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[26139] Re:[26136] 不思議な共感作用 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/26(Fri) 22:04  

> 人と思い切り争って喧嘩したとき、人とお互いに、言いたいことを言い合って、出しあったとき、そのあと、不思議な共感作用に包まれたことはないだろうか。憎しみから親しみへの転換である。

思い切り言い合ったので、蓄積した思いを吐き出し、一種の浄化が行われたのだろうか。しかし思いを蓄積すること自体がやまったわけではないので、また相手に積もった思いをぶちまけるのでははた迷惑ではないだろうか。

> しかし、言いたいことは言えるのは親友と呼べる一部の人たちだけである。会社でも、学校ではもちろん、家庭、家族であっ てでも、言いたいことを言えるような間柄ではない。
> 例えば、こういうことをいうと、相手が傷つくのではないかと。
> 人は人に嫌われたくないという思いをもっている。つまり「いい人」を装うことが習慣になっている。
> ですから、人は思い切り喧嘩をすることはない。仲直りもない。
> 嫌いな奴は嫌いな奴で終わりである。それもイメージとは気づかずに。
>
> あるエンカウンターの集まりで、見知らぬ男女が集まり、一週間の合宿を行なったことがあった。初めては、ばり罵倒、悪口の応酬。お互い言いたいことが言えると楽になったのか、最後は不思議な共感が生まれ、別れるときは、互いに号泣する有様だ。あまりに変わりようにびっくり。みんな仲良く人類皆兄弟という感じだった。

しばらくするとまたその経験を繰り返し持ちたくなったりしない?

# 二つ同文の投稿があったので一つを削除した。注意してください。


[26138] Re:[26135] [25864] 既知からの自由10−4 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/26(Fri) 21:40  

> ここは重要な文章なので再掲。ここさえ十分に理解すれば、あとのクリシュナムルティの文章は、いらないだろう。とさえ思える。
>
> (実はこのとき、十分な議論がなされなかった。例の「横やり」で)
>
>
> > 10[愛]−4
> >
> >  この引き裂かれた砂漠のような世界の中では、快楽と欲望が最も大きな役割を演じるので愛はありません。それにもかかわらず愛なしには毎日の生活は意味がありません。そしてもし美がないなら、愛を持つことはできません。美は目で見る何かではありません ― 美しい木、美しい絵、美しい建物あるいは美しい女性ではありません。ハートと心が愛が何かを知るときのみ、美があります。愛と美のあの感覚なしに徳はなく、そしてあなたは欲することをし、社会を改良し、貧民を養っても一層の災厄を造り出しているだけであろうという事を非常によく知っています。というのは愛なしには自分自身のハートと心の中には醜さと貧しさがあるだけだからです。しかし愛と美があるときは、することは何であろうが正しく、何であろうが秩序があります。いかに愛するかを知っているなら、そのとき好きなことをすることが出来ます。なぜならそれがほかの問題をすべて解決するでしょうから。
> >
> >  そこで私たちは要点に達します。訓練なしに、思考なしに、強制なしに、どんな本やどんな教師や指導者もなしに、心は愛に出会うことが ― 美しい夕焼けに出会うようにそれに出会うことができるでしょうか? 私には一つのことが絶対に必要であり、そしてそれは動機なき情熱 ― ある献身や執着の結果でない情熱、渇望ではない情熱であると思われます。情熱が何か知らない人は決して愛を知らないでしょう。なぜなら愛は完全な自己放棄があるときのみ存在できるからです。
>
>  自己放棄といっても、世俗を捨てることではない。
>  マザーテレサのような愛の権化になることではない。
> >
> >  求めている心は情熱的な心ではなく、そして求めることなく愛に出会うことが、それを見いだす唯一の道です ― 知らずに、どんな努力や経験の結果としてでもなく愛と出会うことがです。その様な愛は、あなたは見出すでしょうが、時間のものではありません。そのような愛は個人的でまた非個人的であり、一つのものでありまた多数のものでもあります。香りを持つ花のように、その香りをかぐこともできるし、そばを通り過ぎることもできます。その花はあらゆる人のためにあり、そして深くその香りを吸い、喜びをもってそれを見る労をとる一人の人のためにあります。人が庭園の非常に近くにいようが非常に遠くにいようが、それは花にとって同じです。なぜなら花は芳香に満ちており、それゆえ花はあらゆる人と分かち合っていますから。
> >
> >  愛は新しい、新鮮な、生きている何かです。愛は昨日も明日も持ちません。愛は思考の混乱を超えています。愛が何であるかを知るのは天真爛漫な心のみです。そして天真爛漫な心は、天真爛漫でない世界の中で生きることができます。犠牲を通して、礼拝を通して、関係を通して、性を通して、あらゆる形の快楽と苦痛を通して、人間が果てしなく求めてきたこの途方もないものを見いだすことは、思考が自分自体を理解するに至り、自然に終わる時のみ可能です。そのとき愛は反対物を持たず、そのとき愛は葛藤を持ちません。
> >
> >  あなたは「その様な愛を私が見つけたなら、妻や子や家庭に何が起こるでしょうか? 彼らには安全がなければなりません」と尋ねるかも知れません。その様な質問をするとき、あなたは決して思考の領域の、意識の領域の外側にいたことがないのです。一度でもその領域の外側にいたことがあるなら、決してその様な質問はしないでしょう。なぜならそのとき、思考がなく、したがって時間がない愛が何か知るからです。この文章を魅了され、うっとりとして読むかもしれませんが、実際に思考と時間を超えることは ― それは悲しみを超えることを意味しますが ― 愛と呼ばれる違った次元があることに気づくことです。
> >
> 」思考と時間を超えるには、愛と呼ばれる違った次元があることに気づくだろう。
>  ここが重要。ようするに、違った次元がある。相対、二元を超えたもの。絶対愛。
>  ここがクリシュナムルティの言いたいところ。


