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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1949年 ロンドンの公開講話(第2回)

J. Krishnamurti London 2nd Public Talk 9th October 1949

たぶん私たちの大部分は確定した見解を持っています。あるいは確定した結論に達しており、それから外れること、あるいは別の観点から見ることは非常に困難です。なぜなら私たちの大部分は非常に痛ましく生きており、苦しんでいるからです。そして私たちは特定の見解に達しており、それを変えるのは困難であることを見出します。そして、ともかくも他の人の言うことを聞くなら、私達自身の結論、私達自身の経験、私達自身の知識というスクリーンを通して聞くのです。それで他の人の言うことを十分かつ完全に理解することは極めて困難です。それで、提案してよろしければ、私たちはしばらくの間、少なくとも今朝の間、私たちの特定の結論と見解を脇において、私たちに立ちはだかる問題を共に熟慮しようとしなければなりません。結論を欲しがること、種々の問題に答えを欲しがることが私たちの抱える難しさであるでしょう。しかし、生じるそれぞれの問題を十分聡明に、それは結論によって束縛されることなしに、確定した意見なしにということですが、調べることができるなら、そのとき、たぶん、問題を十分に、統合的に理解できるでしょう。

私たちの生における問題の一つは、個人と彼の国家に対する関係の問題ではないでしょうか? たぶん、個人の過程全体を理解できるなら、そのとき、私たちは、一人や二人の人に対してではなく、多数、大衆、国、全体としての人々に対しての私たちの関係を理解できるでしょう。そこで国家と個人の間のこの分割は誤りがあると私には思われます。なぜなら、何といっても、国家が、私たちがそうであるものであるように私たちはするからです。私たち一人一人がそうであるものを私たちは投影します。これは非常に単純な哲学、非常に単純な観念であり、調べる価値がないように思われるかもしれません。なぜなら、私たちの心は非常に複雑であり、私たちは非常にたくさん読んでおり、非常に聡明で、利口で、そのため問題を単純に考えることができないからです。しかし、この高度に複雑な問題を非常に直接かつ単純に考えなければならないと私には思われます。なぜなら、何といっても、複雑な問題はそれに否定的に近づくときのみ、十分に理解することができるからです。そして個人と彼の過程を理解することの中で、私たちはたぶん個人の国家に対する、あるいは大衆に対する、あるいは他の個人に対する関係を理解するでしょう。

それゆえ、私にとっては、国家に対する個人の関係の問題は、私たちが個人の過程を理解するときのみ理解することができるのです。なぜなら、個人なしには、国家はないからです。

大衆というようなものはありません。それは種々の目的、搾取などに都合のよい政治的手段です。そしてまた、私たちの大抵にとっては、大衆について話すとき、それは人々を始末する便利なやり方です。なぜなら、個人を見ること、他人を見ることは多くの注意、思考、熟慮を必要とするからで、私たちはそれを注ぎたくありません。それゆえ、私たちは彼等を大衆と呼びます-そして大衆は私達自身、あなたと私、です。

社会と呼ぶ投影全体を、そのあらゆる複雑さを含めて理解するためには、確かに私たち自身を理解しなければなりません。しかし私たちの大抵は私たち自身を理解するのが気が進まないのです。なぜなら、それはつまらない飽き飽きする仕事だからです。そして私たちはそれはあまり意義を持っていない、自分を理解することはどこへも通じないと思います。ところが、もし私たちが社会の中にある改革、ある改変をもたらすように働くことが、手伝うことができるなら、たぶん、それは価値があるでしょう。そしてまた、自己を理解することの中で私達は不可避的に自己中心的に、自己閉鎖的になるという印象があるのです。

