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[24034] Re:[24033] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/07/08(Sat) 10:22  

> ゴトさんは、普通の人でしょう。普通の人がクリシュナムルティを読むとこうなるんですよ。

コメントありがとうございます。

私は確かに普通の人なんですが、外野(ガイア)さんの言う普通の人とは少し差があるんでしょうか。
が、まあこうなるとしたら、それでいいし、普通の人にそうなってほしいと思っているんですが、私と付き合ってくれる人はみんな愛で接してくれるように見え、何の文句のありません。

ただ世界の国々の状況を見るとそうはいかないでいる気がします。国家という有機的な組織体が世界的に関係を持ち始めたのは、このところのホンの2,3世紀なので、まあしょうがないのでしょうか。

しかし世界の資本がだいぶ蓄積されているのに、それが利潤(最大限の利潤と言ってもいいくらい?)を生むことに駆られてという事はもっと声を大にして言われてもいいような気がしますが。もちろん人為的な虚飾の文化の追求もありますが、これは利潤の追求と同類項でしょうか。

これはヒトが本当に生きたいように生き始めることだけが成し遂げる創造的な生のなすところなんですね。




[24033] 無題 投稿者:精神の人 投稿日:2017/07/08(Sat) 06:13  

ゴトさんは、普通の人でしょう。普通の人がクリシュナムルティを読むとこうなるんですよ。


[24032] Re:[24031] [24027] [24026] [23991] [23990] [23979] [23975] 意識の統合と分裂 投稿者:ゴト 投稿日:2017/07/05(Wed) 13:20  

>  疑ってみる。ホントかどうか。疑う姿勢であれば、すくなくとも同一化はない。
>
> > これは疑って見ることにより自然に実現するのでなく、手に入れようとするなら「ミラ取りがミイラ」になる。それが言葉上でわかるのでなく、ほんとに全身全霊でわかるなら、気づき、敏感に気づくことはおのずと起こる。
>
>  気づくことが自ずと起こる?ここがわからない。

能動的であることやめると自ずと敏感さが起こる。

> 「人類の未来」にこういう箇所があった、80ページ。
>  K曰く
> 「静けさは訓練された静けさではありません。頭脳は静かでなければなりません。自意識的で、沈思された、沈黙に対する欲求ではありません。それは自分自身の条件づけを理解することにより、自然に生まれてくる結果なのです」
>
>  ここで、「自身の条件づけを理解することにより自然に生まれてくる」とある。そういうことだろうか。

ええ、そういう事です。

>  次に「頭脳が静かであれば、より奥底にあるものを聴くことができるということがわかる」とある。
>  この沈黙は、静寂と同じ意味で、Kに限らず、ほとんどの覚者がいっている。たとえば竜王文庫「沈黙の声」

そうでしょうね。陰にやられていた敏感さがよみがえる。

>  私の見解では、はっきりと見ることです。人は見る、聞く,知覚は自動的に行っていますが、はっきりとは見ていない。イエスの万人に対して「目覚めなさい」というのは、こういうことではないでしょうか。人はいつも思考のベールをかぶせて見ている。見てるようで見ていない。ようするにはっきりと見る。これを「意識的に見る」ともいう。能動的な働きかけをしないで(思考の運動)明確に見る。何もしない。これが受動的。

はい。能動的な動きをしないで受動的に見る。その通りです。

>  ですから、これらが自動的に起きるかと言うと,そうではないというのが私の見解。

能動的な動きがないならいいのです。受動的なら向こうが語ってくれて分かるとか。自動的という言い方が気に入らなかったら捨ててください。「能動的な動きなしに」に絞りましょう。

>  一番いい例が「蛇」の例。自分の部屋に、毒蛇が現れたとする。
>  我々は噛まれてはいけないので、蛇の動きを全身全霊で注視する。これがまさしく注意の状態。心理的思考のはいる隙間がありません。蛇を見てるとき、他のことを考えてたら、それこそ噛まれてしまう。

ただ、毒蛇はその危険を人は動物の時代にさかのぼって身にしみて知っている。今の根源的危険が何なのかを知らない。だから全身全霊にならない。

>  この「蛇」を、「思考の動き」に置き換えればKの言いたいことがよくわかります。思考を動きを注視する。これが注意の状態。はっきり見てる状態。我々は注意の状態に、即座に成ればいいのであって、それは自然に起きるとは違うのではないですか。

思考はしょっちゅう実用的に使っているから危険なものとは思はないし、時に危険なものが現れても、敏感な人以外はわからないので注意しない。
すべての「思考の動き」が根源的危険ではない。もちろん思考の動きを注意の状態で知覚していることはよいことです。

>  ですからKのいう
>  「自身の条件づけを理解することにより自然に生まれてくるという記述に疑問を感じます」

現在の根源的危険は外部にあるだけでなく、内部にあります。それで自分自身を知ろうと言っています。
自分の内の危険を知ると、実際の危険が腑に落ちて敏感にわかるようになります。

>  危険を感じれば。誰でも即座の注意に成る。Kは思考を危険物とみなす。しかし、人間は思考は快楽を保証するので、手放そうとはしない。人は心地よいものには貪欲。

その通りです。
思考は時に危険物となります。しかしそれは何のせいかな!同一化したりしないで使えば、これほど有用なものはないのではないでしょうか。しかし危険を知らないらしい(ひょっとして誤用?)。

> > > >
> > > > 心理的観念が私はいつの間にかなくなっているのです。それで感情が煮えくり返るとい事がありません。
> > >
> > >  そうですか。心理的思考に感情が降り回されることはない。
> > >
> > > > 気づきの継続とか、見ることの継続ではなく、自分の握りしめていた思い込みの中の怪しげなものが消えればそれで終わりです。
> > >
> > >  「思い込みの中の怪しげなもの」?
>
> 心理的な思考のこと?

それが何か二人で見つけましょう。それがこの対話の論点です。

> > >  それをいちいち確認するのが大変ですね。

末端の子分でなく、親分一人を見つければいいわけです。

> > あなたはそれを確認しようという。それゆえいつも分別者、解釈者がいるのです。つまりそれが思考者です。慈愛の目ではなく思考の目で見ているのでは?
>  ですから、思考を全部疑えというわけです。日常生活では、実用的思考と心理的思考と別けるのは困難です。
>  釣り銭を数えるのは、実用的思考だが、釣り銭が足らないと怒るのは心理的思考。
>  それと区分のことですが、例えば男と女、犬と猫というように、それらは見れば一目でわかるでしょう。思考は介入しない。記号だけです。
>  差別と区別は違う。差別は心理的。区別は実用的。

だから大親分一人を見つけましょう。いくつかの別名を持っているかもしれませんが。

>  言葉に従って行動すると言うが、人間の行動というのはまず頭で組み立ててから行動するだろう。それが習慣的になっている。朝6時起床。8時に家を出て、10時に会社。
>  別にこれは問題ではない。

もちろん。

> > > > 心理的なイメージのシステムが構築されています。そのなかにお化けがいるのです。そのお化けの正体が見えればそれまでなのです。心理的なシステムが崩壊します。
>
>  心理的システムとは?

旗はただのものですが、国旗とか国歌、愛国心となるとお化け的要素が加わっている気がしませんか?

