雑感
[トップに戻る] [留意事項] [ワード検索] [管理用]
おなまえ
Eメール メールアドレスは入力禁止
タイトル
コメント 【コメント中のURLは先頭のhを抜いて書き込んで下さい。】
コメント中には参照先URLと同じURLを書き込まないで下さい
参照先
暗証キー (記事メンテ用)

[25797] 既知からの自由8−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/13(Mon) 11:57  

8章ー1[自由・反抗]

抑圧の苦悩も、一つの型に順応する過酷な訓練もどれも真理へと導きませんでした。真理に出会うためには心は少しのひずみもなく、完全に自由でなければなりません。

 しかしまず自分自身に、本当に自由でありたいのか尋ねましょう。自由について話すとき、私たちは完全な自由について話しているのでしょうか、それとも何か不便な、不愉快な、あるいは望ましくないことからの自由についてでしょうか? 私たちは痛ましい嫌な記憶や不幸な経験から自由でありたいと思うのですが、快い満足なイデオロギーや方式、関係はそのままにしておきたいのです。しかし他の方はなしに一方を取っておくのは不可能です。というのは、すでに見てきたように、快楽は苦痛と切り離せないからです。

 それゆえ完全に自由であることを欲するかどうかを決めるのは、私たち一人一人です。そう望むというなら、その時は自由の性質と構造を理解しなければなりません。

 あなたが何かから自由であるとき ― 苦痛から自由であり、ある種の不安から自由であるとき、それは自由でしょうか? それとも自由はそれ自体何か全く異なったものなのでしょうか? 例えば、あなたは嫉妬から自由であることが出来ますが、その自由は反応であってしたがって自由では全くないのではないでしょうか? 教義から、それを分析しはねつける事によって非常に容易に自由になることができますが、教義からの自由のための動機がそれ自体の反応を持っています。なぜなら教義から自由になろうという欲望は、その教義がもはや流行していないとか都合がよくないということかも知れないからです。また、国際主義を信じるので、国家主義から自由になることが出来ます。あるいは経済的にもはやこの愚かな国家主義に、旗やそのがらくた全てと共にしがみつく必要がないと感じるからです。あなたは容易にそれを捨て去ることができます。また、訓練や反抗の結果として、あなたに自由を約束した精神的、または政治的指導者に反抗するかもしれません。しかしその様な論理主義、その様な論理的結論が自由とどんな関係があるでしょうか?

 あなたがあるものから自由であると言うなら、それは反応であり、それはそのとき別の順応、別の形の支配をもたらす別の反応になるでしょう。このようにして一連の反応を持ち、それそれの反応を自由として受け入れることができます。しかしそれは自由ではありません。心が執着している過去の修正された継続にすぎません。


 今日の若者は、全ての若者のように、社会に反抗しており、それ自体はいいことですが、反抗は自由ではありません。なぜなら反抗するときそれは反応であり、そしてその反応はそれ自体の型を作り上げ、その型に捉えられてしまうからです。あなたはそれを新しいものと思うかもしれません。そうではなく、それは違う鋳型の中の古いものです。どんな社会的または政治的反抗も不可避的によき古きブルジョア精神に戻るのです。

 自由はあなたが見て行為するときのみ生じるのであって、決して反抗を通じてではありません。見ることは行為であり、その様な行為は危険を見るときのように即座です。そのとき思考も、議論も躊躇もありません。危険自体が行為をさせ、従って見ることは行為することであり、そして自由であることです。

(続く)


[25796] Re:[25795] [25792] [25787] [25786] [25772] [25771] 既知からの自由7−3 投稿者:ヨミ 投稿日:2018/08/12(Sun) 22:12  

> ホモ・サピエンス以外は国家的規模の頭数の集団をつくれませんでした。せいぜい地縁、血縁による50〜100だそうです。とにかく人間は現在の規模の文明社会や文化をつくれたわけですが、地球規模での統一はまだ見えませんね。EUは明らかに分解要素が台頭しているし、グローバリゼイションも頭打ちの傾向です。アメリカも中国もそれぞれ前途多難なようですね。
>
> 部族的社会から抜け出る要素があるのか?、と自分に問うと答えは見つかりません。Kの言っていることが本当にわかりたいです。

