クリシュナムルティを読む

ゴト改め皆様の読書室

「自我の終焉」の源流を尋ねて

1952年マドラス講話 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12]

1952年 マドラスの公開講話(第11回)

J. Krishnamurti Madras 11th Public Talk 9th February 1952

集会を持ったこの数週間の間、私たちの全存在に、一つの特定のレベルではなくて意識の全過程に影響を及ぼす問題、思考の仕方と思考の誤った過程を作りだす影響を私たちは考えて来ました。私たちは思考の過程が堕落する要素であることを見ます。たぶんこの事は、ここに初めている方にとって、むしろ驚くべき、あるいは意外なことであるかもしれません。あるいはむしろばかげた声明であると思うかもしれません。しかし熱心にこれらの講話を追跡してきた方はこれ以上の説明を必要としません。というのは説明は理解に対して実際に害があるからです。私たちは言葉によって非常に容易に楽しまされてしまいます。説明によって、筋の通った感情によって、非常に容易に満足させられます。何度も繰り返される説明、あるいは言葉は心を鈍くするのに十分です。

それゆえ、これらの講話を注意深く、ある程度真剣に追ってきた方は、私たちが今いつも行なっている、ふけっているような思考は、人間を人間から分離する主要な要素の一つであることを観察したか、気づいていると思います。それは行為をもたらさない、行為を延期する要因の一つです。なぜなら観念は思考の結果であり、決して行為を生まないからです。観念と思考の間に間隙があり、私たちの難題は私たちが落ち込んだ間隙に橋を架けることです。

私は今晩は自己欺瞞、心がふけり、それ自身に、また他の人に課する妄想のこの問題を討論、あるいは熟考したいと思います。それは特に世界が直面しているこの種の危機の中では、非常に重大な事柄です。しかし自己欺瞞のこの問題全体を理解するために、私たちは単に言葉の上でなく、言葉のレベルでなく、本質的に、根本的に、深くそれを追わなければなりません。私が言っていたように、私たちはあまりにたやすく言葉と対抗する言葉に満足させられてしまいます。私たちは世故にたけているのです。世故にたけているので、私たちができることのすべては、何かが起こるだろうと願うことです。私たちは戦争の説明は戦争を止めないことを見ます。戦争とそれがどうやって生じるかを説明している数え切れないほどの歴史家、理論家、宗教人がいます。しかし戦争はなお続きます。たぶん今までよりもっと破壊的です。私たちの本当にまじめな者は言葉を超えるに違いありません。自分の内側のこの根本的な革命を求めるに違いありません。それが永続する根本的な人間の救済をもたらすことができる、唯一の救済策です。

同様に、この種の自己欺瞞を議論しているとき、何かの表面的な説明と言い返しに対して用心しなければならないと思います。示唆してよろしければ、私たちは単に話し手の言うことを聞くだけではなくて、日常生活の中で知っているような問題を追わなければなりません。すなわち、考える中、および行為の中で私たち自身を見守り、私たちがどんなふうに他の人に影響し、どんなふうに私たち自身から行為し始めるかを見守らなければなりません。

自己欺瞞の理由、基盤は何でしょうか? 私たちのどれほど多くが、私たちが私たち自身を欺いているということに現実に気付いているでしょうか? 「自己欺瞞とは何であり、それはどうやって起こるか?」の問題に答えることができる前に、私たちは私たち自身を欺いていることに気付かなければならないのではないでしょうか? 私たちは私たち自身を欺いているのを知っているでしょうか? この欺瞞という言葉はどういうことでしょうか? 私はそれは非常に重要だと思います。なぜなら、私たちが欺かれれば欺かれるほど、私たち自身を欺けば欺くほど、欺瞞の中の力はますます大きく、それは私たちにある活力、あるエネルギー、ある能力を与え、それは他人に私の欺瞞を課すことを引き起こします。それゆえ、徐々に私は 私自身だけでなく他の人にも欺瞞を課しているのです。それは自己欺瞞の相互作用の過程です。私たちはこの過程に気付いているでしょうか? なぜそのような事を言うかというと、私たちは明確に、目的を持って、直接に考えることができると思っているからです。私たちは、この考える過程の中に、自己欺瞞があることに気付いているでしょうか?