確かに、自分自身および、個人がいまそうであるものの過程全体を十分に理解することは、孤立でなく、隠遁でなく、関係を理解することを必要とします。なぜなら、何といっても、すべての行為は関係であるからです。関係のない行為はありません。そして、他人との私の関係の中に敵意、貪欲、羨望がないなら、葛藤をもたらす種々の原因のすべてがないなら、確かに、私はその関係の結果である社会を創造するでしょう。それゆえ、私自身を理解することは自己中心的過程ではありません。それどころか、それは関係の気づきを必要とします。したがって、関係は私が私自身を発見する、私自身を見る鏡です-それが一人の人との関係であろうと、多くの人との、社会との関係であろうと。そして社会の中に抜本的な変革を望むなら、私は明らかに私自身を理解しなければなりません。

これはむしろ、あまり意義がなく、子供じみて幼稚に聞こえるかもしれません。しかしそれはそう簡単でも、そんなに容易に払いのけられてしまうとも私は思いません。

あなたは「歴史に影響するように、個人が何をすることができるでしょうか?」と言うかもしれません。彼の人生で何をすることができるでしょうか? あなたが戦争を即座に止めるだろうとか、様々な人の間により良い理解をもたらすだろうとは私は思いません。しかし少なくとも世界の中に私は住んでいます。私の直接の関係の世界の中に-それが私の上司、妻、子供、あるいは隣人とであっても-その場所で、少なくとも、私はある改革、ある変革、ある理解をもたらすことができます。私はロシヤ人や、ドイツ人や、インド人に理解をもたらすことはできないかもしれません。しかし少なくとも世界の中に私は住んでおり、ある平和、ある幸福、ある愛、愛情、その他もろもろがあり得ます。そして私は思うのですが、それは世界に大きく広く影響しないかもしれないけれど、少なくとも私は核、異なった価値、異なった理解と意義の中心であり得ます。そしておそらくそれは世界に徐々に変革をもたらすでしょう。

しかし、確かに、私達は基本的に世界の変革にかかわっていません。なぜなら私のすること、あなたのすることはあまり影響を持たないでしょうから。しかし私が貪欲であることを止めることができるなら-表面的でなくて深く-、私が野心的であるのを止めることができるなら、そのとき、たぶん、私は新しい息吹、新しい理解を生にもたらすことができるでしょう。そして確かに、それはもっとも効果的で直接の行為ではないでしょうか?-自己のなかに変容、根本的な変化をもたらすために。というのは何といっても、それがすべての大きな運動が、個人で、自分自身で、始められるやり方であるからです。それゆえ、国に対する私の関係-あるいはあなたの関係、個人の関係-は、私が私自身の全過程を理解するときのみ、理解されることができ、そしてその関係の中の変化がもたらされるのです。

どうか、「これは幼稚で愚かだ。それは世界に影響しない」と言って、これを無視しないでください。何が世界の中で根本的影響を持っているのでしょうか? 大衆運動? それとも、その根本的影響は自己中心的、利己的、自己閉鎖的でない、彼らの利益と野心を投影しない少数の創造的な人たち、本当に利己主義から自由である少数の人たちによってもたらされるのでしょうか?

それゆえ、これを理解するためには、人は過程を知らなければなりません。行為の中の、それは関係ですが、自分自身に気づいていなければなりません。私たちのあるがままを理解することの中で、私達は私達に立ちはだかる多くの問題に対する解答を見出すでしょう。私達のあるがままを表面的に、心の上部のレベルで理解するだけでなく、自己の内容全体を知って。隠れたものも明らかなものも。表面的なレベルも私達の意識の多くのレべルも。現在はそれに私達は気づいていないのです。たぶん私達は稀な瞬間、それらに気づくでしょう。しかし、全ての隠れたものを意識の中にもたらし、それで個人的な、利己的な、狭量な意図と追求を解消し、それによって正しい関係を確立することは、もっとも重要なことと私には思われます。それが私が価値があると感じる唯一のことです-討論し、話し、生きている間に。表面的だけでなくて内的に、どうやって貪欲から自由になるかが。なぜならそれが葛藤の原因の一つであるからです。そうではないでしょうか?-貪欲、物、所有を求めるだけでなく、力を求める貪欲、知識を求める貪欲、名声を求める貪欲。そして貪欲を理解するためには、確かに、多量の注意が必要です-誰が貪欲であるか見出すとか、貪欲でない人のパターンを模倣するためではなく、貪欲であるものとしての自己に気づいているため、そしてその貪欲のあらゆる含蓄を追い、理解するためには。なぜなら、明らかに、貪欲は社会的影響を持っているからです。貪欲であり、力を追求している個人が、同じように力、地位、名声を求めて貪欲であるグループや国をもたらすからです。それは戦争を引き起こします。

