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[25332] 自由意志 投稿者:虚無 投稿日:2018/05/30(Wed) 09:00  

「時間の終焉」の訳者で知られる渡辺充氏はユーチューブで様々な題材で講義を行っている。誠に興味深い。その中で
「人間に自由意志はあるのか、ないのか」というテーマの講義があった。人間に真の意味で「自由意志」があるのか。
結論めいたことをいうと、渡辺氏は人間には真の意味での自由意志はない、ということを理解することが「悟り」だという。
本当にそうだろうか、という疑問が湧く。
それではクリシュムルティの言っている「自由」というのは何何だろうか?という疑問が改めて湧いてくる。
我々は物理的時間に生きていることはまぎれもない事実である。それでは「心理的時間」とは?


[25331] 無題 投稿者:虚無 投稿日:2018/05/30(Wed) 08:39  

>そのようにして、クリシュナムルティ理解へ取り組んでいます。

そもそも「クリシュナムルティ理解」って何ですか?
文字通りの意味なら、クリシュナムルティの本を読んで頭で理解する。そういう意味ですか?
だとするとクリシュナムルティの言わんとしていることを、今だ掴んでいないということになります。
ようするに知識だけが膨れ上がるのみ。

かって新しい芽氏が主催していたサイトの掲示板で、さんざん突っ込まれたところです。

「新しい芽」というのはペンネームで、もう飯尾氏でいいのではないでしょうか。なぜならすでに、本名で翻訳本を出されています。
大野氏と同じように。
老婆心ながら申し上げると、Kのいう「気づく」というのは「悟る」ということです。
今だ、あなたは真理というものをはき違えている。


[25330] Re:[25329] [25327] [25326] [25325] [25324] [25323] [25322] [25321] [25320] [25319] [25318] [25314] 人類の背負うもの 投稿者:ゴト 投稿日:2018/05/29(Tue) 20:21  

> > > > >  >関係の間に愛、信頼、あこがれのようなものがあると起こるように感じます。−−、この「愛・信頼、あこがれ」が「愛」ではなく「利益」「取引」「有用性」であり、思考の産物としての感覚・感情ではないでしょうか。
> > > > >
> > > > >  この理解なしには思考は基盤を欠くと、クリシュナムルティは述べているのではないでしょうか。
> > > > >
> > > > >  基盤のない思考によって、哲学が論じられていないでしょうか。
> > > >
> > > >
> > > > 私のよって立つ基盤は自分の心に浮かぶ知覚です。思考が浮かべば思考が浮かんだとわかって見ている知覚です。信じる神、あるいは聖者、賢人の教えではありません。その知覚に合致する、そしてより深いところを持っていると思うのでその話を聞きます。Kの本も新しい芽さんもそうです。反発するときも必死で何かを得ようとしている時もあります。でも、最後には自分の心の感じるところによって生きます。そう生きている時、理解が生じる時があります。理解は生の中で独立に生じます。その時これがKの言っていることかなあと思う事はあります。しかしほんとにそうかどうかはわかりません。そのような理解は自分の言葉で話せます。不遜かもしれませんがそうして生きています。
> > > >
> > > > いろいろな生を送っている人がいます。人間の生をいろいろな見地から見ています。今は哲学が人類をどう見ているかに関心があります。その立脚点は、竹田青嗣氏はフッサールの本質直観を基礎としています。フッサールの現象学は、Kの読書会でKと同視野に立つ人が哲学者に出てきたという事で話題になりました。それで当時入門書を2冊読みましたが、それが竹田氏の書いたものです。今度出た氏の欲望論は、私の読んだ入門書の集大成で、入門書ではなく本格的論文です。こんな縁があるという事です。
> > >
> > >
> > >  はい。
> > >
> > >  そのような「縁」について非難・正当化することはできませんね。。
> > >
> > >  クリシュナムルティ理解は、多くの「縁」と関わりがあるように感じています。
> > >
> > >  キリスト教文化圏、イスラム教文化圏に縁あって生まれたならば、その条件付けによってクリシュナムルティとの関わりは薄かったのではないでしょうか。
> > >
> > >  また、戦時中に孤児となった人々がいますが、孤児という生育歴の縁を有する者は、親子の愛が「愛着」であり、本物の「愛」ではないとするクリシュナムルティの陳述を、そのまま聴くことができるのではないでしょうか。
> > >
> > >  あるいは、高学歴に恵まれなかった人々、そのような学歴・学問に薄い縁を有する者達にとって、思考の産物には限りがあるとするクリシュナムルティの陳述を、そのまま聴くことができるのではないでしょうか。。
> > >
> > >  母子間に聖なる感覚を伴う絆を感じて生きてきた、そのような生育歴の縁を有する者が、その絆に執着しないことは至難ということです。
> > >
> > >  知能優秀で、学際的に知識を重ね、論理的に縦横無尽に連結させうる頭脳と高学歴の縁を有する者が、その知識と理論に執着しないことは至難ではないでしょうか。
> > >
> > >  そのような無意識的な執着が、クリシュナムルティの陳述をそのままに聴くことを妨げること、これが『時間の終焉』の初めの部分で触れられています。
> > >
> > >  しかし、これらの「縁」を非難・正当化することなく、そのような「縁」が、クリシュナムルティ理解に対して、いかように作用するのかを調べることができるのでしょうか。。
> > >
> > >  >反発するときも必死で何かを得ようとしている時もあります。−−、この「反発」の時が、「縁」の作用なのかもしれません。
> > >
> > >  しかし、最終的には、>でも、最後には自分の心の感じるところによって生きます。−−、これが「縁」の作用として、最後まで残る執着(信念)なのかもしれません。
> >
> >
> > 執着を見ることができない・・・・・
> > 新しい芽さんは自分の心の動きに目が向けるとだけおっしゃいました。
> > 思っているなぁーぐらいに(これも新しい芽さんが別の場合に言ったことですが・・・、余計な付けたしだったかな)
>
>
>  新しい芽さんの「分からない(見ることができない)」は、とても正直さを感じます。
>
>  以前、もしも覚者が居たとして、新しい芽サイトへ投稿してきたならば、それと分かるのか?と新しい芽さんへ問うたところ、「分からない」と返事をもらいました。正直な方だと思いました。
>
>  自身の立脚点を疑ってかかれとはクリシュナムルティの言葉です。
>
>  その立脚点が執着(信念等)か否か?「分からない」、「見えない」。
>
>  顕在意識レベルの執着ならば分かる、見える。
>
>  顕在意識のすぐ下(直下)であれば、クリシュナムルティの指摘等があれば分かる、見える。
>
>  その奥は、関係の鏡を用いて、あるいはクリシュナムルティ理解への取り組みの中でひっかかるところ等を目当てに探ってゆくことができる。
>
>  そして、更にその奥底へ・・。。
>
>  クリシュナムルティが述べるには、それにはゴールがないとのこと。
>
>  クリシュナムルティとの関わりが深い人々は、一定以上、深層心理の奥底まで見えている、分かっていると見受けられます。
>
>  しかし、そこに満足することなく、更にその奥へと、クリシュナムルティは誘っているように思います。
>
>  また、その奥へと進んでゆくのか否かは、いずれにせよ縁あってのことではないでしょうか。。
>
>  私の場合は、社会や世界へ向けて、どうこうしようという意欲よりも、自身について、その奥へと進んでゆきたい。。
>
>  そして、自身が世界であるならば、それは世界にとっても有意義となるだろう・・。
>
>  そのようにして、クリシュナムルティ理解へ取り組んでいます。


