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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1949年 ロンドンの公開講話(第4回)

J. Krishnamurti London 4th Public Talk 23rd October 1949

この二三週間の間、私たちは自己に気づくことと自己を知ることの問題を話していました。自分自身を完全に知ることは明らかに不可欠です。そして自分自身を知ることは生からの隠遁ではなくて、むしろ関係-ものごととの、人々との、観念との関係、を理解することです。そして、経験は自己を知ることを通してのみ理解することができます。経験は自己を知ることと別ではありません。

あいにく、私たちの大抵は自己認識を求めないで、経験に執着します。そして私たちは経験を、真実を発見するための、実在、神、あるいはあなたの呼びたいものを発見するための尺度として使います。そこで経験は、私たちの大部分にとって、評価の基準となりました。

しかし経験は真理を、あるいはどんな名前でそれを呼びたいにしても、あらわにするでしょうか? 確かに経験は気が散ること、自分自身から離れている過程です。すなわち、私たちの多くは私たちの生存の全体の過程にそんなにも気づいていないのです。私たち自身から逃げ去っていることを私たちは見ていません。私たち自身の中に、認めようと認めまいと、意識的、無意識的に、貧困、空虚の状態があり、それを私たちは覆い隠そう、それから逃げようとします。そしてそれを覆い隠す過程の中で、私たちは種々の経験を持ちます。私たちは種々の観点、信念に執着します。そしてこれらの気の散った状態が、それは明らかに私たち自身から離れているのですが、経験なのです。すなわち、意識的または無意識的に、人は自分自身の中の空虚さの感覚、何もないという感覚、不充分であるという感覚に気づいています。私たちの多くはそれに気づいています。しかし私たちはそれに直面することを望んでいないのです。それが何であるかを理解することを望んでいないのです。私たちはその空虚の状態、その無の状態から、財産にしがみつくことを通し、地位や家族を通し、人を通し、知識を通して逃げ去ります。この私たち自身からの逃走が経験と呼ばれます。そして、これらの逃避に私たちは執着し、したがって逃避の手段が私たち自身を理解することよりはるかに重要になります。私たち自身の状態からの逃避の手段が幸福を提供し、したがって、経験はいまあるものを理解する妨げになります。

すなわち、言い換えれば、私たちの多くは、孤独であることに気づいています。そしてその孤独から逃避するために、ラジオをつけたり、本を読んだり、人に執着したり、知識にふけるようになります。このいまあるものからの逃避は、私たちに種々の経験を与えます。そしてこの経験に私たちは執着します。そのとき財産、名前、地位、名声が途方もなく重要になります。同様に、人が、一人か多数、個人か団体、社会のいずれにせよ、重要になります。そして同様に知識が、私たち自身からの逃避の手段として、途方もなく重要になります。

それゆえ、私たちはその空虚、その孤独を知識を通して、関係を通して、財産を通して覆い隠します。したがって、財産、関係、知識が途方もなく重要になります-なぜなら、それらなしには私たちはきっと途方に暮れてしまうでしょうから。それらなしには、私たちはあるがままの私たち自身に面と向かい合います。そしてそれから逃避するために、私達はこれらの手段すべてに頼ります。そしてこれらの逃避の経験に捕われます。私たちはそれらの経験を標準として、尺度として、実在を見出すために使用します。しかし実在、あるいは神、は未知のものです。それは私たちの経験では、私たちの条件付けでは測れません。そしてそれに到達するためには、私たちはすべての逃避を捨て、いまあるものに直面しなければなりません-それは私たちの孤独、私たちの何ものでもないことの途方もない感覚です。なぜなら、それを認めることを好まないけれど、私たちは空虚であるからです。そして私たちは、したがって、私たちは物事で自身を取り囲み、それを通して私たち自身から逃げ出します。

それゆえ、経験は尺度ではありません。実在への道ではありません。なぜなら、結局、私たちは信念にしたがって、条件付けにしたがって経験するからです。そしてその信念は明らかに私たち自身からの逃避です。私自身を知るためには、私は何か信念を持つ必要はありません。私は私自身を、明確に、選択なしに、見守らなければならないだけです-関係の中の私自身を見守る、逃避している私自身を見守る、愛着している私自身を見守る。そして自分自身を何の先入観もなしに、何の結論もなしに、何の決定もなしに見守らなければなりません。その受動的な気づきのなかに、人はこの途方もない独りである感覚を発見します。あなた方の大部分の方がこれ-何ものも満たすことができない完全な空虚の感覚、を感じていると私は確信します。それはその状態に留まる中、すべての価値がまったく止んでしまうときのみです。それは独りであることができ、その独りであることに何の逃避の感覚もなしに直面することができるときのみです-そのときのみ実在が生じるのです。なぜなら、価値は単に私たちの条件付けの結果にすぎないからです。経験のように、それらは信念に基づいており、実在の理解に対する障害です。

