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[23856] Re:[23854] [23849] [23844] [23842] [23839] [23838] [23837] [23835] [23832] [23827] [23819] バンザイ! 投稿者:宮啓 投稿日:2017/05/19(Fri) 10:48  

> > > > > > > 意識は普通既知のものが詰まって機能していますが、既知のものを空にした意識、と言うのはおかしいのかな、精神と言わなければいけないのかな、それは見ている時の境地なのかもしれませんね。あるいはその二つの境地の境目の状態なのか。
> > > > > > >
> > > > > > > 意識の中身を空にする道を、人類はずっと無意識的に求めてきたのかもしれません。見ることがKの指し示めした空なる境地への境にあるドアなのかも知れませんね。
> > > > > > >
> > > > > > > 人間が言葉の上に築き上げたものは部分的な事実にとどまります。ここに箴言という語で表したものは、全体性に目を向ける契機ともなりうる言葉の意です。同じことを目指した行動(かっこよく言えば行(ぎょう))もあります。まがい物を含めて。
> > > > > > >
> > > > > > > 言葉で作り出したものが部分的でも真実ならいいのですが、何かとんでもないものを創り出している感もあり、それはどうすればいいのでしょうか?
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > >  思考(言葉)は、自由な開花(フラワリング)に投影し、影響を与える旨がクリシュナムルティによって述べられています。
> > > > > >
> > > > > >  フラワリングが自由に進むためには、思考(言葉)は不要ということです。
> > > > > >
> > > > > >  この思考が不要(障害)であることを身をもって識るために、クリシュナムルティの陳述を聴く。覚者の言葉に耳を傾ける。
> > > > >
> > > > > 今回の引用の冒頭に意識という語を使いましたが、実はこの「意識」という語が私はわかっていません。
> > > > > 感情は意識的に変えることは困難?できない?ですが、するとこれは意識ではないと言っていいでしょうか?
> > > > >
> > > > > 意識とは言葉のように表現を選択し、記憶が必要で、根拠のあるものでしょうか? それとも覚醒状態とでも言うようなものでしょうか? すると感情も意識に入ると思うのですが。
> > > > > アウェアネスは意識の範疇に入りますか? その辺が急に気になりました。脳科学の本を読んでそこにぶつかりました。
> > > > >
> > > > > ちゃんとしたレスになっていませんが、続きは明日の午後に又。
> > > >
> > > >
> > > >  一般の用語としての「意識」とクリシュナムルティが述べる「意識」の差異についてですね。
> > > >
> > > >  「思考」「感情」「意識」「精神」。クリシュナムルティはこれらの用語を巧みに用いています。
> > > >
> > > >  感情は思考に含まれる。無意識は存在しない。睡眠中も思考の流れに気づいている。個別的精神と普遍的精神。
> > > >
> > > >  そしてアウェアネスとアテンション。
> > > >
> > > >  アウェアネスは意識の範疇に入ると、個人的には思っています。
> > >
> > > レスありがとうございます。
> > > 実は感情に、命名される前の状態と、命名と言うか、意識されたというか、それらの後の感情があるような気がするのです。
> > >
> > > 命名される前の感情はリアルなもので、命名後の感情は言葉化された象徴的なものです。
> > >
> > > 心(=意識?)に跡として残るのは言葉化されたシンボル的な感情ではないかという事です。すると、この跡は消さなければなりません。空にする事とはこの事なのでしょうか? これはこれで重要なことです。
> > >
> > > では現場で見ているとはどういうことなのでしょう? 言葉化したシンボル的な代理物をつくらない事でしょうか。
> > >
> > > ここでいったん止めておきましょう。あまり進むと頭が混乱しそうなので。
> >
>
> ここまでは前々回までの筋ですが、今通して読むと流れがよくわかって話に入れます。
>
> >
> >  過去の跡が今現在現れ、それを見ることも「現場で見る」としてもよろしいでしょうか。
>
> いいと思いますよ。いま現に生じていることですから。
>
> >  なかなか「現場で」、最後まで見ることができないので・・(私の場合、必ずどこかで投影が入ります・・)。
> >
> >  命名される前の感情も知覚を通せば自己同一化しているようです。
>
> 思考のスクリーンを介して見ているという事ですね。
>
>
> >  『ボームの思考論』でも述べられているように、感覚・感受がすでに条件付けられているようです。
> >
> >  そこで、渡辺さんが述べるには、条件付けられた知覚によって起こる感情を、条件付けられた知覚による感情として「見る」。
> >
> >  これに自己同一化して、感情が高ぶれば、それを同一化して高ぶった感情として「見る」。
> >
> >  この高ぶった感情ゆえに非難・正当化の投影が不本意に出てしまう。この不本意に出てしまった非難・正当化の投影を帯びた高ぶった感情を、そのまま「非難・正当化の投影を帯びた高ぶった感情」として「見る」。
>
> 「・・・として」「見る」。まさに洞察していることを意味しているのだろうか?本質直感?
>
> >  ここから先は、私の個人的見解として述べさせて貰えれば、その「非難・正当化の投影を帯びた高ぶった感情」という解説用語は無しに、ただし、これを英知によって肌で感じた上で「見る」。
>
> はい、そういう事でしょうね。
>
> >  英知によって肌で感じた上で「見る」観察において、投影が止んでいないだろうか・・。
>
> 止んでいるでしょうね。間違いなく。
>
> そこで元の問題にもどりたいのですが。
>
> > > > > >  思考(言葉)は、自由な開花(フラワリング)に投影し、影響を与える旨がクリシュナムルティによって述べられています。
> > > > > >
> > > > > >  フラワリングが自由に進むためには、思考(言葉)は不要ということです。
> > > > > >
> > > > > >  この思考が不要(障害)であることを身をもって識るために、クリシュナムルティの陳述を聴く。覚者の言葉に耳を傾ける。
>
> 思考が不要(障害)という事は「見る」ことに思考が投影として無意識的に入ってくることが障害なのでしょうか?
>
> 投影はそもそもなぜ生じ、入ってくるのでしょうか? どんな役割を受け持っているのでしょうか? 関係に何かしっくりいかないものがあるとき、感情や投影が入るのだろうか?
>
> 私の文章もデス、マス調の時と、だろうかという調子になるときがありますが、だろうが出る時は今考え始めてつぶやくみたいな時のようです。


