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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 マドラスの公開講話(第12回)

J. Krishnamurti Madras 12th Public Talk 10th February 1952

これが一続きの講話の最後です。この会合が済んだ後は、少なくともしばらくの間、もう講話はないでしょう。

私たちのたいていは、自己中心的な活動に抵抗するようにあらゆる形の説得、あらゆる種類の勧誘が私たちに提供されてきたことに気づいていると思います。宗教が、恐怖を通して、約束を通して、地獄の恐怖を通して、あらゆる形の非難を通して、「ミー」の中心から生まれるこの絶え間ない活動をしないように、さまざまなやり方で人を説得しようとしてきました。これらは失敗したので、政治的組織が引き継ぎました。またしても説得。またしても究極の理想郷の希望。何かの形の抵抗に対しては強制収容所と、極端なものから非常に限定されたものまであらゆる形の立法が用いられ、強制されてきました。それにもかかわらず、私たちは自己中心的な活動をし続けています。私たちが知っているのはそれだけです。それについていやしくも考えるなら、私たちは修正しようとします。それに気づくなら、その進路を変えようとします。そして根本的には、深くは、変容はありません。その活動の根本的な停止はありません。私たちはこれを知っています。少なくとも、思慮深いひとはこれに気づいています。その人たちは、中心からのその活動がやむとき、そのときのみ幸福があり得るのだということにも気づいています。私たちはたいていこれに気づいていません。私たちはそれが自然である、そして結果として起こる活動は不可避であり、ただ修正され、制御され、形作られなければならないだけだということを当然のことと思います。さて、もう少しまじめで、より熱心なひとは、誠実ではありません―なぜなら誠実は自己欺瞞のやり方であり、したがって問題外であるからです―この途方もない自己中心の活動の全体の過程に気づいて、どうやって自分が超えることができるかを見出さなければなりません。

この自己中心的活動が何であるかを理解するためには、明らかにそれを調べ、それを見、この全体の過程に気づいていなければなりません。それに気づいていることができるなら、そのときその解消の可能性があります。しかしそれに気づいていることは確かな理解、ありのままにものに直面し、ありのままにものを見よう、そしてそれを解釈しようとしない、修正しようとしない、非難しようとしない、確かな意図を要します。自己中心の状態から行っているその活動に気づかなければなりません。それを意識しなければなりません。そのことは私たちの主要な困難のひとつです。なぜならその活動を意識するやいなや、私たちははそれを形作りたい、制御したい、非難したい、あるいは修正したいと思うからです。しかし私たちは決してそれを直接に見る位置にいません。そして私たちがするとき、どうすればいいか知ることのできる人はごく僅かです。

私たちは自己中心の活動が有害であり、破壊的であることを、そしてあらゆる形の自己中心的活動―国、特定のグループ、特定の欲望、行動を生み出す欲望との同一化、現世や来世での結果を求める探索、観念の賛美、模範の追求、徳の崇拝と徳の追求などのごとき―は本質的に自己中心的な人の活動であるということをよく理解します。彼の自然との、人々との、観念との関係はすべてその活動の結果です。このすべてを知るとき、どうすればいいでしょうか? そのような活動のすべては、自ら課すのでなく、影響されるのでなく、導かれるのでなく、自発的に終わらなければなりません。このことの中の難しさがおわかりと思います。

私たちのたいていはこの自己中心の活動が害と大混乱を作り出すことに気づいています。しかし特定の方向でそれに気づくだけです。私たちはそれを他の人の中に観察し、私たち自身の活動を知らないのです。あるいは他人との関係の中で、私たち自身の自己中心的活動に気づいて、変えたい、代りのものを見出したい、超えたいと望むかどちらかです。それを扱うことができる前に、私たちはどうやってこの過程が生じるか知らなければなりません。そうでないですか? 何かを理解するためには、それをよく見ることができなければなりません。そしてそれをよく見るためには、さまざまなレベルでの、意識的なレベルでも無意識なレベルでも、種々のその活動、そしてまた意識的な指示、無意識的な動機と意図の自己中心的運動も知らなければなりません。確かにこれは自己中心の過程、時間の結果です。そうでないですか?