貪欲から自由であること、そして貪欲の結果、暴力の結果に他ならない社会の中に生きることが出来るでしょうか? 私はその質問は直接の経験を通してのみ答えることができると思います。言葉の上だけで貪欲から自由であろうとするのではなくて、私達が非貪欲の経験、本当の経験、を知るときに。何といっても貪欲はそれ自身を非常に多くのやり方で表現します-真理への貪欲、地位への貪欲、幸福への貪欲、そして物への、安全への貪欲。外部の物理的安全は、内部の心理的安全がないとき、否定されるのでしょうか? 各人が彼自身の安全を追求することなしに、この世界に生きることはできないでしょうか? 何といっても私達一人一人が物理的安全より、ずっと心理的安全を求めています。私達は所有物、物、外部の安全を、心理的安全の手段として使います。物理的必要が心理的必要性になるとき、そのときその心理的必要性は外部の安全を破壊します。私たちはこれを考えぬくことができます-それは非常に明白です。私が、物、所有物、財産を自己表現の手段として、攻撃的な、自己投影の生存の手段として用いている限り、そのとき、必要は最重要になります。そのとき、物、財産、はもっとも支配的になります。なぜなら、私は物、財産を私の内部の心理的安全のために使用しているからです。

そしてなぜ私たちは内側で安全を望むのでしょうか? 外側で、物質的に安全であることは不可欠です。さもなければ私たちは生きることができません。もしも私が普通の食事を持たず、あなたも持たないなら、あなたと私はここにいることはできないでしょう。私たちは外的な安全を持たなければなりません。しかし私は、私たちが外的な安全を内的拡張の、貪欲の内部的な追求の手段として使用するとき、私達の安全は否定される、破壊されると感じます。なぜなら、そのとき、私達は物を必需品として用いるのではなくて、それらに心理的意味を与えるからです。財産はそのとき私達にとって心理的な生き残りの手段となります。何といっても、称号、地位、位階、富は心理的生き残り、心理的確実性、安全の手段として用いられているのではないでしょうか? そして物を通じて心理的安全を求めている限り、物に関して争いがきっとありますね?

内的に安全、心理的に確実であることなしに、関係の中に生きることが出来るでしょうか? 何といっても、それが「確実」、「安全」という言葉で私たちが言っていることです。私たちの大抵は、物理的安全から離れて、心理的安全を求めているのではないでしょうか? 私達は環境に依存する、その他で、多かれ少なかれ、物理的安全を持たなければなりません。しかし心理的な安全の必要があるでしょうか? 私たちはそれを望みますか? 私たちはそれを求めているけれど、私達の永遠の追求は内的に安全であることであるけれど、それは間違った過程、間違った生への接近ではないでしょうか? 内的な安全があるでしょうか? あなたと私はそれを望むかもしれません-しかし内的な安全というようなそんなものがあるでしょうか? 私が関係の中で確かであることを望むとき-それが観念、人、物のどれとであろうが-私はその関係の中に安全を、その関係の中に内的な確実性を見つけるでしょうか?

