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[26447] 最初のザーネン講話 6-4 投稿者:ゴト 投稿日:2019/02/03(Sun) 22:09  

1961年ザーネン公開講話 6−4

質問: 悲しみがあるとき、確かに、それについて何かしようと望むのは避けられません。


ゴト: 質問についても、なぜ人はこういう質問をするのかを尋究してみよう。この場合、自分の心をただ見ていることができず、絶えず何かを希求していることが結論として浮かんでしまうのだ。そしてそれを変える見地しかない。


クリシュナムルティ: あなた、私たちが先日言っていたように、私たちは快楽と共に生きようと望むのではないでしょうか? 私たちは快楽を変えようと求めません。それが昼も夜も永続的に続くことを望みます。それを変えたいとは思いません。それが去らないように、それに触れよう、一息いれようとさえしません。私たちはそれを手離したくないのではないでしょうか? 私たちは私たちを大喜びせるもの、歓喜、快楽、興奮を与えてくれるもの−教会に行くこと、ミサに行くこと、などなどのようなものに執着します。これらのものは私たちに大きな興奮、感動を与え、私たちはその気持ちを変えようとは望みません。それは人をものごとの源に近く感じさせ、その興奮を望むのではないでしょうか? なぜ私たちは同じように、悲しみについて何かすることを望むことなしに、同じ強烈さで悲しみと共に生きることができないのでしょうか? あなたは今までにそれをしてみたことがありますか? 今までに肉体的な苦痛と共に生きようとしたことがありますか? 今までに騒音と共に生きようとしたことがありますか?

 それを簡単にしましょう。犬が夜吠えていて、あなたは眠りたいと思います。そして吠え続けるとき、あなたはどうしますか? あなたはそれに抵抗しませんか? あなたは物を投げたり、ののしったり、それに対してできることは何でもします。しかしもしもその代わりにその音と共に過ごし、何の抵抗もなしに吠えているのを聞くなら、不快感があるでしょうか? あなたが今までにこれをやってみたことがあるかどうか知りません。何かのときにそれをやって見るべきです。抵抗しないことを。快楽を押しのけないのと同じ様に、抵抗なしに、選択なしに、決して逃避を求めず、決して希望にふけらず、ふけることによって絶望を招くことなく、同じ様に悲しみと生きることができないでしょうか−ただそれと生きることが?

 ほら、何かと共に生きるということは、それを愛するということですね。誰かを愛するとき、あなたはその人と一緒に生きたい、その人と一緒にいたいと思わないでしょうか? 同様に、人は悲しみと共に生きることができます。加虐的にではなくて、その全体像を見ながら。決してそれを避けようとするのではなくて、それの力、強烈さ、そしてそれのまったくの浅薄さもまた感じながら−それは、それについてあなたは何もできないということを意味します。何といっても、あなたはあなたに強烈な快楽を与えるものに何もしようとは思いません。あなたはそれを変えようとは思いません。それを流れさせようと思います。同様に、悲しみと共に生きることは、実際には、悲しみを愛することを意味し、そしてそれは多くのエネルギー、多くの理解を要します。それは心が事実から逃避していないかどうかを見るために、いつも見守っているということです。逃避することは恐ろしく容易です。薬物を服用することが、酒を飲むことが、ラジオをつけることが、本を開くことが、おしゃべりなどなどができます。しかしひたすら、全面的に、何かとともに生きることは、それが快楽であろうが苦痛であろうが、強烈に油断のない心を必要とします。そして心がそのように油断のないとき、それはそれ自身の行為を作り出します−というよりは、行為が事実から生じます。そして心は事実について何もする必要はありません。


ゴト: 快楽と苦痛、一方を保ち、他方からは逃げたい。この二元性を基に人の心は動いている。これはわかったぞ!


質問: 肉体的な苦痛の場合、医者に行くべきでないのでしょうか?


ゴト: 肉体的苦痛に心が心理的苦痛をさらに追加する。


クリシュナムルティ: 確かに、私が何かの種類の肉体的病気にかかっているなら。私たちがそのような質問を尋ねるときのかなり浅いのでなくて? 私たちは肉体的苦痛だけでなく心理的な苦しみを、何かの観念、何かの信念、誰かのために経験する精神的な苦しみのすべてを話しているのです。そして私たちは、内面の悲しみからまったく自由であることができるかどうかを私たち自身に尋ねているのです。あなた、身体の有機体は機械であり、それは具合も悪くなるのです。そしてそれについてできる最善のことをし、それとうまくやっていかなければなりません。しかし、機械的な有機体が心に干渉せず、誤らせ、歪めないように、そして身体の病気にかかわらず心は健全なままであるように気をつけることができます。そして私たちの問題は、心が、それはすべての葛藤、悲惨と悲しみと同様にすべての楽しみの源ですが、肉体的な病気やその他もろもろによって汚染されず、悲しみから自由であることができるかどうかです。

