雑感
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[24293] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/25(Fri) 18:41  

おちんちんは罪作りじゃないでしょうか?

ドピュッの一発で、子供をはらませ、そのあとの多大な努力も必要となるのです。




[24292] Re:[24291] [24290] [24289] 無題 投稿者:南方 投稿日:2017/08/25(Fri) 18:19  

>>いじめた記憶が痛い?
> > だとしたらこのコメントはなに?
>
> ツイッターみてて思ったこと。むかし、不細工な女の子に宇宙人って言って傷つけて悪かったなぁと。思い出した。


そうだったんすね。僕はてっきりサイコパスとして社会に相手にされない憤りかと思ってました。
失礼しました。


[24291] Re:[24290] [24289] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/25(Fri) 18:04  

> > よくインターネット上で見かける罵倒やいきがりが、少年時代、理不尽ないじめをしたものが支持をえる卑猥さとあまり違わない。
>
>
> ここの掲示板で、あなたはいじめられっ子?いじめっ子?
> どちらでもない?
> いじめられた記憶が痛い?いじめた記憶が痛い?
> もう忘れた?
> だとしたらこのコメントはなに?

ツイッターみてて思ったこと。むかし、不細工な女の子に宇宙人って言って傷つけて悪かったなぁと。思い出した。


[24290] Re:[24289] 無題 投稿者:南方 投稿日:2017/08/25(Fri) 16:32  

> よくインターネット上で見かける罵倒やいきがりが、少年時代、理不尽ないじめをしたものが支持をえる卑猥さとあまり違わない。


ここの掲示板で、あなたはいじめられっ子?いじめっ子?
どちらでもない?
いじめられた記憶が痛い?いじめた記憶が痛い?
もう忘れた?
だとしたらこのコメントはなに?


[24289] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/25(Fri) 13:53  

よくインターネット上で見かける罵倒やいきがりが、少年時代、理不尽ないじめをしたものが支持をえる卑猥さとあまり違わない。


[24288] Re:[24280] [24279] [24277] [24276] [24253] 愚さんの言葉 投稿者:外野 投稿日:2017/08/25(Fri) 10:47  


> > > 日常生活の中で、判断・解釈なしに(ただ)見ている、聴いている、知覚している。そこから行為が出る。
> >
> >  ですから、具体的にどういうことですか。見る聞くなら、だれでもやってます。それと何が違うの?
>
>
> {判断・解釈なしに(ただ)}見ている、聴いている、知覚している。この{ }の中の言葉をあなたは無視して、見る、聴くなら誰でもやっているという。この{ }の中はそれほど簡単ではないです。

 花を見ている、ということは、ただ見ているのではないですか。
 花を見ているとき、思考がああだこうだ言ってみていますか。
 ただ感じるだけではないですか。
 こういうことはみなやってます。
「花」は象徴的な意味で使いました。対象は何でもいい。
 目に見えるもの、聞こえるものは即座です。
 ところが座禅や瞑想のように、対象が心の中だと、たやすいことではない。つまりは観る。内観。経験者が知っている。
 目に瞑ってる状態でもむずかしいのに、クリシュナムルティは日常で、それをやれという。生活即瞑想。
 座禅の体験者はお手上げとなる。禅をやる人は、生活即瞑想(禅)は理想。まず出来る範囲からやるという。
 そこで、何のためにこういうことをやるか。目的をはっきりさせないと挫折する。「ただ座る」は究極の境地。

 それであなたの言葉に戻る。

 簡単ではないと言われるが、それだと訓練になるでしょう。
 難しい事柄に挑戦することは訓練になる。
 踊りやダンスなどのお稽古ごと。即座ではない。時間はかかる。
 私も「ビバサナ」と言われる気づきのトレーニングを受けたことがある。日常がスローになる。これでは生活していけない。

 あなたのいう「ただ見る」は、何故簡単ではないのかという疑問が浮かびます。
>
> それは本当に重大な時こそ、判断なしに見ることが必要なのであって、では普段はどうでもいいというわけではありませんが、何というか、注意はおのずとされているようになるのです。

