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[25601] Re:[25596] 見る 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/04(Wed) 14:51  

> > 1日24時間見るというのは、もちろん誇張した言い方ですが、そのぐらい自分の思考を見張れということです。いつ暴君になるかわからない。いつエゴが顔出すか。イエスの「寝ずの番人」をする。
>
> <見る、聞くはいつも行われている気がするんですが…
>
> あの〜、ここのところを確認しておきましょう。
> 一般の人の見る、聞くの対象は「外部」です。
> 人の話を聞く、鳥の声を聞く。対象は「人」「鳥」。
> 全くの当たり前の話です。
>
> 私たちが話し合っている「見る」「聞く」の対象は「内部」です。
> 内部というのは、もちろん私たちの心です。精神世界でいうところの心を見る。(観る)。いわば内観のこと。座禅瞑想というのは、内面で動く心を見るということ。
>
> 具体的にいうと、鳥の声をを聞く、というとき、鳥の声を聞くと同時に、内部、つまり心に起きる反応を見るということです。
>
> それが、ずっと 私たちが話し合ってきた「見る」ということではないですか。


そうなんですが、ここに内部、外部という話が入ってきます。内部外部とは何なのかという事が入っています。これが厄介です。心が思考と同一化している時、思考は内部のものです。しかし心が思考と同一化していないとき、思考は外部のものです。説明のため同一化という言葉を持ち込んでしまいましたが、そこに何かを感じ取ってください。別の言葉を用いれば、真我が見ている時思考は内部のものか外部のものかという事です。内と外という区別はないという言い方もあります。

次に進みますが、このことをちょっと心に留めておいてください。

> それを、いつも行われていると言われてしまうと、話がすすみません。
> もう一度いうと、私たちが普段やっている見るは、外部を見ています。これは当たり前の話です、このことを話し合っているのではありません。
>
> 思考なしに見る、ただ見るというのは、そうしないと内部の声が聞こえないからです。要するに反応を見る。

思考なしにと言うと、言葉のパラドックスにつかまります。思考なし思考を見るというパラドックスです。しかしただ見るという言い方でわかるなら、もちろんそれでいいのです。

> その反応を見るにはイエスのように常に見てなけれならない。

ええと肩ひじ張って見ているのでなく、心が何も意図することなくただ心がオープンになっていればいいのです。

> 飯尾も、言い方を変えて、自分の思考さえ常に疑う、と表現されました。同じことです。ホントかどうか。

普通反応、つまり気に入っている考えは同一化して素通りになるので、疑ってと注意を喚起したのでしょうか?


[25600] Re:[25595] [25594] [25587] 既知からの自由 3-1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/04(Wed) 14:03  

> > > [意識・生の全体性]
> > >
> > > 自分の条件付けに気づくとき、あなたは自分の意識の全体を理解するでしょう。意識は思考が機能しまた関係が存在する全体の場です。全ての動機、意図、欲望、快楽、恐怖、インスピレーション、熱望、希望、悲しみ、喜びがその場の中にあります。しかし私たちはこの意識を活動中のものと潜伏中のもの、上部のものと下の層のものに分けるようになりました ― すなわち、表面の日常の思考、感情、活動のすべてと、そしてその下のいわゆる潜在意識、私たちのよく知らないものです。それは時たまある暗示、直感、夢を通じてそれ自身を表現します。
> >
> > ここには引っかかるところはありません。そのままに聞いています。
>
>
>  >自分の条件付けに気づくとき、あなたは自分の意識の全体を理解するでしょう。−−
>
>
>  [25550]より引用します。
>
>  (前略)
>
>  現にあるもの「A」があるとします。
>
>  「A」を見て「A’」に見えるとします。
>
>  「A’」は投影(幻想)であり、現実のあるがままは「A」です。
>
>  ここで、「A」⇒「A’」、この投影過程が条件付けの働きではないでしょうか。
>
>  >あなたが木を見て「あれは樫の木だ」、「バンヤンの木だ」と言うときでさえ、木に名づけることは、それは植物学の知識ですが、あなたの心を非常に条件付けているので、あなたと実際に木を見ていることの間に言葉が入ってくるということをわかっていますか? 木と出会うためには手を木に当てなければならないのであって、言葉は木に触れるのを助けはしないでしょう。−−、
>
>  木を「A」、手で触れられることなく知識に収められた木を「A’」と置き換えることができるのではないでしょうか。
>
>  「A」⇒「A’」、ここに条件付けが挟まれている。
>
>
>  私がクリシュナムルティの陳述を聴いて感じることは、現にあるものから外れる投影、イメージ、結論等々は、何らかの条件づけが含意されているように思います。
>
>  −− 以上引用 −−
>
>
>  上記引用文の内容は、一見、論理的思考の結論を述べているように聞こえるかもしれませんが・・。実は、論理的文言を借りて、見えていることを表現することにトライしているのです。
>
>
>  「条件づけに気づくと、自分の意識の全体を理解する」とは、決してオーバー表現ではなく、私たちは、一般的に、現にあるものが見えていないことが含意されているように思います。