そして、私が私の関係の中で安全であるなら、それは関係でしょうか? 私があなたを妻やボス、友人として固く信じているなら-私の内的な安全の道具としてあなたを用いているという意味において固く信じているなら-私達の間に関係はあるでしょうか? 私があなたを利用しているとき、あなたと私の間に何かの関係があるでしょうか? 私があなたを私の内的な安全の手段として利用している限り、私達の関係は何なのでしょうか? あなたは私にとって、ただの役に立つ道具であるだけです。私はあなたに関係していません。あなたは使われるべき一個の家具です。すなわち、内的に、心理的に、私は貧しく、空虚で、不充分です。それゆえ、私はあなたを、私自身を覆い隠す手段として利用します。そしてそのような利用を私達は愛、あるいはあなたの好むもの、と呼ぶのです。

この逃避を、財産や、人々、観念との関係のどれであろうが、私達は関係と呼ぶのです。そして、確かに、そのような関係は不可避的に葛藤、悲しみ、災厄をつくり出すに違いありません。そしてそれが私たちが生きている状態です-私達自身の内部の貧しさを覆い隠す手段として、人、物を利用して。したがって、私たちが利用するものが最重要になります。人、所有物、観念、信念、が最重要になります。なぜなら、それらなしには私達は途方に暮れてしまうからです。したがって、もっと知識、もっと人、もっと物。しかもなお、私達のあるがままを、私達は決して理解してきていません。そして心理的安全を求めている限り、私達は決して私達自身を理解しないであろうと私には思われます。しかし、私達が人々、物を、私達自身からの私達自身の逃避のために利用しているということに気づいているとき、その逃避に気づいていることが、確かに異なった関係をもたらします。そのとき人や、観念、物はもはや本質的に重要ではありません。したがって、私達は物、人にそのように愛着しません。そのとき財産の問題への聡明な接近があります。しかし、私が私の内部の貧困を覆い隠す手段として財産を利用している限り、私はそれに聡明に接近することができません。なぜなら、物に愛着している限り、私達はそれらの物なのです。財産に愛着している限り、あなたは財産なのであり、精神的な存在ではないのです。それはただのたくさんのごまかし話しです。あなたが信念に愛着している限り、あなたはその信念です。あなたが人に愛着している限り、あなたはその人です。そして私達自身の中で空虚であり、私達自身の中で何ものでもないので、私達はそんなにも必死に愛着するのです。その空虚を恐れて、自己投影された外部の物、観念、理想に私達はしがみつくのです。

それゆえ、この関係の問題は表面的に、あるいは言葉の上で理解したり、あるいは本の中で読むことはできません。だがその意味全体は、その複雑さとその途方もない深さを含んで、私たちがお互いとの関係に気づいているときのみ理解することができます。そしてその関係のあるがままが、社会なのです。自分自身を理解することなしに単に友愛を語ることは意味を持ちません。あなたは協会に参加し、友愛のためのグループを作るかもしれません。しかし、協会や人や物をあなたの内部の安全の手段として用いている限り、あなたはきっといっそうの葛藤、いっそうの錯覚、いっそうの苦痛を世界の中につくり出すはずです。それが起こっていることです。ちょうど自分自身の貧しさを覆い隠し、自己を特定の国に同一化させる手段として用いられた国家主義が戦争に通じるように。

重要なことは自分自身を理解すること、そして自分自身に直面することです。私たちが避けているあの貧困、私たちが皆避けているあの空虚さに。そしてそれを私たちが理解する、非難なしに、実際にそれを経験するとき、十分にその空虚さに関係するとき、そのときのみ、超えること、そして真実とは何か、神とは何かを発見することの可能性があるのです。

いくつかの質問があり、そのいくらかに答えてみましょう。

質問: 私は非常に努力しましたが、酒を止めることができません。私はどうすべきでしょうか?