 何といっても、私たちはみな毎日歳をとって行きますが、しかし確かに、経験、知識、悲惨の凄まじい重荷によって押しつぶされないで、心を若く、新鮮に、無垢に保つことができます。真実であるものを、神、あるいはどんな名前をそれに与えることをあなたが好むにしても、それがあるかどうか発見したいのであれば、若い心、無垢の心が絶対に必要であると私は感じます。年老いた心、痛めつけられ、苦しみで一杯の心は決してそれを見出せません。そして悲しみを必要な何かに、いつかはあなたを天国に導くものにすることは馬鹿げています。キリスト教では、苦しみは悟りへの道として称賛されます。人は苦しみから、暗黒から自由でなければなりません。そのときのみ光があり得るのです。


ゴト: 苦闘することによって人間は円熟の境地に達するのだと思ってきた。新鮮で無垢な心だけが真実を見うるのだそうな。


質問: 私のまわりにそれほど多くの悲しみを見るとき、私が悲しみから自由であることができるでしょうか?


ゴト: 確かに多くの人が悲しんでいるを周囲に見ます。質問はもっともですが、クリシュナムルティの説くことがまだわかっていないみたい。


クリシュナムルティ: それについてあなたはどう思いますか? 東洋に、インドに、アジアに行くと多くの悲しみ、物理的な悲しみ、肉体的悲しみ、飢餓、衰退、貧困を見るでしょう。それが一つの型の悲しみです。現代社会に来ると、あらゆる人が外側の牢獄を飾るのに余念がなく、けた外れに富み、繁栄していますが、彼等もまた内面的に非常に貧しく、非常に空虚です。またも悲しみがあります。あなたはそれについて何をすることができますか? あなたは私の悲しみについて何をすることが出来ますか? あなたは私を助けることができますか? それをよく考えてください、皆さん。

 私は今朝、半時間ほど、悲しみを、そしてどうやってそれから自由であるかを話してきました。私はあなたを助けているでしょうか、現実にあなたがそれを免れている、悲しみからすっかり自由なので、別の日にそれを持ち運ばないという意味で助けているでしょうか? 私はあなたを助けているでしょうか? 私はそうは思いません。確かにあなたはすべての仕事をあなた自身でしなければなりません。私はただ指し示しているだけです。道標は、いつまでも道標を読んでそこに腰掛けていることは無駄であるという意味で、価値がありません。あなたは孤独に直面し、それの、それに含まれているすべての、まさに果てまで行かなければなりません。私は世界の悲しみを助けられるでしょうか? 私たちは私たち自身の苦悩と絶望を知るだけでなく、他の人たちの顔の中にもまたそれを見ます。あなたはそれを通って自由になりに行く扉を指し示すことができます。しかし大部分の人は扉を通って運ばれることを望むのです。彼らは彼らを運んでくれそうな人を、彼らはそう思うのですが、崇拝し、彼を救世主、大師にします−それはすべてまったくのナンセンスです。


ゴト: 自分自身で物事にシンプルに接することを実感・理解するしかないのだが、そのシンプルに直視するという事は実は自分でできることなのだ。目を見開いて行えば!


質問: 自由な人間は、他の人を助けることができないなら、他の人に対してどんな役に立つのでしょう?


ゴト: 誰にでも自由な心で付き合ってくれるというか、見守ってくれるよ。干渉するのでなく。


クリシュナムルティ: いかにひどく私たちは功利主義者なのでしょう、そうではないですか? 私たちはあらゆるものを私たち自身の利益のため、あるいは他の誰かの利益のために使用するのです。道端の花は何の役に立つのでしょう? 山の向こうの雲は何の役に立つのでしょう? 愛の使用法は何なのでしょう? 愛を使用することができますか? 慈善は何かの用途を持つでしょうか? 謙遜は誰か利用者を持つでしょうか? 野心に満ちている世界の中で野心なしにいること−それは何かの用途を持つでしょうか? 親切であること、優しいこと、心の広いこと−これらのことは心の広くない人に対して何の役にも立たないものです。自由な人は野心に駆られている人間にとってまったく役に立ちません。そして私たちの大部分は野心に、成功を求める欲望に捕われているので、彼はほとんど意味のないものです。彼は自由について話すかもしれませんが、私たちが関心があるのは成功です。彼があなたに話すことのできるすべては、川のもうひとつの岸に渡って来て、空の美しさ、簡素であることの素晴らしさを見ることです。愛すること、親切であること、心の広いこと、野心なしにあること。もうひとつの岸に達したいと思う人はごく少ないのです。したがってそこにいる人はほとんど役に立ちません。たぶん、あなたは彼を教会におき、彼を崇拝するでしょう。それがすべてです。