 完全に見るときに、思考や言葉が入ってくるのではなく、思考や言葉が出てくるように思います。

 そのような出てくる言葉や思考が、入ってくる言葉や思考に邪魔されると障害となるのではないでしょうか。

 脳がビカミング中、時間の中に浸かっているときには投影が避けられないように感じます。

 よって要は、なぜビカミングするのか?ということでしょうか。


[23855] Re:[23850] [23846] [23845] [23843] [23840] [23830] [23826] [23819] バンザイ! 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/05/19(Fri) 10:43  

> > > > >  それには欠点をお互い責めないで認めあうこと。「違い」の認識。「同じ」ものを求めあうとトリックに陥る。価値感の不一致?当たり前。男女というのは鏡の関係。

 男と女は同じもの。共有するものだと認識すると、とんだトリックに陥るだろう。価値感の共有などありえない。人間関係も同じ。互いに「違い」を認識する。価値感の違いを認めあう。たとえば日本人とアラブとは違う。違いを認めた上での平等。ところが世には、それにふまえないで皆同じという「悪平等」がはびこう。個の抹殺。




[23854] Re:[23849] [23844] [23842] [23839] [23838] [23837] [23835] [23832] [23827] [23819] バンザイ! 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/19(Fri) 09:55  

> > > > > > 意識は普通既知のものが詰まって機能していますが、既知のものを空にした意識、と言うのはおかしいのかな、精神と言わなければいけないのかな、それは見ている時の境地なのかもしれませんね。あるいはその二つの境地の境目の状態なのか。
> > > > > >
> > > > > > 意識の中身を空にする道を、人類はずっと無意識的に求めてきたのかもしれません。見ることがKの指し示めした空なる境地への境にあるドアなのかも知れませんね。
> > > > > >
> > > > > > 人間が言葉の上に築き上げたものは部分的な事実にとどまります。ここに箴言という語で表したものは、全体性に目を向ける契機ともなりうる言葉の意です。同じことを目指した行動(かっこよく言えば行(ぎょう))もあります。まがい物を含めて。
> > > > > >
> > > > > > 言葉で作り出したものが部分的でも真実ならいいのですが、何かとんでもないものを創り出している感もあり、それはどうすればいいのでしょうか?
> > > > >
> > > > >
> > > > >  思考(言葉)は、自由な開花(フラワリング)に投影し、影響を与える旨がクリシュナムルティによって述べられています。
> > > > >
> > > > >  フラワリングが自由に進むためには、思考(言葉)は不要ということです。
> > > > >
> > > > >  この思考が不要(障害)であることを身をもって識るために、クリシュナムルティの陳述を聴く。覚者の言葉に耳を傾ける。
> > > >
> > > > 今回の引用の冒頭に意識という語を使いましたが、実はこの「意識」という語が私はわかっていません。
> > > > 感情は意識的に変えることは困難?できない?ですが、するとこれは意識ではないと言っていいでしょうか?
> > > >
> > > > 意識とは言葉のように表現を選択し、記憶が必要で、根拠のあるものでしょうか? それとも覚醒状態とでも言うようなものでしょうか? すると感情も意識に入ると思うのですが。