思考それ自体が探索の過程、安全、自己防衛を求めての正当化の追求、尊敬されようという欲望、地位 名声 権力を持とうとする欲望ではないでしょうか? 政治的に、宗教-社会的に何かであろうとするこの欲望は自己欺瞞の原因ではないでしょうか? 私が純粋に物質的なもの以外の何かを欲しがるや否や、容易に受容する状態を私は作り出す、もたらすのではないでしょうか? これを例に取りましょう。私は死後に何が起こるかを知りたいと思います。それに私たちの多くは関心があります―年を取れば取るほど、私たちはますます関心を持ちます。私たちはその真実を知りたいと思います。どうやってそれを見出すでしょうか? 確かに読むことによってでも、さまざまな説明を通してでもありません。

その時、どうやってあなたはそれを見出すでしょうか? まず最初に、あなたはあなたの心から邪魔になっているあらゆる要素を完全に取り除かなければなりません―継続しようというあらゆる希望、あらゆる欲望、あちら側に何があるか見出そうというあらゆる欲望。なぜなら、心は常に安全を求めており、継続しようという欲望を持っており、達成の手段を、未来の生存を望んでいるからです。そのような心は、死後の生、生まれ換わり、あるいは何であろうがその真実を捜し求めているけれど、その真実を発見することはできません。そうでないですか? 重要なことは、生まれ換わりが本当であるか ないかではなく、どんなふうに心が、自己欺瞞を通して、そうであるかもしれないし そうでないかもしれない事実の正当化を求めるかです。それゆえ、重要なことは、どんな動機で、どんな衝動で、どんな欲望であなたがそれに至るか、問題への接近の仕方です。

追求者は常に彼自身にこの欺瞞を課しているのです。誰も彼にそれを課すことはできません。彼が彼自身それをします。私たちは欺瞞を創り出し、それからその奴隷になるのです。それゆえ自己欺瞞の根本的要素はこの世において、そして次の世において何かであろうとするこの絶え間ない欲望です。私たちはこの世において何かであろうと望む結果を知っています。それはまったくの混乱であり、そこでは各人が他の人と競争しており、各人が平和の名のもとで他の人を破滅させています。私たちがお互いにもてあそんでいるゲーム全体をご存知ですね。それは途方もない形の自己欺瞞です。同様に、私たちはもう一つの世での安全、地位、を望むのです。

それゆえ、何かであろう、なろう、達成しようというこの衝動があるや否や、私たちは私たち自身を欺き始めます。心がそれから自由であるのは非常に難しいのです。それは私たちの生の基本的な問題の一つです。この世の中に生き、何者でもないことができるでしょうか? なぜなら、そのときのみあらゆる欺瞞からの自由があるからです。なぜならそのときのみ心は結果を求めていないから、心は満足のゆく答えを求めていないから、心はどんな形の正当化も求めていないから、心はどんな形においても、どんな関係の中でも安全を求めていないからです。それは心が欺瞞の可能性と微妙さをよく理解し、したがって、理解して、心があらゆる形の正当化、安全をを捨てるときのみ起こります―それは心がそのとき、完全に何者でもなくあることができるということです。それができるでしょうか?

確かに、私たちが何かの形で私たち自身を欺いている限り、愛はあり得ません。心が欺瞞を創り出してそれ自身に課すことができる限り、それは明らかにそれ自身を集合的な、統合された理解から切り離します。それは私たちの困難の一つです。私たちはどうやって協力するか知りません。私たちの知っているすべては、私たちの両方が設ける目的に向かって一緒に働くことです。確かに、協力があり得るのは、あなたと私が思考によってつくり出された共通の目的を持っていないときだけです。いくらかの人たちは私についてきていないのが見えるので、私とゆっくり行きましょう。理解すべき重要なことは、協力はあなたと私が何かであろうと望んでいないときのみ可能であるということです。あなたと私が何かであろうと望むとき、そのとき信念その他もろもろが必要になります。自己投影されたユートピアが必要です。しかしあなたと私が何の自己欺瞞もなしに、何の信念と知識の障壁もなしに、安全であろうという欲望なしに、名もなく創造しているなら、そのとき真の協力があります。