はい。あなたのいま進む道を明示してくださって感謝します。私は人類の持つ心の動き、それは自分の心の動きでもありますが、それを探究しています。それはユングを読んだり、福岡正信、クリシュナムルティを読んだ来た心と別に変りません。

なおひとつ。 >新しい芽さんの「分からない(見ることができない)」は、とても正直さを感じます。ーー 
この・・・・・付きの文は新しい芽さんの文ではなく、私がわからない(見ることができない)という問題を見つめている状態を表現したつもりの文でしたが、わかりにくかったようでごめんなさい。 


[25329] Re:[25327] [25326] [25325] [25324] [25323] [25322] [25321] [25320] [25319] [25318] [25314] 人類の背負うもの 投稿者:宮啓 投稿日:2018/05/29(Tue) 17:44  

> > > >  >関係の間に愛、信頼、あこがれのようなものがあると起こるように感じます。−−、この「愛・信頼、あこがれ」が「愛」ではなく「利益」「取引」「有用性」であり、思考の産物としての感覚・感情ではないでしょうか。
> > > >
> > > >  この理解なしには思考は基盤を欠くと、クリシュナムルティは述べているのではないでしょうか。
> > > >
> > > >  基盤のない思考によって、哲学が論じられていないでしょうか。
> > >
> > >
> > > 私のよって立つ基盤は自分の心に浮かぶ知覚です。思考が浮かべば思考が浮かんだとわかって見ている知覚です。信じる神、あるいは聖者、賢人の教えではありません。その知覚に合致する、そしてより深いところを持っていると思うのでその話を聞きます。Kの本も新しい芽さんもそうです。反発するときも必死で何かを得ようとしている時もあります。でも、最後には自分の心の感じるところによって生きます。そう生きている時、理解が生じる時があります。理解は生の中で独立に生じます。その時これがKの言っていることかなあと思う事はあります。しかしほんとにそうかどうかはわかりません。そのような理解は自分の言葉で話せます。不遜かもしれませんがそうして生きています。
> > >
> > > いろいろな生を送っている人がいます。人間の生をいろいろな見地から見ています。今は哲学が人類をどう見ているかに関心があります。その立脚点は、竹田青嗣氏はフッサールの本質直観を基礎としています。フッサールの現象学は、Kの読書会でKと同視野に立つ人が哲学者に出てきたという事で話題になりました。それで当時入門書を2冊読みましたが、それが竹田氏の書いたものです。今度出た氏の欲望論は、私の読んだ入門書の集大成で、入門書ではなく本格的論文です。こんな縁があるという事です。
> >
> >
> >  はい。
> >
> >  そのような「縁」について非難・正当化することはできませんね。。
> >
> >  クリシュナムルティ理解は、多くの「縁」と関わりがあるように感じています。
> >
> >  キリスト教文化圏、イスラム教文化圏に縁あって生まれたならば、その条件付けによってクリシュナムルティとの関わりは薄かったのではないでしょうか。
> >
> >  また、戦時中に孤児となった人々がいますが、孤児という生育歴の縁を有する者は、親子の愛が「愛着」であり、本物の「愛」ではないとするクリシュナムルティの陳述を、そのまま聴くことができるのではないでしょうか。
> >
> >  あるいは、高学歴に恵まれなかった人々、そのような学歴・学問に薄い縁を有する者達にとって、思考の産物には限りがあるとするクリシュナムルティの陳述を、そのまま聴くことができるのではないでしょうか。。
> >
> >  母子間に聖なる感覚を伴う絆を感じて生きてきた、そのような生育歴の縁を有する者が、その絆に執着しないことは至難ということです。
> >
> >  知能優秀で、学際的に知識を重ね、論理的に縦横無尽に連結させうる頭脳と高学歴の縁を有する者が、その知識と理論に執着しないことは至難ではないでしょうか。
> >
> >  そのような無意識的な執着が、クリシュナムルティの陳述をそのままに聴くことを妨げること、これが『時間の終焉』の初めの部分で触れられています。
> >
> >  しかし、これらの「縁」を非難・正当化することなく、そのような「縁」が、クリシュナムルティ理解に対して、いかように作用するのかを調べることができるのでしょうか。。
> >
> >  >反発するときも必死で何かを得ようとしている時もあります。−−、この「反発」の時が、「縁」の作用なのかもしれません。
> >
> >  しかし、最終的には、>でも、最後には自分の心の感じるところによって生きます。−−、これが「縁」の作用として、最後まで残る執着(信念)なのかもしれません。
>
>
> 執着を見ることができない・・・・・
> 新しい芽さんは自分の心の動きに目が向けるとだけおっしゃいました。
> 思っているなぁーぐらいに(これも新しい芽さんが別の場合に言ったことですが・・・、余計な付けたしだったかな)


 新しい芽さんの「分からない(見ることができない)」は、とても正直さを感じます。

 以前、もしも覚者が居たとして、新しい芽サイトへ投稿してきたならば、それと分かるのか?と新しい芽さんへ問うたところ、「分からない」と返事をもらいました。正直な方だと思いました。

 自身の立脚点を疑ってかかれとはクリシュナムルティの言葉です。

 その立脚点が執着(信念等)か否か?「分からない」、「見えない」。

 顕在意識レベルの執着ならば分かる、見える。

 顕在意識のすぐ下(直下)であれば、クリシュナムルティの指摘等があれば分かる、見える。

 その奥は、関係の鏡を用いて、あるいはクリシュナムルティ理解への取り組みの中でひっかかるところ等を目当てに探ってゆくことができる。

 そして、更にその奥底へ・・。。

 クリシュナムルティが述べるには、それにはゴールがないとのこと。

 クリシュナムルティとの関わりが深い人々は、一定以上、深層心理の奥底まで見えている、分かっていると見受けられます。

 しかし、そこに満足することなく、更にその奥へと、クリシュナムルティは誘っているように思います。

 また、その奥へと進んでゆくのか否かは、いずれにせよ縁あってのことではないでしょうか。。

 私の場合は、社会や世界へ向けて、どうこうしようという意欲よりも、自身について、その奥へと進んでゆきたい。。

 そして、自身が世界であるならば、それは世界にとっても有意義となるだろう・・。

 そのようにして、クリシュナムルティ理解へ取り組んでいます。 


[25328] 無意識―フロイトの功績 投稿者:ゴト 投稿日:2018/05/29(Tue) 16:39  

1)人間の欲望、感受性、倫理感の核をなすものは、決して生来的なものではなく、関係世界の中での発生的本質を持つ。

2)人は自己の欲望、感受性、倫理感の発生の過程を自覚できず、故にそれらに対して「無意識」にならざるを得ない。

3)それら心の動きを対象化して働きかける(例えば「見る」)ことができるなら、それらを一新できるという点で、人間は「無意識なるもの」に対してむしろ自由な「主体」でありうることの可能性を持つことが示唆された。

