は、「責務」についてではなく、「個人」、例えばクリシュナムルティが到達したとした場合に、それは「個人」ひとりの事柄ではなく、宇宙の事柄のように思えるのです。
> > > >
> > > >  ゴトさんは、ここまで来れたことについて、そのように感じないでしょうか。
> > >
> > > 「宇宙的出来事」―― すべては宇宙的出来事でもあるし、500年か何千年に一度の稀有な出来事が「宇宙的出来事」とも言えるし…。
> > >
> > > どっちかと言えば稀有な出来事という意味でしょうね。カエルの鳴き声なんかではなく。
> > > 私についてはそのような形容は「ごめんなして」です。
> > > Kの出現はそれなりの意義があるでしょう。でも私たちがそれを生かさなければせっかくの意義も後世に譲ることになります。そのように形容する意味は何だろう?
> > >
> > > 創造的に生きる人、未知へフラワリグンしていく人、目的もないし予測も元々不可能な創造!
> > > すべては宇宙的出来事かもしれませんが、私はそういう意識を持つことはありません。
> > >
> > > どうもあなたの思いをよく理解していないようですが、ともかく私の反応を書きました。
> >
> >
> >  叙述は難しいですね。
> >
> >  特にクリシュナムルティ特有の用語を用いるとなれば、なおさら・・。
> >
> >  ゴトさんの>それは個人がどこまで行くか、行ったかという問題ではないでしょうに。−−
> >
> >  このコメントが、今、ゴトさんが関心を有している、社会に何が必要か・・?、これに関わることとして、>それは個人がどこまで行くか、行ったかという問題ではないでしょうに。−−と、ゴトさんがコメントしたのか・・と受け取りました。
>
> はい。社会を形成している個人がどこまで行くか、行ったかに注目するなら、それは見当違いであると私は考えています。
>
> >
> >  それに対して、私の個人的な応答として、個人がどこまで行くか、行ったか・・これが大きく関わってくると感じていたので、私の体験を叙述したのですが、なかなか伝わらないことが分かりました。
>
> 私たちの責任はKのようになる、つまりコロンブスやエジソンみたいになることではなく、ただ、今まで進んでいた方向を変えるだけのことです。
> 今では誰でも大西洋を渡り、夜には電灯をつけます。コロンブスやエジソンのような偉人や天才であることとは無関係です。
>
> >
> >  叙述は伝わるときには伝わるし、そうでないときはなかなかなので、逸れてしまいます。
> >
> >  逸れるのであれば叙述は控えようと思っています。
>
> それも見当違いではないでしょうか?
> 私がコロンブスやエジソンの例をあげて、責任という言葉も使って、大事なことはただ方向を変えるとことだと言いました。
>
> これが違うという事であれば、ぜひ言葉であなたの思うところを伝えてください。これはKの言う事の根本的なところに触れているし、Kの否定していた権威や個人崇拝につながるかもしれない問題であると思うので話し合っておきたいのです。
>
> 私がこのようにがたがた言うのは、いろいろな人たちとの関係の湯船の中から生まれ出てきた、ささやかではあるがカエルの鳴き声のごとき宇宙的出来事、宇宙の創造の一駒かもしれません。それはその通りです。
>
> 私は方向を変えるという事の内包する意味をもっとはっきりと自分に提示したいのです。それに向かって自分なりに探求しています。哲学や現代思想や脳科学や複雑系等々を調べるのはそのためです。
> 別にKをほったらかしにしているわけではないですよ。凡才なので道に迷うかもしれませんが。
>
> 宇宙的出来事は着々と開花しているのだから心配するなという事であればその通りですね。


 「見るに入る」とはゴトさんの言葉です。

 この「見るに入る」と「方向を変える」は同義ではないでしょうか。

 そして、これは個人に起こるのではないでしょうか。


[23881] Re:[23880] [23877] [23872] [23868] [23863] [23860] [23859] [23858] [23856] [23854] [23849] [23844] [23842] [23839] [23838] [23837] [23835] [23832] [23827] [23819] バンザイ! 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/22(Mon) 17:24  

