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[23775] Re:[23774] [23771] 真の難問 投稿者:宮啓 投稿日:2017/05/06(Sat) 17:47  

> >  [23768]で引用した文面を「真の難問」のタイトルで渡辺さんの掲示板へ投稿しましたのでお知らせします。
> >
> >  フラワリングと職場でも可能か・・等々の話となっております。
> >
> >  参考:http://6926.teacup.com/mitsuruwatanabe/bbs
> >  [6751]・[6753]・[6756]参照。
> >
> >  ※尚、事後承諾ですみませんが・・、この掲示板でのやりとりを参照として紹介させてもらっています。お許しください。
>
> 拝見しました。
> やり取りは、今それがあなたの問題になっていることは明らかなので、いいですが、この場からの引用は最低限にしておきましょう。


 分かりました。なかなか合議には至らないようなので、これからは、この場からの引用は最小限にいたします。


> 23772からの見ることについての対話が進むといいなと思っています。

 よろこんで、対話を進めることを嬉しく思います。


[23774] Re:[23771] 真の難問 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/06(Sat) 10:31  

>  [23768]で引用した文面を「真の難問」のタイトルで渡辺さんの掲示板へ投稿しましたのでお知らせします。
>
>  フラワリングと職場でも可能か・・等々の話となっております。
>
>  参考:http://6926.teacup.com/mitsuruwatanabe/bbs
>  [6751]・[6753]・[6756]参照。
>
>  ※尚、事後承諾ですみませんが・・、この掲示板でのやりとりを参照として紹介させてもらっています。お許しください。

拝見しました。
やり取りは、今それがあなたの問題になっていることは明らかなので、いいですが、この場からの引用は最低限にしておきましょう。

23772からの見ることについての対話が進むといいなと思っています。


[23773] Re:[23769] [23754] [23752] [23722] [23720] [23717] [23714] [23711] [23709] [23705] 生物とは 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/06(Sat) 10:12  

> > > > どうもオピニオンリーダーが声の大きい、主張、闘争心の強いやつばかりだと碌な討論にならないという事がありはしないでしょうか?
> > >
> > > はい、そうでしょうね。既に「あるべきこと」「こうなって欲しいこと」を抱えていて、それを自分以外の人に認めさせるのが目的なので。いや人によっては論争に勝てさえすれば良いという人もいるでしょうね。
> >
> > ええ、そういう人もいます。どうも男同士だとそうなりがちの面があり、女同士でもそうです。
> > 男と女だとそうでもないですが。。やはり磁石のように極性があって、同極性同士は反発し、異極は引き合うという事かな。
> >
> > しかし、結婚して10年以上たつと、知らず知らずの間に異性の感覚も自分の一部として加わっているようです。男女ともに。
> > 動物でもそのようですよ。
>
> なるほど、そうなんですね。そういう面でも補足し合えるなら異性と共に暮らす意義はかなり大きいんですね。

人間学習能力というのは面白いもんですね。能力が増す、拡がるという事ばかりでなく、それは喜び(胸がジーンと熱くなるような)も与えてくれるのかもしれません。

>
> > > > この間「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」という映画の終りの方だけ見たのですが、アイスランド(人口32万人)の政治の世界では、リーマンショックの折に三つある銀行の二つが取り付け騒ぎになり、女性が怒ってゼネストになり、女性大統領になったそうです。それで代議士も官僚も男女の比率が40〜60%とという比率にする法律ができたそうです。
> > > >
> > > > その理由は女性は実態のあるもので考えうのだそうです。男は実態のない理想や希望で動くのだそうです。それで上記の比率で議論すると雰囲気(=場?)が変わるのだそうです。取り付け騒ぎにならなかった銀行は女性が頭取であったそうです。
> > > > ただし女性が少数ならそれはお飾りか少数派になって意味がないそうです。場の変革がないのかな。これが世界の常識だそうです。日本でこの常識が実現したら世の中少しは変わるだろうと思います。アイスランドの行き先が気になりますね。
> > >
> > > ある程度人数がいないと、というのはやはり多数派の価値観が組織に充満してしまうからでしょうか。
> >
> > そうですね。
(追加。この話にレスくださってうれしかったです。ありがとう)
> >
> > > 「女人悟り難し」でしたっけ?仏教方面だかでそんな言葉があったはずですが、最近では「ノン・デュアリティ(非二元)」という看板で悟りについて語ってらっしゃるリーダー的な方々には女性が多いですね。いや女性の方が多いのかも知れません。
> >
> > そうなんですか、それは頼もしいですね。
(追加です。ノン・デュアリティに関心があります。この観念も世界に広まってほしいと思いますが、これも観念的になってしまうのだろうか?)

