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[25377] それぞれのアプローチ 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/08(Fri) 09:19  

>それからKのテキストを牧師さんが聖書を読むような解説はやめて、

ここは明らかに宮啓氏のことを指している。彼は今までK の陳述を盲目的に解説しているだけである。議論に加わろうとはしない。


>ひっかる点を挙げて話し合いをしましょう。なお、ほかに読みたいKの本があれば、どなたかそれを投稿していただいて引っかかる点のつつき合いをするのもいいですね。

要するにクリシュナムルティの本というのはすんなり理解できる人はいない。わからないところ、疑問点が多々出てくる。だからみんなで話し合うのだ。
それが読書会の要点。主催の飯尾氏も同じ。そこでは教える人も教えられる人もいない。
それはそれで結構なことだが、実際には各自の意識レベルに差があり、ついてこれない人が出てくる。要するに「消化不良」
ですから初心者向けの解説がいる。渡辺充氏、森本武氏、大野氏など適任。彼らからヒントをもらう。飯尾氏は「グル」ではない。
例えばKの基本テーゼ「観察者は観察されるもの」について、ある程度理解する必要がある。はじめは知的理解として。
それ抜きに過程を抜かして 、いきなりKの教えを実践しろというのは無理な話。

それと真理へのアプローチの探求だが、人それぞれ違って当たり前だろう。
クリシュナムルティ、渡辺充氏、飯尾氏、それぞれスタンスが違う。
飯尾氏などは徹底してクリシュナムルティのくの字も出さなかった。だからK の解説はしない。日常で起きたことだけ話し合う。
渡辺氏は親切丁寧に仏教、クリシュナムルティを解説している。といって彼は仏教、クリシュナムルティに追随しない。ところどころ彼らに対する疑問点を述べている。ようするに教えを盲従しない。あくまで自分で考え抜く。
クリシュナムルティ1個人に追随することはまさに洗脳である。これはK個人が避けてきたことでもある。だから彼は私の言ってることがガラクタのテープレコーダーにすぎないというのである。
「言葉」に追随するな。


[25376] Re:[25373] 既知からの自由 1−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/08(Fri) 09:10  

> [人間の探求・苦悶する心]
>
> 人間はどの時代にも自分自身を超え、物質的な幸福を超えた何かを ― 真理とか神とか真の実在と呼ぶ何か、時間のない状態 ― 環境や思考や人間の堕落によってかき乱されない何かを求めてきました。

ウーム、これは西洋の有閑階級の心理なのかな? 哲学青年的な感じもする。

>  人間は常にこう問うてきました。すべては何なのでしょうか? 生は一体何か意味を持つのでしょうか? 巨大な生の混乱、残虐、反抗、戦争、宗教とイデオロギーと国家の果てしない分裂を見、深い永久的な挫折感をもって人間は問います。なすべきことは何でしょうか、私たちが生と呼ぶこのものは何でしょうか、それを超える何かがあるのでしょうか?

貧乏青年の文句のような感じになった。

>  そして常に求めてきた多くの名前を持つこの名称のないものを見出すことなく、信仰を ― 救世主や理想に対する信仰をはぐくんできました ― そして信仰は不可避的に暴力を生みます。

信仰は組織化されると内部の派閥争い、信者に対する異端審問、異教間の対立・宗教戦争・民族間の戦争を生んだ。

>  生と呼ぶこのたえざる戦いの中で、共産主義社会であれ、いわゆる自由主義社会であれ、私たちは自分が育てられた社会に従って行動の基準を定めようとします。私たちはヒンドゥ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、あるいはたまたま何であろうがその教徒としての自分たちの伝統の一部として、行動の規範を受け入れます。何が正しく何が間違った振る舞いか、何が正しく何が間違った考えか教えてくれる誰かを当てにします。そしてこの様式に従う中で、私たちの行為と思考は機械的になり、反応は自動的になります。この事は自分自身の中に非常に容易に観察できます。

非常に容易に観察できる…ここは引っかからないです。

>  何世紀もの間、私たちは教師や権威、書物や聖者によって匙で食べさせてもらってきました。私たちは「それについて全部教えてください ― あの丘や山や大地の向こうには何があるのでしょうか?」と言い、彼らの説明で満足しますが、それは私たちが言葉で生きており、私たちの生は浅薄で空虚ことなことを意味します。私たちは受け売り人間なのです。自分の傾向、性癖によって誘導されるか、あるいは境遇と環境によって受け入れるよう強制されるかのどちらかで、教えられたものを頼りにして生きています。私たちはあらゆる種類の影響の結果であり、私たちの中に新しいものは何もなく、自分自身で発見したものは何もありません。独創的で、本来の純粋さを保った明確なものは何もないのです。

