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[23785] Re:[23773] [23769] [23754] [23752] [23722] [23720] [23717] [23714] [23711] [23709] [23705] 生物とは 投稿者:想念狂 投稿日:2017/05/08(Mon) 00:49  

> > > > 「女人悟り難し」でしたっけ?仏教方面だかでそんな言葉があったはずですが、最近では「ノン・デュアリティ(非二元)」という看板で悟りについて語ってらっしゃるリーダー的な方々には女性が多いですね。いや女性の方が多いのかも知れません。
> > >
> > > そうなんですか、それは頼もしいですね。
> (追加です。ノン・デュアリティに関心があります。この観念も世界に広まってほしいと思いますが、これも観念的になってしまうのだろうか?)

俗っぽくなってしまった「悟り」という言葉を避けるために「ノン・デュアリティ(非二元)」と称するようにしたのだとか。
私はYouTubeなどの動画やネットTVなどで語られているのを聴いたくらいでして、そんなに詳しいわけではありません。ネットで検索してみていただいた方が良いと思います。でも取りあえず大まかに言いますと、ヒンドゥー教系のシャンカラ哲学の影響が大きいようです。「〜は私ではない」と身体や想いなど認知できるものは真の自己ではないという、例の理屈で真我を炙り出したりというのもありました。それで、想いとか考えが浮かんでも自分じゃないんだから放っておけという教えになるんですね。
そういうことで実際に「一瞥」を体験したという人に女性が多いようです。


> > > 主婦は家事でいやというほど実際のこまごましたことで気を使っているし、実際に多忙です。身の回りを整えることが好きでもあります。感覚的な快さが好きですねえ。
> > > 男は金を稼いだら主婦に渡し、本を読んだり好きなことをしています。観念的ですねえ。碁やへらブナ釣りは観念的でもあるが実証的なところもあって面白いです。
> >
> > お化粧とか装飾品とか実際の美が重要なのと、それらを実現できる財力やセンスがあるという満足感などは、女性にも両方ありそうですし、男性でも片方だけということはないでしょうね。そう考えると微妙な違いなのかもと思います。
>
> 社会的には男女差は縮まってきましたが、子供との結びつきの直接性はかなり強い何かがありますか。

親子の関係性でしょうか。子供が親に依存しなければならないうちは、特別な強さがあると思いますが、そういう意味でしょうか?


> > 葛藤少なく生活するには、観念に実際を合わせようとするよりも実際に観念が従う方が良いのでしょうね。
>
> そうですね。実際の自分のしたいことをしているのですが、自分の中のどこかで嫌がないか見ています。

好きなことの中にも、面倒だったり好きになれない部分があったりするものですね。それとも好きなつもりだったけど、憧れとか他人へのアピールのためとか、多分に観念的な好みだったとかいう話でしょうか。

> 義務的にするのは大変ですね。そうなるのはその事柄が自分の力量に比して大きすぎる時で、葛藤になります。

手に負えないような作業などは仰るようにかなりの葛藤になりやすいですね。でも逆に熱中できるときもありますね。何故でしょうか。結果を気にしなくても良い場合かな?


[23784] Re:[23781] [23779] [23778] [23777] [23772] [23768] [23766] [23765] [23764] [23761] [23759] [23757] [23750] [23748] [23746] [23744] [23737] [23736] [23735] [23734] [23733] [23732] [23731] [23723] [23721] [23719] [23718] [23715] [23708] [23706] [23705] 生物とは 投稿者:宮啓 投稿日:2017/05/07(Sun) 19:58  