> > > > アウェアネスは意識の範疇に入りますか? その辺が急に気になりました。脳科学の本を読んでそこにぶつかりました。
> > > >
> > > > ちゃんとしたレスになっていませんが、続きは明日の午後に又。
> > >
> > >
> > >  一般の用語としての「意識」とクリシュナムルティが述べる「意識」の差異についてですね。
> > >
> > >  「思考」「感情」「意識」「精神」。クリシュナムルティはこれらの用語を巧みに用いています。
> > >
> > >  感情は思考に含まれる。無意識は存在しない。睡眠中も思考の流れに気づいている。個別的精神と普遍的精神。
> > >
> > >  そしてアウェアネスとアテンション。
> > >
> > >  アウェアネスは意識の範疇に入ると、個人的には思っています。
> >
> > レスありがとうございます。
> > 実は感情に、命名される前の状態と、命名と言うか、意識されたというか、それらの後の感情があるような気がするのです。
> >
> > 命名される前の感情はリアルなもので、命名後の感情は言葉化された象徴的なものです。
> >
> > 心(=意識?)に跡として残るのは言葉化されたシンボル的な感情ではないかという事です。すると、この跡は消さなければなりません。空にする事とはこの事なのでしょうか? これはこれで重要なことです。
> >
> > では現場で見ているとはどういうことなのでしょう? 言葉化したシンボル的な代理物をつくらない事でしょうか。
> >
> > ここでいったん止めておきましょう。あまり進むと頭が混乱しそうなので。
>

ここまでは前々回までの筋ですが、今通して読むと流れがよくわかって話に入れます。

>
>  過去の跡が今現在現れ、それを見ることも「現場で見る」としてもよろしいでしょうか。

いいと思いますよ。いま現に生じていることですから。

>  なかなか「現場で」、最後まで見ることができないので・・(私の場合、必ずどこかで投影が入ります・・)。
>
>  命名される前の感情も知覚を通せば自己同一化しているようです。

思考のスクリーンを介して見ているという事ですね。


>  『ボームの思考論』でも述べられているように、感覚・感受がすでに条件付けられているようです。
>
>  そこで、渡辺さんが述べるには、条件付けられた知覚によって起こる感情を、条件付けられた知覚による感情として「見る」。
>
>  これに自己同一化して、感情が高ぶれば、それを同一化して高ぶった感情として「見る」。
>
>  この高ぶった感情ゆえに非難・正当化の投影が不本意に出てしまう。この不本意に出てしまった非難・正当化の投影を帯びた高ぶった感情を、そのまま「非難・正当化の投影を帯びた高ぶった感情」として「見る」。

「・・・として」「見る」。まさに洞察していることを意味しているのだろうか?本質直感?

>  ここから先は、私の個人的見解として述べさせて貰えれば、その「非難・正当化の投影を帯びた高ぶった感情」という解説用語は無しに、ただし、これを英知によって肌で感じた上で「見る」。

はい、そういう事でしょうね。

>  英知によって肌で感じた上で「見る」観察において、投影が止んでいないだろうか・・。

止んでいるでしょうね。間違いなく。

そこで元の問題にもどりたいのですが。

> > > > >  思考(言葉)は、自由な開花(フラワリング)に投影し、影響を与える旨がクリシュナムルティによって述べられています。
> > > > >
> > > > >  フラワリングが自由に進むためには、思考(言葉)は不要ということです。
> > > > >
> > > > >  この思考が不要(障害)であることを身をもって識るために、クリシュナムルティの陳述を聴く。覚者の言葉に耳を傾ける。

思考が不要(障害)という事は「見る」ことに思考が投影として無意識的に入ってくることが障害なのでしょうか?