そうですね。見えていないと言うか、殆どの場合、見えるとすぐ条件付けに従って解釈、判断して、自然や自分に関係していると思います。


> > >  私たちは意識の一つの小さな片隅に没頭しており、それが私たちの生の殆どです。残りは、それを私たちは潜在意識と呼びますが、そのすべての動機、その恐怖、その人種的遺伝的素質を含めて、どうやってその中に入るか知りさえしません。さてお尋ねします、いったい潜在意識というようなものはあるのでしょうか? 私たちはその言葉を好き勝手に使います。私たちはそのようなものが有ることを受け入れ、精神分析者と心理学者のすべての専門的なわけの分からない言い回しが言葉の中にしみこんでいます。しかしそのようなものは有るのでしょうか? そしてそれにこのような途方もない重要性を与えるのは何故でしょうか? 私にはそれは意識的な心と同じように取るに足らない愚かなものだと思われます ― 狭く、頑迷で、条件づけられ、心配しまた卑劣なものであると思われます。
> >
> > 意識には近く、感覚、思考、感情が浮かんでは去り、また多様な違った何かが浮かび、去る。この意識は人間の意識であって、主観的に知っているし、他者もほぼ同じような意識を持つという事は関係を通じて確かなことだとして疑わない。
> >  で、この意識を通じて心の入力を知ることができます。しかし心の中身や構造は知ることができず、推察し仮説を立てることしか現在はできません。したがって潜在意識は仮説です。そして隠れている部分思いも狭く、頑迷で条件付けられ、心配しまた卑劣であるようだという事にはまあ、そう思われます。
> >
> > >  そこで単にその一部や断片にではなく、意識の全部の場にすっかり気づいていることは可能でしょうか? 全体に気づいていることができるなら、その時は部分的な注意ではなく、全体の注意でずっと機能しているのです。これを理解することが重要です。何故ならあなたが意識の場全体にすっかり気づいているとき、摩擦がないからです。摩擦があるのはあなたが、思考、感情、行為のすべてである意識を、異なったレベルに分ける時だけです。
> >
> > 意識全体を眺めることができるか? そのように見ている時摩擦がない? 意識を異なった意識に分ける時摩擦がある??
> >  意識と無意識の間の対立というようなことを言っているのだろうか? よくわからないので先を読みましょう。

今見ると、すべての事象が起こるとき、判断や解釈なしに見ていられるなら、それをが全体を見ていることであり、摩擦はないのではないか?

> > >  私たちは断片的に生きています。事務所で一つのものであり、家庭ではもう一つのものです。民主主義について語り、心の中では独裁的です。隣人を愛することについて語り、でも戦争で彼を殺します。他の部分と無関係に働き、見ている一部があります。自分自身の中のこのバラバラな存在に気づいていますか? そしてそれ自身の機能、それ自身の思考を断片にしてしまった頭脳にとって ― そんな頭脳にとって全体の場に気づいていることは可能でしょうか? 意識の全体を完全に、全部見ることは、全的な人間であることを意味しますが、それは可能でしょうか?


条件付けに従い判断解釈するとき、断片化しているのではなかろうか?


