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> > > > > >  見る・聴く・知覚することについて、クリシュナムルティの以下の陳述があります。
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > >  『ブッダとクリシュナムルティ』p147 より引用
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > >  K:ではまず、あなたは自分の目であの木を一つの全体として見ることができますか? 妻あるいは夫を、ガールフレンドあるいはボーイフレンドを、一つの全体的存在として見ることができますか? わたしの質問がおわかりですか? 対象が何であれ、それを全体的に見ることができますか? それとも、あなたはいつも部分的に見ているのですか?
> > > > > >
> > > > > >  WR:あなたのおっしゃる「全体的に」とは、どういう意味ですか。
> > > > > >
> > > > > >  K:一つの全体として掌握するということです。特定の部分にこだわり、それにだけ目を向けないこと。わたしはあなたを一つの全体的存在として見ることができるだろうか? それが肝要なのです。私は人類を自分自身として見ることができるだろうか? なぜなら、人類はわたしと同じように苦しみ、惨めで、混乱し、苦悶していて、怯え、安全ではなく、悲しみに打ちひしがれている、等々だからです。そうではありませんか? だから一人ひとりの人間、ひいては人類を見るとき、わたしはまさに自分自身を見るのです。
> > > > > >
> > > > > >  WR:あるいは、あべこべに、あなた自身を見ることによって、あなたは人類を見る。
> > > > > >
> > > > > >  K:それはわたしです。自分自身を人類として見るといってもかまわない。そのとき、人類イコールわたしですから。わたしは人類とべつのものではありません。わたしは、自分はエリートの一部だとは言いません。わたしは自分を特別扱いせず、同じ人類の一員として扱います。だから、わたしは世界を自分自身として見る。それが一つの全体という言葉の意味です。いたってシンプルなことです。いや、シンプルには思われないかもしれませんが。
> > > > > >
> > > > > >  DB:どうなのでしょう。わたしたちはあの木を、一瞬でも、あなたが言うように見つめているのでしょうか? はっきりわからないのですが、あなたがあの木を全体として見ると言うのは・・
> > > > > >
> > > > > >  K:それを全体的存在として、まるごと見る、ということです。
> > > > > >
> > > > > >  DB:ありのままに見る、ということですね。
> > > > > >
> > > > > >  IS:言い表し方にやや難があり、それにひっかかっているように思います。しかたがないのでしょうが。この「一つの全体として見る」という場合、それが可能になるのは、自我、あるいは自我という観念が誤謬であることが明確に見抜かれ、それが崩壊したときだ、ということが含意されていると思います。そうでなければ、いくらあの木を一つの全体として見ようとしても、そこには依然としてわたしの思考が介入しているからです。
> > > > > >
> > > > > >  K:それか決定的なポイントです。問題は、あなたが夫を、妻を、あるいはガールフレンドを一つの全体的存在として見ることができるかどうかです。できるのではないでしょうか? それはどのように起こるのでしょう? あなたが一つの全体的存在として見ることができるとき、何が起こるのでしょう?
> > > > > >
> > > > > >  IS:とてつもない温かさが――ただし、わたしの、ではありません。
> > > > > >
> > > > > >  K:そのとおりです。
> > > > > >
> > > > > >  IS:温かさが入り込んで来るのです。
> > > > > >
> > > > > >  K:あなたがあの木を愛していれば、全体的に見ることでしょう。
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > >  ― ― ― 以上引用 ― ― ―
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > >  見る・聴く・知覚するとは、時間の終焉、自我の終焉を意味するのですね。
> > > > >
> > > > > まあそうも言えますが、言葉が大き過ぎ、それに引っかかってしまいませんか。実際にそのように見ている時、時間の経過もありませんし、自分の都合で何かを求め、捜しながら見ているわけではありません。
> > > > > 意味ありげな言葉に魅惑されないよにしましょう。実際の状態をしっかり押さえておきましょう。
> > > >
> > > >
> > > >  フラワリングがうまくいくときには、枯れて消えるときには、時間も自我もありません。
>
> フラワリングとはどこから出ているのかと思ったら、それは開花であり、教師の質問から始まっているのですね。
>
> これは多岐にわたって用いることができる言葉であり、難しい表現ですね。
> 例えば「突っ張る」という事は若い人などにしばしば起こり、苦しいことです。
> その人が成熟して背伸びせずに事柄を取り扱えるようになると、「突っ張り」は未熟な私を支える役割を果たして昇天する観世音菩薩のように見えます。開花、フラワリングはそのようなことと感じています。自分の未熟さが開花、成熟した。
>
> > >
> > > そうですが、フラワリングそのものが見る、聴くから出てくるものです。
> >
> >
> >  外に向かって見る、聴く、知覚するときにもフラワリングが起こるということですね。
>
> これは意外なことで、私は内側(思考、感情、情動など)を見る時のことばかり思っていました。
>
> 外部を見ている時に起こる開花とはその外部の出来事に触発されて起こる内的気づきという事なら、それは起こりえますが……。
>
> >
> >  私の場合は、今のところ、内側を見るときにフラワリングが起こっています。
>
> はい。
>
> >
> > > > > >  職と家庭に執着している私は、なかなか投影が止みません。自我っぽく生きています。
> > > > >
> > > > > 職と家庭に執着している。というのは言葉ではそうとして、実際の状態はどうなんでしょう。
> > > > > つまり、私は妻や子供がのびのび生きていけるように愛情を注ぐのは大きな秩序に沿っているのではないか、職を大事に勤めていくのは、まともな職場であれば、それも大きな秩序の中にあるのではないか、実際はどうなのかと思っているのです。
> > > > > 思考によって観念的に問題が創られていることはないですか?
> > > >
> > > >
> > > >  秩序の中にいようと、70億人の中の10億人が飢餓で苦しんでいるのです。
> > >
> > > いろいろなことで多くの人が苦しんでいます。
> > >
> > > >
> > > >  自我でありながら、時間の中で暮らしながら大きな秩序があるとは思えません。
> > >
> > > 自我が念力を動員して無秩序の渦を創り出すのが見えているかどうか。観念が断言していないだろうか?
> >
> >
> >  渦までは見えません。ただ、関係の中で、私はトランプ氏と大差はないことが分かります。
>
> 自我が強く働くと矛盾、対立が増えて苦しくなりませんか? それが私には大きな秩序の働きに見えます。
>
> >
> > > >  現実として、>恐怖を花開かせるがままにすること――それが何を意味するかわかりますか?それは、もしかしたら自分が失業するかもしれないこと、家庭が崩壊するかもしれないことを意味するのです。(『英知の教育』大野純一訳 p206 より引用)−−、これがあるのが分かります。
> > > >
> > > >
> > > >  私は「観念」には、かなり慎重に対処しております。
> > >
> > > 恐怖がフラワリングして、つまり自らその思いのすべてを語り終わって沈黙するなら、恐怖なしに失業や家庭の崩壊の実際の可能性について見、理解できます。怖れることは何もありません。一生懸命に対処するだけです。
> >
> >
> >  一生懸命に対処しているときには、確かに恐怖はありませんね。
> >
> >  恐怖がフラワリングしているとき、それは恐怖ではないですね。
> >
> >  しかも、咄嗟に、予期せず、意外と、うまい対処が為されるようです。
>
> はい。
> >
> >  対処がなされた後は、恐怖はどこかに飛んで行って消え去っています。
> >
> >
> >  ゴトさんの述べる、見る、聴く、知覚するとは、外側を見る・聴く・知覚するときに、並行してフラワリングが起こっているということでしょうか。
>
> 外部を見る時、心理的な心の動きに気づくなら、それは内部の動きにも気付いているわけです。
> あなたの言葉の使い方が、いまいちよくわかりません。


