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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 マドラスの公開講話(第10回)

J. Krishnamurti Madras 10th Public Talk 3rd February 1952

昨日言っていたように、堕落の基本的な原因の一つは、行為の中の意志です。私はまた、模倣、反復、心の、記憶の機械的な反応が心の堕落のもう一つの要素であると言いました。自己の永続が心の破壊、堕落をもたらす主要な要因の一つでないではしょうか?

あらゆる宗教、あらゆる哲学、全体主義的国家さえ、心の分離を引き起こす過程を破壊しようと望みます。どんな革命、どんな外部の経済的な変化、あるいはいわゆる内的な規律も、いかなるやり方でも自己を破壊したり、その終わりをもたらしたりしませんでした。理論的でなくて現実に自己が終わらなければならないことを、私たちの大抵は知っている、気づいていると思います。人はそれを哲学化することが出来、それについて思索します。大抵の人たちはそれをただ内密に行うか、あるいは私たちを統治している政治家の大抵のように、あるいは外部の経済の大方を制御する富める人たちのように、あるいは精神的な道を追求する人たちのように、攻撃的な目的を持って行います。それらの人は皆、より微妙であれ、より攻撃的であれ、さまざまに形において自己拡大を追求します。それは心を破壊する致命的な要素のひとつではないでしょうか?

私たちが持っている唯一の道具は心です。それをこれまでのところ、私たちは間違って使ってきました。この自己の全過程をその堕落する要因のすべてと共に、その破壊的な要素のすべてと共に終わりにすることが出来るでしょうか? 私たちの大抵は自己が分離的で、破壊的で、反社会的であることをよく理解していると私は思います。外部的にも内部的にも、それは分離する過程で、その中にどんな関係も可能ではなく、その中に愛は存在できません。私たちはいくぶん、このことを現実に あるいは表面的に感じます。しかし私たちの大抵はそれに気づいていないのです。その過程を他の何かで置き換えたり、それを延期したり、説明してしまうのではなく、実際にその過程を終わりにすることが出来るでしょうか?

私たちが見たように、単なる規律、単なる順応は自己を終わりにしません。それはただそれに、別の方向に重大な強さを与えるだけです。もっとも聡明な人たち、思慮深い人たちはこれを調べたに違いありません。宗教的制裁、全体主義の良心の呵責、禁止命令と強制収容所を別にして、私たちの大抵は自己が実際に終わることが出来るかどうかを尋ねたに違いありません。私たちがその質問を私自身にするとき、自動的な、自然な応答は「どうやって」です。それはどうやって終わりになるべきでしょうか? それで私たちにとっては、「どうやって」が非常に重要になります。「どうやって」、実際的なやり方、態度だけが私たちにとって問題です。私たちが「どうやって」とその技法の問題全体を、もう少し綿密に検討することができるなら、たぶん私たちは「どうやって」、結果を獲得する実際的なやり方、が自己を終わりにしないであろうということを理解するでしょう。

自己を終わりにする方法、どうやってそれをもたらすかのやり方を知ろうと望むとき、心の過程は何でしょうか? 「どうやって」、行うやり方、方法、方式がありますか? 方式に従うなら、それは自己を終わりにするでしょうか? それとも、それは別の方向に強さを与えるでしょうか? 私たちの大抵は切望します。特に幾分まじめで、宗教的傾向があるものは終わる方法、成るやり方、結果を獲得するやり方を知ること、見出すことを望みます。私たちがハートと心を深く覗くなら、私たちが自己を終わりにする方法を追求したいことは明らかです。ひとつはあるに違いない。

さて、なぜ心はやり方、技法、方法を尋ねるのでしょうか? それは重要な問題ではないでしょうか? 起こっていることはこうです。あなたは方式、方法、「どうやって」、技法を持っています。そして心は技法、型にならって形作ります。それは自己を終わりにするでしょうか? あなたは非常に厳しい、訓練する方法、あるいはあなたから自己の葛藤を徐々に取り除く方法、あなたに慰めを与える方法を持っているかもしれません。しかし本質的に、方法を求める欲望は実際には自己の強化を示しています。そうでないですか? どうかこれを綿密に追って下さい。すると「どうやって」は思考過程、模倣的過程のしるしかそうでないかが見えるでしょう。それを通して心、自己は力を集め、より大きな能力を持つことが出来、そしてまったく終わらないのです。