> > > 基本的中心問題として、見る、聴く、知覚することをはっきりさせたいと思います。
> > > また、その際感覚さえも思考の縛りを免れないかどうかも調べていと思います。
> > >
> > > 見る、聴く、知覚するとはどういうことか具体的に述べます。
> > >
> > > 頭の中で一連の言葉がひらめくのを知覚する。これは思考の発生の知覚です。この場合予期せずして言葉がひらめき、自分の思っていることが知覚され、それは事実です。(そこに見ている自分(観察者)がいなければ。)
> > >
> > > 欲望がいるとしましょう。それは思考を見るという事を達成しようと待ち構えている欲望です。それは言葉を出さずにいますから、知覚できないでしょうか? いやできます。ある種の感じが流れています。
> > >
> > > ではどういうときに知覚・感覚は思考の縛りを免れえないのでしょうか? 観察者の観念が投影されるとき?
> > > そうです。観察者がいる時、思考の干渉があります。
> > > 例えば好きに人だと、あばたもえくぼですし、嫌な奴という先入観念があると、何もかも気に入らなく感じます。
> > > これらはいわゆる色メガネをかけて見るという事ですね。
> > >
> > > それで、見る、聴く、知覚するという事は色メガネ無しに見るとこを言っています。
> > > 観察者と観察されるものの分離がなしに見ると表現すると、観念的に理解しようとするので見ることがおろそかになります。 ただ思考の干渉なしに見るという風に言ってきました。
> > >
> > > ただ、ともかく見ることに心を向ければそれでいいのかもしれません。色眼鏡なしは、そのうちわかってついてくるのかもしれません。その辺は私にはわからないことです。
> > >
> > > なお知覚の本当の錯覚は、いろいろな図形で等しい長さの線が長く見えたり、短く見えたりすることがあります。これは頭脳が完全でないところから出てくる工学的欠陥でしょう。これは特に論じることはないでしょう。
> > >
> > > とりあえずここまでにしておきます。ここをしっかり明らかにしましょう。つまり考えことから見る方向に転ずればすべてが終わります。
> > >
> > > そこで私の言う事は下記に尽きるのですが。
> > > > > > > > > 実際の生の場では、社会のシステムの影響が常に働いているでしょうし、実際には感情に振り回されない状態の中で、相手と話し合い、取れる道を探すしかありません。
> > > > > > > > > その真正な心の状態とは、自分の思考・感情が働くとき、それに振り回されるのでなく、知覚していて動いている状態です。その時心は静かであり(感受性が研ぎ澄まされている)、咄嗟の対応が飛び出します。これは脳が知識や心理から離れて機能している状態です。知識や心理にとらわれていることに気づいてはっと注意を取り戻すという事が実現すれば、そこから生に飛び込むことができます。
> > > > > > > > > そこに行くことが問題であるなら、どのような疑問があるか話してください。話し合いましょう。
> >
> >
> >  見る・聴く・知覚することについて、クリシュナムルティの以下の陳述があります。
> >
> >
> >  『ブッダとクリシュナムルティ』p147 より引用
> >
> >
> >  K:ではまず、あなたは自分の目であの木を一つの全体として見ることができますか? 妻あるいは夫を、ガールフレンドあるいはボーイフレンドを、一つの全体的存在として見ることができますか? わたしの質問がおわかりですか? 対象が何であれ、それを全体的に見ることができますか? それとも、あなたはいつも部分的に見ているのですか?
> >
> >  WR:あなたのおっしゃる「全体的に」とは、どういう意味ですか。
> >
> >  K:一つの全体として掌握するということです。特定の部分にこだわり、それにだけ目を向けないこと。わたしはあなたを一つの全体的存在として見ることができるだろうか? それが肝要なのです。私は人類を自分自身として見ることができるだろうか? なぜなら、人類はわたしと同じように苦しみ、惨めで、混乱し、苦悶していて、怯え、安全ではなく、悲しみに打ちひしがれている、等々だからです。そうではありませんか? だから一人ひとりの人間、ひいては人類を見るとき、わたしはまさに自分自身を見るのです。
> >
> >  WR:あるいは、あべこべに、あなた自身を見ることによって、あなたは人類を見る。
> >
> >  K:それはわたしです。自分自身を人類として見るといってもかまわない。そのとき、人類イコールわたしですから。わたしは人類とべつのものではありません。わたしは、自分はエリートの一部だとは言いません。わたしは自分を特別扱いせず、同じ人類の一員として扱います。だから、わたしは世界を自分自身として見る。それが一つの全体という言葉の意味です。いたってシンプルなことです。いや、シンプルには思われないかもしれませんが。
> >
> >  DB:どうなのでしょう。わたしたちはあの木を、一瞬でも、あなたが言うように見つめているのでしょうか? はっきりわからないのですが、あなたがあの木を全体として見ると言うのは・・
> >
> >  K:それを全体的存在として、まるごと見る、ということです。
> >
> >  DB:ありのままに見る、ということですね。
> >
> >  IS:言い表し方にやや難があり、それにひっかかっているように思います。しかたがないのでしょうが。この「一つの全体として見る」という場合、それが可能になるのは、自我、あるいは自我という観念が誤謬であることが明確に見抜かれ、それが崩壊したときだ、ということが含意されていると思います。そうでなければ、いくらあの木を一つの全体として見ようとしても、そこには依然としてわたしの思考が介入しているからです。
> >
> >  K:それか決定的なポイントです。問題は、あなたが夫を、妻を、あるいはガールフレンドを一つの全体的存在として見ることができるかどうかです。できるのではないでしょうか? それはどのように起こるのでしょう? あなたが一つの全体的存在として見ることができるとき、何が起こるのでしょう?
> >
> >  IS:とてつもない温かさが――ただし、わたしの、ではありません。
> >
> >  K:そのとおりです。
> >
> >  IS:温かさが入り込んで来るのです。
> >
> >  K:あなたがあの木を愛していれば、全体的に見ることでしょう。
> >
> >
> >  ― ― ― 以上引用 ― ― ―
> >
> >
> >  見る・聴く・知覚するとは、時間の終焉、自我の終焉を意味するのですね。
>
> まあそうも言えますが、言葉が大き過ぎ、それに引っかかってしまいませんか。実際にそのように見ている時、時間の経過もありませんし、自分の都合で何かを求め、捜しながら見ているわけではありません。
> 意味ありげな言葉に魅惑されないよにしましょう。実際の状態をしっかり押さえておきましょう。


 フラワリングがうまくいくときには、枯れて消えるときには、時間も自我もありません。


> >  職と家庭に執着している私は、なかなか投影が止みません。自我っぽく生きています。
>
> 職と家庭に執着している。というのは言葉ではそうとして、実際の状態はどうなんでしょう。
> つまり、私は妻や子供がのびのび生きていけるように愛情を注ぐのは大きな秩序に沿っているのではないか、職を大事に勤めていくのは、まともな職場であれば、それも大きな秩序の中にあるのではないか、実際はどうなのかと思っているのです。
> 思考によって観念的に問題が創られていることはないですか?