> > 心の中に断片化したいくつかの構造があり、職場や仕事場で使いわけているので矛盾が生じている?、そうかもしれません。そんな頭脳に全体に気づいていることことができるでしょうか?と。
> >
> > >  もし、途方もない複雑さ全てを含めて「私」、自己、の全構造を理解しようとするために、一層づつ覆いを取り、あらゆる思考、感情、動機を調べながら、一歩一歩進むならば、分析的過程に巻き込まれてしまい、数週間、数か月、数年かかるかも知れません ― そして自分自身を理解する過程の中に時間を許すなら、あらゆる形の歪みを認めざるを得ません。なぜなら自分は複雑な存在で、それに連鎖的に作用しているあらゆる種類の圧力、緊張、影響を受け、動き、生きていて、もがき、欲し、拒んでいるからです。それであなたは自分でこれは道ではないことを見いだすでしょう。自分自身を見る唯一のやり方は全的で、即座で、時間を伴わないことを理解するでしょう。そして心が断片化されていないときのみ自分自身の全体を見ることができます。全体の中に見るものが真理です。
> >
> > 言っていることがわかってきました。断片化した複雑な心で見る、分析的に調べるのではだめだと言っています。心が断片化していないときにのみ、自自分自身の全体を見ることができると。
> >
> > >  さてそうすることが出来るでしょうか? 私たちの大部分はできません。なぜなら決して問題にそんなに真剣に接近しないし、決して本当に自分自身を見ないからです。決してしません。他人を非難し、物事を言い逃れ、あるいは見ることを恐れています。しかし全的に見るとき、あなたは自分の全部の注意を、自分の全存在、自分自身のあらゆる物、自分の目、自分の耳、自分の神経を傾注するでしょう。そしてその時恐怖の余地、矛盾の余地はなく、したがって葛藤はありません。
> >
> > ここでは全体的に見るという事をKは説いてくれました。しかし断片的に生きている私たちにはできそうもありません。どうなりますか?
> >
> > > (続く)
>
>
>  『時間の終焉』にて、「個別的精神」と「普遍的精神」について述べられています。
>
>  クリシュナムルティの上記の陳述における「意識」は、この場合、「普遍的精神」について述べられているように思います。
>
>  この「個別的精神」と「普遍的精神」は、『伝統と神話を超えてDVDブック』にて、ボームとの対話で言葉を換えて出てきます。
>
>  「意識」の断片化とは、上記のクリシュナムルティの陳述においては、「自我」化のことではないでしょうか。。


自我とは何か?、それとはいずれしっかりと取り組む必要がありますね。


[25599] 見る2 投稿者:無明 投稿日:2018/07/04(Wed) 11:10  

おさらい


普通の人は、鳥の声を聞く。
これは人がいつもやっていること。
クリシュナムルティの見るは、鳥の声を聞く「自分」を見る。
これはたやすいことではない。

言い換えると、反応する自分を見る。
飯尾氏流に言い換えると、どのように反応するか、を見る。


[25598] 全体的 投稿者:無明 投稿日:2018/07/04(Wed) 10:54  

>  さてそうすることが出来るでしょうか? 私たちの大部分はできません。なぜなら決して問題にそんなに真剣に接近しないし、決して本当に自分自身を見ないからです。決してしません。他人を非難し、物事を言い逃れ、あるいは見ることを恐れています。しかし全的に見るとき、あなたは自分の全部の注意を、自分の全存在、自分自身のあらゆる物、自分の目、自分の耳、自分の神経を傾注するでしょう。そしてその時恐怖の余地、矛盾の余地はなく、したがって葛藤はありません。

ここでは全体的に見るという事をKは説いてくれました。しかし断片的に生きている私たちにはできそうもありません。どうなりますか?