嫉妬の問題を取り上げましょう。私たちの大抵はさまざまなレベルで嫉妬深いのです。それは言うに言われぬ苦悩をほかの人に対し、自分自身に対し引き起こします。あなたは金持ちを嫉妬します。学問のある人を嫉妬します。導師を嫉妬します。達成する人を嫉妬します。嫉妬は私たちの生存の中の社会的な動機、動因です。それは時には宗教的な形を装いますが、本質的にはそれは同じものです。それは精神的に、経済的に、何かにでありたいという欲望です。それは私たちの主な動因の一つです。それをまぬかれることの出来る方法、手段があるでしょうか? 私たちの本能的な反応は、仮にも思慮深いなら、それを終わりにする、あるいはそれに終わりをもたらすやり方を見出すことです。何が起こりますか? 方法によって、技法によって、嫉妬に終わりをもたらすことが出来るでしょうか? 嫉妬は今あるいは今後何かでありたいという欲望を意味します。しかしあなたはその欲望を他のやり方で表現することによって、それを覆ってしまうやり方を学びました。しかし本質的に、それはなお嫉妬です。

それゆえ、どんなふうに私たちが結果を獲得するための方法を欲するかというこの過程を理解できるなら、そしてまた、技法を養成する心を理解するなら、私たちはその時、本質的にそれは思考の強化であることを見ることができます。思考は堕落をもたらす主要な要素の一つです。なぜなら思考は記憶の過程であり、それは記憶の言語化であり、そして条件付ける影響であるからです。この混乱からの出口を求めている心はただその思考過程を強化しているだけです。それゆえ、重要なことは、やり方や方法を見出すことではなく―なぜなら私たちはその中の含蓄が何であるかを見たからですが―、心の全過程に気づいていることです。

思考は決して独立ではあり得ません。独立した思考はありません。なぜならすべての思考は過去に対する順応の過程であるからです。思考を通して独立、あるいは自由はありません。どうして本質的に過去のものの結果であり、種々の記憶によって風土的に、社会的に、環境的その他で条件づけられた心が、どうしてそのような心が独立であり得るでしょうか? それゆえ、思考の独立を求めるなら、あなたはただ自己を永続させているだけです。この独立の過程は何でしょうか? 私たちの大抵は孤独で、そして成就を求める絶え間ない切望があります。私たち自身の中のこの空虚に気づいて、私たちはそれからの種々の形の逃避を求めます―宗教的な、社会的な。逃避の商売全体をご存知ですね。その問題を私たちが解決しない限り、私たちが考えることの中に求めている独立は、ただ自己の永続であるだけでしょう。

私たちの大抵にとって、創造は非実在です。私たちは創造するということがどういうことか知りません。時間のものでない、思考のものでないその創造性なしには、私たちは根本的に違った文化、人間関係の違った状態をもたらすことはできませんね? 創造性が起こり得るその受容性のある状態の中に、心があることができるでしょうか? 思考は創造的ではありません。観念を追求する人は決して創造的ではあり得ません。理想の追求は思考過程であり、心にしたがって条件づけられています。それゆえ、どうして思考の過程であり、時間の結果であり、教育、影響、圧力、恐怖、報酬を探ること、罰を避けることの結果である心が、いったいどうしてそのような心が、創造性が起こり得るように自由であることができるでしょうか? 私たちがその質問を自問するとき、私たちは方法、「どうやって」、その精神的自由を獲得する実際のやり方を知りたいと思います。「どうやって」、方法、を知ろうとすることは、最もばかげたことであり、小学校の子供の事柄です。「どうやって」は常に思考の追求、特定の技法への順応である方法を意味します。私たちはまた、その思考過程を伴なう心が終わるときのみ創造があることを見ます。

確かに、世界の そして政治家とその巧妙な搾取を伴う現在の危機の中で、創造は得ることが最も困難なことです。私たちはより多くの理論、より多くの理想、より多くの指導者、より多くの より新しい、型を支える技法・手段を望みません。創造的である唯一の心は統合された人間のそれです。

