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[25443] Re:[25437] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/11(Mon) 22:14  

> 人は過去起きた暴力や不正は指摘するが現在のには目をつぶる。自分が損する時は特に


なぜだろう。自分の損得だけでなく、言っても問題の解決にならず、別の対立を生じる場合もあるからか?
「ほらほら、またご飯をこぼした」「亭主に向かって何たる口のききよう!」。


[25442] Re:[25436] [25430] [25428] 既知からの自由 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/11(Mon) 22:00  

> > > [人間と個人・生存の戦い]
> > >
> > >  神、真理、実在、あるいはそれをどう呼ぼうとも、それがあるかどうかという問いは本や司祭、哲学者や救世主によっては決して答えられません。自分自身のほかには誰も何もその問いに答えることはできず、そしてそのことが自分自身を知らなければならない理由です。未熟さは自己についてのまったくの無知の中にのみあります。自分自身を理解することが知恵の始まりです。
> >
> > 自分自身を知らなければならないという事は、アテネの時代から言われているし、Kも基本的なこととして言及しているという知識はある。しかし自分でそこを見て、実感・理解しているかどうかは怪しい。自信が持てない。
>
>
>  それは科学の世界でも未知の世界で、肯定も否定もされていない。
>
>  ただ、それを迷信だと頭から否定する者も居るが、それは真理だ・・と確信する者も居る。
>
>  科学の進歩によって科学的な証拠によって結論づける報告(ニュース)を待つのか・・。
>
>  徳がひしひしと伝わってくる正直な霊媒師とコンタクトをとって、それを伝えて貰うか。。
>
>  クリシュナムルティが述べるには、そのいずれも困難とのこと。
>
>  ただし、それの答えは遠くに書かれているのではなく、すぐそこにあるとのこと。
>
>
> > >  そしてあなた自身とは、個人としてのあなたとは何でしょうか? 私は人間と個人の間には違いがあると考えます、個人は局地的な存在であって、特定の国で生活し、特定の文化、特定の社会、特定の宗教に属しています。人間は局地的存在ではありません。あらゆる場所にいます。もし個人が生の広大な場の特定の隅で行動するだけなら、その時彼の行動は全体と全く無関係です。ですから私たちは部分でなく全体について話していることを心に留めておかねばなりません。なぜなら大の中に小はあり得ますが、小の中に大はないからです。個人は小さな条件づけられた、惨めな、欲求不満の存在であり、自分の小さな神と小さな伝統に満足していますが、他方人間は世界の全体の幸福、全体の惨めさ、全体の混乱に関係しているのです。
> >
> > 個人と人間というここにある見方・考え方は、この本を訳したから当然知っているはずなのに、頭の中になかった。今度注目できるのは、ここ一年近く哲学の本を読んだおかげである。傾聴した。
> >
> > >
> > >  私たち人間は何百万年の間そうであったままです ― とてつもなく貪欲で、羨望的で、攻撃的で、嫉妬深く、不安で、絶望しており、たまさかの喜びと愛情の閃きを伴うに過ぎません。私たちは憎しみ、恐怖、優しさの奇妙な混合物です。暴力と平和の両方です。牛車からジェット機まで外部の進歩はありましたが、心理的には個人は全く変わっておらず、世界中の社会の構造は個人によってつくり出されてきたのです。外部の社会の構造は、人間関係の内部の心理的な構造の結果です。というのは個人は人間の全経験、全知識、全行為の結果だからです。各人一人一人が全ての過去の倉庫です。個人は全て人類である人間なのです。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。
> >
> >
> > 何百万年か前に人類は誕生したが、背は低く、1メーター20くらいで、脳も小さかった。背が高く、脳の重量が増したのは2万年ぐらい前に過ぎない。人の心理状態は少なくとも脳の重量が増すことによって変わっていると思う。がそんなことは置いといて、人間らしくなってからは心理状態は変わっていないという事だと聞きました。
> >  しかし、牛車からジェット機までの外部の変化は、人間の心理にいろいろな変化を与えないのだろうか?
>
>
>  快楽原理に基づく活動においては、外面的には大きな変化をもたらすが、その動機や内面の動きは、依然として昔ながらの快楽原理として変化していないという意味ではなかろうか。本質的な事柄が変らない。
>
>
> > >  権力、地位、信望、名声、成功、等々に対する欲望と共に生きている競争的な文化の中で、自分自身の内部と外部で実際に起きていることを観察しましょう ― 自分がそんなにも誇りにしている業績を観察しましょう。憎悪、敵意、残忍さ、果てしない戦争を引き起こしている、あらゆる形の関係の中に葛藤があるあなたが生と呼ぶこの場を観察しましょう。この場、この生が私たちの知っているすべてです。そして生存の巨大な戦いを理解できないので、私たちは当然それを恐れ、あらゆる種類の巧妙な方法でそれからの逃避を見つけます。そして私たちはまた未知のものを恐れます ― 死を恐れ、明日の彼方にあるものを恐れます。それゆえ私たちは既知のものを恐れ、また未知のものを恐れています。それが私たちの日常生活であり、その中に希望はありません。それゆえあらゆる形の哲学、あらゆる形の神学的概念は、あるがままの現実からの単なる逃避にすぎません。
> >
> >
> > この生存の場についての記述は傾聴します。
> > 生を見て理解できない。はい、そこに恐怖が生じ、いろいろ考える、それは逃避に過ぎない ― 問題の解決につながらないと。ここは引っかかる。哲学は形而上学的で理念に引っかかっていた。それを乗り越え、変化している。それが全く役立たないという根拠が古い状態に対してしか成立しない。
>
>
>  しかし、その哲学を追い求めることは、ビカミングであり、ウィンドーショッピングであることが、クリシュナムルティの主訴ではなかろうか。。
>
>  それは渡辺さんが求めていた坐禅にも言えることではなかろうか。。
>
>  クリシュナムルティは、初めから坐禅や哲学を否定していないだろうか。。
>
>  私には、その根拠が毅然と示されているように感じる。。
>
>  ただし、私は坐禅やその哲学の専門ではないので、はっきりと結論づけるつもりはありません。