民族的、文化的枠組みと、人の生活のためのシステムの枠組み(国家とか)は、現在でも一致しているわけではないようですが、ナショナリズムに頼るような人は混同して考えることが多いですし、そのために何かと他の民族や国家と比較するようですね。
EUの前はソ連の枠が崩れましたね。枠組みよりも先に問い直すものがいろいろとあるのだろうと思います。


[25795] Re:[25792] [25787] [25786] [25772] [25771] 既知からの自由7−3 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/12(Sun) 21:28  

> > > > 比較なしはイコール断片化なしということかもしれませんが、社会の伝統的成長の仕方に根本的に疑問がありはしないかとクリシュナムルティは訴えているのでしょうか?
> > >
> > > 社会は何事についても評価したりラベルを張ったりすることを求めるようになっていますね。言語によるコミュニケーションにはそれが必然であるかのようにさえ思えます。比較の無い心の方がかなり特殊なことなんではないかという印象です。
> >
> >
> > そうなんです。自然に見えてしまう、地動説より天動説の方が。
> >  地球が球形で自転しているって初めて聞いた人はとてもとても理解できなかったでしょうね。
> >
> > Kの言っていることもコペルニクス的大転回でしょうね。私は相対性理論はまだよくわかりません。クリシュナムルティの言う事は数式が出てこないから、きっとわかるはずだと頑張っています。
>
> 逆な言い方をしますと、物理的なものの比較は測定して数値や数式に出来るので理に適っており、問題はないわけです。
> 人に対しては測ることが困難ですが、学校や企業に入れる人、雇用したい人を選ぶなどの為に何とか比較しようとしますし、まあそれは当然かも知れません。
> しかしその比較されてしまうことが、それが気になるようにされてしまうことであって、価値観を持たされるようになるということでしょうね。「価値のない自分」が恐怖になります。
> 社会は価値観を押し付けてきますね。Kのようにそれに関わらないなんてことが出来るのでしょうか?

そうですね。Kがそこをどう考えているかはまだ私にはわかりません。それゆえ今「既知からの自由」を読んでいるという事もあるわけですが。


ホモ・サピエンス以外は国家的規模の頭数の集団をつくれませんでした。せいぜい地縁、血縁による50〜100だそうです。とにかく人間は現在の規模の文明社会や文化をつくれたわけですが、地球規模での統一はまだ見えませんね。EUは明らかに分解要素が台頭しているし、グローバリゼイションも頭打ちの傾向です。アメリカも中国もそれぞれ前途多難なようですね。

部族的社会から抜け出る要素があるのか?、と自分に問うと答えは見つかりません。Kの言っていることが本当にわかりたいです。


[25794] Re:[25788] [25783] [25779] 既知からの自由7−4 投稿者:無明 投稿日:2018/08/12(Sun) 18:38  

> > > 7章‐4 [欲望・理想・偽善]
> > >
> > >  私が誰と争っているか知りたいとは思いません。自分の存在の周辺の争いを知りたいとは思いません。私が知りたいのはいったいなぜ葛藤が存在するのだろうかということです。その質問を自分自身にするとき、周辺の争いやその解決には何の関わりもない、根本的な論点を私は見ます。私は中心的な問題に関わっており、そして欲望の性質そのものが、適切に理解されないなら、必然的に葛藤に導くに違いないということを見ます ― もしかするとあなたも見ます?
> >
> >
> > 中心、周辺とはこういう事でしたか。今まで分かりませんでした。葛藤の問題を周辺的な多数の争いごととして見るのではなく、中心に据えてその持つ意義・構造を見る。
>
>
>  クリシュナムルティは、長年、ロザリンドの旦那とクリシュナムルティ関連の資産を巡って法的に争っていた。この争いは、金銭トラブルだけではなく、個人的な情事的トラブル、個人のメンツ(プライド)、社会規範などなどが複雑に絡み合っていた。

クリシュナムルティのやっていることと、言っていることが違うという典型的な例。
言ってることは聖事lだが、やっていることは性事、いや情事。
>
>  しかし、クリシュナムルティは、自分が誰と争っているかには関心がなかったとのことです。争いの内容にも関心がない。争いの解決にも関心がない。

要するにクリシュナムルティは無責任だということ。人任せ。種は自分で撒いて、後始末は他人。
クリシュナムルティのやってることは俗人と変わりない。
人の女房に手を出すとは呆れ返る。
あなたがもし、妻の不倫相手がクリシュナムルティだとしたら許すのか?
喜んで差し出すと。クリシュナムルティは尊敬する人物なので。
不倫相手が、一般のとりえのない男なら烈火のごとく怒る?