私たちが協力することが、私たちが目的なしに、結果なしに一緒であることができるでしょうか? それはあなたと私が求めていないということです。あなたと私は結果を求めることなしに共に働くことができるでしょうか? 確かにそれが真の協力です。そうでないでしょうか? あなたと私が結果を考え抜き、働き抜き、立案し抜き、そしてその結果に向かって一緒に働いているなら、そのときその中に包含されている過程は何でしょうか? 私たちの心は会っています。私たちの思考、知性的な心はもちろん会っています。感情的に、全存在はそれに抵抗しているかもしれません。それは欺瞞をもたらし、あなたと私の間に葛藤をもたらします。それは私たちの日常生活の中で明らかな、観察できる事実です。あなたと私は知性的に仕事の特定の一部分を行うことに同意します。しかし無意識的に、深く、あなたと私はお互いに戦っています。私は私が満足するための結果を望みます。私は支配したいのです。私はあなたと働いていると言われているけれど、私の名前があなたの名前より前にあるのを望みます。それゆえ、その計画の創案者である私たち二人は、たとえ外部的にあなたと私が計画について同意していても、実際にはお互いに対抗しているのです。内部的には、私たちは意識的には同意しているかも知れませんが、お互いに戦っているのです。

それゆえ、あなたと私が協力し、親交し、あなたと私が何者でもない世界の中で一緒に暮らすことができるかどうか見出すことが重要ではないでしょうか? 私たちが本当にそして真に協力することが、表面的なレベルでなく根本的にできるかどうか。 それは私たちの最大の問題の一つ、たぶん最大のものです。私は対象と同一化し、あなたは同じ対象と同一化します。私たち両者はそれに関心を持ちます。私たち両者はそれをもたらそうとしています。この考える過程は確かに非常に表面的です。なぜなら同一化を通して、私たちは分離をもたらすからです―それは私たちの日常生活のなかに非常に明白です。あなたはヒンドゥー教徒で私はカソリック教徒です。私たちは両方とも友愛を説教し、そして激しく争っています。なぜ? それは私たちの問題の一つではないでしょうか? 無意識的に、そして深く、あなたはあなたの信念を持ち、私は私の信念を持っています。友愛を話すことによって、私たちは信念全体の問題を解決したのではなく、ただこれはそうあるべきだと理論的かつ知的に同意しただけです。内部的に、そして深く、私たちはお互いに対抗しています。

自己欺瞞であり、私たちに特定の活力を与えるそれらの障壁を解消しない限り、あなたと私の間に協力はあり得ません。グループ、特定の観念、特定の国家との同一化を通しては、私たちは決して協力をもたらすことができません。

信念は協力をもたらしません。それどころかそれは分割します。私たちはどんなふうに一つの政党が他の政党に、それぞれが経済問題を処理する特定のやり方を信じて対立するか、それゆえ彼らが皆お互いと戦っているのを見ます。彼らは、例えば、飢餓の問題を解決することの中で決定していません。彼らはその問題を解決するであろう理論に関わっているのです。現実に問題それ自体に関わっていないで、問題を解決する筈の方法に関わっているのです。それゆえ、両者の間に闘争があるに違いありません。なぜなら観念に関わっていて問題にではないからです。同様に、宗教的な人たちは、言葉の上では彼らは皆一つの生、一つの神を持っていると言うけれど、お互いに対立しています。そのすべてをあなたは知っています。しかし内的には、彼らの信念、彼らの意見、彼らの経験が彼らを破壊しており、分離し続けています。

それゆえ、経験は私たち人間の関係の中で分割する要素になります。経験は欺瞞のやり方です。私が何か経験したなら、それにしがみつきます。私は経験する過程の問題全体を調べません。しかし私は経験したので、それで十分であり、私はそれにしがみつき、それによって私はその経験を通して自己欺瞞を課します。