> (続く)
続きが楽しみ。
全体的に見る。Kはわかりやすく説明してくれるでしょうか。
全体全霊で見る。ジャングルでは実現します。同時に極度の緊張をしいられます。



[25597] 訂正 投稿者:無明 投稿日:2018/07/04(Wed) 10:41  

敬称が抜けていました。すいません。
飯尾→飯尾氏


[25596] 見る 投稿者:無明 投稿日:2018/07/04(Wed) 10:38  

> 1日24時間見るというのは、もちろん誇張した言い方ですが、そのぐらい自分の思考を見張れということです。いつ暴君になるかわからない。いつエゴが顔出すか。イエスの「寝ずの番人」をする。

<見る、聞くはいつも行われている気がするんですが…

あの〜、ここのところを確認しておきましょう。
一般の人の見る、聞くの対象は「外部」です。
人の話を聞く、鳥の声を聞く。対象は「人」「鳥」。
全くの当たり前の話です。

私たちが話し合っている「見る」「聞く」の対象は「内部」です。
内部というのは、もちろん私たちの心です。精神世界でいうところの心を見る。(観る)。いわば内観のこと。座禅瞑想というのは、内面で動く心を見るということ。

具体的にいうと、鳥の声をを聞く、というとき、鳥の声を聞くと同時に、内部、つまり心に起きる反応を見るということです。

それが、ずっと 私たちが話し合ってきた「見る」ということではないですか。

それを、いつも行われていると言われてしまうと、話がすすみません。
もう一度いうと、私たちが普段やっている見るは、外部を見ています。これは当たり前の話です、このことを話し合っているのではありません。

思考なしに見る、ただ見るというのは、そうしないと内部の声が聞こえないからです。要するに反応を見る。

その反応を見るにはイエスのように常に見てなけれならない。
飯尾も、言い方を変えて、自分の思考さえ常に疑う、と表現されました。同じことです。ホントかどうか。



[25595] Re:[25594] [25587] 既知からの自由 3-1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/07/03(Tue) 14:49  

> > [意識・生の全体性]
> >
> > 自分の条件付けに気づくとき、あなたは自分の意識の全体を理解するでしょう。意識は思考が機能しまた関係が存在する全体の場です。全ての動機、意図、欲望、快楽、恐怖、インスピレーション、熱望、希望、悲しみ、喜びがその場の中にあります。しかし私たちはこの意識を活動中のものと潜伏中のもの、上部のものと下の層のものに分けるようになりました ― すなわち、表面の日常の思考、感情、活動のすべてと、そしてその下のいわゆる潜在意識、私たちのよく知らないものです。それは時たまある暗示、直感、夢を通じてそれ自身を表現します。
>
> ここには引っかかるところはありません。そのままに聞いています。


 >自分の条件付けに気づくとき、あなたは自分の意識の全体を理解するでしょう。−−


 [25550]より引用します。

 (前略)

 現にあるもの「A」があるとします。

 「A」を見て「A’」に見えるとします。

 「A’」は投影(幻想)であり、現実のあるがままは「A」です。

 ここで、「A」⇒「A’」、この投影過程が条件付けの働きではないでしょうか。

 >あなたが木を見て「あれは樫の木だ」、「バンヤンの木だ」と言うときでさえ、木に名づけることは、それは植物学の知識ですが、あなたの心を非常に条件付けているので、あなたと実際に木を見ていることの間に言葉が入ってくるということをわかっていますか? 木と出会うためには手を木に当てなければならないのであって、言葉は木に触れるのを助けはしないでしょう。−−、

 木を「A」、手で触れられることなく知識に収められた木を「A’」と置き換えることができるのではないでしょうか。

 「A」⇒「A’」、ここに条件付けが挟まれている。


 私がクリシュナムルティの陳述を聴いて感じることは、現にあるものから外れる投影、イメージ、結論等々は、何らかの条件づけが含意されているように思います。

 −− 以上引用 −−


 上記引用文の内容は、一見、論理的思考の結論を述べているように聞こえるかもしれませんが・・。実は、論理的文言を借りて、見えていることを表現することにトライしているのです。


 「条件づけに気づくと、自分の意識の全体を理解する」とは、決してオーバー表現ではなく、私たちは、一般的に、現にあるものが見えていないことが含意されているように思います。