思考過程の何世紀もの結果である心が、いったいその創造的状態の中にあることができるでしょうか? すなわち、思考はその創造的な衝動をそもそも受容することが、そもそも養成することができるでしょうか? そのことは私たちが私たち自身に尋ねるべきもっとも重要なことの一つであると私には思われます。なぜなら型を単に追うことは、社会的あるいは宗教的に、私たちを何処へも導かなかったからです。どんな指導者も私たちに真の創造的衝動を与えることができなかったからです。どんな模範もそれを為し得ません。あらゆる模範が自己の拡大です。英雄は美化された「ミー」の拡大です。それゆえ理想の追求は私自身の拡大、観念の中で私自身を成就することなのです。それは時間としての思考の継続であり、それゆえ創造的な状態はありません。これを見出すこと、私たち一人一人が私たち自身でその創造的な精神(spirit)を発見することがいかに不可欠であるかに気づくこと、が非常に重要であると私は思います。心は、何をしようが、決してそれを発見することができません。思考はその創造的状態を決して理解したり、もたらしたりすることができません。

その創造的状態は何でしょうか? 確かにそれは肯定的に述べることができません。それを記述することはそれを限定することです。記述は測定する過程でしょう。そしてそれを測定することは思考過程を用いることです。明らかにそうです。したがって思考は決してそれを捕捉することはできません。それを記述することは価値がありません。しかし私たちが為し得ることは、否定的にそれに近づくこと、遠回りにそれに出会うことによって、障害が何であるか見出すことです。私たちの大抵はそれに抗議するでしょう。なぜなら私たちの大抵はいつも直接的であるからです。「この事をしなさい。するとそれを得るでしょう」があなたの接近を支配する態度です。私たちが討論していることはその状態を記述することではなくて、その中に心、観察者、が非在であるその創造的な状態、その途方もない状態を妨げる障害をあなた自身で発見するために、あなたが何をすべきであるかを見出すことです。

道に立ちはだかる最初のものは何でしょうか? たしかに、強力でありたい、支配したいという欲望全体が道に立ちはだかっています。力を求める欲望は分離的な過程です。それは全体と、国と、あるいはグループと同一化するかもしれませんが、それは分離する過程です。障害はどんなレベルにせよ野心的である心です―いわゆる精神的な野心、政治家の、金持ちの、そして貧乏な人の心。これらの人たちは皆、より多くを持つことを望みます。より多くを求める衝動は道に立ちふさがる最も破壊的な要素です。そのことは、心が非常に微妙であるので、理解することが非常に困難です。あなたは力を粗野な形では求めないかもしれませんが、しかしあなたは、国家の利益になる物事をするという言い訳を持つ政治家のようにそれを求めるかもしれません。あるいはあなたは選挙の運動員かもしれません。力の追求のさまざまな形があり、それはみな本質的に何かであろうという意志、何かになろうという意志であり、それは徳を通じ、体面を通じ、心の行為、支配の感覚、力を持っているといううぬぼれを通じてそれ自身を表現します。

それゆえ、主要な要素、主要な障壁の一つは、力を求めるこの欲望、支配を求めるこの欲望です。あなた方自身の生活の中によく見守って下さい、すると分離的な、破壊的な欲望が働いているのが見えるでしょう。それは明らかに愛を打ち負かすでしょう。私たちの救いであるのは愛だけです。しかし、支配の何かの感覚、力 地位 権威を求める欲望、働いている意志、結果を得ようとする欲望の感覚があるなら愛を持つことはできません。私たちはこういったすべてを知っています。またぼんやりとそれに気づいてもいます。私たちは成ることの流れの中に、力を求める欲望の流れの中に捕らえられているのです。そして私たちはそれを止めて外に出ることができないのです。外へ出るのに「どうやって」はありません。あなたは力の全部の含蓄を見ます。そしてそれを十分に理解するとき、あなたは外へ出ます。「どうやって」はありません。

創造性を妨げる障害の一つは権威です。模範の権威、過去の権威、経験の権威、知識の権威、信念の権威。これらすべては創造的状態に対する障害です。私が言っていることを受け入れる必要はありません。それをあなた自身の生の中に観察できます。するとどんなふうに信念、知識、権威が心の分離的な過程を強めるかがわかるでしょう。

明らかに、創造的状態を妨げるもう一つの要素は、反復、模倣、観念を永続させることです。反復は感情の反復だけでなくて、儀式の反復、知識の追求の無駄な反復、経験の反復です。それはまったく意味を持っていません。これらすべては障害です。新しい経験はありません。すべての経験は認識の過程です。認識がないとき、経験はありません。そして認識の過程は心の過程であり、それは言語化です。