それゆえ、私たちの困難は私たち各人がそんなにも特定の信念に、幸福、経済的な調整をもたらす特定の形式や方法に同一化させられているため、私たちの心はそれによって捉えられ、問題をより深く調べることができないことです。したがって、私たちは特定のやり方、信念、経験に個人的に、超然としてとどまることを望みます。私たちがそれらを、表面のレベルのみならずより深いレベルで解消し、理解するまで、世界に平和はあり得ません。それが本当に真剣な人がこの問題全体―なろう、達成しよう、得ようとする欲望―を表面的なレベルだけでなく根本的に深く理解することが重要である理由です。さもなければ、世界に平和はあり得ません。

真理は獲得されるべき何かではありません。愛はそれをしっかり握っていようとする欲望を持つ者やそれと同一化したい者に生じることはできません。確かにそのようなものは心が求めていないとき、心が完全に静かなとき、心がもはや依存したり、自己欺瞞のしるしである特定の力を導き出したりする運動や信念を創り出していないときに生じるのです。心がこの欲望の全過程を理解するときのみ、心は確かに静かであることができるのです。そのときのみ、心は何かであるとか何かでない運動の中にいないのです。そのときのみ、どんな種類の欺瞞も不可能な状態の可能性があるのです。

質問: 人は善意と助けようという願いを持って取り掛かります。しかし残念ながら建設的に助けるために、政治的、あるいは宗教-社会的なさまざまな組織に参加します。現在、あらゆる善意と思いやりから切り離された自分自身を見出します。どうしてこれは起こるのでしょうか?

クリシュナムルティ: 問題を今一緒に考え抜くことができるでしょうか? すなわち、私が問題を説明するのを単に聞くに過ぎないのではなくて、日常生活のなかで行動しているあなた自身を観察してください。私たちの大抵は、特に若くてなお敏感で感受性に富んでいるなら、悲惨と飢餓を伴うこの世界について何かをしようと望みます。歳をとるにつれて、不幸にもその感受性は鈍くなってしまいます。

敏感であり、善いことをしようと望み、思いやりがあるので、あなたはこの悲惨のすべて、隣の村、空腹、汚らしさ、あらゆる形の欲望、腐敗を見ます。そして何かしようと思います。それゆえ、あなたは見回します。そのとき何が起こりますか? あなたは極左、中道、右翼のさまざまな会合に行きます。あるいは宗教的な本を手にとり、問題を解決しようとします。宗教的な傾向を持っていれば、それを説明してしまいます―カルマ。再生、成長、進化、「それはそうである」や「それはそうでない」などなど。しかし、あなたがそれに政治的に心を配るなら、そのとき種々の会合に参加します。より左翼は即座の結果を約束します。即座にし得ることを示します。彼らは特定の観念、特定の概念、特定の公式に完全に密着しています。彼らは彼らのなしたことやすることの青写真を保持しており、あらゆる彼らの文献を持っています。そういったもろもろが他の人たちの言うことよりもっとあなたを確信させ、それであなたはそれに捕えられます。あなたは結果をもたらそうという、思いやりのある特定の願望を持ってよいことをしようと望み、取り掛かります。そして未来の報酬、未来の理想郷を約束する政治的組織の中にいることになるのです。

結果をもたらすことに非常に熱心なあなたは組織に参加します。あなたの熱心さは政治的活動の中に、観念の中に入って行きました。即時の行為でなくて、特定の観念的方法、練習、訓練などを通して未来の中に。あなたはそのとき、変化を作り出すために今どんなふうに行動すべきかということよりはむしろ、方法、政党、グループ、特定の弁証的な観念等々により多く関わります。私たちは欺瞞、延期、なおざりにすることを導入したのではないでしょうか?、問題の、問題をつくり出している悪の欺瞞ではなくて、私たちが何かをすることを妨げる反対党の欺瞞を。結果は私たちが善性を失ってしまった、思いやりを失ってしまった、私たちがそういったことすべてから、慈悲と愛の源泉のすべてから切り離されているということです。私たちはこれを即時の行為と呼びます。それが私たちの大抵の場合です。そうでないでしょうか?

