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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1949年 ロンドンの公開講話(第3回)

J. Krishnamurti London 3rd Public Talk 16th October 1949

私は思うのですが、複雑なもの、そして特に心理的問題を理解するためには非常に静かな心、静かな、しかし強いられた静かさではない心を必要とするということはかなり明白です。平和で、静かであり、それゆえ複雑な問題とその答えを直接に理解することができる心。

この心の静かさを妨害するものは明らかに葛藤です。私たちは大抵このような騒ぎの中にあり、非常に多くのものごとを案じ、人生、死、安全、私達の関係を心配しています。絶え間のない心の動揺があります。そして当然、そんなに動揺した心が、心理的問題のみならず、常に増加する社会の問題を理解することは極めて困難です。そして問題を完全に理解するためには、静かな心、偏っていない心、自由であり、静かであり、問題がそれ自身をあらわにするままに、それ自身を明らかにするままにしておくことのできる心がなければならないということが不可欠ではないでしょうか? そして、葛藤があるとき、そのような静かな心は不可能です。

さて、何が葛藤をつくるのでしょうか? なぜ私たちはこのような葛藤の中にあるのでしょうか? 私達一人一人が、それゆえ社会が、それゆえ国家と全世界が。 なぜ? 何から葛藤が起こるのでしょうか? 葛藤が止むとき、明らかに平和な心があり得ます。しかし葛藤に捕らえられている心は平静ではあり得ません。そして平静、ある平和の感覚を望んで、私たちは葛藤からあらゆる種類の手段を通じて逃避しようとします-社会奉仕、何かの儀式や 精神的その他の何かの活動への没頭。しかし、明らかに、逃避は錯覚に、いっそうの葛藤に通じます。逃避は孤立に通じるだけです。したがってより大きな抵抗に通じます。そしてもしも逃避しないなら、あるいは、もしも逃避に気づき、したがって葛藤の過程を直接理解できるなら、そのときたぶん心の静かさがあるでしょう。

そこで平静な心が必要であるということをわかることが絶対必要だと私は思います-しかし強いられた、閉じて孤立の中に留まる平静ではありません。一つの特定の観念に執着した、したがってその観念に、信念に閉ざされた、押さえ込まれた平静ではありません。そのような平静は実在ではありません。それは死です。なぜならその自己閉鎖した孤立の中に創造的な過程はないからです。

それゆえ、もしも私達が葛藤の過程、そしてどうやってそれが起こるかを理解できるなら、そのとき、たぶん自由、静かである心の可能性があるでしょう。しかし、葛藤を理解する中での難しさは私たちの大抵が、それから逃げることに、葛藤を超えることに、それからの出口を見つけることに、その原因を見つけることに非常に熱心であるということです。単に原因を探すこと、あるいは葛藤の原因を発見することが葛藤を解決するだろうとは私は思いません。しかし、葛藤の全体の過程を理解することが、心理的にも生理的にも、あらゆる観点から葛藤を見ることができるなら、何の非難や正当化もなしに静かに調べる忍耐を持つことができるなら-そのとき、たぶん葛藤を理解することができるでしょう。

結局、葛藤は、何かであろう、いまあるものとは異なっていようという欲望を通して起こるのではないでしょうか? いまあるものとは異なった何かであろうとする、この絶え間ない欲望は葛藤の仕方の一つです。それはいまあるもので満足すべきだということではありません-人は決してそうではありません。しかしいまあるものを理解するためには、私たちは、いまあるものと異なった何かであろうというこの欲望を理解しなければなりません。私は何かです-醜い、貪欲である、妬みぶかい-そして私はほかの何か、いまあるものの反対物であるように望みます。確かに、それは葛藤の原因の一つです。これらの対立し、矛盾した欲望、それらから私達は成り立っているのです。