クリシュナムルティ: 私たち一人一人がさまざまな逃避を持っていますね。あなたは酒を飲み、私は大師に従う。あなたは知識にふけり、私は娯楽に。すべての逃避は同じようなものではないでしょうか? ある人が酒を飲もうが、大師に従おうが、知識にふけろうが。それらは確かに全て同じです。なぜなら意図、目的は逃避することであるからです。たぶん飲酒は社会的価値を持っているかもしれません。あるいはより有害かもしれません。しかし私は観念的な逃避がより悪くはないということがまったくはっきりしません。それらはずっと微妙で、より隠れていて、気づくのにより困難です。礼拝、儀式にふける人は、飲酒にふける人と違いません。なぜなら両者とも刺激物を通して逃避しようとしているからです。

そして私は逃避を止めることは、あなたが逃避していることに、これらあらゆるもの-酒、大師、儀式、知識、国への愛、あなたの望むもの-をあなた自身から逃げるための刺激物、感覚として利用していることに気づいているときのみ可能だと思います。とにかく、飲酒をやめる様々なやり方があります。しかしあなたが単に飲酒を止めるに過ぎないなら、他の何かを取り上げるでしょう。国家主義者になったり、世界の反対側の教師の誰かを追いかけたり、観念的に空想ばかりするようになるかもしれません。

確かに、逃避の理由は明白です。私たちは私達自身に、私達の状態に、外部的にも内部的にも不満なのです。それで私たちは多くの逃避を持っています。そして原因を発見するとき、逃避、飲酒、を理解する、解決するだろうと私たちは思うのです。逃避の原因を知るとき、私たちは逃避するのを止めるでしょうか? 妻と喧嘩しているので、あるいはいやな仕事を持っているので 私が酒を飲んでいることを知るとき-私が原因を知るとき、私は飲むことを止めるでしょうか? 確かに止めません。妻と、他人と、正しい関係を確立し、苦痛を引き起こしている葛藤を除去するときのみ、私は飲酒をやめるのです。

すなわち、違ったふうに述べれば、私が自己達成、その中に欲求不満があります、を求めている限り逃避があるに違いありません。私が欲求不満を抱いている限り、逃避を見出すに違いありません。私が何かであることを望んでいるとき-政治家、指導者、大師の弟子、何でも-私が何かであることを望んでいる限り、私は欲求不満を招いているのです。そして欲求不満であることは苦痛なので、それからの逃避を捜します。それが飲酒、大師、儀式、政治家になることのいずれにせよ-それが何であるかは問題ではありません。それらはすべて同じものです。

それで、そのとき質問が起こります。自己達成はあるのでしょうか? 自己、私、は何かであることが、何かになることが出来るでしょうか? そして何かになろうと望む私は何でしょうか。私は記憶の束、現在と反応している記憶の連鎖です。私は現在と関連している過去の結果です。そしてその私は家族を通して、名前を通して、財産を通して、観念を通して、それ自身を永続させようと望みます。私は単に観念、満足させ、興奮を与える観念にすぎません。そしてそれに心は執着します。心がそれなのです。そして心が私として達成を求めている限り、明らかに欲求不満があるに違いありません。私が何かであるものとして私自身に重要性を与える限り、明らかに欲求不満があるに違いありません。私があらゆるものの、私の思考、私の反応の中心である限り、私が私自身に重要性を与える限り、欲求不満があるに違いありません。したがって、苦痛があるに違いなく、そしてその苦痛から、無数のやり方を通して、私たちは逃避しようとするのです。そして逃避の手段は同じようなものなのです。

それゆえ、逃避の手段のことで心配しないようにしましょう-あなたのが私のより勝れているかどうかで。重要なことは、自己に達成を求めている限り、悲惨、争いがあるに違いないということを理解することです。そしてこの悲惨は、自己が重要である限り、私が重要である限り、避けることができません。