> >  私たちは意識の一つの小さな片隅に没頭しており、それが私たちの生の殆どです。残りは、それを私たちは潜在意識と呼びますが、そのすべての動機、その恐怖、その人種的遺伝的素質を含めて、どうやってその中に入るか知りさえしません。さてお尋ねします、いったい潜在意識というようなものはあるのでしょうか? 私たちはその言葉を好き勝手に使います。私たちはそのようなものが有ることを受け入れ、精神分析者と心理学者のすべての専門的なわけの分からない言い回しが言葉の中にしみこんでいます。しかしそのようなものは有るのでしょうか? そしてそれにこのような途方もない重要性を与えるのは何故でしょうか? 私にはそれは意識的な心と同じように取るに足らない愚かなものだと思われます ― 狭く、頑迷で、条件づけられ、心配しまた卑劣なものであると思われます。
>
> 意識には近く、感覚、思考、感情が浮かんでは去り、また多様な違った何かが浮かび、去る。この意識は人間の意識であって、主観的に知っているし、他者もほぼ同じような意識を持つという事は関係を通じて確かなことだとして疑わない。
>  で、この意識を通じて心の入力を知ることができます。しかし心の中身や構造は知ることができず、推察し仮説を立てることしか現在はできません。したがって潜在意識は仮説です。そして隠れている部分思いも狭く、頑迷で条件付けられ、心配しまた卑劣であるようだという事にはまあ、そう思われます。
>
> >  そこで単にその一部や断片にではなく、意識の全部の場にすっかり気づいていることは可能でしょうか? 全体に気づいていることができるなら、その時は部分的な注意ではなく、全体の注意でずっと機能しているのです。これを理解することが重要です。何故ならあなたが意識の場全体にすっかり気づいているとき、摩擦がないからです。摩擦があるのはあなたが、思考、感情、行為のすべてである意識を、異なったレベルに分ける時だけです。
>
> 意識全体を眺めることができるか? そのように見ている時摩擦がない? 意識を異なった意識に分ける時摩擦がある??
>  意識と無意識の間の対立というようなことを言っているのだろうか? よくわからないので先を読みましょう。
>
> >  私たちは断片的に生きています。事務所で一つのものであり、家庭ではもう一つのものです。民主主義について語り、心の中では独裁的です。隣人を愛することについて語り、でも戦争で彼を殺します。他の部分と無関係に働き、見ている一部があります。自分自身の中のこのバラバラな存在に気づいていますか? そしてそれ自身の機能、それ自身の思考を断片にしてしまった頭脳にとって ― そんな頭脳にとって全体の場に気づいていることは可能でしょうか? 意識の全体を完全に、全部見ることは、全的な人間であることを意味しますが、それは可能でしょうか?
>
> 心の中に断片化したいくつかの構造があり、職場や仕事場で使いわけているので矛盾が生じている?、そうかもしれません。そんな頭脳に全体に気づいていることことができるでしょうか?と。
>
> >  もし、途方もない複雑さ全てを含めて「私」、自己、の全構造を理解しようとするために、一層づつ覆いを取り、あらゆる思考、感情、動機を調べながら、一歩一歩進むならば、分析的過程に巻き込まれてしまい、数週間、数か月、数年かかるかも知れません ― そして自分自身を理解する過程の中に時間を許すなら、あらゆる形の歪みを認めざるを得ません。なぜなら自分は複雑な存在で、それに連鎖的に作用しているあらゆる種類の圧力、緊張、影響を受け、動き、生きていて、もがき、欲し、拒んでいるからです。それであなたは自分でこれは道ではないことを見いだすでしょう。自分自身を見る唯一のやり方は全的で、即座で、時間を伴わないことを理解するでしょう。そして心が断片化されていないときのみ自分自身の全体を見ることができます。全体の中に見るものが真理です。
>
> 言っていることがわかってきました。断片化した複雑な心で見る、分析的に調べるのではだめだと言っています。心が断片化していないときにのみ、自自分自身の全体を見ることができると。
>
> >  さてそうすることが出来るでしょうか? 私たちの大部分はできません。なぜなら決して問題にそんなに真剣に接近しないし、決して本当に自分自身を見ないからです。決してしません。他人を非難し、物事を言い逃れ、あるいは見ることを恐れています。しかし全的に見るとき、あなたは自分の全部の注意を、自分の全存在、自分自身のあらゆる物、自分の目、自分の耳、自分の神経を傾注するでしょう。そしてその時恐怖の余地、矛盾の余地はなく、したがって葛藤はありません。
>
> ここでは全体的に見るという事をKは説いてくれました。しかし断片的に生きている私たちにはできそうもありません。どうなりますか?
>
> > (続く)