これは竹田青嗣氏の言うところを、ほぼそのままに述べました。カッコ内は私の挿入です。


[25327] Re:[25326] [25325] [25324] [25323] [25322] [25321] [25320] [25319] [25318] [25314] 人類の背負うもの 投稿者:ゴト 投稿日:2018/05/29(Tue) 09:36  

> > > > > > > > 今、読み直すと私の書いたことは、竹田青嗣氏の欲望論の方向付けのビジョンの、私の受け取った要約です。ただ私の色がかなり濃く入っているので、氏の論ははるかに厳密で学的なものです。
> > > > > > > >
> > > > > > > > そのため本能を抑制して生きていかなければならない感じになるが、主体性の自由を確保しなければ生き生きした生との矛盾が生じ、そこで人類は混迷状態にあるという事だと思います。それを一手に引き受けているのが自我(=自己意識)でしょうが、そこに優劣、権力意識が発生するとなると厄介ですね。人間人類とはそういう生き物かもしれません。
> > > > > > > >
> > > > > > > > そこで私たち、Kを読んでいる者から言えば根源的変容(精神的革命)が必要という事がありますが、変容にしろどういうことか各人思いが違う、あるいはよくわからないでいるのが実情かもしれません。
> > > > > > >
> > > > > > >
> > > > > > >  「真理は言葉では表せない」とはクリシュナムルティがよく述べたことです。
> > > > > > >
> > > > > > >  クリシュナムルティの陳述は言葉で行われているがゆえに、直接真理を表しているのではない・・、ということですね。。
> > > > > > >
> > > > > > >  言葉によらずに、言葉に依存することなく、交感することによって、真理に触れてゆく。
> > > > > > >
> > > > > > >  ここで、言葉に依存すれば、行き詰まるかもしれません。
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > > 言葉の一般的意味(辞書にある意味)に頼れば行き詰まるでしょう。
> > > > > >
> > > > > > 交感があるというのはKと会って話をしないと難しいのかもしれないのですが、我々が実際に聞くことができるのは本や録音・録画を通してだけです。その言語を聴く。その場で実際に先入観も判断もなし聴く。その時即時の理解、気づきの可能性がある。その時意識されない静寂の境地がある。その理解、そのミニ変容と私が呼ぶものがあれば、瞬時瞬時のそれが変容です。これは新しい芽さんを通じて初めて分かったことです。
> > > > > >
> > > > > > この事はKを知らない多くの人にも起こります。だから心がくつろいで静かな時はチャンスであると新しい芽さんが時々おっしゃいました。その当時、私はよく理解できませんでしたが。
> > > > > >
> > > > > > 何心なく会話のできる時、それは平和な心です。皆がそうできるなら戦争は起きず、優劣はありません。これは別項に書こうとしたことですが、話の筋がそうなってきたので書きました。
> > > > >
> > > > >
> > > > >  更に、『時間の終焉』にてクリシュナムルティが述べるには、執着があれば、述べられたことを聴くことができない(旨)が陳述されています。
> > > > >
> > > > >
> > > > >  例えば、親子の絆に執着があれば、「親子の愛は、愛着であり愛ではない(旨)」がクリシュナムルティによって陳述されたとしても、その執着者によって、「本当はそのような意味では言ってはいないのだ・・」と変形されて聴かれるということです。
> > > > >
> > > > >  例えば、「思考の産物は限られている(旨)」がクリシュナムルティによって陳述されたとしても、知識に執着していると、「すべてが試みられたわけではないので、限られた中で、何とかなる可能性までは、クリシュナムルティは否定していない(旨)」と、このように執着者によって、変形されて聴かれるということです。。
> > > > >
> > > > >  真理は言葉によって表されることはないことと、執着があれば、真理を表わそうとする言葉さえ、そのまま聴かれることがない。
> > > > >
> > > > >  これが、クリシュナムルティの言葉です。
> > > >
> > > >
> > > > それはそうなんですが・・・・・、なんか昔のカソリック教徒の異端審問のようにならないようにお頼みします。
> > > > まずわからずやの尋究、審問を誘ってください。
> > > > 真理も二度目に繰り返されるとき、それは虚偽になるという意味のことをKが言っていたこともお忘れなく。これはどういう事なんでしょう。
> > > >
> > > > まず子供を気に掛ける親の心は執着か、愛か、どうやって見分けるか? また、人がそれに飛び込んでいく場合、それを止めようとすると葛藤になりますそれはしないで下さいと言うのがKの言葉です。
> > > > 自分のしていることにハッと気づく、知覚するにはいったい何が必要か? 関係の間に愛、信頼、あこがれのようなものがあると起こるように感じます。その時、はっと感じるものがあります。親子の間では子供の時からそれは起こりやすいようです。大人の場合でもそれはちょっとしたきっかけで起こります。逆に中立的間柄が壊れることもちょっとした期待外れなどから起きます。まあ私の言えることはこんなところです。
> > >
> > >
> > >  >関係の間に愛、信頼、あこがれのようなものがあると起こるように感じます。−−、この「愛・信頼、あこがれ」が「愛」ではなく「利益」「取引」「有用性」であり、思考の産物としての感覚・感情ではないでしょうか。
> > >
> > >  この理解なしには思考は基盤を欠くと、クリシュナムルティは述べているのではないでしょうか。
> > >
> > >  基盤のない思考によって、哲学が論じられていないでしょうか。
> >
> >
> > 私のよって立つ基盤は自分の心に浮かぶ知覚です。思考が浮かべば思考が浮かんだとわかって見ている知覚です。信じる神、あるいは聖者、賢人の教えではありません。その知覚に合致する、そしてより深いところを持っていると思うのでその話を聞きます。Kの本も新しい芽さんもそうです。反発するときも必死で何かを得ようとしている時もあります。でも、最後には自分の心の感じるところによって生きます。そう生きている時、理解が生じる時があります。理解は生の中で独立に生じます。その時これがKの言っていることかなあと思う事はあります。しかしほんとにそうかどうかはわかりません。そのような理解は自分の言葉で話せます。不遜かもしれませんがそうして生きています。
> >
> > いろいろな生を送っている人がいます。人間の生をいろいろな見地から見ています。今は哲学が人類をどう見ているかに関心があります。その立脚点は、竹田青嗣氏はフッサールの本質直観を基礎としています。フッサールの現象学は、Kの読書会でKと同視野に立つ人が哲学者に出てきたという事で話題になりました。それで当時入門書を2冊読みましたが、それが竹田氏の書いたものです。今度出た氏の欲望論は、私の読んだ入門書の集大成で、入門書ではなく本格的論文です。こんな縁があるという事です。
>
>
>  はい。
>
>  そのような「縁」について非難・正当化することはできませんね。。
>
>  クリシュナムルティ理解は、多くの「縁」と関わりがあるように感じています。
>
>  キリスト教文化圏、イスラム教文化圏に縁あって生まれたならば、その条件付けによってクリシュナムルティとの関わりは薄かったのではないでしょうか。
>
>  また、戦時中に孤児となった人々がいますが、孤児という生育歴の縁を有する者は、親子の愛が「愛着」であり、本物の「愛」ではないとするクリシュナムルティの陳述を、そのまま聴くことができるのではないでしょうか。
>
>  あるいは、高学歴に恵まれなかった人々、そのような学歴・学問に薄い縁を有する者達にとって、思考の産物には限りがあるとするクリシュナムルティの陳述を、そのまま聴くことができるのではないでしょうか。。
>
>  母子間に聖なる感覚を伴う絆を感じて生きてきた、そのような生育歴の縁を有する者が、その絆に執着しないことは至難ということです。
>
>  知能優秀で、学際的に知識を重ね、論理的に縦横無尽に連結させうる頭脳と高学歴の縁を有する者が、その知識と理論に執着しないことは至難ではないでしょうか。
>
>  そのような無意識的な執着が、クリシュナムルティの陳述をそのままに聴くことを妨げること、これが『時間の終焉』の初めの部分で触れられています。
>
>  しかし、これらの「縁」を非難・正当化することなく、そのような「縁」が、クリシュナムルティ理解に対して、いかように作用するのかを調べることができるのでしょうか。。
>
>  >反発するときも必死で何かを得ようとしている時もあります。−−、この「反発」の時が、「縁」の作用なのかもしれません。
>
>  しかし、最終的には、>でも、最後には自分の心の感じるところによって生きます。−−、これが「縁」の作用として、最後まで残る執着(信念)なのかもしれません。