引用文が少し違って、意味が取れない。
そのままに引用すると、>実際に思考と時間を超えることは愛と呼ばれる違った次元があることに気づくことです。 −−

これでよくわかった。思考と時間を超えると違った次元があるのに気づくのだが、それは愛と呼ばれているんだ。


>  強烈な気づき、とはまさに愛と呼ぶところの異質のエネルギー。
>
> (愛という言葉は様々なところで述べられてきた。世間的な好き嫌いとか、求める、求めないとか取引的な愛のことをいうのではないことはいうまでもない)
>
> >  しかしあなたはどうやってこの途方もない源泉に到達するか知りません ― そこで何をしますか?何をすべきかわからないなら、何もしないのではないでしょうか? まったく何も。そのとき内面的にあなたは完全に静かです。それが何を意味するかわかりますか? あなたは求めておらず、望んでおらず、追求していないことを意味します。中心はありません。そのとき愛があります。


これだけだとあおり言葉的に聞こえてしまう。15章は絶対必要だ。それにより理解となる。


> 「何もしない」というと、親鸞の絶対他力を思い浮かべる。お任せの境地。全托。一切神様におまかせする。人事をつくして天命を待つ。
>  Kのいう「受動的気づき」の真の意味はこれだったのかと思う。
>
>
>
> > (10章 終わり)


[26136] 不思議な共感作用 投稿者:無明 投稿日:2018/10/26(Fri) 17:13  

人と思い切り争って喧嘩したとき、人とお互いに、言いたいことを言い合って、出しあったとき、そのあと、不思議な共感作用に包まれたことはないだろうか。憎しみから親しみへの転換である。
しかし、言いたいことは言えるのは親友と呼べる一部の人たちだけである。会社でも、学校ではもちろん、家庭、家族であっ てでも、言いたいことを言えるような間柄ではない。
例えば、こういうことをいうと、相手が傷つくのではないかと。
人は人に嫌われたくないという思いをもっている。つまり「いい人」を装うことが習慣になっている。
ですから、人は思い切り喧嘩をすることはない。仲直りもない。
嫌いな奴は嫌いな奴で終わりである。それもイメージとは気づかずに。