>  したがって、クリシュナムルティのように深く悟った存在は、争いごとに巻き込まれないという保証はないということ。

本当に悟っていたら、財団の経営に口を挟むことはしないだろう。
人に任せておけず、何でもかんでも細かいことまで口を出す。そのことがずさんな経理を呼び、放漫経営の元になった。
車が趣味というように、質素な生活とは程遠い貴族趣味。
>
>  光明を得ても、争いごとに巻き込まれる。

それは自分が蒔いた種だろう。人の留守中に、人の女房と恋仲になるとは言語道断。
>
>  しかし、問題はそこにはない。

問題はそこにある。自身の欲望をコントロールできないのに、欲望を語る資格はない。
>
>  欲望を理解する。

欲望を理解しないから、問題を起こす。
Kが亡くなるまで裁判が続いた。互いのメンツの争い。つまりはエゴの張り合い。
後にKの暴論本が出版され、一時のクリシュナムルティブームは終わりを遂げた。あれから約30年。今や世界ではクリシュナムルティの本は、ほとんど置かれていない。
>
>
>
>
> > >  欲望は常に矛盾しています。私は矛盾したものを望みます ― それは欲望を破壊し、抑圧、制御または昇華しなければならないということではありません ― 私は欲望がそれ自体矛盾しているのを単に見ます。矛盾しているのは欲望の対象ではなく欲望の性質そのものです。そして葛藤を理解できる前に、欲望の性質を理解しなければなりません。自分自身の中で私たちは矛盾の状態にあり、そしてその矛盾の状態は欲望によってもたらされています ― 欲望は快楽の追求と苦痛の回避です。そのことには既に触れました。

> > この欲望はデザイアです。wantではありません。念のため。
>
>
>  ロザリンドの旦那との争いにおいて、クリシュナムルティに欲望があるとすれば、それは>苦痛の回避−−。

欲望があるからロザリンドに手を出した。苦痛ではなく快楽。
>
>  このケースにおける苦痛の回避は、一番手っ取り早いのは、ロザリンドの旦那へ、クリシュナムルティへの寄付によって生じた資産を、ロザリンドの旦那の要求通りに与えるということ。しかし、このことは矛盾を含んでいる。

あなたはクリシュナムルティの「弁護士」か。
クリシュナムルティに「非」があることは明らか。
あなたはKの暴論論を読んだことがあるのか?
その本は翻訳されていない。



>  寄付してくれた人々の意に反して、将来のクリシュナムルティ普及に寄与するであろう資産を、情事一人分で失うことは別の苦痛をもたらす。
>
>  欲望とは、このようにすべてめでたしめでたしとなることはなく、必ず矛盾をかかえる。

だったら人の女房に手を出すな。


>
>  結婚したいという欲望は、それが叶った暁に(3年後)、多くは苦痛として姿を変える。一人っ子世帯の増大。これ以上は無理!!

バカを言っちゃいけない。結婚を愚弄するではない。だったらするなよ。苦痛だったらさっさと別れろ。
人は何のために結婚するのか。よく考えろ。
性欲のはけ口を求めるだけなら欲望産業ですませばいい。
それでは動物と同じ。人間には社会生活がある。
>
>  このような矛盾を含まない「欲望」とはあるのか・・。