執着を見ることができない・・・・・
新しい芽さんは自分の心の動きに目が向けるとだけおっしゃいました。
思っているなぁーぐらいに(これも新しい芽さんが別の場合に言ったことですが・・・、余計な付けたしだったかな)


[25326] Re:[25325] [25324] [25323] [25322] [25321] [25320] [25319] [25318] [25314] 人類の背負うもの 投稿者:宮啓 投稿日:2018/05/28(Mon) 17:17  

> > > > > > > 今、読み直すと私の書いたことは、竹田青嗣氏の欲望論の方向付けのビジョンの、私の受け取った要約です。ただ私の色がかなり濃く入っているので、氏の論ははるかに厳密で学的なものです。
> > > > > > >
> > > > > > > そのため本能を抑制して生きていかなければならない感じになるが、主体性の自由を確保しなければ生き生きした生との矛盾が生じ、そこで人類は混迷状態にあるという事だと思います。それを一手に引き受けているのが自我(=自己意識)でしょうが、そこに優劣、権力意識が発生するとなると厄介ですね。人間人類とはそういう生き物かもしれません。
> > > > > > >
> > > > > > > そこで私たち、Kを読んでいる者から言えば根源的変容(精神的革命)が必要という事がありますが、変容にしろどういうことか各人思いが違う、あるいはよくわからないでいるのが実情かもしれません。
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > >  「真理は言葉では表せない」とはクリシュナムルティがよく述べたことです。
> > > > > >
> > > > > >  クリシュナムルティの陳述は言葉で行われているがゆえに、直接真理を表しているのではない・・、ということですね。。
> > > > > >
> > > > > >  言葉によらずに、言葉に依存することなく、交感することによって、真理に触れてゆく。
> > > > > >
> > > > > >  ここで、言葉に依存すれば、行き詰まるかもしれません。
> > > > >
> > > > >
> > > > > 言葉の一般的意味(辞書にある意味)に頼れば行き詰まるでしょう。
> > > > >
> > > > > 交感があるというのはKと会って話をしないと難しいのかもしれないのですが、我々が実際に聞くことができるのは本や録音・録画を通してだけです。その言語を聴く。その場で実際に先入観も判断もなし聴く。その時即時の理解、気づきの可能性がある。その時意識されない静寂の境地がある。その理解、そのミニ変容と私が呼ぶものがあれば、瞬時瞬時のそれが変容です。これは新しい芽さんを通じて初めて分かったことです。
> > > > >
> > > > > この事はKを知らない多くの人にも起こります。だから心がくつろいで静かな時はチャンスであると新しい芽さんが時々おっしゃいました。その当時、私はよく理解できませんでしたが。
> > > > >
> > > > > 何心なく会話のできる時、それは平和な心です。皆がそうできるなら戦争は起きず、優劣はありません。これは別項に書こうとしたことですが、話の筋がそうなってきたので書きました。
> > > >
> > > >
> > > >  更に、『時間の終焉』にてクリシュナムルティが述べるには、執着があれば、述べられたことを聴くことができない(旨)が陳述されています。
> > > >
> > > >
> > > >  例えば、親子の絆に執着があれば、「親子の愛は、愛着であり愛ではない(旨)」がクリシュナムルティによって陳述されたとしても、その執着者によって、「本当はそのような意味では言ってはいないのだ・・」と変形されて聴かれるということです。
> > > >
> > > >  例えば、「思考の産物は限られている(旨)」がクリシュナムルティによって陳述されたとしても、知識に執着していると、「すべてが試みられたわけではないので、限られた中で、何とかなる可能性までは、クリシュナムルティは否定していない(旨)」と、このように執着者によって、変形されて聴かれるということです。。
> > > >
> > > >  真理は言葉によって表されることはないことと、執着があれば、真理を表わそうとする言葉さえ、そのまま聴かれることがない。
> > > >
> > > >  これが、クリシュナムルティの言葉です。
> > >
> > >
> > > それはそうなんですが・・・・・、なんか昔のカソリック教徒の異端審問のようにならないようにお頼みします。
> > > まずわからずやの尋究、審問を誘ってください。
> > > 真理も二度目に繰り返されるとき、それは虚偽になるという意味のことをKが言っていたこともお忘れなく。これはどういう事なんでしょう。
> > >
> > > まず子供を気に掛ける親の心は執着か、愛か、どうやって見分けるか? また、人がそれに飛び込んでいく場合、それを止めようとすると葛藤になりますそれはしないで下さいと言うのがKの言葉です。
> > > 自分のしていることにハッと気づく、知覚するにはいったい何が必要か? 関係の間に愛、信頼、あこがれのようなものがあると起こるように感じます。その時、はっと感じるものがあります。親子の間では子供の時からそれは起こりやすいようです。大人の場合でもそれはちょっとしたきっかけで起こります。逆に中立的間柄が壊れることもちょっとした期待外れなどから起きます。まあ私の言えることはこんなところです。
> >
> >
> >  >関係の間に愛、信頼、あこがれのようなものがあると起こるように感じます。−−、この「愛・信頼、あこがれ」が「愛」ではなく「利益」「取引」「有用性」であり、思考の産物としての感覚・感情ではないでしょうか。
> >
> >  この理解なしには思考は基盤を欠くと、クリシュナムルティは述べているのではないでしょうか。
> >
> >  基盤のない思考によって、哲学が論じられていないでしょうか。
>
>
> 私のよって立つ基盤は自分の心に浮かぶ知覚です。思考が浮かべば思考が浮かんだとわかって見ている知覚です。信じる神、あるいは聖者、賢人の教えではありません。その知覚に合致する、そしてより深いところを持っていると思うのでその話を聞きます。Kの本も新しい芽さんもそうです。反発するときも必死で何かを得ようとしている時もあります。でも、最後には自分の心の感じるところによって生きます。そう生きている時、理解が生じる時があります。理解は生の中で独立に生じます。その時これがKの言っていることかなあと思う事はあります。しかしほんとにそうかどうかはわかりません。そのような理解は自分の言葉で話せます。不遜かもしれませんがそうして生きています。
>
> いろいろな生を送っている人がいます。人間の生をいろいろな見地から見ています。今は哲学が人類をどう見ているかに関心があります。その立脚点は、竹田青嗣氏はフッサールの本質直観を基礎としています。フッサールの現象学は、Kの読書会でKと同視野に立つ人が哲学者に出てきたという事で話題になりました。それで当時入門書を2冊読みましたが、それが竹田氏の書いたものです。今度出た氏の欲望論は、私の読んだ入門書の集大成で、入門書ではなく本格的論文です。こんな縁があるという事です。


