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[25538] 無題 投稿者:青空の慈悲 投稿日:2018/06/22(Fri) 12:59  

渡辺さんとは毎週話していますが、人間らしく頭脳明晰でいいおじさんです。


[25537] 自分自身を知る 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/22(Fri) 08:45  

<自分自身を知れ、とおっしゃいますが、

次のクリシュナムルティの言葉

「なぜならありのままの自分自身に直面させられ、自分が空虚で、鈍く、愚かで、醜く、罪深く、不安で ― 取るに足りない、見掛け倒しの、受け売りの存在であるという事を見いだすからです。」

あなたのいう「自分自身を知れ」というのは、こういうことを指すのですか?
少なくとも全てあてはまるとは思いませんが、一つの例ですか。
例えば嘘をついたら認めます。嘘をついた自分を認める。
それが自分自身を知る?

再録
「なぜならありのままの自分自身に直面させられ、自分が空虚で、鈍く、愚かで、醜く、罪深く、不安で ― 取るに足りない、見掛け倒しの、受け売りの存在であるという事を見いだすからです。」

事実として上記のことを認める。認めるというと、「見る」とは違う、言われそうです、

次の内容を

事実として見ている。

「なぜならありのままの自分自身に直面させられ、自分が空虚で、鈍く、愚かで、醜く、罪深く、不安で ― 取るに足りない、見掛け倒しの、受け売りの存在であるという事を見いだすからです。」

どうもピンと来ない。

いきなり上司に呼び出され、明日から地方へ転勤を命じられる。
その瞬間、恐怖が生じる。その方がわかりやすい、その時、自身に起きる反応を見る。
会社への反感、子供の転勤をどうするかなど、様々な思いが生じる。そのときの反応がリアルタイムの反応。








[25536] 誰かに従う 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/22(Fri) 08:25  

<誰かに従わないなら非常に孤独に感じます。その時は孤独でいなさい。なぜ一人でいることを恐れるのでしょう? 

この世の中には組織というものが あります。組織、わかりやすくいうと会社を例としてみましょう。会社という組織にいると、上司に楯突くはできません、命令に従わないと会社をクビになります。
上司に言われた仕事、ノルマをこなすのが、社員の役目です。出向、転勤も甘んじて受けます。
あなたのいう「誰かに従わない」というのは組織ではありえません。
孤独以前の問題。あなたは会社勤めをしたことがないから、そういわれるのではないですか。いつもあなたは長に祭り上げて、下積みの気持ちはわからないでしょう。
余談ですが、孤独を感じたことは、仕事がない時、失職したとき、社会から疎外された感じを受けました。
ですから、あなたのいう「誰かに従わない」から孤独を感じることはありません。

<なぜならありのままの自分自身に直面させられ、自分が空虚で、鈍く、愚かで、醜く、罪深く、不安で ― 取るに足りない、見掛け倒しの、受け売りの存在であるという事を見いだすからです。

人間は空虚、鈍感、愚か、罪深く、不安、見かけ倒しの受け売りの存在。
随分、人間を卑下しますね。全てネガチィヴ。いいところは何もない。〜〜〜〜受け売りの存在と見出すというのは、どういう意味ですか。自分がそれを認めろということですか。見かけだけの受け売り人間だと。私はそれには反論したい。

<事実に直面なさい。それを見なさい、それから逃げ出さないこと。逃げ出す瞬間恐怖が始まります。

事実に直面しろということですが、どういうことですか?
自分は空虚、鈍く、愚か、罪深く、不安、見かけ倒しの受け売りの存在ということをに認めろいうことですか。それともそれらを自覚せよ、ということですか?

それと事実に直面せず、何で逃げ出すと恐怖が始まるんですか。上司に従わないで会社をクビになる方がよほど恐怖です。そうではありませんか。


[25535] 怒りと偏見 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/21(Thu) 18:12  

>渡辺さんは、「クリシュナムルティが述べることが起こらなかった。」と述べているにも関わらず、クリシュナムルティの陳述内容を理解していると思い込んでいるのです。

この文章には、はらわたが煮えくり返った。
実は渡辺氏とは何回かお会いして、いくつか質問している。そこでは明瞭な解答をいただいた。
KB会以外に、クリシュナムルティの会の忘年会で、大野氏と共に参加していただいたことがある。そこではいろんな話を聞いた。
私にとっては世話になった方であり、ユーチューブでも大いに参考になっている。