自己中心であるとはどういうことでしょうか? いつあなたは「ミー」であることを意識しますか? これら講話の間にしばしば示唆したように、単に私の言うことを言葉の上で聞くだけでなく、言葉を、作動しているあなた自身の心をその中に見る鏡として用いてください。単に私の言葉を聞くに過ぎないなら、そのときあなたは非常に表面的であり、あなたの反応は非常に表面的であるでしょう。しかし、あなたが、私、あるいは私の言っていることを理解するためでなくて、私の言葉の鏡の中にあなた自身を見るために聞くことができるなら、あなた自身の活動をその中に発見する鏡として私を用いるなら、そのとき、それはものすごい、深い影響をを持つでしょう。しかし政治や他の何かの話しにおけるように単に聞くに過ぎないなら、そのとき、あなた自身で 「ミー」と言う中心を解消するその真実を発見する含蓄全体を失うだろうと思います。

私は「ミー」のこの活動を、私が抵抗しているとき、意識がくじかれるとき、「ミー」が結果を獲得したいと望んでいるときのみ意識します。「ミー」が活発であるのは、あるいは私がその中心を意識するのは、快楽が終わりその快楽をもっと持ちたい望むときです。そのとき抵抗があり、大喜び、満足を私に与える特定の目的に向かって、目的意識を持った心の形成があります。私は私が徳を意識的に追求するとき、私自身とその活動に気づいています。それが私たちの知っているすべてです。意識的に徳を追求する人間は徳がありません。謙虚は追求することができず、それが謙虚の美しさです。

それゆえ、活動のこの中心が意識的および無意識的に何かの方向に存在する限り、この時間の運動があり、私は未来と関連して過去と現在を意識します。この活動、「ミー」の自己中心的活動の中心は時間の過程です。それが時間で意味していることです。時間の心理的過程を意味しているのです。それは「ミー」である中心の活動に継続性を与える記憶です。どうか作動しているあなた自身を見守ってください。私の言葉を聞いたり、私の言葉で催眠術にかけられたりしないでください。あなたがあなた自身を見守り、活動のこの中心に気づいているなら、それがただ 時間の、記憶の、経験し、あらゆる経験を記憶に従って翻訳することの過程だけであるのが見えるでしょう。また自己の活動は認識であることが見えるでしょう。それが心の過程です。

さて、心はそれから自由であることができるでしょうか? それはまれな瞬間には可能かもしれません。それは私たちのたいていに、無意識の、故意でない、目的のない行為をするとき起こるかもしれません。心が自己中心の活動からいつも自由であることができるでしょうか? それは私たち自身に向かって最初に訊ねるべき非常に重要な質問です。なぜならまさにそれを尋ねることの中で、あなたは答えを見出すだろうからです。すなわち、この自己中心の活動の全体の過程に気づいており、その活動を意識の種々のレベルで十分知っているなら、そのとき確かにあなたはその活動が終わることができるかどうか、あなた自身に尋ねるに違いありません―すなわち、時間の見地で考えるのでなく、私が何になるだろうか、何であったのか、何であるのかの見地で考えるのでなく。そのような思考から、自己中心の活動の全過程が始まります。そこにまた、なろうとする決心、選び、避ける決心が始まります。それらはすべて時間の過程です。その過程の中に、無数の災厄、悲惨、混乱、ゆがみ、破滅が起こるのを私たちは見ます。私が話しているとき、あなたの関係の中で、あなたの心の中で、それに気づいてください。

確かに時間の過程は革命的ではありません。時間の過程の中に変容はありません。継続があるだけで終わりはありません。時間の過程の中には認識以外の何もありません。あなたが時間の過程、自己の活動の完全な中断を持つときのみ、新しいものがあるのです。革命があるのです。変容があるのです。

活動している「ミー」のこの総べての過程全体に気づいていて、心はどうすればいいでしょうか? 新生と共にのみ、革命と共にのみ―進化を通してでなく、なろうとしている「ミー」を通してではなく、完全に終わる「ミー」を通して―新しいものがあります。時間の過程は新しいものをもたらすことができません。時間は創造の道ではありません。