欲望とは関係ない。話が飛んでしまっている。
>
>
> > >  それゆえ私たちは欲望を全ての矛盾 ― 何かを望みそしてそれを望まない ― 二重性の活動、の根源として見ます。何か楽しいことをするとき少しも努力は含まれないのではないでしょうか? しかし快楽が苦痛をもたらすと苦痛を避けるための苦闘があり、それは再びエネルギーの浪費です。いったいなぜ私たちは二重性を持つのでしょうか? もちろん、自然の中に二重性はあります ― 男性と女性、光と影、夜と昼 ― しかし内的に、心理的に、なぜ私たちは二重性を持つのでしょう? どうかこのことを私と共に考え抜いてください。私があなたに話すのを待たないでください。見いだすためには自分の心を働かせなければなりません。私の言葉は自分自身を観察するための単なる鏡です。なぜ私たちはこの心理的二重性を持つのでしょう? 常に「あるがままのもの」と「あるべきもの」を比較するように育てられてきたということでしょうか? 正しいものと間違ったもの、良いものと悪いもの、道徳的なものと不道徳なものに条件付けられてきました。この二重性は、暴力の反対物、羨望の、嫉妬の、卑しさの反対物についての思考が、それらのものを除くことを助けると信じるために生じるのでしょうか? あるがままのものを除くための梃子として反対物を使いますか? それともそれは現実からの逃避でしょうか?
> >
> >
> > 私たちの倫理的精神構造の中に反対物が(これは精神の創作物か?)あり、あるべきものとしてそれに向かって苦闘することが今までのやり方になっている。
> >  これは現実からの逃避でしかないのか?
>
>
>  ひとかどの者になりたくて、その欲望にしたがって、就職し結婚し、家庭を持つ。

欲望と家庭を持つことは関係ありません。
>
>  自由がどれほどあるのだろうか。独身時代に比べて。学生時代に比べて。

家庭を持つと自由がない?

>  家庭がなければ、自由を求めて転職や起業もできるのだが・・。定年まで、この生活を続けなくてはならない。

相当結婚生活が苦痛のようだ。
家庭を持つことが不自由で仕方がない?
苦痛の毎日。
>
>  二重性(働きたくないが働きたい)、二重性(自由になりたいが妻子を手放せない)、それゆえに>それゆえ私たちは欲望を全ての矛盾 ― 何かを望みそしてそれを望まない ― 二重性の活動、の根源として見ます。−−
>
>  また、妻子を手放すことは理想(道徳的なもの)に反するから敷居が高い。しかし、その道徳的行為を続けたとして、私は道徳的な存在になるのか。否、不道徳な私をカモフラージュするだけの、現実逃避となっているだけではないのか。

妻子を邪魔扱い。愛のかけらもない。
よくクリシュナムルティが読めるな。全くのゆがんだ解釈。
クリシュナムルティは妻子を邪魔扱いをしろとは言っていない。
むしろ愛せよと言っている。もちろん世間的な愛ではない。真の愛だ。

>
>
>
> > >  あなたは反対物を、どう取り扱えばいいのかわからない現実を避ける手段として使うのでしょうか? あるいは現実に対処するために理想 ― 「あるがままのもの」の反対物 ― を持たなければならないと何千年もの宣伝によって教えられてきたからでしょうか? 理想を持つときそれは「あるがままのもの」を除く助けになると考えますが、決して助けにはなりません。あなたは残りの人生の間非暴力を説くかもしれませんが、ずっと暴力の種を蒔き続けるでしょう。
> >
> >
> > 伝統のやり方は効果がなく、エネルギーの浪費ではないかと明確に示唆されています。
> >
> >
> > >  あなたは自分がどうあるべきかどのように行動すべきかの概念を持っており、そしていつも実際には全く違う行動をしています。それゆえ原理、信念、理想は必然的に偽善で不正直な生に導くということを見ます。あるがままの反対物を作り出すのは理想であり、それゆえ「あるがままのもの」とどのように一緒にいるか分かるなら、そのとき反対物は必要ありません。
> >
> >
> > > あなたは自分がどうあるべきかどのように行動すべきかの概念を持っており、そしていつも実際には全く違う行動をしています。それゆえ原理、信念、理想は必然的に偽善で不正直な生に導くということを見ます。−−
> >
> >  私たちの現実の姿が明らかに私たち自身で見ることができる地点に来ました。反対物はいらないですね、捨てましょう。
> >
> >