 はい。

 そのような「縁」について非難・正当化することはできませんね。。

 クリシュナムルティ理解は、多くの「縁」と関わりがあるように感じています。

 キリスト教文化圏、イスラム教文化圏に縁あって生まれたならば、その条件付けによってクリシュナムルティとの関わりは薄かったのではないでしょうか。

 また、戦時中に孤児となった人々がいますが、孤児という生育歴の縁を有する者は、親子の愛が「愛着」であり、本物の「愛」ではないとするクリシュナムルティの陳述を、そのまま聴くことができるのではないでしょうか。

 あるいは、高学歴に恵まれなかった人々、そのような学歴・学問に薄い縁を有する者達にとって、思考の産物には限りがあるとするクリシュナムルティの陳述を、そのまま聴くことができるのではないでしょうか。。

 母子間に聖なる感覚を伴う絆を感じて生きてきた、そのような生育歴の縁を有する者が、その絆に執着しないことは至難ということです。

 知能優秀で、学際的に知識を重ね、論理的に縦横無尽に連結させうる頭脳と高学歴の縁を有する者が、その知識と理論に執着しないことは至難ではないでしょうか。

 そのような無意識的な執着が、クリシュナムルティの陳述をそのままに聴くことを妨げること、これが『時間の終焉』の初めの部分で触れられています。

 しかし、これらの「縁」を非難・正当化することなく、そのような「縁」が、クリシュナムルティ理解に対して、いかように作用するのかを調べることができるのでしょうか。。

 >反発するときも必死で何かを得ようとしている時もあります。−−、この「反発」の時が、「縁」の作用なのかもしれません。

 しかし、最終的には、>でも、最後には自分の心の感じるところによって生きます。−−、これが「縁」の作用として、最後まで残る執着(信念)なのかもしれません。


[25325] Re:[25324] [25323] [25322] [25321] [25320] [25319] [25318] [25314] 人類の背負うもの 投稿者:ゴト 投稿日:2018/05/27(Sun) 22:49  