> > >  ここで述べられている主題は、「責務」についてではなく、「個人」、例えばクリシュナムルティが到達したとした場合に、それは「個人」ひとりの事柄ではなく、宇宙の事柄のように思えるのです。
> > >
> > >  ゴトさんは、ここまで来れたことについて、そのように感じないでしょうか。
> >
> > 「宇宙的出来事」―― すべては宇宙的出来事でもあるし、500年か何千年に一度の稀有な出来事が「宇宙的出来事」とも言えるし…。
> >
> > どっちかと言えば稀有な出来事という意味でしょうね。カエルの鳴き声なんかではなく。
> > 私についてはそのような形容は「ごめんなして」です。
> > Kの出現はそれなりの意義があるでしょう。でも私たちがそれを生かさなければせっかくの意義も後世に譲ることになります。そのように形容する意味は何だろう?
> >
> > 創造的に生きる人、未知へフラワリグンしていく人、目的もないし予測も元々不可能な創造!
> > すべては宇宙的出来事かもしれませんが、私はそういう意識を持つことはありません。
> >
> > どうもあなたの思いをよく理解していないようですが、ともかく私の反応を書きました。
>
>
>  叙述は難しいですね。
>
>  特にクリシュナムルティ特有の用語を用いるとなれば、なおさら・・。
>
>  ゴトさんの>それは個人がどこまで行くか、行ったかという問題ではないでしょうに。−−
>
>  このコメントが、今、ゴトさんが関心を有している、社会に何が必要か・・?、これに関わることとして、>それは個人がどこまで行くか、行ったかという問題ではないでしょうに。−−と、ゴトさんがコメントしたのか・・と受け取りました。

はい。社会を形成している個人がどこまで行くか、行ったかに注目するなら、それは見当違いであると私は考えています。

>
>  それに対して、私の個人的な応答として、個人がどこまで行くか、行ったか・・これが大きく関わってくると感じていたので、私の体験を叙述したのですが、なかなか伝わらないことが分かりました。

私たちの責任はKのようになる、つまりコロンブスやエジソンみたいになることではなく、ただ、今まで進んでいた方向を変えるだけのことです。
今では誰でも大西洋を渡り、夜には電灯をつけます。コロンブスやエジソンのような偉人や天才であることとは無関係です。

>
>  叙述は伝わるときには伝わるし、そうでないときはなかなかなので、逸れてしまいます。
>
>  逸れるのであれば叙述は控えようと思っています。

それも見当違いではないでしょうか?
私がコロンブスやエジソンの例をあげて、責任という言葉も使って、大事なことはただ方向を変えるとことだと言いました。

これが違うという事であれば、ぜひ言葉であなたの思うところを伝えてください。これはKの言う事の根本的なところに触れているし、Kの否定していた権威や個人崇拝につながるかもしれない問題であると思うので話し合っておきたいのです。

私がこのようにがたがた言うのは、いろいろな人たちとの関係の湯船の中から生まれ出てきた、ささやかではあるがカエルの鳴き声のごとき宇宙的出来事、宇宙の創造の一駒かもしれません。それはその通りです。

私は方向を変えるという事の内包する意味をもっとはっきりと自分に提示したいのです。それに向かって自分なりに探求しています。哲学や現代思想や脳科学や複雑系等々を調べるのはそのためです。
別にKをほったらかしにしているわけではないですよ。凡才なので道に迷うかもしれませんが。

宇宙的出来事は着々と開花しているのだから心配するなという事であればその通りですね。


[23880] Re:[23877] [23872] [23868] [23863] [23860] [23859] [23858] [23856] [23854] [23849] [23844] [23842] [23839] [23838] [23837] [23835] [23832] [23827] [23819] バンザイ! 投稿者:宮啓 投稿日:2017/05/22(Mon) 15:53  