 秩序の中にいようと、70億人の中の10億人が飢餓で苦しんでいるのです。

 自我でありながら、時間の中で暮らしながら大きな秩序があるとは思えません。

 現実として、>恐怖を花開かせるがままにすること――それが何を意味するかわかりますか?それは、もしかしたら自分が失業するかもしれないこと、家庭が崩壊するかもしれないことを意味するのです。(『英知の教育』大野純一訳 p206 より引用)−−、これがあるのが分かります。


 私は「観念」には、かなり慎重に対処しております。


[23783] Re:[23782] [23780] [23776] さみしさ 投稿者:南方 投稿日:2017/05/07(Sun) 17:29  

> > > あなたは、さみしいから恋人が欲しい、セックスがしたいというのですね?さみしさはどこにありますか?どこか外にさみしいというものがありますか?
> > >
> > > あなたが、さみしさです。あなたが、さみしさなのに他の誰かがさみしさを無くすことができますか?
> > >
> > > よく考えてください。ありきたりの言葉を使わずに。
> > >
> > >
> > >
> > >
> > >
> > > という課題がKから与えられた。
> >
> >
> > 物質性を薄め、非物質的な何かにひかれ、それを神と呼ぶなら
> >
> > 神に助けられ、私は徹底的に今ここにいることができるように
> > なった。その、喜びと静けさは何にも例えようがない。
> >
> > 今ここには、さみしさが入り込む余地はない。
> >
> > Kと神と、すべての霊魂に感謝を込めて。
>
>
> うーむ、さみしさから脱却されたようでおめでたい。
>
> (しかし物質性と非物質性の二元論があるようで、そこは大丈夫なのかが気になる(岩陰の声))



僕は常々思うのですが、kを慕う人は、あまり神や霊魂等の言葉を発しないように思う。

シュタイナーとkが別れた理由やkが星の教団を解散したのはどうもそこらへんにあるのかなと思ったりもしています。

勉強不足であまりわかりません。

一つ言えるのは、僕はこの先、どうやって親から自立し、生活していくかということですね。生活から脱却せず宗教的精神を持っていくか。この先長い人生どうすんべかな。失礼。




[23782] Re:[23780] [23776] さみしさ 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/07(Sun) 16:58  

> > あなたは、さみしいから恋人が欲しい、セックスがしたいというのですね?さみしさはどこにありますか?どこか外にさみしいというものがありますか?
> >
> > あなたが、さみしさです。あなたが、さみしさなのに他の誰かがさみしさを無くすことができますか?
> >
> > よく考えてください。ありきたりの言葉を使わずに。
> >
> >
> >
> >
> >
> > という課題がKから与えられた。
>
>
> 物質性を薄め、非物質的な何かにひかれ、それを神と呼ぶなら
>
> 神に助けられ、私は徹底的に今ここにいることができるように
> なった。その、喜びと静けさは何にも例えようがない。
>
> 今ここには、さみしさが入り込む余地はない。
>
> Kと神と、すべての霊魂に感謝を込めて。


うーむ、さみしさから脱却されたようでおめでたい。

(しかし物質性と非物質性の二元論があるようで、そこは大丈夫なのかが気になる(岩陰の声))


[23781] Re:[23779] [23778] [23777] [23772] [23768] [23766] [23765] [23764] [23761] [23759] [23757] [23750] [23748] [23746] [23744] [23737] [23736] [23735] [23734] [23733] [23732] [23731] [23723] [23721] [23719] [23718] [23715] [23708] [23706] [23705] 生物とは 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/07(Sun) 16:38  