[25793] 無題 投稿者:無明 投稿日:2018/08/12(Sun) 17:20  

> Kの言っていることもコペルニクス的大転回でしょうね。

大げさですね。Kというには。ただ一人の「覚者」にすぎません。買いかぶりすぎです。
他の人を知らないのか。

>私は相対性理論はまだよくわかりません。クリシュナムルティの言う事は数式が出てこないから、きっとわかるはずだと頑張っています。

アインシュタインの相対性理論とクリシュナムルティの記述は全く関係ありません。





[25792] Re:[25787] [25786] [25772] [25771] 既知からの自由7−3 投稿者:ヨミ 投稿日:2018/08/12(Sun) 16:02  

> > > 比較なしはイコール断片化なしということかもしれませんが、社会の伝統的成長の仕方に根本的に疑問がありはしないかとクリシュナムルティは訴えているのでしょうか?
> >
> > 社会は何事についても評価したりラベルを張ったりすることを求めるようになっていますね。言語によるコミュニケーションにはそれが必然であるかのようにさえ思えます。比較の無い心の方がかなり特殊なことなんではないかという印象です。
>
>
> そうなんです。自然に見えてしまう、地動説より天動説の方が。
>  地球が球形で自転しているって初めて聞いた人はとてもとても理解できなかったでしょうね。
>
> Kの言っていることもコペルニクス的大転回でしょうね。私は相対性理論はまだよくわかりません。クリシュナムルティの言う事は数式が出てこないから、きっとわかるはずだと頑張っています。

逆な言い方をしますと、物理的なものの比較は測定して数値や数式に出来るので理に適っており、問題はないわけです。
人に対しては測ることが困難ですが、学校や企業に入れる人、雇用したい人を選ぶなどの為に何とか比較しようとしますし、まあそれは当然かも知れません。
しかしその比較されてしまうことが、それが気になるようにされてしまうことであって、価値観を持たされるようになるということでしょうね。「価値のない自分」が恐怖になります。
社会は価値観を押し付けてきますね。Kのようにそれに関わらないなんてことが出来るのでしょうか?


[25791] Re:[25790] 無題 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/12(Sun) 12:42  

> 今晩、NHKのBSプレミアム 映像の世紀:「難民」を途中から見た。難民は今世紀のシリア難民に限ったことではなく、第二次大戦のユダヤ人のパレスチナへの難民や、ヴェトナム戦争でのヴェトナム難民など、延々と続いているものなんだ。テロもそうだ。オリンピックにイスラエルが参加を認められた時、パレスチナはテロで抗議を世界に示すほかなかった。
>
> アラブとしてのまとまりを示す基礎が欠けているようだ。ISステイトも失敗した。産業組織の未成熟によるのかもしれない。
>
> が、この世界という複雑系の成り行きは予断を許さないものがあるが。


 先進諸国の欲望の副産物ではないでしょうか。

 第一次世界大戦後、オスマントルコ領は、地元のアラブ人に解放されることなく、戦勝国によって分割され、先進国有利に誘導されていった。

 これが、欲望は矛盾を内包するという意味ではないでしょうか。


[25790] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/11(Sat) 22:47  

今晩、NHKのBSプレミアム 映像の世紀:「難民」を途中から見た。難民は今世紀のシリア難民に限ったことではなく、第二次大戦のユダヤ人のパレスチナへの難民や、ヴェトナム戦争でのヴェトナム難民など、延々と続いているものなんだ。テロもそうだ。オリンピックにイスラエルが参加を認められた時、パレスチナはテロで抗議を世界に示すほかなかった。

アラブとしてのまとまりを示す基礎が欠けているようだ。ISステイトも失敗した。産業組織の未成熟によるのかもしれない。

が、この世界という複雑系の成り行きは予断を許さないものがあるが。


[25789] Re:[25788] [25783] [25779] 既知からの自由7−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/08/11(Sat) 22:08  

> > > 7章‐4 [欲望・理想・偽善]

> > > あなたは自分がどうあるべきかどのように行動すべきかの概念を持っており、そしていつも実際には全く違う行動をしています。それゆえ原理、信念、理想は必然的に偽善で不正直な生に導くということを見ます。−−
> >
> >  私たちの現実の姿が明らかに私たち自身で見ることができる地点に来ました。反対物はいらないですね、捨てましょう。


私も同じことを感じます。このようにはっきり感じさせれるのは初めてのように思います。


>  ひとかどの者になりたくて、その欲望が混乱を生じさせていることを見るならば、ひとかどの者になるための「行為」をそのように見る。すると、その行為が止むのではないでしょうか。