私たちはグループに参加します。よい何かがそれから生まれるように望んで協会に参加します。やがて私たちは信念に、闘争に、野心に、驚くばかりの愚行に夢中になります。私たちのたいていにとっての困難は私たちが切り離されていることです。私たちは協会、グル―プ、政党の真っ只中にいます。私たちはみな囚人です。そして逃れるのは非常に難しいのです。なぜなら政党、グループ、宗教的組織はあなたを放逐する権力を持っているからです。彼らは権力、経済的そして心理的な権力を持っているのであなたを脅かし、あなたは彼らのなすがままです。あなたは動きが取れない立場になっており、そしてあなたの利益は、心理的にも経済的にも、彼らと共にあるのです。こういったすべてから逃れるには大量の理解が必要です。誰も私たちを助けようとしません。誰もが何かを信じ、動きが取れない立場にあるからです。こういったすべてに捕らえられて人は歳をとります。そのとき絶望と悲劇があり、人はそれを避けがたいものとして受け入れます。

どんなふうに善性、慈悲、愛が、私たちの愚かさによって、私たちが皆そんなにも何かをすることに熱心であるために破壊されるかのこの全ての過程全体を見ることができるでしょうか? 何かをしたいという欲望そのものが自己欺瞞をもたらすのです。私たちは待つための、見るための、観察するための、より深く知るための忍耐を持っていません。よいことを積極的にしようという欲望そのものが欺瞞です。なぜなら利口な人間はあなたの善性、あなたの助けようとする欲望を利用するためにそこに待っているからです。私たちは搾取されるために、利用されるために、私たち自身を彼に捧げるのです。

このすべてを見、この問題の全内容に気づくことが、そして理論的でなく実際に逃れ、あの初期の善性、人々と親密であるあの感覚、それは実際に愛の状態にあることですが、それを再びよみがえらせるように問題に直面する事ができるでしょうか? それが行うべき唯一の道です。愛があるとき、それは途方もない状態、途方もない結果をもたらすでしょう。それを産み出すように、あなたと私が計画することはできません。考え出すことはできません。利口な人たちは皆計画し、考え出してきました。何が起こっているか見てください。彼らは激しく戦っているのです。お互いに相手を破滅させているのです。

この問題全体を見て、真剣な人は明らかに逃れるに違いありません。逃れることそのものの中に再生があります。見ることそのものの中に、観念が最初で行為が後ではない行為があります。

質問: なぜあなたは、真実があるためには知識と信念が抑制されなければならないと言うのでしょうか?

クリシュナムルティ: あなたの知識は何でしょうか、そしてあなたの信念は何でしょうか? 現実に、あなたの知識と信念を調べるとき、それは何でしょうか? 記憶ではないでしょうか? あなたは何の知識を持っているのでしょうか? あなたの過去の記憶の、本に書き下ろされたほかの人たちの経験の知識! あなたがあなたの知識を考えるとき、現実にそれは何でしょうか? それは過去の記憶です。あなたは他の人たちから特定の説明を獲得しており、そして記憶に基づいたあなた自身の経験を持っています。あなたは出来事に出会い、あなたが経験と呼ぶ記憶にしたがってその出来事を翻訳します。あなたの知識は認識の過程です。私たちは信念が何であるか知っています。それらは確かであろう、安全であろう、確実であろうと望んでいる心によってつくり出されているのです。

それゆえ、どうやってそのような、それ自身の便宜の観点で現在のものを翻訳している過去のものの蓄積である知識で不自由にされた心が、どうやってそのような知識を負わせられたそのような心が、真実が何であるか理解することができるでしょうか? 真実は時間を超えたものであるに違いありません。それは私の心によって投影されることはできないのです。それは私の経験から彫りだすことは出来ません。それは私の過去の経験からは知り得ないものであるに違いありません。私が知るなら、それは過去のものからです。私はそれを認識します。したがってそれは真実ではありません。それが単に信念に過ぎないなら、そのときそれは私自身の欲望の投影です。