しかし、それは骨の折れる仕事です。私たちの多くはそれを遣り抜きたくないのです。それで私たちは経験にしがみつきます-神秘的な、迷信的な、関係の、いわゆる愛の経験、そして所有の経験。これらが非常に重大になります。なぜならそれは私たちがこれらから出来ているからです。私たちは信念から、条件付けから、周囲の影響から出来ています。それが私たちの背景です。そしてその背景から私たちは判断します。評価します。そしてこの背景の全体の過程をよく調べる、理解するとき、そのとき人はまったく独りである地点に至ります。人は実在を発見するために独りでなければなりません-それは逃避、生からの隠遁を意味しません。それどころかそれは生の完全な強烈化です。なぜなら、そのとき背景からの、逃避の経験の記憶からの自由があるからです。その独りの中に、その孤独の中に選択はありません。いまあるものへの恐怖はありません。恐怖は私たちがいまあるものを認めたり、見たりしたくないときのみ起こります。

したがって、実在が生じるためには、人が確立した、人がその中に捕われている無数の逃避を捨てることが絶対必要です。何と言っても、観察するなら、私たちが人たちをどんなふうに用いるかを見るでしょう-どんなふうに私たちが夫や妻や、仲間や国家を用いるか-私たち自身から逃避するために。私たちは関係の中に慰安を求めます。そのような関係の中での慰安の追求はある種の経験をもたらし、それらの経験に私たちはしがみつきます。また、私たち自身から逃避するために、知識が途方もなく重要になります。しかし知識は明らかに実在への道ではありません。実在が生じるためには、心は完全に空で静かでなければなりません。しかし知識で喋りまくり、考えや信念にふけり、絶えず喋っている心は、在るものを受取ることができません。同様に、私たちが関係の中に慰安を求めるなら、そのとき関係は私たち自身を避けることです。何と言っても、関係の中に私たちは慰安を望みます。寄り掛かるための何かを望みます。支持を望みます。愛されることを望みます。所有されることを望みます-それはすべて私たち自身の存在の貧困を示しているのです。同様に財産を、名前を、称号を、所有を求める私たちの欲望は、その内部の不十分なことを示しているのです。

これが実在への道でないとはっきりと理解するとき、そのとき人は心がもはや慰安を求めていない、心がいまあるものに完全に満足しているその状態に至ります-それは停滞を意味しません。いまあるものからの飛翔の中に死があります。いまあるものの認識と気づきのなかに、生があります。それゆえ、条件付けに基づく経験、信念の経験、それは私たち自身からの逃避の結果ですが、そして関係の経験-これらは障害、障壁になります。それらは私たちの不十分さを覆い隠します。そして私たちがこれらのものは逃避であるということを認識し、したがってそれらの真の価値を見るときのみ-そのときのみ、その空虚さの中に、その孤独の中に、静かに、落ち着いて留まる可能性があるのです。そして心が、受容も拒否もどちらもせず、あるものに気づいていて、非常に静かなとき-そのときその不可測の実在がある可能性があるのです。

質問: 神の計画はあるのでしょうか、ないのでしょうか? それがないなら、私たちの奮闘する意味は何でしょうか?

クリシュナムルティ: なぜ私たちは奮闘するのでしょうか? そして何を求めて私たちは奮闘しているのでしょうか? もしも奮闘しなかったなら何が起こるでしょうか? 私たちは停滞し衰退するのでしょうか? 何かであるためのこの絶え間ない奮闘は何でしょうか? この奮闘、この努力は何を示しているのでしょうか? そして、理解は努力を通して、奮闘を通して生じるでしょうか? 人はよりよくなるために、自分自身を変えるために、自分自身を特定の型に適合させるために、何かに-事務員から支配人に、支配人から聖職者に-なるために絶えず奮闘しています。そして、この奮闘は理解をもたらすでしょうか?