私はあなた方の誰かが創造の瞬間を持ったかどうかわかりません。行為ではなく―私は何かを実行に移すことを話しているのではありません―私は認識のない創造の瞬間を言っているのです。その瞬間に、認識を通した活動としての「ミー」がその中で止んでいる、あの途方もない状態があります。私たちのいくらかのひとはそれを持ったと思います。たぶん私たちの大部分の人がそれを持ったでしょう。気づいているなら、その状態の中に、思い出し、翻訳し、認識し、それから同一化する経験者がないことが見えるでしょう。時間に属している思考過程はありません。創造、創造性のその状態の中に、あるいは始めも終わりもない新しいもののその状態の中に、「ミー」の行為は全くありません。

さて、私たちの質問は確かにこうです。心がその状態を経験すること、持つことができるでしょうか、ちょっとの間ではなく、まれな瞬間ではなく―私は「永続的に」とか「永遠に」という言葉を使いたくないのです、なぜならそれは時間を意味するからです―その状態を持つこと、時間に関係なしにその状態の中にいることが? 確かに、そのことは私たち一人一人によって為されなければならない重要な発見です。なぜならそれが愛への扉であるからです。他の扉はすべて自己の活動です。自己の行為があるところ、愛はありません。愛は時間に属するものではありません。あなたは愛を練習できません。練習するなら、そのときそれは生きることを通してふたたび結果を得ることを望んでいる「ミー」の自己を意識する活動です。

それゆえ愛は時間に属するものではありません。それに、何かの意識的な努力を通して、何かの訓練を通して、同一化を通して出会うことはできません。それらはすべて時間の過程です。心は時間の過程だけを知っているので、愛を認識することができません。愛は新しい、永遠に新しい唯一のものです。私たちのたいていは時間の過程であり、時間の結果である心を養成してきたので、愛が何であるか知りません。私たちは愛を語ります。私たちは人々を愛する、子供、妻、隣人を愛すると言います。私たちは自然を愛すると言います。しかし私が愛することを意識する瞬間、自己の活動が生じました。したがってそれは愛であることをやめます。

心のこの全体の過程は関係―自然との、人々との、私たち自身の投影との、あらゆるものとの関係を通してのみ理解されるべきです。実際は、生は関係以外の何ものでもありません。私たちは関係から自身を切り離そうと企てるかも知れませんが、関係なしに生きることはできません。関係が苦痛なので、隠者になることなどによって、絶縁を通してそれから逃げ出そうとしますが、私たちはそうすることはできません。これらの方法はすべて自己の活動のしるしです。この全体図を見るなら、意識としてのこの時間の全過程に、選択なしに、決意した目的を持った意図なしに、結果を求める欲望なしに気づいているなら、この時間の過程が誘導されてでなく、欲望の結果としてでなく、自発的に終わることが見えるでしょう。永遠に新しい愛があるのはその過程が終わるときのみです。

私たちは真実を捜し求める必要はありません。真実ははるか彼方の何かではありません。それは心の真実、瞬時瞬時のその活動の真実です。この瞬時瞬時の真実に、この時間の全体の過程に気づいているなら、この気づきが意識、あるいはあるべきそのエネルギーを解放します。心が意識を自己の活動として用いる限り、時間がその悲惨のすべてを伴って、その葛藤のすべてを伴って、その害、その目的を持った欺瞞のすべてを伴って生じます。そして心が、この全体の過程を理解して止んだときのみ、愛がきっとあるでしょう。あなたはそれを愛と呼ぶかもしれないし、何か他の名を与えるかもしれません。あなたがどんな名を与えても、それはどうでもよいことです。

質問: 自分自身を欺いているなら、どうやって知ることができるのでしょうか?