私は、単に葛藤を見ていること、その過程に気づいていることはそれ自体解放することであると思います。すなわち、何かの摩擦なしに、何かの選択なしに気づいている、単にいまあるものに気づいているなら、そしてまた、いまあるものから自己投影の理想の中に逃げようとする欲望にも気づいているなら-そしてすべての理想は自家製であり、それゆえ虚構、非実在です-そのすべてに単に気づいているなら、そのとき、その気づきそのものが心の平静をもたらすでしょう。そしてそのとき、あなたはいまあるものと進むことができます。そのとき、いまあるものを理解する可能性があります。

しかし、確かに、葛藤は対立物の間の単なる摩擦よりもっとずっと意義深いのです。葛藤は行為を観念に近づけることを通して起こるのではないでしょうか? 私達は常に行為を信念に、理想に、観念に近づけようとしています。私は私のあるべき姿、国のあるべき姿という観念を持っていて、その理想にしたがって生きようとします。したがって、観念と行為に橋を架けようとする意図があるとき葛藤が起こります。しかし、観念と行為に橋を架けることができるでしょうか? 行為は実在です。現実です。そうでないですか? 行為なしには私は生きることができません。しかしなぜ私は行為を観念に従わせようとしなければならないのでしょうか? 観念は行為よりもっと実在でしょうか? 観念は行為より より多くの実質を持っているでしょうか? 観念は行為より より真実でしょうか? それにもかかわらず、私達自身を見守るなら、私達のすべての行為は観念に基いています。私たちは最初に観念を持ち、それから行為があります。稀にのみ、自発的で、自由な行為が、それを取り巻く観念なしにあります。

そこで、なぜ観念と行為の間のこの分離があるのでしょうか? それを理解できるなら、たぶん私達は葛藤を根本的に終らせることができるかもしれません。なぜなら、葛藤は明らかに理解への道ではないからです。私があなたと口論するなら、私があなたと、妻と、社会と、近くても遠くても隣人と葛藤の中にあるなら、理解があることはできません。理解が定立と反定立の間の、対立物の間の格闘を通じて生じるでしょうか? 総合は葛藤を通して生じるのでしょうか? それとも、葛藤がないときに理解があるのでしょうか? その理解を私達は行為を通して転写しようとします。それから再び葛藤が起こります。違ったふうに述べれば、創造性があるとき、私たちがその創造的な感覚を持つとき、格闘はありません。格闘の不在があります。それは偏見、条件付けのすべてを伴なう、自己、私、がそこにいないという事です。その状態のなかに、自己がいないとき、創造性があります。そしてその創造的な感覚、その創造的な状態を、私達は音楽、絵画、あるいはあなたの望むものでいいのですが、それを通して行為の中に表現しようとします。そのとき格闘が始まります-認められることを求める欲求、などなど。

確かに、創造的な状態は格闘を要求しません。それどころか、格闘があるとき、何の創造的な状態もありません。自己、私、がまったく不在のとき、そのときあの創造的な状態が生じる可能性があるのです。そして観念が優位を占める限り、格闘があるに違いありません。葛藤があるに違いありません。すなわち、観念にしたがって行為を形作ることは葛藤を促進するに違いありません。それゆえ、なぜ観念が私達の心の中で優位を占めるか理解できるなら、そのとき、たぶん、私達は違ったふうに行為に接近できるでしょう。

私たちの大抵はどうやって観念にしたがって生きるかにかかわっています。私達は最初に観念を持ちます-どうやって高尚であるか、どうやって善良であるか、どうやって精神的であるか、その他もろもろ-そして次にそれにしたがって生きようとします。なぜ私たちはこうするのでしょうか? 私たちは最初に精神的なパターンを確立し、それを観念、あるいは理想と呼びます。そしてそれに従って生きようとします。なぜ? 観念形成の全過程は、『私(me)』、私、自己を通じてもたらされるのではないでしょうか? 自己、『私』、は観念ではないでしょうか? 『私』の観念から離れたどんな『私』もありません。『私』がパターンを作り出します。『私』は観念です。そしてその観念にしたがって私たちは生きます。行動しようとします。