 「フラワリング」と「外側を見る」の言葉の使い方ですね。

 「外側を見る」とは確かに>外部を見る時、心理的な心の動きに気づくなら、それは内部の動きにも気付いているわけです。−−、はい、このようになりますね。

 外側と関係しているとき内部と切り離すことはできません。

 外側だけのフラワリングは無いということですね。

 外側と内側がワンセットでフラワリングする可能性はあると思います。

 次に「フラワリング」です。

 この言葉の用法は、私と渡辺さんではほぼ一致していると察しています。

 例えば、何か嫌なことがあったとします。
 これを抑圧すればいったん消え去るように感じるのだが、後日、その記憶を思い出して再度嫌な思いをする。

 ところが、何か嫌なことがあったときに、その嫌な気分を自由にさせておく。

 ただし、それを自由にさせることがなかなかできない。

 「ぶっ殺してやりたい・・」→「刑務所行き」→「面目まるつぶれ」→「こんなことを考えることは止めよう」→抑圧

 こんな感じで、それを自由にさせることができず、非難・正当化の投影が影響してきます。

 しかし、これを自由にさせることができたならば、それは開花し、そして枯れ、萎み、消え去るのです。

 これが「フラワリング」として、私が用いている言葉の用法です。

 私は、内側でそれをやっていたのですが、もしかして、外側を見るとき聞くとき知覚するとき、それと並行して(内側で)フラワリングできるかも・・と、その可能性に気づき(昨日、ゴトさんのコメントに触れて)、それを試そうと思っているところです。


[23794] 無題 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/05/09(Tue) 06:03  

愚さんの言葉を一部引用させていただきます。

問い 
  わたしの本心本性はエネルギーに似ています。見えないんです。しかし、あるんです。そのエネルギーは宇宙ひとつづき。で、思考も見えないけれどあるエネルギー? この辺の話の時に、社会生活の在りようや思考の扱われ方がどうあるのかをお聞かせ願いたいです。

答え

 これは非常に簡単です。あなたがいまこの文章を読んでいるのですが、それは、このエネルギーが源泉です。「あなた」が読んでいるのではないんです。また、この文章を読んで、思考が浮かびます。まさにそれがエネルギーが思考として現れたのです。而上学みたいですが、そうではなく、実際のことです。

ライナス・愚・スペースエクスプローラー

追記
 この文章を読んでピンとこなければ、Kの本をいくら読んでもだめだと思います。知識が増えるだけです。頭でっかちに。それでKの引用が必須となる。自分の言葉がないために。
 愚さんは、このように掲示板の中でヒントをたくさん述べている。M氏は長くこの掲示板に出入りしているようだが、愚さんの言葉は伝わらないようだ。それでは彼は何のために掲示板にいるのだろう。学ぶのではなく自分の「思い」を吐きたいだけ?失業の恐怖?からのがれるために。毎日職場と家庭と妥協の日々だという。さぞかしつらいだろう。定年になったらそれから解放されるという夢を描いて。
「もしかして」が常に先に立ち、「今」を生きていない。