> >
> > > それは考え方が男性の方が観念的で女性は実際的だということに関係があるのかもですね。
> >
> > 主婦は家事でいやというほど実際のこまごましたことで気を使っているし、実際に多忙です。身の回りを整えることが好きでもあります。感覚的な快さが好きですねえ。
> > 男は金を稼いだら主婦に渡し、本を読んだり好きなことをしています。観念的ですねえ。碁やへらブナ釣りは観念的でもあるが実証的なところもあって面白いです。
>
> お化粧とか装飾品とか実際の美が重要なのと、それらを実現できる財力やセンスがあるという満足感などは、女性にも両方ありそうですし、男性でも片方だけということはないでしょうね。そう考えると微妙な違いなのかもと思います。

社会的には男女差は縮まってきましたが、子供との結びつきの直接性はかなり強い何かがありますか。

> 葛藤少なく生活するには、観念に実際を合わせようとするよりも実際に観念が従う方が良いのでしょうね。

そうですね。実際の自分のしたいことをしているのですが、自分の中のどこかで嫌がないか見ています。
義務的にするのは大変ですね。そうなるのはその事柄が自分の力量に比して大きすぎる時で、葛藤になります。


[23772] Re:[23768] [23766] [23765] [23764] [23761] [23759] [23757] [23750] [23748] [23746] [23744] [23737] [23736] [23735] [23734] [23733] [23732] [23731] [23723] [23721] [23719] [23718] [23715] [23708] [23706] [23705] 生物とは 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/06(Sat) 08:57  

> > > > 実際の生の場では、社会のシステムの影響が常に働いているでしょうし、実際には感情に振り回されない状態の中で、相手と話し合い、取れる道を探すしかありません。
> > > > その真正な心の状態とは、自分の思考・感情が働くとき、それに振り回されるのでなく、知覚していて動いている状態です。その時心は静かであり(感受性が研ぎ澄まされている)、咄嗟の対応が飛び出します。これは脳が知識や心理から離れて機能している状態です。知識や心理にとらわれていることに気づいてはっと注意を取り戻すという事が実現すれば、そこから生に飛び込むことができます。
> > > > そこに行くことが問題であるなら、どのような疑問があるか話してください。話し合いましょう。
> > >
> > >
> > >  職場においては、自我の活動がよく見えるのですが、感覚や感情等々に自己同一化し、ますます自我が強化されていくことが見て取れます。
> > >
> > >  年度初めのドタバタの中で、思うようにならない事柄に苛まれているようです。この年齢になっても、想定外の事柄が多々あることを意外に思っています。生は挑戦とはこのことですね。
> > >
> > >  そのような中で、妥協せずに行為することが難しい。この妥協せずにとは、クリシュナムルティ理解への取り組みとして妥協したくない。
> > >
> > >  しかし、妥協してしまっている私が居ます。
> >
> > まだどうもよくわからないのですが、クリシュナムルティ理解への取り組みとして妥協したくないという事がよくわからないのです。Kの実践という意味で妥協したくないという事ですか?
>
>
>  はい。
>
>  私の場合、クリシュナムルティの本を読んで理解するにあたり、実践を通してのみ理解に至るようです。
>
>
> > 実践と言っても見る、聞く、知覚している、言い方を変えると、見る、聞く、知覚していることだけがあるという事ですが、その実物を実際に発見することが肝要なのです。例えば、実際に泳げるようになるのと同じで、その内容は言葉で言っても泳げないとピンとわからない感じが残ります。
>
>
>  職場において、見る・聞く・知覚していることが自己同一化を伴っています。

?、知覚は意識の中に侵入してくるものではないですか?我々はたいてい思考と同一化しています。思考も知覚されていれば、起これば、思っているなと分かります。それで、空が青いな、風が冷たいなと思えば命名があるわけです。そうでなく空が青い、風が冷たい、思考が起こって消える、それを感じる。
これは哲学的体系の中で言うのではなく、自分に実際に起きることを見て話し合う事をしているわけです。この時思考との同一化は外れています。