ゴト: クリシュナムルティも大変ですね、いろいろな質問が出ますから。


質問: 悲しみと共に生きることは悲しみの延長を意味します。そして私たちは悲しみの延長にひるみます。


ゴト: 「悲しみよ、こんにちは」という人もいれば、ひるむ人もいる。


クリシュナムルティ: 私は確かにそういうことを言ったのではなかったのです。醜さであろうが美であろうが、何かと共に生きるためには、非常に強烈でなければなりません。くる日もくる日もこれらの山と生きることは−それらに敏感でないなら、愛していないなら、いつもそれらの美しさ、それらの変わりゆく色と影、を見ていないなら−それにまったく鈍感になった農民のようになるでしょう。美は、それに敏感でないなら、醜さがそうなると同様に腐敗します。悲しみと共に生きることは山と共に生きることです。なぜなら悲しみは心を鈍く、愚かにするからです。悲しみと共に生きる事は終わりなしに見守る事を意味し、それは悲しみを引き延ばしません。あなたが全体のものを見るやいなや、それはなくなります。何かがすっかり見られるとき、それは終わります。私たちが悲しみの全構造、その組織、本性を見るとき、それを理論化するのでなく、現実に事実を、その全体を見るとき、そのときそれは立ち去ります。知覚の速さ、素早さは条件によります。しかし心が簡素、直接でないなら、心が、事実、「いまあるもの」を変えようと望んで、信念、希望、恐怖、絶望で乱れているなら、そのときあなたは悲しみを引き延ばしているのです。


ゴト: 悲しみと共にいられないのは愛がないからなのだろうか、我々は至福の中にいても怯む存在なのだろうか?


質問: 私たちの偏見が行く手にあり、私たちはそれに取り組まなければなりません。そしてそれは時間を要するかもしれません。


ゴト: 人は嘆き節というか、できない言い訳ばかりしているような気がする。


クリシュナムルティ: あなた、自分が寂しいのを見ること、またそれから自分が逃避したがっているのに気づくことは共に瞬間的ではないでしょうか? 私が寂しいという事実、そして私が逃避したがっているという事実を私は瞬時に知覚できるのではないでしょうか? 私はまた即座にどんな形の逃避も寂しさという事実の回避であるのを見ることができます。その寂しさを私は理解しなければなりません。それを脇に押しのけることはできないのです。

 ほら、私たちの難しさは、私はそう思うのですが、私たちが逃避する物事に非常に執着するということですね。それらは私たちにとって非常に重要です。それはそんなに途方もなく上品なことになったのです。私たちが上品にしているのをやめるなら、何が起こるか誰にも判らないと私たちは思います。したがって体面に執着することが非常に重要になります。そして寂しさ、あるいは何かほかのことをすっかり理解したいという事実ではないのです。


ゴト: 私たちの悲しみは記憶の中に自分が再三再四生み出すイメージ、シンボルであるような。


質問: 強烈さを持っていないなら、それについて私たちは何をすることができるでしょうか?

クリシュナムルティ: 私たちはその強烈さを望んでいるかどうかなと私は思います。強烈であることは破壊を意味するのではないでしょうか? それは、生の中で私たちが非常に重要だと考えてきたあらゆるものを粉砕するということを意味します。それでたぶん恐怖が私たちが強烈であることを妨げているのです。

 ほら、私たちはみなひどく上品であることを望みますね。そうでないでしょうか? 年寄りも若者も。体面は社会による認識を意味します。そして社会は成功した、重要な人、有名な人を認識するだけで、残りの人を無視します。それで私たちは成功と体面を崇拝します。そして社会があなたを上品であるとかないとか思おうとあなたが気にかけないとき、成功を求めず、何者かになろうと望まないとき、そのとき強烈さがあります−それは恐怖がないということです。それは内部に葛藤がなく、矛盾がないということです。したがって、あなたは事実をとどのつまりまで追跡する豊富なエネルギーを持ちます。


ゴト: そう、年齢にかかわらず、若者のようであれ!

(第6回目の講話終わり)


[26446] Re:[26445] [26444] [26443] 最初のザーネン講話 6-3 投稿者:宮啓 投稿日:2019/02/03(Sun) 10:29  

> > > 1961年ザーネン公開講話 6−3
> > >
> > > ゴト: これまでのクリシュナムルティの伝達をよく聴いた人は悲しみや隠れ家を求める、今まで社会が培養してきた複雑な心を理解したのです。シンプルに事実とともにいることの敏感さによって伝達を聴いたがゆえにです。悲しみへの自由が訪れているかもしれません。
> >
> >
> >  それが、「見る」の素地なのかもしれません。
> >
> >  ゴトさんがよく「見える」のは、その素地がしっかりしているからだと思います。
> >
> >  私は、まだそこまで至っていないようです。。
>
> これは比較しているのかなあ。培養されてきた複雑な心が顔を出しているのかなあ。そこに気づいているのかなあ。非難も正当化もせずにシンプルに事実に気づく。