それゆえ、観念は主に自己の重要さの結果ではないでしょうか? そして、『私』と『私のもの』の重要さ、振る舞いのパターンを確立して、私たちはそれに従って生きようとするのです。したがって観念が行為を制御します。観念が行為を妨げます。例として、寛容、完全な寛容-頭の寛容でなくて、ハートの寛容を取り上げましょう。もしもひとがそれに従って生きるなら、それは非常に危険なのではないでしょうか? もしも人が完全に寛容に行動するとしたら、それは現存する標準とのあらゆる種類の摩擦につながります。それゆえ、観念が入り込み、寛容を制御します。そして、ハートの寛容にしたがうより、寛容の観念にしたがって生きることがより安全です。

それゆえ、観念が優位を占めるとき、私たちが安全、無事、快適さ、排除、分離を求めていること-それゆえいっそうの摩擦をつくり出していることが明らかです。なぜなら、分離してはどんなものも生きられないからです。生きていることは関係していることです。観念は分離をもたらします。行為はもたらしません。そして私たちの葛藤は常に観念と行為の間にあります。そして私は思うのですが、私たちが観念形成のこの過程を理解できるなら、私達自身を、表面的でなく 私達自身の全過程を、無意識的なもののみならず意識的なものも理解できるなら、そのとき、たぶん、私たちはこの葛藤を理解するでしょう。何といっても、葛藤は『私』が重要なので起こるのです-国と、特定の信念と、特定の名前や家族と同一化した『私』。それがすべての葛藤の源ではないでしょうか?-なぜなら『私』はいつも分離、排除を求めているからです。排除の観念に基づいた行為は葛藤を不可避的に作り出すに違いなく、その葛藤から私たちは逃避しようと努めるのです。したがって葛藤は増やされるのです。

それゆえ、葛藤を理解するためには、自分の考える過程全体を知ることが、そして現実に、日常生活の中で、いかに私たちが行為を観念に近づけようとしているかに気づくことが重要であると私には思われます。そして、ひとは観念なしに生きることができるでしょうか? ひとは自己なしに生きることができるでしょうか? 実際にも基本的にもそれは次のことに到達します-ひとはこのぞっとするように醜い、葛藤している世界の中で、『私』の思考なしに生きることができるでしょうか? 理論的にではなく現実的にこれに答えることができるのは、『私』の過程を、何が『私』を構成するのかを理解するときだけだと私は思います。これらのねじれたやり方、矛盾、否定、近似、すべてが観念の自己投影のパターンに属することをひとは見ます。それゆえ、自分自身をすっかり知ることの中で-意識のどれか一つのレベルにおいてではなく、絶え間なく進行している全体の過程として-それに気づいていることの中で、自己からの自由が確かに生じます。そしてそのときのみ、心が静かであることができます。

自己が不在のときのみ、心が静かであり、それゆえ永遠であるものを理解することができる、受け取ることができる可能性があるのです。しかし永遠のものの絵を描くこと、それの観念を心に抱くこと、それについての信念にしがみつくことは実際には自己投影です。それは単に錯覚にすぎません。それは何の実在性も持っていません。しかし、始めも終りもないものがあるためには、自己の作用、作り事、投影は明らかに、すっかり止まなければなりません。そしてその自己投影の停止が瞑想の始まりではないでしょうか?-なぜなら自分自身を理解することが瞑想の始まりであるからです。そして瞑想なしに自己を理解する可能性はありません。自己の過程を理解することなしに、思考のための基盤はありません。正しい思考のための基盤はありません。単に行為を観念や理想に近づけることはまったく徒労です。ところが、行為の中の私達自身を理解できるなら、それは日常生活の中での関係、すなわち自分の妻、自分の夫との関係、自分の召し使いへの話し方、紳士気取り、国家主義、先入観、毎日の生活の貪欲と羨望です。より高いレベルに位置した自己ではありません。それはなお思考の領域内にあり、したがってなお自己の一部です-関係の中のこの行為すべてに気づいていることが瞑想の始まりです。そして自己のこの活動を理解することの中に、確かに、静けさがあります。静かにさせられたのではなく心が本当に静かなときのみ、強いられたのではなく、順応しているのでなく、静かなときのみ-そのときのみ、永遠のものを発見する可能性があります。

