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[26577] Re:[26574] [26572] [26568] [26566] 苦とはなにか 投稿者:南方 投稿日:2019/02/24(Sun) 16:03  

> > > 今ふと「苦から自由になる」という言葉が浮かびました。
> > >  人間の編み出した記憶、言葉、思考が心理的思考、欲望、心理的時間(これらを業と言ってもいいか)を生み出し、そこでこれら無明と呼ばれたものの構造を明らかにしたのがクリシュナムルティの一連の講話ではないだろうか? 私らはこの講話によってそれらの業から自由になれるだろうか?
> >
> >
> > 苦からの自由というと何かそこから逃げよう、なろうというニュアンスが含まれます。苦の理解こそが我々がなすことではないでしょうか?
> > 思考過程で一体何が起きているのか。それを理解しようとする態度こそ受動的気づきに他ならない。
>
> 理解しようとする気づきは能動的って事はないだろうか?
>  私が間違っているかもしれないが気づくというのは理解されていることに気づく、つまり、不注意なことにという事がある。


まさしくそうです。理解されていることに気づく。

>  受動的な気づきは知らないで見ていて、見える、見えての理解がある、それが「見」だが、そう言う事ではあるまいか?


知らないで見ている、そう言われれば、知らないで見ています。理解?が深まりました。

>  たいていの人は意識と無意識に分離しているので、気づく主体が意識であるか、無意識であるか、意識と無意識の分離のない状態かによって微妙な違いがあるようです。


そうですか。ここは微妙ですね。意識だとは思いますが、半分いやもう少し無意識かも。


[26576] Re:[26538] [26533] 最初のザーネン講話 9-3 投稿者:宮啓 投稿日:2019/02/24(Sun) 15:44  

> > 1961年ザーネン公開講話 9−3
> >
> > 質問: 宗教的な心は瞑想を通じて獲得することができるでしょうか?
> >
> > クリシュナムルティ: 理解しなければならない最初のことは、あなたがそれを獲得することはできない、それを得ることはできない、それは瞑想を通じてもたらされることはないということです。いかなる徳も、犠牲も、瞑想も−地上のどんなものもこれを買うことはできません。この到達、達成、獲得、買うという感覚は、それがあるためには、すっかり止まなければなりません。瞑想を使用することはできません。私が話してきたことは瞑想です。瞑想は何かへの道ではありません。日常生活のあらゆる瞬間の中で何が真実で何が虚偽かを発見することが瞑想です。瞑想はあなたがそれに逃避する何かでも、その中で幻視やあらゆる種類のスリルを得る何かでもありません−それは自己催眠です。それは未熟で、子供じみています。しかし一日の各瞬間を見守ること、どんなふうにあなたの思考が働いているか見ること、働いている防御の機械装置を見ること、恐怖、野心、貪欲と羨望を見ること−それをすべて見守り、いつもそれを調べること、それが瞑想です。あるいは瞑想の一部です。正しい基礎を敷くことなしに瞑想はありません。そして正しい基礎を敷くことは野心、貪欲、羨望、私たちが自己防御のためにつくり出したすべてのものから自由であることです。瞑想が何であるか教えられるためや、方法を授けられるために誰かのところに行く必要はありません。私自身を見守ることによって、私がいかに野心的かそうでないか、非常に簡単に見出すことができます。他人によって教えられる必要はありません。私はわかります。野心の根、幹、果実を根絶すること、それを見てそれをすっかり破壊することは絶対に必要です。ほら、私たちは第一歩を踏まないではるか遠くに行くことを望みますね。そしてあなたが第一歩を踏めば、それが最後の一歩であり、ほかの一歩はないということを見出すでしょう。
> >
> >
> > ゴト: クリシュナムルティは何と優しく、肝心の要点を分かりやすく答えてくれたことでしょう。基礎の理解がしっかりします。
>
>
>  ほかの一歩はない。
>
>  この一歩が難しい。
>
>  クリシュナムルティは、初めてのザーネン講話で、すべてを語り尽くしていたのですね。。


 ゴトさんが以外とお元気そうなので、質問をさせてもらえないでしょうか。。

 この一歩(>野心の根、幹、果実を根絶すること、それを見てそれをすっかり破壊することは絶対に必要です−−)がとても難しいと感じています。

 ゴトさんは以前から、「ただ見る」を体現されていたと察します。

 この「ただ見る」は、その一歩を実現していたからこそできるのでしょうか。

 また、その「ただ見る」やその一歩は、ずっと以前から実現していたのでしょうか。あるいは、最近、たとえば癌が発覚してから後とかでしょうか。。
 そのきっかけのようなものがあれば、知りたいです。

 よろしくお願いします。


[26575] Re:[26573] 確信的概念の体現者がいる 投稿者:ゴト 投稿日:2019/02/24(Sun) 15:30  

> この世界にはKのいうことを理解していて、それでも尚且つ確信的に概念を体現している輩がいる可能性がある。
> ツイッター上でこの言葉を呟いているものを見てここに書き込みました。