私たちをその創造的な状態から分離するもう一つの要素は、心が結果を獲得できるように方法、「どうやって」、やり方、何かの練習、を求めるこの欲望です。これは継続、反復の過程です。そして反復に捉えられている心は、決して創造的であることができません。

それゆえ、そのすべてを見ることができるなら、そのときあなたは創造的状態が生じることを妨げているのは、現実に心であるということを見つけるでしょう。

それで心がそれ自身の運動に気づくとき、心は終わります。創造的状態があり得るのはその時のみです。それは唯一の救済です。なぜならその創造的な状態が愛であるからです。愛は感傷とは何の関係もありません。それは感情と何の関係もありません。それは思考の産物ではないし、心がそれを造ることもできません。心はイメージ、感情からなる 経験からなるイメージを創り出すことができるだけです。そしてイメージは愛ではありません。私たちはその言葉を非常に自由に使うけれど、それが何を意味するか知らないのです。しかし私たちは感情を知っています。そして感情を感じ、イメージを通じ、言葉を通じ、うぬぼれのあらゆる形を通じて感情を追求することは心の性質そのものなのです。しかし心は決して愛を知ることができません。それにもかかわらず、私たちは何世紀にもわたって心を養成してきたのです。

心がこの過程すべてを見て、その結果 経験者が決して経験されるものから離れていないということは極度に困難です。観察者と観察されるものの間のこの分離こそが思考の過程です。愛の中には、経験者と経験されるものはありません。そして私たちはそれを知らないので、そしてそれが唯一の救いであるので、確かにまじめな人は心の全過程を、隠れたものも開かれたものも見守らなければなりません。私たちの大抵は、気候を通して、食品を通して、つまらない噂話を通して―すみません、つまらない噂話はありません、ただ噂話があるだけです―私たちの嫉妬を通してエネルギーを浪費しています。私たちは調査のための時間を持っていません。私たちが心とその内容に気づきを持つことができるのは瞑想的探究を通してだけです。そのとき、心は終わり、愛があることができます。

質問: 理想を持っていないなら、どうやって人は彼自身を成就すればいいのでしょうか?

クリシュナムルティ: 私たちは大抵成就を求めていますが、成就というようなそんなものがあるのでしょうか? 私たちは家族を通じて、息子を通じて、兄弟を通じて、妻を通じて、財産を通じて、国やグループとの同一化を通じて、理想の追求を通じて、「ミー」の継続を求める欲望を通して、私たち自身を成就しようとしますね。意識の異なったレベルで、種々の、異なった形の成就があります。

成就というようなそんなものがあるでしょうか? 成就しているものは何でしょうか? 特定の同一化の中で、あるいはそれを通じて、何かであることを求めている実体は何でしょうか? 何時あなたは成就を思いますか? 何時あなたは成就を求めていますか?

私が言ったように、これは言葉の上のレベルでの話しではありません。あなたがそれを言葉の上のレベルで扱うなら、そのとき、あっちへ行って下さい。それは時間の浪費です。しかし深く進むことを望むなら、そのとき追求して下さい、そのとき油断なく、それを追って下さい。なぜなら私たちは英知を必要とするからです。死んだ反復ではなく、私たちが食べさせられている句、語、模範の反復ではなく。

私たちが必要とするものは創造、聡明な統合された創造です。それはあなたが、心の過程をあなた自身で理解することを通じて、直接にそれを探し出さなければならないということです。

それで私の言っていることを聞く中で、それをあなた自身に直接に関連付けて下さい。私が話していることを経験して下さい。するとあなたはそれを私の言葉を通して経験することはできません。あなたがそれを経験することができるのは、あなたが可能なとき、あなたがまじめであるとき、あなたがあなた自身の思考、あなた自身の感情を観察しているときだけです。