そう言った大変世話になったその人に対し、何もわからない人間が、
クリシュナムルティの陳述内容を理解していると「思い込んでいる」とは恐れ入った。

そういうおたくこそ歪んだ偏見の塊である。まさに自己流の思い込みの世界。クリシュナムルティにまつわる背景など、全く無知であり、しかも情報源はネットのみ。
クリシュナムルティの言葉を絶対視して、それに従わない者は、排除するという独善主義に陥っているその典型。

それにしても、何で人のことが気になるのだろうか?
要するにクリシュナムルティの「誰も変わりやしなかった」。
これに引っかかっている。
何で渡辺氏が変わったどうかというのが気になるのか。ということだ。
そこをよく考えろ?
人が変わったかどうかでなく、何でそれが引っかかるのか?





[25534] 気配りの欠如。 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/21(Thu) 17:46  

宮啓、文章消せよ!!
長いと思わないのか。
相手側の人が文章を読むのが大変だろう。
いちいち遡登らなければならない。
いつも文章を消して短くしているのは相手方のゴトさんの方。
パソコンでなく、いつもスマホで投稿しているのか。
つまり消すのは相手任せ。

同じ文章を何度も載せることはない。会話の程を為さぬ。
まったく、他人への配慮も気配りもない。つまり愛の欠如。クリシュナムルティなど語る資格はない。

何ぼ偉そうなこと言っても、掲示板上で、愛の実践が出来なければしょうがない。絵に描いたよう餅。
おそらく、会社でも家でもそうなのだろう。気配りの欠如。




[25533] Re:[25532] [25530] 既知からの自由2−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/21(Thu) 12:09  