質問: 何が、あなたによれば、私たちを解放する真実なのか、私たちに話してくれますか? 「真実があなたに生じるのです。それを捜すことはできません」というあなたの声明はどういうことでしょうか?

クリシュナムルティ: 確かに、何が虚偽であり、何が錯覚であり、何が無知であるのか、理解することによって真実が生じるのではないでしょうか? それを捜す必要はありません。なぜなら思考が、あなたがそれで捜している道具であるからです。私が欲張りで妬み深く、偏見に満ちており、そして真実を捜そうとするなら、明らかに私の真実は貪欲、羨望、偏見の結果であるでしょう-したがってそれは真実ではありません。私がすることのできるすべては、何が虚偽であるかを見ること、私が条件づけられていること、欲張りであること、妬み深いことに気づいていることです。それが私がすることのできるすべてです-それに無選択に気づいていること。そのとき、私がそのように気づいており、それゆえ貪欲から自由であるとき、真実が生じます。しかし私達が真実を探しているなら、結果は明らかに錯覚であるでしょう。どうして真実を探すことができるでしょうか? 真実は虚偽に捕らえられている心にとって未知の何かであるに違いありません-そして私たちはそうなのです。なぜなら私たちは生理的のみならず心理的にも条件づけられているからです。そして条件づけられた心は、それが何をしようが、とても不可測のものを測ることはできません。

これらはただの言葉ではありません。あなたが本当に正しく聞こうとしているなら、その真実を見ることができます。どうして私が、私が信念によって、恐怖によって、国家主義によって、偏見によって、そして無数のやり方で貪欲と羨望によって条件づけられているとき-どうして私が真実を見ることができるでしょうか? 私がそうするなら、それは自己投影であるでしょう。自己が捜し求めるものは、明らかにそれ自身の産物であり、したがって真実ではありません。そしてこの真実、私がたった今言ったことの真実を見ることは既に解放する過程ではないでしょうか?-単にそれを見ること、真実であるものを貪欲は見出せない、羨望は見出せないことに気づくことが。単にそれを観察すること、それを見ること、静かにそれに気づいていることが貪欲から解放するだけでなく、何が真実であるかの理解をもたらすでしょう。

それゆえ、真実を捜し求めようとしている人たちは明らかに錯覚に捉えられるでしょう。したがって、真実があなたに生じなければなりません。それを追い回すことはできません。それを追いかけることはできません。なぜなら、結局、私たちがみんな望んでいるのは何でしょうか? 私たちは満足を望んでいます。慰安を望んでいます。内的な安全、平和を望んでいます-そしてそれが私たちの捜し求めていることです。私たちはそれを真実と呼びます。それに名前を与えます。したがって、さまざまな形で、さまざまなレベルで、私たちが捜し求めているものは満足であり、真実ではありません。真実は、満足を求める、安全を求める欲望が終ったときのみ生じ得るのです。それは極めて困難です。そして私たちの大抵は怠惰、不精なので、私たちは真理を捜し求める振りをし、協会や組織をその回りに作ります。