なぜ私たちは知識をそんなに自慢にするのでしょうか? 私たちは私たちの信念の中に、一般に理解されているという意味で知識の状態の中に囲い込まれています。あなたは何者かでないのを恐れます。それがあなたがなぜそんなにも多くの肩書きをつけるかです。あなたはあなた自身に名前、観念、評判、卑俗な見せびらかしを与えます。この心の重荷のすべてを負って、あなたは「私は真実を探求している。私は真実を理解したい。」と言います。あなたが知識の取得と信念の樹立の全過程を綿密に調べるとき、何が起こりますか? 確かに、それらは心のトリックであることをあなたは見ます。信じること、知ること。なぜなら、それらはあなたに特定の名声、特定の力を与えるからです。人々はあなたをそんなにたくさん読んだ、そんなにたくさん知っている途方もない人間として尊敬します。歳をとるにつれて、知恵が成長したので、あなたはより以上の尊敬を要求します。少なくともあなたはそう思います。あなたが為したすべてはあなた自身の経験が円熟したことです。信念は人類を破壊します。人類を分離します。信じる人は決して愛することができません。なぜなら彼にとって、信念は親切で、優しく、思慮深いことより重大であるからです。信念はある強さ、ある活力、虚偽の安全の感覚を与えます。

それゆえ、この全体のことを調べるとき、あなたは何を持っていますか? 言葉しかありません。記憶しかありません。真実は想像を超え、心の過程を超えているに違いないものです。それは永遠に新しい、認識されることができない、描写されることができないものであるに違いありません。シャンカラ、仏陀、X Y Zが言ったことを引用するとき、あなたはすでに比較し始めたのです―それは比較を通じて、あなたは考えること、感じること、経験することをやめたということを示しています。それは心のトリックのひとつです。あなたの知識は真実であるものの即時の知覚を破壊しているのです。

それが知識と信念のこの全体の過程を理解し、それらを脇にやることが重要である理由です。単純であってください。これらの物事を単純に見てください、狡猾な心でではなく。そのときあなたはそんなに多くの経験、そんなに多くの説明を取得した、そんなに多くの信念によって束縛された心が、それ自身新しくなっているのを見るでしょう。そのとき心はもはや新しいものを求めてはいません、それはもはや認識していません、それは認識することをやめました。それゆえ、それは、過去のものとの関係の中ではなく、絶え間ない経験している状態にあります。繰り返すことができない新しい運動があります。

それがすべての知識、すべての信念が理解されなければならないということが重要である理由です。あなたは知識を抑圧することはできません。あなたはそれを理解しなければなりません。あなたは知識への扉に錠をかけることはできません。今あなたの反応は何でしょうか? あなたは古い型から移るのを恐れるので、ここから立ち去り、同じ古い態度で進むでしょう。

真実を見出すために導師はありません、模範はありません、道はありません。徳は真実に通じないでしょう。徳の実践は自己の永続です。知識は明らかにただ体面に通じるだけです。世間に認められ、彼自身の重要さによって取り囲まれた人は決して真実を見つけないでしょう。心は、探求せず、投影せず、完全に空でなければなりません。測ることができないものの可能性があるのは、心が全く静かでいるときだけです。

質問: 心理学者たちが直観と呼ぶものと、あなたが理解と呼ぶものの間の関係は何でしょうか?

クリシュナムルティ: 心理学者が言うことに悩まないようにしましょう。直観とはどういうことでしょうか? 私たちはその言葉を使います。使いませんか? 私は「理解」という言葉を非常にしばしば使ってきました。それが何を意味するか見出しましょう。

直観とはどういうことでしょうか? 他の人たちが言うことを持ち込まないでください。あなたは直観というその言葉を使います。直観的な感覚とは何でしょうか? 正しかろうが間違っていようが、あなたはそれがそうであるに違いないとか、そうでないに違いないという感覚を持ちます。直観的な感覚という言葉によって、私たちは合理化されない、非常に論理的に考え抜かれたのではない感覚、心を超えて支持する、より高い意識からのひらめきと呼ぶ感覚のことを言います。わたしたちは直観があるか ないかを見ているのではなく、それの真実を見出したいのです。

まず第一に、自分自身を欺くことは非常に容易です。そうでないですか? 私は生まれ換わりは本当であるという直観的な感覚を持ちます。あなたは持ちませんか? あなたはそれについて読んだからではなくて、それについての感覚を持つのです。あなたの直観はそう言い、あなたはそれを認めます。私はただそれを例として取り上げているだけです。私たちは継続があるかないかという事の真実を考えているのではありません。さて、直観的な感覚に何が含まれているでしょうか? あなたの希望、あなたの欲望、継続、恐怖、絶望、空虚の感覚、寂しさ、これらすべてがあなたを駆り立てています。これらすべてが生まれ換わりの観念にしがみつくようにあなたを駆り立てます。それゆえ、あなた自身の欲望が無意識的に、その直観的な感覚を投影するのです。