> > > > > ええ、そこで再び要はなぜビカミングするか、、時間に浸っているかですが、それは見ている時、投影なしに見ていられないと同義のようです。
> > > > >
> > > > > これは全体性が失われ、個別性が前面に出ているという事かと思いました。
> > > > >
> > > > > 動物は無意識的に自然と調和して生きているようですが、人間は言葉を使用し、抽象的な思考を操れるまでになりましたが、何故か人間間に騒乱が絶えず、調和の生を送ることができないようです。そこがはっきり見えて理解できないでいます。それゆえ、見るに徹することができません。
> > > > > それは個人がどこまで行くか、行ったかという問題ではないでしょうに。
> > > >
> > > >
> > > >  はい。しかし、個人がある地点に到達したとした場合において・・。
> > > >
> > > >  それは個人の成果だけではないように思います。
> > > >
> > > >  その陳述を発信してくれた同志。
> > > >
> > > >  発信を翻訳してくれた同志。
> > > >
> > > >  同志間の交流。
> > > >
> > > >  同志を支える家族。
> > > >
> > > >  同志の生計を支える職場の同僚。
> > > >
> > > >  これらが全体的に噛み合って個人の到達に至る。
> > > >
> > > >  いわば人々との関係の湯船の中で到達に至る。
> > > >
> > > >  それゆえに、人々に対しての責務を負う。
> > >
> > > うーん、個人がどうのでなく全体的な動きがあるのはその通りなんですが・・・。
> > > 何かしてくれた、支えてくれた、おかげでという感じの論理が伏在している気がする。
> > > そこで責を負うとなる。
> > >
> > > 責任という言葉は今の組織体である意味をもって言われる言葉であって、その論理も言葉も私は使いたくないし、使いません。してくれるというのはしてやったという事の裏返しで、ここに出てきた場合はそういう意識はみじんもなく、やりたいことをしているだけでしょう。
> > >
> > > Kが社会の悲惨に対して皆に責任があると言ったことは知っていますが、悲惨は自分の振る舞いから出ているということであり、責任という言葉は不適当かなと思っています。
> > >
> > > まあ言葉にとらわれないようにという事があるので、それだけで済むときは言わないのだけれど、責務があるという観念は、歴史上非人間的行為の数々を引き起こしているので、ちょっとそういう見方もあると言っておきます。お国のためにとか、何か崇高なものを掲げて。
> > >
> > > ひょっとすると、言語体系に含まれている支配的な思想体系の持つ個別性が世界の悲惨を引き起こす根源なのではないだろうか?
> > > と私は疑ったいます。
> >
> >
> >  ここで述べられている「責務」とは、クリシュナムルティが述べるところの「責任」であり、一般用語としての「責任」としては用いられていません。
> >
> >
> >  ここで述べられている主題は、「責務」についてではなく、「個人」、例えばクリシュナムルティが到達したとした場合に、それは「個人」ひとりの事柄ではなく、宇宙の事柄のように思えるのです。
> >
> >  ゴトさんは、ここまで来れたことについて、そのように感じないでしょうか。
>
> 「宇宙的出来事」―― すべては宇宙的出来事でもあるし、500年か何千年に一度の稀有な出来事が「宇宙的出来事」とも言えるし…。
>
> どっちかと言えば稀有な出来事という意味でしょうね。カエルの鳴き声なんかではなく。
> 私についてはそのような形容は「ごめんなして」です。
> Kの出現はそれなりの意義があるでしょう。でも私たちがそれを生かさなければせっかくの意義も後世に譲ることになります。そのように形容する意味は何だろう?
>
> 創造的に生きる人、未知へフラワリグンしていく人、目的もないし予測も元々不可能な創造!
> すべては宇宙的出来事かもしれませんが、私はそういう意識を持つことはありません。
>
> どうもあなたの思いをよく理解していないようですが、ともかく私の反応を書きました。


 叙述は難しいですね。

 特にクリシュナムルティ特有の用語を用いるとなれば、なおさら・・。

 ゴトさんの>それは個人がどこまで行くか、行ったかという問題ではないでしょうに。−−

 このコメントが、今、ゴトさんが関心を有している、社会に何が必要か・・?、これに関わることとして、>それは個人がどこまで行くか、行ったかという問題ではないでしょうに。−−と、ゴトさんがコメントしたのか・・と受け取りました。

 それに対して、私の個人的な応答として、個人がどこまで行くか、行ったか・・これが大きく関わってくると感じていたので、私の体験を叙述したのですが、なかなか伝わらないことが分かりました。