そこで、私たちがなし得ることのすべては、私たち自身の性向、欲望、虚栄心に気づいていることです-あなたがそれらをどのレベルに置くかは問題ではありません。そのすべてに気づいていること、そしてそれから自由であること、それは自己、『私』から自由であるということです。そのとき、あなたは真実を捜し求める必要はありません。そのとき真実があなたに生じるでしょう。なぜなら場がまさにあるからです-静かな、それ自身の興奮によってかき乱されていない心。そのような心は受取ることが出来ます。それは否定的に気づいている、受動的に気づいているに違いありません-それは再びとても困難です。なぜなら心は何かでありたいからです。それは結果、達成を望みます。そして一つの方向で失敗したなら、ほかの方向で成功を求めます。その成功を真実の探求と呼びます。ところが、真実は未知のものです。それは瞬時瞬時発見されなければなりません。何かの抽象の中でなく、何かの分離した行為の中ではなくて、私たちの日常の生活のあらゆる瞬間のなかに。虚偽を虚偽として見ることは真実の始まりです-私たちの発言の中の虚偽、私たちの関係の中の虚偽、ちょっとした性向、ちょっとした虚栄、私たちがふける残酷。そのすべての虚偽の真実を見ることが、真実であるものの知覚の始まりです。

しかしほら、私たちの大抵はそのように気づいていることを望まないのです。それは退屈です。私たちはむしろ何かの錯覚の中に、何かの信念の中に逃避したいのです。その中に孤立と慰めが見出せるのです-それははるかに簡単です。そしてその孤立の中で、私たちは真理を求めていると言うのです。孤立の中で真実を見出すことはできません。心理的に安全で、確かであって、真実の偉大な不確かさが生じるとはできません。それゆえ、私たちのなし得るすべては、私たちがほんとうに真剣で、真面目に関心を持っているなら、ものごと、人々、観念との私たちの関係を理解することによって、真実に生じる機会を与えることです。そのとき、理解が自由をもたらします。そしてその自由の中にのみ、実在があり得るのです。

質問: 数年前のあなたの教えは理解でき、奮起させるものでした。あなたはそのとき熱心に進化、道、弟子であること、そして大師について話しました。今はまったく異なります。私はすっかり当惑しています。私はそのときあなたを直ちに信じました。そしていまあなたを信じたいのです。私は混乱しています。どちらが真実ですか-あなたがあの時言ったことと、いま言っていることと?

クリシュナムルティ: このことは真剣な熟慮を本当に必要とします。そしてこの種のものにうんざりしている方々が辛抱強く聞いてくれることを望みます。

まず最初に、それは信じるという問題ではありません。私が言うことを信じる必要はありません-とんでもないです。あなたが私の言うことを信じるなら、そのときそれはあなたの悲惨です、私のではなく。そのときあなたは私をもうひとつの権威として使用し、したがって避難所、安心感を得るでしょう。しかし私が言っていることは単に、自己認識なしには、あなた自身を知ることなしには、生のどんな理解もあり得ないということにすぎません。それは信じることを必要としません。それはあなたの側での注意深さを必要とします-私が言うことを信じるのではなく。それゆえ、この点について非常に明確でありましょう。なぜなら、私はそう思うのですが、信じることは真実を理解することに対する妨害であるからです-それは無神論者にならなければならないということではありません。それは別の形の信念です。しかし信じることの、なぜ信じるかの全体の過程を理解することは知恵の始まりです。

私たちは何かにしがみつきたいので、安全を望むので、信じます。私たちは私たち自身の中で非常に不確かなので、非常に不満なので、非常に内的に貧しいので、豊かなものにしがみつきたいのです。世俗的な人が財産に執着するように、いわゆる信者は信仰に執着します-両者の間に大きな差はありません。両者とも安全を望みます。両者とも安心感を望みます。両者とも確しかさを望みます。そしてこれらの信仰は自己投影されたものであり、それゆえ実在に通じません。

さて、質問者は何故私が変わったかを知ろうと望んでいます。ある時期、何年か前、私は大師、弟子であること、進歩、霊的な成長、あらゆるその種のことを話しました。そして今私は話しません。なぜ? どこで変化が生じたか、何がそれを生み出したか?-それが質問の基礎でないでしょうか? そしてどちらを信じたらいいか知りたいのです。私が以前に言ったそれらのものごとか、私がいま言っていることか。