人類にはガリレオやコペルニクスやレオナルド・ダ・ヴィンチ(隠れて解剖図を描いた)、ほか数々の天才を生んだ。誰もが天文学や解剖学に通じる必要はない。そのことはそのこととして、自分でしっかり考えなければならないことも確かにある。とまあ私はそう思うのだが、そこで何を明確に自分で考えなければいけないのか、また人類はどう動いているのか、自分で考えたことはあるのかな。それともKの本をもっと読んだ方がいいのかな。

>  神学の歴史を通じて、もし私たちがある儀式を行ない、ある祈りやマントラを繰り返し、ある型に従い、欲望を抑え、思考を制御し、情熱を昇華させ、食欲を制限し、性的な放縦を慎むなら、心と肉体の十分な苦悩の後で、この小さな生を超越した何かを発見するだろうと、宗教的指導者によって保証されてきました。そしてそれは何百万のいわゆる宗教的な人が長年の間、行ってきたことです。孤立して、砂漠や山や洞窟に入ったり、村から村へ托鉢の旅を続けたり、あるいは集団で修道院に入り、確立した型に従う事を自分の心に強いたりしました。しかし苦悶する心、打ちひしがれた心、すべての混乱から逃れることを望む心、規律と順応を通じて鈍くされた心 ― このような心は、どれほど長く求めても、それ自体の歪みに従って見出すだけでしょう。

ここは今のところ引っかかりません。
>
> (続く)


[25375] 無題 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/08(Fri) 08:35  

>  それで、ゴト訳「既知からの自由」を読んでみるつもりです。実は今興味がわいているので。それから、このKのテキストを牧師さんが聖書を読むような解説はやめて、ひっかる点を挙げて話し合いをしましょう。なお、ほかに読みたいKの本があれば、どなたかそれを投稿していただいて引っかかる点のつつき合いをするのもいいですね。

ゴトさんが「既知のからの自由」を訳していたとは、初めて聞きました。
私も1978年にオハイに行ったとき原書を購入しました。この本は1969年に「自己変革の方法」と訳され、はじめて出たK の本です。
この本にあるKのいうスパッとした物言いに感銘を受けたものです。
その後に違う訳者の本が出ましたが、全く印象が変わってしまいました。
以前はパソコンで投稿していましたが、現在はアイパットでやっています。
上記の文章はコピペして貼り付けたものです。


[25374] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/07(Thu) 23:47  

既知からの自由を掲載します。

実はプリントした文なので、掲載に当たってはタイプしなければなりません。見直して誤字が多くて自信がありませんが、頑張ります!

私の引っかかるところは明日ゆっくりと書きます。

皆さんも長文でも、思いつくたびに回数を重ねても結構ですからよろしくね。もちろん感想も大歓迎です。


[25373] 既知からの自由 1−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/07(Thu) 23:12  

[人間の探求・苦悶する心]

人間はどの時代にも自分自身を超え、物質的な幸福を超えた何かを ― 真理とか神とか真の実在と呼ぶ何か、時間のない状態 ― 環境や思考や人間の堕落によってかき乱されない何かを求めてきました。

 人間は常にこう問うてきました。すべては何なのでしょうか? 生は一体何か意味を持つのでしょうか? 巨大な生の混乱、残虐、反抗、戦争、宗教とイデオロギーと国家の果てしない分裂を見、深い永久的な挫折感をもって人間は問います。なすべきことは何でしょうか、私たちが生と呼ぶこのものは何でしょうか、それを超える何かがあるのでしょうか?

 そして常に求めてきた多くの名前を持つこの名称のないものを見出すことなく、信仰を ― 救世主や理想に対する信仰をはぐくんできました ― そして信仰は不可避的に暴力を生みます。

 生と呼ぶこのたえざる戦いの中で、共産主義社会であれ、いわゆる自由主義社会であれ、私たちは自分が育てられた社会に従って行動の基準を定めようとします。私たちはヒンドゥ教徒、イスラム教徒、キリスト教徒、あるいはたまたま何であろうがその教徒としての自分たちの伝統の一部として、行動の規範を受け入れます。何が正しく何が間違った振る舞いか、何が正しく何が間違った考えか教えてくれる誰かを当てにします。そしてこの様式に従う中で、私たちの行為と思考は機械的になり、反応は自動的になります。この事は自分自身の中に非常に容易に観察できます。