> > [自分自身を学ぶ・単純さと謙虚さ]
> >
> > 自分自身について学ぶことが重要だと、私か誰かが告げたからというだけでそれが重要だと考えるなら、その時私たちの間のコミュニケーションは全て終わるのではないかと私は恐れます。しかし自分自身を完全に理解することが極めて重要であるという点で私たちが一致するなら、その時私たちは全く違った関係を持っており、幸福な、注意深く聡明な調査で一緒に探求することができます。
>
>
> 自分自身を完全に理解することが極めて重要であるという点で一致するほどわかっていませんが、自分自身を知ることってどういうことか、興味を持ったのでついていきます。
>
>
> >  私はあなたの信用を求めません。自分を権威として仕立てていません。あなたに教えることは何もありません ― 新しい哲学も、新しい方式も、実在への新しい道もありません。実在への道がないのは真理への道がないのと同じです。どのような権威もすべて、特に思考と理解の場においては、最も破壊的で邪悪なものです。指導者は追随者を破滅させ、追随者は指導者を破滅させます。あなたは自分自身の教師であり、また自分自身の弟子でなければなりません。あなたは、人間が価値があるとして、必要として受け入れているあらゆるものを問わねばなりません。
>
>
> 人間が現在価値あるものとしているものはすべて問わなければならない。権威のといた価値あるものを疑えという事か。
>
>
> >  誰かに従わないなら非常に孤独に感じます。その時は孤独でいなさい。なぜ一人でいることを恐れるのでしょう? なぜならありのままの自分自身に直面させられ、自分が空虚で、鈍く、愚かで、醜く、罪深く、不安で ― 取るに足りない、見掛け倒しの、受け売りの存在であるという事を見いだすからです。事実に直面なさい。それを見なさい、それから逃げ出さないこと。逃げ出す瞬間恐怖が始まります。
>
>
> 私は上司に従っているわけだが、実際は一人で立っていたので、ある意味単独であったが、孤独ではなかった。もちろん誰とでも相談できたが生意気ともいわれた。(仕事に関しては俺は違うぞと言いたがっている? ただ聞いてついていくのは楽だが、今は何とかコメントしようとしている。)
>
>
> >  自分自身を調べるとき、私たちは残りの世界から自分を孤立させてはいません。それは不健全な過程ではありません。世界中の人間は私たちと同じ日常の問題に巻き込まれています。それゆえ自分を調べながら私たちは少しも神経症的な状態ではありません。なぜなら個人と集団の間に違いはないからです。それは実際の事実です。私は自分がいまそうであるように世界をつくり上げました。それゆえ個人と全体の間のこの戦いの中で迷わないようにしましょう。
>
>
> これは神経症的な過程ではない? ずいぶん気を使っているな。
>
>
> >  さてどこで私たちは自分自身を理解し始めるのでしょうか? 私はここにいます。そしてどんなふうに自分自身を調べ、観察し、自分自身の内部で実際に起きているものを見るべきでしょうか? 全ての生は関係なので、関係の中でのみ自分自身を観察できます。隅に座って自分自身について瞑想しても無駄です。自分だけで存在することはできません。私は人々や、物、観念との関係の中にのみ存在します。そして内部のものに対してだけでなく、外部のものや人々との関係を調べる中で、自分自身を理解し始めます。あらゆる他の形の理解は単なる抽象であり、私は抽象の中で自分自身を調べることはできません。私は抽象的存在ではありません。従って現実の中の自分自身を調べなければなりません ― ありたいと願うものとしての自分ではなく、ありのままの自分を。
>
>
> 関係の中の現実のありのままの自分を調べる。行き先が明瞭になった。(これで序のの段落はおしまい)
> >
> >
> >  理解は知的過程ではありません。自分自身についての知識を獲得することと、自分自身について学ぶことは二つの違ったものです。というのは自分について集めた知識は常に過去のものであり、過去の重荷を負った心は悲しみに暮れる心です。自分自身について学ぶことは言語や技術や科学を学ぶようなことではありません ― その場合は明らかに蓄積し記憶しなければなりません。全てをもう一度始めるのは馬鹿げています ― しかし心理的分野では自分自身について学ぶことは常に現在にあり、そして知識は常に過去にあります。そして私たちはたいてい過去に生き、過去に満足しているので、知識が途方もなく重要になります。それが私たちが博識な人、利口な人、抜け目のない人を崇拝する理由です。しかしあなたがいつも学んでいるなら、どの瞬間も学び、注視し傾聴することによって学び、見る事と行なう事によって学んでいるなら、その時学ぶことは過去のない絶えず続く動きであることを見いだすでしょう。
>
>
> 自分を学ぶことは知的ではない理解であると言ってる。
>
> >
> >  あなたが自分自身について少しづつ、次第に加えながら、徐々に学ぼうと言うなら、あなたは自分自身を今ありのままに調べているのではなく、獲得した知識を通じて調べているのです。学ぶことは大変な感受性を意味します。観念があるなら感受性はありません。観念は過去のものであり、現在を支配しています。その時心はもはや敏捷で、柔軟で、機敏ではありません。私たちはたいてい肉体的にさえ敏感ではありません。食べ過ぎをし、正しい食事に気を遣わず、煙草を吸い過ぎ飲酒するので身体は肥大し鈍感になります。有機体自体の注意の質が鈍くなります。有機体自体が鈍くて重いならばどうして非常に機敏で、敏感で、明晰な心があり得るでしょうか? 私たちは自分に個人的に触れる何かには敏感かもしれませんが、生の全ての含蓄に完全に敏感であるためには有機体と精神の間に分離がないことが必要です。それは全体的な動きです。
>
>
> 学ぶことは感受性による。身体を鈍らせないように。これは全体的動きだから。
>
> >
> >  何であっても理解するためにはそれと共に生きなければなりません。観察しなければなりません。その内容、その性質、その構造、その動きを全て知らなければなりません。あなたは今までに自分自身と一緒に生きることを試みたことがありますか? もしそうであるなら、自分自身が静的な状態ではなく、新鮮な生きたものであることを見始めるでしょう。そして生きているものと共に生きるためにはあなたの心もまた生きていなければなりません。心が意見や判断や価値に捉えられているなら、心は生きていることは出来ません。
>
>
> 理解するとは、共に生きる、観察すること。意見や判断価値に捉えられていては生きた観察はあり得ないと。
>
> >
> >  自分の心とハートの、自分の全存在の動きを観察するためには、自由な心がなければなりません。議論で一方に味方し、単に言葉について論争し、同意したり同意しなかったりする心ではなく、むしろ理解しようという意向を持ってついていく心です ― そうすることは非常に難しいことです。なぜなら私たちの大抵は自分自身の存在をどのように見、あるいは聞くかを、どのように川の美しさを見、木の間のそよ風を聴くかより、少しもよくは知らないからです。
> >
>
> 自由が登場。理解しようという意向を持ってついていく心。そうすることは非常に難しい?
>
> >  非難や正当化をするときは明確に見ることはできないし、心がとめどなく喋っているときもできません。その時はあるがままのものを観察していないのです。私たちが自分自身で作った投影を見ているに過ぎません。各人が自分はそうであると考えるもの、あるいはあるべきものというイメージを持っており、そのイメージ、その心像が、自分自身を実際にそうであるままに見ることを完全に妨げます。
> >
>
> 投影、イメージを見ていて、あるがままに見ることを完全に妨げる!
>
> >  どんなものでも単純に見るということは世界で最も難しいことの一つです。なぜなら私たちの心は非常に複雑で単純さという性質を失っているからです。私は服や食べ物の単純さ、腰布だけをつけたり、断食の記録を破ったり、聖者達が培うあの未熟なナンセンスの何かを言っているのではありません。そうではなく、恐怖なしに直接にものを見ることができる単純さ ― 自分自身を実際にそうであるままにどんな歪みもなしに見ることができる単純さを言っているのです ― 私たちが嘘をついている時は私たちは嘘をついていると言うことです、それを隠したり、それから逃げたりするのではなく。
> >
> >  また自分自身を理解するためには非常な謙虚さを必要とします。もし「私は私自身を知っている」と言って始めるなら、すでに自分自身について学ぶことをやめているのです。あるいは「私はただの記憶、観念、経験、伝統の集まりだから私自身について学ぶことはたいしてない」と言うなら、その時もまた自分自身について学ぶことをやめているのです。何であれ達成した瞬間、あなたはあの無垢と謙虚の性質を失います。結論を持つ瞬間あるいは知識から調べ始める瞬間、あなたは終りなのです。というのはその時あらゆる生きているものを古い項目で解釈しているからです。ところが、足場を持たないなら、確実性、達成がないなら、見たり、達成したりする自由があります。そして自由と共に見るときそれはいつも新しいのです。確信している人は死んでいる人間です。
> >
>
> 単純さ、無垢、謙虚はあるがままに見る、理解する、学ぶことの一環として出てくるのか。発見です。
>  自自分自身を知るという事は、知識の集積という人間的意識の分野で行うのではなく、過去をわきにおいといて見る、即時の理解という(原初意識?の)経路でのみなされるし、それ(ある種のフィードバック?)がないといけない、混乱が生じるという事か?
> >
> > (続く)