 まさに、悲しみの中に居たのですね。。

 知らぬうちに逃避して、その「悲しみ」を「いまあるもの」として直面することができないでいました。

 「いまあるもの」として直面すると、以下のことが分かりました。
 >確かに、心がもはや何かであろう、何かになろうと野心的ではないとき、人は唯一明確に見ることができます−−、すなわち、私は何かであろう、何かになろうと野心的となっていたのです。

 その野心がそのまま悲しみとなるさまがよく見えました。

 シンプルにいまあるものに直面すれば、無意識までもよく見える。

 そのとき、悲しみはなく、別のものがあり、そして、すぐさま「快適さ」を求めようとする心が芽生える様まで、はっきりと見ることができました。。


 >心は何の隠れ場もなしに、何の避難所もなしに生き、機能し、あることができるでしょうか? くる日もくる日も、起こるときにどの事実にも直面し、決して逃避を求めずに生きることができるでしょうか? 一日のどの瞬間も、いつもあるものに直面して。なぜならそのとき、悲しみの終りがあるだけでなく、心がまた驚くほど簡素で明確になることを私たちは見出すだろうと私は思うからです。言葉なしに、表象なしに、直接に知覚することができるのです。−−


 はい。


[26445] Re:[26444] [26443] 最初のザーネン講話 6-3 投稿者:ゴト 投稿日:2019/02/03(Sun) 07:36  

> > 1961年ザーネン公開講話 6−3
> >
> > ゴト: これまでのクリシュナムルティの伝達をよく聴いた人は悲しみや隠れ家を求める、今まで社会が培養してきた複雑な心を理解したのです。シンプルに事実とともにいることの敏感さによって伝達を聴いたがゆえにです。悲しみへの自由が訪れているかもしれません。
>
>
>  それが、「見る」の素地なのかもしれません。
>
>  ゴトさんがよく「見える」のは、その素地がしっかりしているからだと思います。
>
>  私は、まだそこまで至っていないようです。。

これは比較しているのかなあ。培養されてきた複雑な心が顔を出しているのかなあ。そこに気づいているのかなあ。非難も正当化もせずにシンプルに事実に気づく。


[26444] Re:[26443] 最初のザーネン講話 6-3 投稿者:宮啓 投稿日:2019/02/02(Sat) 19:11  

> 1961年ザーネン公開講話 6−3
>
>  何と言っても、なぜ私たちは苦しまなければならないのでしょうか? 苦しむことは病気です。私たちは医者のところに行き病気を除きます。なぜどんな種類の悲しみにせよ私たちは我慢しなければならないのでしょうか? すみませんが、わたしは修辞的に話しているのではありません−それはあまりに愚かでしょう。なぜ私たちは、私たちの誰もが、何かの悲しみを持たなければならないのでしょうか? そしてそれを完全に除くことができるでしょうか?
>
>
> ゴト: 肉体的苦痛の時、医者に言って治すのに、悲しむときは取り除こうとはしないのはおかしくはないか? 取り除こうと各種の逃避を試みるがそう簡単には離れれらない。むしろいつまでも悲しみに浸っていたい。思い出しては記憶を強めている。矛盾した人の心。
>
>
>  ほら、その質問は次のことを意味します。なぜ私たちは葛藤の中にいなければならないのでしょうか? 悲しみは葛藤です。私たちは葛藤は必要である、それは生存の一部である、自然の中に、私たちのまわりのあらゆるものの中に葛藤がある、そして葛藤なしにあることは不可能であると言います。それで私たちは、私たち自身の内部と世界の中の外部で、葛藤を避けられないものとして受け入れます。
>
>  私にとっては、どんな種類の葛藤も必要でありません。あなたは「それはあなた自身の特有な考えで妥当性がない。あなたは結婚しておらず一人であり、そしてそれはあなたにとって安楽である。しかし私たちは隣人と、仕事のことで、葛藤せざるをえない。私たちが触れるあらゆることが葛藤を引き起こす。」と言うかもしれません。
>
>  ほら、私は正しい教育はこれになる、私たちの教育は正しくなかったと思います。私たちは競争の見地で、比較の見地で考えるように教えられてきたのです。私は、比較することによって、人が理解するかどうか、人が直接に本当に見るかどうかなと思います。それとも比較が止んだときのみ、人は明確に、簡素に見るのでしょうか? 確かに、心がもはや何かであろう、何かになろうと野心的ではないとき、人は唯一明確に見ることができます−それは人が自分がそうであるものに満足しなければならないということではありません。比較なしに、自分を他人と比較すること、自分のあるがままをあるべきものと比較することなしに、人は生きることができると私は思います。「いまあるもの」といつも全面的に直面することがあらゆる比較の評価を消し去り、そしてそれによって、人は悲しみを除くことができると私は思います。私は心が悲しみから自由であることが非常に重要であると思います。 なぜならそのとき、生はまったく違った意味を持つからです。
>
>
> ゴト: クリシュナムルティは長らく思考を使い、単純・簡素に事実と共にあることのできる心を私たちに伝達(コミュニケーション)してくれました。シンプルに事実とともにいることが比較から自由に見ていることを伝えてくれました。今、私は悲しみを理解したかもしれません。
>
>
>  私たちが行う、もう一つの不幸なことは快適さを求めることですね。単に肉体的な快適さではなくて、心理的な快適さ。私たちは考えの中に避難します。そしてその考えが役に立たないとき、私たちは絶望し、それは再び悲しみを引き起こします。そこで質問はこうです。心は何の隠れ場もなしに、何の避難所もなしに生き、機能し、あることができるでしょうか? くる日もくる日も、起こるときにどの事実にも直面し、決して逃避を求めずに生きることができるでしょうか? 一日のどの瞬間も、いつもあるものに直面して。なぜならそのとき、悲しみの終りがあるだけでなく、心がまた驚くほど簡素で明確になることを私たちは見出すだろうと私は思うからです。言葉なしに、表象なしに、直接に知覚することができるのです。
>
>  あなたが今までに言葉なしに考えたことがあるかどうか私は知りません。言語化することなしに何かの思考があるでしょうか? それともすべての思考は単に言葉、象徴、絵、想像にすぎないのでしょうか? ほら、これらのものすべて−言葉、象徴、観念−は明確に見ることに対して有害ですね。悲しみから自由であること−いつかではなくて毎日悲しみから自由に生きること−ができるかどうか見出すために、悲しみのまさに果てまで行こうとするなら、ひとは自分自身を非常に深く調べ、これらの説明、言葉、観念や信念を脱し、その結果、心がほんとうに片付けられて、いまあるものを見ることができるようにされなければならないと私は思います。
>
>
> ゴト: これまでのクリシュナムルティの伝達をよく聴いた人は悲しみや隠れ家を求める、今まで社会が培養してきた複雑な心を理解したのです。シンプルに事実とともにいることの敏感さによって伝達を聴いたがゆえにです。悲しみへの自由が訪れているかもしれません。