クリシュナムルティ: どうやって何かを知りますか? 知ることの過程は何でしょうか? どうかこれを追ってください、すると あなた自身を欺いているか いないか、すぐ見出すでしょう。すなわち、あなたが質問の中でまじめなら、見出すことができます。

あなたは、あなた自身を欺いているときを知りたいと望んでいます。さて、欺くということはどういうことでしょうか? いつ あなたは知りますか? あなたが解釈しているとき、そうでないでしょうか? 認識するとき、解釈の過程が進行しているとき、経験していてその経験を翻訳しているとき知るだけです。そのときあなたは「私は知っている」と言います。認識の過程があるかぎり、知ることがあります。

自己欺瞞とはどういうことでしょうか? いつ私たちは自分自身を意識的、あるいは無意識的に欺くのでしょうか? 私たちの大抵は、私たちは私たち自身を欺いているのですが、この過程が進行していることに全く気づいていません。私たちは表面的に気づいている、言葉の意識の表面のレベルで気づいているかもしれません。漠然としたやり方で自己欺瞞に気づいているかもしれません。しかしそれでは十分でないでしょう。私たちはそれをすべてのレベルで根本的に知らなければなりません。それはかなり困難です。私たちは調べなければなりません。見出さなければなりません。探索し、欺瞞とはどういうことか理解しなければなりません。いつ私たちは私たち自身を欺き、私たち自身をだますのでしょうか? 私たち自身や他の人たちに押しつけがあるときだけです。「欺瞞」という言葉は確かにそれを意味します。そうでないですか? 特定の経験を他の人たちに押し付けることやその経験に愛着すること、後者はその経験を私たち自身に押し付けることです。私の言っていることは追うのが難しくありません。一歩一歩進むなら、それはとても簡単です。私が他の人たちや私自身に経験を押し付けようとしている限り、私が愛着を通して、あるいは同一化を通して、あるいは他の人を確信させようとする欲望を通して経験を移転している限り、自己欺瞞は存在します。

それで自己欺瞞は時間の過程です。それは蓄積された過程です。「私は子供のときある経験をした。そしてその経験が続くことを望む」。私は若者のときのその経験が真実であるのを確信し、あなたにそれを確信させたいと思います。なぜなら私はそれを経験したのであり、そしてそれにしがみつくからです。それが私たちがどんなふうに知っているかです。それゆえ、経験の解釈である知ることは、時間の過程である自己欺瞞をもたらします。

いつあなたがあなた自身を欺いているか知りませんか? それを知りませんか? 事実があり、あなたはそれをあなた自身の既得の利害、あなた自身の好きなものや嫌いなものに都合がよいように翻訳します。それで直ちに、そこに自己欺瞞が始まりました。あなたが事実に直面することができないで、その事実をあなたの記憶の見地で翻訳しているとき、直ちに自己欺瞞が始まったのです。私は私が翻訳した幻想を持ち、それにしがみつきます。私の好き、嫌いにしたがって翻訳した経験があり、私は過去の経験を通して私自身を欺き始めます。そこに解釈で始まる自己欺瞞が始まるのです。

私が事実をどんな種類の比較や判断もなしに、翻訳なしに見ることができるとき、そのときのみ欺かれていない可能性があります。私がそれから何も望まないとき、結果を望まないとき、あなたにそれを確信させたいとか、私自身がそれを確信したいとか望まないとき、この欺かれていない可能性が存在します。私は直接に見なければなりません。私と事実の間にどんな解釈もなしに、その事実と接触しなければなりません。私と事実の間に、欺瞞である時間の過程があってはなりません。

私は少年のとき、若者のとき、導師、大師やそういったものの経験を持ちます。そのとき、何が起こりますか? 私はそれを私の好むもの、条件付けに従って解釈します。そのとき「私は知っている」と言います。そこに自己欺瞞が始まります。私は翻訳することができる経験に執着します。翻訳することができる経験が自己欺瞞の始まりです。そこから私は進みます。この知ることの全過程を築き上げます。私が能力を持っているなら、私の経験をあなたに確信させます。そして無批判で、迷信深いあなたは、あなたもまた欺かれることを望んでいるので私に追従します。あなたもまた同じ網の中にいたいのです。網は投げ捨てられなければなりません。あなたは毎日土を鋤くことができます。鋤いて鋤いて鋤く以外何もしません。しかしあなたが種を播くまでは何も得ないでしょう。それがどんなふうに私たちが私たち自身を絶えず欺いているか、そして他の人たちを欺いているかです。

それゆえ、自己欺瞞があるかどうか、自分自身で発見することは非常に単純で、非常に明確です。経験を翻訳している解釈者がある限り、欺瞞があるに違いありません。経験者から、翻訳者から自由になる無限の時間があると言わないでください。それは自己欺瞞のもうひとつのあなたのやり方です。それは事実を逃れようとするあなたの欲望です。