> > > > > > > > 人類はそれまでの動物と違った身体・器官を持ち、全く違う生を生きます。動物は本能に従い生を自由に堪能するが、それは無垢の領域の中にあります。しかし人類は知恵の木の実を食べた故にもはや本能の赴くままに生きることはできません。すなわち、心・意識を持ったゆえに新しい生の秩序をつくらないと、暴力の原理が作用し始める時(戦争)、人は勝つこと、生き延びることに専心するほかはなくなるのです。古代ギリシャの都市国家は代理戦争の挙句、どのポリスもどちらかにつくよう選択を迫られ、それがまた内部抗争を生み、結局衰退・滅亡となったらしい。それは現代でも同様です。
> > > > > > > >
> > > > > > > > そのような事態に陥っても敢然と真実と善と愛を説くことのできる人はソクラテスかクリシュナムルティ級の人ではないかと思います。そういう人が過半数を占めることができるかというと、戦争が始まってからでは無理でしょう。
> > > > > > > >  では平時に人類はどうしてきたかというと、実は一生懸命真、善、美を議論してきたし、言論の自由も打ち立ててきました。しかしその肝心の言論・探究が一向に進んでいるように見えない。堂々巡りしているように見える。
> > > > > > > >  例を挙げると、人格に現れ出る善は、最終的には「聖なるもの」に根拠づけられ、それは「絶対的」かつ「無限」のものであるといわれる。ま、これは神的なものの復活であり、お話しはわかりますがという事になります。しかしこんなものが上から目線で与えれれたのでは誰も従いません。こういう事で哲学は迷走しているのが現状だと思います。
> > > > > > > >
> > > > > > > > 動物から人類になって、本能という生きていく上の基準を失った人類がどうのように生きていくかは心の宿題として与えられました。その宿題を果たせていないことは明らかなので、やましい良心があります。そして優劣の区別が自己意識され、反感・憎悪(ルサンチマン)も心の中に分裂して形成されています。優者と劣者の分裂、葛藤。
> > > > > > > >
> > > > > > > > ここで人間はどう振舞えばいいか、竹田青嗣氏はそれを論じているのですが、それは、まだ自由には私は書けません。またそのうちに書きます。
> > > > > > >
> > > > > > >
> > > > > > >  「人類はどこで進路を間違えたのか?」とは、『時間の終焉』にて、クリシュナムルティとボームの対話の冒頭で陳述されます。
> > > > > > >
> > > > > > >  それと、同レベルの内容が、竹田青嗣氏の論にはあると感じているのですね。。
> > > > > >
> > > > > > 今、読み直すと私の書いたことは、竹田青嗣氏の欲望論の方向付けのビジョンの、私の受け取った要約です。ただ私の色がかなり濃く入っているので、氏の論ははるかに厳密で学的なものです。
> > > > > >
> > > > > > そのため本能を抑制して生きていかなければならない感じになるが、主体性の自由を確保しなければ生き生きした生との矛盾が生じ、そこで人類は混迷状態にあるという事だと思います。それを一手に引き受けているのが自我(=自己意識)でしょうが、そこに優劣、権力意識が発生するとなると厄介ですね。人間人類とはそういう生き物かもしれません。
> > > > > >
> > > > > > そこで私たち、Kを読んでいる者から言えば根源的変容(精神的革命)が必要という事がありますが、変容にしろどういうことか各人思いが違う、あるいはよくわからないでいるのが実情かもしれません。
> > > > >
> > > > >
> > > > >  「真理は言葉では表せない」とはクリシュナムルティがよく述べたことです。
> > > > >
> > > > >  クリシュナムルティの陳述は言葉で行われているがゆえに、直接真理を表しているのではない・・、ということですね。。
> > > > >
> > > > >  言葉によらずに、言葉に依存することなく、交感することによって、真理に触れてゆく。
> > > > >
> > > > >  ここで、言葉に依存すれば、行き詰まるかもしれません。
> > > >
> > > >
> > > > 言葉の一般的意味(辞書にある意味)に頼れば行き詰まるでしょう。
> > > >
> > > > 交感があるというのはKと会って話をしないと難しいのかもしれないのですが、我々が実際に聞くことができるのは本や録音・録画を通してだけです。その言語を聴く。その場で実際に先入観も判断もなし聴く。その時即時の理解、気づきの可能性がある。その時意識されない静寂の境地がある。その理解、そのミニ変容と私が呼ぶものがあれば、瞬時瞬時のそれが変容です。これは新しい芽さんを通じて初めて分かったことです。
> > > >
> > > > この事はKを知らない多くの人にも起こります。だから心がくつろいで静かな時はチャンスであると新しい芽さんが時々おっしゃいました。その当時、私はよく理解できませんでしたが。
> > > >
> > > > 何心なく会話のできる時、それは平和な心です。皆がそうできるなら戦争は起きず、優劣はありません。これは別項に書こうとしたことですが、話の筋がそうなってきたので書きました。
> > >
> > >
> > >  更に、『時間の終焉』にてクリシュナムルティが述べるには、執着があれば、述べられたことを聴くことができない(旨)が陳述されています。
> > >
> > >
> > >  例えば、親子の絆に執着があれば、「親子の愛は、愛着であり愛ではない(旨)」がクリシュナムルティによって陳述されたとしても、その執着者によって、「本当はそのような意味では言ってはいないのだ・・」と変形されて聴かれるということです。
> > >
> > >  例えば、「思考の産物は限られている(旨)」がクリシュナムルティによって陳述されたとしても、知識に執着していると、「すべてが試みられたわけではないので、限られた中で、何とかなる可能性までは、クリシュナムルティは否定していない(旨)」と、このように執着者によって、変形されて聴かれるということです。。
> > >
> > >  真理は言葉によって表されることはないことと、執着があれば、真理を表わそうとする言葉さえ、そのまま聴かれることがない。
> > >
> > >  これが、クリシュナムルティの言葉です。
> >
> >
> > それはそうなんですが・・・・・、なんか昔のカソリック教徒の異端審問のようにならないようにお頼みします。
> > まずわからずやの尋究、審問を誘ってください。
> > 真理も二度目に繰り返されるとき、それは虚偽になるという意味のことをKが言っていたこともお忘れなく。これはどういう事なんでしょう。
> >
> > まず子供を気に掛ける親の心は執着か、愛か、どうやって見分けるか? また、人がそれに飛び込んでいく場合、それを止めようとすると葛藤になりますそれはしないで下さいと言うのがKの言葉です。
> > 自分のしていることにハッと気づく、知覚するにはいったい何が必要か? 関係の間に愛、信頼、あこがれのようなものがあると起こるように感じます。その時、はっと感じるものがあります。親子の間では子供の時からそれは起こりやすいようです。大人の場合でもそれはちょっとしたきっかけで起こります。逆に中立的間柄が壊れることもちょっとした期待外れなどから起きます。まあ私の言えることはこんなところです。
>
>
>  >関係の間に愛、信頼、あこがれのようなものがあると起こるように感じます。−−、この「愛・信頼、あこがれ」が「愛」ではなく「利益」「取引」「有用性」であり、思考の産物としての感覚・感情ではないでしょうか。
>
>  この理解なしには思考は基盤を欠くと、クリシュナムルティは述べているのではないでしょうか。
>
>  基盤のない思考によって、哲学が論じられていないでしょうか。


私のよって立つ基盤は自分の心に浮かぶ知覚です。思考が浮かべば思考が浮かんだとわかって見ている知覚です。信じる神、あるいは聖者、賢人の教えではありません。その知覚に合致する、そしてより深いところを持っていると思うのでその話を聞きます。Kの本も新しい芽さんもそうです。反発するときも必死で何かを得ようとしている時もあります。でも、最後には自分の心の感じるところによって生きます。そう生きている時、理解が生じる時があります。理解は生の中で独立に生じます。その時これがKの言っていることかなあと思う事はあります。しかしほんとにそうかどうかはわかりません。そのような理解は自分の言葉で話せます。不遜かもしれませんがそうして生きています。

いろいろな生を送っている人がいます。人間の生をいろいろな見地から見ています。今は哲学が人類をどう見ているかに関心があります。その立脚点は、竹田青嗣氏はフッサールの本質直観を基礎としています。フッサールの現象学は、Kの読書会でKと同視野に立つ人が哲学者に出てきたという事で話題になりました。それで当時入門書を2冊読みましたが、それが竹田氏の書いたものです。今度出た氏の欲望論は、私の読んだ入門書の集大成で、入門書ではなく本格的論文です。こんな縁があるという事です。



[25324] Re:[25323] [25322] [25321] [25320] [25319] [25318] [25314] 人類の背負うもの 投稿者:宮啓 投稿日:2018/05/27(Sun) 19:15  