欲望のこの全過程を理解することなしに、途方もなく人をだますかもしれない直観を信用することはできません。ある場合は直観は人をだまします。問題の直観的な知覚を持つ科学者のことを話さないでください。あなたは科学者ではありません。私たちは日常の問題を抱えるただの普通の人です。科学者たちは数学的な問題について非個人的に仕事をしています。彼らはせっせと頑張ります。せっせと頑張り、答えを見ることができません。それでそのままにしておきます。仕事をしているとき、彼らは突然答えを知ります。そしてそれが彼らの直観です。しかし私たちは問題にそのように取り組みません。私たちは問題にあまりに密接です。私たち自身の欲望によって制限され、限定されています。そして私たち自身の欲望が意識的、あるいは無意識的に、態度、応答、反応を指図します。私たちは「直観」という言葉をこの関連で使用します。

理解は問題の知覚全体です。それは欲望とその働き方を理解することです。理解するとき、検査される問題を見ている検査者としての実体がないことが見えるでしょう。この理解は直観ではありません。この理解はどんなふうに欲望が働くかの過程を、ただの表面的レベルではなく、すっかり見ることです。それは事の中に完全に入っていくことです。その中で欺瞞のあらゆる可能性があらわにされます。

理解は統合された過程です。ところが直観は、私たちが用いるようなものは、部門ごとのものです。後者は時たま作動します。他のときは私たちは皆愚かです。そのような直観を持つことのよさは何でしょうか? ある瞬間、あなたは物事を明瞭に見ます。そして他のときは、あなたはあなたがそうであったただの古い愚かな存在です。理解はいつも働いている統合された過程です。そしてそれは私たちが欲望の総ての過程に気づいているときに生じます。

質問: あなたは私たちが生きているような生は否定であり、それゆえ愛があることができないと言います。どうか説明していただけないでしょうか?

クリシュナムルティ: なぜ私の説明を望むのでしょう? このことがわかりませんか? 私たちの生は非常に創造的、非常に肯定的でしょうか? 少なくとも私たちは、私たちは肯定的であると思います。しかし結果は否定です。私たちは私たちの貪欲、憎しみ、嫉妬、野心において非常に肯定的です。私たちはそのことを知っています。知りません? 階級の分離、共同社会間の分離、生まれながらの分離、あらゆる形の破壊、分離、孤立―これらすべてがあります。

私たちの生は、肯定的に見えるけれど、それが死、破壊、悲惨に通じているので現実に否定です。あなたはそれを受け入れないでしょう。なぜなら「私たちはこの世界であらゆる事を肯定的に行っています。否定の状態の中に生きることはできません」と言うでしょうから。しかしあなたがしていることは否定的行為です。あなたがしていることは何でも死の行為です。そのような行為がどうして否定以外の何かであり得るでしょうか? 野心的であるなら、あなたは関係の中で、破壊的で、堕落しており、腐食しています。あなた方のあらゆる行為が否定的な行為です。

その全存在が一連の否定である心がどうやって愛を知ることができるでしょうか? そのときあなたは私に愛は何であるか尋ねます。模倣は死です。けれども、私たちは模範を持ちます。それに従いたいと思います。私たちは権力を持ちます。私たちは導師を持ちます。反復、模倣、日課の過程に従います―それは何でしょう? 死、放棄! そうでないですか? どうしてそんなものが何かを理解できますか? そんな存在は愛を知ることができません。

肯定的である唯一のものは愛です。それは否定的状態がないときのみ生じます。あなたが野心的でないとき、あなたが堕落していないとき、あなたが嫉妬深くないとき。最初にあなたはいまあるものを認識しなければなりません。するといまあるものを理解する中に、他のものが生じます。

1952年2月9日

(訳者: N.Goto)2001.07.掲載

「自我の終焉」の源流を尋ねて

1952年マドラス講話 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12]