そうですね、おいおい、しっかりした議論に入ってくるでしょう。何せ16章ある中の第1章の半分も読んでいませんからね。


[25441] Re:[25434] 続き 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/11(Mon) 21:41  

> <ですから私たちは部分でなく全体について話していることを心に留めておかねばなりません。
>
> 何でですか?
>
> <なぜなら大の中に小はあり得ますが、小の中に大はないからです。個人は小さな条件づけられた、惨めな、欲求不満の存在であり、自分の小さな神と小さな伝統に満足していますが、
>
> はい。
>
> <他方人間は世界の全体の幸福、全体の惨めさ、全体の混乱に関係しているのです。
>
> 個人も人間も混乱していることは同じではないでか?
> 個人も全体も同じ。個人の集合が全体だからです。
>
> 個人と全体が違うというのがイマイチわからない。
> 人間どこにいようとも心理的には同じものを抱えている。何万年も。
> ということだったらわかります。
> 個人も人間も同じではないですか?. 違いはありません。

そうです。その個人に共通の問題である問題を論じようというのです。つまり人間の問題を。
私が妻と仲がいいか悪いかを論じません。それは個人の局部的問題に過ぎないですから。


[25440] Re:[25433] 個人と人間 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/11(Mon) 21:22  

> 25430
> 前半
> 個人と人間とは違いがあると言っておきながら、
> 後半は
> 個人はすべて人類であり、人間なのです
> と言っている。
>
> わかりやすくいうと、個人と人間は違うと言いながら、個人と人間は同じと言っている。矛盾した文章。
>
> ここは意味がわからない。
>
> 元々Kは人類は個人の集合体と言っていなかったでしょうか?
>
> 個人と人間(人類)は違うというのは奇妙です。初めて聞きました。