> > そう本気で思います。実体としてわかる言葉もたくさんあります。しかし慈愛は言葉で説明できますが、それは意識できないものです。意識しているならそれは偽物でしょう。本物は無意識、無心で行われているのでしょう。
>
>  そうです、内からの導きによって。いわば本心から。
> >
> > > > どうやってお化け退治をやるか、それが世界に通じるようにする必要があります。
> > >  感情が動かなければ、問題は起きません。ようするに何が感情を動かしているのか。
>  思考が感情を誘発する。感情というのは、すぐ醒めるもの。それを長く持続させようとするのが思考。
>  怒りというのは、本来スカッとする感情。不快を植え付けるのがそれこそ思考。
>  たとえば、言いたいことを言ってしまえば本来スカッとするが、現実はそうはいかないので、内に溜め込むことに成る。
>  上司が怖い。あるいはかかあが怖いと、理屈を練る。
>
> > >  人は感情的になるから問題がおきるわけです。感情が露になると対立を呼ぶ。
> > >  ですから、社会に出ると人は感情を表に出さない術を学ぶ。不平不満を内に溜め、そのはけ口を求める。
>
>  たいていは趣味で。それに没頭すれば、嫌なことは忘れる。
>
> > >  人間は感情の動物と言われる所以。喜怒哀楽は必要不可欠。その中で怒りの感情だけ、なくそうというのは虫が良過ぎる。
> > >  権力の理不尽さに対して怒りは必要不可欠。
> >
> > そう言ってその結果起こるのは権力の交代劇になってしまいます。
>
>  そうした庶民の怒りがなければ、権力者の思うつぼ。歴史が証明している。
> >
> > >  感情のコントロールせよというのは、ほとんどの覚者がいうわけですが、クリシュナムルティは、感情についての言及があまり見受けられない。思考、思考というだけで。

新しい芽さんの「最初で最後の自由」第13章欲望にかなり多数の感情という言葉が出てきます。

> > >  感情の動きなんか、体に反影されるので、すぐわかるのではないですか。
> > >  腹がたっていることはリアルタイムでわかる。そのときは頭は炎上している。
> > >  まさに火中の栗。
>
>  まさに怒っているときに客観的な態度が取れるかどうか。栗が火中に出て、火を見れるかどうか。
>  人が争っているとき、端で見てると、滑稽にうつる。何と大人げないと。みっともない。
>  当事者になってしまうと、客観的態度をとれなくなる。
> > >
> > > > とりあえず、新参者、若輩者、目下、こう言った観念はお化けだ!という事でいいでしょうか?
> > >
> > >  幽霊ですか。そういった言葉は、その人を見れば即座にわかります。
> > >  しかし、人生を長く生きている中高年はプライド、人生観、価値感を、無意識に形成している。長い時間かけて。それが行動原理というか、自身の生きる時の指針となっている。
> >
> > その通り。ほんとはどこかでちゃんとわかっている。それを捨てる気がないという事がもう一つあり、それが頭の固い権力層や支配層にある。成功者層とも言えるかな。
> >
> > >  そういったものは、どこで見るのだろうか?人と関わり合うとき出てくるのだろうか。やりとりで。しかし、その人のスタンスでそれ自体は問題ありません。
> >
> > それを必死に維持しようとする執着が当然の生死をかけて守りたいものになっている。
> > それもそういう人たちのあるがままでもある。そういう人たちが自分で気づいて捨ててくれなければどうしようもない。
> >
> > >  各自自分の意見をもつということは当然のことです。問題は他人の意見を聞くことにある。相手の言い分をまず認める。相手に自分の意見を押し付けない。互いに理解する。相互理解への道。
> >
> > 相互理解の道と言って現状と無知が継続される。無知とはブッダもKも言っているが、覚者と祭り上げて、自分の執着は捨てない。普通の人が言えば防衛機制が働いて抵抗する。
>
>  相互理解というのは、単純に、お互いの言い分を認めあうこと。しかし現実はそうではない。一方的に押し付けようとする。とくに腕力に優る男性側は、非力な女性に対して優越的態度をとる。相手を理解するつもりはさらさらない。これが現状。
>  愛することより理解が先決。愛はすぐ醒める。
> >
> > >  イエスのいう、隣人を愛せよ、なんてのいうのは土台無理。隣人を理解する。それだったら万人に可能。
> >
> > 本当に理解するということは愛することでもある。
>
>  理解というのは、互いの真のコミニュケーション。相対的な愛の取引とは違う。
>  たとえばキリスト教とイスラム教、互いに理解する。しかし現実は反目する。互いに教えが違うので。
>  しかし、違うのは当たり前。男と女は違うように。ところが同じものを見出そうとする。ここがトリック。立ち場を認めあうことがない。
>  たしかに人は、全体で意識は「一つ」かもしれないが、人の顕れ方は、それぞれ違う。人は皆同じというような画一的ではない。個の尊重が重要。宇宙に多様性があるように、人間にも多様性がある。人間皆同じではない。
>  (人間皆同じという発想は、全体主義、共産主義につながりやすいのではないだろうか。まさに画一的。個性がない)
>  どうもKのいうことには賛同しない。他にも疑問点が多々ある。人間の想像力というものを軽視してしまっている。
>  動物から脱却し、神から「想像力」を当たえられたのは、まさしく人間である。インド哲学では、想像力と、宇宙の想像力を同一視している。宇宙イコール人間。もし、地球上で、人間がいなければ,宇宙はないのと同じ。認識するものがないから。
>  違いを認識せよ、というのは、ある哲人から教わった言葉です。

意見が各人それぞれあり、、結局各人が思うままにふるまう。それで、その時権力を握った人間が自分の意見を押し通す。これが現状。その現状の擁護者が根源的問題(毒蛇のように危険な大親分)に気づく気を起こすか否かであるけれど、難しそうだな。

結局、あなたは凡人容認で、これでやって行こう、覚者の言う通りにはできないという事をおっしゃっているのですか?

非難の目でなく慈愛の目で見ていると自分自身を知ることができるかな。現在の毒蛇がだれの目にも危険とわかる日まで、個人にも世界にも、苦闘苦悩の絶え間はない。


[24031] Re:[24027] [24026] [23991] [23990] [23979] [23975] 意識の統合と分裂 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/07/04(Tue) 22:54  

> >  馬鹿野郎位はわかりますが、現実の日常生活は心理的思考、実用的思考と、微妙に入り交じっている。
> >  ですから、全ての思考をまず疑えと、新しい芽氏はいう。
> >  彼の場合は、自身の思考でさえも疑うという。その点徹底しています。
> >  彼曰く、自身の思考は信用しない。

 この話は、いつだっか、喫茶店でのS氏の話です。
「自分の思考は信用しない」
 この言葉は今でもやけに印象に残っている。新しい芽氏に対する評価で、本人の弁ではない。
>
> そうですか? ただ見ると言うなら垂れ流しのような感じもあるから、疑って、しかし受動的に見る。それは至高の敏感さで見ているという事。

 疑ってみる。ホントかどうか。疑う姿勢であれば、すくなくとも同一化はない。

> これは疑って見ることにより自然に実現するのでなく、手に入れようとするなら「ミラ取りがミイラ」になる。それが言葉上でわかるのでなく、ほんとに全身全霊でわかるなら、気づき、敏感に気づくことはおのずと起こる。

 気づくことが自ずと起こる?ここがわからない。
「人類の未来」にこういう箇所があった、80ページ。
 K曰く
「静けさは訓練された静けさではありません。頭脳は静かでなければなりません。自意識的で、沈思された、沈黙に対する欲求ではありません。それは自分自身の条件づけを理解することにより、自然に生まれてくる結果なのです」

