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[26687] 実在は注意力 投稿者:南方 投稿日:2019/03/06(Wed) 13:10  

題名通り実在とは投影に対する注意力である。


[26686] Re:[26685] [26680] [26679] [26674] [26668] クリシュナムルティの訓え 投稿者:南方 投稿日:2019/03/06(Wed) 13:00  

> > > > > 最初のザーネン講話、8回目の末尾の部分再録
> > > > >
> > > > >
> > > > > クリシュナムルティ:  それで、心が蓄積し、収集し、経験したあらゆる物事に対し死ぬこと、即座に止めることが創造です。その中に連続性はありません。連続性を持っているものは常に衰退しています。連続することを求めるこの絶え間ない熱望に、それを私たちの大抵は持っているのですが、夫と妻、父と息子、その他もろもろの間の特定の関係の連続することを求める欲望に、あなたが気づいているかどうかわかりません。関係は、それが連続的であるとき、衰退しています。死んでいます。価値がありません。しかし連続性に対して死ぬとき、新しさ、新鮮さがあります。
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> > > >
> > > > Kは「外側」の対象について死ぬということを説いたのか、それとも実在についての投影に死ぬことを説いたのか、をはっきりさせないと混乱します。
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> > >
> > > この質問がどういう事かがよくわかりません。連続性に対して死ぬという事だけではなぜ混乱が起こると思うのか、その筋道が見えてこないのです。どんな風に混乱するのでしょうか?
> > >
> >
> > 実在に対して死ぬのと心理的思を見ておさまるのを待つのは探究の方向性として全く別物だと言いたかったのです。違いますか?私は混乱しませんが、Kの言説は両方まざっているのでこのサイトを見ているかたが混乱するのでは、ということです。
>
>
> 実在に対して死ぬのと、心理的思考を見て収まるのを待つのは探究の方向性として全く別物であるというのは全くその通りです。
> しかし、Kの言説には両方混ざっているというのには全くびっくりしました。見ることは心理的思考が収まるのを待つことでは全くありません。その場全体を解釈判断なしに見ることは死んで見ていることと同義です。しかし、死という言葉を出すと観念的・抽象的になり、実際にどういう事かわからなくなるので、非難正当化なしにとか、解釈判断なしにとか説明を積み重ねています。あなたの質問の由来はわかりました。
>
> >
> >
> > > >
> > > > >  それゆえ、心は死が何であるか直接経験できます。それはまったく並外れています。私たちの大抵は生きることが何か知りません。それゆえ死ぬことを知りません。私たちは生きることが何か知っているでしょうか? 私たちは苦闘が何か知っています。私たちは羨望が何か知っています。私たちは生存の残虐、その卑俗性をすべて知っています。憎しみ、野心、腐敗、葛藤。私たちはそのすべてを知っています。それが私たちの生です。しかし私たちは死を知りません。それでそれを恐れます。たぶん、もしも生が何であるか知るなら、死ぬことが何であるかも知るでしょうに。生きることは、確かに、その中で心がもはや蓄積していない、始めも終わりもない運動なのです。蓄積した瞬間、あなたは衰退の状態の中にあります。なぜなら、それが漠然とした経験にせよ、小さい経験にせよ、その周りにあなたは安全のための壁を建てるからです。
> > > > >
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> > > >
> > > > ここで「死」といっているのは実在のことですか?それとも外側の対象にたいして投影を辞めるということ?
> > >
> > >
> > > 内側のものにも投影はするでしょう。投影、あるいはイメージ作りは全部止まなければならないと思いますが……
> > >
> >
> > そうです。投影は実在に対しても何に対してもやまなければなりません。
> >
> > > >
> > > > >  それゆえ、生きることが何であるか知ることは、自分が獲得したもの、内面の快楽、内面の苦痛に対して、あらゆる瞬間に死ぬということです。時間の過程の中でではなくて、それが起こるときに死ぬことです。そのときあなたは、あなたがそこまで行ったならば、死は生のようであるということを見出すでしょう。そのとき生きることは死ぬことと分離していません。そしてそれは途方もない美の感覚を与えます。その美は思考と感情を越えています。そしてそれを組み立てて、絵を描くことや詩を書くこと、楽器を演奏することの中に使うことはできません。それらは関係がありません。生と死が同じであるとき、生きることと死ぬことが同義であるとき生じる美があります。なぜなら、そのとき生と死は心を完全に豊かに、全体で、欠けることなく残しておくからです。
> > > > >
> > > > > (終わり)
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> > > > >
> > > > > ゴト: ここが訓えの最終点であり、入り口であった。
> > > >
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> > > >
> > > > ゴトさんは思考の枠内で思考をどうこうしようということを話したいのですか?
> > >
> > >
> > > ???、判断なしに見ることが起こるなら、その時思考の過程とは違う、過程に入っており、思考の枠から出ていると思いますが?
> > >  私の話したいことは転々と変わってきました。むしろ自分のしたい探求の話し相手が欲しかったようです。が基本線は自分が探求していたのです。自分の訳した(5年ぐらいかかっています)本をここで取り上げたのも自分の探求です。
> >
> >
> > そうですか。私は今投影なく実在に来てもらえるようになりました。別の言い方をすれば真我の実現。マインドはあるがままに放っています。
>
>
> 連続性はどうなっていますか?