いや私もそんな感じがしました。しかし考えてみると、ゴトは人間です。しかし人間はゴトではありません、ゴトとは限りません。つまり逆は言えないので、個人と人間は違うのでしょうね。とにかく人間は字引に載ります。


[25439] Re:[25431] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/11(Mon) 19:38  

> 新潟知事選、 若い人たちの勝利に終わった。今やマスコミは若者をコントロールできない。

老人だってコントロールされてないぞ。


[25438] Re:[25428] 既知からの自由 投稿者:南方 投稿日:2018/06/11(Mon) 19:20  

> [人間と個人・生存の戦い]
>
>  神、真理、実在、あるいはそれをどう呼ぼうとも、それがあるかどうかという問いは本や司祭、哲学者や救世主によっては決して答えられません。自分自身のほかには誰も何もその問いに答えることはできず、そしてそのことが自分自身を知らなければならない理由です。未熟さは自己についてのまったくの無知の中にのみあります。自分自身を理解することが知恵の始まりです。
>
>  そしてあなた自身とは、個人としてのあなたとは何でしょうか? 私は人間と個人の間には違いがあると考えます、個人は局地的な存在であって、特定の国で生活し、特定の文化、特定の社会、特定の宗教に属しています。人間は局地的存在ではありません。あらゆる場所にいます。もし個人が生の広大な場の特定の隅で行動するだけなら、その時彼の行動は全体と全く無関係です。ですから私たちは部分でなく全体について話していることを心に留めておかねばなりません。なぜなら大の中に小はあり得ますが、小の中に大はないからです。個人は小さな条件づけられた、惨めな、欲求不満の存在であり、自分の小さな神と小さな伝統に満足していますが、他方人間は世界の全体の幸福、全体の惨めさ、全体の混乱に関係しているのです。
>
>
>  私たち人間は何百万年の間そうであったままです ― とてつもなく貪欲で、羨望的で、攻撃的で、嫉妬深く、不安で、絶望しており、たまさかの喜びと愛情の閃きを伴うに過ぎません。私たちは憎しみ、恐怖、優しさの奇妙な混合物です。暴力と平和の両方です。牛車からジェット機まで外部の進歩はありましたが、心理的には個人は全く変わっておらず、世界中の社会の構造は個人によってつくり出されてきたのです。外部の社会の構造は、人間関係の内部の心理的な構造の結果です。というのは個人は人間の全経験、全知識、全行為の結果だからです。各人一人一人が全ての過去の倉庫です。個人は全て人類である人間なのです。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。
>
>  権力、地位、信望、名声、成功、等々に対する欲望と共に生きている競争的な文化の中で、自分自身の内部と外部で実際に起きていることを観察しましょう ― 自分がそんなにも誇りにしている業績を観察しましょう。憎悪、敵意、残忍さ、果てしない戦争を引き起こしている、あらゆる形の関係の中に葛藤があるあなたが生と呼ぶこの場を観察しましょう。この場、この生が私たちの知っているすべてです。そして生存の巨大な戦いを理解できないので、私たちは当然それを恐れ、あらゆる種類の巧妙な方法でそれからの逃避を見つけます。そして私たちはまた未知のものを恐れます ― 死を恐れ、明日の彼方にあるものを恐れます。それゆえ私たちは既知のものを恐れ、また未知のものを恐れています。それが私たちの日常生活であり、その中に希望はありません。それゆえあらゆる形の哲学、あらゆる形の神学的概念は、あるがままの現実からの単なる逃避にすぎません。


これは簡単に言うと「投影」をやめるということです。

釈迦に説法かも知れませんが、僕はようやく「投影」をやめれました。

やめたらどうなるかは、やめてみれぱわかります。

一にも二も「投影」をやめる。それにつきます。


[25437] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/11(Mon) 16:58  

人は過去起きた暴力や不正は指摘するが現在のには目をつぶる。自分が損する時は特に


[25436] Re:[25430] [25428] 既知からの自由 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/11(Mon) 16:18  