以前に言われたことは信仰を必要とします。何といっても、大師たちについての信仰を要します。その信仰を合理化することができますが、なおそれは信仰です。そしてそのような信仰を持つことは非常に都合がいいのです。特に大師がはるか遠くのどこかにいるときに-なぜならその時あなたはその考えをもてあそぶことができるからです。しかし、あなたがあなたと身体的に直接関係しているグル、教師を持っているなら、そのとき、それはずっと困難ではないでしょうか?-なぜなら彼はあなたを批評するでしょう。あなたを見守るでしょう。あなたに説教をするでしょう-それはずっと苦痛です。ところが、インドに、ヒマラヤに、あるいは私たちの日常生活のすべてから遠く離れたどこかの山に大師を持つことは、非常に都合がよく、非常に励みになります。そしてこのような事は信仰を要します。それは自己投影された観念です。そしてそれはあなたに安心感を与えます。なぜならその時あなたは行為を延期できるからです。そのとき「さて、私は来世において彼のようになろう。貪欲から自由であるには長い時間がかかるだろう」と言うことができます-そしてそれをあなたは進化と称するのです。確かに、貪欲は延期されるべきことではありません。今貪欲から自由であるか、決してそうでないのかどちらかです。ある日貪欲から自由になるだろうと言うことは、貪欲の継続です。そして、誰かがあなたの世話をしており、あなたの背を叩いており、あなたを激励しており、あなたに特別な関心を示しており、一方、あなたは彼にしたがって、彼によって敷かれた理想にしたがって、あなた自身を鍛練するという考え-このすべては明らかに自己を得意がらせます。もちろんそれはあなたを激励します。あなたを鼓舞します。誰かがあなたに関心を抱いていると思うこと、あなたは何ものかであるため、あなたの前途に永遠を持っていると思うこと、道は時間をかけて、ゆっくり行くものであると思うこと、そしてある日到達するだろうと思うことは。

あらゆるそのような思考と信仰は非常に励みになり、奮起させます。それが励まされることを望む人々のために数多の会が作られる理由です。そのような過程は、私にとっては、搾取の道です-なぜならあなたは大師によって、あるいは大師の代表によって搾取されたいからです。そしてあなたはあなたの欲望と満足にしたがって代表を選びます。あなたが満足させられているとき、それは非常に奮起させるのです-少なくとも、あなたはそれを奮起させると言います。それは実際には別の形の興奮です。

さて、あなたがそのすべてを、何の基盤もまったくなしに、虚偽のものとして見るとき、あなた自身についてのあなた自身の理解を除いて、何も真理にあなたを導くことができないということ、あなた自身を除いてどんな大師もあなたに光を与えることはできないということを見るとき-そのときそれはそんなに奮起させることではありません。そんなに励ますことではありません。何故なら自分自身を知ることは注意深さ、油断のなさ、絶え間ない警戒を必要とするからです。そして自分が醜いということを知ることはむしろ退屈な、うんざりする、憂鬱なことです。しかしあなたの中に永遠の、すぐれた何かがあると告げられること-それをあなたは好みます。そこであなたは大師に従います。それに付随する錯覚のすべてを受け入れます。そのときそれはあなたに満足を与えます。そしてそれが、結局、私たちの大抵が求めていることです-真実ではなく、虚偽のものを理解することではなく、満足すること。そして、物理的世界の中で確実・安全を求めるように、あなたはそれを心理的・精神的世界に持ち越します。しかし心理的な世界に安全はありません。安全を追求するなら、そのとき錯覚があります。というのは、あなたが見出すのは、大きな不確実の中でだけだからです。