 坐禅、哲学。

 坐禅は関係の鏡の中ではなく学ぼうとするので不毛。

 哲学は、知識から始めるので不毛。

 生だけが不毛ではなく、生きている。

 学ぶとは、生と共に生きるということか・・。。


[25532] Re:[25530] 既知からの自由2−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/21(Thu) 07:03  

> [自分自身を学ぶ・単純さと謙虚さ]
>
> 自分自身について学ぶことが重要だと、私か誰かが告げたからというだけでそれが重要だと考えるなら、その時私たちの間のコミュニケーションは全て終わるのではないかと私は恐れます。しかし自分自身を完全に理解することが極めて重要であるという点で私たちが一致するなら、その時私たちは全く違った関係を持っており、幸福な、注意深く聡明な調査で一緒に探求することができます。


自分自身を完全に理解することが極めて重要であるという点で一致するほどわかっていませんが、自分自身を知ることってどういうことか、興味を持ったのでついていきます。


>  私はあなたの信用を求めません。自分を権威として仕立てていません。あなたに教えることは何もありません ― 新しい哲学も、新しい方式も、実在への新しい道もありません。実在への道がないのは真理への道がないのと同じです。どのような権威もすべて、特に思考と理解の場においては、最も破壊的で邪悪なものです。指導者は追随者を破滅させ、追随者は指導者を破滅させます。あなたは自分自身の教師であり、また自分自身の弟子でなければなりません。あなたは、人間が価値があるとして、必要として受け入れているあらゆるものを問わねばなりません。


人間が現在価値あるものとしているものはすべて問わなければならない。権威のといた価値あるものを疑えという事か。


>  誰かに従わないなら非常に孤独に感じます。その時は孤独でいなさい。なぜ一人でいることを恐れるのでしょう? なぜならありのままの自分自身に直面させられ、自分が空虚で、鈍く、愚かで、醜く、罪深く、不安で ― 取るに足りない、見掛け倒しの、受け売りの存在であるという事を見いだすからです。事実に直面なさい。それを見なさい、それから逃げ出さないこと。逃げ出す瞬間恐怖が始まります。