> > [人間と個人・生存の戦い]
> >
> >  神、真理、実在、あるいはそれをどう呼ぼうとも、それがあるかどうかという問いは本や司祭、哲学者や救世主によっては決して答えられません。自分自身のほかには誰も何もその問いに答えることはできず、そしてそのことが自分自身を知らなければならない理由です。未熟さは自己についてのまったくの無知の中にのみあります。自分自身を理解することが知恵の始まりです。
>
> 自分自身を知らなければならないという事は、アテネの時代から言われているし、Kも基本的なこととして言及しているという知識はある。しかし自分でそこを見て、実感・理解しているかどうかは怪しい。自信が持てない。


 それは科学の世界でも未知の世界で、肯定も否定もされていない。

 ただ、それを迷信だと頭から否定する者も居るが、それは真理だ・・と確信する者も居る。

 科学の進歩によって科学的な証拠によって結論づける報告(ニュース)を待つのか・・。

 徳がひしひしと伝わってくる正直な霊媒師とコンタクトをとって、それを伝えて貰うか。。

 クリシュナムルティが述べるには、そのいずれも困難とのこと。

 ただし、それの答えは遠くに書かれているのではなく、すぐそこにあるとのこと。


> >  そしてあなた自身とは、個人としてのあなたとは何でしょうか? 私は人間と個人の間には違いがあると考えます、個人は局地的な存在であって、特定の国で生活し、特定の文化、特定の社会、特定の宗教に属しています。人間は局地的存在ではありません。あらゆる場所にいます。もし個人が生の広大な場の特定の隅で行動するだけなら、その時彼の行動は全体と全く無関係です。ですから私たちは部分でなく全体について話していることを心に留めておかねばなりません。なぜなら大の中に小はあり得ますが、小の中に大はないからです。個人は小さな条件づけられた、惨めな、欲求不満の存在であり、自分の小さな神と小さな伝統に満足していますが、他方人間は世界の全体の幸福、全体の惨めさ、全体の混乱に関係しているのです。
>
> 個人と人間というここにある見方・考え方は、この本を訳したから当然知っているはずなのに、頭の中になかった。今度注目できるのは、ここ一年近く哲学の本を読んだおかげである。傾聴した。
>
> >
> >  私たち人間は何百万年の間そうであったままです ― とてつもなく貪欲で、羨望的で、攻撃的で、嫉妬深く、不安で、絶望しており、たまさかの喜びと愛情の閃きを伴うに過ぎません。私たちは憎しみ、恐怖、優しさの奇妙な混合物です。暴力と平和の両方です。牛車からジェット機まで外部の進歩はありましたが、心理的には個人は全く変わっておらず、世界中の社会の構造は個人によってつくり出されてきたのです。外部の社会の構造は、人間関係の内部の心理的な構造の結果です。というのは個人は人間の全経験、全知識、全行為の結果だからです。各人一人一人が全ての過去の倉庫です。個人は全て人類である人間なのです。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。人間の歴史全体が私たち自身の中に書かれています。
>
>
> 何百万年か前に人類は誕生したが、背は低く、1メーター20くらいで、脳も小さかった。背が高く、脳の重量が増したのは2万年ぐらい前に過ぎない。人の心理状態は少なくとも脳の重量が増すことによって変わっていると思う。がそんなことは置いといて、人間らしくなってからは心理状態は変わっていないという事だと聞きました。
>  しかし、牛車からジェット機までの外部の変化は、人間の心理にいろいろな変化を与えないのだろうか?


 快楽原理に基づく活動においては、外面的には大きな変化をもたらすが、その動機や内面の動きは、依然として昔ながらの快楽原理として変化していないという意味ではなかろうか。本質的な事柄が変らない。