 『時間の終焉』にて、「個別的精神」と「普遍的精神」について述べられています。

 クリシュナムルティの上記の陳述における「意識」は、この場合、「普遍的精神」について述べられているように思います。

 この「個別的精神」と「普遍的精神」は、『伝統と神話を超えてDVDブック』にて、ボームとの対話で言葉を換えて出てきます。

 「意識」の断片化とは、上記のクリシュナムルティの陳述においては、「自我」化のことではないでしょうか。。


[25594] Re:[25587] 既知からの自由 3-1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/03(Tue) 14:08  

> [意識・生の全体性]
>
> 自分の条件付けに気づくとき、あなたは自分の意識の全体を理解するでしょう。意識は思考が機能しまた関係が存在する全体の場です。全ての動機、意図、欲望、快楽、恐怖、インスピレーション、熱望、希望、悲しみ、喜びがその場の中にあります。しかし私たちはこの意識を活動中のものと潜伏中のもの、上部のものと下の層のものに分けるようになりました ― すなわち、表面の日常の思考、感情、活動のすべてと、そしてその下のいわゆる潜在意識、私たちのよく知らないものです。それは時たまある暗示、直感、夢を通じてそれ自身を表現します。

ここには引っかかるところはありません。そのままに聞いています。

>  私たちは意識の一つの小さな片隅に没頭しており、それが私たちの生の殆どです。残りは、それを私たちは潜在意識と呼びますが、そのすべての動機、その恐怖、その人種的遺伝的素質を含めて、どうやってその中に入るか知りさえしません。さてお尋ねします、いったい潜在意識というようなものはあるのでしょうか? 私たちはその言葉を好き勝手に使います。私たちはそのようなものが有ることを受け入れ、精神分析者と心理学者のすべての専門的なわけの分からない言い回しが言葉の中にしみこんでいます。しかしそのようなものは有るのでしょうか? そしてそれにこのような途方もない重要性を与えるのは何故でしょうか? 私にはそれは意識的な心と同じように取るに足らない愚かなものだと思われます ― 狭く、頑迷で、条件づけられ、心配しまた卑劣なものであると思われます。

意識には近く、感覚、思考、感情が浮かんでは去り、また多様な違った何かが浮かび、去る。この意識は人間の意識であって、主観的に知っているし、他者もほぼ同じような意識を持つという事は関係を通じて確かなことだとして疑わない。
 で、この意識を通じて心の入力を知ることができます。しかし心の中身や構造は知ることができず、推察し仮説を立てることしか現在はできません。したがって潜在意識は仮説です。そして隠れている部分思いも狭く、頑迷で条件付けられ、心配しまた卑劣であるようだという事にはまあ、そう思われます。

>  そこで単にその一部や断片にではなく、意識の全部の場にすっかり気づいていることは可能でしょうか? 全体に気づいていることができるなら、その時は部分的な注意ではなく、全体の注意でずっと機能しているのです。これを理解することが重要です。何故ならあなたが意識の場全体にすっかり気づいているとき、摩擦がないからです。摩擦があるのはあなたが、思考、感情、行為のすべてである意識を、異なったレベルに分ける時だけです。

意識全体を眺めることができるか? そのように見ている時摩擦がない? 意識を異なった意識に分ける時摩擦がある??
 意識と無意識の間の対立というようなことを言っているのだろうか? よくわからないので先を読みましょう。

>  私たちは断片的に生きています。事務所で一つのものであり、家庭ではもう一つのものです。民主主義について語り、心の中では独裁的です。隣人を愛することについて語り、でも戦争で彼を殺します。他の部分と無関係に働き、見ている一部があります。自分自身の中のこのバラバラな存在に気づいていますか? そしてそれ自身の機能、それ自身の思考を断片にしてしまった頭脳にとって ― そんな頭脳にとって全体の場に気づいていることは可能でしょうか? 意識の全体を完全に、全部見ることは、全的な人間であることを意味しますが、それは可能でしょうか?