> > 基本的中心問題として、見る、聴く、知覚することをはっきりさせたいと思います。
> > また、その際感覚さえも思考の縛りを免れないかどうかも調べていと思います。
> >
> > 見る、聴く、知覚するとはどういうことか具体的に述べます。
> >
> > 頭の中で一連の言葉がひらめくのを知覚する。これは思考の発生の知覚です。この場合予期せずして言葉がひらめき、自分の思っていることが知覚され、それは事実です。(そこに見ている自分(観察者)がいなければ。)
> >
> > 欲望がいるとしましょう。それは思考を見るという事を達成しようと待ち構えている欲望です。それは言葉を出さずにいますから、知覚できないでしょうか? いやできます。ある種の感じが流れています。
> >
> > ではどういうときに知覚・感覚は思考の縛りを免れえないのでしょうか? 観察者の観念が投影されるとき?
> > そうです。観察者がいる時、思考の干渉があります。
> > 例えば好きに人だと、あばたもえくぼですし、嫌な奴という先入観念があると、何もかも気に入らなく感じます。
> > これらはいわゆる色メガネをかけて見るという事ですね。
> >
> > それで、見る、聴く、知覚するという事は色メガネ無しに見るとこを言っています。
> > 観察者と観察されるものの分離がなしに見ると表現すると、観念的に理解しようとするので見ることがおろそかになります。 ただ思考の干渉なしに見るという風に言ってきました。
> >
> > ただ、ともかく見ることに心を向ければそれでいいのかもしれません。色眼鏡なしは、そのうちわかってついてくるのかもしれません。その辺は私にはわからないことです。
> >
> > なお知覚の本当の錯覚は、いろいろな図形で等しい長さの線が長く見えたり、短く見えたりすることがあります。これは頭脳が完全でないところから出てくる工学的欠陥でしょう。これは特に論じることはないでしょう。
> >
> > とりあえずここまでにしておきます。ここをしっかり明らかにしましょう。つまり考えことから見る方向に転ずればすべてが終わります。
> >
> > そこで私の言う事は下記に尽きるのですが。
> > > > > > > > 実際の生の場では、社会のシステムの影響が常に働いているでしょうし、実際には感情に振り回されない状態の中で、相手と話し合い、取れる道を探すしかありません。
> > > > > > > > その真正な心の状態とは、自分の思考・感情が働くとき、それに振り回されるのでなく、知覚していて動いている状態です。その時心は静かであり(感受性が研ぎ澄まされている)、咄嗟の対応が飛び出します。これは脳が知識や心理から離れて機能している状態です。知識や心理にとらわれていることに気づいてはっと注意を取り戻すという事が実現すれば、そこから生に飛び込むことができます。
> > > > > > > > そこに行くことが問題であるなら、どのような疑問があるか話してください。話し合いましょう。
>
>
>  見る・聴く・知覚することについて、クリシュナムルティの以下の陳述があります。
>
>
>  『ブッダとクリシュナムルティ』p147 より引用
>
>
>  K:ではまず、あなたは自分の目であの木を一つの全体として見ることができますか? 妻あるいは夫を、ガールフレンドあるいはボーイフレンドを、一つの全体的存在として見ることができますか? わたしの質問がおわかりですか? 対象が何であれ、それを全体的に見ることができますか? それとも、あなたはいつも部分的に見ているのですか?
>
>  WR:あなたのおっしゃる「全体的に」とは、どういう意味ですか。
>
>  K:一つの全体として掌握するということです。特定の部分にこだわり、それにだけ目を向けないこと。わたしはあなたを一つの全体的存在として見ることができるだろうか? それが肝要なのです。私は人類を自分自身として見ることができるだろうか? なぜなら、人類はわたしと同じように苦しみ、惨めで、混乱し、苦悶していて、怯え、安全ではなく、悲しみに打ちひしがれている、等々だからです。そうではありませんか? だから一人ひとりの人間、ひいては人類を見るとき、わたしはまさに自分自身を見るのです。
>
>  WR:あるいは、あべこべに、あなた自身を見ることによって、あなたは人類を見る。
>
>  K:それはわたしです。自分自身を人類として見るといってもかまわない。そのとき、人類イコールわたしですから。わたしは人類とべつのものではありません。わたしは、自分はエリートの一部だとは言いません。わたしは自分を特別扱いせず、同じ人類の一員として扱います。だから、わたしは世界を自分自身として見る。それが一つの全体という言葉の意味です。いたってシンプルなことです。いや、シンプルには思われないかもしれませんが。
>
>  DB:どうなのでしょう。わたしたちはあの木を、一瞬でも、あなたが言うように見つめているのでしょうか? はっきりわからないのですが、あなたがあの木を全体として見ると言うのは・・
>
>  K:それを全体的存在として、まるごと見る、ということです。
>
>  DB:ありのままに見る、ということですね。
>
>  IS:言い表し方にやや難があり、それにひっかかっているように思います。しかたがないのでしょうが。この「一つの全体として見る」という場合、それが可能になるのは、自我、あるいは自我という観念が誤謬であることが明確に見抜かれ、それが崩壊したときだ、ということが含意されていると思います。そうでなければ、いくらあの木を一つの全体として見ようとしても、そこには依然としてわたしの思考が介入しているからです。
>
>  K:それか決定的なポイントです。問題は、あなたが夫を、妻を、あるいはガールフレンドを一つの全体的存在として見ることができるかどうかです。できるのではないでしょうか? それはどのように起こるのでしょう? あなたが一つの全体的存在として見ることができるとき、何が起こるのでしょう?
>
>  IS:とてつもない温かさが――ただし、わたしの、ではありません。
>
>  K:そのとおりです。
>
>  IS:温かさが入り込んで来るのです。
>
>  K:あなたがあの木を愛していれば、全体的に見ることでしょう。
>
>
>  ― ― ― 以上引用 ― ― ―
>
>
>  見る・聴く・知覚するとは、時間の終焉、自我の終焉を意味するのですね。

まあそうも言えますが、言葉が大き過ぎ、それに引っかかってしまいませんか。実際にそのように見ている時、時間の経過もありませんし、自分の都合で何かを求め、捜しながら見ているわけではありません。
意味ありげな言葉に魅惑されないよにしましょう。実際の状態をしっかり押さえておきましょう。

>
>  職と家庭に執着している私は、なかなか投影が止みません。自我っぽく生きています。

職と家庭に執着している。というのは言葉ではそうとして、実際の状態はどうなんでしょう。
つまり、私は妻や子供がのびのび生きていけるように愛情を注ぐのは大きな秩序に沿っているのではないか、職を大事に勤めていくのは、まともな職場であれば、それも大きな秩序の中にあるのではないか、実際はどうなのかと思っているのです。
思考によって観念的に問題が創られていることはないですか?