そう言うこともあるでしょう。自分がそうでないかという気持ちは私にもあり、私は概念が入らずに話しているかという恐れを自分で持っている。やはり他人のことではなく自分のことですね。


[26574] Re:[26572] [26568] [26566] 苦とはなにか 投稿者:ゴト 投稿日:2019/02/24(Sun) 15:20  

> > 今ふと「苦から自由になる」という言葉が浮かびました。
> >  人間の編み出した記憶、言葉、思考が心理的思考、欲望、心理的時間(これらを業と言ってもいいか)を生み出し、そこでこれら無明と呼ばれたものの構造を明らかにしたのがクリシュナムルティの一連の講話ではないだろうか? 私らはこの講話によってそれらの業から自由になれるだろうか?
>
>
> 苦からの自由というと何かそこから逃げよう、なろうというニュアンスが含まれます。苦の理解こそが我々がなすことではないでしょうか?
> 思考過程で一体何が起きているのか。それを理解しようとする態度こそ受動的気づきに他ならない。

理解しようとする気づきは能動的って事はないだろうか?
 私が間違っているかもしれないが気づくというのは理解されていることに気づく、つまり、不注意なことにという事がある。
 受動的な気づきは知らないで見ていて、見える、見えての理解がある、それが「見」だが、そう言う事ではあるまいか?
 たいていの人は意識と無意識に分離しているので、気づく主体が意識であるか、無意識であるか、意識と無意識の分離のない状態かによって微妙な違いがあるようです。


[26573] 確信的概念の体現者がいる 投稿者:南方 投稿日:2019/02/24(Sun) 15:09  

この世界にはKのいうことを理解していて、それでも尚且つ確信的に概念を体現している輩がいる可能性がある。
ツイッター上でこの言葉を呟いているものを見てここに書き込みました。


[26572] Re:[26568] [26566] 苦とはなにか 投稿者:南方 投稿日:2019/02/24(Sun) 10:43  

> > 仏陀が残したとされる言葉「人生の本質は苦である」
> >
> > では苦とはなにか?その言葉で何を表しているのか?
> >
> > 思考の善い悪いの判断があるとき、片方が確かにそうだと頑なに思い込んでいる時、反対意見が出される。なにを!と反発して喧嘩になる。もしくはぐっと堪えてまぁそういう意見もあると俗にいう大人の態度を示す。
> > 前者や後者が続き極端になった時、人生は破綻をむかえる。
> > しかし人は何が原因かわからない。だからそういう態度をとり続ける。そういうことで善い悪いの判断から自由でない時、人生は苦になる。俗にいうとです。
>
>
> 今ふと「苦から自由になる」という言葉が浮かびました。
>  人間の編み出した記憶、言葉、思考が心理的思考、欲望、心理的時間(これらを業と言ってもいいか)を生み出し、そこでこれら無明と呼ばれたものの構造を明らかにしたのがクリシュナムルティの一連の講話ではないだろうか? 私らはこの講話によってそれらの業から自由になれるだろうか?


苦からの自由というと何かそこから逃げよう、なろうというニュアンスが含まれます。苦の理解こそが我々がなすことではないでしょうか?
思考過程で一体何が起きているのか。それを理解しようとする態度こそ受動的気づきに他ならない。


[26571] Re:[26569] [26568] [26566] 苦とはなにか 投稿者:ゴト 投稿日:2019/02/24(Sun) 10:21  

> > > 仏陀が残したとされる言葉「人生の本質は苦である」
> > >
> > > では苦とはなにか?その言葉で何を表しているのか?
> > >
> > > 思考の善い悪いの判断があるとき、片方が確かにそうだと頑なに思い込んでいる時、反対意見が出される。なにを!と反発して喧嘩になる。もしくはぐっと堪えてまぁそういう意見もあると俗にいう大人の態度を示す。
> > > 前者や後者が続き極端になった時、人生は破綻をむかえる。
> > > しかし人は何が原因かわからない。だからそういう態度をとり続ける。そういうことで善い悪いの判断から自由でない時、人生は苦になる。俗にいうとです。
> >
> >
> > 今ふと「苦から自由になる」という言葉が浮かびました。
> >  人間の編み出した記憶、言葉、思考が心理的思考、欲望、心理的時間(これらを業と言ってもいいか)を生み出し、そこでこれら無明と呼ばれたものの構造を明らかにしたのがクリシュナムルティの一連の講話ではないだろうか? 私らはこの講話によってそれらの業から自由になれるだろうか?
>
> 新しい芽氏からの受け売りですが、現実に瞬時瞬時起きていることに対して、直面していること自体が、解放であり、自由ではないでしょうか?