この状態はたぶん関心が見ることだけにあって、次に起こることを見たいとというときに起こるのだと思います。相手との対応、こうしたいがない時です。

>
> > 実際は我々は自分の思ったようにいかないと、何とかしようと心がもめているのではないでしょうか? そういうことで知覚するだけがあるという状態ではなく、心がいてもめており、エネルギーが消耗されています。実際に思考がちらりと動いても、それが知覚されるだけなら、見ているだけがあり、エネルギーの消耗はありません。
> > その状態の中で、相手の言う事もわかるし、自分の言うこともわかります。心理的もみ合いなしに対話ができ、納得して事が進みます。
> > 納得してというのはそういう場が形成されたことがわかるからです。
> >
> > そのようにして生じた結論は妥協ではありません、納得しての結果です。
> >
> > 自我とは知覚から結論を出すのではなく、心理的にエネルギーが使われ、非難正当化の議論、ひいては対立抗争になることです。その時自我が出現しているのです。苦しみがあります。自分のことなのでわかるはずです。
>
>
>  私の場合、自我が出現しているようです。見る・聴く・知覚することに自己同一化しているので、自我の増大が避けられません。

見る、聴く、知覚しているが主になっていないで、相手との折衝に心が奪われ、その状態に同一化しているのです。同一化というと話がややこしくなっているのかな、とにかく実際の状態に着目しましょう。

>
> > 相手がそういう状態であるのも、自分が非難正当化なしに見ているなら、ただ相手はこう言っているとわかるだけです。それがあるがままのものが見えているという事です。
>
>  私の場合、まだそこまで至っていないようです。

はい。
実際は相手を何とか説得しようとか、相手の要求により生じる自分の都合とかがどうしても頭に浮かんでいると思います。それが自我っぽい状態です。
その状態にあることがその場でわかり、見る、聴くだけがある状態にはいれるといいのですが。
その状態でいると、こうするしかないなという事実が始めの思惑・願望を超えて見えてきます。思惑願望は執着なしにさらっと消えます。

執着のある時気づいて切り替わることができ始めれば、それが終わりです。

>
> > >  将来的に、退職すれば、妥協のない生を生きられるのか・・。あるいは、今、ここで妥協のない生を生きられなければ、退職後も同様であるのか・・。

今できなければ退職後もできないでしょう。

> >
> > 自分が心理的エネルギーを使わずに見ていれば、後に尾を引くことはないです。妥協という言葉が出てくるときは心理的対立が、こうしたいがあったからだと思います。
> > 天候だって予報通りにはならないです。人間も話し合って見解が違うなら仕方ないのです。馬に水を飲ますことができないのと同じです。
> > 私は自分が本当に見、聞き、知覚して、恐怖なしにつまり自由に話すなら、やがて理解し合えると思います。実際に会っていたらですが。
>
>
>  はい。
>
> > >  とりあえず、休日はほぼ妥協なく生きているので、将来の退職後に妥協なく生きられることを夢に日々を過ごしている今日この頃です。
> > >
> > >
> > > > そうではなく、そこから先に何が必要か?、これは私の探求です。
> > >
> > >
> > >  まず、クリシュナムルティ理解なしに、どこかへ辿り着くことがありえるのでしょうか。
> >
> > 見る、聞く、知覚していることがないとすべてが始まりません。これは確信を持って言えます。意識するしないにかかわらず。
>
>
>  はい。私も同感です。
>
> > >  したがって、私の場合は、クリシュナムルティ理解が普及するためには、何が必要か?・・ということが私の探求となるようです。
> >
> > 知覚している状態が実現するとき、それは伝搬し始めます。
>
>
>  クリシュナムルティの生前、それは伝搬していったように思います。彼の死後に、それは弱まっているように見受けられます。

いや、実はこの見ることが意外に実現しないという感じがします。Kもそれを感じていたのではないでしょうか。「時間の終焉」を読んでもそう思いました。

>
> > >  今の私の見解としては、太古のバラモンのように、退職後の活動の一つとして、真理探究会としてクリシュナムルティ理解への取り組みができないか・・?と提案したいと思います。

