雑感
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> > > カオスとはどう意味だろう。水は流体=カオスで、氷は秩序ある固体で、摂氏0度はカオスの縁と言うらしいが。予測がつかないんだそうです。
> > >
> >
> >
> > ここでのカオスとは人が一般的に決めたカオスではなくて、自分がそうと認識する、思考とそれに伴う行動を観察して、自分がカオスだと認識する、という意味に置いてのカオスです。


自分がカオスと認識する、そのカオスとは何を意味しているのだろう。混とん、無秩序、予測不能も入れていいだろうか?

>
>
> 本で読みましたが、昔、大陸に白人が来たとき、カナダインディアンは
> 「白い人がきたあとは、砂漠しか残らないだろう。なぜなら、彼らの技術は自然と一体ではなく、隔離されたものだからだ」と予言したそうです。
>
> 鹿児島でも市内は公園がちらほら、見渡す限りビルか家。自然と一体とは程遠い。
>
> BSでイギリス女王が、庭園を作るにあたって、フランスでは自然を支配することが権力の象徴として、幾何学模様だったのにたいし、森そのままの姿に近づけようとしたそうです。
>
> 公園で木々や花と会話する感性を忘れてしまった。そういう意味でも、今はカオスでしょうね。


今の人間、あるいは人間社会、特に大きい都会では自然と離れている感じで、人は自然を恋しがります。

昔小さな庭に桜の苗木をもらって植えた。何年後か花が咲き、花吹雪を散らすようになった。夏には大空に枝を張り、葉陰をつくるようになった。胸が痛くなるようないとおしさ。
だが小さな家の庭では無理です。結局切らざるを得ない。

私だけでなくて近所の家に大きなにせアカシアの木があって、初夏には毎年たくさんの白い花を咲かせ、若葉とともに楽しませてもらった。しかし、やはり無理で専門家が切るところを見る羽目になった。
しかし歩いて5分のところにスーパーもコンビニも駅もある都会の便利さは老人にとってありがたいものです。
なんか矛盾していますね。

カオスには宇宙発生前の混とんと、今の世にある混沌があるが、今の世の混沌とは何なのだろう。


[23890] Re:[23886] 見るに入る 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/23(Tue) 17:05  

> > >  「見るに入る」とはゴトさんの言葉です。
> >
> > 見ることに入るは、新しい芽さんが時たま言われていたことです。それを唱道するという事ではなく、さりげなくおっしゃることがあったという事です。で、もちろん私はそれを核心と感じていました。
>
> 「見る」ことと、「見るに入る」とは、どう違うのですか?
> 「見る」というのは、今までのあなたの言われたことをまとめると、「見る」「聞く」「知覚する」。いわゆる人の基本的な機能です。
>  新しい芽流にいうと、「見えている」「聞こえている」「気づいている」
>  それのことと「見るに入る」とは、どう違うのか?

ここは微妙なところですが、今はそこまで言葉に気を使うとしんどいので、気の向くままに書いています。あまり気にしないでください。

>  私の疑問は「見る」「聞く」「知覚する」というだけで
は、わかりづらく、そういうことは、人がいつもやっていることではないでしょうか。それとKのいう「見る」というのは、どう違うのか、という説明が足りません。

説明が足りないという事には全く同感です。だれのこころにもふれてわがひろがるようなりかいがほしいとおもいます。

>  一般の人は「見る」だけであって、「見るに入る」ということはやってない。そういうことですか?

何というか、問題が起こるその肝心の場面で見ないという事です。肝心なところに行き当たった時に見ることをしない、見ることに入らない。そこはどう言っても構いません。

>  それで「見るに入る」というのは、具体的にどういうことですか?

現在は多くの人が習慣的に、肝心の時に見ることをやめて、感情的になってしまいます。簡単なことです。


> > そしてこの板でそう話しています。それは私の責任ですが、そう言いたくはありません。そんなことは忘れて一生懸命話していたいです。
>
>  「見る」という説明よりも一生懸命話したい?