はい。


[25788] Re:[25783] [25779] 既知からの自由7−4 投稿者:宮啓 投稿日:2018/08/11(Sat) 18:03  

> > 7章‐4 [欲望・理想・偽善]
> >
> >  私が誰と争っているか知りたいとは思いません。自分の存在の周辺の争いを知りたいとは思いません。私が知りたいのはいったいなぜ葛藤が存在するのだろうかということです。その質問を自分自身にするとき、周辺の争いやその解決には何の関わりもない、根本的な論点を私は見ます。私は中心的な問題に関わっており、そして欲望の性質そのものが、適切に理解されないなら、必然的に葛藤に導くに違いないということを見ます ― もしかするとあなたも見ます?
>
>
> 中心、周辺とはこういう事でしたか。今まで分かりませんでした。葛藤の問題を周辺的な多数の争いごととして見るのではなく、中心に据えてその持つ意義・構造を見る。


 クリシュナムルティは、長年、ロザリンドの旦那とクリシュナムルティ関連の資産を巡って法的に争っていた。この争いは、金銭トラブルだけではなく、個人的な情事的トラブル、個人のメンツ(プライド)、社会規範などなどが複雑に絡み合っていた。

 しかし、クリシュナムルティは、自分が誰と争っているかには関心がなかったとのことです。争いの内容にも関心がない。争いの解決にも関心がない。

 したがって、クリシュナムルティのように深く悟った存在は、争いごとに巻き込まれないという保証はないということ。

 光明を得ても、争いごとに巻き込まれる。

 しかし、問題はそこにはない。

 欲望を理解する。




> >  欲望は常に矛盾しています。私は矛盾したものを望みます ― それは欲望を破壊し、抑圧、制御または昇華しなければならないということではありません ― 私は欲望がそれ自体矛盾しているのを単に見ます。矛盾しているのは欲望の対象ではなく欲望の性質そのものです。そして葛藤を理解できる前に、欲望の性質を理解しなければなりません。自分自身の中で私たちは矛盾の状態にあり、そしてその矛盾の状態は欲望によってもたらされています ― 欲望は快楽の追求と苦痛の回避です。そのことには既に触れました。
>
>
> この欲望はデザイアです。wantではありません。念のため。


 ロザリンドの旦那との争いにおいて、クリシュナムルティに欲望があるとすれば、それは>苦痛の回避−−。

 このケースにおける苦痛の回避は、一番手っ取り早いのは、ロザリンドの旦那へ、クリシュナムルティへの寄付によって生じた資産を、ロザリンドの旦那の要求通りに与えるということ。しかし、このことは矛盾を含んでいる。
 寄付してくれた人々の意に反して、将来のクリシュナムルティ普及に寄与するであろう資産を、情事一人分で失うことは別の苦痛をもたらす。

 欲望とは、このようにすべてめでたしめでたしとなることはなく、必ず矛盾をかかえる。

 結婚したいという欲望は、それが叶った暁に(3年後)、多くは苦痛として姿を変える。一人っ子世帯の増大。これ以上は無理!!

 このような矛盾を含まない「欲望」とはあるのか・・。


> >  それゆえ私たちは欲望を全ての矛盾 ― 何かを望みそしてそれを望まない ― 二重性の活動、の根源として見ます。何か楽しいことをするとき少しも努力は含まれないのではないでしょうか? しかし快楽が苦痛をもたらすと苦痛を避けるための苦闘があり、それは再びエネルギーの浪費です。いったいなぜ私たちは二重性を持つのでしょうか? もちろん、自然の中に二重性はあります ― 男性と女性、光と影、夜と昼 ― しかし内的に、心理的に、なぜ私たちは二重性を持つのでしょう? どうかこのことを私と共に考え抜いてください。私があなたに話すのを待たないでください。見いだすためには自分の心を働かせなければなりません。私の言葉は自分自身を観察するための単なる鏡です。なぜ私たちはこの心理的二重性を持つのでしょう? 常に「あるがままのもの」と「あるべきもの」を比較するように育てられてきたということでしょうか? 正しいものと間違ったもの、良いものと悪いもの、道徳的なものと不道徳なものに条件付けられてきました。この二重性は、暴力の反対物、羨望の、嫉妬の、卑しさの反対物についての思考が、それらのものを除くことを助けると信じるために生じるのでしょうか? あるがままのものを除くための梃子として反対物を使いますか? それともそれは現実からの逃避でしょうか?
>
>
> 私たちの倫理的精神構造の中に反対物が(これは精神の創作物か?)あり、あるべきものとしてそれに向かって苦闘することが今までのやり方になっている。
>  これは現実からの逃避でしかないのか?