その通りです。それが最初の一歩でそれ以外にありません。

> 物事に直に接しているとき、思考なしに、判断なしに、あるべきものは脇にどけられている状態のとき。
> Kは、この状態を「受動的気づき」と呼んでいます。
>
> クリシュナムルティに言わせると「苦」というのは所詮自作自演であって(観察者は観察されるもの)いわば「一人相撲」であり、思考のなせる業(わざ)ではないか。と我々に問いかける。
> 実は苦しみ、迷いは「時間」であって、存在しないものではないのだろうか。思考の作り出した幻想ではないだろうか。
> そのことを各自で、検証見てみたら、ということではないでしょうか?
>
> 新しい芽氏に、この辺のところを伺ったことがありますが、自分自身で検証したところクリシュナムルティは、今のところ間違ったことは言っていないということでした。

それにも異議はありませんが、判断なしに、思考なしに過去のものの干渉なしに見るという事は難しいことですよ。既知のものや時間のものが習慣として心に残っている限りそれは出てきます。それが気付きを通して消滅していかない限り、直視するには注意・高い心的エネルギーが必要です。
老婆心から言いました。聞き流してください。
>


[26570] 人生は苦? 投稿者:無明 投稿日:2019/02/24(Sun) 09:41  

>仏陀が残したとされる言葉「人生の本質は苦である」

この言葉に疑問。
本気で言ったのだろうか?「方便」として言ったのだろうか?
難業苦行しないと悟れないとか。

人生は「苦」と言われると、逆に人間は正反対の「楽」あるいは「快楽」を追い求めるようになる。
そこから「努力」ということが賞賛される。苦しみに耐えなければ栄光はやってこないとか何とか。
今の社会風潮がそうである。
とくに日本は、そのことが美徳とされる。努力賞賛主義。
そのような精神主義が、はびこく残る。
スポーツ界が顕著。


そういった社会風潮、努力賞賛主義に、一石を投じたのがクルシュナムルティではなかろうか。




[26569] Re:[26568] [26566] 苦とはなにか 投稿者:無明 投稿日:2019/02/24(Sun) 09:22  

> > 仏陀が残したとされる言葉「人生の本質は苦である」
> >
> > では苦とはなにか?その言葉で何を表しているのか?
> >
> > 思考の善い悪いの判断があるとき、片方が確かにそうだと頑なに思い込んでいる時、反対意見が出される。なにを!と反発して喧嘩になる。もしくはぐっと堪えてまぁそういう意見もあると俗にいう大人の態度を示す。
> > 前者や後者が続き極端になった時、人生は破綻をむかえる。
> > しかし人は何が原因かわからない。だからそういう態度をとり続ける。そういうことで善い悪いの判断から自由でない時、人生は苦になる。俗にいうとです。
>
>
> 今ふと「苦から自由になる」という言葉が浮かびました。
>  人間の編み出した記憶、言葉、思考が心理的思考、欲望、心理的時間(これらを業と言ってもいいか)を生み出し、そこでこれら無明と呼ばれたものの構造を明らかにしたのがクリシュナムルティの一連の講話ではないだろうか? 私らはこの講話によってそれらの業から自由になれるだろうか?

新しい芽氏からの受け売りですが、現実に瞬時瞬時起きていることに対して、直面していること自体が、解放であり、自由ではないでしょうか?

物事に直に接しているとき、思考なしに、判断なしに、あるべきものは脇にどけられている状態のとき。
Kは、この状態を「受動的気づき」と呼んでいます。

クリシュナムルティに言わせると「苦」というのは所詮自作自演であって(観察者は観察されるもの)いわば「一人相撲」であり、思考のなせる業(わざ)ではないか。と我々に問いかける。
実は苦しみ、迷いは「時間」であって、存在しないものではないのだろうか。思考の作り出した幻想ではないだろうか。
そのことを各自で、検証見てみたら、ということではないでしょうか?

新しい芽氏に、この辺のところを伺ったことがありますが、自分自身で検証したところクリシュナムルティは、今のところ間違ったことは言っていないということでした。



[26568] Re:[26566] 苦とはなにか 投稿者:ゴト 投稿日:2019/02/23(Sat) 19:56  

> 仏陀が残したとされる言葉「人生の本質は苦である」
>
> では苦とはなにか?その言葉で何を表しているのか?
>
> 思考の善い悪いの判断があるとき、片方が確かにそうだと頑なに思い込んでいる時、反対意見が出される。なにを!と反発して喧嘩になる。もしくはぐっと堪えてまぁそういう意見もあると俗にいう大人の態度を示す。
> 前者や後者が続き極端になった時、人生は破綻をむかえる。
> しかし人は何が原因かわからない。だからそういう態度をとり続ける。そういうことで善い悪いの判断から自由でない時、人生は苦になる。俗にいうとです。


今ふと「苦から自由になる」という言葉が浮かびました。
 人間の編み出した記憶、言葉、思考が心理的思考、欲望、心理的時間(これらを業と言ってもいいか)を生み出し、そこでこれら無明と呼ばれたものの構造を明らかにしたのがクリシュナムルティの一連の講話ではないだろうか? 私らはこの講話によってそれらの業から自由になれるだろうか?


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