努力の問題は本当に理解されなければならないと思います。努力をしているものは何でしょうか、そして「…であろうとする意志」とはどういうことでしょうか? 私たちは結果を獲得するために、よりよくなるために、より徳が高くなるか 他の何かでなくなるために努力するのではないでしょうか? 肯定的な欲望と否定的な欲望との間で、私たちの中に進行するこの絶え間ない戦いがあります。他に取って代わるひとつ。他を制御するひとつの欲望-私たちはそれを高位と低位の自我と言うだけです。しかし、明らかに、それはなお欲望です。それを何かのレベルに置き、それに違った名前を与えることができます。それはなお欲望、何かであろうとする熱望です。また自分自身の中に、そして他の人と、社会と、絶え間ない格闘があります。

さて、この欲望の葛藤は理解をもたらすでしょうか? この対立物の葛藤、望むと望まない、は解明をもたらすでしょうか? そして自分自身を観念に近づけようとする苦闘の中に理解があるでしょうか? それゆえ、問題は格闘、苦闘ではありません。あるいは、もしも苦闘しないなら、努力しないなら、何ものかであるために外部的にも心理的にも奮闘しないなら何が起こるでしょうか。問題はこうです、どうやって理解は生じるのでしょうか? なぜなら、一度理解があるとき、奮闘はありません。あなたが理解するもの、それからあなたは自由です。

どうやって理解は生じるのでしょうか? あなたが今までに、理解しようと苦闘すればするほど、ますます何の問題も理解できなくなるということに気づいたことがあるかどうかわかりません。しかし、苦闘を止め、問題に物語の全体をあなたに話させる、その意義のすべてを与えさせるやいなや-そのとき理解があります。それは、明らかに、理解するためには心は静かでなければならないということです。心は無選択に、受動的に気づいていなければなりません。そしてその状態の中に、私たちの生の多くの問題の理解があるのです。

質問者は神の計画があるか、ないか、知りたいと望んでいます。私はあなたが「神の計画」で何を意味しているのか知りません。しかし私たちは、悲しみの中にあることを、混乱の中にあることを、混乱と悲しみは社会的に、心理的に、個人的に、集団的にいつも増大していることを知っているのではないでしょうか? それが、私たちがこの世界を作ったものです。神の計画があるかないかは少しも重要でありません。しかし重要なことは、外部的にも内部的にも、その中で私たちが生きている混乱を理解することです。そしてその混乱を理解するためには、私たちは、明らかに私たち自身で始めなければなりません-なぜなら私たちが混乱であるからです。世界の中のこの外部の混乱を作ったのは私たちです。そしてその混乱を一掃するためには、私たち自身から始めなければなりません。なぜなら、私たちがそうであるもの、世界はそれなのです。

さて、あなたは「さて、世界に秩序をもたらすのは、このやり方では非常に長い時間がかかるだろう」と言うでしょう。私はあなたが正しいことに全然確信が持てません。なぜなら、何と言っても、革命、変化をもたらすのは、非常に明確であり、理解している一人か二人の人ですから。しかし私たちは怠惰ですね。それが難しさです。私たちは他の人たちが変ることを望みます。環境が変ることを望みます。政府が私たちの生活を規制すること、あるいは何かの奇跡が起こって私たちを変えることを望みます。それで私たちは混乱が続くのです。

それゆえ、本当に重要なことは神の計画があるか、ないかを調べることではありません。なぜなら、あるとかないとかを証明して、あなたはそれに思索的な時間を浪費するでしょうから。それは宣伝家のためのゲームになります。しかし重要なことは、本当に自分自身を混乱から解放することです。そしてそれは長い期間を要しません。絶対に必要なことは、自分が混乱しているということ、混乱から生じるすべての活動、すべての行動もまたきっと混乱しているということを見ることです。それは指導者を求めている混乱した人のようなものです。彼の指導者もまた混乱しているに違いありません。それゆえ、絶対に必要なことは、自分が混乱していることを見ること、そしてそれから逃避しようとしないこと、そのための説明を見つけようとしないことです。受動的に、選択なしに気づいていてください。するとそのとき、あなたはまったく違った行動がその受動的な気づきから生じることが見えるでしょう。なぜなら、混乱の状態を明らかにするために努力するなら、あなたが作り出すものはなお混乱しているでしょうから。しかし、あなたがあなた自身に気づいているなら、無選択に受動的に気づいているなら、そのときその混乱は明らかになり、消えていきます。