 何世紀もの間、私たちは教師や権威、書物や聖者によって匙で食べさせてもらってきました。私たちは「それについて全部教えてください ― あの丘や山や大地の向こうには何があるのでしょうか?」と言い、彼らの説明で満足しますが、それは私たちが言葉で生きており、私たちの生は浅薄で空虚ことなことを意味します。私たちは受け売り人間なのです。自分の傾向、性癖によって誘導されるか、あるいは境遇と環境によって受け入れるよう強制されるかのどちらかで、教えられたものを頼りにして生きています。私たちはあらゆる種類の影響の結果であり、私たちの中に新しいものは何もなく、自分自身で発見したものは何もありません。独創的で、本来の純粋さを保った明確なものは何もないのです。

 神学の歴史を通じて、もし私たちがある儀式を行ない、ある祈りやマントラを繰り返し、ある型に従い、欲望を抑え、思考を制御し、情熱を昇華させ、食欲を制限し、性的な放縦を慎むなら、心と肉体の十分な苦悩の後で、この小さな生を超越した何かを発見するだろうと、宗教的指導者によって保証されてきました。そしてそれは何百万のいわゆる宗教的な人が長年の間、行ってきたことです。孤立して、砂漠や山や洞窟に入ったり、村から村へ托鉢の旅を続けたり、あるいは集団で修道院に入り、確立した型に従う事を自分の心に強いたりしました。しかし苦悶する心、打ちひしがれた心、すべての混乱から逃れることを望む心、規律と順応を通じて鈍くされた心 ― このような心は、どれほど長く求めても、それ自体の歪みに従って見出すだけでしょう。

(続く)


[25372] Re:[25371] [25369] [25367] [25364] [25363] [25362] [25361] [25360] [25359] [25356] [25354] [25350] [25349] [25343] [25339] [25337] [25334] 人間の持つ五感 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/07(Thu) 19:15  

> > > >  そして、私が痛感していることは、クリシュナムルティの陳述内容の理解なしに、クリシュナムルティの裾から離れることは、絵に描いた餅となると常々感じています。
> > >
> > > 知的理解でもいいのですが、それもなく離れることはどうなのかな。無意識に種がまかれていることはあるかもしれないがそこらはわからない・・・。掲示板の論点が広がることを危惧していらっしゃるのはわかりました。
> > >
> > > >  クリシュナムルティなしに、ボームなしに・・、これはクリシュナムルティの陳述内容の理解が大前提となるのではないでしょうか。
> > > >
> > > >  クリシュナムルティの陳述内容の理解なしに、「クリシュナムルティなしに、ボームなしに・・」、これは、クリシュナムルティの回避にしか聞こえないのです。。
> > >
> > > わかりました。
> > >
> > > >  したがって、もしも、>混乱を含んだ話し合い−−を望むのであれば、それは真っ先に、クリシュナムルティの陳述内容で、ひっかかりがあるところ・・、まずこれを洗い出し、ひとつひとつ、丁寧に、>混乱を含んだ話し合い−−へと持ち込むことが、建設的ではないでしょうか。。
> > >
> > > あなたの話の趣旨は了解したのでそのようにしましょう。
> > > だが初めに申し上げたいのですが、条件づけられた者同士が話すので話し合いには常に混乱が含まれます。意見が対立するかもしれませんがそれを楽しみましょう。
> > >  それで、ゴト訳「既知からの自由」を読んでみるつもりです。実は今興味がわいているので。それから、このKのテキストを牧師さんが聖書を読むような解説はやめて、ひっかる点を挙げて話し合いをしましょう。なお、ほかに読みたいKの本があれば、どなたかそれを投稿していただいて引っかかる点のつつき合いをするのもいいですね。
> >
> >
> >  とても嬉しく思います。
> >
> >  ありがとうございます。
> >
> >  ちなみに、新しい芽さん翻訳の「既知のものからの自由」は読んだことがあるのですが、ゴトさんも翻訳していたとは知りませんでした。。
> >
> >  楽しみにしています。
>
> では早速始めましょう。ゆっくり進めようと思います。
> なお、私は自分の勉強として邦訳の既に出ている本をいくつか訳しています。


 よろしくお願いします。。


[25371] Re:[25369] [25367] [25364] [25363] [25362] [25361] [25360] [25359] [25356] [25354] [25350] [25349] [25343] [25339] [25337] [25334] 人間の持つ五感 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/07(Thu) 17:14  