[23780] Re:[23776] さみしさ 投稿者:南方 投稿日:2017/05/07(Sun) 15:58  

> あなたは、さみしいから恋人が欲しい、セックスがしたいというのですね?さみしさはどこにありますか?どこか外にさみしいというものがありますか?
>
> あなたが、さみしさです。あなたが、さみしさなのに他の誰かがさみしさを無くすことができますか?
>
> よく考えてください。ありきたりの言葉を使わずに。
>
>
>
>
>
> という課題がKから与えられた。


物質性を薄め、非物質的な何かにひかれ、それを神と呼ぶなら

神に助けられ、私は徹底的に今ここにいることができるように
なった。その、喜びと静けさは何にも例えようがない。

今ここには、さみしさが入り込む余地はない。

Kと神と、すべての霊魂に感謝を込めて。


[23779] Re:[23778] [23777] [23772] [23768] [23766] [23765] [23764] [23761] [23759] [23757] [23750] [23748] [23746] [23744] [23737] [23736] [23735] [23734] [23733] [23732] [23731] [23723] [23721] [23719] [23718] [23715] [23708] [23706] [23705] 生物とは 投稿者:宮啓 投稿日:2017/05/07(Sun) 12:43  

> 基本的中心問題として、見る、聴く、知覚することをはっきりさせたいと思います。
> また、その際感覚さえも思考の縛りを免れないかどうかも調べていと思います。
>
> 見る、聴く、知覚するとはどういうことか具体的に述べます。
>
> 頭の中で一連の言葉がひらめくのを知覚する。これは思考の発生の知覚です。この場合予期せずして言葉がひらめき、自分の思っていることが知覚され、それは事実です。(そこに見ている自分(観察者)がいなければ。)
>
> 欲望がいるとしましょう。それは思考を見るという事を達成しようと待ち構えている欲望です。それは言葉を出さずにいますから、知覚できないでしょうか? いやできます。ある種の感じが流れています。
>
> ではどういうときに知覚・感覚は思考の縛りを免れえないのでしょうか? 観察者の観念が投影されるとき?
> そうです。観察者がいる時、思考の干渉があります。
> 例えば好きに人だと、あばたもえくぼですし、嫌な奴という先入観念があると、何もかも気に入らなく感じます。
> これらはいわゆる色メガネをかけて見るという事ですね。
>
> それで、見る、聴く、知覚するという事は色メガネ無しに見るとこを言っています。
> 観察者と観察されるものの分離がなしに見ると表現すると、観念的に理解しようとするので見ることがおろそかになります。 ただ思考の干渉なしに見るという風に言ってきました。
>
> ただ、ともかく見ることに心を向ければそれでいいのかもしれません。色眼鏡なしは、そのうちわかってついてくるのかもしれません。その辺は私にはわからないことです。
>
> なお知覚の本当の錯覚は、いろいろな図形で等しい長さの線が長く見えたり、短く見えたりすることがあります。これは頭脳が完全でないところから出てくる工学的欠陥でしょう。これは特に論じることはないでしょう。
>
> とりあえずここまでにしておきます。ここをしっかり明らかにしましょう。つまり考えことから見る方向に転ずればすべてが終わります。
>
> そこで私の言う事は下記に尽きるのですが。
> > > > > > > 実際の生の場では、社会のシステムの影響が常に働いているでしょうし、実際には感情に振り回されない状態の中で、相手と話し合い、取れる道を探すしかありません。
> > > > > > > その真正な心の状態とは、自分の思考・感情が働くとき、それに振り回されるのでなく、知覚していて動いている状態です。その時心は静かであり(感受性が研ぎ澄まされている)、咄嗟の対応が飛び出します。これは脳が知識や心理から離れて機能している状態です。知識や心理にとらわれていることに気づいてはっと注意を取り戻すという事が実現すれば、そこから生に飛び込むことができます。
> > > > > > > そこに行くことが問題であるなら、どのような疑問があるか話してください。話し合いましょう。


 見る・聴く・知覚することについて、クリシュナムルティの以下の陳述があります。


 『ブッダとクリシュナムルティ』p147 より引用


 K:ではまず、あなたは自分の目であの木を一つの全体として見ることができますか? 妻あるいは夫を、ガールフレンドあるいはボーイフレンドを、一つの全体的存在として見ることができますか? わたしの質問がおわかりですか? 対象が何であれ、それを全体的に見ることができますか? それとも、あなたはいつも部分的に見ているのですか?

 WR:あなたのおっしゃる「全体的に」とは、どういう意味ですか。

 K:一つの全体として掌握するということです。特定の部分にこだわり、それにだけ目を向けないこと。わたしはあなたを一つの全体的存在として見ることができるだろうか? それが肝要なのです。私は人類を自分自身として見ることができるだろうか? なぜなら、人類はわたしと同じように苦しみ、惨めで、混乱し、苦悶していて、怯え、安全ではなく、悲しみに打ちひしがれている、等々だからです。そうではありませんか? だから一人ひとりの人間、ひいては人類を見るとき、わたしはまさに自分自身を見るのです。

 WR:あるいは、あべこべに、あなた自身を見ることによって、あなたは人類を見る。

 K:それはわたしです。自分自身を人類として見るといってもかまわない。そのとき、人類イコールわたしですから。わたしは人類とべつのものではありません。わたしは、自分はエリートの一部だとは言いません。わたしは自分を特別扱いせず、同じ人類の一員として扱います。だから、わたしは世界を自分自身として見る。それが一つの全体という言葉の意味です。いたってシンプルなことです。いや、シンプルには思われないかもしれませんが。

 DB:どうなのでしょう。わたしたちはあの木を、一瞬でも、あなたが言うように見つめているのでしょうか? はっきりわからないのですが、あなたがあの木を全体として見ると言うのは・・

 K:それを全体的存在として、まるごと見る、ということです。

 DB:ありのままに見る、ということですね。

 IS:言い表し方にやや難があり、それにひっかかっているように思います。しかたがないのでしょうが。この「一つの全体として見る」という場合、それが可能になるのは、自我、あるいは自我という観念が誤謬であることが明確に見抜かれ、それが崩壊したときだ、ということが含意されていると思います。そうでなければ、いくらあの木を一つの全体として見ようとしても、そこには依然としてわたしの思考が介入しているからです。

 K:それか決定的なポイントです。問題は、あなたが夫を、妻を、あるいはガールフレンドを一つの全体的存在として見ることができるかどうかです。できるのではないでしょうか? それはどのように起こるのでしょう? あなたが一つの全体的存在として見ることができるとき、何が起こるのでしょう?