> > > > > > > 人類はそれまでの動物と違った身体・器官を持ち、全く違う生を生きます。動物は本能に従い生を自由に堪能するが、それは無垢の領域の中にあります。しかし人類は知恵の木の実を食べた故にもはや本能の赴くままに生きることはできません。すなわち、心・意識を持ったゆえに新しい生の秩序をつくらないと、暴力の原理が作用し始める時(戦争)、人は勝つこと、生き延びることに専心するほかはなくなるのです。古代ギリシャの都市国家は代理戦争の挙句、どのポリスもどちらかにつくよう選択を迫られ、それがまた内部抗争を生み、結局衰退・滅亡となったらしい。それは現代でも同様です。
> > > > > > >
> > > > > > > そのような事態に陥っても敢然と真実と善と愛を説くことのできる人はソクラテスかクリシュナムルティ級の人ではないかと思います。そういう人が過半数を占めることができるかというと、戦争が始まってからでは無理でしょう。
> > > > > > >  では平時に人類はどうしてきたかというと、実は一生懸命真、善、美を議論してきたし、言論の自由も打ち立ててきました。しかしその肝心の言論・探究が一向に進んでいるように見えない。堂々巡りしているように見える。
> > > > > > >  例を挙げると、人格に現れ出る善は、最終的には「聖なるもの」に根拠づけられ、それは「絶対的」かつ「無限」のものであるといわれる。ま、これは神的なものの復活であり、お話しはわかりますがという事になります。しかしこんなものが上から目線で与えれれたのでは誰も従いません。こういう事で哲学は迷走しているのが現状だと思います。
> > > > > > >
> > > > > > > 動物から人類になって、本能という生きていく上の基準を失った人類がどうのように生きていくかは心の宿題として与えられました。その宿題を果たせていないことは明らかなので、やましい良心があります。そして優劣の区別が自己意識され、反感・憎悪(ルサンチマン)も心の中に分裂して形成されています。優者と劣者の分裂、葛藤。
> > > > > > >
> > > > > > > ここで人間はどう振舞えばいいか、竹田青嗣氏はそれを論じているのですが、それは、まだ自由には私は書けません。またそのうちに書きます。
> > > > > >
> > > > > >
> > > > > >  「人類はどこで進路を間違えたのか?」とは、『時間の終焉』にて、クリシュナムルティとボームの対話の冒頭で陳述されます。
> > > > > >
> > > > > >  それと、同レベルの内容が、竹田青嗣氏の論にはあると感じているのですね。。
> > > > >
> > > > > 今、読み直すと私の書いたことは、竹田青嗣氏の欲望論の方向付けのビジョンの、私の受け取った要約です。ただ私の色がかなり濃く入っているので、氏の論ははるかに厳密で学的なものです。
> > > > >
> > > > > そのため本能を抑制して生きていかなければならない感じになるが、主体性の自由を確保しなければ生き生きした生との矛盾が生じ、そこで人類は混迷状態にあるという事だと思います。それを一手に引き受けているのが自我(=自己意識)でしょうが、そこに優劣、権力意識が発生するとなると厄介ですね。人間人類とはそういう生き物かもしれません。
> > > > >
> > > > > そこで私たち、Kを読んでいる者から言えば根源的変容(精神的革命)が必要という事がありますが、変容にしろどういうことか各人思いが違う、あるいはよくわからないでいるのが実情かもしれません。
> > > >
> > > >
> > > >  「真理は言葉では表せない」とはクリシュナムルティがよく述べたことです。
> > > >
> > > >  クリシュナムルティの陳述は言葉で行われているがゆえに、直接真理を表しているのではない・・、ということですね。。
> > > >
> > > >  言葉によらずに、言葉に依存することなく、交感することによって、真理に触れてゆく。
> > > >
> > > >  ここで、言葉に依存すれば、行き詰まるかもしれません。
> > >
> > >
> > > 言葉の一般的意味(辞書にある意味)に頼れば行き詰まるでしょう。
> > >
> > > 交感があるというのはKと会って話をしないと難しいのかもしれないのですが、我々が実際に聞くことができるのは本や録音・録画を通してだけです。その言語を聴く。その場で実際に先入観も判断もなし聴く。その時即時の理解、気づきの可能性がある。その時意識されない静寂の境地がある。その理解、そのミニ変容と私が呼ぶものがあれば、瞬時瞬時のそれが変容です。これは新しい芽さんを通じて初めて分かったことです。
> > >
> > > この事はKを知らない多くの人にも起こります。だから心がくつろいで静かな時はチャンスであると新しい芽さんが時々おっしゃいました。その当時、私はよく理解できませんでしたが。
> > >
> > > 何心なく会話のできる時、それは平和な心です。皆がそうできるなら戦争は起きず、優劣はありません。これは別項に書こうとしたことですが、話の筋がそうなってきたので書きました。
> >
> >
> >  更に、『時間の終焉』にてクリシュナムルティが述べるには、執着があれば、述べられたことを聴くことができない(旨)が陳述されています。
> >
> >
> >  例えば、親子の絆に執着があれば、「親子の愛は、愛着であり愛ではない(旨)」がクリシュナムルティによって陳述されたとしても、その執着者によって、「本当はそのような意味では言ってはいないのだ・・」と変形されて聴かれるということです。
> >
> >  例えば、「思考の産物は限られている(旨)」がクリシュナムルティによって陳述されたとしても、知識に執着していると、「すべてが試みられたわけではないので、限られた中で、何とかなる可能性までは、クリシュナムルティは否定していない(旨)」と、このように執着者によって、変形されて聴かれるということです。。
> >
> >  真理は言葉によって表されることはないことと、執着があれば、真理を表わそうとする言葉さえ、そのまま聴かれることがない。
> >
> >  これが、クリシュナムルティの言葉です。
>
>
> それはそうなんですが・・・・・、なんか昔のカソリック教徒の異端審問のようにならないようにお頼みします。
> まずわからずやの尋究、審問を誘ってください。
> 真理も二度目に繰り返されるとき、それは虚偽になるという意味のことをKが言っていたこともお忘れなく。これはどういう事なんでしょう。
>
> まず子供を気に掛ける親の心は執着か、愛か、どうやって見分けるか? また、人がそれに飛び込んでいく場合、それを止めようとすると葛藤になりますそれはしないで下さいと言うのがKの言葉です。
> 自分のしていることにハッと気づく、知覚するにはいったい何が必要か? 関係の間に愛、信頼、あこがれのようなものがあると起こるように感じます。その時、はっと感じるものがあります。親子の間では子供の時からそれは起こりやすいようです。大人の場合でもそれはちょっとしたきっかけで起こります。逆に中立的間柄が壊れることもちょっとした期待外れなどから起きます。まあ私の言えることはこんなところです。


 >関係の間に愛、信頼、あこがれのようなものがあると起こるように感じます。−−、この「愛・信頼、あこがれ」が「愛」ではなく「利益」「取引」「有用性」であり、思考の産物としての感覚・感情ではないでしょうか。