 それが、「見る」の素地なのかもしれません。

 ゴトさんがよく「見える」のは、その素地がしっかりしているからだと思います。

 私は、まだそこまで至っていないようです。。


> (この後数多くの質問があります)


[26443] 最初のザーネン講話 6-3 投稿者:ゴト 投稿日:2019/02/02(Sat) 11:13  

1961年ザーネン公開講話 6−3

 何と言っても、なぜ私たちは苦しまなければならないのでしょうか? 苦しむことは病気です。私たちは医者のところに行き病気を除きます。なぜどんな種類の悲しみにせよ私たちは我慢しなければならないのでしょうか? すみませんが、わたしは修辞的に話しているのではありません−それはあまりに愚かでしょう。なぜ私たちは、私たちの誰もが、何かの悲しみを持たなければならないのでしょうか? そしてそれを完全に除くことができるでしょうか?


ゴト: 肉体的苦痛の時、医者に言って治すのに、悲しむときは取り除こうとはしないのはおかしくはないか? 取り除こうと各種の逃避を試みるがそう簡単には離れれらない。むしろいつまでも悲しみに浸っていたい。思い出しては記憶を強めている。矛盾した人の心。


 ほら、その質問は次のことを意味します。なぜ私たちは葛藤の中にいなければならないのでしょうか? 悲しみは葛藤です。私たちは葛藤は必要である、それは生存の一部である、自然の中に、私たちのまわりのあらゆるものの中に葛藤がある、そして葛藤なしにあることは不可能であると言います。それで私たちは、私たち自身の内部と世界の中の外部で、葛藤を避けられないものとして受け入れます。

 私にとっては、どんな種類の葛藤も必要でありません。あなたは「それはあなた自身の特有な考えで妥当性がない。あなたは結婚しておらず一人であり、そしてそれはあなたにとって安楽である。しかし私たちは隣人と、仕事のことで、葛藤せざるをえない。私たちが触れるあらゆることが葛藤を引き起こす。」と言うかもしれません。

 ほら、私は正しい教育はこれになる、私たちの教育は正しくなかったと思います。私たちは競争の見地で、比較の見地で考えるように教えられてきたのです。私は、比較することによって、人が理解するかどうか、人が直接に本当に見るかどうかなと思います。それとも比較が止んだときのみ、人は明確に、簡素に見るのでしょうか? 確かに、心がもはや何かであろう、何かになろうと野心的ではないとき、人は唯一明確に見ることができます−それは人が自分がそうであるものに満足しなければならないということではありません。比較なしに、自分を他人と比較すること、自分のあるがままをあるべきものと比較することなしに、人は生きることができると私は思います。「いまあるもの」といつも全面的に直面することがあらゆる比較の評価を消し去り、そしてそれによって、人は悲しみを除くことができると私は思います。私は心が悲しみから自由であることが非常に重要であると思います。 なぜならそのとき、生はまったく違った意味を持つからです。