あなたがこのことを実験してみるなら、わかるでしょう-そしてそれは長い期間が掛からないでしょう。なぜなら時間はその中にまったく含まれていないからです。その解明は生まれます。しかしあなたは全部の注意を、全部の関心をそれに注がなければなりません。そして私たちの大部分が混乱することを好まないということが、私は少しも確信が持てません-なぜなら混乱の状態の中では、あなたは行動する必要がないからです。それで私たちは混乱に満足するのです。なぜなら、混乱を理解することは、理想や観念形成の追求でない行為を要求するからです。

それゆえ、神の計画があるか、ないかの質問は見当違いです。私たちは私たち自身と私たちがつくり出した世界を、つまり悲惨、混乱、葛藤、戦争、分離、搾取を理解しなければなりません。そのすべては他人との関係の中の私たち自身の結果です。そして他人との関係の中の私たち自身を理解できるなら、私たちが他の人をどんなふうに用いるか、どんなふうに人々を通して、財産を通して、知識を通して、私たち自身から逃避しようとし、したがって関係に、財産に、知識に巨大な意味を与えるかを見ることができるなら-そのすべてを見ることが、それに受動的に気づいていることができるなら、そのときその背景から自由であるでしょう。私たちはその背景なのです。そのときのみ、いまあるものを見出す可能性があるのです。しかし、神の計画があるのかないのかを思索しながら、それを見出そうと努力しながら、それについて講演しながら時間を費やすことは、私には非常に子供じみているように思われます。というのは、平和は、計画が左翼、右翼、あるいは神のものであるにせよ、何かの計画に順応することを通しては生じないからです。順応は単に抑制にすぎません。そして抑制の中には恐怖があります。理解の中にのみ平和と静けさがありうるのです。そしてその静けさの中に、実在が生じるのです。

質問: 理解は過去の努力や経験に無関係に、突然人に生じるのでしょうか?

クリシュナムルティ: 過去の経験とはどういうことでしょう? どんなふうにあなたは挑戦を経験しますか? 何と言っても生は挑戦と応答の過程ではないでしょうか?-常に新しいものである挑戦、さもなければそれは挑戦ではありません。そして私たちの応答は当然背景の、私たちの条件付けの結果です。そこで、応答は、それが挑戦に関して適切で、十分で、完全でないなら、摩擦をつくりだすに違いありません。葛藤をつくりだすに違いありません。私たちが経験と呼ぶのは挑戦と応答の間のこの葛藤です。あなたが今までに気づいたことがあるかどうかはわかりませんが、あなたの挑戦に対する応答が完全なら、経験の記憶ではなく、経験している状態だけがあります。しかし、応答が挑戦に対して適切でないとき、そのとき私たちは経験の記憶にしがみつくのです。

それはそんなに難しくありません。そんなに当惑しないでください。それをもう少し探りましょう。するとわかるでしょう。私が言ったように、生は挑戦と応答の過程です-一つの特定のレベルではなく、あらゆるレベルにおいての。そしてその応答が挑戦に対して適切でない限り、葛藤があるに違いありません。確かに、それは明白です。そして葛藤はつねに理解を妨げます。葛藤を通しては人は何の問題も理解できないのではないでしょうか? 私が絶えず隣人と、妻と、仲間と喧嘩しているなら、その関係を理解することはできません。葛藤がないときのみ理解することができるのです。

そして理解は突然生じるのでしょうか? すなわち、葛藤は突然止むことができるでしょうか? それとも、ひとつひとつの葛藤を理解しながら、数え切れないほど多くの葛藤を通り抜け、それから、すべての葛藤から自由にならなければならないのでしょうか? すなわち、問題を違ったふうに述べれば、この質問の背後にもうひとつの質問がきっとあると思います。「あなたは様々な昏迷、混乱、葛藤、マスターや生まれ変わりの信仰、種々の協会、などなどを経たきたので、私もまたそれらを通り抜けなくてはならないのではないでしょうか? あなたはある種の相を経てきているので、自由になるためには、私もまたそれらの相を通り抜けなくてはならないのではないでしょうか?」すなわち、混乱から自由になるために、私たちは皆混乱を経験しなくてはならないのではないでしょうか?