それで、あなたは「こういったすべてで、飲酒がどうにかなりましたか? あなたは私の質問、どうやって飲酒をやめるかに答えていません。」と言うでしょう。私は飲酒の問題は何かの他の問題と同じように、私が私自身の過程を理解するとき、自己認識があるときのみ、理解され、終りにすることが出来ると思います。そしてその自分自身の理解は絶え間のない用心深さを必要とします-結論ではなく、あなたがしがみつける何かではなく、思考と感情のあらゆる動きについての絶え間ない気づき。そして、そのように気づいていることはうんざりするので、それで私たちは「おお、それはそれだけの値打ちがない」と言います。私たちはそれを脇に押しのけ、したがって悲しみ、苦痛は増します。しかし確かに、自分自身を全体的過程として理解することの中でのみ、私たちは私たちが持つ無数の問題を解決するのです。

質問: 私は神を信じることができないことを見出します。私は科学者ですが、だが私の科学は私に満足を与えてくれません。私は何事も信じる気になれません。これは単に条件付けの問題に過ぎないのでしょうか? もしそうなら、神の信仰はもっと実在のものなのでしょうか? どんなふうに私はその信仰にいたることが出来るでしょうか?

クリシュナムルティ: なぜ私たちは信じるのでしょうか? 信じることの必要性は何でしょうか? それはあなたが信じてはならないということではありません-それは問題ではありません。なぜ私たちは信じるのでしょうか? そして信じることはただ経験を条件付けることができるだけです。確かに、私が信じるもの、それを私は経験します。私が神を信じるなら、それを私は経験するでしょう。しかしそのような経験は実在ではありません。それは自己投影された経験にすぎません。

それゆえ、なぜ私たちが信じるか見出すことが重要ではないでしょうか? そして信仰を通じて、何か見出すことができるでしょうか? 何かを発見できるでしょうか? それとも、心はそれが信念に、結論に掴まえられていない、繋がれていないときのみ発見することができるのでしょうか? しかしなぜ私たちは神を信じるのでしょうか? 明らかに、私たちのまわりのあらゆるものが束の間のものであり、私たちのまわりのあらゆるものが変化し、破壊され、終っていくのを見るからです-私たちの思考、私たちの感情、私たちの生活。そして私達は永続する、持続する、永久的なものを望むのです。私たちはその永久的なものを私達自身の中に、それを魂、アートマン、あるいはあなたの好むもの、と称してつくり出すか、あるいは永久的なものを求めるその要求を、私たちが神と称する観念の中に投影します。

観念は決して永久的ではあり得ません。私は観念が永久的であるのを好むかもしれませんが、本来それは永久的ではありません。私は永久的なものを望むかもしれません。しかし私がそれを望んでいる限り、私は非存在である永久的なものをつくり出しているのです。そして信念、神の信仰、は単に、永久的なものを求めている人の反応、応答にすぎません。したがって、彼の信仰は彼の経験を条件付けます。彼は「私は神が在ることを知っている。私はその途方もない感覚を経験した。」と言います。しかし確かに、永久的なものを求める欲求に基くそのような経験は、自己投影の経験であり、したがって実在の経験ではありません。そして、実在であるものは、もはや安全、永久的なものを求めるという問題が何もないとき、すなわち、心がまったく静かであり、あらゆる欲望から自由であるときのみ見出され得るのです。

それゆえ、信じる限り、私たちは決して見出せません。したがって、実在であるもの、神であるものを見出すためには-あなたがそれをどんな名前で呼ぶのを好むにせよ-自由がなければなりません。恐怖からの自由、内的に安全でありたいという欲求からの自由、未知のもののあの恐怖からの自由。そしてそのときのみ、確かに、そのものが何であっても経験することが、神というようなものがあるかどうかを知ることができるのです。しかし神を信じる人間、あるいは神を信じない人間は、その結論にしがみつくなら、明らかに錯覚に捕らわれます。私がそのものを知ることが、理解することが、それを直接に経験することができるのは、私が自己閉鎖していないとき、信仰によって、恐怖によって、貪欲によって、嫉妬などなどによって条件づけられていないときのみなのです。