真実在に対して投影するたび死んでいます。あらゆるものについても同じです。投影に全注意を向けている状態です。


[26685] Re:[26680] [26679] [26674] [26668] クリシュナムルティの訓え 投稿者:ゴト 投稿日:2019/03/06(Wed) 12:49  

> > > > 最初のザーネン講話、8回目の末尾の部分再録
> > > >
> > > >
> > > > クリシュナムルティ:  それで、心が蓄積し、収集し、経験したあらゆる物事に対し死ぬこと、即座に止めることが創造です。その中に連続性はありません。連続性を持っているものは常に衰退しています。連続することを求めるこの絶え間ない熱望に、それを私たちの大抵は持っているのですが、夫と妻、父と息子、その他もろもろの間の特定の関係の連続することを求める欲望に、あなたが気づいているかどうかわかりません。関係は、それが連続的であるとき、衰退しています。死んでいます。価値がありません。しかし連続性に対して死ぬとき、新しさ、新鮮さがあります。
> > > >
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> > > Kは「外側」の対象について死ぬということを説いたのか、それとも実在についての投影に死ぬことを説いたのか、をはっきりさせないと混乱します。
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> > この質問がどういう事かがよくわかりません。連続性に対して死ぬという事だけではなぜ混乱が起こると思うのか、その筋道が見えてこないのです。どんな風に混乱するのでしょうか?
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> 実在に対して死ぬのと心理的思を見ておさまるのを待つのは探究の方向性として全く別物だと言いたかったのです。違いますか?私は混乱しませんが、Kの言説は両方まざっているのでこのサイトを見ているかたが混乱するのでは、ということです。


実在に対して死ぬのと、心理的思考を見て収まるのを待つのは探究の方向性として全く別物であるというのは全くその通りです。
しかし、Kの言説には両方混ざっているというのには全くびっくりしました。見ることは心理的思考が収まるのを待つことでは全くありません。その場全体を解釈判断なしに見ることは死んで見ていることと同義です。しかし、死という言葉を出すと観念的・抽象的になり、実際にどういう事かわからなくなるので、非難正当化なしにとか、解釈判断なしにとか説明を積み重ねています。あなたの質問の由来はわかりました。