私は上司に従っているわけだが、実際は一人で立っていたので、ある意味単独であったが、孤独ではなかった。もちろん誰とでも相談できたが生意気ともいわれた。(仕事に関しては俺は違うぞと言いたがっている? ただ聞いてついていくのは楽だが、今は何とかコメントしようとしている。)


>  自分自身を調べるとき、私たちは残りの世界から自分を孤立させてはいません。それは不健全な過程ではありません。世界中の人間は私たちと同じ日常の問題に巻き込まれています。それゆえ自分を調べながら私たちは少しも神経症的な状態ではありません。なぜなら個人と集団の間に違いはないからです。それは実際の事実です。私は自分がいまそうであるように世界をつくり上げました。それゆえ個人と全体の間のこの戦いの中で迷わないようにしましょう。


これは神経症的な過程ではない? ずいぶん気を使っているな。


>  さてどこで私たちは自分自身を理解し始めるのでしょうか? 私はここにいます。そしてどんなふうに自分自身を調べ、観察し、自分自身の内部で実際に起きているものを見るべきでしょうか? 全ての生は関係なので、関係の中でのみ自分自身を観察できます。隅に座って自分自身について瞑想しても無駄です。自分だけで存在することはできません。私は人々や、物、観念との関係の中にのみ存在します。そして内部のものに対してだけでなく、外部のものや人々との関係を調べる中で、自分自身を理解し始めます。あらゆる他の形の理解は単なる抽象であり、私は抽象の中で自分自身を調べることはできません。私は抽象的存在ではありません。従って現実の中の自分自身を調べなければなりません ― ありたいと願うものとしての自分ではなく、ありのままの自分を。


関係の中の現実のありのままの自分を調べる。行き先が明瞭になった。(これで序のの段落はおしまい)
>
>
>  理解は知的過程ではありません。自分自身についての知識を獲得することと、自分自身について学ぶことは二つの違ったものです。というのは自分について集めた知識は常に過去のものであり、過去の重荷を負った心は悲しみに暮れる心です。自分自身について学ぶことは言語や技術や科学を学ぶようなことではありません ― その場合は明らかに蓄積し記憶しなければなりません。全てをもう一度始めるのは馬鹿げています ― しかし心理的分野では自分自身について学ぶことは常に現在にあり、そして知識は常に過去にあります。そして私たちはたいてい過去に生き、過去に満足しているので、知識が途方もなく重要になります。それが私たちが博識な人、利口な人、抜け目のない人を崇拝する理由です。しかしあなたがいつも学んでいるなら、どの瞬間も学び、注視し傾聴することによって学び、見る事と行なう事によって学んでいるなら、その時学ぶことは過去のない絶えず続く動きであることを見いだすでしょう。


自分を学ぶことは知的ではない理解であると言ってる。

>
>  あなたが自分自身について少しづつ、次第に加えながら、徐々に学ぼうと言うなら、あなたは自分自身を今ありのままに調べているのではなく、獲得した知識を通じて調べているのです。学ぶことは大変な感受性を意味します。観念があるなら感受性はありません。観念は過去のものであり、現在を支配しています。その時心はもはや敏捷で、柔軟で、機敏ではありません。私たちはたいてい肉体的にさえ敏感ではありません。食べ過ぎをし、正しい食事に気を遣わず、煙草を吸い過ぎ飲酒するので身体は肥大し鈍感になります。有機体自体の注意の質が鈍くなります。有機体自体が鈍くて重いならばどうして非常に機敏で、敏感で、明晰な心があり得るでしょうか? 私たちは自分に個人的に触れる何かには敏感かもしれませんが、生の全ての含蓄に完全に敏感であるためには有機体と精神の間に分離がないことが必要です。それは全体的な動きです。


学ぶことは感受性による。身体を鈍らせないように。これは全体的動きだから。

>
>  何であっても理解するためにはそれと共に生きなければなりません。観察しなければなりません。その内容、その性質、その構造、その動きを全て知らなければなりません。あなたは今までに自分自身と一緒に生きることを試みたことがありますか? もしそうであるなら、自分自身が静的な状態ではなく、新鮮な生きたものであることを見始めるでしょう。そして生きているものと共に生きるためにはあなたの心もまた生きていなければなりません。心が意見や判断や価値に捉えられているなら、心は生きていることは出来ません。


理解するとは、共に生きる、観察すること。意見や判断価値に捉えられていては生きた観察はあり得ないと。

>
>  自分の心とハートの、自分の全存在の動きを観察するためには、自由な心がなければなりません。議論で一方に味方し、単に言葉について論争し、同意したり同意しなかったりする心ではなく、むしろ理解しようという意向を持ってついていく心です ― そうすることは非常に難しいことです。なぜなら私たちの大抵は自分自身の存在をどのように見、あるいは聞くかを、どのように川の美しさを見、木の間のそよ風を聴くかより、少しもよくは知らないからです。
>

自由が登場。理解しようという意向を持ってついていく心。そうすることは非常に難しい?