[23793] 二重投稿 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/05/09(Tue) 05:47  

>見る、聴く、知覚するとは、外側を見る・聴く・知覚するときに、並行してフラワリングが起こっているということでしょうか。

 何でこんな奇妙な問いが出てくるのだろうか?不思議でならない。まだこんなところでつまづいているのだろうか?というのが正直な感想。
 「見る聴く知覚」については、他の人がさんざん話してきたのではないだろうか。基本中の基本。人間の基本的な感覚。
 今はない新しい芽氏のサイトでも再三このテーマを話し合っている。彼が今聞いたら失笑するのではないか。人のことをあれこれいわない氏であるが、唯一いったのが次の言葉
 「クリシュナムルティはしゃべりすぎ」
 ですから、言葉が多すぎて、かえって思考でがんじがらめになってしまう。本を読めば読む程、「ドつぼ」にはまる。知識の袋小路に入って出て来れない。だからいつも「引用」を繰り返す。それも長々と。くどいほど。

 それにして妙なのは、ここに書いたコメントをそっくりKB会の掲示板にも出しているということだ。いわば「二重投稿」というやつ。いったい何のためにこういうことをやるだろうか。礼節を欠いているとしか思われない。それが最近又ひんぱんにやっているので、また出てきたというわけ。

 KB会の掲示板では結構博識な方が何人かおられるが、それに対し愚さんという方は、なるべき難しい言葉は使わずに、できるだけ優しい言葉を使って真理なるものを説いていらっしゃる。結構ヒントがそのやさしい言葉に秘められている。

 もし分からなかったら素直に聞けばいい。愚さん、新しい芽氏、森本氏など、クリシュナムルティをわかっていると思われる人。その人らから聞く。聞いてもわかなければ自分に力量がないということ。人と対等に話し合うのは理想だが、話合う内に、自身の「キャリア」不足が露呈するだろう。それでつい「引用」を引っ張り出す。Kは、こういっている、ああいっていると。(ようするに権威付け)それこそ自身のかけがえのなさの証明。
 教える、教えられるの関係は、はじめのうちはやむを得ない。せっかく読書会をやって人が集まっても、それぞれ意識レベルに差があり、中にはついてこれない人も出る。ここがむずかしいところです。
 ある程度勉強しないと(精神世界関連)、クリシュナムルティの本はわからない。条件づけ?観察者?何のこっちゃということになる。
 さっきの名前をあげた人はある程度仏教に精通してる人です。
 



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> > > > >  見る・聴く・知覚することについて、クリシュナムルティの以下の陳述があります。
> > > > >
> > > > >
> > > > >  『ブッダとクリシュナムルティ』p147 より引用
> > > > >
> > > > >
> > > > >  K:ではまず、あなたは自分の目であの木を一つの全体として見ることができますか? 妻あるいは夫を、ガールフレンドあるいはボーイフレンドを、一つの全体的存在として見ることができますか? わたしの質問がおわかりですか? 対象が何であれ、それを全体的に見ることができますか? それとも、あなたはいつも部分的に見ているのですか?
> > > > >
> > > > >  WR:あなたのおっしゃる「全体的に」とは、どういう意味ですか。
> > > > >
> > > > >  K:一つの全体として掌握するということです。特定の部分にこだわり、それにだけ目を向けないこと。わたしはあなたを一つの全体的存在として見ることができるだろうか? それが肝要なのです。私は人類を自分自身として見ることができるだろうか? なぜなら、人類はわたしと同じように苦しみ、惨めで、混乱し、苦悶していて、怯え、安全ではなく、悲しみに打ちひしがれている、等々だからです。そうではありませんか? だから一人ひとりの人間、ひいては人類を見るとき、わたしはまさに自分自身を見るのです。
> > > > >
> > > > >  WR:あるいは、あべこべに、あなた自身を見ることによって、あなたは人類を見る。
> > > > >
> > > > >  K:それはわたしです。自分自身を人類として見るといってもかまわない。そのとき、人類イコールわたしですから。わたしは人類とべつのものではありません。わたしは、自分はエリートの一部だとは言いません。わたしは自分を特別扱いせず、同じ人類の一員として扱います。だから、わたしは世界を自分自身として見る。それが一つの全体という言葉の意味です。いたってシンプルなことです。いや、シンプルには思われないかもしれませんが。
> > > > >
> > > > >  DB:どうなのでしょう。わたしたちはあの木を、一瞬でも、あなたが言うように見つめているのでしょうか? はっきりわからないのですが、あなたがあの木を全体として見ると言うのは・・
> > > > >
> > > > >  K:それを全体的存在として、まるごと見る、ということです。
> > > > >
> > > > >  DB:ありのままに見る、ということですね。
> > > > >
> > > > >  IS:言い表し方にやや難があり、それにひっかかっているように思います。しかたがないのでしょうが。この「一つの全体として見る」という場合、それが可能になるのは、自我、あるいは自我という観念が誤謬であることが明確に見抜かれ、それが崩壊したときだ、ということが含意されていると思います。そうでなければ、いくらあの木を一つの全体として見ようとしても、そこには依然としてわたしの思考が介入しているからです。
> > > > >
> > > > >  K:それか決定的なポイントです。問題は、あなたが夫を、妻を、あるいはガールフレンドを一つの全体的存在として見ることができるかどうかです。できるのではないでしょうか? それはどのように起こるのでしょう? あなたが一つの全体的存在として見ることができるとき、何が起こるのでしょう?
> > > > >
> > > > >  IS:とてつもない温かさが――ただし、わたしの、ではありません。
> > > > >
> > > > >  K:そのとおりです。
> > > > >
> > > > >  IS:温かさが入り込んで来るのです。
> > > > >
> > > > >  K:あなたがあの木を愛していれば、全体的に見ることでしょう。
> > > > >
> > > > >
> > > > >  ― ― ― 以上引用 ― ― ―
> > > > >
> > > > >
> > > > >  見る・聴く・知覚するとは、時間の終焉、自我の終焉を意味するのですね。
> > > >
> > > > まあそうも言えますが、言葉が大き過ぎ、それに引っかかってしまいませんか。実際にそのように見ている時、時間の経過もありませんし、自分の都合で何かを求め、捜しながら見ているわけではありません。
> > > > 意味ありげな言葉に魅惑されないよにしましょう。実際の状態をしっかり押さえておきましょう。
> > >
> > >
> > >  フラワリングがうまくいくときには、枯れて消えるときには、時間も自我もありません。