 都合のいい時に、気づきは起こるのですか?普段は注意しなくても。
 それだと、イエスや飯尾氏のスタンスと違いますね。
 イエス氏曰く、「自身の想念に寝ずの番人をせよ」
 飯尾氏曰く  「自分の思考は信用しない」
 両者に共通するのは、いつ心が暴君になるかもしれないので、常に見張るということです。
 クリシュナムルティが思考を危険分子とみなしているのと共通

 (注 「新しい芽」というサイトはなくなりましたので、実名の飯尾氏にします。訳者で本が公開されているからです)

>Kの本を関心を持って読んでいれば自ずとそうなります。

 Kの本を読むと、都合のいいときに「気づき」と起こると。ふと?
 あなたのスタンスがよくわかりました。違いが明確になったようです。
>
> それからそれを持続するという事をひどく重視していますが、それは達成願望にとらわれています。(ゲームのように勝ったり負けたりしながら進んでいけばいいとKが言っています)。

 達成願望というのは思考の世界でしょう。そうではなく、Kのいうのは24時間見続ける。ということであり、それには初めも終わりもないということです。達成したら『終わり」ということではない。
 24時間というのは象徴的な意味で使ったので、実際は起きてから寝るまです。Kの言わせれば無理をせず、できる範囲でやる。文字ドウリぼとぼちと。
 たいていの人は、「何のためにやってるのか馬鹿馬鹿しくなった」と挫折するのが大半。
 ある人曰く、人里離れた一人暮らしなら可能かも知れません。人と多く関わり合う社会では不可能。それこそ鉄の意志がいる。たぶん飯尾氏は、やりとげたのでしょう。想像ですが。本人は一切語ることはない。
>
> > > やり始めのうちは、実際はそうはいかないで種々の反応が出てくる。それもできるだけ心のうちで見ている。そのようにただ見、聴き、知覚している状態が聖なる全体です。

 結局、少しずつできるようになる。ということですか?だからボチボチ。
 「全体」というのは、思考での滞りが起きていないこと。
> >
> >  やはり「見る」ことを実践するということですか。あきらめずに。
>
> そう言うと従来の伝統と同じになってしまいます。そこに成り行こうとする過程が入っているのです。努力と挫折の過程です。

 それで、肩に力を入れず、気負わずにボチボチと。気楽に。

> そのことが、だれかが言ったからではなく、自ずと自分のこととして見いだされると理解があります――それがが理解です。

 自己理解。
>
> > >
> > > 私の言う事はこれに尽きます。
> >
> >  はい。ぼとぼちあせらずに。

 ぼちぼち。使わせてもらいました。亀の歩みみたいですね。
> > >
> > > 蛇足で言えば、心理的思考の創り出すゆがみは果てしなく増殖して世界に混乱を生んでいます。これは世界の人が気づいて何とかしなければならない課題です。
 何であなたが何とかしようと思うのですか。あなたは救世主ですか。

> > > さもなければ人間社会はバベルの塔のように崩れ落ちるでしょう。

 いいじゃないですか。別に。
> >
> >  何でいつも世界のことを心配するのか。憂うのか。私など身の周りの雑事をこなすだけでせいいっぱい。
>
> ようやく周りのことが見えだしてきたからかな。心配しているのではないですが。
 世界の起きていることというのは、所詮情報でしょう。新聞テレビからの。自分でみたわけではない。それで一喜一憂してもしょうがない。北朝鮮のミサイルでビクビクしているようなもの。それより自分の生活でしす。いや終活。
残る時間一つ一つが貴重になっていく。
>
> > >
> > > もう一つ、大乗仏教は哲学的発展の上に出来上がっています。それで思考で理解するにも修業が、時間がかかります。下手をすると頭でっかちになります。禅は日本で一番発展したと言っていいものですが、なお結構難しい古典的な述語があります。
> >
> >  仏教を勉強しましたか。
>
> まあ、ある程度読んでいます。

 寓さんの掲示板で仏教の知識が得られます。結構みな博識。愚さんはそれら難しい言葉を蹴飛ばして、優しい言葉で示唆をする。これには感心しました、必ずしも禅やクリシュナムルティ一辺等ではありません。矛盾があればそこをつく。両者とも身体面の言及がないと。心一点張りではなく人間は心身両面あり。
>
> > > Kは術語を使わず、日常単語で話しています。その語に深い意味がないとは言いませんが、そこは読む人が感じ取っていくしかありません。
> > > 大いに感じましょう。