 IS:とてつもない温かさが――ただし、わたしの、ではありません。

 K:そのとおりです。

 IS:温かさが入り込んで来るのです。

 K:あなたがあの木を愛していれば、全体的に見ることでしょう。


 ― ― ― 以上引用 ― ― ―


 見る・聴く・知覚するとは、時間の終焉、自我の終焉を意味するのですね。

 職と家庭に執着している私は、なかなか投影が止みません。自我っぽく生きています。


[23778] Re:[23777] [23772] [23768] [23766] [23765] [23764] [23761] [23759] [23757] [23750] [23748] [23746] [23744] [23737] [23736] [23735] [23734] [23733] [23732] [23731] [23723] [23721] [23719] [23718] [23715] [23708] [23706] [23705] 生物とは 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/07(Sun) 10:52  

基本的中心問題として、見る、聴く、知覚することをはっきりさせたいと思います。
また、その際感覚さえも思考の縛りを免れないかどうかも調べていと思います。

見る、聴く、知覚するとはどういうことか具体的に述べます。

頭の中で一連の言葉がひらめくのを知覚する。これは思考の発生の知覚です。この場合予期せずして言葉がひらめき、自分の思っていることが知覚され、それは事実です。(そこに見ている自分(観察者)がいなければ。)

欲望がいるとしましょう。それは思考を見るという事を達成しようと待ち構えている欲望です。それは言葉を出さずにいますから、知覚できないでしょうか? いやできます。ある種の感じが流れています。

ではどういうときに知覚・感覚は思考の縛りを免れえないのでしょうか? 観察者の観念が投影されるとき?
そうです。観察者がいる時、思考の干渉があります。
例えば好きに人だと、あばたもえくぼですし、嫌な奴という先入観念があると、何もかも気に入らなく感じます。
これらはいわゆる色メガネをかけて見るという事ですね。

それで、見る、聴く、知覚するという事は色メガネ無しに見るとこを言っています。
観察者と観察されるものの分離がなしに見ると表現すると、観念的に理解しようとするので見ることがおろそかになります。 ただ思考の干渉なしに見るという風に言ってきました。

ただ、ともかく見ることに心を向ければそれでいいのかもしれません。色眼鏡なしは、そのうちわかってついてくるのかもしれません。その辺は私にはわからないことです。

なお知覚の本当の錯覚は、いろいろな図形で等しい長さの線が長く見えたり、短く見えたりすることがあります。これは頭脳が完全でないところから出てくる工学的欠陥でしょう。これは特に論じることはないでしょう。

とりあえずここまでにしておきます。ここをしっかり明らかにしましょう。つまり考えことから見る方向に転ずればすべてが終わります。

そこで私の言う事は下記に尽きるのですが。
> > > > > > 実際の生の場では、社会のシステムの影響が常に働いているでしょうし、実際には感情に振り回されない状態の中で、相手と話し合い、取れる道を探すしかありません。
> > > > > > その真正な心の状態とは、自分の思考・感情が働くとき、それに振り回されるのでなく、知覚していて動いている状態です。その時心は静かであり(感受性が研ぎ澄まされている)、咄嗟の対応が飛び出します。これは脳が知識や心理から離れて機能している状態です。知識や心理にとらわれていることに気づいてはっと注意を取り戻すという事が実現すれば、そこから生に飛び込むことができます。
> > > > > > そこに行くことが問題であるなら、どのような疑問があるか話してください。話し合いましょう。


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> > > > > 実際の生の場では、社会のシステムの影響が常に働いているでしょうし、実際には感情に振り回されない状態の中で、相手と話し合い、取れる道を探すしかありません。
> > > > > その真正な心の状態とは、自分の思考・感情が働くとき、それに振り回されるのでなく、知覚していて動いている状態です。その時心は静かであり(感受性が研ぎ澄まされている)、咄嗟の対応が飛び出します。これは脳が知識や心理から離れて機能している状態です。知識や心理にとらわれていることに気づいてはっと注意を取り戻すという事が実現すれば、そこから生に飛び込むことができます。
> > > > > そこに行くことが問題であるなら、どのような疑問があるか話してください。話し合いましょう。
> > > >
> > > >
> > > >  職場においては、自我の活動がよく見えるのですが、感覚や感情等々に自己同一化し、ますます自我が強化されていくことが見て取れます。
> > > >
> > > >  年度初めのドタバタの中で、思うようにならない事柄に苛まれているようです。この年齢になっても、想定外の事柄が多々あることを意外に思っています。生は挑戦とはこのことですね。
> > > >
> > > >  そのような中で、妥協せずに行為することが難しい。この妥協せずにとは、クリシュナムルティ理解への取り組みとして妥協したくない。
> > > >
> > > >  しかし、妥協してしまっている私が居ます。
> > >
> > > まだどうもよくわからないのですが、クリシュナムルティ理解への取り組みとして妥協したくないという事がよくわからないのです。Kの実践という意味で妥協したくないという事ですか?
> >
> >
> >  はい。
> >
> >  私の場合、クリシュナムルティの本を読んで理解するにあたり、実践を通してのみ理解に至るようです。
> >
> >
> > > 実践と言っても見る、聞く、知覚している、言い方を変えると、見る、聞く、知覚していることだけがあるという事ですが、その実物を実際に発見することが肝要なのです。例えば、実際に泳げるようになるのと同じで、その内容は言葉で言っても泳げないとピンとわからない感じが残ります。
> >
> >
> >  職場において、見る・聞く・知覚していることが自己同一化を伴っています。
>
> ?、知覚は意識の中に侵入してくるものではないですか?我々はたいてい思考と同一化しています。思考も知覚されていれば、起これば、思っているなと分かります。それで、空が青いな、風が冷たいなと思えば命名があるわけです。そうでなく空が青い、風が冷たい、思考が起こって消える、それを感じる。
> これは哲学的体系の中で言うのではなく、自分に実際に起きることを見て話し合う事をしているわけです。この時思考との同一化は外れています。
>
> この状態はたぶん関心が見ることだけにあって、次に起こることを見たいとというときに起こるのだと思います。相手との対応、こうしたいがない時です。