フラワリングとはどこから出ているのかと思ったら、それは開花であり、教師の質問から始まっているのですね。

これは多岐にわたって用いることができる言葉であり、難しい表現ですね。
例えば「突っ張る」という事は若い人などにしばしば起こり、苦しいことです。
その人が成熟して背伸びせずに事柄を取り扱えるようになると、「突っ張り」は未熟な私を支える役割を果たして昇天する観世音菩薩のように見えます。開花、フラワリングはそのようなことと感じています。自分の未熟さが開花、成熟した。

> >
> > そうですが、フラワリングそのものが見る、聴くから出てくるものです。
>
>
>  外に向かって見る、聴く、知覚するときにもフラワリングが起こるということですね。

これは意外なことで、私は内側(思考、感情、情動など)を見る時のことばかり思っていました。

外部を見ている時に起こる開花とはその外部の出来事に触発されて起こる内的気づきという事なら、それは起こりえますが……。

>
>  私の場合は、今のところ、内側を見るときにフラワリングが起こっています。

はい。

>
> > > > >  職と家庭に執着している私は、なかなか投影が止みません。自我っぽく生きています。
> > > >
> > > > 職と家庭に執着している。というのは言葉ではそうとして、実際の状態はどうなんでしょう。
> > > > つまり、私は妻や子供がのびのび生きていけるように愛情を注ぐのは大きな秩序に沿っているのではないか、職を大事に勤めていくのは、まともな職場であれば、それも大きな秩序の中にあるのではないか、実際はどうなのかと思っているのです。
> > > > 思考によって観念的に問題が創られていることはないですか?
> > >
> > >
> > >  秩序の中にいようと、70億人の中の10億人が飢餓で苦しんでいるのです。
> >
> > いろいろなことで多くの人が苦しんでいます。
> >
> > >
> > >  自我でありながら、時間の中で暮らしながら大きな秩序があるとは思えません。
> >
> > 自我が念力を動員して無秩序の渦を創り出すのが見えているかどうか。観念が断言していないだろうか?
>
>
>  渦までは見えません。ただ、関係の中で、私はトランプ氏と大差はないことが分かります。

自我が強く働くと矛盾、対立が増えて苦しくなりませんか? それが私には大きな秩序の働きに見えます。

>
> > >  現実として、>恐怖を花開かせるがままにすること――それが何を意味するかわかりますか?それは、もしかしたら自分が失業するかもしれないこと、家庭が崩壊するかもしれないことを意味するのです。(『英知の教育』大野純一訳 p206 より引用)−−、これがあるのが分かります。
> > >
> > >
> > >  私は「観念」には、かなり慎重に対処しております。
> >
> > 恐怖がフラワリングして、つまり自らその思いのすべてを語り終わって沈黙するなら、恐怖なしに失業や家庭の崩壊の実際の可能性について見、理解できます。怖れることは何もありません。一生懸命に対処するだけです。
>
>
>  一生懸命に対処しているときには、確かに恐怖はありませんね。
>
>  恐怖がフラワリングしているとき、それは恐怖ではないですね。
>
>  しかも、咄嗟に、予期せず、意外と、うまい対処が為されるようです。

はい。
>
>  対処がなされた後は、恐怖はどこかに飛んで行って消え去っています。
>
>
>  ゴトさんの述べる、見る、聴く、知覚するとは、外側を見る・聴く・知覚するときに、並行してフラワリングが起こっているということでしょうか。