さて、そのすべてを見るとき、明らかにあなたはそれらのものをあなたから片付けます。もはやそれらをもてあそびません。そして私がいま言うことはコインの反対側ではありません-それはそれらのものごととは何の関係もありません、それらは虚偽なのです。自分自身を理解することが知恵の始まりです。虚偽であるものが見えるとき、あなたは既に真実であるものが見え始めているのです。明らかに弟子の身分の霊的な階位、階層制的な達成の段階を伴なう自己拡大のこの全構造は、まったく虚偽なのです。なぜなら、真実であるものは区別を持たないからです。しかし私達は区別を好みます。排除を好み、社会的に称号で呼ばれることを好みます。そして同じ俗物根性をもうひとつの世界に運び込みます。しかしこの全過程が、自己拡大であること、『私』や『私のもの』を重大にすること、私自身に名声を与えることとして見えるとき、そのとき、確かに、それは消え去ります。それと格闘する必要はありません。それは有毒な何かを見るようなものです。それは魅力を持ちません。それはもはや真実ではありません。したがって、あなたはもはやその考え方に属しません。

このすべては人は独りで立たなければならないという事を意味していますね。しかし私たちの大抵は独りであることを恐れます-孤立の意味ではなくて、何かをそうであるままに見る、虚偽を虚偽として、真実を真実として見るという意味においての独り。誰もが虚偽であるものを真実として見ているとき、虚偽を虚偽として見ることは確かな選択のない気づきを要します。そして私たちの大抵は独りで、静かで、自己投影した錯覚のすべてがないのを恐れるので、心によって作られた物事にしがみつくのです。あなた自身を理解することなしには、何をしようが、どんな理論、どんな大師を考えだそうが、どんな鍛練に従おうが-それは幸福につながりません。あなたはあなた自身を欺くかもしれません。「あなたの言うことと私の信じることは同じだ。それらはコインの両面だ」と言うことによってあなた自身を欺くかもしれません。あなたはあなたの好むことを言うかもしれません。しかしそれは単なる自己欺瞞にすぎません。しかし、自己のこの問題全体を調べること、そのやり方、その欺瞞と錯覚、その慰安のすべてを見ること-自分自身をそのように完全に知ることが心の静けさをもたらします。それは他人があなたに与えることはできません。そのとき、その静けさのなかに、永遠であるものがあり得るのです。

質問: どうやって人は死の絶え間のない恐怖から逃れたらいいでしょうか?

クリシュナムルティ: 恐怖をつくり出しているのは何でしょうか? なぜ人は死を恐れるのでしょうか? よろしければ、これを実験しましょう-私が以前に言ったことだけでなくて、これもまた。ほら、私たちの多くが死を恐れる一方、またなぜかを知っています。明らかに私たちは終わりたくないのです。私たちは身体が死ぬに決まっていることを、絶えず使われている他のどんなものとも同じ様に消滅することを知っています。しかし、心理的に、私たちは終りたくないのです。なぜ?

なぜなら私たちはどうしても終ることを望まないからです。私たちは数え切れないほど多くの理論を合理化しました。われわれはこれからも継続する、生まれ変わりがある、ある種の自己が継続する、などなど。しかしなお、これらの合理化された信念、確信、確定にもかかわらず、恐怖があります。なぜ? それは私たちが未知のものの確実性を望むためではありませんか? 私たちは死の後、何があるか知りません。私たちは私たちの性質のすべてを伴なって、業績のすべてを伴なって、身元確認のすべてを伴なって継続したいのです。永続するものを求め、それを不死と呼びます。名前、財産、所有物などを通して、この世界の中に永続性を求めます-それは私たちがいつもしている明らかな事です。そしてまた思考、感情のもうひとつの領域の中で-心理的世界、精神的な世界の中で、継続することを望むのです。