 ここで、「自身の条件づけを理解することにより自然に生まれてくる」とある。そういうことだろうか。
 次に「頭脳が静かであれば、より奥底にあるものを聴くことができるということがわかる」とある。
 この沈黙は、静寂と同じ意味で、Kに限らず、ほとんどの覚者がいっている。たとえば竜王文庫「沈黙の声」

 私の見解では、はっきりと見ることです。人は見る、聞く,知覚は自動的に行っていますが、はっきりとは見ていない。イエスの万人に対して「目覚めなさい」というのは、こういうことではないでしょうか。人はいつも思考のベールをかぶせて見ている。見てるようで見ていない。ようするにはっきりと見る。これを「意識的に見る」ともいう。能動的な働きかけをしないで(思考の運動)明確に見る。何もしない。これが受動的。
 ですから、これらが自動的に起きるかと言うと,そうではないというのが私の見解。
 一番いい例が「蛇」の例。自分の部屋に、毒蛇が現れたとする。
 我々は噛まれてはいけないので、蛇の動きを全身全霊で注視する。これがまさしく注意の状態。心理的思考のはいる隙間がありません。蛇を見てるとき、他のことを考えてたら、それこそ噛まれてしまう。
 この「蛇」を、「思考の動き」に置き換えればKの言いたいことがよくわかります。思考を動きを注視する。これが注意の状態。はっきり見てる状態。我々は注意の状態に、即座に成ればいいのであって、それは自然に起きるとは違うのではないですか。
 ですからKのいう
 「自身の条件づけを理解することにより自然に生まれてくるという記述に疑問を感じます」

 危険を感じれば。誰でも即座の注意に成る。Kは思考を危険物とみなす。しかし、人間は思考は快楽を保証するので、手放そうとはしない。人は心地よいものには貪欲。
>


> > >
> > > 心理的観念が私はいつの間にかなくなっているのです。それで感情が煮えくり返るとい事がありません。
> >
> >  そうですか。心理的思考に感情が降り回されることはない。
> >
> > > 気づきの継続とか、見ることの継続ではなく、自分の握りしめていた思い込みの中の怪しげなものが消えればそれで終わりです。
> >
> >  「思い込みの中の怪しげなもの」?

心理的な思考のこと?

> >  それをいちいち確認するのが大変ですね。
>
> あなたはそれを確認しようという。それゆえいつも分別者、解釈者がいるのです。つまりそれが思考者です。慈愛の目ではなく思考の目で見ているのでは?
 ですから、思考を全部疑えというわけです。日常生活では、実用的思考と心理的思考と別けるのは困難です。
 釣り銭を数えるのは、実用的思考だが、釣り銭が足らないと怒るのは心理的思考。
 それと区分のことですが、例えば男と女、犬と猫というように、それらは見れば一目でわかるでしょう。思考は介入しない。記号だけです。
 差別と区別は違う。差別は心理的。区別は実用的。


> そうなるのは言葉に従って行動する(ロボット的?)という事が習慣的になっていて、創造的発想がないという事なのだろうか?

 言葉に従って行動すると言うが、人間の行動というのはまず頭で組み立ててから行動するだろう。それが習慣的になっている。朝6時起床。8時に家を出て、10時に会社。
 別にこれは問題ではない。
>
> > > 心理的なイメージのシステムが構築されています。そのなかにお化けがいるのです。そのお化けの正体が見えればそれまでなのです。心理的なシステムが崩壊します。

 心理的システムとは?
> >
> >  よく柳を比喩に出しますね。柳が幽霊に見える。
>
> そう本気で思います。実体としてわかる言葉もたくさんあります。しかし慈愛は言葉で説明できますが、それは意識できないものです。意識しているならそれは偽物でしょう。本物は無意識、無心で行われているのでしょう。

 そうです、内からの導きによって。いわば本心から。
>
> > > どうやってお化け退治をやるか、それが世界に通じるようにする必要があります。
> >  感情が動かなければ、問題は起きません。ようするに何が感情を動かしているのか。
 思考が感情を誘発する。感情というのは、すぐ醒めるもの。それを長く持続させようとするのが思考。
 怒りというのは、本来スカッとする感情。不快を植え付けるのがそれこそ思考。
 たとえば、言いたいことを言ってしまえば本来スカッとするが、現実はそうはいかないので、内に溜め込むことに成る。
 上司が怖い。あるいはかかあが怖いと、理屈を練る。

> >  人は感情的になるから問題がおきるわけです。感情が露になると対立を呼ぶ。
> >  ですから、社会に出ると人は感情を表に出さない術を学ぶ。不平不満を内に溜め、そのはけ口を求める。

 たいていは趣味で。それに没頭すれば、嫌なことは忘れる。

> >  人間は感情の動物と言われる所以。喜怒哀楽は必要不可欠。その中で怒りの感情だけ、なくそうというのは虫が良過ぎる。
> >  権力の理不尽さに対して怒りは必要不可欠。
>
> そう言ってその結果起こるのは権力の交代劇になってしまいます。

 そうした庶民の怒りがなければ、権力者の思うつぼ。歴史が証明している。
>
> >  感情のコントロールせよというのは、ほとんどの覚者がいうわけですが、クリシュナムルティは、感情についての言及があまり見受けられない。思考、思考というだけで。
> >  感情の動きなんか、体に反影されるので、すぐわかるのではないですか。
> >  腹がたっていることはリアルタイムでわかる。そのときは頭は炎上している。
> >  まさに火中の栗。

 まさに怒っているときに客観的な態度が取れるかどうか。栗が火中に出て、火を見れるかどうか。
 人が争っているとき、端で見てると、滑稽にうつる。何と大人げないと。みっともない。
 当事者になってしまうと、客観的態度をとれなくなる。
> >
> > > とりあえず、新参者、若輩者、目下、こう言った観念はお化けだ!という事でいいでしょうか?
> >
> >  幽霊ですか。そういった言葉は、その人を見れば即座にわかります。
> >  しかし、人生を長く生きている中高年はプライド、人生観、価値感を、無意識に形成している。長い時間かけて。それが行動原理というか、自身の生きる時の指針となっている。
>
> その通り。ほんとはどこかでちゃんとわかっている。それを捨てる気がないという事がもう一つあり、それが頭の固い権力層や支配層にある。成功者層とも言えるかな。
>
> >  そういったものは、どこで見るのだろうか?人と関わり合うとき出てくるのだろうか。やりとりで。しかし、その人のスタンスでそれ自体は問題ありません。
>
> それを必死に維持しようとする執着が当然の生死をかけて守りたいものになっている。
> それもそういう人たちのあるがままでもある。そういう人たちが自分で気づいて捨ててくれなければどうしようもない。
>
> >  各自自分の意見をもつということは当然のことです。問題は他人の意見を聞くことにある。相手の言い分をまず認める。相手に自分の意見を押し付けない。互いに理解する。相互理解への道。
>
> 相互理解の道と言って現状と無知が継続される。無知とはブッダもKも言っているが、覚者と祭り上げて、自分の執着は捨てない。普通の人が言えば防衛機制が働いて抵抗する。