責任という事でなく、この肝心な時に見るという事柄を分かち合いたい、共にしたい。


> > >  この「見るに入る」と「方向を変える」は同義ではないでしょうか。
> >
> > その通りです。
>
>  方向を変える? ここにきてわからない言葉が出てきました。
>  どこから、どっちの方向に変えるのですか?

慣習的に動いている方向以外ならどの方向でもいいから、とにかく変える。と言うか、今までの方向だけには行かない。
肝心な時に見つづけ、感情に走らない。

> > >  そして、これは個人に起こるのではないでしょうか。
>
> 個人に起こる?
> 知覚は人の基本的機能であり、「個人」だけに起こるものではないでしょう。人全員に起きるものです。そもそも「起きる」という表現が妙。
> 具わっている。備わっている。生まれた時から。
> あなた個人に起きて、私個人に起きるというものではない。
> 人全員に備わっている。基本的な知覚機能。五感。

もちろん見る機能は人間にも動物にも備わっている機能です。
しかし、肝心な時に見るのをやめないで続けるというのは、そこに気づいた特定の個人から一人一人始まるでしょうという事。

> > もちろん。しかし、それは宇宙の創造の一部でもあります。
>
> ?
> 創造?
> どのようにその言葉を使っているのでしょうか?例えば神が宇宙を創造したとか。

いや、神が宇宙を創造したのではなく、宇宙がこの地球に生物から始まり、人類を創り、KやKを取り巻く人を創り、新しい芽さんの読書会を創り、私たちが聴いたという全体を、宇宙の創造と言っています。

> クリシュナムルティが、もし創造という言葉を使うとき、どのように使うのでしょうか。

目的がない、予定がない、動機がない、欲望に基づかない、達成・成果がない。時間の中にいない。不断の開花、そんなところでしょうか。


[23889] Re:[23870] [23869] [23867] [23861] [23850] [23846] [23845] [23843] [23840] [23830] [23826] [23819] バンザイ! 投稿者:南方 投稿日:2017/05/23(Tue) 13:41  


> >
> > カオスとはどう意味だろう。水は流体=カオスで、氷は秩序ある固体で、摂氏0度はカオスの縁と言うらしいが。予測がつかないんだそうです。
> >
>
>
> ここでのカオスとは人が一般的に決めたカオスではなくて、自分がそうと認識する、思考とそれに伴う行動を観察して、自分がカオスだと認識する、という意味に置いてのカオスです。
>
>



本で読みましたが、昔、大陸に白人が来たとき、カナダインディアンは
「白い人がきたあとは、砂漠しか残らないだろう。なぜなら、彼らの技術は自然と一体ではなく、隔離されたものだからだ」と予言したそうです。

鹿児島でも市内は公園がちらほら、見渡す限りビルか家。自然と一体とは程遠い。

BSでイギリス女王が、庭園を作るにあたって、フランスでは自然を支配することが権力の象徴として、幾何学模様だったのにたいし、森そのままの姿に近づけようとしたそうです。

公園で木々や花と会話する感性を忘れてしまった。そういう意味でも、今はカオスでしょうね。


[23888] Re:[23884] [23882] [23881] [23880] [23877] [23872] [23868] [23863] [23860] [23859] [23858] [23856] [23854] [23849] [23844] [23842] [23839] [23838] [23837] [23835] [23832] [23827] [23819] バンザイ! 投稿者:宮啓 投稿日:2017/05/23(Tue) 11:53  