投影はそもそもなぜ生じ、入ってくるのでしょうか? どんな役割を受け持っているのでしょうか? 関係に何かしっくりいかないものがあるとき、感情や投影が入るのだろうか?

私の文章もデス、マス調の時と、だろうかという調子になるときがありますが、だろうが出る時は今考え始めてつぶやくみたいな時のようです。


[23853] Re:[23850] [23846] [23845] [23843] [23840] [23830] [23826] [23819] バンザイ! 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/05/19(Fri) 06:08  


> Kは正しい考えはない、正しく考えることがあるだけだと言った。正しく考えるとはなにか?恐怖を尺度にすればいいのではないか。恐怖が起こればそれは正しい考えであって、正しく考えているのではないことが、体感としてわかる。
 「正しく考える」というのは「考え抜く」ということではないですか?それが正しい判断につながる。しかし人は「正しく考えてはいない」
 人間というのは岐路に立つ場面が何度か出てくる。ここが人生の別れ道と。
 正しく考えないと道を誤ることになる。とくに結婚相手を間違えると地獄に堕ちる。「こんなはずでは」と。
>
> 実像は、正しく考える時にみえるのかと。

はい。

> 付き合いだして、或いは結婚して、恐怖が起こればそれは、正しい考えであり、正しく考えてないのであって、所有につながる、かな。

 はい。お互い「正しく考える」のであれば、互いに束縛しません。「無所有の一体生活」になります。女房が怖いといった恐怖も起きません。思考の壁もない。しかし現実は互いに壁を築きます。一線を超えないという暗黙のルールが生じる。
 理想は、男女お互いにクリシュナムルティを学ぶことです。互いに研磨する。研鑽する。互いに学びあう。しかし現実はそうは問屋がおろさない。片方の一方通行のみ。片方が「妥協」の形をとる。


[23852] Re:[23850] [23846] [23845] [23843] [23840] [23830] [23826] [23819] バンザイ! 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/05/18(Thu) 22:13  


> 付き合いだして、或いは結婚して、恐怖が起こればそれは、正しい考えであり、正しく考えてないのであって、所有につながる、かな。

考えてみれば、紙切れ1枚で、人は「所有物」になる。私の夫、私の妻。自由恋愛はできない。女性は結婚すると、その人の「専属家政婦」あるいは「便利屋」。不倫が発覚すると俺の女に手を出しやがって。まさに所有。


[23851] Re:[23848] [23847] [23842] [23839] [23838] [23837] [23835] [23832] [23827] [23819] バンザイ! 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/05/18(Thu) 21:52  

> > アテンション?何それ?
>
> アテンションは「注意」です。
>
> 命名する前の感情についてコメントをくれると嬉しいんだけれど。

命名しなければ、ただその感情が起きているだけではないですか。周囲の反応によって。
たとえば映画を見てるときは、泣いたり笑ったり喜怒哀楽の感情が起きているだけです。いちいち感情移入しない。日常生活でこれをやれたら達人です。心の達人。達観者。しかし、凡人は「自分」にふりかかってくるとそうはいかなくなる。


[23850] Re:[23846] [23845] [23843] [23840] [23830] [23826] [23819] バンザイ! 投稿者:南方 投稿日:2017/05/18(Thu) 17:15  

> > > >  それには欠点をお互い責めないで認めあうこと。「違い」の認識。「同じ」ものを求めあうとトリックに陥る。価値感の不一致?当たり前。男女というのは鏡の関係。
> > >
> > > う〜ん、僕は女性と深く長くお付き合いしたことがあまりなく、若い頃は軽いノリでナンパで一回きりとか、でしたので、これから女性問題に関しては人生修行かなと考えています。
> >
> >
> > セックスの依存対象でもなく、経済的な依存対象でもない男女関係。
> >
> > 結局、心が投影された女性しか現れない?
>
> 心が自らの持つイメージを投影した女性が現れても、それは無意識の投影であって、実像ではないのでしょうね。ですから愛ではないのかな。しかし、そこにはエモーションがありますから相手の女性も気づいてそこに関係が生じるかな、それとも気持ち悪い、ごめんと言われてしまうかな?
>
> 難しい問いかけで困った。でもどっかで実像が見えないと依存、所有の有無もわからないのでは?