 相互理解というのは、単純に、お互いの言い分を認めあうこと。しかし現実はそうではない。一方的に押し付けようとする。とくに腕力に優る男性側は、非力な女性に対して優越的態度をとる。相手を理解するつもりはさらさらない。これが現状。
 愛することより理解が先決。愛はすぐ醒める。
>
> >  イエスのいう、隣人を愛せよ、なんてのいうのは土台無理。隣人を理解する。それだったら万人に可能。
>
> 本当に理解するということは愛することでもある。

 理解というのは、互いの真のコミニュケーション。相対的な愛の取引とは違う。
 たとえばキリスト教とイスラム教、互いに理解する。しかし現実は反目する。互いに教えが違うので。
 しかし、違うのは当たり前。男と女は違うように。ところが同じものを見出そうとする。ここがトリック。立ち場を認めあうことがない。
 たしかに人は、全体で意識は「一つ」かもしれないが、人の顕れ方は、それぞれ違う。人は皆同じというような画一的ではない。個の尊重が重要。宇宙に多様性があるように、人間にも多様性がある。人間皆同じではない。
 (人間皆同じという発想は、全体主義、共産主義につながりやすいのではないだろうか。まさに画一的。個性がない)
 どうもKのいうことには賛同しない。他にも疑問点が多々ある。人間の想像力というものを軽視してしまっている。
 動物から脱却し、神から「想像力」を当たえられたのは、まさしく人間である。インド哲学では、想像力と、宇宙の想像力を同一視している。宇宙イコール人間。もし、地球上で、人間がいなければ,宇宙はないのと同じ。認識するものがないから。
 違いを認識せよ、というのは、ある哲人から教わった言葉です。


[24030] Re:[24029] [24027] [24026] [23991] [23990] [23979] [23975] 意識の統合と分裂 投稿者:ゴト 投稿日:2017/07/04(Tue) 13:51  

返信ありがとう。

慈愛の項は簡単にまとめて言いましょう。
私はひょっとすると慈愛があるのかもしれません。
しかしそれは意識することができない事なのです。覚者はいざ知らず、普通の人にとっては無意識でいる時にあるものです。
言わば盲愛であって、分別がないのです。ああしろ、こうしろがない。そのように育てられた人は成人して問題を起こさないのだそうです。軍隊で多くの兵卒を見ているとそれがわかったようです。


> > >  たぶんゴトさんの心境では、人や自然を分け隔てなく「愛せる」境地に成っているのだと思われます。
> > >  それに対し、自分自身では、人や事象を、分別なく分け隔てなく、愛するというのは不可能です。その前に「自分」というのが出る。
>
>  普通の人は、大体は自分第一主義。私の会社。私の家族。私の何とか。何事も自分優先。
> > >
> > >  ゴトさんとの会話の途中だったのですが、ゴトさんの24025を見終わったあと、ふと上記のことが浮かびました。

自分、私がある。そこが問題かもしれないと何となく感じた。
はい、それは要点かもしれません。

>  言葉としては、全ての人は知っています。どういうものかは知りません。
>  古今からその言葉は使われていますが、本質の意味を知らない。

そうです。シンボルとしてはわかっていて思考では討論できるが、実は実物を知らないで討論している。討論の立脚点が実はないんですね。するといわゆる神学論争になる。

> > > > >  腹が立たないのではなく、腹がたったで、その都度「見る」。その「見る」の継続。継続すればその内腹が立たなくなる。
> >
> > 見る時、あるがままのものを見るのならいいが、観念化してシンボルとして見ているなら、感情(例えば腹立ち)は強化される。抑圧するならストレスが増える。
>  「あるがままに見る」という言葉が、シンプルすぎてかえってむずかしい。

「あるがままに見る」と言うのはそのままに見ているであり、直視、あるいは直面しているという事です。
例えば「非難正当化」があるときは正邪や善悪というシンボルが干渉しています。

>  思考なしに事象を見るのか、それともその都度、浮かぶ思考を見るのかが、あいまい。
>  たとえば、ムッとするといったような気持ちは誰でもわかります。そのあと言語化が起きる。それは頭の中だけであり、口に出して言語化するというのは、まれでしょう。よほど腹に据えた時、言葉に出す。

今起こっている現象を見ている。続いてさらに思考が起こればそれを見ている。
本来単純なんだけれど、次々起こる思考とつい同一化して、見ることがどこかに行ってしまう。起こる事実を見ている世界から、シンボル(=考え)の世界に移ってしまう。

> > >  結局、そのとき起きたことを「慈愛の目」で見てるかどうかに尽きる。
> > > 周囲に対して、自身に対しても。

その通りなんですが、慈愛という、実現していないシンボル言葉が入っているので、普通の人には、実際には役に立たない。しかし、直感的に慈愛と言う言葉で何かを感じるなら、それは転機であるかもしれない。

>  これまでの、ゴトさんの言葉を伺った限りでは、ゴトさんは、ひょっとしたら「慈愛の目」で、見たり気づいたり、知覚されているのなと思った次第。
>  何故なら、分別なく、分け隔てなく見ていると、言われたので。
>  違ってたら訂正します。本人にはその自覚がないようで。

そうかもしれませんね。(汗)

>  ただ「見る」「気づく」「知覚する」だけで、分別がとれてしまうのでしたら凄いですね。
>  だとすると、全ての人にあてはまってもいいですが、何故実現しないのだろう。

本当に見る、気づく、知覚するができるという事は、分別がその場に出てこないという事です。両者は別のことではありません。だから方法はないのですよ。
全身全霊になることも同じです。

> >
> > >  想像ですが、「覚者」と言われた方々は、そのような心境が出来ているのではないでしょうか?それまでの精神遍歴は、各自それぞれですが。
> >
> > そうかもしれませんが、想像しても実際には何をしているのか?
>
>  覚者は分別の観念がないのでは、ということです。あなたは、「無分別」を実現されているので、この覚者の気持ちは。よくおわかりになるのでは。
>  普通の凡人はこのことが実現していないので、この「無分別」の境地は、想像にすぎなくなる。
>  覚者と凡人を比較したまで。

分別とか思考は私は実際問題について山ほど使うしかありません。感情を持った心理的な思考、分別が終わっただけです。

> >
> > > > 一度見るとそれは終わるのでは?それ以外のことが起きれは新たに見る。
> > >
> > >  慈愛の目でみれば、即座に思考の終焉。
> >
> > うむ、そうですが、慈愛の目で実際に見るとはどういう事だろう? 前提条件なしに見ているだろうか?