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> > > >  それゆえ、心は死が何であるか直接経験できます。それはまったく並外れています。私たちの大抵は生きることが何か知りません。それゆえ死ぬことを知りません。私たちは生きることが何か知っているでしょうか? 私たちは苦闘が何か知っています。私たちは羨望が何か知っています。私たちは生存の残虐、その卑俗性をすべて知っています。憎しみ、野心、腐敗、葛藤。私たちはそのすべてを知っています。それが私たちの生です。しかし私たちは死を知りません。それでそれを恐れます。たぶん、もしも生が何であるか知るなら、死ぬことが何であるかも知るでしょうに。生きることは、確かに、その中で心がもはや蓄積していない、始めも終わりもない運動なのです。蓄積した瞬間、あなたは衰退の状態の中にあります。なぜなら、それが漠然とした経験にせよ、小さい経験にせよ、その周りにあなたは安全のための壁を建てるからです。
> > > >
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> > > ここで「死」といっているのは実在のことですか?それとも外側の対象にたいして投影を辞めるということ?
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> > 内側のものにも投影はするでしょう。投影、あるいはイメージ作りは全部止まなければならないと思いますが……
> >
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> そうです。投影は実在に対しても何に対してもやまなければなりません。
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> > > >  それゆえ、生きることが何であるか知ることは、自分が獲得したもの、内面の快楽、内面の苦痛に対して、あらゆる瞬間に死ぬということです。時間の過程の中でではなくて、それが起こるときに死ぬことです。そのときあなたは、あなたがそこまで行ったならば、死は生のようであるということを見出すでしょう。そのとき生きることは死ぬことと分離していません。そしてそれは途方もない美の感覚を与えます。その美は思考と感情を越えています。そしてそれを組み立てて、絵を描くことや詩を書くこと、楽器を演奏することの中に使うことはできません。それらは関係がありません。生と死が同じであるとき、生きることと死ぬことが同義であるとき生じる美があります。なぜなら、そのとき生と死は心を完全に豊かに、全体で、欠けることなく残しておくからです。
> > > >
> > > > (終わり)
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> > > > ゴト: ここが訓えの最終点であり、入り口であった。
> > >
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> > > ゴトさんは思考の枠内で思考をどうこうしようということを話したいのですか?
> >
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> > ???、判断なしに見ることが起こるなら、その時思考の過程とは違う、過程に入っており、思考の枠から出ていると思いますが?
> >  私の話したいことは転々と変わってきました。むしろ自分のしたい探求の話し相手が欲しかったようです。が基本線は自分が探求していたのです。自分の訳した(5年ぐらいかかっています)本をここで取り上げたのも自分の探求です。
>
>
> そうですか。私は今投影なく実在に来てもらえるようになりました。別の言い方をすれば真我の実現。マインドはあるがままに放っています。


連続性はどうなっていますか?


[26684] グルジェフ 投稿者:南方 投稿日:2019/03/06(Wed) 12:33  

今、改めてグルジェフの本を手にとっています。

テレパシーの鍵があるのではないかと。

あわせてグルジェフとクリシュナムルティ エソテリック心理学入門も読んでいます。


[26683] 真の探求 投稿者:無明 投稿日:2019/03/06(Wed) 10:59  

引用 語り手 森本武

探求とは
ただ、「考える」こととも違う。
ただ、「話し合う」こととも違う。

「意見交換」でも、「議論」でも、「討論」でも、「雑談」でも、「お喋り」でも、「分析」でも、「考察」でもない。
もしかしたら、百万人にひとりくらいしか、探求を自覚的に経験していないのかもしれない。
「探求」は、やる気だけでは、探求はできない。
それは「起こる」ことであって、願望や努力だけで「起こす」ことは出来ない。

日常の生活では、「呼吸する」と「話す」の区別がつかないほど、意識なく話してしまっている。いい加減に口を動かしながら、そのいい加減さに気づいていない。
反対に、とても話す言葉を意識して、厳密に語彙や論理を操作しながら、議論したり、討論したりするとなると、頭が言葉選びに埋没してしまい、相手の気持ちを察するゆとりなどなくなる。「厳密に話せたのだが、しっかり伝えられたという手応えはない」ことになる。

愛し合う二人の間ではどうだろうか。
愛は探求そのものではないか。
だとしても、その愛は本当に愛なのか。支配欲や自己完結した享楽の混じらない愛なのか。
利己欲の炎を愛と誤認してはいないか。
妄想が創作した「甘美な夢」への期待にすぎないのではないか。
娯楽への耽溺から愛はうまれるだろうか。

探求は、思考が納得する決定的な答を手に入れる行為ではない。その点では愛と同じだ。
「ひとつ」と数えられれば、有限。
それはすなわち、制限されている。
言語や数値で表現された答は、どれほど見事なものであっても、「つくりもの」でしかなく、真理そのものではない。