> >  権力、地位、信望、名声、成功、等々に対する欲望と共に生きている競争的な文化の中で、自分自身の内部と外部で実際に起きていることを観察しましょう ― 自分がそんなにも誇りにしている業績を観察しましょう。憎悪、敵意、残忍さ、果てしない戦争を引き起こしている、あらゆる形の関係の中に葛藤があるあなたが生と呼ぶこの場を観察しましょう。この場、この生が私たちの知っているすべてです。そして生存の巨大な戦いを理解できないので、私たちは当然それを恐れ、あらゆる種類の巧妙な方法でそれからの逃避を見つけます。そして私たちはまた未知のものを恐れます ― 死を恐れ、明日の彼方にあるものを恐れます。それゆえ私たちは既知のものを恐れ、また未知のものを恐れています。それが私たちの日常生活であり、その中に希望はありません。それゆえあらゆる形の哲学、あらゆる形の神学的概念は、あるがままの現実からの単なる逃避にすぎません。
>
>
> この生存の場についての記述は傾聴します。
> 生を見て理解できない。はい、そこに恐怖が生じ、いろいろ考える、それは逃避に過ぎない ― 問題の解決につながらないと。ここは引っかかる。哲学は形而上学的で理念に引っかかっていた。それを乗り越え、変化している。それが全く役立たないという根拠が古い状態に対してしか成立しない。


 しかし、その哲学を追い求めることは、ビカミングであり、ウィンドーショッピングであることが、クリシュナムルティの主訴ではなかろうか。。

 それは渡辺さんが求めていた坐禅にも言えることではなかろうか。。

 クリシュナムルティは、初めから坐禅や哲学を否定していないだろうか。。

 私には、その根拠が毅然と示されているように感じる。。

 ただし、私は坐禅やその哲学の専門ではないので、はっきりと結論づけるつもりはありません。


[25435] 無題 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/11(Mon) 15:31  

<しかし、牛車からジェット機までの外部の変化は、人間の心理にいろいろな変化を与えないのだろうか?

はい。携帯電話の進化。スマートフォンの出現は人間の心理に大きく影響を与えています。


一つの例。
この前何人かで会食したのですが、人との対話の最中、何人かはスマホをいじっている。つまり話題が自分と関係ないと見るやスマホを取り出す。
いまの子供は面と気持ちを伝えられないという。何でもSNS
一部の人は、スマホの乱用は人のコミニュケーション能力を著しく欠如すると警告する。なんでも機械に依存。
先が思いやられる。人類の疲弊。
わらじ履きの時代に生きた釈迦。1986年に亡くなったクリシュナムルティもビックリ。
自分の子供にスマホを持たせないと思っても、学校へ行くと「いじめ」にあう。
やな時代になったものだ。
思考依存からAI依存へ。


[25434] 続き 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/11(Mon) 15:07  

詳しく見て見ましょう

 <そしてあなた自身とは、個人としてのあなたとは何でしょうか? 私は人間と個人の間には違いがあると考えます、



<個人は局地的な存在であって、特定の国で生活し、特定の文化、特定の社会、特定の宗教に属しています。

局地的な存在?
はい。私は日本で生まれ、そこで生活しています。様々な文化、社会。影響を受けて育っています。


<人間は局地的存在ではありません。あらゆる場所にいます。

私はたまたま日本で生まれたが、世界中には様々な地域で、様々な文化、社会で生きている。つまり人間はあらゆる場所に住んでいる。例えば北極のエスキモー。

<もし個人が生の広大な場の特定の隅で行動するだけなら、その時彼の行動は全体と全く無関係です。

特定の地域ですか ?
さっきいったように、極地に住んでいる人は、私たち日本で生きている人には無関係です。

<ですから私たちは部分でなく全体について話していることを心に留めておかねばなりません。

何でですか?

<なぜなら大の中に小はあり得ますが、小の中に大はないからです。個人は小さな条件づけられた、惨めな、欲求不満の存在であり、自分の小さな神と小さな伝統に満足していますが、

はい。

<他方人間は世界の全体の幸福、全体の惨めさ、全体の混乱に関係しているのです。

個人も人間も混乱していることは同じではないでか?
個人も全体も同じ。個人の集合が全体だからです。

個人と全体が違うというのがイマイチわからない。
人間どこにいようとも心理的には同じものを抱えている。何万年も。
ということだったらわかります。
個人も人間も同じではないですか?. 違いはありません。


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