分別がないとか慈愛があるというのは自我がないという事、イコール心理的思考の終焉でもあるし、時間の終焉でもある。言葉は違うが起きているのは別のことではない。

>  慈愛の目で見ないから、思考は継続される。
>  クリシュナムルティは慈愛の目で見てるから、そのつど思考は終焉する。
>  この違いは、言葉で言うのは難しいが「境地」が違う、ということではないだろうか。

はい。そうです。

>  クリシュナムルティと同じ人間なのに、何故普通の人は実現できないのだろうか?私の考察では、境地が違う、というしかないでしょう。
>  何かきっかけになるものがないと、心境の変化が起きないようです。
>  クリシュナムルティの心境の変化は、伝記によると弟の死と記されている。
>  何かのエポイックなきっかけ。

>  どのように気づいているか、というのは新しい芽氏が、いわれた言葉ですが、それだけではわからず、慈愛の目で気づいているかどうか、といわれれば分かる気がします。あ、そういうことかと。
>  あなたのいわれる慈愛=覚者ということではありません。
>  慈愛というのは、覚者の専売特許ではなく、誰でももっているものです。
>  小さなお孫さんを、じっと身守るあなたの姿は、「慈愛」そのものでしょう。お孫さんの一挙手一挙手をじっと身守る。
>  母親は、常に心配の目で見ている。慈愛ではない。
>  これやっちゃだめ。あれやっちゃだめは、愛情の吐き違い。まさにかまいすぎ。
>  真の母親は、子供に好きなこと、やりたいことをとことんやらせる。そこに学びがある。藤井四段の母親のように。

そうです。
自己という事が問題でなくなるほどの経験があるかどうかは、かなりの差が出るかもしれません。


[24029] Re:[24027] [24026] [23991] [23990] [23979] [23975] 意識の統合と分裂 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/07/04(Tue) 11:01  

> >  歌舞伎の海老蔵が奥さんの臨終の際、奥さんから「愛している」と言われたと告白されていましたが、そういった「愛している」とは違います。
>
> それは他人にはわからないのでは? 死に臨んで言う言葉は神秘な直感なのでかもしれません。

  海老蔵さんのいう愛は、世間一般でいうところの愛。愛し愛される相対の世界。
 覚者といわれている人の愛というのは、そういった相対的な愛というものを超えたもの。
 絶対的な愛。たとえ相手に憎まれようとも愛する世界。イエスは、ぶたれたら、頬を差し出せと。Kの言葉には、隣人の苦しみは、即自分の苦しみとある。
 わかりやすく対比する意味で、海老蔵さんの言葉を紹介しました。
>
> >  普遍的な愛ということか、言葉でいうのがむずかしい。誤解を受ける言葉。

> >  たぶんゴトさんの心境では、人や自然を分け隔てなく「愛せる」境地に成っているのだと思われます。
> >  それに対し、自分自身では、人や事象を、分別なく分け隔てなく、愛するというのは不可能です。その前に「自分」というのが出る。

 普通の人は、大体は自分第一主義。私の会社。私の家族。私の何とか。何事も自分優先。
> >
> >  ゴトさんとの会話の途中だったのですが、ゴトさんの24025を見終わったあと、ふと上記のことが浮かびました。
>
> 愛については仰せの通りです。しかし問題は愛という言葉をシンボルとしては人は知っていますが、実際には知らず、多くの人が思考で解釈してやってみても、思ったようには何も実現しないという事です。理屈を超えたところにあるのでしょう。

 言葉としては、全ての人は知っています。どういうものかは知りません。
 古今からその言葉は使われていますが、本質の意味を知らない。

> > > >  腹が立たないのではなく、腹がたったで、その都度「見る」。その「見る」の継続。継続すればその内腹が立たなくなる。
>
> 見る時、あるがままのものを見るのならいいが、観念化してシンボルとして見ているなら、感情(例えば腹立ち)は強化される。抑圧するならストレスが増える。
 「あるがままに見る」という言葉が、シンプルすぎてかえってむずかしい。
 思考なしに事象を見るのか、それともその都度、浮かぶ思考を見るのかが、あいまい。
 たとえば、ムッとするといったような気持ちは誰でもわかります。そのあと言語化が起きる。それは頭の中だけであり、口に出して言語化するというのは、まれでしょう。よほど腹に据えた時、言葉に出す。
>
> >  結局、そのとき起きたことを「慈愛の目」で見てるかどうかに尽きる。
> > 周囲に対して、自身に対しても。
>
> その通りですが、慈愛の目で見ているかが残念ながら皆目わからない。

 これまでの、ゴトさんの言葉を伺った限りでは、ゴトさんは、ひょっとしたら「慈愛の目」で、見たり気づいたり、知覚されているのなと思った次第。
 何故なら、分別なく、分け隔てなく見ていると、言われたので。
 違ってたら訂正します。本人にはその自覚がないようで。

 ただ「見る」「気づく」「知覚する」だけで、分別がとれてしまうのでしたら凄いですね。
 だとすると、全ての人にあてはまってもいいですが、何故実現しないのだろう。

>
> >  想像ですが、「覚者」と言われた方々は、そのような心境が出来ているのではないでしょうか?それまでの精神遍歴は、各自それぞれですが。
>
> そうかもしれませんが、想像しても実際には何をしているのか?

 覚者は分別の観念がないのでは、ということです。あなたは、「無分別」を実現されているので、この覚者の気持ちは。よくおわかりになるのでは。
 普通の凡人はこのことが実現していないので、この「無分別」の境地は、想像にすぎなくなる。
 覚者と凡人を比較したまで。
>
>
> > > 一度見るとそれは終わるのでは?それ以外のことが起きれは新たに見る。
> >
> >  慈愛の目でみれば、即座に思考の終焉。
>
> うむ、そうですが、慈愛の目で実際に見るとはどういう事だろう? 前提条件なしに見ているだろうか?

 慈愛の目で見ないから、思考は継続される。
 クリシュナムルティは慈愛の目で見てるから、そのつど思考は終焉する。
 この違いは、言葉で言うのは難しいが「境地」が違う、ということではないだろうか。
 クリシュナムルティと同じ人間なのに、何故普通の人は実現できないのだろうか?私の考察では、境地が違う、というしかないでしょう。
 何かきっかけになるものがないと、心境の変化が起きないようです。
 クリシュナムルティの心境の変化は、伝記によると弟の死と記されている。
 何かのエポイックなきっかけ。
>
> >  「気づき」は見えている、聞こえている、知覚しているということだから、人の基本的な機能。出来る出来ないの話ではない。
> >  問題は、どのように気づいているか。慈愛の目で気づいているのか?それとも?
> >
> > > それは実際に何を意味するかはっきりしません。いや象徴的な意味で使われているのはわかります。変化することなのでしょうが、それもその実際はあなたにとって言葉的には覚者になることなどと言えますが、実際に何が起こるか言えないでしょう。
> >
 どのように気づいているか、というのは新しい芽氏が、いわれた言葉ですが、それだけではわからず、慈愛の目で気づいているかどうか、といわれれば分かる気がします。あ、そういうことかと。
 あなたのいわれる慈愛=覚者ということではありません。
 慈愛というのは、覚者の専売特許ではなく、誰でももっているものです。
 小さなお孫さんを、じっと身守るあなたの姿は、「慈愛」そのものでしょう。お孫さんの一挙手一挙手をじっと身守る。
 母親は、常に心配の目で見ている。慈愛ではない。
 これやっちゃだめ。あれやっちゃだめは、愛情の吐き違い。まさにかまいすぎ。
 真の母親は、子供に好きなこと、やりたいことをとことんやらせる。そこに学びがある。藤井四段の母親のように。





[24028] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/07/03(Mon) 00:02  

24027は今日朝からぼつぼつと長い時間推敲して書いたのですが、書き終えて投稿して読み直すとまだあなたの言いたいことにまともに答えていないことがわかりました。

返信を期待して待っています。


[24027] Re:[24026] [23991] [23990] [23979] [23975] 意識の統合と分裂 投稿者:ゴト 投稿日:2017/07/02(Sun) 23:46  

>  結局、人を愛せるかどうかではないですか。人に限らず、自然に対しても。
> 人に対して、分別なく愛せるかどうか。分け隔てなく。
>  この愛するという言葉、いうまでもなく世間でいうところの俗的に使う愛ではありません。相対的な愛というか、それらを超えたもの。たしかに思考を超えたものとそういうことになります。結局クリシュナムルティは「愛」を説いていると。
>  歌舞伎の海老蔵が奥さんの臨終の際、奥さんから「愛している」と言われたと告白されていましたが、そういった「愛している」とは違います。