> > > > > > > > >  『クリシュナムルティの生と死』にて、クリシュナムルティが述べていることの中に、以下のことがあります。
> > > > > > > > >
> > > > > > > > >  「生に与(くみ)する者は、生に与するものと繋がろうとする。これは愛である。(旨)」
> > > > > > > > >
> > > > > > > > >  愛の働きは、先を読むことができない。
> > > > > > > > >
> > > > > > > > >  しかし、愛が英知であるならば、愛が導いてゆくのかもしれません。。
> > > > > > > >
> > > > > > > >
> > > > > > > > ホントにそうですね。人の振る舞いはゆがんだ思考から出る反応(自尊心や知識や先入観等々)は実に多種多様なものがあるし、愛から出る気づかいや慈愛に満ちた行為もあるに違いない。しかしながら人はそれに対し鋭敏な感受性を持っているのですが、その感受の仕方に個人的癖があって混乱し、カオスに陥っているままに社会やシステムを含めて乱走状態になっているのでしょう。
> > > > > > > >
> > > > > > > >
> > > > > > > > やっぱりこの盲目的な状態を直さなければならないが、人は結構天狗になっているので、そうはならない。優劣にとらわれ、嫉妬し、所有欲にかられと言い出せばキリがない。どうすればいいのか?
> > > > > > > >
> > > > > > > > 魚類や鳥類の大きな群れが乱れずに集団行動するのは簡単な原則があればよいので、それは個体同士が近づきすぎず、離れないで同一方向に向かうという事だけだそうです。
> > > > > > > >
> > > > > > > > 判断なしに見ている。葛藤なしに生きる。自分を含めての全体を見る。こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか、Kとボームに頼らないで、自分たちみんなで考えて、話し合ってみたらどうでしょう。
> > > > > > > >
> > > > > > > > 私は新しい芽さんの会で、当時、まだそのように尋ねることができなかった。
> > > > > > >
> > > > > > >
> > > > > > >  それは哲学の延長となるように思うのですが・・。。
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > > うーむ、意外なレスをいただきました。哲学は同じところを循環し、過ちを正していくのは不可能なこととお考えですか? 思考は、いや話し合う事は無意味とお考えですか?
> > > > > >
> > > > > > 私は何気なく人の言ったことが心に飛び込んではっと目が覚めたようにわかるという経験を何度もしました。人が実際に会っての話し合いがよいのですが、掲示板のやり取りでも人は影響されます。もちろん静かに見、聴いていない限り、その受け取り方は良くも悪しくもになりますが、私は話し合いに期待します。それはある不思議さを持っていないですか?
> > > > >
> > > > >
> > > > >  そこに、なぜ、クリシュナムルティなしに、ボームなしにと、限定を入れるのかが分かりません。
> > > >
> > > >
> > > > Kとボームに{頼る}ことなしにと書きました。排斥でなく、依存なしに自分の頭で考えるということです。Kも「私が言ったからでなく、自分で見て、あるいは考えて理解するように」とよく言っています。ここが立脚点なのかもしれません。
> > > >
> > > > しかし、そこに人間には条件付けがあります。それゆえ意見の対立もあり得ます。しかし、よく相手の言う事を聴きながら話をすることもできます。ただし、論理だけで話が通じることは狭く限定された事柄に限られます。心が通じ合うこと(交感)が必要です。これはそう簡単なことではありません。
> > > >
> > > > 「Kですら間違っているかもしれない」、これが度を過ぎた懐疑心になると前に進めないことも確かですが、要は「最初に自由がある」ことですか。
> > > >
> > > > だがやはり、混乱を含んだ話し合いがカギになると思っています。
> > >
> > >
> > >
> > >  はい。
> > >
> > >  そこで、重要なことは、クリシュナムルティの陳述内容で、ひっかかりがあるところが要となるように思います。
> > >
> > >  ひっかかっているにも関わらず、クリシュナムルティは嘘をつかないから、クリシュナムルティは絶えず正しいから。真実を述べるからと、ひっかかりを脇に置いて、そのままスルーして、陳述されたとおりに受け入れることを、クリシュナムルティはそれを正すために、>Kも「私が言ったからでなく、自分で見て、あるいは考えて理解するように」−−、という陳述が出たのだと思います。
> > >
> > >  私の感ずるところは、>こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか−−、その理由として、クリシュナムルティの陳述内容を理解できていないからと捉えています。
> >
> > ここの理解は知的理解の意味で使っていますか、それとも気づきの理解でしょうか?
>
>
>  まず、知的理解においても、ひっかかりがあるということです。
>
>  例えば、クリシュナムルティが「親子の愛は真の愛ではない」と陳述した場合、受け手側が「これは一般的な親子のことであり、例外はありえる」と解釈した場合、その例外が、時間の外を生きている親子の場合と捉えればよいのですが、時間の枠内の親子にその例外を認めたならば、この受け手がクリシュナムルティの陳述を知的に理解したとは思えないのです。