> >  「見るに入る」とはゴトさんの言葉です。
>
> 見ることに入るは、新しい芽さんが時たま言われていたことです。それを唱道するという事ではなく、さりげなくおっしゃることがあったという事です。で、もちろん私はそれを核心と感じていました。
> そしてこの板でそう話しています。それは私の責任ですが、そう言いたくはありません。そんなことは忘れて一生懸命話していたいです。
>
> >
> >  この「見るに入る」と「方向を変える」は同義ではないでしょうか。
>
> その通りです。
>
> >
> >  そして、これは個人に起こるのではないでしょうか。
>
> もちろん。しかし、それは宇宙の創造の一部でもあります。
>
> 昔中学校で雨の日、体育の時間でしたが、クラスよりもっと人数が多かった気がしますが、体育館をぐるぐると列を組んで行進しました。
> かなり長い時間を歩かされましたが、すると後半になって一人一人の歩きがよくなり、リズム感が生まれ、さっさっとした歩調で気持ちよく歩けました。今思うとシンクロが生じたのでしょうか。
> つまり個人は、個人のようで、個人と言い切れない何かでもあるようです。
>
> この件は私の方があなたの意を読み取れないで見当はずれのようなことを言っていたかもしれません。ともかくこんなことでもないと言えないことが出た、出せたという気がします。
> どうもありがとう。


 はい。宇宙的とか、個人とか、おおげさなことではなく、すぐそこにある、手の届く事柄として述べました。

 偶発的な「見るに入る」を除けば、宇宙の働きなしに「見るに入る」「方向を変える」はないように思われます。

 個人的な事柄ではなく宇宙的な事柄。

 個人的な成果や達成ではなく、宇宙的な成果や達成。

 個人と宇宙を分けられない、個人と社会を分けられない・・。


[23887] Re:[23883] [23879] [23874] 命名 投稿者:ゴト 投稿日:2017/05/23(Tue) 11:33  

> > >  命名しているという事実がわかればいいのではないですか。嫌な奴がいるとき、自分が「嫌な」と命名している。事実はそこに人がいるだけ。
> >
> > なぜ「嫌な」と分類、命名するのだろう? 対処(少なくとも警戒)の必要があるからかな。それならそれで意味があるが…、最初の原始的感情とは不穏さの察知なのか。不穏さの察知は英知だろう。リアルな感覚。
>
> 「嫌なもの」とは過去の経験記憶からくるものと生理的なもの、感覚的なものからくるものもあるようです。
>  食べ物を例にとると、過去一度も口にしないのに,見ただけで食べられないとか。
>  フランスのエスカルゴ料理は、「日本のカタツムリ」を連想してしまい食べられませんでした。ようするにゲテものは苦手です。豚足、豚の耳など。
>  納豆も食べられませんでした。あのネバネバが苦手。ネバーギブアップです。子供の頃の青っ鼻を連想してしてしまう。ようするに鼻たれ小僧をイメージする。
>  これもイメージの為せる業でしょうか。
>  人間関係もそうです。この人はどうも苦手。ウマがどうしてもあわないというのがある。これは感覚的なものでしょうか。
>  若いとき、見た目の印象だけで、女性に嫌われたことがある。これなど生理的なものでしょうか。よくわからない。初対面で「過去の記憶」と言われてもピンときません。印象?

初対面ではある意味、注意しながら接するでしょう。感覚で相手の品定めをする。表面には出さないで。
それはそれで注意深いのでしょう。その後がどうなるか。

> > >  記号、レッテルは自分が貼付けている。判断評価推理をしている自分がいる。そこに感情がからむとやっかい。

まあ、言い方ひとつで誤解を招いたりもするし、コーヒーをこぼしたりするかもしれない。するとどう思ったり、思われたりするか。人間てドジだから。

> > そこで分別し、言葉化するとき、リアルさが消え、レッテルが感情を誘発するのだろうか?
>  文字ドウリ、同一化とは言葉と一体化している姿。そこから感情が誘発する。人から「馬鹿」と言われれば、すぐさま人は反応する。「馬鹿」という意味を知っているからです。意味がわからなければ人は反応しませんね。何それって感じ。
>  心の達人と言われる人は、意味はもちろんわかるが、意味に反応しない人のことをいうのだろうか。
>  例えば、馬鹿と言われ、すぐさま反応するのではなく、逆に尋ねる。どうしてそのような言葉を使うのか、と。