それは他人にはわからないのでは? 死に臨んで言う言葉は神秘な直感なのでかもしれません。

>  普遍的な愛ということか、言葉でいうのがむずかしい。誤解を受ける言葉。
>  愛と言えば,キリスト教も同じように説いています。しかし、歴史の現実は真逆になっている。
>  Kの記述でも「気づき」とか「見る」という言葉を持ち出すと、かえってわからなくなるようです。
>  たぶんゴトさんの心境では、人や自然を分け隔てなく「愛せる」境地に成っているのだと思われます。
>  それに対し、自分自身では、人や事象を、分別なく分け隔てなく、愛するというのは不可能です。その前に「自分」というのが出る。
>
>  ゴトさんとの会話の途中だったのですが、ゴトさんの24025を見終わったあと、ふと上記のことが浮かびました。

愛については仰せの通りです。しかし問題は愛という言葉をシンボルとしては人は知っていますが、実際には知らず、多くの人が思考で解釈してやってみても、思ったようには何も実現しないという事です。理屈を超えたところにあるのでしょう。

>
>  前回の続き
>
> > >  腹が立たないのではなく、腹がたったで、その都度「見る」。その「見る」の継続。継続すればその内腹が立たなくなる。

見る時、あるがままのものを見るのならいいが、観念化してシンボルとして見ているなら、感情(例えば腹立ち)は強化される。抑圧するならストレスが増える。

>  結局、そのとき起きたことを「慈愛の目」で見てるかどうかに尽きる。
> 周囲に対して、自身に対しても。

その通りですが、慈愛の目で見ているかが残念ながら皆目わからない。

>  想像ですが、「覚者」と言われた方々は、そのような心境が出来ているのではないでしょうか?それまでの精神遍歴は、各自それぞれですが。

そうかもしれませんが、想像しても実際には何をしているのか?


> > 一度見るとそれは終わるのでは?それ以外のことが起きれは新たに見る。
>
>  慈愛の目でみれば、即座に思考の終焉。

うむ、そうですが、慈愛の目で実際に見るとはどういう事だろう? 前提条件なしに見ているだろうか?

> > >  それとも、本当に「気づき」が出来れば,二度と腹立ちが起きなくなる。そういうことですか。
>
>  これは愚問でした。
> >
> > 「気づき」は見えたことの別の言い方。
> > 本当に気づきができればとおっしゃいますが、タラレバでは言葉は操れてもその実際は見えないからわからないでしょう。
>
>  「気づき」は見えている、聞こえている、知覚しているということだから、人の基本的な機能。出来る出来ないの話ではない。
>  問題は、どのように気づいているか。慈愛の目で気づいているのか?それとも?
>
> > それは実際に何を意味するかはっきりしません。いや象徴的な意味で使われているのはわかります。変化することなのでしょうが、それもその実際はあなたにとって言葉的には覚者になることなどと言えますが、実際に何が起こるか言えないでしょう。
>
>  何が起きているか、慈愛の目で観察する。別な言葉でいうと、深く観察する。
>  どのように気づいているかどうか。慈愛の目で、気づいてるかどうか。
> >
> > >  普通は前者、見ることを継続しようとしたが、そのうち見ることをやめる。
>  見るということを「方法」と見てしまうと続かない。巷では「気づきのトレーニング」として訓練化している。
> >
> > 実際とのつながりが実はわかっていない観念を使って行動を決めるという事、これが実は問題ではないですか?
>
>  現実には、思考が次々出てきますから、それを、いちいち「心理的思考」「そうでない思考」というように、別けることは不可能でしょう。

ただ見るというのは判別しながら見ることではない。判別も何もなしに見ている。

>  馬鹿野郎位はわかりますが、現実の日常生活は心理的思考、実用的思考と、微妙に入り交じっている。
>  ですから、全ての思考をまず疑えと、新しい芽氏はいう。
>  彼の場合は、自身の思考でさえも疑うという。その点徹底しています。
>  彼曰く、自身の思考は信用しない。

そうですか? ただ見ると言うなら垂れ流しのような感じもあるから、疑って、しかし受動的に見る。それは至高の敏感さで見ているという事。
これは疑って見ることにより自然に実現するのでなく、手に入れようとするなら「ミラ取りがミイラ」になる。それが言葉上でわかるのでなく、ほんとに全身全霊でわかるなら、気づき、敏感に気づくことはおのずと起こる。

> >
> > 心理的観念が私はいつの間にかなくなっているのです。それで感情が煮えくり返るとい事がありません。
>
>  そうですか。心理的思考に感情が降り回されることはない。
>
> > 気づきの継続とか、見ることの継続ではなく、自分の握りしめていた思い込みの中の怪しげなものが消えればそれで終わりです。
>
>  「思い込みの中の怪しげなもの」?
>  それをいちいち確認するのが大変ですね。

あなたはそれを確認しようという。それゆえいつも分別者、解釈者がいるのです。つまりそれが思考者です。慈愛の目ではなく思考の目で見ているのでは? そうなるのは言葉に従って行動する(ロボット的?)という事が習慣的になっていて、創造的発想がないという事なのだろうか?

> > 心理的なイメージのシステムが構築されています。そのなかにお化けがいるのです。そのお化けの正体が見えればそれまでなのです。心理的なシステムが崩壊します。
>
>  よく柳を比喩に出しますね。柳が幽霊に見える。

そう本気で思います。実体としてわかる言葉もたくさんあります。しかし慈愛は言葉で説明できますが、それは意識できないものです。意識しているならそれは偽物でしょう。本物は無意識、無心で行われているのでしょう。

> > どうやってお化け退治をやるか、それが世界に通じるようにする必要があります。
>  感情が動かなければ、問題は起きません。ようするに何が感情を動かしているのか。
>  人は感情的になるから問題がおきるわけです。感情が露になると対立を呼ぶ。
>  ですから、社会に出ると人は感情を表に出さない術を学ぶ。不平不満を内に溜め、そのはけ口を求める。
>  人間は感情の動物と言われる所以。喜怒哀楽は必要不可欠。その中で怒りの感情だけ、なくそうというのは虫が良過ぎる。
>  権力の理不尽さに対して怒りは必要不可欠。

そう言ってその結果起こるのは権力の交代劇になってしまいます。

>  感情のコントロールせよというのは、ほとんどの覚者がいうわけですが、クリシュナムルティは、感情についての言及があまり見受けられない。思考、思考というだけで。
>  感情の動きなんか、体に反影されるので、すぐわかるのではないですか。
>  腹がたっていることはリアルタイムでわかる。そのときは頭は炎上している。
>  まさに火中の栗。
>
> > とりあえず、新参者、若輩者、目下、こう言った観念はお化けだ!という事でいいでしょうか?
>
>  幽霊ですか。そういった言葉は、その人を見れば即座にわかります。
>  しかし、人生を長く生きている中高年はプライド、人生観、価値感を、無意識に形成している。長い時間かけて。それが行動原理というか、自身の生きる時の指針となっている。