それゆえ、問題はこういうことではないでしょうか? 理解は特定の型にしたがったり受け入れたりすること、そして自由になるためにそれらの型によって生きることを通して生じるでしょうか? すなわち、例えば、あるときあなたは特定の観念を信じました。しかしいまは、あなたはそれらを押しのけてしまい、あなたは自由であり理解を持っています。そして私がやってきて、あなたがある信念によって生きてきたが、それらを押しのけてしまい、理解を得たということを見ます。そこで私は「私もまたそれらの信念に従おう、あるいはそれらの信念を受け入れよう。そして次第に理解に到達しよう」と思います。確かにそれは間違った過程ではないでしょうか? 重要なことは理解することです。理解は時間の事柄でしょうか? 確かにそうではありません。あなたが何かに関心があるなら、時間の問題はありません。あなたの全存在がそこにあります。集中し、完全にそのことに熱中して。そして時間の問題が生じるのは、あなたが結果を得たいと望むときのみです。それゆえ、理解を獲得すべき結果として取り扱うなら、そのときあなたは時間を要します。そのときあなたは「即座の」とか「後回しの」と話します。しかし理解は確かに結果の過程ではありません。理解はあなたが静かなとき、心が静かなときに生じます。そしてあなたが静かである心の必要性を見るなら、そのとき直ちに理解があります。

質問: 何が、あなたによれば、真の瞑想でしょうか?

クリシュナムルティ: さて、瞑想の目的は何でしょうか? そして瞑想によって私たちは何を意味しているのでしょうか? あなたが瞑想したことがあるかどうか私はわかりません。それゆえ、何が真の瞑想か見出すために一緒に実験しましょう。単に私のそれの表現だけを聞かないでください。しかし一緒に何が真の瞑想か見出し経験しましょう。なぜなら、瞑想は重要であるからです。そうでないですか? 何が正しい瞑想か知らないなら、自己認識はありません。そしてあなた自身を知ることなしには、瞑想は何の意味もありません。隅に坐ったり、庭や街路を歩いたりすること、そして瞑想しようとすることは何の意味もありません。それは特別な集中に導くだけで、それは排除です。あなた方のいくらかは、こういった方法をきっと試みたことがあると思います。すなわち、あなたは特定の対象に集中しようとします。心がそこら中をさまよっているとき、心を強制して集中しようとします。そしてそれが失敗するとき、祈ります。

それゆえ、何が正しい瞑想か理解したいと本当に望むなら、何が虚偽のものであるか、それを私たちは瞑想と呼んでいるのですが、見出さなければなりません。明らかに集中は瞑想ではありません-なぜなら、観察するなら、集中の過程の中に排除があり、したがって注意散漫があるからです。あなたは何かに集中しようとし、心は他の何かに向けてさまよっていきます。そして心が拒絶し さまようのに対し、一点に固定していようとし続ける、この絶え間ない戦いがあります。そこで私たちは集中しよう、集中を学ぼうとして長い年月を過ごします。それは誤って瞑想と呼ばれます。

次に祈りの問題があります。祈りは明らかに結果を生みます。さもなければ何百万もの人々が祈らないでしょう。そして祈る中で、明らかに心は静かにされます。特定の句を絶えず繰り返し唱えることによって心は確かに静かになるのです。そしてその静かさの中に、ある暗示、ある知覚、ある応答があります。しかしそれはなお心のトリックの一部です-なぜなら、結局、催眠のある形を通して心を非常に静かにすることができるからです。そしてその静かさの中に、無意識と意識の外部から起こる、ある隠れた応答があります。しかし、それはなおその中に理解のない状態です。

そして、瞑想は没頭ではありません-観念への、絵への、原理への没頭。なぜなら、心のものごとはなお偶像崇拝なのです。人は塑像を、それは偶像崇拝的で愚かで迷信的と考え、崇拝しないかもしれません。しかしひとは、大抵の人たちがするように、心のものごとを確かに崇拝するのです。そしてそれもまた偶像崇拝なのです。そして、絵や観念に、大師に、没頭することは瞑想ではありません。明らかにそれは自分自身からのある形の逃避です。それは非常に快い逃避ですが、それはなお逃避です。