あるいはきょとんとしたり、、だが察しの付く場合もあるでしょう。いろいろでしょうね。

> > >  そこにはっきり思考を聞いていると感情は増幅しない。同一化しない。ここが画期的なところではないですか。
> >
> > 確かに。レッテルで置換することなくリアルな不穏さに注意深く臨む。理に適っている。画期的ともいえるが、わかれば普通ともいえる。
>
>  あなたは「見る」ことは画期的ではなく普通と言われるのだろうか。この画期的という言葉は、実は新しい芽氏から借用した言葉です。氏は、どのようなときに画期的なことなのかは、忘れたしまいましたが、あなたはご存知ですか。どういうことか画期的なのか。

普段我々は例えば横断するとき、交通信号を見ています。――普通。
おまえば馬鹿だと言われたとき、そこではっきりと思考を聞いている。――画期的。

>  「見る」「聞く」「知覚する」これだとあまりにも当たり前のような気がする。それでは何が画期的なのだろうか。
>  たんに同一化しない?

心理的なイメージが作り出され、実態を離れて動き出そうとするとき、それがはっきり見、聴き、感じられているなら画期的ではないでしょうか?(だが縁のなかった人には、それが残念ながら分からない)


> > 分類することは言葉化以前に、つまり素早くなされる。そうでなければ食われてしまうかもしれない。そこでライオンに気づけばすぐ行為が起こる。逃げたり、隠れたり、戦闘態勢をとったり。
>
>  人も動物も程度の差があれ、「危険」を察知すると「注意の状態」になります。注意の体勢になる。思考が入る隙間がない。これが「全注意」。ジャングルの中を想像してみましょう。いつ襲ってるか気の休まる暇はない。
>  この注意の状態とは、車の運転と同じで、緊張状態を伴います。うっかり考えると事故に遭う(歩道でもよそ見すると自転車にぶつかります)
>  Kのいう「注意の状態」(awareness) とは、さっき言った(警戒の)状態とはまったく逆で、すべてを受け入れている状態だと思います(受動的)。といって弛緩(リラックス)の状態ではなく、いわば「ニュートラル」の状態。頭脳にスムーズにエネルギーが流れている状態。一点の曇りのない状態。エネルギーが滞ってない状態。思考に囚われるとエネルギーが停滞します。いいアイデアは得られません。
>
> >
> > しかし人間同士だとそんなに慌てる必要はないので分別が先に立つ習慣ができたのか。それで英知の声は感じ取る間もなく、分別に進行してしまうのか?感情的こだわりの始まり。

ここで使った分別という語は命名に換えた方がよいかな。つまり観念の発生となる。

>  Kがいうには、人間というのは心理的思考には、まったく注意を払わないということです。外の猛獣には気をつけるが。内部の猛獣には注意を払わない。いわば野放し。
>  心理的思考が、実はもっとも大きな危険物。そのことを認識する人は、ほとんどいない。何故ならそれらは快楽を保証するから、手放せないものになる。快は不快を伴う。それでも人はそれらを求める。あまりにも心地よいので。不快を得るとさらに快へ。
>
>  アメリカと北朝鮮。互いに「面子」(メンツ)の争い。「権勢欲」剥き出し。
> それらはいずれ「自滅」の方向へ。そういったことを彼らは自覚しない。敵は外部でなく内にある。
>
>  こうして世の中の動きを外部から眺めると、世の中の動きが「滑稽」に見える。(たとえば今、国会でやってること)しかし、いざ当事者になると「ドツボ」にはまる。徹底的に自分を守る(保身)。
>  もし、私が公務員ならそうなるでしょう。組織から離れたくないので。

最後に難しい問題が出てきたな。これをイメージ抜きに見るのはとても難しい。
北朝鮮はブッシュ(子)が悪の枢軸と名付けてから生き延びることを真剣に考えてきたと思う。
そして核弾頭とICBMを持つことが生存の唯一の道だと見定めて進んできた。日本が進んだ過去の道とあまりにも似通っている。それをやめたら、世界が友好的な態度をとるとは、彼らはとても信じられないだろう。彼らは粛々と進んでいき、どうにかなんるだろう。