外部を見る時、心理的な心の動きに気づくなら、それは内部の動きにも気付いているわけです。
あなたの言葉の使い方が、いまいちよくわかりません。


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> > > >  見る・聴く・知覚することについて、クリシュナムルティの以下の陳述があります。
> > > >
> > > >
> > > >  『ブッダとクリシュナムルティ』p147 より引用
> > > >
> > > >
> > > >  K:ではまず、あなたは自分の目であの木を一つの全体として見ることができますか? 妻あるいは夫を、ガールフレンドあるいはボーイフレンドを、一つの全体的存在として見ることができますか? わたしの質問がおわかりですか? 対象が何であれ、それを全体的に見ることができますか? それとも、あなたはいつも部分的に見ているのですか?
> > > >
> > > >  WR:あなたのおっしゃる「全体的に」とは、どういう意味ですか。
> > > >
> > > >  K:一つの全体として掌握するということです。特定の部分にこだわり、それにだけ目を向けないこと。わたしはあなたを一つの全体的存在として見ることができるだろうか? それが肝要なのです。私は人類を自分自身として見ることができるだろうか? なぜなら、人類はわたしと同じように苦しみ、惨めで、混乱し、苦悶していて、怯え、安全ではなく、悲しみに打ちひしがれている、等々だからです。そうではありませんか? だから一人ひとりの人間、ひいては人類を見るとき、わたしはまさに自分自身を見るのです。
> > > >
> > > >  WR:あるいは、あべこべに、あなた自身を見ることによって、あなたは人類を見る。
> > > >
> > > >  K:それはわたしです。自分自身を人類として見るといってもかまわない。そのとき、人類イコールわたしですから。わたしは人類とべつのものではありません。わたしは、自分はエリートの一部だとは言いません。わたしは自分を特別扱いせず、同じ人類の一員として扱います。だから、わたしは世界を自分自身として見る。それが一つの全体という言葉の意味です。いたってシンプルなことです。いや、シンプルには思われないかもしれませんが。
> > > >
> > > >  DB:どうなのでしょう。わたしたちはあの木を、一瞬でも、あなたが言うように見つめているのでしょうか? はっきりわからないのですが、あなたがあの木を全体として見ると言うのは・・
> > > >
> > > >  K:それを全体的存在として、まるごと見る、ということです。
> > > >
> > > >  DB:ありのままに見る、ということですね。
> > > >
> > > >  IS:言い表し方にやや難があり、それにひっかかっているように思います。しかたがないのでしょうが。この「一つの全体として見る」という場合、それが可能になるのは、自我、あるいは自我という観念が誤謬であることが明確に見抜かれ、それが崩壊したときだ、ということが含意されていると思います。そうでなければ、いくらあの木を一つの全体として見ようとしても、そこには依然としてわたしの思考が介入しているからです。
> > > >
> > > >  K:それか決定的なポイントです。問題は、あなたが夫を、妻を、あるいはガールフレンドを一つの全体的存在として見ることができるかどうかです。できるのではないでしょうか? それはどのように起こるのでしょう? あなたが一つの全体的存在として見ることができるとき、何が起こるのでしょう?
> > > >
> > > >  IS:とてつもない温かさが――ただし、わたしの、ではありません。
> > > >
> > > >  K:そのとおりです。
> > > >
> > > >  IS:温かさが入り込んで来るのです。
> > > >
> > > >  K:あなたがあの木を愛していれば、全体的に見ることでしょう。
> > > >
> > > >
> > > >  ― ― ― 以上引用 ― ― ―
> > > >
> > > >
> > > >  見る・聴く・知覚するとは、時間の終焉、自我の終焉を意味するのですね。
> > >
> > > まあそうも言えますが、言葉が大き過ぎ、それに引っかかってしまいませんか。実際にそのように見ている時、時間の経過もありませんし、自分の都合で何かを求め、捜しながら見ているわけではありません。
> > > 意味ありげな言葉に魅惑されないよにしましょう。実際の状態をしっかり押さえておきましょう。
> >
> >
> >  フラワリングがうまくいくときには、枯れて消えるときには、時間も自我もありません。
>
> そうですが、フラワリングそのものが見る、聴くから出てくるものです。


 外に向かって見る、聴く、知覚するときにもフラワリングが起こるということですね。

 私の場合は、今のところ、内側を見るときにフラワリングが起こっています。


> > > >  職と家庭に執着している私は、なかなか投影が止みません。自我っぽく生きています。
> > >
> > > 職と家庭に執着している。というのは言葉ではそうとして、実際の状態はどうなんでしょう。
> > > つまり、私は妻や子供がのびのび生きていけるように愛情を注ぐのは大きな秩序に沿っているのではないか、職を大事に勤めていくのは、まともな職場であれば、それも大きな秩序の中にあるのではないか、実際はどうなのかと思っているのです。
> > > 思考によって観念的に問題が創られていることはないですか?
> >
> >
> >  秩序の中にいようと、70億人の中の10億人が飢餓で苦しんでいるのです。
>
> いろいろなことで多くの人が苦しんでいます。
>
> >
> >  自我でありながら、時間の中で暮らしながら大きな秩序があるとは思えません。
>
> 自我が念力を動員して無秩序の渦を創り出すのが見えているかどうか。観念が断言していないだろうか?