 『ボームの思考論』でも述べられていますが、感覚さえも思考の縛りを免れえないことが述べられています。知覚も同様です。そこに観察者の観念が投影されるのです。


> > > 実際は我々は自分の思ったようにいかないと、何とかしようと心がもめているのではないでしょうか? そういうことで知覚するだけがあるという状態ではなく、心がいてもめており、エネルギーが消耗されています。実際に思考がちらりと動いても、それが知覚されるだけなら、見ているだけがあり、エネルギーの消耗はありません。
> > > その状態の中で、相手の言う事もわかるし、自分の言うこともわかります。心理的もみ合いなしに対話ができ、納得して事が進みます。
> > > 納得してというのはそういう場が形成されたことがわかるからです。
> > >
> > > そのようにして生じた結論は妥協ではありません、納得しての結果です。
> > >
> > > 自我とは知覚から結論を出すのではなく、心理的にエネルギーが使われ、非難正当化の議論、ひいては対立抗争になることです。その時自我が出現しているのです。苦しみがあります。自分のことなのでわかるはずです。
> >
> >
> >  私の場合、自我が出現しているようです。見る・聴く・知覚することに自己同一化しているので、自我の増大が避けられません。
>
> 見る、聴く、知覚しているが主になっていないで、相手との折衝に心が奪われ、その状態に同一化しているのです。同一化というと話がややこしくなっているのかな、とにかく実際の状態に着目しましょう。


 同一化については、『ブッダとクリシュナムルティ』第一部第二対話:自我のない心の状態はあり得るか? 第二対話:自由意志、行動、愛、そして自己同一化と自我 において詳細に陳述されています。


> > > 相手がそういう状態であるのも、自分が非難正当化なしに見ているなら、ただ相手はこう言っているとわかるだけです。それがあるがままのものが見えているという事です。
> >
> >  私の場合、まだそこまで至っていないようです。
>
> はい。
> 実際は相手を何とか説得しようとか、相手の要求により生じる自分の都合とかがどうしても頭に浮かんでいると思います。それが自我っぽい状態です。
> その状態にあることがその場でわかり、見る、聴くだけがある状態にはいれるといいのですが。
> その状態でいると、こうするしかないなという事実が始めの思惑・願望を超えて見えてきます。思惑願望は執着なしにさらっと消えます。
>
> 執着のある時気づいて切り替わることができ始めれば、それが終わりです。


 その執着が職場ではなかなか切り替われない。失業や家庭崩壊の可能性との絡みが生じています。


> > > >  将来的に、退職すれば、妥協のない生を生きられるのか・・。あるいは、今、ここで妥協のない生を生きられなければ、退職後も同様であるのか・・。
>
> 今できなければ退職後もできないでしょう。


 クリシュナムルティもそう述べることでしょう。


> > > 自分が心理的エネルギーを使わずに見ていれば、後に尾を引くことはないです。妥協という言葉が出てくるときは心理的対立が、こうしたいがあったからだと思います。
> > > 天候だって予報通りにはならないです。人間も話し合って見解が違うなら仕方ないのです。馬に水を飲ますことができないのと同じです。
> > > 私は自分が本当に見、聞き、知覚して、恐怖なしにつまり自由に話すなら、やがて理解し合えると思います。実際に会っていたらですが。
> >
> >
> >  はい。
> >
> > > >  とりあえず、休日はほぼ妥協なく生きているので、将来の退職後に妥協なく生きられることを夢に日々を過ごしている今日この頃です。
> > > >
> > > >
> > > > > そうではなく、そこから先に何が必要か?、これは私の探求です。
> > > >
> > > >
> > > >  まず、クリシュナムルティ理解なしに、どこかへ辿り着くことがありえるのでしょうか。
> > >
> > > 見る、聞く、知覚していることがないとすべてが始まりません。これは確信を持って言えます。意識するしないにかかわらず。
> >
> >
> >  はい。私も同感です。
> >
> > > >  したがって、私の場合は、クリシュナムルティ理解が普及するためには、何が必要か?・・ということが私の探求となるようです。
> > >
> > > 知覚している状態が実現するとき、それは伝搬し始めます。
> >
> >
> >  クリシュナムルティの生前、それは伝搬していったように思います。彼の死後に、それは弱まっているように見受けられます。
>
> いや、実はこの見ることが意外に実現しないという感じがします。Kもそれを感じていたのではないでしょうか。「時間の終焉」を読んでもそう思いました。