[23886] 見るに入る 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/05/23(Tue) 10:13  

> >  「見るに入る」とはゴトさんの言葉です。
>
> 見ることに入るは、新しい芽さんが時たま言われていたことです。それを唱道するという事ではなく、さりげなくおっしゃることがあったという事です。で、もちろん私はそれを核心と感じていました。

「見る」ことと、「見るに入る」とは、どう違うのですか?
「見る」というのは、今までのあなたの言われたことをまとめると、「見る」「聞く」「知覚する」。いわゆる人の基本的な機能です。
 新しい芽流にいうと、「見えている」「聞こえている」「気づいている」
 それのことと「見るに入る」とは、どう違うのか?

 私の疑問は「見る」「聞く」「知覚する」というだけでは、わかりづらく、そういうことは、人がいつもやっていることではないでしょうか。それとKのいう「見る」というのは、どう違うのか、という説明が足りません。
 一般の人は「見る」だけであって、「見るに入る」ということはやってない。そういうことですか?
 それで「見るに入る」というのは、具体的にどういうことですか?

> そしてこの板でそう話しています。それは私の責任ですが、そう言いたくはありません。そんなことは忘れて一生懸命話していたいです。

 「見る」という説明よりも一生懸命話したい?
>
> >
> >  この「見るに入る」と「方向を変える」は同義ではないでしょうか。
>
> その通りです。

 方向を変える? ここにきてわからない言葉が出てきました。
 どこから、どっちの方向に変えるのですか?
>
> >
> >  そして、これは個人に起こるのではないでしょうか。

個人に起こる?
知覚は人の基本的機能であり、「個人」だけに起こるものではないでしょう。人全員に起きるものです。そもそも「起きる」という表現が妙。
具わっている。備わっている。生まれた時から。
あなた個人に起きて、私個人に起きるというものではない。
人全員に備わっている。基本的な知覚機能。五感。
>
> もちろん。しかし、それは宇宙の創造の一部でもあります。


創造?
どのようにその言葉を使っているのでしょうか?例えば神が宇宙を創造したとか。
クリシュナムルティが、もし創造という言葉を使うとき、どのように使うのでしょうか。




[23885] シュタイナー 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/05/23(Tue) 09:52  

 KB会の掲示板で、ルドルフ・シュタイナーについて述べている箇所があったので紹介します。Kのいうこととどう違うのだろうか?  
 シュタイナーというのはKと同じ神智学出身。何かとKと比較される。名前はよく聞くが,本を詳しく読んだことがない。以下を読んでシュタイナーはそういうこと言ってるのかと思った次第。このシュタイナーの本は今でも本屋で平積みにされ、シュタイナー教育を提唱するシュタイナー学校が神奈川の藤野にある。あれから40年、クリシュナムルティは普及の面でだいぶ差をつけられたようだ。ある本屋では、Kの本「片隅からの自由」が、一冊本棚の片隅に置かれているだけである。シュタイナーやラジネーシは、今でも平積みがされている。広報を怠ったツケがここに表れている。
 それはどうあれ私がシュタイナーを、今イチ好きでないのは、以下のように「霊」という言葉がさかんに出てくるからである。原文はスピリットなのだろうか。ソウルなのだろうか。

引用  人間死んだらどうなるかの説明

 神智学〜人智学のシュタイナーですが、人が亡くなったあとについてこんな風に書いています。ちょっと長いですが引用済みません:

「いま霊となった人間は霊の形成する諸力を現実として体験する。そこにいる思考存在の中には、彼自身の肉体的本性の思考内容もまた存在する。人はこの肉体的本性から離れている自分を感じる。霊的存在だけが自分に属すると感じられる。そして自分の遺体をもはや物質としてではなく、記憶の中でのように、思考存在として見るとき、その遺体は明らかにすでに外界に属するものとして目の前に現れる。人は自分の肉体を外界の一部分として、外界に属する或る物として、考察することを学ぶ。
 もはや、自分の体的本性を、自分の自我に親和したものとは考えず、したがってそれを他の外界から区別しようとはしなくなる。外界全体の中に、自分がこの世で受けてきた身体をも含めて、ひとつの統一性を感じるようになる。自分の受けてきた体も、周囲の世界と一つに融合するのである。このように、物質的、身体的現実の諸現像を、自らもそれに属していた統一体として観ることによって、人は環境と自分との親和と統一を次第に学び取る。人は自分に向って今ここでお前のまわりにひろがっているものは、かつてはお前自身であったのだ、ということを学ぶ。」

 つまり、ここに書かれていることは悟りのようなものであり、自分という物質体が無くなり、自分が外界と一つであったと気づきただ一つの命だけがある、という事に目覚める過程です。

 さらにシュタイナーはこう書いています:

「しかし、こういうとき、それは古代インドのヴェーダンタの叡智の根本思想のひとつを語ったことになる。『賢者』はすでにこの世の生活の中で、他の者が死後体験するところのものを、即ち自分自身が一切万物と同質のものだという思想を、『これは汝に他ならない』という思想を、自分のものにしているのである。この思想は地上生活においては思考生活の努力目標であるが、『霊たちの世界』においては、霊的経験を通してますます明瞭になるひとつの直接的事実なのである。」(高橋巌訳)




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>  「見るに入る」とはゴトさんの言葉です。

見ることに入るは、新しい芽さんが時たま言われていたことです。それを唱道するという事ではなく、さりげなくおっしゃることがあったという事です。で、もちろん私はそれを核心と感じていました。
そしてこの板でそう話しています。それは私の責任ですが、そう言いたくはありません。そんなことは忘れて一生懸命話していたいです。

>
>  この「見るに入る」と「方向を変える」は同義ではないでしょうか。

その通りです。

>
>  そして、これは個人に起こるのではないでしょうか。

もちろん。しかし、それは宇宙の創造の一部でもあります。

昔中学校で雨の日、体育の時間でしたが、クラスよりもっと人数が多かった気がしますが、体育館をぐるぐると列を組んで行進しました。
かなり長い時間を歩かされましたが、すると後半になって一人一人の歩きがよくなり、リズム感が生まれ、さっさっとした歩調で気持ちよく歩けました。今思うとシンクロが生じたのでしょうか。
つまり個人は、個人のようで、個人と言い切れない何かでもあるようです。

この件は私の方があなたの意を読み取れないで見当はずれのようなことを言っていたかもしれません。ともかくこんなことでもないと言えないことが出た、出せたという気がします。
どうもありがとう。



[23883] Re:[23879] [23874] 命名 投稿者:外野(ガイヤ) 投稿日:2017/05/22(Mon) 19:40  

> >  命名しているという事実がわかればいいのではないですか。嫌な奴がいるとき、自分が「嫌な」と命名している。事実はそこに人がいるだけ。
>
> なぜ「嫌な」と分類、命名するのだろう? 対処(少なくとも警戒)の必要があるからかな。それならそれで意味があるが…、最初の原始的感情とは不穏さの察知なのか。不穏さの察知は英知だろう。リアルな感覚。