 渦までは見えません。ただ、関係の中で、私はトランプ氏と大差はないことが分かります。


> >  現実として、>恐怖を花開かせるがままにすること――それが何を意味するかわかりますか?それは、もしかしたら自分が失業するかもしれないこと、家庭が崩壊するかもしれないことを意味するのです。(『英知の教育』大野純一訳 p206 より引用)−−、これがあるのが分かります。
> >
> >
> >  私は「観念」には、かなり慎重に対処しております。
>
> 恐怖がフラワリングして、つまり自らその思いのすべてを語り終わって沈黙するなら、恐怖なしに失業や家庭の崩壊の実際の可能性について見、理解できます。怖れることは何もありません。一生懸命に対処するだけです。


 一生懸命に対処しているときには、確かに恐怖はありませんね。

 恐怖がフラワリングしているとき、それは恐怖ではないですね。

 しかも、咄嗟に、予期せず、意外と、うまい対処が為されるようです。

 対処がなされた後は、恐怖はどこかに飛んで行って消え去っています。


 ゴトさんの述べる、見る、聴く、知覚するとは、外側を見る・聴く・知覚するときに、並行してフラワリングが起こっているということでしょうか。


[23790] 無題 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/08(Mon) 19:23  

外野(ガイヤ)様
お立ち寄り下さって有難うございます。嬉しいです。

あなたのつぶやきをよく聞き取りたいです。


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> > > > > 「女人悟り難し」でしたっけ?仏教方面だかでそんな言葉があったはずですが、最近では「ノン・デュアリティ(非二元)」という看板で悟りについて語ってらっしゃるリーダー的な方々には女性が多いですね。いや女性の方が多いのかも知れません。
> > > >
> > > > そうなんですか、それは頼もしいですね。
> > (追加です。ノン・デュアリティに関心があります。この観念も世界に広まってほしいと思いますが、これも観念的になってしまうのだろうか?)
>
> 俗っぽくなってしまった「悟り」という言葉を避けるために「ノン・デュアリティ(非二元)」と称するようにしたのだとか。
> 私はYouTubeなどの動画やネットTVなどで語られているのを聴いたくらいでして、そんなに詳しいわけではありません。ネットで検索してみていただいた方が良いと思います。でも取りあえず大まかに言いますと、ヒンドゥー教系のシャンカラ哲学の影響が大きいようです。「〜は私ではない」と身体や想いなど認知できるものは真の自己ではないという、例の理屈で真我を炙り出したりというのもありました。それで、想いとか考えが浮かんでも自分じゃないんだから放っておけという教えになるんですね。
> そういうことで実際に「一瞥」を体験したという人に女性が多いようです。

丁寧にレスくださってありがとうございます。
シャンカラ哲学は名前は知っているがどんな思想家は知らないので、ウィキペディアを引いたら、本はたくさんあるが読むのは大変そうですね。今未読の本が3冊もあるので、読み終わったら読んでみよう。

>
> > > > 主婦は家事でいやというほど実際のこまごましたことで気を使っているし、実際に多忙です。身の回りを整えることが好きでもあります。感覚的な快さが好きですねえ。
> > > > 男は金を稼いだら主婦に渡し、本を読んだり好きなことをしています。観念的ですねえ。碁やへらブナ釣りは観念的でもあるが実証的なところもあって面白いです。
> > >
> > > お化粧とか装飾品とか実際の美が重要なのと、それらを実現できる財力やセンスがあるという満足感などは、女性にも両方ありそうですし、男性でも片方だけということはないでしょうね。そう考えると微妙な違いなのかもと思います。
> >
> > 社会的には男女差は縮まってきましたが、子供との結びつきの直接性はかなり強い何かがありますか。
>
> 親子の関係性でしょうか。子供が親に依存しなければならないうちは、特別な強さがあると思いますが、そういう意味でしょうか?

どうも子供は母親にまず相談する。すると彼女(妻)は私に相談する。たいていは孫がどうとかでお祝いをいくら上げるかという話で、たいてい海外旅行に行くそうだとか金の欲しそうな付録がついている。それでまあこれくらいやるかと決まるが、妻が点数を稼ぐばかりという事です。つまらない話ですみません。

>
> > > 葛藤少なく生活するには、観念に実際を合わせようとするよりも実際に観念が従う方が良いのでしょうね。
> >
> > そうですね。実際の自分のしたいことをしているのですが、自分の中のどこかで嫌がないか見ています。
>
> 好きなことの中にも、面倒だったり好きになれない部分があったりするものですね。それとも好きなつもりだったけど、憧れとか他人へのアピールのためとか、多分に観念的な好みだったとかいう話でしょうか。

例えばヘラブナ釣りに行くのは体力を使うので、体が嫌がっていないか気にします。前の晩にはわからなくともその日の朝になると、行く気の有無は事実としてわかりますね。
>
> > 義務的にするのは大変ですね。そうなるのはその事柄が自分の力量に比して大きすぎる時で、葛藤になります。
>
> 手に負えないような作業などは仰るようにかなりの葛藤になりやすいですね。でも逆に熱中できるときもありますね。何故でしょうか。結果を気にしなくても良い場合かな?