Kは正しい考えはない、正しく考えることがあるだけだと言った。正しく考えるとはなにか?恐怖を尺度にすればいいのではないか。恐怖が起こればそれは正しい考えであって、正しく考えているのではないことが、体感としてわかる。

実像は、正しく考える時にみえるのかと。
付き合いだして、或いは結婚して、恐怖が起こればそれは、正しい考えであり、正しく考えてないのであって、所有につながる、かな。


[23849] Re:[23844] [23842] [23839] [23838] [23837] [23835] [23832] [23827] [23819] バンザイ! 投稿者:宮啓 投稿日:2017/05/18(Thu) 16:12  

> > > > > 意識は普通既知のものが詰まって機能していますが、既知のものを空にした意識、と言うのはおかしいのかな、精神と言わなければいけないのかな、それは見ている時の境地なのかもしれませんね。あるいはその二つの境地の境目の状態なのか。
> > > > >
> > > > > 意識の中身を空にする道を、人類はずっと無意識的に求めてきたのかもしれません。見ることがKの指し示めした空なる境地への境にあるドアなのかも知れませんね。
> > > > >
> > > > > 人間が言葉の上に築き上げたものは部分的な事実にとどまります。ここに箴言という語で表したものは、全体性に目を向ける契機ともなりうる言葉の意です。同じことを目指した行動(かっこよく言えば行(ぎょう))もあります。まがい物を含めて。
> > > > >
> > > > > 言葉で作り出したものが部分的でも真実ならいいのですが、何かとんでもないものを創り出している感もあり、それはどうすればいいのでしょうか?
> > > >
> > > >
> > > >  思考(言葉)は、自由な開花(フラワリング)に投影し、影響を与える旨がクリシュナムルティによって述べられています。
> > > >
> > > >  フラワリングが自由に進むためには、思考(言葉)は不要ということです。
> > > >
> > > >  この思考が不要(障害)であることを身をもって識るために、クリシュナムルティの陳述を聴く。覚者の言葉に耳を傾ける。
> > >
> > > 今回の引用の冒頭に意識という語を使いましたが、実はこの「意識」という語が私はわかっていません。
> > > 感情は意識的に変えることは困難?できない?ですが、するとこれは意識ではないと言っていいでしょうか?
> > >
> > > 意識とは言葉のように表現を選択し、記憶が必要で、根拠のあるものでしょうか? それとも覚醒状態とでも言うようなものでしょうか? すると感情も意識に入ると思うのですが。
> > > アウェアネスは意識の範疇に入りますか? その辺が急に気になりました。脳科学の本を読んでそこにぶつかりました。
> > >
> > > ちゃんとしたレスになっていませんが、続きは明日の午後に又。
> >
> >
> >  一般の用語としての「意識」とクリシュナムルティが述べる「意識」の差異についてですね。
> >
> >  「思考」「感情」「意識」「精神」。クリシュナムルティはこれらの用語を巧みに用いています。
> >
> >  感情は思考に含まれる。無意識は存在しない。睡眠中も思考の流れに気づいている。個別的精神と普遍的精神。
> >
> >  そしてアウェアネスとアテンション。
> >
> >  アウェアネスは意識の範疇に入ると、個人的には思っています。
>
> レスありがとうございます。
> 実は感情に、命名される前の状態と、命名と言うか、意識されたというか、それらの後の感情があるような気がするのです。
>
> 命名される前の感情はリアルなもので、命名後の感情は言葉化された象徴的なものです。
>
> 心(=意識?)に跡として残るのは言葉化されたシンボル的な感情ではないかという事です。すると、この跡は消さなければなりません。空にする事とはこの事なのでしょうか? これはこれで重要なことです。
>
> では現場で見ているとはどういうことなのでしょう? 言葉化したシンボル的な代理物をつくらない事でしょうか。
>
> ここでいったん止めておきましょう。あまり進むと頭が混乱しそうなので。