まず、見ることが実現していないと徒労に終わるでしょう。

> > >  高齢化社会で3人に一人が高齢者となったとき、その高齢者がクリシュナムルティの達人であったならば、世の中はどうなるのでしょうか。
> >
> > 高齢者になったら若い人とは話が通じないことが分かります。
> > Kの話が通じないという事ではなく、しゃべり言葉も話題も趣味も何もかもが違っています。
>
>
>  親子でも話は半分しか通じないように感じます。孫やひ孫の代では更に通じなくなるのですね。
>
>
>  私の場合、同世代でも、クリシュナムルティの話以外は、通じないというか興味・関心がなく話題についてゆくのが難しく感じています。
>
>  クリシュナムルティの面白さに比して、興味・関心を抱けるような代物が見つかりません。これでは話題についてゆけないようです。
>
>  私の妥協なくとは以下のようのことです。
>
>  『英知の教育』大野純一訳 p206 より引用
>
>  教師:葛藤が開花するには、花開き、そして死んでいく自由がなければなりません。しかしちっぽけな精神は、それ自身にその自由を与えることはできません。内なる葛藤は花開き、死ななければならないとあなたはおっしゃる。またこの開花と死は、たったいまそれを調べている最中に起こっているとおっしゃる。が、やっかいなことに、自分がこの開花に何かを投影しているらしく、その投影自体が障害になっているのです。
>
>  クリシュナムルティ:それこそは、真の難問なのです。あなたにとって開花は一個の観念です。事実、徴候、原因を見て、それをたったいま開花させようとしないのです。ちっぽけな精神はつねに徴候を扱うだけで、けっして事実を扱おうとしません。それは見出す自由を持っていないのです。それはまさにその卑小さを示すことをしつつあるのです。「それはよい考えだ。それについて考えてみよう」と言って、道に迷ってしまうからです。そのとき、精神は事実ではなく、観念作用を扱ってしまうからです。ちっぽけな精神は「それを開花させて、何が起こるか見てみよう」とは言いません。もしそうすれば発見するでしょうが、しかしそれは「それはよい考えだ。その考えを調べてみる必要がある」と言って、焦点をぼかしてしまうのです。
>  さて、私たちは実に多くのことを発見しました。まず第一に、私たちが小事に気づいていないということ。それから小事に気づくようになり、今度はそれらに囚われて、「こうしなければならない、そうしなければならない」と言うことです。
>  徴候に気づき、原因を調べ、そしてその原因を開花させることができるでしょうか?しかし私は、それがある一定の方向に開花することを望みます。ということは、それがどう開花すべきかについての意見をもっていることを意味します。するとそれを追求できるかどうかが私の重大事になるのです。そこで、その原因が花開くことを妨げているのは、欲求不満を開花させたら何が起こるかわからないことへの恐れだと気づきます。そこで今度はなぜ恐れるのかを追求します。私は何を恐れているのだろう?恐怖があるかぎり開花はありえないことがわかります。そこで私は恐怖と取り組まなければなりません――観念としてではなく、事実としてそれに取り組まねばなりません。ということは、恐怖を開花させるようにすることを意味します。恐怖を開花させるようにし、何が起こるかを見てみるのです。これらすべては、とてつもない内面的知覚を必要とします。
>  恐怖を花開かせるがままにすること――それが何を意味するかわかりますか?それは、もしかしたら自分が失業するかもしれないこと、家庭が崩壊するかもしれないことを意味するのです。
>  あらゆるものを開花させるがままにすることができるでしょうか?それは殺人や盗みを犯していいという意味ではなく、ただ「あるがまま」をして自ら開花させうるということです!
>
>  ― ― ― 以上引用 ― ― ―
>
>  私の妥協とは失業したくない、家庭を崩壊させたくないという執着です。

花開かせるという事は、見る、聴く、知覚するから生まれます。それは観念の追求を捨てることです。


[23771] 真の難問 投稿者:宮啓 投稿日:2017/05/06(Sat) 08:29  

 [23768]で引用した文面を「真の難問」のタイトルで渡辺さんの掲示板へ投稿しましたのでお知らせします。

 フラワリングと職場でも可能か・・等々の話となっております。

 参考:http://6926.teacup.com/mitsuruwatanabe/bbs
 [6751]・[6753]・[6756]参照。

 ※尚、事後承諾ですみませんが・・、この掲示板でのやりとりを参照として紹介させてもらっています。お許しください。


[23770] Re:[23767] 優しい山 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/06(Sat) 07:27  

> 桜島は久かたぶりに、ここ数年と噴火していなかったが、今は灰が舞っている。灰色の町とはこういうもので、どこか幻想的である。
>
> 灰は名物だが、住んでいるものにとっては、ありがた迷惑なものである。
>
> あぁ、このざらざらした感じが嫌だと、ぶつくさ言う。
>
> 不快感を感じる。抵抗が始まる。どうにかして、この灰をと。
> それを、感じ取ってか桜島は沈黙をしていてくれたのかもしれない。
>
> やさしい山である。
>
> 観察者と観察されるものは同じである。桜島の噴火は私たちの何を物語るのか。
>
> 気象庁や大学教授の説明に耳を傾けるのも悪くはないが、噴火と私たちの在りかたを重ね合わせてみるのも、たまにはいいかもしれない。