 ひとかどの者になりたくて、その欲望にしたがって、就職し結婚し、家庭を持つ。

 自由がどれほどあるのだろうか。独身時代に比べて。学生時代に比べて。
 家庭がなければ、自由を求めて転職や起業もできるのだが・・。定年まで、この生活を続けなくてはならない。

 二重性(働きたくないが働きたい)、二重性(自由になりたいが妻子を手放せない)、それゆえに>それゆえ私たちは欲望を全ての矛盾 ― 何かを望みそしてそれを望まない ― 二重性の活動、の根源として見ます。−−

 また、妻子を手放すことは理想(道徳的なもの)に反するから敷居が高い。しかし、その道徳的行為を続けたとして、私は道徳的な存在になるのか。否、不道徳な私をカモフラージュするだけの、現実逃避となっているだけではないのか。



> >  あなたは反対物を、どう取り扱えばいいのかわからない現実を避ける手段として使うのでしょうか? あるいは現実に対処するために理想 ― 「あるがままのもの」の反対物 ― を持たなければならないと何千年もの宣伝によって教えられてきたからでしょうか? 理想を持つときそれは「あるがままのもの」を除く助けになると考えますが、決して助けにはなりません。あなたは残りの人生の間非暴力を説くかもしれませんが、ずっと暴力の種を蒔き続けるでしょう。
>
>
> 伝統のやり方は効果がなく、エネルギーの浪費ではないかと明確に示唆されています。
>
>
> >  あなたは自分がどうあるべきかどのように行動すべきかの概念を持っており、そしていつも実際には全く違う行動をしています。それゆえ原理、信念、理想は必然的に偽善で不正直な生に導くということを見ます。あるがままの反対物を作り出すのは理想であり、それゆえ「あるがままのもの」とどのように一緒にいるか分かるなら、そのとき反対物は必要ありません。
>
>
> > あなたは自分がどうあるべきかどのように行動すべきかの概念を持っており、そしていつも実際には全く違う行動をしています。それゆえ原理、信念、理想は必然的に偽善で不正直な生に導くということを見ます。−−
>
>  私たちの現実の姿が明らかに私たち自身で見ることができる地点に来ました。反対物はいらないですね、捨てましょう。
>
>
> >  誰かのように、あるいは自分の理想のようになろうとすることは矛盾、混乱、葛藤の主な原因の一つです。混乱した心は、どんなレベルで何をしようとも、混乱したままでしょう。混乱から生まれるどんな行動も一層の混乱に導きます。私はこれを非常にはっきりと見ます。咄嗟の肉体的危険を見るのと同じようにはっきり見ます。そこで何が起きるでしょう? 私はそれ以上混乱の見地から行動することをやめます。それゆえ行動しないことが完全な行動なのです。
>
>
> (成り行く)行動をしないことが完全な行動であると明確になりました。
>
>
> > (7章 終わり)


 ひとかどの者になりたくて、その欲望が混乱を生じさせていることを見るならば、ひとかどの者になるための「行為」をそのように見る。すると、その行為が止むのではないでしょうか。


[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16] [17] [18] [19] [20] [21] [22] [23] [24] [25] [26] [27] [28] [29] [30] [31] [32] [33] [34] [35] [36] [37] [38] [39] [40] [41] [42] [43] [44] [45] [46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56] [57] [58] [59] [60] [61] [62] [63] [64] [65] [66] [67] [68] [69] [70] [71] [72] [73] [74] [75] [76] [77] [78] [79] [80] [81] [82] [83] [84] [85] [86] [87] [88] [89] [90] [91] [92] [93] [94] [95] [96] [97] [98] [99] [100]

処理 記事No 暗証キー
- LightBoard - Modified by isso