クリシュナムルティの陳述は瞬時瞬時、あるいは今についての陳述であって、継続してのことではないのです。誰かが空なる心でその瞬間に赤ん坊とともにいるならそこに愛があります。その時意識された経験はないでしょう。空なる状態でないときは苦痛に感じる時があり、母はそこで自己を意識し始めます。苦悩があるとき、ひょいと見ている状態に入るとき、感じるものがあります。それは一瞬限りのものではなく、理屈抜きの理解で心を変えます。

> > >  『時間の終焉』や『英知へのターニングポイント』を翻訳した渡辺氏でさえ、>こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか−−、これに当てはまるのです。
> > >
> > >  あのような最高品質の邦訳を為したものでさえ、クリシュナムルティの陳述内容を理解していないのです。
> >
> > 渡辺さんの理解が>こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか−−、これに当てはまるというのがはっきりしません。> 判断なしに見ている。葛藤なしに生きる。自分を含めての全体を見る。−‐ これがこんなこんな簡単なことを指すと思っていいですか?
> > そうだとするとどんなことがあったのか、変に思えて信じ難いのですが。

>  渡辺さんが掲示板を閉じる前に、何度か渡辺さんとやりとりを行いました。
>
>  私が、渡辺さんのやり方をとりあげ、これはクリシュナムルティの陳述と異なる旨を何度か指摘しました。
>
>  渡辺さんは、その指摘を、指摘通りクリシュナムルティの陳述とは異なる旨を認めました。
>
>  そして、渡辺さんは渡辺さんのやり方でやりたいので、そのままクリシュナムルティの陳述とは異なる方法を試したい旨を告げてきました。

そうですか。それなら渡辺さんは違う生き方を探究しているのです。それはそれでいいのではありませんか。渡辺さんの一味違う言うところを傾聴すればいいと思います。

> > >  そして、私が痛感していることは、クリシュナムルティの陳述内容の理解なしに、クリシュナムルティの裾から離れることは、絵に描いた餅となると常々感じています。
> >
> > 知的理解でもいいのですが、それもなく離れることはどうなのかな。無意識に種がまかれていることはあるかもしれないがそこらはわからない・・・。掲示板の論点が広がることを危惧していらっしゃるのはわかりました。
> >
> > >  クリシュナムルティなしに、ボームなしに・・、これはクリシュナムルティの陳述内容の理解が大前提となるのではないでしょうか。
> > >
> > >  クリシュナムルティの陳述内容の理解なしに、「クリシュナムルティなしに、ボームなしに・・」、これは、クリシュナムルティの回避にしか聞こえないのです。。
> >
> > わかりました。
> >
> > >  したがって、もしも、>混乱を含んだ話し合い−−を望むのであれば、それは真っ先に、クリシュナムルティの陳述内容で、ひっかかりがあるところ・・、まずこれを洗い出し、ひとつひとつ、丁寧に、>混乱を含んだ話し合い−−へと持ち込むことが、建設的ではないでしょうか。。
> >
> > あなたの話の趣旨は了解したのでそのようにしましょう。
> > だが初めに申し上げたいのですが、条件づけられた者同士が話すので話し合いには常に混乱が含まれます。意見が対立するかもしれませんがそれを楽しみましょう。
> >  それで、ゴト訳「既知からの自由」を読んでみるつもりです。実は今興味がわいているので。それから、このKのテキストを牧師さんが聖書を読むような解説はやめて、ひっかる点を挙げて話し合いをしましょう。なお、ほかに読みたいKの本があれば、どなたかそれを投稿していただいて引っかかる点のつつき合いをするのもいいですね。
>
>
>  とても嬉しく思います。
>
>  ありがとうございます。
>
>  ちなみに、新しい芽さん翻訳の「既知のものからの自由」は読んだことがあるのですが、ゴトさんも翻訳していたとは知りませんでした。。
>
>  楽しみにしています。