継続するものは何でしょうか? 観念、思考ではないでしょうか? 名前としての、特別の認定された個人としてのあなた自身という観念-それはなお観念です。それは記憶です。それは言葉を意味します。それゆえ、思考、心は、それ自身を記憶、言葉、名前として認定して、継続しようと望んでいるのです。確かに、私たちの大部分が様々なやり方でそれに執着しているのではないでしょうか? 私がより年をとるにつれて、死の恐怖を伴なって人生を振り返ったり、将来を思ったりします。それゆえ、私たちは何等かの形で継続したいのです。そして、その継続が不確かなので、私たちは恐れるのです。家族や子供を残すことを恐れてはいません。それはただの言い訳です。現実には、あなたは終ることを恐れているのです。

さて、継続するもの、継続性を持つもの-それは創造的であり得るでしょうか? 継続するもののなかに新生があるでしょうか? 確かに、終るものの中にのみ新生があります。終りがあるところ、よみがえりがあります-しかし継続するものの中にはありません。私が、私がそうであるままに、この生の中でそうであったように、私の無知、偏見、愚かさ、錯覚、記憶、愛着のすべてを伴なって継続するなら-私は何を持っているのでしょうか? それにもかかわらず、それは、私たちがそんなにもしつっこくそれに執着するということです。

確かに、終ることのなかに新生があるのではないでしょうか? 新しいものが生じるのは死の中にだけです。私はあなたに慰めを与えていません。これは信じたり、考えたり、知的に調べて受け入れるべき何かではありません-というのは、そのとき、それを、あなたがいま生まれ変わりや、来世での継続等を信じるように、別の慰安にしてしまうだろうからです。しかし現実の事実は、継続するものはよみがえり、新生を持たないということです。したがって、毎日死ぬことのなかに新生があります。よみがえりがあります。それが不死です。死の中に不死があります-あなたが恐れる死ではなくて、あなたが『私』として同一化する、以前の結論、記憶、経験の死。毎瞬『私』が死ぬことの中に永遠性があります。不死があります。経験されるものがあります-あなたが生まれ変わりやその種の代物についてするように、思索したり講義すべきものではなく。あなたが『私』として終るときのみ、あなたが家族に、財産に、あなたの観念に執着するのを止めるとき-そのときのみ、確かに不死があるのです。それは無感覚に、冷淡に、あるいは無責任になるということではありません。

あなたがもはや恐れていないとき、なぜなら毎瞬終りがあり、それゆえ新生があるからですが、そのとき、あなたは未知に向かって開いています。実在は未知です。死もまた未知です。しかし、死を美しいと呼ぶこと、それがなんと素晴らしいかと言うこと、なぜかというと私たちは来世に継続するだろうからですが、そのナンセンスのすべては実在性を持っていません。実在性を持っていることは、死をそうである通りに見ることです-終り。その中に継続性ではなく新生、よみがえり、がある終り。というのは、継続するものは衰退するからです。それ自身を再び新しくする力を持っているものは永遠です。しかし愛着した、とりつかれた心は、決してそれ自身を再び新しくすることはできません。したがって、そのような心は未知を、未来を恐れます。恐怖は絶え間のない新生、それは絶え間のない死ということですが、がある時のみ止みます。しかし私たちの大部分はそのように死ぬことを望みません。私たちは家具と財産に、信念に、いわゆる愛した人に愛着していたいのです。私たちは私たちの葛藤と共に、経験と共に、愛着と共に、その状態のなかに継続することを望みます。そして、そのすべてが脅かされるとき、私たちは恐れます。それで死について書かれた無数の本があります。あなたは生きることより死に、より関心があります。ところが、生きることを理解することの中に、すなわち、絶え間ない関係の中のあなた自身を理解することの中に、虚偽を虚偽として見ること、したがって、あなたが愛着している物事、信念、記憶に対して、理論の中ではなくて現実に、毎瞬死ぬことの中に-そのときのみ、その中に死のない新生があるのです。

1949年10月16日

(訳者: N.Goto)2000.06.掲載

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