ゴト: クリシュナムルティは長らく思考を使い、単純・簡素に事実と共にあることのできる心を私たちに伝達(コミュニケーション)してくれました。シンプルに事実とともにいることが比較から自由に見ていることを伝えてくれました。今、私は悲しみを理解したかもしれません。


 私たちが行う、もう一つの不幸なことは快適さを求めることですね。単に肉体的な快適さではなくて、心理的な快適さ。私たちは考えの中に避難します。そしてその考えが役に立たないとき、私たちは絶望し、それは再び悲しみを引き起こします。そこで質問はこうです。心は何の隠れ場もなしに、何の避難所もなしに生き、機能し、あることができるでしょうか? くる日もくる日も、起こるときにどの事実にも直面し、決して逃避を求めずに生きることができるでしょうか? 一日のどの瞬間も、いつもあるものに直面して。なぜならそのとき、悲しみの終りがあるだけでなく、心がまた驚くほど簡素で明確になることを私たちは見出すだろうと私は思うからです。言葉なしに、表象なしに、直接に知覚することができるのです。

 あなたが今までに言葉なしに考えたことがあるかどうか私は知りません。言語化することなしに何かの思考があるでしょうか? それともすべての思考は単に言葉、象徴、絵、想像にすぎないのでしょうか? ほら、これらのものすべて−言葉、象徴、観念−は明確に見ることに対して有害ですね。悲しみから自由であること−いつかではなくて毎日悲しみから自由に生きること−ができるかどうか見出すために、悲しみのまさに果てまで行こうとするなら、ひとは自分自身を非常に深く調べ、これらの説明、言葉、観念や信念を脱し、その結果、心がほんとうに片付けられて、いまあるものを見ることができるようにされなければならないと私は思います。


ゴト: これまでのクリシュナムルティの伝達をよく聴いた人は悲しみや隠れ家を求める、今まで社会が培養してきた複雑な心を理解したのです。シンプルに事実とともにいることの敏感さによって伝達を聴いたがゆえにです。悲しみへの自由が訪れているかもしれません。

(この後数多くの質問があります)


[26442] シンプル 投稿者:無明 投稿日:2019/02/02(Sat) 10:49  

>新しい芽氏のお話は簡素なコミュニケーションの現前だった。

新しい芽氏のコメントをプリントしたものが若干あるので、今一度読んでみようと思う。
彼のコメントは、実にシンプル。それがかえって、彼の文章を理解するのを難しくしている。
頭で理解しようとするとますます厄介になる。

彼ほどクリシュナムルティの翻訳を手がけた人はいないだろう。翻訳を続けているうちに、知らず知らず、クリシュナムルティの教えというものが身について、いつ間にか体現しまったといえます。
クリシュナムルティの研究者、学者、翻訳者は、たくさんいるが、自ら体現している人は、他に知りません。
巷の翻訳は、商業ベースにのせなければならず、脚色が含まれているが、新しい芽の翻訳はシンプルそのもの。まさに直訳である。
最後に出版がかなったが、他の人の翻訳はビジネスそのものである。


言葉への隷従。
人間である以上、言葉はついて回る。言葉と同一化しているのが人間。問題は、どのように言葉と同一化しているのだろうか。
同一化の過程を見 る。それが言葉への隷従から自由になるための鍵ということだ。





[26441] 本を読むことが喜び? 投稿者:無明 投稿日:2019/02/02(Sat) 10:19  

>クリシュナムルティの陳述を聴いていると、確かに喜びがある。以前聴いた内容を繰り返し聴いても、新しい発見と喜びがある。

 クリシュナムルティ理解の鍵は、この喜びなのかもしれません。。

言葉への隷従の典型的な例。
「クリシュナムルティ理解」というわけのわからぬ言葉を何十回も繰り返す。鸚鵡のように。
新しい芽氏に、何度も指摘されたのにもかかわらす。

結局、この人はクリシュナムルティの本を一人読んで自己満足にしたうだけだろう。本を読むことが喜びとは。つまりは本を読んで悦に入るというだけ。

せっかくゴト氏がKの言葉を出してくれているのに、一向に核心に触れようとはしない。
この人は「炎であって」という方のように普通に日常生活の問題点を話あうことはできないのだろうか。