では早速始めましょう。ゆっくり進めようと思います。
なお、私は自分の勉強として邦訳の既に出ている本をいくつか訳しています。


[25370] Re:[25368] 真の心のコミニュケーション作用 投稿者:ゴト 投稿日:2018/06/07(Thu) 16:17  

> 1週間の「話しあい合宿 」に出たことがある。 山岸会、エンカウンタースクールなど。詳細は避けるが、簡単に言うと、見知らぬ他人が1週間共にして様々なテーマを話し合う。初めはお互いに言いたいことを言いあい他人を責めたりする非難中傷が続くが、時間がたつにつれ徐々にお互い打ち解け、最後は皆仲良しになる。そこで真の心の交換作用が生まれる。そして別れは辛くなる。互いに号泣する。

得難いお話をありがとう。

> さてクリシュナムルティの読書会に何度か参加したが、そこではうわべだけの話し合いで、心の交換作用など生まれようがない。互いに言いたいことを言うだけだ。
> 建前は「生の問題」を話すということだが、クリシュナムルティを読む人の意識レベルに差がありすぎて、議論にならないこともしばしば。
> そこに来る人はクリシュナムルティの本を少しでも理解したいというニーズには答えられなかった。主催する飯尾氏はクリシュナムルティの解説者ではなかった。
> 彼にすればクリシュナムルティは話し合いのきっかけにすぎぬという。それでは初心者はついていけぬ。
> ご承知のようにクリシュナムルティの本というには、一般の人が軽く読めるような代物ではない。専門用語やインドの言葉が出て来る。ある程度「解説」が必要ではないだろうか。というのはKの本に対する見解があまりにまちまち。最低限の「統一見解」が必要だ。
> 解説といっても、そこらへんの素人の解説ではなく、専門家の解説が必須。KB 会の渡辺充氏やKsポイントの森本氏など適任である。私は残念ながらこれらの存在を知るのが遅かった。
> ご承知のように飯尾氏の文章は難解で分かりずらい。彼の肉声を改めて聞きたいと思うが今はその機会はない。
> 読書会→掲示板ではなく、掲示板→読書会なら彼に対する理解に近ずけたかもしれない。
>
> 最後に心の交換作用に戻るが、結局は「愛の気持ち」が芽生えなければ、真の交換作用は生まれようがない。
>
> (世間で使う取り引き的な愛」という意味ではない)
>
> 判断なしに見る。葛藤なしに見る、あなたのお好きなキャッチフレーズのようだが、それではよくわからない。
>
> 愛の気持ちを持って物事に接すると言うのならよくわかる。
> 相手にに対して交換作用が生まれるには、まず相手を信頼することが必須だろう。
>
> そうではなくあなたのいう「無機質に判断なしに見る」という
> ことか。何も思わずに?
> それではどういうときに、どう言う状況の時に
> 「判断なしに見る」という状態が現れるのだろうか。

よそ事が何もかも忘れられいる時、真剣な時、完全にリラックスして心がオープンな時、時の流れが意識されていない時。そのような時に実現する。その時は愛のある時でもある。


[25369] Re:[25367] [25364] [25363] [25362] [25361] [25360] [25359] [25356] [25354] [25350] [25349] [25343] [25339] [25337] [25334] 人間の持つ五感 投稿者:宮啓 投稿日:2018/06/07(Thu) 11:28  