 この理解なしには思考は基盤を欠くと、クリシュナムルティは述べているのではないでしょうか。

 基盤のない思考によって、哲学が論じられていないでしょうか。


[25323] Re:[25322] [25321] [25320] [25319] [25318] [25314] 人類の背負うもの 投稿者:ゴト 投稿日:2018/05/27(Sun) 17:56  

> > > > > > 人類はそれまでの動物と違った身体・器官を持ち、全く違う生を生きます。動物は本能に従い生を自由に堪能するが、それは無垢の領域の中にあります。しかし人類は知恵の木の実を食べた故にもはや本能の赴くままに生きることはできません。すなわち、心・意識を持ったゆえに新しい生の秩序をつくらないと、暴力の原理が作用し始める時(戦争)、人は勝つこと、生き延びることに専心するほかはなくなるのです。古代ギリシャの都市国家は代理戦争の挙句、どのポリスもどちらかにつくよう選択を迫られ、それがまた内部抗争を生み、結局衰退・滅亡となったらしい。それは現代でも同様です。
> > > > > >
> > > > > > そのような事態に陥っても敢然と真実と善と愛を説くことのできる人はソクラテスかクリシュナムルティ級の人ではないかと思います。そういう人が過半数を占めることができるかというと、戦争が始まってからでは無理でしょう。
> > > > > >  では平時に人類はどうしてきたかというと、実は一生懸命真、善、美を議論してきたし、言論の自由も打ち立ててきました。しかしその肝心の言論・探究が一向に進んでいるように見えない。堂々巡りしているように見える。
> > > > > >  例を挙げると、人格に現れ出る善は、最終的には「聖なるもの」に根拠づけられ、それは「絶対的」かつ「無限」のものであるといわれる。ま、これは神的なものの復活であり、お話しはわかりますがという事になります。しかしこんなものが上から目線で与えれれたのでは誰も従いません。こういう事で哲学は迷走しているのが現状だと思います。
> > > > > >
> > > > > > 動物から人類になって、本能という生きていく上の基準を失った人類がどうのように生きていくかは心の宿題として与えられました。その宿題を果たせていないことは明らかなので、やましい良心があります。そして優劣の区別が自己意識され、反感・憎悪(ルサンチマン)も心の中に分裂して形成されています。優者と劣者の分裂、葛藤。
> > > > > >
> > > > > > ここで人間はどう振舞えばいいか、竹田青嗣氏はそれを論じているのですが、それは、まだ自由には私は書けません。またそのうちに書きます。
> > > > >
> > > > >
> > > > >  「人類はどこで進路を間違えたのか?」とは、『時間の終焉』にて、クリシュナムルティとボームの対話の冒頭で陳述されます。
> > > > >
> > > > >  それと、同レベルの内容が、竹田青嗣氏の論にはあると感じているのですね。。
> > > >
> > > > 今、読み直すと私の書いたことは、竹田青嗣氏の欲望論の方向付けのビジョンの、私の受け取った要約です。ただ私の色がかなり濃く入っているので、氏の論ははるかに厳密で学的なものです。
> > > >
> > > > そのため本能を抑制して生きていかなければならない感じになるが、主体性の自由を確保しなければ生き生きした生との矛盾が生じ、そこで人類は混迷状態にあるという事だと思います。それを一手に引き受けているのが自我(=自己意識)でしょうが、そこに優劣、権力意識が発生するとなると厄介ですね。人間人類とはそういう生き物かもしれません。
> > > >
> > > > そこで私たち、Kを読んでいる者から言えば根源的変容(精神的革命)が必要という事がありますが、変容にしろどういうことか各人思いが違う、あるいはよくわからないでいるのが実情かもしれません。
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> > >  「真理は言葉では表せない」とはクリシュナムルティがよく述べたことです。
> > >
> > >  クリシュナムルティの陳述は言葉で行われているがゆえに、直接真理を表しているのではない・・、ということですね。。
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> > >  言葉によらずに、言葉に依存することなく、交感することによって、真理に触れてゆく。
> > >
> > >  ここで、言葉に依存すれば、行き詰まるかもしれません。
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> > 言葉の一般的意味(辞書にある意味)に頼れば行き詰まるでしょう。
> >
> > 交感があるというのはKと会って話をしないと難しいのかもしれないのですが、我々が実際に聞くことができるのは本や録音・録画を通してだけです。その言語を聴く。その場で実際に先入観も判断もなし聴く。その時即時の理解、気づきの可能性がある。その時意識されない静寂の境地がある。その理解、そのミニ変容と私が呼ぶものがあれば、瞬時瞬時のそれが変容です。これは新しい芽さんを通じて初めて分かったことです。
> >
> > この事はKを知らない多くの人にも起こります。だから心がくつろいで静かな時はチャンスであると新しい芽さんが時々おっしゃいました。その当時、私はよく理解できませんでしたが。
> >
> > 何心なく会話のできる時、それは平和な心です。皆がそうできるなら戦争は起きず、優劣はありません。これは別項に書こうとしたことですが、話の筋がそうなってきたので書きました。
>
>
>  更に、『時間の終焉』にてクリシュナムルティが述べるには、執着があれば、述べられたことを聴くことができない(旨)が陳述されています。
>
>
>  例えば、親子の絆に執着があれば、「親子の愛は、愛着であり愛ではない(旨)」がクリシュナムルティによって陳述されたとしても、その執着者によって、「本当はそのような意味では言ってはいないのだ・・」と変形されて聴かれるということです。
>
>  例えば、「思考の産物は限られている(旨)」がクリシュナムルティによって陳述されたとしても、知識に執着していると、「すべてが試みられたわけではないので、限られた中で、何とかなる可能性までは、クリシュナムルティは否定していない(旨)」と、このように執着者によって、変形されて聴かれるということです。。
>
>  真理は言葉によって表されることはないことと、執着があれば、真理を表わそうとする言葉さえ、そのまま聴かれることがない。
>
>  これが、クリシュナムルティの言葉です。


それはそうなんですが・・・・・、なんか昔のカソリック教徒の異端審問のようにならないようにお頼みします。
まずわからずやの尋究、審問を誘ってください。
真理も二度目に繰り返されるとき、それは虚偽になるという意味のことをKが言っていたこともお忘れなく。これはどういう事なんでしょう。

まず子供を気に掛ける親の心は執着か、愛か、どうやって見分けるか? また、人がそれに飛び込んでいく場合、それを止めようとすると葛藤になりますそれはしないで下さいと言うのがKの言葉です。
自分のしていることにハッと気づく、知覚するにはいったい何が必要か? 関係の間に愛、信頼、あこがれのようなものがあると起こるように感じます。その時、はっと感じるものがあります。親子の間では子供の時からそれは起こりやすいようです。大人の場合でもそれはちょっとしたきっかけで起こります。逆に中立的間柄が壊れることもちょっとした期待外れなどから起きます。まあ私の言えることはこんなところです。


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