感じとる?
言葉の意味をとらえるのが先です。感じ取るのというのなら自然からです。木々、草花いわゆる生命の息吹。書をすて街を出よう。
クリシュナムルティや飯尾氏の自然描写は秀逸。
> >
> > どうも「信念」をお持ちのようですね。これしかないと。人が何いようとこれでいく。
>
> 私は独学ではありませんよ。Kの本を読んだし、新しい芽さんに教わっています。F氏にもです。まさかグルめぐりをしなければだめだとおっしゃるのではないでしょうね。

 高橋氏、森本氏、大野氏、渡辺氏、藤仲氏、飯尾氏など翻訳の重鎮の方々。これらの人はグルではありません。Kを翻訳されているので、ある程度わかっているものと思われます。飯尾氏一人ではなく、各氏から話を聞くことです。すると何らかの気づきを得られると思います。表に出ない裏側の話とか。
 F氏はユニークな人物ですが、後半につれ、「神懸かり」な言動が増え、閉口しました。彼はヒーラーの素質があると自らいっていました。ちょっとKかたはずれます。


[24287] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/25(Fri) 10:20  


自由とは深さだ。どんな不快なものにも入っていける自在さなんだ。


[24286] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/25(Fri) 10:04  


「空」は何ものも頼まず
マハムドラーは何ものにも依らず
また労せず
ただゆったりと自然であることによりて
人はくびきを打ち壊し
解脱を手の内にするなり

もし中空を見つめて何も見ず
そのとき心をもって心を観ずれば
人は差別を打ち破り
ブッダフッドに至るなり

空をさまよう雲には
根もなくまた家もなし
分別の思いの
心を漂いよぎるもまたしかり
ひとたび「自性心」の見らるることあらば
識別は止まん

空間に象と彩の生ずることあれど
そは黒白に染まらず
万物は「自性心」より出で
しかも心は善悪に汚さるることなし

長き時ふる暗闇も
灼熱の陽を覆うこと能わず
カルパにわたるサムサーラ(輪廻)も
「心」のまばゆい光を隠すことを得ず

「空」を説くに言葉の語らるることあれど
「空」そのものは表わされ得ず
”「心」は輝ける光のごとし”と言うも
そはすべての言葉とシンボルを超越せり
本質に於いて空なれど
「心」は万物を抱き、そして容るるなり

からだに於いては何もせずにくつろがせ
口を堅く結びて沈黙を守り
心を空しくして何ものも思わざれ
中空の竹のごと汝のからだをくつろがせ
与えずまた取らず、汝の心を休ませよ
マハムドラーは何ものにも執着せざる心のごとし
かくのごとく行ずるによりて
やがて汝はブッダフッドに至らん

真言、波羅蜜多の行
経文、訓戒の示すところ
宗門、聖典の教えも
甚深の真理の実現をもたらすことなし
欲望に満たされし心の
目標を追わざるを得ざれば
そはただ光を隠すのみなるがゆえに

いまだ識別を離れずしてタントラ教理を持する者
サマヤの精神にそむくなり
すべての行動を止め、すべての欲望を避けよ
あらしめよ、思考の
大海の波のごとく浮き沈むがままに
たえて無安住と
並びに無差別の原理をそこなわざる者
タントラ教理をささげ持つなり

切望を避け
かれこれに執着せざる者
聖典の真意を知るなり
マハムドラーに於いて、人の持つ一切の罪は焼かれ
マハムドラーに於いて
人はこの世の獄より解き放たれん
これぞダルマの至高の灯なり
そを疑う者
とこしえに不幸と悲しみにのたうつ愚者なり