> > > > > > > >  『クリシュナムルティの生と死』にて、クリシュナムルティが述べていることの中に、以下のことがあります。
> > > > > > > >
> > > > > > > >  「生に与(くみ)する者は、生に与するものと繋がろうとする。これは愛である。(旨)」
> > > > > > > >
> > > > > > > >  愛の働きは、先を読むことができない。
> > > > > > > >
> > > > > > > >  しかし、愛が英知であるならば、愛が導いてゆくのかもしれません。。
> > > > > > >
> > > > > > >
> > > > > > > ホントにそうですね。人の振る舞いはゆがんだ思考から出る反応(自尊心や知識や先入観等々)は実に多種多様なものがあるし、愛から出る気づかいや慈愛に満ちた行為もあるに違いない。しかしながら人はそれに対し鋭敏な感受性を持っているのですが、その感受の仕方に個人的癖があって混乱し、カオスに陥っているままに社会やシステムを含めて乱走状態になっているのでしょう。
> > > > > > >
> > > > > > >
> > > > > > > やっぱりこの盲目的な状態を直さなければならないが、人は結構天狗になっているので、そうはならない。優劣にとらわれ、嫉妬し、所有欲にかられと言い出せばキリがない。どうすればいいのか?
> > > > > > >
> > > > > > > 魚類や鳥類の大きな群れが乱れずに集団行動するのは簡単な原則があればよいので、それは個体同士が近づきすぎず、離れないで同一方向に向かうという事だけだそうです。
> > > > > > >
> > > > > > > 判断なしに見ている。葛藤なしに生きる。自分を含めての全体を見る。こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか、Kとボームに頼らないで、自分たちみんなで考えて、話し合ってみたらどうでしょう。
> > > > > > >
> > > > > > > 私は新しい芽さんの会で、当時、まだそのように尋ねることができなかった。
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > >  それは哲学の延長となるように思うのですが・・。。
> > > > >
> > > > >
> > > > > うーむ、意外なレスをいただきました。哲学は同じところを循環し、過ちを正していくのは不可能なこととお考えですか? 思考は、いや話し合う事は無意味とお考えですか?
> > > > >
> > > > > 私は何気なく人の言ったことが心に飛び込んではっと目が覚めたようにわかるという経験を何度もしました。人が実際に会っての話し合いがよいのですが、掲示板のやり取りでも人は影響されます。もちろん静かに見、聴いていない限り、その受け取り方は良くも悪しくもになりますが、私は話し合いに期待します。それはある不思議さを持っていないですか?
> > > >
> > > >
> > > >  そこに、なぜ、クリシュナムルティなしに、ボームなしにと、限定を入れるのかが分かりません。
> > >
> > >
> > > Kとボームに{頼る}ことなしにと書きました。排斥でなく、依存なしに自分の頭で考えるということです。Kも「私が言ったからでなく、自分で見て、あるいは考えて理解するように」とよく言っています。ここが立脚点なのかもしれません。
> > >
> > > しかし、そこに人間には条件付けがあります。それゆえ意見の対立もあり得ます。しかし、よく相手の言う事を聴きながら話をすることもできます。ただし、論理だけで話が通じることは狭く限定された事柄に限られます。心が通じ合うこと(交感)が必要です。これはそう簡単なことではありません。
> > >
> > > 「Kですら間違っているかもしれない」、これが度を過ぎた懐疑心になると前に進めないことも確かですが、要は「最初に自由がある」ことですか。
> > >
> > > だがやはり、混乱を含んだ話し合いがカギになると思っています。
> >
> >
> >
> >  はい。
> >
> >  そこで、重要なことは、クリシュナムルティの陳述内容で、ひっかかりがあるところが要となるように思います。
> >
> >  ひっかかっているにも関わらず、クリシュナムルティは嘘をつかないから、クリシュナムルティは絶えず正しいから。真実を述べるからと、ひっかかりを脇に置いて、そのままスルーして、陳述されたとおりに受け入れることを、クリシュナムルティはそれを正すために、>Kも「私が言ったからでなく、自分で見て、あるいは考えて理解するように」−−、という陳述が出たのだと思います。
> >
> >  私の感ずるところは、>こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか−−、その理由として、クリシュナムルティの陳述内容を理解できていないからと捉えています。
>
> ここの理解は知的理解の意味で使っていますか、それとも気づきの理解でしょうか?


 まず、知的理解においても、ひっかかりがあるということです。

 例えば、クリシュナムルティが「親子の愛は真の愛ではない」と陳述した場合、受け手側が「これは一般的な親子のことであり、例外はありえる」と解釈した場合、その例外が、時間の外を生きている親子の場合と捉えればよいのですが、時間の枠内の親子にその例外を認めたならば、この受け手がクリシュナムルティの陳述を知的に理解したとは思えないのです。


> >  『時間の終焉』や『英知へのターニングポイント』を翻訳した渡辺氏でさえ、>こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか−−、これに当てはまるのです。
> >
> >  あのような最高品質の邦訳を為したものでさえ、クリシュナムルティの陳述内容を理解していないのです。
>
> 渡辺さんの理解が>こんな簡単なことがなぜ、Kの本を読んだ人でさえできないのか−−、これに当てはまるというのがはっきりしません。> 判断なしに見ている。葛藤なしに生きる。自分を含めての全体を見る。−‐ これがこんなこんな簡単なことを指すと思っていいですか?
> そうだとするとどんなことがあったのか、変に思えて信じ難いのですが。