>  非難や正当化をするときは明確に見ることはできないし、心がとめどなく喋っているときもできません。その時はあるがままのものを観察していないのです。私たちが自分自身で作った投影を見ているに過ぎません。各人が自分はそうであると考えるもの、あるいはあるべきものというイメージを持っており、そのイメージ、その心像が、自分自身を実際にそうであるままに見ることを完全に妨げます。
>

投影、イメージを見ていて、あるがままに見ることを完全に妨げる!

>  どんなものでも単純に見るということは世界で最も難しいことの一つです。なぜなら私たちの心は非常に複雑で単純さという性質を失っているからです。私は服や食べ物の単純さ、腰布だけをつけたり、断食の記録を破ったり、聖者達が培うあの未熟なナンセンスの何かを言っているのではありません。そうではなく、恐怖なしに直接にものを見ることができる単純さ ― 自分自身を実際にそうであるままにどんな歪みもなしに見ることができる単純さを言っているのです ― 私たちが嘘をついている時は私たちは嘘をついていると言うことです、それを隠したり、それから逃げたりするのではなく。
>
>  また自分自身を理解するためには非常な謙虚さを必要とします。もし「私は私自身を知っている」と言って始めるなら、すでに自分自身について学ぶことをやめているのです。あるいは「私はただの記憶、観念、経験、伝統の集まりだから私自身について学ぶことはたいしてない」と言うなら、その時もまた自分自身について学ぶことをやめているのです。何であれ達成した瞬間、あなたはあの無垢と謙虚の性質を失います。結論を持つ瞬間あるいは知識から調べ始める瞬間、あなたは終りなのです。というのはその時あらゆる生きているものを古い項目で解釈しているからです。ところが、足場を持たないなら、確実性、達成がないなら、見たり、達成したりする自由があります。そして自由と共に見るときそれはいつも新しいのです。確信している人は死んでいる人間です。
>

単純さ、無垢、謙虚はあるがままに見る、理解する、学ぶことの一環として出てくるのか。発見です。
 自自分自身を知るという事は、知識の集積という人間的意識の分野で行うのではなく、過去をわきにおいといて見る、即時の理解という(原初意識?の)経路でのみなされるし、それ(ある種のフィードバック?)がないといけない、混乱が生じるという事か?
>
> (続く)


[25531] 人のことが何でわかるの?自分のことさえわからないのに 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/20(Wed) 19:33  

<このことが起これば、このことの意味(陳述内容の理解)が分かるのではないでしょうか。

 しかし、私には、これが起こっていない。

 それゆえに、このことの意味(陳述内容の理解)は、未だ分かったとは言えない。

今だ、わかってないあなたが何で人のことをああだこうだ言えるのか?

< 一番手に終えないことは、これが起こっていないにも関わらず、「私は陳述内容を理解した」と思い込むことではないでしょうか。

誰が?オタクですか?

> このことは、渡辺さんにも起こったことです。

渡辺氏が「クリシュナムルティの陳述を理解している」と思い込んでいる。
そう思い込んでいるのは、まさしくおたくの方では。
それに何で力量不足のあなたが渡辺氏に対して理解していないと言えるのか?
渡辺氏は曹洞宗で「印可証明」を受けたお方だ。
馬鹿も休み休み言え!

>渡辺さんは、「クリシュナムルティが述べることが起こらなかった。」と述べているにも関わらず、クリシュナムルティの陳述内容を理解していると思い込んでいるのです。

おたくは直に渡辺氏と会ったことがあるのか。ないだろう。
それで何でそんなことが言えるのか?