言葉は、モノそのものではないし、コトそのものでもない。

言葉を発する主体の意識が、ある種のエネルギーとなって、未加工で無調整の意味を伝播する。その意味を、いかなる変形・変質もなく受容し、共有する生命体が存在しえたとき、探求は起こったのだ。

真に自律的な生命体と生命体の関係の中でしか、探求は生じない。

2011.10.27




[26682] 感情 投稿者:無明 投稿日:2019/03/06(Wed) 10:46  

人間は感情の動物とよくいわれる。
喜怒哀楽は感情の典型的なものである。
ところがクリシュナムルティも、新しい芽氏も、感情の問題についてはあまり深く言及していないように思われる。
他の覚者は、この点についてクリシュナムルティに対し鋭く追求している。
そこが長い間のクリシュナムルティへの疑問である。この問題について、K関係者から明快な解答をもらったことがない。

クリシュナムルティは、感情も、思考というものに一括りにしまって言及しているのだろうか。
感情はコントロールするものなのだろうか。あるいは抑制するものなのだろうか。下手すると我慢の道につながる。
クリシュナムルティを、間違ってとらえると、無感情な、無味乾燥な人間。何も見ても感動しないとか。
思考(ばかり)を見てると、気づいていると、そうなりがちになる恐れがある。

感情というのは、自分自身をよく観察すればわかることだが、思考が感情を誘導する。言語と一体化していることが見てとれる。

思考という餌が、途絶えれば、自ずと感情は萎んでいく。花が枯れるように。見ること、気づくことによって、思考は心理的思考は遮断し、その時思考が新生する。生き生きと。

思考の動きは、わからなくても、感情の動きは誰でもわかるということだ。



[26681] とてつもない? 投稿者:無明 投稿日:2019/03/06(Wed) 10:04  

 相変わらずノー天気なコメント。他の人に比べ、場違いのことに気づかないのだろうか。


>私は今は、後、数十年生きるだろうと思っているが故に、妻子への愛着がとてつもないものであることに気づいていない。

妻子への執着が、何で問題なのか?
「とてつもない」という言葉は、「とてつではないもの」に対する比較の言葉。

 >だから、クリシュナムルティ理解によって、これを超えることができるかもしれない・・と思っている。

意味不明。おそらく言ってる本人もわからないのかも。

>しかし、とてつもないことかもしれません。

言葉の遊び。

>とてつもないことが起こるには、とてつもないことを超えなければならないのですね。。

とてつもないということがわかっていない。

> 幸い、ここには、とてつもない本と、とてつもない掲示板と、とてつもないサイトがある。

そうやって持ち上げる。


> おそらく、地球で、ここだけかもしれません。

(苦笑)
あなたはとてつもなく〇〇です。
こんなコメントすると、誰も相手にされません。

要するに、こうあるべきだ、というばかりであり、ありのままの事実を、全く見ていない。




[26680] Re:[26679] [26674] [26668] クリシュナムルティの訓え 投稿者:南方 投稿日:2019/03/06(Wed) 08:19  

> > > 最初のザーネン講話、8回目の末尾の部分再録
> > >
> > >
> > > クリシュナムルティ:  それで、心が蓄積し、収集し、経験したあらゆる物事に対し死ぬこと、即座に止めることが創造です。その中に連続性はありません。連続性を持っているものは常に衰退しています。連続することを求めるこの絶え間ない熱望に、それを私たちの大抵は持っているのですが、夫と妻、父と息子、その他もろもろの間の特定の関係の連続することを求める欲望に、あなたが気づいているかどうかわかりません。関係は、それが連続的であるとき、衰退しています。死んでいます。価値がありません。しかし連続性に対して死ぬとき、新しさ、新鮮さがあります。
> > >
> >
> >
> > Kは「外側」の対象について死ぬということを説いたのか、それとも実在についての投影に死ぬことを説いたのか、をはっきりさせないと混乱します。
>
>
> この質問がどういう事かがよくわかりません。連続性に対して死ぬという事だけではなぜ混乱が起こると思うのか、その筋道が見えてこないのです。どんな風に混乱するのでしょうか?
>