 渡辺さんが掲示板を閉じる前に、何度か渡辺さんとやりとりを行いました。

 私が、渡辺さんのやり方をとりあげ、これはクリシュナムルティの陳述と異なる旨を何度か指摘しました。

 渡辺さんは、その指摘を、指摘通りクリシュナムルティの陳述とは異なる旨を認めました。

 そして、渡辺さんは渡辺さんのやり方でやりたいので、そのままクリシュナムルティの陳述とは異なる方法を試したい旨を告げてきました。


> >  そして、私が痛感していることは、クリシュナムルティの陳述内容の理解なしに、クリシュナムルティの裾から離れることは、絵に描いた餅となると常々感じています。
>
> 知的理解でもいいのですが、それもなく離れることはどうなのかな。無意識に種がまかれていることはあるかもしれないがそこらはわからない・・・。掲示板の論点が広がることを危惧していらっしゃるのはわかりました。
>
> >  クリシュナムルティなしに、ボームなしに・・、これはクリシュナムルティの陳述内容の理解が大前提となるのではないでしょうか。
> >
> >  クリシュナムルティの陳述内容の理解なしに、「クリシュナムルティなしに、ボームなしに・・」、これは、クリシュナムルティの回避にしか聞こえないのです。。
>
> わかりました。
>
> >  したがって、もしも、>混乱を含んだ話し合い−−を望むのであれば、それは真っ先に、クリシュナムルティの陳述内容で、ひっかかりがあるところ・・、まずこれを洗い出し、ひとつひとつ、丁寧に、>混乱を含んだ話し合い−−へと持ち込むことが、建設的ではないでしょうか。。
>
> あなたの話の趣旨は了解したのでそのようにしましょう。
> だが初めに申し上げたいのですが、条件づけられた者同士が話すので話し合いには常に混乱が含まれます。意見が対立するかもしれませんがそれを楽しみましょう。
>  それで、ゴト訳「既知からの自由」を読んでみるつもりです。実は今興味がわいているので。それから、このKのテキストを牧師さんが聖書を読むような解説はやめて、ひっかる点を挙げて話し合いをしましょう。なお、ほかに読みたいKの本があれば、どなたかそれを投稿していただいて引っかかる点のつつき合いをするのもいいですね。


 とても嬉しく思います。

 ありがとうございます。

 ちなみに、新しい芽さん翻訳の「既知のものからの自由」は読んだことがあるのですが、ゴトさんも翻訳していたとは知りませんでした。。

 楽しみにしています。


[25368] 真の心のコミニュケーション作用 投稿者:虚無 投稿日:2018/06/07(Thu) 11:09  

1週間の「話しあい合宿 」に出たことがある。 山岸会、エンカウンタースクールなど。詳細は避けるが、簡単に言うと、見知らぬ他人が1週間共にして様々なテーマを話し合う。初めはお互いに言いたいことを言いあい他人を責めたりする非難中傷が続くが、時間がたつにつれ徐々にお互い打ち解け、最後は皆仲良しになる。そこで真の心の交換作用が生まれる。そして別れは辛くなる。互いに号泣する。

さてクリシュナムルティの読書会に何度か参加したが、そこではうわべだけの話し合いで、心の交換作用など生まれようがない。互いに言いたいことを言うだけだ。
建前は「生の問題」を話すということだが、クリシュナムルティを読む人の意識レベルに差がありすぎて、議論にならないこともしばしば。
そこに来る人はクリシュナムルティの本を少しでも理解したいというニーズには答えられなかった。主催する飯尾氏はクリシュナムルティの解説者ではなかった。
彼にすればクリシュナムルティは話し合いのきっかけにすぎぬという。それでは初心者はついていけぬ。
ご承知のようにクリシュナムルティの本というには、一般の人が軽く読めるような代物ではない。専門用語やインドの言葉が出て来る。ある程度「解説」が必要ではないだろうか。というのはKの本に対する見解があまりにまちまち。最低限の「統一見解」が必要だ。
解説といっても、そこらへんの素人の解説ではなく、専門家の解説が必須。KB 会の渡辺充氏やKsポイントの森本氏など適任である。私は残念ながらこれらの存在を知るのが遅かった。
ご承知のように飯尾氏の文章は難解で分かりずらい。彼の肉声を改めて聞きたいと思うが今はその機会はない。
読書会→掲示板ではなく、掲示板→読書会なら彼に対する理解に近ずけたかもしれない。

最後に心の交換作用に戻るが、結局は「愛の気持ち」が芽生えなければ、真の交換作用は生まれようがない。

(世間で使う取り引き的な愛」という意味ではない)

判断なしに見る。葛藤なしに見る、あなたのお好きなキャッチフレーズのようだが、それではよくわからない。

愛の気持ちを持って物事に接すると言うのならよくわかる。
相手にに対して交換作用が生まれるには、まず相手を信頼することが必須だろう。

そうではなくあなたのいう「無機質に判断なしに見る」という
ことか。何も思わずに?
それではどういうときに、どう言う状況の時に
「判断なしに見る」という状態が現れるのだろうか。













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