Kの訳者の人は、クリシュナムルティの言ってることはわかってるよ。一字一句訳してるのだから。当たり前の話だ。皆学者だ。
訳者は大学教授など皆頭のいい人、優秀な人であり、おたくのような頭の悪い人間ではない。
難しいKの言葉を訳すのに、それなりの見識、学識がないと訳せない。又インド文化、インド哲学に精通していなければ、真意を伝えることができない。だいいちインドに行ったことがあるのか?
Kの存命中にアメリカに行ったことがあるのかと言いたい。



 >クリシュナムルティは頭での理解は理解ではないと述べています。

 実際に起こって初めて、陳述内容が理解できると、私は受け取っています。

だったら自分でやってみればいい。わからないくせに。
わからかったらゴトさんに聞けよ。そのためにこのサイトがある。

ずっとおたくの言動を見ているが何か勘違いしている。
クリシュナムルティを旗印にした「排他主義」に陥っている。

沖縄の孤島では、Kに関する情報はネットのみしか得られない。実際のKの関係者にあったことがない。だからおやくは、生きた言葉にならず、いうことが独断、独善となる。



[25530] 既知からの自由2−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/19(Tue) 19:35  

[自分自身を学ぶ・単純さと謙虚さ]

自分自身について学ぶことが重要だと、私か誰かが告げたからというだけでそれが重要だと考えるなら、その時私たちの間のコミュニケーションは全て終わるのではないかと私は恐れます。しかし自分自身を完全に理解することが極めて重要であるという点で私たちが一致するなら、その時私たちは全く違った関係を持っており、幸福な、注意深く聡明な調査で一緒に探求することができます。

 私はあなたの信用を求めません。自分を権威として仕立てていません。あなたに教えることは何もありません ― 新しい哲学も、新しい方式も、実在への新しい道もありません。実在への道がないのは真理への道がないのと同じです。どのような権威もすべて、特に思考と理解の場においては、最も破壊的で邪悪なものです。指導者は追随者を破滅させ、追随者は指導者を破滅させます。あなたは自分自身の教師であり、また自分自身の弟子でなければなりません。あなたは、人間が価値があるとして、必要として受け入れているあらゆるものを問わねばなりません。

 誰かに従わないなら非常に孤独に感じます。その時は孤独でいなさい。なぜ一人でいることを恐れるのでしょう? なぜならありのままの自分自身に直面させられ、自分が空虚で、鈍く、愚かで、醜く、罪深く、不安で ― 取るに足りない、見掛け倒しの、受け売りの存在であるという事を見いだすからです。事実に直面なさい。それを見なさい、それから逃げ出さないこと。逃げ出す瞬間恐怖が始まります。

 自分自身を調べるとき、私たちは残りの世界から自分を孤立させてはいません。それは不健全な過程ではありません。世界中の人間は私たちと同じ日常の問題に巻き込まれています。それゆえ自分を調べながら私たちは少しも神経症的な状態ではありません。なぜなら個人と集団の間に違いはないからです。それは実際の事実です。私は自分がいまそうであるように世界をつくり上げました。それゆえ個人と全体の間のこの戦いの中で迷わないようにしましょう。

 さてどこで私たちは自分自身を理解し始めるのでしょうか? 私はここにいます。そしてどんなふうに自分自身を調べ、観察し、自分自身の内部で実際に起きているものを見るべきでしょうか? 全ての生は関係なので、関係の中でのみ自分自身を観察できます。隅に座って自分自身について瞑想しても無駄です。自分だけで存在することはできません。私は人々や、物、観念との関係の中にのみ存在します。そして内部のものに対してだけでなく、外部のものや人々との関係を調べる中で、自分自身を理解し始めます。あらゆる他の形の理解は単なる抽象であり、私は抽象の中で自分自身を調べることはできません。私は抽象的存在ではありません。従って現実の中の自分自身を調べなければなりません ― ありたいと願うものとしての自分ではなく、ありのままの自分を。


 理解は知的過程ではありません。自分自身についての知識を獲得することと、自分自身について学ぶことは二つの違ったものです。というのは自分について集めた知識は常に過去のものであり、過去の重荷を負った心は悲しみに暮れる心です。自分自身について学ぶことは言語や技術や科学を学ぶようなことではありません ― その場合は明らかに蓄積し記憶しなければなりません。全てをもう一度始めるのは馬鹿げています ― しかし心理的分野では自分自身について学ぶことは常に現在にあり、そして知識は常に過去にあります。そして私たちはたいてい過去に生き、過去に満足しているので、知識が途方もなく重要になります。それが私たちが博識な人、利口な人、抜け目のない人を崇拝する理由です。しかしあなたがいつも学んでいるなら、どの瞬間も学び、注視し傾聴することによって学び、見る事と行なう事によって学んでいるなら、その時学ぶことは過去のない絶えず続く動きであることを見いだすでしょう。