「嫌なもの」とは過去の経験記憶からくるものと生理的なもの、感覚的なものからくるものもあるようです。
 食べ物を例にとると、過去一度も口にしないのに,見ただけで食べられないとか。
 フランスのエスカルゴ料理は、「日本のカタツムリ」を連想してしまい食べられませんでした。ようするにゲテものは苦手です。豚足、豚の耳など。
 納豆も食べられませんでした。あのネバネバが苦手。ネバーギブアップです。子供の頃の青っ鼻を連想してしてしまう。ようするに鼻たれ小僧をイメージする。
 これもイメージの為せる業でしょうか。
 人間関係もそうです。この人はどうも苦手。ウマがどうしてもあわないというのがある。これは感覚的なものでしょうか。
 若いとき、見た目の印象だけで、女性に嫌われたことがある。これなど生理的なものでしょうか。よくわからない。初対面で「過去の記憶」と言われてもピンときません。印象?
>
> >  記号、レッテルは自分が貼付けている。判断評価推理をしている自分がいる。そこに感情がからむとやっかい。
>
> そこで分別し、言葉化するとき、リアルさが消え、レッテルが感情を誘発するのだろうか?
 文字ドウリ、同一化とは言葉と一体化している姿。そこから感情が誘発する。人から「馬鹿」と言われれば、すぐさま人は反応する。「馬鹿」という意味を知っているからです。意味がわからなければ人は反応しませんね。何それって感じ。
 心の達人と言われる人は、意味はもちろんわかるが、意味に反応しない人のことをいうのだろうか。
 例えば、馬鹿と言われ、すぐさま反応するのではなく、逆に尋ねる。どうしてそのような言葉を使うのか、と。
>
> >  そこにはっきり思考を聞いていると感情は増幅しない。同一化しない。ここが画期的なところではないですか。
>
> 確かに。レッテルで置換することなくリアルな不穏さに注意深く臨む。理に適っている。画期的ともいえるが、わかれば普通ともいえる。

 あなたは「見る」ことは画期的ではなく普通と言われるのだろうか。この画期的という言葉は、実は新しい芽氏から借用した言葉です。氏は、どのようなときに画期的なことなのかは、忘れたしまいましたが、あなたはご存知ですか。どういうことか画期的なのか。
 「見る」「聞く」「知覚する」これだとあまりにも当たり前のような気がする。それでは何が画期的なのだろうか。
 たんに同一化しない?
>
> 分類することは言葉化以前に、つまり素早くなされる。そうでなければ食われてしまうかもしれない。そこでライオンに気づけばすぐ行為が起こる。逃げたり、隠れたり、戦闘態勢をとったり。

 人も動物も程度の差があれ、「危険」を察知すると「注意の状態」になります。注意の体勢になる。思考が入る隙間がない。これが「全注意」。ジャングルの中を想像してみましょう。いつ襲ってるか気の休まる暇はない。
 この注意の状態とは、車の運転と同じで、緊張状態を伴います。うっかり考えると事故に遭う(歩道でもよそ見すると自転車にぶつかります)
 Kのいう「注意の状態」(awareness) とは、さっき言った(警戒の)状態とはまったく逆で、すべてを受け入れている状態だと思います(受動的)。といって弛緩(リラックス)の状態ではなく、いわば「ニュートラル」の状態。頭脳にスムーズにエネルギーが流れている状態。一点の曇りのない状態。エネルギーが滞ってない状態。思考に囚われるとエネルギーが停滞します。いいアイデアは得られません。

>
> しかし人間同士だとそんなに慌てる必要はないので分別が先に立つ習慣ができたのか。それで英知の声は感じ取る間もなく、分別に進行してしまうのか?感情的こだわりの始まり。

 Kがいうには、人間というのは心理的思考には、まったく注意を払わないということです。外の猛獣には気をつけるが。内部の猛獣には注意を払わない。いわば野放し。
 心理的思考が、実はもっとも大きな危険物。そのことを認識する人は、ほとんどいない。何故ならそれらは快楽を保証するから、手放せないものになる。快は不快を伴う。それでも人はそれらを求める。あまりにも心地よいので。不快を得るとさらに快へ。

 アメリカと北朝鮮。互いに「面子」(メンツ)の争い。「権勢欲」剥き出し。
それらはいずれ「自滅」の方向へ。そういったことを彼らは自覚しない。敵は外部でなく内にある。

 こうして世の中の動きを外部から眺めると、世の中の動きが「滑稽」に見える。(たとえば今、国会でやってること)しかし、いざ当事者になると「ドツボ」にはまる。徹底的に自分を守る(保身)。
 もし、私が公務員ならそうなるでしょう。組織から離れたくないので。