 叙述は伝わるときには伝わるし、そうでないときはなかなかなので、逸れてしまいます。

 逸れるのであれば叙述は控えようと思っています。


[23879] Re:[23874] 命名 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/21(Sun) 15:29  

> > >  思考が形成され、がんじがらめになっている大人に対し、命名する前の感情って聞かれると ? ということになります。
> >
> > 命名する前とはたぶん1秒以下なのでしょうが、大人の人間の持つ思考はまだ働いていないわけですね。
> > すると働いているのは生きていくための機能であって、正しい反応と言っていいものですね。私はそう思います。
>
>  はい、生きていくために命名は必要。釣りの計算ができないと困る。
>
> > それで原始の正しい感情は、命名されて大人の思考が1秒以下で引き継ぐとき、継続、増幅がもたらされるようになるのでしょうか? そうでなければすぐ消えていきますよね。
>
>  思考にすぐに消えています。印象に残った事例だけ記憶に残る。たとえば肉親の死はいつまでも覚えています。関心のない事柄には記憶に残らない。
> >
> > 人間の言葉思考が繰り出すとき、何が起こり、不都合が発生するのでしょうか? 命名することが何でそんなに悪いのか?
>
>  いえ悪くありません。人の名前は覚えていた方がいいでしょう。最近もの覚えが悪くなりました。
>  命名しているという事実がわかればいいのではないですか。嫌な奴がいるとき、自分が「嫌な」と命名している。事実はそこに人がいるだけ。

なぜ「嫌な」と分類、命名するのだろう? 対処(少なくとも警戒)の必要があるからかな。それならそれで意味があるが…、最初の原始的感情とは不穏さの察知なのか。不穏さの察知は英知だろう。リアルな感覚。

>  記号、レッテルは自分が貼付けている。判断評価推理をしている自分がいる。そこに感情がからむとやっかい。

そこで分別し、言葉化するとき、リアルさが消え、レッテルが感情を誘発するのだろうか?

>  そこにはっきり思考を聞いていると感情は増幅しない。同一化しない。ここが画期的なところではないですか。

確かに。レッテルで置換することなくリアルな不穏さに注意深く臨む。理に適っている。画期的ともいえるが、わかれば普通ともいえる。

分類することは言葉化以前に、つまり素早くなされる。そうでなければ食われてしまうかもしれない。そこでライオンに気づけばすぐ行為が起こる。逃げたり、隠れたり、戦闘態勢をとったり。

しかし人間同士だとそんなに慌てる必要はないので分別が先に立つ習慣ができたのか。それで英知の声は感じ取る間もなく、分別に進行してしまうのか?感情的こだわりの始まり。


[23878] Re:[23876] 人工知能 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/21(Sun) 13:42  

>  将棋の佐藤名人はコンピューターに2連敗。将棋の最高潮を将棋ソフトが抜いてしまったようです。3月に行われた囲碁の井山六冠もコンピュータに完敗。ついにここまできたかという感じ。人間の頭脳をコンピュータが上回る。それはともかくこれからAi(ロボット)の時代。車の運転を人間の変わりにAIがやるなんて考えらない。人間の嫌がるの肉体労働はロボットがやる時代に。

見た見た! 佐藤天彦名人とポナンザの2番勝負。ちゃんと棋譜を見た。

棋譜の感じが全く違う。独創的な、全局的で駒の効率を生かす将棋で、名人がさっと切られて勝負がつく感じ。
こういう将棋に人間が慣れないと歯が立たない感じがした。

碁の世界では棋譜を並べてもここまでの差は感じないが、これも宇宙的出来事か。

ここまで強くなったのはコンピュータが見ることができるようになったからだそうだ。人の顔をも覚え、服を換えようが髪形を変えようが、正面でも斜めでも後ろからでも認知できるという。

>  それとロボットも心が感情があれば人間並になるという話ですが、それはありえません。機械と人間とは違う。機械はあくまで機械。DNAの配列を組み替えることは可能かもしれないが、「命そのもの」を作り出すことは不可能。それをもとに作った「クローン」(複製)は可能。

原始的生命、つまりアメーバもどきは結構作れるかもしれない。しかし、投資が集まるかどうか?