信仰は、そのとき、明らかに実在を経験することを破壊します。そしてそのように考えることは非常に困難です。なぜなら私たちの大部分は非常に信仰に条件づけられているからです-あなたや私と同様に科学者も。なぜなら私達は皆信仰に満足を見出すからです。そして私が物事の中に、人々の中に、観念の中に満足を見出さないなら、そのとき私は最高級の観念をつくり出します。それは神です。そしてそれに私は執着します。なぜならそれはずっと満足がいき、より心地よいからです。それゆえ満足の追求は不可避的に障壁をつくり出し、これらの障壁に私たちは執着します。あなたは信じる者か信じない者ですが、あなたと私が、実在があるかどうか、神があるかどうか、心によって製造されたのでない、興奮や興奮を求める探求の結果でない何かがあるかどうか、理解することを本当に望むなら-そのようなものを見出すことを望むなら、そのとき私たちは興奮の過程を理解しなければなりません。なぜなら、信仰は、飲酒がするように、私たちに興奮を与え、そしてこれらの興奮に私たちは執着するからです。そしてこれらの興奮は自己投影されているのです。私たちは私たちの心から神のイメージをつくり、そしてそれに執着するのです。

しかし、もしもあなたと私が、名付け得ない、時間のものでない、あのものを本当に経験したいなら、私たちは信仰にしがみつくことはできません。それは自己投影されたイメージです。なぜなら名付けられた何も実在のものではありません。それは記憶の、私たちの条件付けの結果です。そしてそれが時間に属するものであるなら、そのとき、それはなお心の一部です。というのは心は過去のものの結果、社会的、環境的、教育的などなどの様々な影響の結果であるからです。それゆえ、私たちが時間の、命名の過程を理解するなら、私たちの中に存在する条件付けを、私たちが捕えられている影響を理解するなら、その理解が心の静かさをもたらします。私が言ったように、心は静かにされることはありません。心を静かにするとき、そのときそれは死んだ心です。心を静かであるように訓練するとき、それは表面的に静かであるかもしれませんが、それはなお、隅におかれている子供のように、動揺の状態の中にあります。しかし信仰、刺激物、安全であろうという欲求、永続するものの探索の過程全体を理解するとき、これらのものごとすべての真実を、十分に、ただ表面的あるいは言葉の上だけでなく、実際にそれを経験して理解するとき-そのとき心は静かです。あなたは心を静かにさせる必要はありません。心を静かにさせることは役に立ちません。あなたが心です。あなたは思考であると同様に思考者です。しかし思考者が彼自身を分離して、彼の思考を制御しようとするなら、それは錯覚に通じます。

それゆえ、そのとき、あなたはこのすべてを見、それを理解し、それを直接に経験します-そのとき心は静かです。そしてその静かさの中で、あなたは神、実在があるかどうか、あるいはないかどうかを知るでしょう。その静かさの中で、その静寂の中で、あなたは知るでしょう。その前に、神や神のないことについて、あなたが正しい大師に随っているのかいないのかについて思索すること-そのすべては私には非常に子供じみていて未熟に思われます。しかし実在を経験することは想像し得る、思索し得ることではありません。あなたが実在のものを見出すのは経験している状態の中でだけです。しかし刺激の手段として、私たちの関係の日常生活からの逃避として信仰を求める事は不可避的に錯覚に通じるに違いありません。どんなレベルにその錯覚を置くことをあなたが好むとしても。

それゆえ、明らかに、発見するためには、自由が、貪欲からの自由がなければなりません。そしてあなたが科学者で私が素人であろうが、あるいは私が無知であなたが知識に満ちていようが、私たちが私達自身を理解するときのみ、あの実在を見出すことができます。そして私達自身の理解の中に静けさが生じます。というのは自己認識は知恵をもたらすからです。そして静けさがあるのは知恵の中でだけなのです-知識の中ではなく、知的な楽しみと観念形成の楽しみの中ではなく。観念の中には静けさはありません。そしてその静けさは、心がもはやそれ自身の投影を追跡していないときのみ生じます。実在を経験することは人に手渡せるものではありません。どんな大師、どんな救世主もそれをあなたに授けることはできません。それは私達自身を私達自身が理解する深みでのみ生じます。

質問: あなたが話すことが非常にたぐいまれで、見たところ、時折のわずかな人のためであるなら、あなたが私たちに話すことの目的は何なのでしょう? あなたは本当に私たち、大衆、を助けることができるのでしょうか?