たぶん無意識が何故かやりたいんでしょうね。無意識が興味を失うと見向きもしなくなる感じですね。例えば本なら積読になります。


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> > >  見る・聴く・知覚することについて、クリシュナムルティの以下の陳述があります。
> > >
> > >
> > >  『ブッダとクリシュナムルティ』p147 より引用
> > >
> > >
> > >  K:ではまず、あなたは自分の目であの木を一つの全体として見ることができますか? 妻あるいは夫を、ガールフレンドあるいはボーイフレンドを、一つの全体的存在として見ることができますか? わたしの質問がおわかりですか? 対象が何であれ、それを全体的に見ることができますか? それとも、あなたはいつも部分的に見ているのですか?
> > >
> > >  WR:あなたのおっしゃる「全体的に」とは、どういう意味ですか。
> > >
> > >  K:一つの全体として掌握するということです。特定の部分にこだわり、それにだけ目を向けないこと。わたしはあなたを一つの全体的存在として見ることができるだろうか? それが肝要なのです。私は人類を自分自身として見ることができるだろうか? なぜなら、人類はわたしと同じように苦しみ、惨めで、混乱し、苦悶していて、怯え、安全ではなく、悲しみに打ちひしがれている、等々だからです。そうではありませんか? だから一人ひとりの人間、ひいては人類を見るとき、わたしはまさに自分自身を見るのです。
> > >
> > >  WR:あるいは、あべこべに、あなた自身を見ることによって、あなたは人類を見る。
> > >
> > >  K:それはわたしです。自分自身を人類として見るといってもかまわない。そのとき、人類イコールわたしですから。わたしは人類とべつのものではありません。わたしは、自分はエリートの一部だとは言いません。わたしは自分を特別扱いせず、同じ人類の一員として扱います。だから、わたしは世界を自分自身として見る。それが一つの全体という言葉の意味です。いたってシンプルなことです。いや、シンプルには思われないかもしれませんが。
> > >
> > >  DB:どうなのでしょう。わたしたちはあの木を、一瞬でも、あなたが言うように見つめているのでしょうか? はっきりわからないのですが、あなたがあの木を全体として見ると言うのは・・
> > >
> > >  K:それを全体的存在として、まるごと見る、ということです。
> > >
> > >  DB:ありのままに見る、ということですね。
> > >
> > >  IS:言い表し方にやや難があり、それにひっかかっているように思います。しかたがないのでしょうが。この「一つの全体として見る」という場合、それが可能になるのは、自我、あるいは自我という観念が誤謬であることが明確に見抜かれ、それが崩壊したときだ、ということが含意されていると思います。そうでなければ、いくらあの木を一つの全体として見ようとしても、そこには依然としてわたしの思考が介入しているからです。
> > >
> > >  K:それか決定的なポイントです。問題は、あなたが夫を、妻を、あるいはガールフレンドを一つの全体的存在として見ることができるかどうかです。できるのではないでしょうか? それはどのように起こるのでしょう? あなたが一つの全体的存在として見ることができるとき、何が起こるのでしょう?
> > >
> > >  IS:とてつもない温かさが――ただし、わたしの、ではありません。
> > >
> > >  K:そのとおりです。
> > >
> > >  IS:温かさが入り込んで来るのです。
> > >
> > >  K:あなたがあの木を愛していれば、全体的に見ることでしょう。
> > >
> > >
> > >  ― ― ― 以上引用 ― ― ―
> > >
> > >
> > >  見る・聴く・知覚するとは、時間の終焉、自我の終焉を意味するのですね。
> >
> > まあそうも言えますが、言葉が大き過ぎ、それに引っかかってしまいませんか。実際にそのように見ている時、時間の経過もありませんし、自分の都合で何かを求め、捜しながら見ているわけではありません。
> > 意味ありげな言葉に魅惑されないよにしましょう。実際の状態をしっかり押さえておきましょう。
>
>
>  フラワリングがうまくいくときには、枯れて消えるときには、時間も自我もありません。

そうですが、フラワリングそのものが見る、聴くから出てくるものです。

>
> > >  職と家庭に執着している私は、なかなか投影が止みません。自我っぽく生きています。
> >
> > 職と家庭に執着している。というのは言葉ではそうとして、実際の状態はどうなんでしょう。
> > つまり、私は妻や子供がのびのび生きていけるように愛情を注ぐのは大きな秩序に沿っているのではないか、職を大事に勤めていくのは、まともな職場であれば、それも大きな秩序の中にあるのではないか、実際はどうなのかと思っているのです。
> > 思考によって観念的に問題が創られていることはないですか?
>
>
>  秩序の中にいようと、70億人の中の10億人が飢餓で苦しんでいるのです。

いろいろなことで多くの人が苦しんでいます。

>
>  自我でありながら、時間の中で暮らしながら大きな秩序があるとは思えません。

自我が念力を動員して無秩序の渦を創り出すのが見えているかどうか。観念が断言していないだろうか?

>  現実として、>恐怖を花開かせるがままにすること――それが何を意味するかわかりますか?それは、もしかしたら自分が失業するかもしれないこと、家庭が崩壊するかもしれないことを意味するのです。(『英知の教育』大野純一訳 p206 より引用)−−、これがあるのが分かります。
>
>
>  私は「観念」には、かなり慎重に対処しております。

恐怖がフラワリングして、つまり自らその思いのすべてを語り終わって沈黙するなら、恐怖なしに失業や家庭の崩壊の実際の可能性について見、理解できます。怖れることは何もありません。一生懸命に対処するだけです。


[23787] Re:[23783] [23782] [23780] [23776] さみしさ 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/08(Mon) 17:14  