あるエンカウンターの集まりで、見知らぬ男女が集まり、一週間の合宿を行なったことがあった。初めては、ばり罵倒、悪口の応酬。お互い言いたいことが言えると楽になったのか、最後は不思議な共感が生まれ、別れるときは、互いに号泣する有様だ。あまりに変わりようにびっくり。みんな仲良く人類皆兄弟という感じだった。



[26135] Re:[25864] 既知からの自由10−4 投稿者:無名 投稿日:2018/10/26(Fri) 15:45  

ここは重要な文章なので再掲。ここさえ十分に理解すれば、あとのクリシュナムルティの文章は、いらないだろう。とさえ思える。

(実はこのとき、十分な議論がなされなかった。例の「横やり」で)


> 10[愛]−4
>
>  この引き裂かれた砂漠のような世界の中では、快楽と欲望が最も大きな役割を演じるので愛はありません。それにもかかわらず愛なしには毎日の生活は意味がありません。そしてもし美がないなら、愛を持つことはできません。美は目で見る何かではありません ― 美しい木、美しい絵、美しい建物あるいは美しい女性ではありません。ハートと心が愛が何かを知るときのみ、美があります。愛と美のあの感覚なしに徳はなく、そしてあなたは欲することをし、社会を改良し、貧民を養っても一層の災厄を造り出しているだけであろうという事を非常によく知っています。というのは愛なしには自分自身のハートと心の中には醜さと貧しさがあるだけだからです。しかし愛と美があるときは、することは何であろうが正しく、何であろうが秩序があります。いかに愛するかを知っているなら、そのとき好きなことをすることが出来ます。なぜならそれがほかの問題をすべて解決するでしょうから。
>
>  そこで私たちは要点に達します。訓練なしに、思考なしに、強制なしに、どんな本やどんな教師や指導者もなしに、心は愛に出会うことが ― 美しい夕焼けに出会うようにそれに出会うことができるでしょうか? 私には一つのことが絶対に必要であり、そしてそれは動機なき情熱 ― ある献身や執着の結果でない情熱、渇望ではない情熱であると思われます。情熱が何か知らない人は決して愛を知らないでしょう。なぜなら愛は完全な自己放棄があるときのみ存在できるからです。

 自己放棄といっても、世俗を捨てることではない。
 マザーテレサのような愛の権化になることではない。
>
>  求めている心は情熱的な心ではなく、そして求めることなく愛に出会うことが、それを見いだす唯一の道です ― 知らずに、どんな努力や経験の結果としてでもなく愛と出会うことがです。その様な愛は、あなたは見出すでしょうが、時間のものではありません。そのような愛は個人的でまた非個人的であり、一つのものでありまた多数のものでもあります。香りを持つ花のように、その香りをかぐこともできるし、そばを通り過ぎることもできます。その花はあらゆる人のためにあり、そして深くその香りを吸い、喜びをもってそれを見る労をとる一人の人のためにあります。人が庭園の非常に近くにいようが非常に遠くにいようが、それは花にとって同じです。なぜなら花は芳香に満ちており、それゆえ花はあらゆる人と分かち合っていますから。
>
>  愛は新しい、新鮮な、生きている何かです。愛は昨日も明日も持ちません。愛は思考の混乱を超えています。愛が何であるかを知るのは天真爛漫な心のみです。そして天真爛漫な心は、天真爛漫でない世界の中で生きることができます。犠牲を通して、礼拝を通して、関係を通して、性を通して、あらゆる形の快楽と苦痛を通して、人間が果てしなく求めてきたこの途方もないものを見いだすことは、思考が自分自体を理解するに至り、自然に終わる時のみ可能です。そのとき愛は反対物を持たず、そのとき愛は葛藤を持ちません。
>
>  あなたは「その様な愛を私が見つけたなら、妻や子や家庭に何が起こるでしょうか? 彼らには安全がなければなりません」と尋ねるかも知れません。その様な質問をするとき、あなたは決して思考の領域の、意識の領域の外側にいたことがないのです。一度でもその領域の外側にいたことがあるなら、決してその様な質問はしないでしょう。なぜならそのとき、思考がなく、したがって時間がない愛が何か知るからです。この文章を魅了され、うっとりとして読むかもしれませんが、実際に思考と時間を超えることは ― それは悲しみを超えることを意味しますが ― 愛と呼ばれる違った次元があることに気づくことです。
>
」思考と時間を超えるには、愛と呼ばれる違った次元があることに気づくだろう。
 ここが重要。ようするに、違った次元がある。相対、二元を超えたもの。絶対愛。
 ここがクリシュナムルティの言いたいところ。
 強烈な気づき、とはまさに愛と呼ぶところの異質のエネルギー。