櫻島とその近傍はそういう自然と付き合っていらっしゃるのですね。世界はずいぶん幅の広い気候・風土を持ち、我々はその大部分に分布して住んでいるのですね。

私は都会にいて、自然との触れ合いが少なく、テレビで触れあっています。月に数回ヘラブナ釣りに行くと一応自然の中に浸っています。なんか落ち着きますね。

人間同士の触れ合いも自然との触れ合いにほかなりませんが、どうもぎくしゃくし勝ちなのはなんなんでしょうね。

灰との付き合いも大変でしょうが、ムカデとの付き合いも大変です。しかしこれは双方が学習すると見えてこの頃は住み分けができたようです。熊との住み分けは、この頃少し狂ってきたようです。そういう地域の方は大変ですね。


[23769] Re:[23754] [23752] [23722] [23720] [23717] [23714] [23711] [23709] [23705] 生物とは 投稿者:想念狂 投稿日:2017/05/06(Sat) 00:41  

> > > どうもオピニオンリーダーが声の大きい、主張、闘争心の強いやつばかりだと碌な討論にならないという事がありはしないでしょうか?
> >
> > はい、そうでしょうね。既に「あるべきこと」「こうなって欲しいこと」を抱えていて、それを自分以外の人に認めさせるのが目的なので。いや人によっては論争に勝てさえすれば良いという人もいるでしょうね。
>
> ええ、そういう人もいます。どうも男同士だとそうなりがちの面があり、女同士でもそうです。
> 男と女だとそうでもないですが。。やはり磁石のように極性があって、同極性同士は反発し、異極は引き合うという事かな。
>
> しかし、結婚して10年以上たつと、知らず知らずの間に異性の感覚も自分の一部として加わっているようです。男女ともに。
> 動物でもそのようですよ。

なるほど、そうなんですね。そういう面でも補足し合えるなら異性と共に暮らす意義はかなり大きいんですね。


> > > この間「マイケル・ムーアの世界侵略のススメ」という映画の終りの方だけ見たのですが、アイスランド(人口32万人)の政治の世界では、リーマンショックの折に三つある銀行の二つが取り付け騒ぎになり、女性が怒ってゼネストになり、女性大統領になったそうです。それで代議士も官僚も男女の比率が40〜60%とという比率にする法律ができたそうです。
> > >
> > > その理由は女性は実態のあるもので考えうのだそうです。男は実態のない理想や希望で動くのだそうです。それで上記の比率で議論すると雰囲気(=場?)が変わるのだそうです。取り付け騒ぎにならなかった銀行は女性が頭取であったそうです。
> > > ただし女性が少数ならそれはお飾りか少数派になって意味がないそうです。場の変革がないのかな。これが世界の常識だそうです。日本でこの常識が実現したら世の中少しは変わるだろうと思います。アイスランドの行き先が気になりますね。
> >
> > ある程度人数がいないと、というのはやはり多数派の価値観が組織に充満してしまうからでしょうか。
>
> そうですね。
>
> > 「女人悟り難し」でしたっけ?仏教方面だかでそんな言葉があったはずですが、最近では「ノン・デュアリティ(非二元)」という看板で悟りについて語ってらっしゃるリーダー的な方々には女性が多いですね。いや女性の方が多いのかも知れません。
>
> そうなんですか、それは頼もしいですね。
>
> > それは考え方が男性の方が観念的で女性は実際的だということに関係があるのかもですね。
>
> 主婦は家事でいやというほど実際のこまごましたことで気を使っているし、実際に多忙です。身の回りを整えることが好きでもあります。感覚的な快さが好きですねえ。
> 男は金を稼いだら主婦に渡し、本を読んだり好きなことをしています。観念的ですねえ。碁やへらブナ釣りは観念的でもあるが実証的なところもあって面白いです。

お化粧とか装飾品とか実際の美が重要なのと、それらを実現できる財力やセンスがあるという満足感などは、女性にも両方ありそうですし、男性でも片方だけということはないでしょうね。そう考えると微妙な違いなのかもと思います。

葛藤少なく生活するには、観念に実際を合わせようとするよりも実際に観念が従う方が良いのでしょうね。


[23768] Re:[23766] [23765] [23764] [23761] [23759] [23757] [23750] [23748] [23746] [23744] [23737] [23736] [23735] [23734] [23733] [23732] [23731] [23723] [23721] [23719] [23718] [23715] [23708] [23706] [23705] 生物とは 投稿者:宮啓 投稿日:2017/05/05(Fri) 21:45  