何時欲望は成就されなければならないのでしょうか? 何時あなたはこの何かであろう、成ろう、成就しようという衝動を意識しますか? どうかあなた自身を見守って下さい。何時あなたはそれを意識しますか? 意識するのはそれを挫くときではないでしょうか? それを意識するのは途方もない淋しさ、尽きることのないまったくの空虚の感覚、何者でもないあなた自身を感じるときではないでしょうか? あなたは成就を求めるこの衝動を、空虚、淋しさを感じるときのみ気づきます。そして次に、あなたは無数の形を通して、党派を通して、財産との、樹々との、意識の種々の層におけるあらゆるものとの関係を通して成就を追求します。何かであろう、同一化しよう、成就しようという欲望は、空虚で淋しい「ミー」の意識があるときのみ存在します。成就しようという欲望は私たちが孤独と呼ぶものからの逃避です。それゆえ私たちの問題はどうやって成就するかとか、何が成就かではありません。なぜなら成就といったそんなものはないからです。「ミー」は決して成就できません。それは常に空虚です。結果を達成しているとき、あなたは少々の感情を持つかもしれません。しかし感情が去るやいなや、あなたはその空虚な状態に再び戻ります。それであなたは前のように同じ過程を追求し始めるのです。

それゆえ「ミー」はその空虚の作り手です。「ミー」は空虚です。「ミー」は自己閉鎖の過程であり、その中で私たちはその途方もない孤独に気づきます。そこでそれに気づいて、私たちは同一化の種々の形態を通して逃げ出そうとしているのです。この同一化を私たちは成就と呼びます。現実には成就はありません。なぜなら心、「ミー」、は決して成就できないからです。自己閉鎖することは、まさに「ミー」の性質なのです。

そこで、その空虚に気づいている心はどうしたらいいでしょうか? それがあなたの問題ではないでしょうか? 私たちの大抵にとって、空虚のこの痛みは途方もなく強いのです。私たちはそれから逃れるため何でもします。何かの錯覚で十分です。そしてそれが錯覚の源です。心は錯覚を創り出す力を持っています。そして私たちがその孤独を、その自己を閉鎖する空虚の状態を理解しないかぎり―何をしようが、どんな成就を求めようが―分離する、完全を知らないその障壁が常にあるでしょう。

それゆえ私たちの困難はこの空虚、この孤独を意識することです。私たちは決してそれに面と向かい合いません。私たちはそれがどんなふうに見えるか、その性質がどんなであるか知りません。なぜなら私たちは常にそれから逃げ出しているからです、引き寄せ、分離し、同一化しながら。私たちは決して直接面と向かい合いません、それと親交しません。私たちはそのとき、観察者と観察されるものです。すなわち、心、「私」、がその空虚を観察します。そしてその私、思考者は、そのときそれ自身をその空虚から解放すること、あるいは逃げることをし始めます。

そこで、その空虚、孤独は観察者と異なるのでしょうか? 観察者自身が空虚なのではないでしょうか、彼が空虚を観察しているのではないのではないでしょうか? なぜなら、もしも観察者が彼が孤独と呼ぶその状態を認識することができないなら、経験はないだろうからです。彼が空虚です。彼はそれに働きかけることができません。彼はそれに何をすることもできません。なぜなら、彼がなんであれ何かをするなら、彼は観察されるものに働きかけている観察者になるからです。それは虚偽の関係です。

それで、心が、それが空虚であること、そしてそれに働きかけることができないことを認識し、実感し、気づくとき、そのとき、私たちが外部から気づいているその空虚は違った意味を持ちます。これまでは、私たちはそれに観察者として接近してきました。今観察者自身が空虚、ひとりです。孤独です。彼はそれについて何かすることができるでしょうか? 明らかにできません。そのときそれに対する彼の関係は、観察者の関係のそれとはまったく異なっています。彼はそのひとりであることを持っています。彼は「私は空虚だ」という言語化が少しもないその状態の中にいます。彼がそれを言語化する、あるいは外在化するや否や、彼はそれと異なっています。それゆえ言語化がやむとき、孤独を経験している経験者がやむとき、彼が逃げるのをやめるとき、そのとき彼はまったく孤独です。彼の関係は本質的に孤独です。彼は彼自身それです。そして彼がそれを十分に理解するとき、確かに、その空虚、孤独はあることをやめます。

しかし孤独はひとりであることとはまったく違います。その孤独はひとりであるために通過されなければなりません。孤独はひとりであることと比較できません。孤独を知っている人は決してひとりであることを知ることができません。あなたはひとりであるその状態の中にありますか? 私たちの心はひとりであるように統合されていません。心の過程そのものが分離的です。そして分離するものは孤独を知ります。