(愛という言葉は様々なところで述べられてきた。世間的な好き嫌いとか、求める、求めないとか取引的な愛のことをいうのではないことはいうまでもない)

>  しかしあなたはどうやってこの途方もない源泉に到達するか知りません ― そこで何をしますか?何をすべきかわからないなら、何もしないのではないでしょうか? まったく何も。そのとき内面的にあなたは完全に静かです。それが何を意味するかわかりますか? あなたは求めておらず、望んでおらず、追求していないことを意味します。中心はありません。そのとき愛があります。
>
「何もしない」というと、親鸞の絶対他力を思い浮かべる。お任せの境地。全托。一切神様におまかせする。人事をつくして天命を待つ。
 Kのいう「受動的気づき」の真の意味はこれだったのかと思う。



> (10章 終わり)


[26134] Re:[26131] ハート 投稿者:南方 投稿日:2018/10/26(Fri) 15:04  

> どなたの訳のどの本のどの箇所かは忘れましたが
> 確かKもハートについて言及していたはず。
>
>
> あと「幻」という言葉は自分の体験を吟味する場合は適切な言葉使いですが、自分から見た他人の体験を吟味する場合適切ではないと思います。
>



例えば「味わい深い文章」という表現。これは昔の感覚がまだ微細だった昔の人が本当に文章に味というものを感じていたことを伺わせる。

今はというとそれは幻味という名前がついていて元も子もない捉え方をしている。薬によって治すというのがそもそも精神なものにたいしては傲慢で、病気ではなく人間の本来の自然な微細な感覚と呼べるのだと私は思う。


話はハートのエネルギーになるが、それも幻味と同じで感じないようにしようと感覚を鈍くすれば感じないものだし、感覚が鋭い人研ぎ澄まされた人には当たり前のことだし、その両者の優劣は放っておいて、事実として検討すべき事柄だと思う。


[26133] Re:[26130] [26129] [26124] 既知からの自由15−1 投稿者:無名 投稿日:2018/10/26(Fri) 15:02  

 この人(宮啓)は、以下の文章のように、 十年一日のごとく、同じことをいい続けている。

 クリシュナムルティの臨終の言葉
「誰も変わりやしなかった」を座右の銘にしている。

以下決まり文句。

>  私たちが変われないのはなぜか?

私たちが変われない?変な文章。
変われないのは、御自分だろう。

>  渡辺さんに、クリシュナムルティが述べたことが起こらないのはなぜか?

これも定番。渡辺氏を酒の肴にする。つまりネタにする。
それにしても何で個人名を出すのか。

そもそもクリシュナムルティの述べていることが起こらない、というのも意味不明。
これも自分自身のことだろう。

>  そのことについても述べられているように思います。
>
違います。

的はずれのコメント。
クリシュナムルティを読むのにはあまりにも、力量不足。
たとえると、小学生の学力では、大学の教科書は理解できません。
つまり。クリシュナムルティ理解をするには妻子が邪魔。
しかもローンを抱えた身では不自由そのもの。
定年後に自由を得られると。
この程度の理解です。




[26132] 既知からの自由15−2 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/26(Fri) 12:45  

15章−2 [満足] [二重性]