[23882] Re:[23881] [23880] [23877] [23872] [23868] [23863] [23860] [23859] [23858] [23856] [23854] [23849] [23844] [23842] [23839] [23838] [23837] [23835] [23832] [23827] [23819] バンザイ! 投稿者:宮啓 投稿日:2017/05/22(Mon) 18:42  

> > > >  ここで述べられている主題は、「責務」についてではなく、「個人」、例えばクリシュナムルティが到達したとした場合に、それは「個人」ひとりの事柄ではなく、宇宙の事柄のように思えるのです。
> > > >
> > > >  ゴトさんは、ここまで来れたことについて、そのように感じないでしょうか。
> > >
> > > 「宇宙的出来事」―― すべては宇宙的出来事でもあるし、500年か何千年に一度の稀有な出来事が「宇宙的出来事」とも言えるし…。
> > >
> > > どっちかと言えば稀有な出来事という意味でしょうね。カエルの鳴き声なんかではなく。
> > > 私についてはそのような形容は「ごめんなして」です。
> > > Kの出現はそれなりの意義があるでしょう。でも私たちがそれを生かさなければせっかくの意義も後世に譲ることになります。そのように形容する意味は何だろう?
> > >
> > > 創造的に生きる人、未知へフラワリグンしていく人、目的もないし予測も元々不可能な創造!
> > > すべては宇宙的出来事かもしれませんが、私はそういう意識を持つことはありません。
> > >
> > > どうもあなたの思いをよく理解していないようですが、ともかく私の反応を書きました。
> >
> >
> >  叙述は難しいですね。
> >
> >  特にクリシュナムルティ特有の用語を用いるとなれば、なおさら・・。
> >
> >  ゴトさんの>それは個人がどこまで行くか、行ったかという問題ではないでしょうに。−−
> >
> >  このコメントが、今、ゴトさんが関心を有している、社会に何が必要か・・?、これに関わることとして、>それは個人がどこまで行くか、行ったかという問題ではないでしょうに。−−と、ゴトさんがコメントしたのか・・と受け取りました。
>
> はい。社会を形成している個人がどこまで行くか、行ったかに注目するなら、それは見当違いであると私は考えています。
>
> >
> >  それに対して、私の個人的な応答として、個人がどこまで行くか、行ったか・・これが大きく関わってくると感じていたので、私の体験を叙述したのですが、なかなか伝わらないことが分かりました。
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> 私たちの責任はKのようになる、つまりコロンブスやエジソンみたいになることではなく、ただ、今まで進んでいた方向を変えるだけのことです。
> 今では誰でも大西洋を渡り、夜には電灯をつけます。コロンブスやエジソンのような偉人や天才であることとは無関係です。
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> >  叙述は伝わるときには伝わるし、そうでないときはなかなかなので、逸れてしまいます。
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> >  逸れるのであれば叙述は控えようと思っています。
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> それも見当違いではないでしょうか?
> 私がコロンブスやエジソンの例をあげて、責任という言葉も使って、大事なことはただ方向を変えるとことだと言いました。
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> これが違うという事であれば、ぜひ言葉であなたの思うところを伝えてください。これはKの言う事の根本的なところに触れているし、Kの否定していた権威や個人崇拝につながるかもしれない問題であると思うので話し合っておきたいのです。
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> 私がこのようにがたがた言うのは、いろいろな人たちとの関係の湯船の中から生まれ出てきた、ささやかではあるがカエルの鳴き声のごとき宇宙的出来事、宇宙の創造の一駒かもしれません。それはその通りです。
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> 私は方向を変えるという事の内包する意味をもっとはっきりと自分に提示したいのです。それに向かって自分なりに探求しています。哲学や現代思想や脳科学や複雑系等々を調べるのはそのためです。
> 別にKをほったらかしにしているわけではないですよ。凡才なので道に迷うかもしれませんが。
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> 宇宙的出来事は着々と開花しているのだから心配するなという事であればその通りですね。


 「見るに入る」とはゴトさんの言葉です。

 この「見るに入る」と「方向を変える」は同義ではないでしょうか。

 そして、これは個人に起こるのではないでしょうか。


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