> > > 実際の生の場では、社会のシステムの影響が常に働いているでしょうし、実際には感情に振り回されない状態の中で、相手と話し合い、取れる道を探すしかありません。
> > > その真正な心の状態とは、自分の思考・感情が働くとき、それに振り回されるのでなく、知覚していて動いている状態です。その時心は静かであり(感受性が研ぎ澄まされている)、咄嗟の対応が飛び出します。これは脳が知識や心理から離れて機能している状態です。知識や心理にとらわれていることに気づいてはっと注意を取り戻すという事が実現すれば、そこから生に飛び込むことができます。
> > > そこに行くことが問題であるなら、どのような疑問があるか話してください。話し合いましょう。
> >
> >
> >  職場においては、自我の活動がよく見えるのですが、感覚や感情等々に自己同一化し、ますます自我が強化されていくことが見て取れます。
> >
> >  年度初めのドタバタの中で、思うようにならない事柄に苛まれているようです。この年齢になっても、想定外の事柄が多々あることを意外に思っています。生は挑戦とはこのことですね。
> >
> >  そのような中で、妥協せずに行為することが難しい。この妥協せずにとは、クリシュナムルティ理解への取り組みとして妥協したくない。
> >
> >  しかし、妥協してしまっている私が居ます。
>
> まだどうもよくわからないのですが、クリシュナムルティ理解への取り組みとして妥協したくないという事がよくわからないのです。Kの実践という意味で妥協したくないという事ですか?


 はい。

 私の場合、クリシュナムルティの本を読んで理解するにあたり、実践を通してのみ理解に至るようです。


> 実践と言っても見る、聞く、知覚している、言い方を変えると、見る、聞く、知覚していることだけがあるという事ですが、その実物を実際に発見することが肝要なのです。例えば、実際に泳げるようになるのと同じで、その内容は言葉で言っても泳げないとピンとわからない感じが残ります。


 職場において、見る・聞く・知覚していることが自己同一化を伴っています。


> 実際は我々は自分の思ったようにいかないと、何とかしようと心がもめているのではないでしょうか? そういうことで知覚するだけがあるという状態ではなく、心がいてもめており、エネルギーが消耗されています。実際に思考がちらりと動いても、それが知覚されるだけなら、見ているだけがあり、エネルギーの消耗はありません。
> その状態の中で、相手の言う事もわかるし、自分の言うこともわかります。心理的もみ合いなしに対話ができ、納得して事が進みます。
> 納得してというのはそういう場が形成されたことがわかるからです。
>
> そのようにして生じた結論は妥協ではありません、納得しての結果です。
>
> 自我とは知覚から結論を出すのではなく、心理的にエネルギーが使われ、非難正当化の議論、ひいては対立抗争になることです。その時自我が出現しているのです。苦しみがあります。自分のことなのでわかるはずです。


 私の場合、自我が出現しているようです。見る・聴く・知覚することに自己同一化しているので、自我の増大が避けられません。


> 相手がそういう状態であるのも、自分が非難正当化なしに見ているなら、ただ相手はこう言っているとわかるだけです。それがあるがままのものが見えているという事です。

 私の場合、まだそこまで至っていないようです。


> >  将来的に、退職すれば、妥協のない生を生きられるのか・・。あるいは、今、ここで妥協のない生を生きられなければ、退職後も同様であるのか・・。
>
> 自分が心理的エネルギーを使わずに見ていれば、後に尾を引くことはないです。妥協という言葉が出てくるときは心理的対立が、こうしたいがあったからだと思います。
> 天候だって予報通りにはならないです。人間も話し合って見解が違うなら仕方ないのです。馬に水を飲ますことができないのと同じです。
> 私は自分が本当に見、聞き、知覚して、恐怖なしにつまり自由に話すなら、やがて理解し合えると思います。実際に会っていたらですが。


 はい。

> >  とりあえず、休日はほぼ妥協なく生きているので、将来の退職後に妥協なく生きられることを夢に日々を過ごしている今日この頃です。
> >
> >
> > > そうではなく、そこから先に何が必要か?、これは私の探求です。
> >
> >
> >  まず、クリシュナムルティ理解なしに、どこかへ辿り着くことがありえるのでしょうか。
>
> 見る、聞く、知覚していることがないとすべてが始まりません。これは確信を持って言えます。意識するしないにかかわらず。


 はい。私も同感です。

> >  したがって、私の場合は、クリシュナムルティ理解が普及するためには、何が必要か?・・ということが私の探求となるようです。
>
> 知覚している状態が実現するとき、それは伝搬し始めます。


 クリシュナムルティの生前、それは伝搬していったように思います。彼の死後に、それは弱まっているように見受けられます。


> >  今の私の見解としては、太古のバラモンのように、退職後の活動の一つとして、真理探究会としてクリシュナムルティ理解への取り組みができないか・・?と提案したいと思います。
> >
> >  高齢化社会で3人に一人が高齢者となったとき、その高齢者がクリシュナムルティの達人であったならば、世の中はどうなるのでしょうか。
>
> 高齢者になったら若い人とは話が通じないことが分かります。
> Kの話が通じないという事ではなく、しゃべり言葉も話題も趣味も何もかもが違っています。