 この見る・聞く・知覚するは、感覚や知覚に自己同一化していないか。動機を有して見る・聞く・知覚をしていないか。自由にフラワリングしているか・・等々、多くの要素が絡んでいることがクリシュナムルティによって明らかにされました。

 一筋縄ではいかないことが分かります。

 ただ、静かな場、休日や就寝前後の床の中、等々で意図せずに起こることはあります。渡辺さんは坐禅もその場として有効である旨を述べているようです。


> > > >  今の私の見解としては、太古のバラモンのように、退職後の活動の一つとして、真理探究会としてクリシュナムルティ理解への取り組みができないか・・?と提案したいと思います。
>
> まず、見ることが実現していないと徒労に終わるでしょう。


 見ることが実現していなければ、いかに静かな場、平安な場を有することを多く得ても、それを「暇」として扱うのですね。


> > > >  高齢化社会で3人に一人が高齢者となったとき、その高齢者がクリシュナムルティの達人であったならば、世の中はどうなるのでしょうか。
> > >
> > > 高齢者になったら若い人とは話が通じないことが分かります。
> > > Kの話が通じないという事ではなく、しゃべり言葉も話題も趣味も何もかもが違っています。
> >
> >
> >  親子でも話は半分しか通じないように感じます。孫やひ孫の代では更に通じなくなるのですね。
> >
> >
> >  私の場合、同世代でも、クリシュナムルティの話以外は、通じないというか興味・関心がなく話題についてゆくのが難しく感じています。
> >
> >  クリシュナムルティの面白さに比して、興味・関心を抱けるような代物が見つかりません。これでは話題についてゆけないようです。
> >
> >  私の妥協なくとは以下のようのことです。
> >
> >  『英知の教育』大野純一訳 p206 より引用
> >
> >  教師:葛藤が開花するには、花開き、そして死んでいく自由がなければなりません。しかしちっぽけな精神は、それ自身にその自由を与えることはできません。内なる葛藤は花開き、死ななければならないとあなたはおっしゃる。またこの開花と死は、たったいまそれを調べている最中に起こっているとおっしゃる。が、やっかいなことに、自分がこの開花に何かを投影しているらしく、その投影自体が障害になっているのです。
> >
> >  クリシュナムルティ:それこそは、真の難問なのです。あなたにとって開花は一個の観念です。事実、徴候、原因を見て、それをたったいま開花させようとしないのです。ちっぽけな精神はつねに徴候を扱うだけで、けっして事実を扱おうとしません。それは見出す自由を持っていないのです。それはまさにその卑小さを示すことをしつつあるのです。「それはよい考えだ。それについて考えてみよう」と言って、道に迷ってしまうからです。そのとき、精神は事実ではなく、観念作用を扱ってしまうからです。ちっぽけな精神は「それを開花させて、何が起こるか見てみよう」とは言いません。もしそうすれば発見するでしょうが、しかしそれは「それはよい考えだ。その考えを調べてみる必要がある」と言って、焦点をぼかしてしまうのです。
> >  さて、私たちは実に多くのことを発見しました。まず第一に、私たちが小事に気づいていないということ。それから小事に気づくようになり、今度はそれらに囚われて、「こうしなければならない、そうしなければならない」と言うことです。
> >  徴候に気づき、原因を調べ、そしてその原因を開花させることができるでしょうか?しかし私は、それがある一定の方向に開花することを望みます。ということは、それがどう開花すべきかについての意見をもっていることを意味します。するとそれを追求できるかどうかが私の重大事になるのです。そこで、その原因が花開くことを妨げているのは、欲求不満を開花させたら何が起こるかわからないことへの恐れだと気づきます。そこで今度はなぜ恐れるのかを追求します。私は何を恐れているのだろう?恐怖があるかぎり開花はありえないことがわかります。そこで私は恐怖と取り組まなければなりません――観念としてではなく、事実としてそれに取り組まねばなりません。ということは、恐怖を開花させるようにすることを意味します。恐怖を開花させるようにし、何が起こるかを見てみるのです。これらすべては、とてつもない内面的知覚を必要とします。
> >  恐怖を花開かせるがままにすること――それが何を意味するかわかりますか?それは、もしかしたら自分が失業するかもしれないこと、家庭が崩壊するかもしれないことを意味するのです。
> >  あらゆるものを開花させるがままにすることができるでしょうか?それは殺人や盗みを犯していいという意味ではなく、ただ「あるがまま」をして自ら開花させうるということです!
> >
> >  ― ― ― 以上引用 ― ― ―
> >
> >  私の妥協とは失業したくない、家庭を崩壊させたくないという執着です。
>
> 花開かせるという事は、見る、聴く、知覚するから生まれます。それは観念の追求を捨てることです。


 ナッシングであることですね。


[23776] さみしさ 投稿者:南方 投稿日:2017/05/06(Sat) 18:40  

あなたは、さみしいから恋人が欲しい、セックスがしたいというのですね?さみしさはどこにありますか?どこか外にさみしいというものがありますか?

あなたが、さみしさです。あなたが、さみしさなのに他の誰かがさみしさを無くすことができますか?

よく考えてください。ありきたりの言葉を使わずに。





という課題がKから与えられた。


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