ただ、クリシュナムルティの記述について、「美辞麗句」を述べているだけでは、この掲示板の意義はない。

この掲示板に出ないで、一人本を読めば済むことである。
本を読むことが喜ぶだということは、結局は本を読むことが趣味、あるいは娯楽だということだ。




[26440] 無題 投稿者:無明 投稿日:2019/02/02(Sat) 09:59  

 >まず最初に、自分自身でどうやって簡素かつ直接に考えるかを見出すことの中で、定義や説明は本当に有害であると私は思います。言葉での定義は心を簡素にしません。そして説明は知覚の明確さをもたらしません。そこで言葉への隷従に非常によく気づいていなければならないと私には思われます。とはいっても伝達するために言葉を使うことが必要であるということにもまた気づいていなければなりませんが。だが伝達されることは単に言葉に過ぎないのではありません。コミュニケーション
は言葉を越えています。それは感覚です。見ることです。それは言葉にすることができません。本当に簡素な心は無知な心を意味しません。簡素な心は与えられた事実の微妙さ、陰影、動きに自由について行くことのできる心です。そしてそうするためには、心は確かに言葉への隷従から自由でなければなりません。そのような自由が簡素の厳粛さをもたらします。その接近の簡素さがあるとき、そのとき、私たちは直接に見、悲しみが何であるか理解しようとすることができると私は思います。


ゴト: >コミュニケーションは言葉を越えています。それは感覚です。見ることです。それは言葉にすることができません。−−
 >本当に簡素な心は無知な心を意味しません。簡素な心は与えられた事実の微妙さ、陰影、動きに自由について行くことのできる心です。−−
 >そしてそうするためには、心は確かに言葉への隷従から自由でなければなりません。そのような自由が簡素の厳粛さをもたらします。その接近の簡素さがあるとき、そのとき、私たちは直接に見、悲しみが何であるか理解しようとすることができると私は思います。−−
 新しい芽氏のお話は簡素なコミュニケーションの現前だった。


言葉への隷従。多くの人がここでつまずいているところです。
ここが一番の難関で難関ではないでしょうか。

新しい芽氏の話は「シンプル」そのもの。
頭で理解しようとすると、彼の話はわかりません。




[26439] Re:[26436] [26435] [26434] [26418] 最初のザーネン講話 5−3 投稿者:宮啓 投稿日:2019/02/01(Fri) 19:07  

> > > > 1961年ザーネン公開講話 5回目の3
>
> > > 瞑想の家を建てる基礎を敷く、これはこんなにシンプルなことであったのか、自分の嫉妬、野心、成功、成就への望み、これなら知ることができる。いや知っている。目を背けているだけで。これなら自分も出来るぞ。
> > >
> > >
> > > >  それゆえ心はまったく自由でなければなりません。断片的に、ただ たまたま自由なのではなくて、まったく自由でなければなりません。そしてそれは本当に非常に骨が折れます。それは何世紀にもわたって競争するように、成功を望むように教育されてきた心を浄化することを意味します。
> >
> >
> >  >そしてそれは本当に非常に骨が折れます。−−、クリシュナムルティは時折「骨が折れる」旨の陳述を行います。
> >
> >  いったい、何に骨が折れるのでしょうか?
> >
> >  よろしくお願いします。
>
>
> まじめな人ほど世のため、人のため、苦闘し、葛藤します。それこそが人のなすべき道であるという錯覚があるからです。それゆえ、それが豁然と開けるまでは骨が折れます。その間に思考が偽物を掴んだりもするので。ありきたりの答えですみません。


 とてもためになる言葉です。

 頭で、それは無意味だと知ったとしても、条件付けはなかなか外れない。

 お答えいただき、ありがとうございます。


[26438] 最初のザーネン講話 6-2 投稿者:ゴト 投稿日:2019/02/01(Fri) 16:44  

1961年ザーネン公開講話 6−2

 肉体的、心理的な様々な種類の悲しみがあります。病気の肉体的な苦痛、歯痛、手足を失うこと、貧弱な視力を持つこと、などなどがあります。そして愛している誰かを失うとき、あなたが能力を持たず、それを持っている人たちを見るとき、才能を持たず、才能を、金、地位、名望、権力を持っている人たちを見るときに生じる心の中の悲しみがあります。常に成就への衝動があります。そして成就の影の中に常に欲求不満があり、それに伴なって悲しみが生じます。

 それゆえ、これら二つの型の悲しみ、肉体的なものと心理的なものがあります。人は自分の腕を失うかもしれません。それで悲しみの全問題が生じます。心は過去にさかのぼり、それがしたことを、もはやテニスができない、もはや多くのことができないことを想い浮かべます。それは比較します。そしてその過程の中で悲しみが引き起こされます。私たちはその種のことをよく知っています。事実は私が腕を失ったということであり、どれほど理論化しても、説明しても、比較しても、どれほどの自己憐憫もその腕を戻すことはありません。しかし心は自己憐憫に、過去を振り返ることにふけります。そこで現在の事実はそうであったことと矛盾しています。この比較はいつも葛藤を引き起こします。そしてその葛藤から悲しみがあります。それが悲しみの一つの種類です。