心の中に断片化したいくつかの構造があり、職場や仕事場で使いわけているので矛盾が生じている?、そうかもしれません。そんな頭脳に全体に気づいていることことができるでしょうか?と。

>  もし、途方もない複雑さ全てを含めて「私」、自己、の全構造を理解しようとするために、一層づつ覆いを取り、あらゆる思考、感情、動機を調べながら、一歩一歩進むならば、分析的過程に巻き込まれてしまい、数週間、数か月、数年かかるかも知れません ― そして自分自身を理解する過程の中に時間を許すなら、あらゆる形の歪みを認めざるを得ません。なぜなら自分は複雑な存在で、それに連鎖的に作用しているあらゆる種類の圧力、緊張、影響を受け、動き、生きていて、もがき、欲し、拒んでいるからです。それであなたは自分でこれは道ではないことを見いだすでしょう。自分自身を見る唯一のやり方は全的で、即座で、時間を伴わないことを理解するでしょう。そして心が断片化されていないときのみ自分自身の全体を見ることができます。全体の中に見るものが真理です。

言っていることがわかってきました。断片化した複雑な心で見る、分析的に調べるのではだめだと言っています。心が断片化していないときにのみ、自自分自身の全体を見ることができると。

>  さてそうすることが出来るでしょうか? 私たちの大部分はできません。なぜなら決して問題にそんなに真剣に接近しないし、決して本当に自分自身を見ないからです。決してしません。他人を非難し、物事を言い逃れ、あるいは見ることを恐れています。しかし全的に見るとき、あなたは自分の全部の注意を、自分の全存在、自分自身のあらゆる物、自分の目、自分の耳、自分の神経を傾注するでしょう。そしてその時恐怖の余地、矛盾の余地はなく、したがって葛藤はありません。

ここでは全体的に見るという事をKは説いてくれました。しかし断片的に生きている私たちにはできそうもありません。どうなりますか?

> (続く)


[25593] Re:[25591] 自分だけで自己観察する? 投稿者:南方 投稿日:2018/07/02(Mon) 15:04  

> > 自己観察するというとき、普通人は自分ですると思い込む。
>
> 自己観察というのは文字どうり自分を観察する。自分の何を観察するのか。自分の心を観察する。自分の思考の動きを観察する。
> これは精神世界の話で、一般ではない。
> その一般の人に、自己観察とは自分で自分を見ることだといっても、理解できない。
> 禅や瞑想をかじった人にようやっと意味がわかる。
> 内観をやった人。自身の心を見つめる作業。
> 自分がするのでなければ「誰」がするのという話。
>


そうですね。一般の人はまず自分で自分を観察するんだと思います。




>
> >しかし、実際は、ここで言葉の形に囚われないでほししいのだが、神々や霊、精霊等目には見えない力と協力して自己観察を行うということだ。
>
> クリシュナムルティはその辺について、慎重な言い回しに終始した。
> わずかに、「あちらから」とか、「非物質、非存在からの働きかけ」とか。
> 自己観察は、そういった目に見えないものには、直接には関係ありません。ただ自分の心の動きを観察する作業です。具体的にいうと「内観」「瞑想」「座禅」。
> >


何故慎重になったのかというと組織化された宗教団体に成り下がる恐れがあるから。
ちなみに僕は教祖ではありませんのであしからず。



> > Kは自我の終焉を説いた。そのKの言うことを実践するひとが自分だけで自己観察する気になるという破壊的矛盾が現在生じているように思えて仕方ない。
>
> 自分だけが観察する?妙な表現。
> その「自分」というものをことさら強調すると、エゴイズムになる。
> 普段我々は、「自分」を意識しない。
> 自己を意識すると対立したものが現れる。思考の創作。
>
> 外部からやってくるエネルギーの注入を妨害しているのが「思考の壁」です。思考の壁を崩せば、自ずとエネルギーが内部に注入する。
> 生の全体生が実現。
>


自分というものはあります。戸籍上名前がある。
幻だとはしても、物的に皆が同意している社会生活を送るための道具として。



> >
> > 自我の終焉を説くなら、残るのは神々や霊などであるのは当然の帰結である。
>
> クリシュナムルティは、それらについて人間の「思考の産物」と称した。
> ソートイズマティリアルをことさら強調。思考は物質だと。
> ボームは思考はエネルギーの顕現。


思考の産物?思考が産物なのでは?