その通り。ほんとはどこかでちゃんとわかっている。それを捨てる気がないという事がもう一つあり、それが頭の固い権力層や支配層にある。成功者層とも言えるかな。

>  そういったものは、どこで見るのだろうか?人と関わり合うとき出てくるのだろうか。やりとりで。しかし、その人のスタンスでそれ自体は問題ありません。

それを必死に維持しようとする執着が当然の生死をかけて守りたいものになっている。
それもそういう人たちのあるがままでもある。そういう人たちが自分で気づいて捨ててくれなければどうしようもない。

>  各自自分の意見をもつということは当然のことです。問題は他人の意見を聞くことにある。相手の言い分をまず認める。相手に自分の意見を押し付けない。互いに理解する。相互理解への道。

相互理解の道と言って現状と無知が継続される。無知とはブッダもKも言っているが、覚者と祭り上げて、自分の執着は捨てない。普通の人が言えば防衛機制が働いて抵抗する。

>  イエスのいう、隣人を愛せよ、なんてのいうのは土台無理。隣人を理解する。それだったら万人に可能。

本当に理解するということは愛することでもある。


[24026] Re:[23991] [23990] [23979] [23975] 意識の統合と分裂 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/07/02(Sun) 11:30  

 結局、人を愛せるかどうかではないですか。人に限らず、自然に対しても。
人に対して、分別なく愛せるかどうか。分け隔てなく。
 この愛するという言葉、いうまでもなく世間でいうところの俗的に使う愛ではありません。相対的な愛というか、それらを超えたもの。たしかに思考を超えたものとそういうことになります。結局クリシュナムルティは「愛」を説いていると。
 歌舞伎の海老蔵が奥さんの臨終の際、奥さんから「愛している」と言われたと告白されていましたが、そういった「愛している」とは違います。
 普遍的な愛ということか、言葉でいうのがむずかしい。誤解を受ける言葉。
 愛と言えば,キリスト教も同じように説いています。しかし、歴史の現実は真逆になっている。
 Kの記述でも「気づき」とか「見る」という言葉を持ち出すと、かえってわからなくなるようです。
 たぶんゴトさんの心境では、人や自然を分け隔てなく「愛せる」境地に成っているのだと思われます。
 それに対し、自分自身では、人や事象を、分別なく分け隔てなく、愛するというのは不可能です。その前に「自分」というのが出る。

 ゴトさんとの会話の途中だったのですが、ゴトさんの24025を見終わったあと、ふと上記のことが浮かびました。


 前回の続き

> >  腹が立たないのではなく、腹がたったで、その都度「見る」。その「見る」の継続。継続すればその内腹が立たなくなる。

 結局、そのとき起きたことを「慈愛の目」で見てるかどうかに尽きる。
周囲に対して、自身に対しても。
 想像ですが、「覚者」と言われた方々は、そのような心境が出来ているのではないでしょうか?それまでの精神遍歴は、各自それぞれですが。
>
> 一度見るとそれは終わるのでは?それ以外のことが起きれは新たに見る。

 慈愛の目でみれば、即座に思考の終焉。
>
> >  それとも、本当に「気づき」が出来れば,二度と腹立ちが起きなくなる。そういうことですか。

 これは愚問でした。
>
> 「気づき」は見えたことの別の言い方。
> 本当に気づきができればとおっしゃいますが、タラレバでは言葉は操れてもその実際は見えないからわからないでしょう。

 「気づき」は見えている、聞こえている、知覚しているということだから、人の基本的な機能。出来る出来ないの話ではない。
 問題は、どのように気づいているか。慈愛の目で気づいているのか?それとも?

> それは実際に何を意味するかはっきりしません。いや象徴的な意味で使われているのはわかります。変化することなのでしょうが、それもその実際はあなたにとって言葉的には覚者になることなどと言えますが、実際に何が起こるか言えないでしょう。

 何が起きているか、慈愛の目で観察する。別な言葉でいうと、深く観察する。
 どのように気づいているかどうか。慈愛の目で、気づいてるかどうか。
>
> >  普通は前者、見ることを継続しようとしたが、そのうち見ることをやめる。
 見るということを「方法」と見てしまうと続かない。巷では「気づきのトレーニング」として訓練化している。
>
> 実際とのつながりが実はわかっていない観念を使って行動を決めるという事、これが実は問題ではないですか?

 現実には、思考が次々出てきますから、それを、いちいち「心理的思考」「そうでない思考」というように、別けることは不可能でしょう。
 馬鹿野郎位はわかりますが、現実の日常生活は心理的思考、実用的思考と、微妙に入り交じっている。
 ですから、全ての思考をまず疑えと、新しい芽氏はいう。
 彼の場合は、自身の思考でさえも疑うという。その点徹底しています。
 彼曰く、自身の思考は信用しない。
 
>
> 心理的観念が私はいつの間にかなくなっているのです。それで感情が煮えくり返るとい事がありません。

 そうですか。心理的思考に感情が降り回されることはない。

> 気づきの継続とか、見ることの継続ではなく、自分の握りしめていた思い込みの中の怪しげなものが消えればそれで終わりです。

 「思い込みの中の怪しげなもの」?
 それをいちいち確認するのが大変ですね。
>
> 心理的なイメージのシステムが構築されています。そのなかにお化けがいるのです。そのお化けの正体が見えればそれまでなのです。心理的なシステムが崩壊します。

 よく柳を比喩に出しますね。柳が幽霊に見える。
>
> どうやってお化け退治をやるか、それが世界に通じるようにする必要があります。
 感情が動かなければ、問題は起きません。ようするに何が感情を動かしているのか。
 人は感情的になるから問題がおきるわけです。感情が露になると対立を呼ぶ。
 ですから、社会に出ると人は感情を表に出さない術を学ぶ。不平不満を内に溜め、そのはけ口を求める。
 人間は感情の動物と言われる所以。喜怒哀楽は必要不可欠。その中で怒りの感情だけ、なくそうというのは虫が良過ぎる。
 権力の理不尽さに対して怒りは必要不可欠。

 感情のコントロールせよというのは、ほとんどの覚者がいうわけですが、クリシュナムルティは、感情についての言及があまり見受けられない。思考、思考というだけで。
 感情の動きなんか、体に反影されるので、すぐわかるのではないですか。
 腹がたっていることはリアルタイムでわかる。そのときは頭は炎上している。
 まさに火中の栗。

> とりあえず、新参者、若輩者、目下、こう言った観念はお化けだ!という事でいいでしょうか?