クリシュナムルティ: 私は私の話すことの目的は非常に明確であると思います-少なくとも、私には。第一に私はあなたを搾取するために話していません。私はそれから刺激を得ているのではありませんし、私が話さないとしても当惑もしません。そういうことではありません。私は単純な理由から話します。なぜなら私は、あなたと私が私たちの問題を理解するのを、お互いに助けることができると思うからです-そして私が何やかやを達成した、より優れた人であると思うからではありません。私たちが持つ無数の問題をじっくり話し合うことによって-関係の問題、というのはほかの問題はないからですが-私たちはそれらを理解することができるからです。私たちはそれらを静かに、どんな偏りもなく、じっくり話し合うことができます。あるいは偏っており、先入観があるなら、その偏りと先入観に気づくことができます。

結局、私たちは私たち、あなたと私の間に関係を確立しようとしているのです。私があなたを利用していたり、あなたが私を利用しているなら、私たちは関係を持っていません。そのときあなたは私を搾取し、私はあなたを搾取します。しかし私たち一人一人が問題、それは自分自身ですが、を理解しようとしているなら、そのとき私たちは正しい関係を確立するでしょう。そのとき、たぶん、討論するとき-知的にでなく、言葉の上でなく-私たちは私達自身を探査できます。私たち自身をそうであるままに見ることができます。なぜなら、結局、関係はその中に私が私自身をそうであるままに見る鏡です-つまり、私が私自身を見たいなら。しかし、私たちの大部分はいまあるものを見ることを好まないので、私たちは関係を道化芝居にするのです。関係はそのとき逃避になります。

あなたが私を通して、あるいは私があなたを通して逃避することを望まないなら、そのとき様々な問題を一緒に理解することの中で、私たちが一人にせよ多数にせよ、そうであるままに私たち自身を見ることができます。私には大衆というようなものはありません。大衆はあなたと私です。私たちは人々をドイツ人とか、ロシヤ人、イギリス人、インド人と呼ぶ時、彼らを理解していると思います。そうするのは怠惰な心です。「おお、あなたはインド人です」、とか、「あなたはイギリス人です」と言うのは怠けている心です。なぜなら、誰かを名前で呼び、それで「私は彼を理解した」と思うのはとても容易ではないでしょうか? しかし私があなたを名前で呼ばないなら、私はあなたをもっとよく親密に見なければなりません。私はあなたの個人的な思考の運動を研究するためにあなたの顔を見なければなりません。個人としてのあなたに気づいていなければなりません。しかし私があなたを集団として処理するなら、そのとき私は非常に容易にあなたを爆撃し、滅ぼすことができます。

そこで、他人を助けるためには、私はその他人を見なければなりません。これやあれである、これやあれの国籍に属しているとしてではなく、彼をそうであるままに見ること。私が私自身の狭量な国家主義に、私自身の団体、信念、ばかげた迷信、私自身のナンセンスに、私自身捕らえられているなら、私は彼をあるがままに見ることができません。それゆえ、お互いを理解するためには、私たちはお互いを非常に明確に見なければなりません-すなわち、あなたを理解するためには、私は私自身を知らなければなりません。私は私のあなたとの関係の中で、非常に明確に私自身を見なければなりません。そしてそのときのみ、お互いに助けることの可能性があるのです。

1949年10月9日

(訳者: N.Goto)2000.5.掲載

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