 親子でも話は半分しか通じないように感じます。孫やひ孫の代では更に通じなくなるのですね。


 私の場合、同世代でも、クリシュナムルティの話以外は、通じないというか興味・関心がなく話題についてゆくのが難しく感じています。

 クリシュナムルティの面白さに比して、興味・関心を抱けるような代物が見つかりません。これでは話題についてゆけないようです。

 私の妥協なくとは以下のようのことです。

 『英知の教育』大野純一訳 p206 より引用

 教師:葛藤が開花するには、花開き、そして死んでいく自由がなければなりません。しかしちっぽけな精神は、それ自身にその自由を与えることはできません。内なる葛藤は花開き、死ななければならないとあなたはおっしゃる。またこの開花と死は、たったいまそれを調べている最中に起こっているとおっしゃる。が、やっかいなことに、自分がこの開花に何かを投影しているらしく、その投影自体が障害になっているのです。

 クリシュナムルティ:それこそは、真の難問なのです。あなたにとって開花は一個の観念です。事実、徴候、原因を見て、それをたったいま開花させようとしないのです。ちっぽけな精神はつねに徴候を扱うだけで、けっして事実を扱おうとしません。それは見出す自由を持っていないのです。それはまさにその卑小さを示すことをしつつあるのです。「それはよい考えだ。それについて考えてみよう」と言って、道に迷ってしまうからです。そのとき、精神は事実ではなく、観念作用を扱ってしまうからです。ちっぽけな精神は「それを開花させて、何が起こるか見てみよう」とは言いません。もしそうすれば発見するでしょうが、しかしそれは「それはよい考えだ。その考えを調べてみる必要がある」と言って、焦点をぼかしてしまうのです。
 さて、私たちは実に多くのことを発見しました。まず第一に、私たちが小事に気づいていないということ。それから小事に気づくようになり、今度はそれらに囚われて、「こうしなければならない、そうしなければならない」と言うことです。
 徴候に気づき、原因を調べ、そしてその原因を開花させることができるでしょうか?しかし私は、それがある一定の方向に開花することを望みます。ということは、それがどう開花すべきかについての意見をもっていることを意味します。するとそれを追求できるかどうかが私の重大事になるのです。そこで、その原因が花開くことを妨げているのは、欲求不満を開花させたら何が起こるかわからないことへの恐れだと気づきます。そこで今度はなぜ恐れるのかを追求します。私は何を恐れているのだろう?恐怖があるかぎり開花はありえないことがわかります。そこで私は恐怖と取り組まなければなりません――観念としてではなく、事実としてそれに取り組まねばなりません。ということは、恐怖を開花させるようにすることを意味します。恐怖を開花させるようにし、何が起こるかを見てみるのです。これらすべては、とてつもない内面的知覚を必要とします。
 恐怖を花開かせるがままにすること――それが何を意味するかわかりますか?それは、もしかしたら自分が失業するかもしれないこと、家庭が崩壊するかもしれないことを意味するのです。
 あらゆるものを開花させるがままにすることができるでしょうか?それは殺人や盗みを犯していいという意味ではなく、ただ「あるがまま」をして自ら開花させうるということです!

 ― ― ― 以上引用 ― ― ―

 私の妥協とは失業したくない、家庭を崩壊させたくないという執着です。


[23767] 優しい山 投稿者:南方 投稿日:2017/05/05(Fri) 16:14  

桜島は久かたぶりに、ここ数年と噴火していなかったが、今は灰が舞っている。灰色の町とはこういうもので、どこか幻想的である。

灰は名物だが、住んでいるものにとっては、ありがた迷惑なものである。

あぁ、このざらざらした感じが嫌だと、ぶつくさ言う。

不快感を感じる。抵抗が始まる。どうにかして、この灰をと。
それを、感じ取ってか桜島は沈黙をしていてくれたのかもしれない。

やさしい山である。

観察者と観察されるものは同じである。桜島の噴火は私たちの何を物語るのか。

気象庁や大学教授の説明に耳を傾けるのも悪くはないが、噴火と私たちの在りかたを重ね合わせてみるのも、たまにはいいかもしれない。


[23766] Re:[23765] [23764] [23761] [23759] [23757] [23750] [23748] [23746] [23744] [23737] [23736] [23735] [23734] [23733] [23732] [23731] [23723] [23721] [23719] [23718] [23715] [23708] [23706] [23705] 生物とは 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/04(Thu) 15:13  