> > > > あなたは、さみしいから恋人が欲しい、セックスがしたいというのですね?さみしさはどこにありますか?どこか外にさみしいというものがありますか?
> > > >
> > > > あなたが、さみしさです。あなたが、さみしさなのに他の誰かがさみしさを無くすことができますか?
> > > >
> > > > よく考えてください。ありきたりの言葉を使わずに。
> > > >
> > > >
> > > >
> > > >
> > > >
> > > > という課題がKから与えられた。
> > >
> > >
> > > 物質性を薄め、非物質的な何かにひかれ、それを神と呼ぶなら
> > >
> > > 神に助けられ、私は徹底的に今ここにいることができるように
> > > なった。その、喜びと静けさは何にも例えようがない。
> > >
> > > 今ここには、さみしさが入り込む余地はない。
> > >
> > > Kと神と、すべての霊魂に感謝を込めて。
> >
> >
> > うーむ、さみしさから脱却されたようでおめでたい。
> >
> > (しかし物質性と非物質性の二元論があるようで、そこは大丈夫なのかが気になる(岩陰の声))
>
>
>
> 僕は常々思うのですが、kを慕う人は、あまり神や霊魂等の言葉を発しないように思う。
>
> シュタイナーとkが別れた理由やkが星の教団を解散したのはどうもそこらへんにあるのかなと思ったりもしています。
>
> 勉強不足であまりわかりません。

そうですねえ、私にとって神とは何なのだろう? そう問うとキリスト教のゴッドは関係なく、「古池や 蛙飛び込む 水の音」「閑さや 岩にしみいる 蝉の声」とかがかえってきます。直接ではないが感じさせられる何かという意味で。

>
> 一つ言えるのは、僕はこの先、どうやって親から自立し、生活していくかということですね。生活から脱却せず宗教的精神を持っていくか。この先長い人生どうすんべかな。失礼。

宗教的精神とは何だろうというのが、この投稿を拝見してまず浮かんだ問いでした。結局私に浮かぶものは「この秋は雨か風かは知らねども 今日の勤めに 田草とるなり」という二宮尊徳翁の歌で、昔は稲を植えても、収穫できるか否かは誰にもわからないことだったのですね。二宮翁は天保の大飢饉のとき、夏の茄子に秋茄子の味がすると言って干ばつを予感し、青々としている稲を抜いて、芋など干ばつに強い作物に切り替えた人です。多くの半信半疑ながら見倣った人は大いに助けられたようです。

つまり生きるための行いは、それがどこに行きつくか人知の及ぶところでなかった。それでも日々の勤めをする。……どこかで神にゆだねている。そこが宗教心だと感じるのです。

生きていくのは、生はそれゆえに聖なのかな。

今は、人間はうぬぼれているのかな。


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宮啓氏というのは、ホント頭でっかちですね。知識がいつも一人歩きしている。引用があまりにも多くて、読む方が疲れるだろう。ようするに相手側読み手の配慮がない。

> > >  K:あなたがあの木を愛していれば、全体的に見ることでしょう。

引用するなら上記の一言だけでいい。その言葉を「妻や子供を愛している」と言い換えたらどうか。それが全体的に見ることだ。

「あなたが妻や子供を愛していれば、全体的に見ることでしょう」
> > >
> > >
> > >  ― ― ― 以上引用 ― ― ―
> > >
> > >
> > >  見る・聴く・知覚するとは、時間の終焉、自我の終焉を意味するのですね。
> >
> > まあそうも言えますが、言葉が大き過ぎ、それに引っかかってしまいませんか。実際にそのように見ている時、時間の経過もありませんし、自分の都合で何かを求め、捜しながら見ているわけではありません。
> > 意味ありげな言葉に魅惑されないよにしましょう。実際の状態をしっかり押さえておきましょう。

 その途端、又わけのわからぬ言葉が出てくる。フラワリング?
>
>
>  フラワリングがうまくいくときには、枯れて消えるときには、時間も自我もありません。

 言葉が一人歩き。意味が理解されていない。要するに「実際の生」を生きていない。
>
>
> > >  職と家庭に執着している私は、なかなか投影が止みません。自我っぽく生きています。

 そもそも職と家庭に執着しているという言葉が意味不明。執着しているのは文字ドウリ自身の観念。
 もう一度いうと「職と家庭」という言葉について執着している。
> >
> > 職と家庭に執着している。というのは言葉ではそうとして、実際の状態はどうなんでしょう。
> > つまり、私は妻や子供がのびのび生きていけるように愛情を注ぐのは大きな秩序に沿っているのではないか、職を大事に勤めていくのは、まともな職場であれば、それも大きな秩序の中にあるのではないか、実際はどうなのかと思っているのです。
> > 思考によって観念的に問題が創られていることはないですか?
>
>
>  秩序の中にいようと、70億人の中の10億人が飢餓で苦しんでいるのです。
 又、始まった。「思考によって観念的に問題が創られているのではないか」と言われたばかり。
>
>  自我でありながら、時間の中で暮らしながら大きな秩序があるとは思えません。
 ?
 何を言ってるのか。「大きな秩序」があるから、こうして現に生きているわけでしょう。
>
>  現実として、>恐怖を花開かせるがままにすること――それが何を意味するかわかりますか?それは、もしかしたら自分が失業するかもしれないこと、家庭が崩壊するかもしれないことを意味するのです。(『英知の教育』大野純一訳 p206 より引用)−−、これがあるのが分かります。

 もしかしたら?失業?まさに思考の戯れ。その「もしかしたら」が恐怖では?
 
> 私は「観念」には、かなり慎重に対処しております。

 と言いながら、「観念」に呪縛されている。

 KB会の掲示板でも一人浮いているようだ。長々とKの言葉を引用するだけで、他の人との生きた言葉のやりとりが見られません。


 


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