ゴト: 肉体的なことでも心理的なことでも、今のあるがままの状態をより良い状態、それは過去において自分がそうであったことか、他人の状態か、いかなる自分の投影か知りませんが、比較するとき、希求することが強ければ強いほど悲しみ、葛藤は強い。その虚であることが知的には見えても心は果てしなく悲しむ。腑に落ちる理解がない。知的言葉を重ねても虚しい。


 次に、心理的苦しみがあります。私の兄弟、私の息子が死にました。彼は去ってしまいました。どれほど理論化しても、説明しても、信じても、望んでも、決して彼を連れ戻しません。冷酷な、妥協のない実在は彼が去ったという事実です。そしてもうひとつの事実は彼が去ったために私が寂しいということです。私たちは友達でした。私たちは一緒に語り合いました。一緒に笑い合いました。一緒に楽しみました。親交は終り、私は一人残されています。寂しさが事実であり、死が事実です。私は彼の死の事実を受け入れることを強いられますが、この世で一人ぼっちであるという事実を受け入れません。そこで私は事実からの逃避として理論、希望、説明を案出し始めます。そして悲しみをもたらすのは、私が一人ぼっちであるという事実ではなく、兄弟が死んだという事実ではなく、逃避です。事実は決して悲しみをもたらすことができません。そして心が本当に、全面的に、完全に悲しみから自由になるつもりなら、そのことを理解するのが非常に重要だと思います。私は悲しみから自由であることは、心がもはや説明と逃避を求めず、事実に直面するときのみ可能だと思います。あなたが今までに、これをしてみたことがあるかどうか私は知りません。


ゴト: 直面すると心は理非を越えてその想う事を希求してやまない。死人がよみがえることはあり得ないとわかりながら。


 私たちは死が何であるか、そしてそれが引き起こす途方もない恐怖を知っています。好むと好まざるにかかわらず、私たちが、私たちの誰もが死ぬということは事実です。そこで私たちは死を合理的に説明するか、信念の中に逃避するのです−カルマ、再生、よみがえり、などなど−それで私たちは恐怖を持続させ、事実から逃避します。そして問題は心が、とどのつまりまで行って、そのうちにではなく現在、いま、すっかり 完全に悲しみから自由であることができるかどうかを発見しようと、ほんとうにかかわっているかどうかです。


ゴト: いや、自由であることができるかにかかわっていない。悲しみに身に浸っているばかり。永遠に悲しみの中にいようと希求しているのだろうか?


 さて、私たちの一人一人が聡明に、正気で、事実に直面できるでしょうか? 私は私の息子、兄弟、姉妹、夫か妻が、誰であるにせよ死に、そして私は寂しいという事実に、その寂しさから説明や巧妙な信念、理論などに逃避することなしに、直面できるでしょうか? 私は事実を、それが何であっても、見ることができるでしょうか? 私は才能がない、私は鈍く愚かなたぐいの人である、私は孤独である、私の信念、私の宗教的構造、私の精神的価値はただのそんなにも多くの防御物にすぎないという事実を。私はこれらの事実を見、逃避の方法や手段を求めないことができるでしょうか? それができるでしょうか?


ゴト: 私は親密な友人の慰めの言葉に頼るかもしれない。あるいは酒におぼれようとするかもしれない。果てしなく哀歌を唄おうとするかもしれない。そしてついにそのエネルギーも失い、凡庸な毎日に戻るかもしれない。


 それは人が時間に、明日に、かかわっていないときのみ出来ると私は思います。私たちの心は怠惰です。それで私たちはいつも時間−それを乗り越える時間、改善する時間、を求めています。時間は悲しみを拭い去りません。私たちは特定の苦しみを忘れるかもしれません。しかし悲しみは常にそこに、深く奥にあります。そして私は悲しみを全部拭い去ることができると思います。明日でなく、時間の経過の中でではなく、実在を現在の中に見て越えることが。


ゴト: 悲しみを全部拭い去って自由になれると!? 明日でなく、時間の経過の中でではなく、実在を現在の中に見て越えることが!? このいまの瞬間が唯一の分岐点なのか!


 何と言っても、なぜ私たちは苦しまなければならないのでしょうか? 苦しむことは病気です。私たちは医者のところに行き病気を除きます。なぜどんな種類の悲しみにせよ私たちは我慢しなければならないのでしょうか? すみませんが、わたしは修辞的に話しているのではありません−それはあまりに愚かでしょう。なぜ私たちは、私たちの誰もが、何かの悲しみを持たなければならないのでしょうか? そしてそれを完全に除くことができるでしょうか?


ゴト: ……

(続く)


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