> >
> > 何事も自分だけで行っていると思わず、他の力の助けあって自分がいることを説いたのは実際は仏様ではなかったか。
>
> 「絶対他力」は親鸞です。要するに「祈り」です。
> 対照的に禅は「自力」の宗教。
>
> ようするに、最後の問いは「自分」ってあるんかいな、ということです。
>
> そういえば飯尾氏もクリシュナムルティも、「自分」という名称は一切使わなかった。全て3人称。



あってないもの、自分。


[25592] Re:[25589] [25588] [25586] [25583] [25572] 後半 Re:[25566] [25547] [25541] 既知からの自由2-2(2) 投稿者:ゴト 投稿日:2018/07/02(Mon) 13:47  

> ここは訳者によって、捉え方が異なります。ゴトさんのは直訳ですか。十菱さんや、大野さんはそれぞれの意訳ということでしょうか。
> 受け取りようによっては意味が違ってきます。

私は直訳です。それでもはっきり意をとらえているかどうか自信はないのですが、今回は旧訳を厳密な見直しなしに出しています。

> > > > > > > >  答えは見ないということです。知的な分析の過程を通じて民族主義が自滅に導くのを見るかもしれませんが、しかしそこには感情を動かす内容がないのです。
>
> ここがよくわからない。「知的な分析の過程を通じて民族主義が自滅に導くのを見る」?そこには感情を動かす内容がない?
>
> 意味がよくわからない。何で感情を動かす内容がないのか。
> つまり知的な分析の過程は感情を動かす内容がないのか?

論理的に言われても納得しないのは普通にありませんか?

> >感情を動かす内容があるときのみあなたは活力に満ちるのです。
>
> ここはわかります。
> > > > > > >
> > > > > > >
> > > > > > > 感情が動かない、感情が動く内容がない?
> > > > > > >
> > > > > > >
> > > > > > 「見ること」というのは感情を動かす内容のあるとき?
> > > > > > ここは、初めて聞きました。
> >
> > ここは私も気になって考えたのですが、感情を動かす内容とは心理的思考とか感情そのものですね。
>
> 感情的になる出来事。感情を動かす出来事。つまり喜怒哀楽が起きたとき。そのとき、初めて「見る」普通は見ない。

なんだかそれだと普通の反応が起きる場合がほとんどだと思います。

> > そして本音と建前で言うと本音の時は感情がホントにすでに動いています。それはそれが行動をもたらすというか沈黙や理解、変化があります。それは場全体の変化です。建前の場合は気づくきっかけがないと行動につながらないでしょうね。全的な感情が起こってないので。ちょっとこのことに突っ込んでみました。
>
> 本音と建て前?そこはあなたのとらえかたですか?

はい。私がそうではないかと考えてみたのです。

> 1日24時間見るというのは、もちろん誇張した言い方ですが、そのぐらい自分の思考を見張れということです。いつ暴君になるかわからない。いつエゴが顔出すか。イエスの「寝ずの番人」をする。

見る、聞くはいつも行われている気がするんですが…

> ところがクリシュナムルティはそうではなく、心がひっかかるときに「見る」ということのようです。ここでの表現は、「感情が動かす内容のあるときに「見る」。そう受け取りました。
>
> イエスより容易です。

ただの感情が飛び出ても売り言葉に買い言葉ならただの口げんかになります。そうでなく本音が飛び出したらと考えたのですが。。

> 本音と建て前の話というのは、サラリーマンの処世術の一つではないでしょうか。日常では、すべて本音です。気兼ねはありません。
> 少なくとも家族、友人の間ではありません。いいたいことをいう。もちろん会社ではそうはいかない。

しかし、ある意味で気兼ねはないが、真剣味もない気がします。真剣であるという意味の本音。ハッと打たれるようなもの。沈黙や厳粛さを引き起こすようなもの。感情を動かす内容とはそういう事があるのかな。全注意を引き起こすような出来事。そんな感じがしてきました。


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