 さて、もしどんな経験も全く持たないならば、何が起きるでしょうか? 私達は自分を目覚めさせておくために経験、挑戦に依存しています。もし自分自身の中の葛藤、変化、妨害がなければ私達はみんなぐっすり眠ってしまうでしょう。それゆえ挑戦は私達の多くにとって必要です。私達は挑戦がないと心は愚かで鈍重になるだろうと考え、それゆえ、自分により興奮と強さを与えるため、自分の心をより強くするため、挑戦や経験に依存します。しかし実際には、自分を目覚めさせておくために挑戦や経験にこのように依存することは心をより鈍くするだけです ― それは少しも私達を本当に目覚めさせておきはしません。そこで私は自分自身に尋ねます。全的に目覚めていることは可能でしょうか。自分の存在のいくつかの点で周辺的にだけでなく、どんな挑戦や経験もなしで、全的に目覚めていることが? このことは肉体的にも心理的にも多大の感受性を意味します。それは全ての要求から自由でなければならないことを意味します。というのは要求する瞬間、経験するからです。そして要求と満足から自由であることは、自分自身の調査と、要求の全体の性質の理解を必要とします。

 要求は二重性から生まれます。「私は不幸だから幸福にならなければならない」というように。幸福にならなければならないというその要求そのものの中に不幸があります。善であろうと努力するとき、その善そのものの中に反対のもの、悪があります。主張されたあらゆるものはそれ自身の反対のものを含んでおり、克服するための努力は戦っている相手を強めます。あなたが真理あるいは実在の経験を求める時、まさにその要求そのものがあるがままのものに対するあなたの不満から生まれます。したがってその要求が反対のものをつくり出すのです。そして反対のものの中にはあるがままであったものがあります。それゆえ人はこの絶え間ない要求から自由でなければなりません。さもなければ二重性の回廊に終わりはないでしょう。このことは自分自身を非常に完全に知り、その結果心はもはや何も求めてはいないということを意味します。

 そのような心は経験を求めません。それは挑戦を求めたり挑戦を知ることができません。それは「私は眠っている」とか「私は目覚めている」とかは言いません。それは完全にあるがままです。欲求不満で、狭い、浅い心、条件づけられた心のみが常により以上のものを求めています。ではこの世界の中でより以上のものを求めることなしに生きることが可能でしょうか? ― こののべつ幕なしの比較なしに。確かに可能ですか? しかし人は自分で見出さなければなりません。

(続く)


[26131] ハート 投稿者:南方 投稿日:2018/10/26(Fri) 06:28  

どなたの訳のどの本のどの箇所かは忘れましたが
確かKもハートについて言及していたはず。


あと「幻」という言葉は自分の体験を吟味する場合は適切な言葉使いですが、自分から見た他人の体験を吟味する場合適切ではないと思います。



[26130] Re:[26129] [26124] 既知からの自由15−1 投稿者:宮啓 投稿日:2018/10/25(Thu) 21:56  

> > 15章−1 [経験]
> >
> > 私達はみなある種の経験 ― 神秘的経験、宗教的経験、性的な経験、多くの金、力、地位、支配力を持つという経験を望んでいます。歳をとるにつれて肉体的な欲望と手を切るかもしれませんが、より広く、深く、より意義深い経験を要求し、そしてそれを得るために様々な手段を試みます ― 例えば、意識の拡張や、それはかなりの技術です、あるいは種々のドラッグを用いるとか。これは太古から存在した古い手口です ― 脳細胞の組織に一時的な変化をもたらし、真の実在の見せかけを与える一層の感受性と高められた知覚を引き起こすため、一枚の葉をかんだり、最新の薬を試してみたりします。このより一層の経験への要求は人間の内面の貧困を示します。私達は経験を通して自分自身から逃れることができると考えますが、これらの経験はあるがままの私達によって条件付けられているのです。心が貧弱で、嫉妬深く、不安なら、最新型の薬を用いようが心はなおそれ自体のつくった小さなもの、それ自体の条件づけられた背景からのそれ自体の小さな投影を見るだけでしょう。
>
>
> この章全体で、Kが何を述べようとしているかはまだ分からないが、とにかく私たちが経験を求めていること、そして最新型のドラッグを用いようが私たちの背景(条件付け)からの投影をつくるにすぎないと言っています。