解脱を目ざすにあたり
人はグルに依るべし
汝の心がその祝福を受くるとき
解放は間近なり

ああ、この世のすべては無意味にして
ただ悲しみの種子なるばかりなり
小さき教えは行ないへといざなえば
人はただ大いなる教えにのみ従うべし

二元性を越ゆるは王の見地
散乱を征服するは王者の行
行なき道こそすべてのブッダたちの道なり
その道を踏むもの、ブッダフッドに至らん

はかなきかなこの世
幻や夢のごと、そは実体を持たず
そを捨てて血縁を断てよ
欲望と憎しみの糸を切り
山林にありて瞑想せよ
労なくして
ゆったりと「自然なる境地」にとどまるならば
間もなく汝はマハムドラーにたどり着き
無達成なるものを達成せん

木の根を断たば葉は枯れん
汝の心の根を断たばサムサーラは崩れん
いかなる灯の光も一瞬にして
長きカルパの闇を払う
心の強き光ただ一閃なれど
無知なるヴェールを焼かん

心に執着せる者の
心を越えたる真理を見ることなく
ダルマを行ぜんと求むる者の
行を越えたる真理を見いだすことなし
心と行をふたつながら越えたるものを知らんには
人はきっぱりと心の根を断ち切りて
裸眼をもちて見つむべし
しかして人は一切の差別を打ち破り
くつろぎにとどまるべし

与えず、また取らず
人はただ自然のままにあるべし
マハムドラーはすべての容認と拒絶を越えたるがゆえに
もとよりアラヤの生ずることあらざれば
誰もそを妨げ汚すこと能わず
不出生の境界にありて
すべてのあらわれはダルマタへと溶解し
自己意志と傲慢は無の中に消滅せん

至高の理解は
かれこれの一切を超越し
至高の行為は
執着なくして大いなる機知を抱く
至高の成就とは
望みなくして内在を知ることなり

はじめヨーギは
おのが心の滝のごとく転落するを感じ
中ほどにてはガンガーのごと
そはゆるやかにやさしく流れ
ついに、そは大いなる海なり
息子と母の光がひとつに溶け合うところ


[24285] 愚さンの対話 投稿者:外野 投稿日:2017/08/25(Fri) 09:17  

愚さんと南方さんの対話、参考になりました。
思わず「なるほど」と膝をたたきました。まさに腑に落ちる。

「でも、あえて言わせてもらえれば、そこには強烈な経験はありまえんが、みんな一つだという実感があり安らぎを覚えるのも事実です。」

「 一つだという実感を求めちゃダメなんです。
 そうじゃなくて、分離しているという感覚に 注意するわけです。
 無理がないでしょ?
 そして、この分離しているという感覚と、その感覚を感じる主体が最初は別れているのですが 注意しているうちに、感覚しかなくなります。
 すると、感覚が消えます。そのとき、おのずからひとつになります。」






[24284] 無題 投稿者:vaamana 投稿日:2017/08/24(Thu) 23:37  

クリシュナムルティが面白いこと言ってる。『道徳教育を超えて』の中で。あれはいい本だ、一度読め。その中で、あるアメリカ人のヒッピーの女の子と対話したことについて書いてある。そのヒッピーの女の子っていうのは、ある男と結婚して、子供ができた。で、別れて。当然だ、今の時代じゃ。折れるっていうことを知らないから。で、彼女はラマ僧か何かになった。子持ちのね。そしてクリシュナムルティが聞くんだ。君の子供をどうしたの? そしたら、ネパールのヒッピーコミューンに預けたというんだ。それで、クリシュナムルティが言うんだ。それはとても恐ろしいことじゃない? だって母親の愛情が全然通わないじゃないか! そしたら彼女は言うんだ。神様が守ってくれるだろうって。馬鹿言っちゃいけない! いい? 自分の子供を自分が育てて自分が愛さなかったら、一体誰が愛するんだ? 神っていうのは、自分の愛するっている行為の中に流れているそのものなんだぞ! それを怖がりもしないなんていうのは、全然逆だ。それは宗教でも何でもない。自分が守るんだ! だって子供は願ってるじゃないか。自分の母親がいつも自分のことを気にかけてくれることを。放っておいたら神様が何とかやってくれる? (笑い)人間のトリックだ、自我がでっち上げた。放っておいたら神様が何とかやってくれるっていう風に言えるまでにはね、君たちが全身全霊でその問題にあたって、その不安や、その嘆きや、その緊張や、その努力や、それを全部舐めた後だ。そしたら、放っておくなんて言う必要もないくらい、やってくれる。


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