 あなたが自分自身について少しづつ、次第に加えながら、徐々に学ぼうと言うなら、あなたは自分自身を今ありのままに調べているのではなく、獲得した知識を通じて調べているのです。学ぶことは大変な感受性を意味します。観念があるなら感受性はありません。観念は過去のものであり、現在を支配しています。その時心はもはや敏捷で、柔軟で、機敏ではありません。私たちはたいてい肉体的にさえ敏感ではありません。食べ過ぎをし、正しい食事に気を遣わず、煙草を吸い過ぎ飲酒するので身体は肥大し鈍感になります。有機体自体の注意の質が鈍くなります。有機体自体が鈍くて重いならばどうして非常に機敏で、敏感で、明晰な心があり得るでしょうか? 私たちは自分に個人的に触れる何かには敏感かもしれませんが、生の全ての含蓄に完全に敏感であるためには有機体と精神の間に分離がないことが必要です。それは全体的な動きです。

 何であっても理解するためにはそれと共に生きなければなりません。観察しなければなりません。その内容、その性質、その構造、その動きを全て知らなければなりません。あなたは今までに自分自身と一緒に生きることを試みたことがありますか? もしそうであるなら、自分自身が静的な状態ではなく、新鮮な生きたものであることを見始めるでしょう。そして生きているものと共に生きるためにはあなたの心もまた生きていなければなりません。心が意見や判断や価値に捉えられているなら、心は生きていることは出来ません。

 自分の心とハートの、自分の全存在の動きを観察するためには、自由な心がなければなりません。議論で一方に味方し、単に言葉について論争し、同意したり同意しなかったりする心ではなく、むしろ理解しようという意向を持ってついていく心です ― そうすることは非常に難しいことです。なぜなら私たちの大抵は自分自身の存在をどのように見、あるいは聞くかを、どのように川の美しさを見、木の間のそよ風を聴くかより、少しもよくは知らないからです。

 非難や正当化をするときは明確に見ることはできないし、心がとめどなく喋っているときもできません。その時はあるがままのものを観察していないのです。私たちが自分自身で作った投影を見ているに過ぎません。各人が自分はそうであると考えるもの、あるいはあるべきものというイメージを持っており、そのイメージ、その心像が、自分自身を実際にそうであるままに見ることを完全に妨げます。

 どんなものでも単純に見るということは世界で最も難しいことの一つです。なぜなら私たちの心は非常に複雑で単純さという性質を失っているからです。私は服や食べ物の単純さ、腰布だけをつけたり、断食の記録を破ったり、聖者達が培うあの未熟なナンセンスの何かを言っているのではありません。そうではなく、恐怖なしに直接にものを見ることができる単純さ ― 自分自身を実際にそうであるままにどんな歪みもなしに見ることができる単純さを言っているのです ― 私たちが嘘をついている時は私たちは嘘をついていると言うことです、それを隠したり、それから逃げたりするのではなく。

 また自分自身を理解するためには非常な謙虚さを必要とします。もし「私は私自身を知っている」と言って始めるなら、すでに自分自身について学ぶことをやめているのです。あるいは「私はただの記憶、観念、経験、伝統の集まりだから私自身について学ぶことはたいしてない」と言うなら、その時もまた自分自身について学ぶことをやめているのです。何であれ達成した瞬間、あなたはあの無垢と謙虚の性質を失います。結論を持つ瞬間あるいは知識から調べ始める瞬間、あなたは終りなのです。というのはその時あらゆる生きているものを古い項目で解釈しているからです。ところが、足場を持たないなら、確実性、達成がないなら、見たり、達成したりする自由があります。そして自由と共に見るときそれはいつも新しいのです。確信している人は死んでいる人間です。


(続く)


[25529] Re:[25525] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/19(Tue) 17:10  

> 衝動 反抗  適応 反逆  創造  断じてこの順番で起こるのであって逆はありえない。反抗とは欲望から既存のシステムと激突すること。反逆はそれらの虚しさを見抜くことから起こる。適応し幸福を極めた人にしか反逆はおこらない。反逆し自尊心を極めた人にしか創造は起こらない。


興味深く読みました。


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