 幽霊ですか。そういった言葉は、その人を見れば即座にわかります。
 しかし、人生を長く生きている中高年はプライド、人生観、価値感を、無意識に形成している。長い時間かけて。それが行動原理というか、自身の生きる時の指針となっている。
 そういったものは、どこで見るのだろうか?人と関わり合うとき出てくるのだろうか。やりとりで。しかし、その人のスタンスでそれ自体は問題ありません。
 各自自分の意見をもつということは当然のことです。問題は他人の意見を聞くことにある。相手の言い分をまず認める。相手に自分の意見を押し付けない。互いに理解する。相互理解への道。
 イエスのいう、隣人を愛せよ、なんてのいうのは土台無理。隣人を理解する。それだったら万人に可能。


[24025] Re:[24023] 腹立ちに直面するということ。 投稿者:ゴト 投稿日:2017/07/01(Sat) 23:27  

>  途中YHWHさんの投稿が入り、遅くなってしまいました。ここから肝心なところです。今まで「序章」という感じ。これから知識を棚上げして、生でやりとりをしようと思います。

大賛成です。しかし心理的知識以外の知識は活用しましょう。

>  幾分きついことをいい、あなたの「プライド」?を傷つけるか知れませんがご容赦下さい。
>  (えっ「プライド」などないというのは陰の声)

プライドはないのではないかな。

> > >  ここで聞きにくいことを一つお聞きしたいのですが、心理的なことについてです。あなたは今や長く生きて人生の先輩になりここまで生きてきました。これまでで、たとえば自分の年下のものに、指摘というか、ああだこうだいわれたとき、どんな気持ちになるかということです。
> > >  同僚や先輩なら、ああだこうだいわれても、そうは腹がたたないものですが、後輩、あるいは若輩のものにああだこうだといわれると気持ちのいいものではない。私なら当然腹がたつ。それが図星であっても。もちろん口にしませんが。「◯◯にいわれたくない」と。こういうのは、学校でも会社でもよくあることです。

若い時から争いになると何のためにやっているかばかばかしくなって、やめるというか、どうでもよくなってしまうという事がありました。
プライドのような観念的なことに執着・こだわりがあっても、すぐほどけてしまいます。

ただ母や、妻との間ではそうはいきませんでした。自分のことをなぜわかってくれないのかという事があったようです。これがなかなか抜けなかったがついに抜けた。

>  簡潔にいうと、年下、あるいは若輩に何か言われると腹がたってくるということです。
>  長い間生きていると、そういうことをよく経験する。会社でも家でも。
>  上司に注意されると「すいません」とぺこぺこ
>  部下に注意されると「生意気な」ということになる。
>  自分自身体験したことで、わかりやすく象徴的に書いている。誰にでも経験するという意味で。
>
> > >  さて貴方は、今や「気づき」を実現してるので、もし、仮に若い人から注意を受けても、動揺しない。平常心を保つということでしょうか。

動揺の元になる固定概念(例えばプライドとか若輩とか)が消えてきたのかな。

> > ええと若い人というのは確かにいます。しかしそれは新参者、目下のもの、若輩という意識あるいは観念なしです。

>  ことわっておきますが、あなたがKに出会う前の話を聞いている。上記の経験は誰でもあるはず。

若い時はたいてい痛いことを言われるので、反論できずに引きさがっていましたね。

>  Kに出会ってから、「分別」はなくなったというのではお互いの検討に成りません。

Kにあってから心理的思考は長い時計的時間をかけて消えていきました。それでいいのだと思いますが?そうでなければKは何なんのかという事になる。

>  よくある「気づき人」と「気づかない人」との対話に成りがち。同じ「土俵」ではない。
>  あなたは社会生活におくっていた時、そういった「分別」はないということですか。たとえば「男」「女」の区別なく。「若輩」「先輩」の区別なく。

区別と言っても身分的上下とか、尊卑という観念がないという事です。誰にも一個人として対等であるが尊重して対するという事です。動物でも植物でも同じです。

>  私の知人は、定年後あるところに就職したが、若い社員から、手取り足取り基礎から教えられたと言う。「内心」屈辱だったとその人は言う。ときにはその若い奴に怒鳴られて。
>  あなたはそういったこととは無縁のようだ。

そうです。上の記述のようでは生きていくのが重くてしょうがないでしょう。シンボルシステムの中で生きているとそうなる。シンボルシステムというのは観念によってつくられたシステム(体系)ということです。思考の架空の世界の中にいる。

> > 私には子供もいるし、孫もいるし、ひ孫もいます。彼らも世の人のほとんどが確かに若い。それだけです。
>
>  そうですか。随分達観しましたね。同じ人でも、「身内」と「それ以外の人」では対応がかわるはずだが。

昔は身内の人(母と妻)に対しわがままだったことは先述しました。子供に対してはわがままを出すという事はありませんでした。成人してからは身内の一個の人として付き合っています。

> > だから何か言われたたらその事を考えます、もっともなこともあるし、誤解もあるし、いろいろあるでしょうが、まじめに受け取るべきだと思ったことは考えて返事するだけです。
>
>  そうですか。別に感情を乱すことはないと。

はい。注意して見ていると感情が出るという事はありません。
何かに断片的にこだわっていると関係の中に隙間が生じます。

> > >  分かりやすい例を言いうと、あなたは仮に釣りが未熟だとする。(あくまでたとえ。実際はわかりません。)釣りが上手な若い人にああだこうだ指摘を受けたとする。どう反応するか。これは釣りに限らず将棋でも何でもいいです。

私は飛び切りうまい数人の人のグループに囲まれて、そのリーダーに指導を受けていました。その人たち(私より10歳は年下)にはいつもダメだなあと言われていましたが、それは当たり前です。だから若い人は声をかけることはありません。
今は一人で釣っています。私はたぶん一番年寄りでしょう。声をかける人はありません。どこの誰なのだろうと思っているのでしょう。昔の仲間でまだ釣っている人にたまに出会うと並んで釣ります。

> > 私が下手なことは釣りをやっている人が少し見ればわかるでしょう。うまい人は普通自分からは声をかけないと思います。しかしもし声をかけてくれれば黙って聞きます。
>
>  仮によその人から「おたく釣りを何年やってんの。いつまでたってうまくならないね」
>  あなたは、黙って聞く。
>  私は、そのことを言われたら、内心腸(はらわた)が煮えくり返ります。
> 文字ドウリ虫酸が走る。
>  (あくまで、極端なケースをいってます。あしからず)
> >
> > >  あなたは人を、「若い」「中年」などと判別しないで受け取るということでしょうか。私なら人を見て反応する。
>
>  そうです。若い女性から、注意を受けると腸が煮えくり返る。
>  「何をこのアマ!」という感じ。
>  同僚なら、何も言わない。
> >
> > 若いとか、中年はよくわかる実際のことと結びついています。
> > 反応の仕様がありません。
>
>  そうですか。それでは検討のしようはないですか。
>  怒りに直面するということを検討しようとしても、あなたに「怒り」がないというのでは検討できません。
>  そういうのは、実際に修羅場を経験しないと検討できないかもしれません。

> > >  自分の若輩なのに、明らかにその人は悟っていると見る時、自分は力量不足でまだ悟りには程遠い。そのとき「やっかみ」が起きるかどうか。こいつわかいくせに。これも比較の論理ですが。

ええと、検討と言いますが、やっかみも私は経験していますよ。それを直視することを検討したいのですか?それは昔ずいぶん話しました。とにかくトライすること。反応や解釈が起こります。その中に引きずり込まれることに気づく。その気づいているままにいるのがじかに見ている、聴いている、感じているという事です。何が起ころうが見るに戻ることを繰り返しましょう。

>   読書会に参加したときのこと。何もかもわかっていると思われる人がいて、思わず「やっかみ」を感じたものです。
>  「こいつ、若いくせに悟ったやがる」と。自身のかけがえのなさのあらわれでもあります。
>
>  今日はここまで。後半の部分は、後日

どうも何か食い違っているな。
私は感情が起き、執着が強い人を否定はしていません。
その原因は、私もその一例ですが、観念を持ち、それを手放そうとしないからです。

それを理解して、悟って手放せばことは終わりです。見るとか気づくという事は、即時の理解や(ミニ)悟りと、言葉・言い表し方が違うだけで実際は同じことです。

シンボルシステムの大欠点を見破って、それに引きずり込まれることなく、扱うことがすべてです。


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