> > 実際の生の場では、社会のシステムの影響が常に働いているでしょうし、実際には感情に振り回されない状態の中で、相手と話し合い、取れる道を探すしかありません。
> > その真正な心の状態とは、自分の思考・感情が働くとき、それに振り回されるのでなく、知覚していて動いている状態です。その時心は静かであり(感受性が研ぎ澄まされている)、咄嗟の対応が飛び出します。これは脳が知識や心理から離れて機能している状態です。知識や心理にとらわれていることに気づいてはっと注意を取り戻すという事が実現すれば、そこから生に飛び込むことができます。
> > そこに行くことが問題であるなら、どのような疑問があるか話してください。話し合いましょう。
>
>
>  職場においては、自我の活動がよく見えるのですが、感覚や感情等々に自己同一化し、ますます自我が強化されていくことが見て取れます。
>
>  年度初めのドタバタの中で、思うようにならない事柄に苛まれているようです。この年齢になっても、想定外の事柄が多々あることを意外に思っています。生は挑戦とはこのことですね。
>
>  そのような中で、妥協せずに行為することが難しい。この妥協せずにとは、クリシュナムルティ理解への取り組みとして妥協したくない。
>
>  しかし、妥協してしまっている私が居ます。

まだどうもよくわからないのですが、クリシュナムルティ理解への取り組みとして妥協したくないという事がよくわからないのです。Kの実践という意味で妥協したくないという事ですか?

実践と言っても見る、聞く、知覚している、言い方を変えると、見る、聞く、知覚していることだけがあるという事ですが、その実物を実際に発見することが肝要なのです。例えば、実際に泳げるようになるのと同じで、その内容は言葉で言っても泳げないとピンとわからない感じが残ります。

実際は我々は自分の思ったようにいかないと、何とかしようと心がもめているのではないでしょうか? そういうことで知覚するだけがあるという状態ではなく、心がいてもめており、エネルギーが消耗されています。実際に思考がちらりと動いても、それが知覚されるだけなら、見ているだけがあり、エネルギーの消耗はありません。
その状態の中で、相手の言う事もわかるし、自分の言うこともわかります。心理的もみ合いなしに対話ができ、納得して事が進みます。
納得してというのはそういう場が形成されたことがわかるからです。

そのようにして生じた結論は妥協ではありません、納得しての結果です。

自我とは知覚から結論を出すのではなく、心理的にエネルギーが使われ、非難正当化の議論、ひいては対立抗争になることです。その時自我が出現しているのです。苦しみがあります。自分のことなのでわかるはずです。

相手がそういう状態であるのも、自分が非難正当化なしに見ているなら、ただ相手はこう言っているとわかるだけです。それがあるがままのものが見えているという事です。

>
>  将来的に、退職すれば、妥協のない生を生きられるのか・・。あるいは、今、ここで妥協のない生を生きられなければ、退職後も同様であるのか・・。

自分が心理的エネルギーを使わずに見ていれば、後に尾を引くことはないです。妥協という言葉が出てくるときは心理的対立が、こうしたいがあったからだと思います。
天候だって予報通りにはならないです。人間も話し合って見解が違うなら仕方ないのです。馬に水を飲ますことができないのと同じです。
私は自分が本当に見、聞き、知覚して、恐怖なしにつまり自由に話すなら、やがて理解し合えると思います。実際に会っていたらですが。

>
>  とりあえず、休日はほぼ妥協なく生きているので、将来の退職後に妥協なく生きられることを夢に日々を過ごしている今日この頃です。
>
>
> > そうではなく、そこから先に何が必要か?、これは私の探求です。
>
>
>  まず、クリシュナムルティ理解なしに、どこかへ辿り着くことがありえるのでしょうか。

見る、聞く、知覚していることがないとすべてが始まりません。これは確信を持って言えます。意識するしないにかかわらず。

>
>  したがって、私の場合は、クリシュナムルティ理解が普及するためには、何が必要か?・・ということが私の探求となるようです。

知覚している状態が実現するとき、それは伝搬し始めます。

>  今の私の見解としては、太古のバラモンのように、退職後の活動の一つとして、真理探究会としてクリシュナムルティ理解への取り組みができないか・・?と提案したいと思います。
>
>  高齢化社会で3人に一人が高齢者となったとき、その高齢者がクリシュナムルティの達人であったならば、世の中はどうなるのでしょうか。

高齢者になったら若い人とは話が通じないことが分かります。
Kの話が通じないという事ではなく、しゃべり言葉も話題も趣味も何もかもが違っています。


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