 私たちが変われないのはなぜか?
 渡辺さんに、クリシュナムルティが述べたことが起こらないのはなぜか?
 そのことについても述べられているように思います。



> >  たいてい私達は、思考によって壊されない、完全に満足できる永続的な経験を要求します。それゆえこの経験への要求の背後には満足を求める欲望があり、そして満足を求める要求は経験を指図します。従って私達は満足についての一切の事柄だけでなく、経験された物事についてもまた理解しなければなりません。ある大きな満足を得ることは大きな快楽です。経験がより永続し、深く広いほど、ますます楽しく、そこで快楽は私達の要求する満足の形を指令します。快楽は私達が経験を測る尺度なのです。測ることのできるものは何であれ思考の限界内にあり、幻想をつくり勝ちです。驚くべき経験をすることが出来ますがしかしなお完全にだまされやすいのです。あなたは不可避的に自分の条件付けにしたがって幻影を見るでしょう。キリストや仏陀やあなたがたまたま信じる誰かを見るでしょうし、あなたが偉大な信者であればあるほどあなたの幻影、自分自身の要求と衝動の投影はより強いでしょう。


> 強い信仰の与える経験が実は幻影であるとKは指摘する。


 クリシュナムルティが述べたことが起こった!!と思っても、それが>自分自身の要求と衝動の投影−−かもしれない。

 千日回峰行等で、神仏を見る・感じることがあるとのこと。これらは>自分自身の要求と衝動の投影−−の可能性がある。

 よって、これらの投影に惑わされない科学的な目が大切となるようだ。。



> >  従って何が真実かというような根本的なにかを求める際に、もし快楽が尺度なら、あなたは既に経験が何であるかを投影してしまっており、それゆえそれはもはや確かなものではありません。
>
>
> 我々は快楽を尺度にすべてを実は測っていないか?


 「真実」は「快楽」であると思われがちである。



> >  経験とはどういう意味でしょうか? 経験の中に何か新しいもの、あるいは初めてのものがあるでしょうか? 経験は挑戦に反応している記憶の束であり、自分の背景にしたがってのみ反応することができます。そして経験を解釈するに際してあなたが利口であればあるほど、経験はより一層反応します。それゆえ他人の経験だけでなく自分自身の経験を問わなければなりません。経験を認知しないならそれは全く経験ではありません。あらゆる経験はすでに経験されたものであり、さもなければそれを認識したりしないでしょう。あなたは自分の条件付けに従って、経験を良い、悪い、美しい、神聖などと認識しており、従って経験の認識は必ず古いに違いありません。
>
>
> 経験は認識するゆえ、全て古いもの・・・。


 まず、経験者が存在する場合、それは自我であり、経験者は思考の産物、過去の産物である。よって経験者を通しての経験は過去の産物、思考の産物となるようだ。。



> >  私達が真の実在の経験を要求するとき ― 私達皆がする様に、しませんか? ― それを経験するためにはそれを知らねばならず、それを認識する瞬間既に私達はそれを投影してしまっており、従ってそれは実在ではありません。なぜならそれはなお思考と時間の領域内にあるからです。思考が真の実在について考えることができるなら、それは真の実在ではあり得ません。私達は新しい経験を認識できません。それは不可能です。私達は既に知ったものだけを認識するのであり、従って新しい体験をしたというときそれは全く新しくはありません。種々の幻覚剤によって行われている様に、意識の拡張によってより一層の経験を求めることは、なお意識の領域内にあり、それゆえ非常に限られています。
> >
> >  そこで私達は根本的真理を見出しました。それはより広い、より深い経験を求め切望している心は、常にその記憶と共に生きているので、非常に狭い鈍い心であるということです。


 それゆえに、変われない。クリシュナムルティが述べたことが起こらない。



> > (続く)