 過去の跡が今現在現れ、それを見ることも「現場で見る」としてもよろしいでしょうか。

 なかなか「現場で」、最後まで見ることができないので・・(私の場合、必ずどこかで投影が入ります・・)。

 命名される前の感情も知覚を通せば自己同一化しているようです。

 『ボームの思考論』でも述べられているように、感覚・感受がすでに条件付けられているようです。

 そこで、渡辺さんが述べるには、条件付けられた知覚によって起こる感情を、条件付けられた知覚による感情として「見る」。

 これに自己同一化して、感情が高ぶれば、それを同一化して高ぶった感情として「見る」。

 この高ぶった感情ゆえに非難・正当化の投影が不本意に出てしまう。この不本意に出てしまった非難・正当化の投影を帯びた高ぶった感情を、そのまま「非難・正当化の投影を帯びた高ぶった感情」として「見る」。

 ここから先は、私の個人的見解として述べさせて貰えれば、その「非難・正当化の投影を帯びた高ぶった感情」という解説用語は無しに、ただし、これを英知によって肌で感じた上で「見る」。

 英知によって肌で感じた上で「見る」観察において、投影が止んでいないだろうか・・。



[23848] Re:[23847] [23842] [23839] [23838] [23837] [23835] [23832] [23827] [23819] バンザイ! 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/18(Thu) 10:27  

> アテンション?何それ?

アテンションは「注意」です。

命名する前の感情についてコメントをくれると嬉しいんだけれど。


[23847] Re:[23842] [23839] [23838] [23837] [23835] [23832] [23827] [23819] バンザイ! 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/05/18(Thu) 09:33  


> > 今回の引用の冒頭に意識という語を使いましたが、実はこの「意識」という語が私はわかっていません。
> > 感情は意識的に変えることは困難?できない?ですが、するとこれは意識ではないと言っていいでしょうか?
> >
> > 意識とは言葉のように表現を選択し、記憶が必要で、根拠のあるものでしょうか? それとも覚醒状態とでも言うようなものでしょうか? すると感情も意識に入ると思うのですが。
> > アウェアネスは意識の範疇に入りますか? その辺が急に気になりました。脳科学の本を読んでそこにぶつかりました。
> >
> > ちゃんとしたレスになっていませんが、続きは明日の午後に又。
>
>
>  一般の用語としての「意識」とクリシュナムルティが述べる「意識」の差異についてですね。
>
>  「思考」「感情」「意識」「精神」。クリシュナムルティはこれらの用語を巧みに用いています。

 あなたは本当にクリシュナムルティを読んでるのだろうか。「自我の終焉」の中で、クリシュナムルティは意識について次のように定義をしている。
 人間の精神活動全て。当然無意識を含む一切喝采。思考、感情、心(マインド)
>
>  感情は思考に含まれる。無意識は存在しない。睡眠中も思考の流れに気づいている。個別的精神と普遍的精神。

 無意識は存在しない?いったい何をいってるのか?
>
>  そしてアウェアネスとアテンション。

アテンション?何それ?
>
>  アウェアネスは意識の範疇に入ると、個人的には思っています。

 えっ?
 アウェアネスは「気づき」とか「凝視」とも訳されます。Kが定義した「意識」とは別次元のものです。
 意識については一般では様々な使われ方をします。又哲学の分野でも「意識」という言葉を重要視します。
 Kは、これらとは別に「自我の終焉」の中で、彼独自に意識の定義をしている。それらを踏まえてKを読まないと混同します。

 このように今もってKのAWARENASSについて正しくとらえられていないというのは実情。
 意識の覚醒状態。目覚めている状態。はっきりと「見る」「聞く」「気づき」が実現している状態。新しい芽氏がよくいう心が生き生きとした状態。
 「空」(くう)といっても頭が空っぽを意味してるのではなく、何ものにもとらわれなくて頭脳が活発な状態をいいます。頭が冴えている状態。常に最高の判断を下す。スムーズにエネルギーが行き来する。
 いわば「静止」の状態。静止というのは心が騒いでいないという意味。座禅のめざす心を「非活発」にすることではない。
 対象的に一般の人間は、頭脳が停滞しており、見る、聞くが実現していない。イエスによれば、これを眠っている状態。目覚めていない状態。思考の囚われている状態と表現する。イエスが常に「目覚めよ」というのはこのことです。
 普通の人間は見ているようで見ていない。聞いているようで聞いていない。
 はっきりと見ていない。常に思考のベールをかぶせている。


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