[23877] Re:[23872] [23868] [23863] [23860] [23859] [23858] [23856] [23854] [23849] [23844] [23842] [23839] [23838] [23837] [23835] [23832] [23827] [23819] バンザイ! 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/21(Sun) 12:58  

> > > > ええ、そこで再び要はなぜビカミングするか、、時間に浸っているかですが、それは見ている時、投影なしに見ていられないと同義のようです。
> > > >
> > > > これは全体性が失われ、個別性が前面に出ているという事かと思いました。
> > > >
> > > > 動物は無意識的に自然と調和して生きているようですが、人間は言葉を使用し、抽象的な思考を操れるまでになりましたが、何故か人間間に騒乱が絶えず、調和の生を送ることができないようです。そこがはっきり見えて理解できないでいます。それゆえ、見るに徹することができません。
> > > > それは個人がどこまで行くか、行ったかという問題ではないでしょうに。
> > >
> > >
> > >  はい。しかし、個人がある地点に到達したとした場合において・・。
> > >
> > >  それは個人の成果だけではないように思います。
> > >
> > >  その陳述を発信してくれた同志。
> > >
> > >  発信を翻訳してくれた同志。
> > >
> > >  同志間の交流。
> > >
> > >  同志を支える家族。
> > >
> > >  同志の生計を支える職場の同僚。
> > >
> > >  これらが全体的に噛み合って個人の到達に至る。
> > >
> > >  いわば人々との関係の湯船の中で到達に至る。
> > >
> > >  それゆえに、人々に対しての責務を負う。
> >
> > うーん、個人がどうのでなく全体的な動きがあるのはその通りなんですが・・・。
> > 何かしてくれた、支えてくれた、おかげでという感じの論理が伏在している気がする。
> > そこで責を負うとなる。
> >
> > 責任という言葉は今の組織体である意味をもって言われる言葉であって、その論理も言葉も私は使いたくないし、使いません。してくれるというのはしてやったという事の裏返しで、ここに出てきた場合はそういう意識はみじんもなく、やりたいことをしているだけでしょう。
> >
> > Kが社会の悲惨に対して皆に責任があると言ったことは知っていますが、悲惨は自分の振る舞いから出ているということであり、責任という言葉は不適当かなと思っています。
> >
> > まあ言葉にとらわれないようにという事があるので、それだけで済むときは言わないのだけれど、責務があるという観念は、歴史上非人間的行為の数々を引き起こしているので、ちょっとそういう見方もあると言っておきます。お国のためにとか、何か崇高なものを掲げて。
> >
> > ひょっとすると、言語体系に含まれている支配的な思想体系の持つ個別性が世界の悲惨を引き起こす根源なのではないだろうか?
> > と私は疑ったいます。
>
>
>  ここで述べられている「責務」とは、クリシュナムルティが述べるところの「責任」であり、一般用語としての「責任」としては用いられていません。
>
>
>  ここで述べられている主題は、「責務」についてではなく、「個人」、例えばクリシュナムルティが到達したとした場合に、それは「個人」ひとりの事柄ではなく、宇宙の事柄のように思えるのです。
>
>  ゴトさんは、ここまで来れたことについて、そのように感じないでしょうか。

「宇宙的出来事」―― すべては宇宙的出来事でもあるし、500年か何千年に一度の稀有な出来事が「宇宙的出来事」とも言えるし…。

どっちかと言えば稀有な出来事という意味でしょうね。カエルの鳴き声なんかではなく。
私についてはそのような形容は「ごめんなして」です。
Kの出現はそれなりの意義があるでしょう。でも私たちがそれを生かさなければせっかくの意義も後世に譲ることになります。そのように形容する意味は何だろう?

創造的に生きる人、未知へフラワリグンしていく人、目的もないし予測も元々不可能な創造!
すべては宇宙的出来事かもしれませんが、私はそういう意識を持つことはありません。

どうもあなたの思いをよく理解していないようですが、ともかく私の反応を書きました。


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