そして、訓練によって、注意深い自己の検査などなどによって、有徳になろう、徳を得ようとするこの絶え間ない努力は、明らかにどれも瞑想ではありません。私たちの大抵はこれらの過程に捕われています。そしてそれらは、私たち自身の理解を与えないので、正しい瞑想のやり方ではありません。何といっても、あなた自身を理解することなしに、正しい思考のためのどんな基礎をあなたは持っているのでしょうか? あなたがあなた自身のその理解なしにすることはすべて、背景に、あなたの条件付けの応答に順応することです。そしてそのような条件付けに対する応答は瞑想ではありません。しかしそれらの応答に気づいていること、すなわち、何の非難の感覚もなしに、思考と感情の運動に気づいていて、その結果自己の運動、自己のやり方が完全に理解されていること-そのやり方が正しい瞑想のやり方です。

瞑想は生からの隠遁ではありません。瞑想は自己を理解する過程です。そして自己を、意識的なものだけでなくて自分自身の隠れた部分すべても同様に理解し始めるとき、そのとき静けさが生じます。瞑想を通じて、強制を通じて、順応を通じて静かにさせられる心は静かではありません。それは停滞した心です。それは油断のない、受動的な、創造的受容性の可能な心ではありません。瞑想は絶え間のない注意深さ、どの言葉、どの思考と感情にも皆 絶えず気づいていることを必要とします。そのどの言葉、どの思考と感情も私たち自身の存在の状態を、表面的なものと同様に隠れたものもあらわにするのです。そしてそれは骨が折れるので、私たちはあらゆる種類の快い、欺瞞的なものの中に逃避し、それを瞑想と呼ぶのです。

自己認識が瞑想の始まりであるということをわかることができるなら、そのとき問題は途方もなく興味深く、欠くことのできないものになります。なぜなら、結局、自己認識がないなら、あなたはあなたが瞑想と呼ぶものを練習し、そしてなお あなたの原理、家族、財産に愛着しているかもしれないからです。あるいは財産をあきらめて、観念に執着し、それにひどく集中するためその観念をますます多く作り出すかもしれません。確かに、それは瞑想ではありません。それゆえ、自己認識は瞑想の始まりです。自己認識なしに瞑想はありません。そしてひとが自己認識の問題に深く入って行くとき、上部の心が穏やかで静かになるだけでなく、隠された心の違った層が 確かに あらわにされるのです。表面の心が静かであるとき、そのとき無意識、意識の隠れた層がそれ自身を投影します。その内容をあらわにします。その暗示を与えます。その結果、自分の存在の全過程が完全に理解されます。

それゆえ心は極度に静かになります-静かです。それは静かにされているのではありません。それは報酬によって、恐怖によって静かであるように強制されているのではありません。そのとき静寂があり、その中に実在が生じます。しかしその静寂はキリスト教の静寂、あるいはヒンドゥー教の静寂、あるいは仏教の静寂ではありません。その静寂は名付けられない静寂です。したがって、あなたがキリスト教の静寂の道やヒンドゥー教や仏教のそれに追随するなら、あなたは決して静かでないでしょう。したがって、実在を見出したい人は彼の条件を完全に捨てなければなりません-キリスト教、ヒンドゥー教、仏教徒、何かのほかの団体、のいずれにせよ。単に、瞑想によって、順応によって背景を強化することは、心の停滞、心の鈍さをもたらすに過ぎません。そしてそれが私たちの大部分が望んでいることでないということが、私は全然確信が持てません-なぜなら、型を作り出し、それに従うことはずっと容易だからです。しかし背景から自由であることは、関係の中での絶え間ない油断のなさを必要とします。

そして、一度その静寂があるとき、そのとき途方もない創造的な状態があります-詩を書き、絵を描かなければならないということではなく。あなたはそうするかもしれないし、しないかもしれません。しかしその静寂は追求され、複写され、模造されるものではありません-そのときそれは静寂であることが止みます。どの道を通ってもそれに到達することはできません。それは自己のやり方が理解されるときのみ生じます。そして自己は、その活動と災厄のすべてと共に、終わります。すなわち心が創造をやめるとき、そのとき創造があります。したがって、心は単純にならなければなりません。静かにならなければなりません。静かでなければなりません-「なければなりません」は間違っています。心が静かでなければならないと言うことは強制を意味します。そして心は自己の全過程が終わっているときのみ静かです。自己のやり方がすべて理解され、それゆえ自己の活動が終わるとき-そのときのみ静寂が確かにあるのです。その静寂が真の瞑想です。そしてその静寂のなかに永遠が生じます。

1949年10月23日

(訳者: N.Goto)2000.06.掲載

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