実在に対して死ぬのと心理的思を見ておさまるのを待つのは探究の方向性として全く別物だと言いたかったのです。違いますか?私は混乱しませんが、Kの言説は両方まざっているのでこのサイトを見ているかたが混乱するのでは、ということです。



> >
> > >  それゆえ、心は死が何であるか直接経験できます。それはまったく並外れています。私たちの大抵は生きることが何か知りません。それゆえ死ぬことを知りません。私たちは生きることが何か知っているでしょうか? 私たちは苦闘が何か知っています。私たちは羨望が何か知っています。私たちは生存の残虐、その卑俗性をすべて知っています。憎しみ、野心、腐敗、葛藤。私たちはそのすべてを知っています。それが私たちの生です。しかし私たちは死を知りません。それでそれを恐れます。たぶん、もしも生が何であるか知るなら、死ぬことが何であるかも知るでしょうに。生きることは、確かに、その中で心がもはや蓄積していない、始めも終わりもない運動なのです。蓄積した瞬間、あなたは衰退の状態の中にあります。なぜなら、それが漠然とした経験にせよ、小さい経験にせよ、その周りにあなたは安全のための壁を建てるからです。
> > >
> >
> >
> > ここで「死」といっているのは実在のことですか?それとも外側の対象にたいして投影を辞めるということ?
>
>
> 内側のものにも投影はするでしょう。投影、あるいはイメージ作りは全部止まなければならないと思いますが……
>

そうです。投影は実在に対しても何に対してもやまなければなりません。

> >
> > >  それゆえ、生きることが何であるか知ることは、自分が獲得したもの、内面の快楽、内面の苦痛に対して、あらゆる瞬間に死ぬということです。時間の過程の中でではなくて、それが起こるときに死ぬことです。そのときあなたは、あなたがそこまで行ったならば、死は生のようであるということを見出すでしょう。そのとき生きることは死ぬことと分離していません。そしてそれは途方もない美の感覚を与えます。その美は思考と感情を越えています。そしてそれを組み立てて、絵を描くことや詩を書くこと、楽器を演奏することの中に使うことはできません。それらは関係がありません。生と死が同じであるとき、生きることと死ぬことが同義であるとき生じる美があります。なぜなら、そのとき生と死は心を完全に豊かに、全体で、欠けることなく残しておくからです。
> > >
> > > (終わり)
> > >
> > >
> > > ゴト: ここが訓えの最終点であり、入り口であった。
> >
> >
> >
> > ゴトさんは思考の枠内で思考をどうこうしようということを話したいのですか?
>
>
> ???、判断なしに見ることが起こるなら、その時思考の過程とは違う、過程に入っており、思考の枠から出ていると思いますが?
>  私の話したいことは転々と変わってきました。むしろ自分のしたい探求の話し相手が欲しかったようです。が基本線は自分が探求していたのです。自分の訳した(5年ぐらいかかっています)本をここで取り上げたのも自分の探求です。


そうですか。私は今投影なく実在に来てもらえるようになりました。別の言い方をすれば真我の実現。マインドはあるがままに放っています。


[26679] Re:[26674] [26668] クリシュナムルティの訓え 投稿者:ゴト 投稿日:2019/03/05(Tue) 22:29  

> > 最初のザーネン講話、8回目の末尾の部分再録
> >
> >
> > クリシュナムルティ:  それで、心が蓄積し、収集し、経験したあらゆる物事に対し死ぬこと、即座に止めることが創造です。その中に連続性はありません。連続性を持っているものは常に衰退しています。連続することを求めるこの絶え間ない熱望に、それを私たちの大抵は持っているのですが、夫と妻、父と息子、その他もろもろの間の特定の関係の連続することを求める欲望に、あなたが気づいているかどうかわかりません。関係は、それが連続的であるとき、衰退しています。死んでいます。価値がありません。しかし連続性に対して死ぬとき、新しさ、新鮮さがあります。
> >
>
>
> Kは「外側」の対象について死ぬということを説いたのか、それとも実在についての投影に死ぬことを説いたのか、をはっきりさせないと混乱します。


この質問がどういう事かがよくわかりません。連続性に対して死ぬという事だけではなぜ混乱が起こると思うのか、その筋道が見えてこないのです。どんな風に混乱するのでしょうか?