[26129] Re:[26124] 既知からの自由15−1 投稿者:ゴト 投稿日:2018/10/25(Thu) 17:39  

> 15章−1 [経験]
>
> 私達はみなある種の経験 ― 神秘的経験、宗教的経験、性的な経験、多くの金、力、地位、支配力を持つという経験を望んでいます。歳をとるにつれて肉体的な欲望と手を切るかもしれませんが、より広く、深く、より意義深い経験を要求し、そしてそれを得るために様々な手段を試みます ― 例えば、意識の拡張や、それはかなりの技術です、あるいは種々のドラッグを用いるとか。これは太古から存在した古い手口です ― 脳細胞の組織に一時的な変化をもたらし、真の実在の見せかけを与える一層の感受性と高められた知覚を引き起こすため、一枚の葉をかんだり、最新の薬を試してみたりします。このより一層の経験への要求は人間の内面の貧困を示します。私達は経験を通して自分自身から逃れることができると考えますが、これらの経験はあるがままの私達によって条件付けられているのです。心が貧弱で、嫉妬深く、不安なら、最新型の薬を用いようが心はなおそれ自体のつくった小さなもの、それ自体の条件づけられた背景からのそれ自体の小さな投影を見るだけでしょう。


この章全体で、Kが何を述べようとしているかはまだ分からないが、とにかく私たちが経験を求めていること、そして最新型のドラッグを用いようが私たちの背景(条件付け)からの投影をつくるにすぎないと言っています。


>  たいてい私達は、思考によって壊されない、完全に満足できる永続的な経験を要求します。それゆえこの経験への要求の背後には満足を求める欲望があり、そして満足を求める要求は経験を指図します。従って私達は満足についての一切の事柄だけでなく、経験された物事についてもまた理解しなければなりません。ある大きな満足を得ることは大きな快楽です。経験がより永続し、深く広いほど、ますます楽しく、そこで快楽は私達の要求する満足の形を指令します。快楽は私達が経験を測る尺度なのです。測ることのできるものは何であれ思考の限界内にあり、幻想をつくり勝ちです。驚くべき経験をすることが出来ますがしかしなお完全にだまされやすいのです。あなたは不可避的に自分の条件付けにしたがって幻影を見るでしょう。キリストや仏陀やあなたがたまたま信じる誰かを見るでしょうし、あなたが偉大な信者であればあるほどあなたの幻影、自分自身の要求と衝動の投影はより強いでしょう。


強い信仰の与える経験が実は幻影であるとKは指摘する。


>  従って何が真実かというような根本的なにかを求める際に、もし快楽が尺度なら、あなたは既に経験が何であるかを投影してしまっており、それゆえそれはもはや確かなものではありません。


我々は快楽を尺度にすべてを実は測っていないか?


>  経験とはどういう意味でしょうか? 経験の中に何か新しいもの、あるいは初めてのものがあるでしょうか? 経験は挑戦に反応している記憶の束であり、自分の背景にしたがってのみ反応することができます。そして経験を解釈するに際してあなたが利口であればあるほど、経験はより一層反応します。それゆえ他人の経験だけでなく自分自身の経験を問わなければなりません。経験を認知しないならそれは全く経験ではありません。あらゆる経験はすでに経験されたものであり、さもなければそれを認識したりしないでしょう。あなたは自分の条件付けに従って、経験を良い、悪い、美しい、神聖などと認識しており、従って経験の認識は必ず古いに違いありません。


経験は認識するゆえ、全て古いもの・・・。


>  私達が真の実在の経験を要求するとき ― 私達皆がする様に、しませんか? ― それを経験するためにはそれを知らねばならず、それを認識する瞬間既に私達はそれを投影してしまっており、従ってそれは実在ではありません。なぜならそれはなお思考と時間の領域内にあるからです。思考が真の実在について考えることができるなら、それは真の実在ではあり得ません。私達は新しい経験を認識できません。それは不可能です。私達は既に知ったものだけを認識するのであり、従って新しい体験をしたというときそれは全く新しくはありません。種々の幻覚剤によって行われている様に、意識の拡張によってより一層の経験を求めることは、なお意識の領域内にあり、それゆえ非常に限られています。
>
>  そこで私達は根本的真理を見出しました。それはより広い、より深い経験を求め切望している心は、常にその記憶と共に生きているので、非常に狭い鈍い心であるということです。
>
> (続く)


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