しかしひとりであることは分離的ではありません。それは多数でない、多数によって影響されていない、多数の結果でない、心がそうであるように 組み立てられていないものです。心は多数のものです。心は数世紀を通じて組み立てられ、接合され、製造されているので、ひとりである実体ではありません。心は決してひとりではあり得ません。心は決してひとりであることを知ることができません。しかし孤独に気づきそれを通り抜けるとき、そのひとりであることが生じます。そのときのみ、不可測のものがあり得るのです。あいにく私たちの大抵は従属を求めます。私たちは仲間を欲しがります。友達を欲しがります。分離の状態の中に、葛藤をもたらす状態の中に生きることを望みます。ひとりであるものは決して葛藤の状態の中にあることができません。しかし心は決してそれを知覚できません、それを理解できません、それはただ孤独を知ることができるだけです。

質問: あなたは、人がひとりであることができ、そして悲しみを愛することができるときのみ、真実は生じることができると言いました。これは明確ではありません。ひとりであること、そして悲しみを愛することというのはどういうことか、どうか説明して下さい。

クリシュナムルティ: 私たちの大抵はどんなものとも親交していません。私たちは友達と、妻と、子供たちと直接に親交していません。私たちはどんなものとも直接に親交していません。常に障壁があります―精神的な、想像上の、現実の。そしてこの分離していることが、明らかに悲しみの原因です。「はい、それは読みました。それは言葉の上で知っています」と言わないで下さい。しかしあなたがそれを直接に経験することができるなら、どんな精神的な過程によっても悲しみは終わり得ないことがわかるでしょう。あなたは悲しみを説明してしまうことができ、それは精神的な過程です。しかし悲しみは、あなたはそれを覆ってしまうかもしれないけれど、なおそこにあります。

それで悲しみを理解するためには、確かにそれを愛さなければならないのではないでしょうか? すなわち、あなたはそれと直接に親交していなければなりません。何かを理解したいなら―隣人、妻、あるいは何かの関係―、何かを完全に理解したいなら、あなたはそれに親密でなければなりません。何の抗議、偏見、非難や反発なしに、それに至らなければなりません。それを見なければなりません。そうではないでしょうか?

私があなたを理解したいなら、私はあなたについて偏見を持ってはなりません。私は偏見と条件付けの障壁、遮蔽を通してではなく、あなたを見ることができなければなりません。私はあなたと親交の中になければなりません。それは、私はあなたを愛さなければならないということです。同様に、私が悲しみを理解したいのなら、私はそれを愛さなければなりません。それと親交しなければなりません。私は説明を通して、理論を通して、希望を通して、延期を通して、それから逃げているのでそうすることが出来ません。それらは皆言語化の過程です。それゆえ言葉は私が悲しみと親交することを妨げます。言葉は―説明、合理化の言葉、それはなお言葉です、それは精神的な過程です―、私が悲しみと直接に親交することを妨げます。私がそれを理解するのは、私が悲しみと親交の中にあるときのみです。

次の段階はこうです。悲しみの観察者である私は、悲しみと違うのでしょうか? 私、思考者、経験者は悲しみと違うのでしょうか? 私はそれに何かをするために、避けるために、征服するために、逃げるために、それを外在化しました。私は私が悲しみと呼ぶものと違っているでしょうか? 明らかにそうではありません。それゆえ私が悲しみです。悲しみがあり、私は別であるということではなく。私は「悲しみ」です。その時のみ、悲しみの終りの可能性があるのです。

私が悲しみの観察者である限り、悲しみの終わりはありません。しかし、悲しみはミーであり、観察者彼自身が悲しみであるということの理解があるとき―それは経験するのが、気づくのが、途方もなく困難なことです。なぜなら何世紀にもわたって私たちはこの事を分けてきたからです―、心がそれ自身悲しみであることを心が理解しているとき―それが悲しみを観察している時ではなく、それが悲しみを感じているときではなく―、それはそれ自身悲しみの創造者です。それはそれ自身悲しみを感じている者です。それはそれ自身悲しみです。そのとき悲しみの終わりがあります。これは伝統や考えることでなく、非常に油断のない、注意深い、聡明な気づきを要します。その聡明な統合された状態がひとりであることです。観察者が観察されるものであるとき、そのときそれは統合された状態です。そしてそのひとりであることの中に、完全にひとりであり、満ちているその状態の中に、心が報酬を求めもせず罰を避けもせず、何も求めていないとき、心が求めず、模索せず、本当に静かなとき、そのときのみ、心によって測られないものが生じるのです。

1952年2月3日

(訳者: N.Goto)2001.06.掲載

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