>
> >  それゆえ、心は死が何であるか直接経験できます。それはまったく並外れています。私たちの大抵は生きることが何か知りません。それゆえ死ぬことを知りません。私たちは生きることが何か知っているでしょうか? 私たちは苦闘が何か知っています。私たちは羨望が何か知っています。私たちは生存の残虐、その卑俗性をすべて知っています。憎しみ、野心、腐敗、葛藤。私たちはそのすべてを知っています。それが私たちの生です。しかし私たちは死を知りません。それでそれを恐れます。たぶん、もしも生が何であるか知るなら、死ぬことが何であるかも知るでしょうに。生きることは、確かに、その中で心がもはや蓄積していない、始めも終わりもない運動なのです。蓄積した瞬間、あなたは衰退の状態の中にあります。なぜなら、それが漠然とした経験にせよ、小さい経験にせよ、その周りにあなたは安全のための壁を建てるからです。
> >
>
>
> ここで「死」といっているのは実在のことですか?それとも外側の対象にたいして投影を辞めるということ?


内側のものにも投影はするでしょう。投影、あるいはイメージ作りは全部止まなければならないと思いますが……

>
> >  それゆえ、生きることが何であるか知ることは、自分が獲得したもの、内面の快楽、内面の苦痛に対して、あらゆる瞬間に死ぬということです。時間の過程の中でではなくて、それが起こるときに死ぬことです。そのときあなたは、あなたがそこまで行ったならば、死は生のようであるということを見出すでしょう。そのとき生きることは死ぬことと分離していません。そしてそれは途方もない美の感覚を与えます。その美は思考と感情を越えています。そしてそれを組み立てて、絵を描くことや詩を書くこと、楽器を演奏することの中に使うことはできません。それらは関係がありません。生と死が同じであるとき、生きることと死ぬことが同義であるとき生じる美があります。なぜなら、そのとき生と死は心を完全に豊かに、全体で、欠けることなく残しておくからです。
> >
> > (終わり)
> >
> >
> > ゴト: ここが訓えの最終点であり、入り口であった。
>
>
>
> ゴトさんは思考の枠内で思考をどうこうしようということを話したいのですか?


???、判断なしに見ることが起こるなら、その時思考の過程とは違う、過程に入っており、思考の枠から出ていると思いますが?
 私の話したいことは転々と変わってきました。むしろ自分のしたい探求の話し相手が欲しかったようです。が基本線は自分が探求していたのです。自分の訳した(5年ぐらいかかっています)本をここで取り上げたのも自分の探求です。


[26678] 無題 投稿者:無明 投稿日:2019/03/05(Tue) 19:28  

>心理的思考だけでなく、人との関わりも見ているのですね。内も外も区別しないで見ている。

瞬時瞬時、生じてくる心理的思考に、いい悪いなしに気づいていれば、自ずと全体が見えています。
そうではなく、判断推理評価、いわば心理的思考に気づかないと、全体が見えません。

>私の気づきは狭いですね。心理的思考を判断なしに見て問題が解消して終わりと。

それで十分です。それが最初の一歩であり、最後の一歩です。
狭いも広いもありません。気づいているだけです。

>「即時の認知・理解から即時の行動が起こる。その全部が見ることと一体のことです。」これが抜けていますね。

いい悪いなしに、気づいていること自体が、即時の理解です。
そのとき全体が、よく見えてます。知覚されています。

人間、問題が起きれば、自ずと思考が強く意識されます。
問題が「ない」ときは、そのまま時が流れるだけです。
何も特定なものに意識されません。

特定の思考に執着して、問題が起きれば、体に変化が現れます。体が知らせてくれます。特にみぞおち。
それを合図として、自分自身に起きたものを、直(じか)に見る。それだけです。すると問題は自ずと消えていきます。元の鞘に収まります。
消えていく特定の思考に、いつまでも、囚われている、掴まっている執着している状態が、「迷い」と言われる所以です。



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