私たちが私たち自身を欺いているかどうか知りたいなら、それは非常に明確で、非常に単純です。それはあなたが頼らないとき、他人に満たしてもらうように、物乞いの椀を差し出さないときだけです。そのときのみ、何の欺瞞も可能でない状態を知るでしょう。

質問: 同一化を通して私たちは分離、分割を引き起こすとあなたは言います。私たちのあるものには、あなたの生き方は分離的であり、隔てており、そして以前は一緒であった人の間に分離を引き起こしたように見えます。あなたは何と同一化したのですか?

クリシュナムルティ: さて、まず最初に同一化は分割し分離するという声明の真実を見てみましょう。私はそれを何回か言明しました。それは事実でしょうか、事実でないでしょうか?

同一化とはどういうことでしょうか? ただ単に、そして言葉の上でそれにふけらないで、それを直接に見てください。あなたはあなたの国と同一化します。しませんか? そうするとき、何が起こりますか? あなたは直ちに、その同一化を通して特定の集団であなた自身を囲みます。それは事実ではないでしょうか? あなたがあなた自身をヒンドゥー教徒と言うとき、あなたは特定の信念、伝統、希望、観念と同一化したのです。そしてその同一化がまさにあなたを分離します。それは事実ではないでしょうか? そのことの真実を見るなら、そのときあなたは同一化するのを止めます。したがってあなたは政治的あるいは宗教的に、もはやヒンドゥー教徒や仏教徒やキリスト教徒ではありません。それゆえ、同一化は分離的です。生の中の退廃する要素です。そのことは事実です。あなたが好きでも好きでなくても、そのことがそれの真実です。

質問者は、私が私の行動を通じて、以前に一緒だった人たちの間に分離をもたらしたかどうか、続けて尋ねています。承知しました。あなたが真実な何かを見るなら、それを言明しなくてはならないのではないでしょうか? それが騒ぎをもたらしても、不統一をもたらしても、それを述べるべきではないでしょうか? どうして偽りの上に統一がありうるでしょうか? あなたは観念に、信念に同一化します。その信念、観念をほかの人が疑うとき、あなたはそのほかの仲間を追い出します。彼を参加させません。突き出します。あなたは彼を分離しました。あなたのしていることは間違っていると言う人はあなたを分離しませんでした。それゆえ、あなたの行為が分離しているので、彼の行為がではありません、真実を指し示している人の行為がではありません。あなたは同一化は分離的であるという事実に直面したくないのです。

家族との、観念との、信念との、何か特定の組織との同一化はすべて分離的です。それが一直線に終わらされるとき、あるいは あなたがそれを見せられ、挑戦を与えられるとき、そのとき同一化したい、分離的でありたい、他の仲間を突き出したいあなたは、その人間は分離していると言います。

あなたの生存の仕方、あなたの生き方、は分離的です。それゆえあなたは分離に責任があります。私はありません。あなたは私を追い出しました。私は出て行きませんでした。当然、あなたは私が分離している、私が分離をもたらしている、私の観念と私の表現は破壊しており、破壊的であると感じ始めます。それらは破壊的であるべきです。それらは革命的であるべきです。さもなければ、何か新しいものの価値は何なのでしょうか?

確かに、皆さん、革命がなければなりません。特定のイデオロギーやパターンに従うのではなく。イデオロギーやパターンにしたがっているなら、そのときそれは革命ではありません。それは単に過去のものの継続に過ぎません。それは新しい観念との同一化であり、それゆえ特定の形に継続性を与えます。そしてそれは確かに革命ではありません。革命はあらゆる同一化の内的な断絶があるとき生じます。そしてあなたがそうすることができるのは、あなた自身を欺くことなしに、そして解釈者に、事実について彼の考えることをあなたに告げる機会を与えることなしに、事実をまっすぐに見ることができるときだけです。

同一化の真実を見て、明らかに私は何にも同一化しません。あなた、何かが傷つけるという真実を私が見るとき、問題はありません。私はそれをそのままにしておきます。私はそこやどこかよそで同一化することをやめます。あなたは同一化の全過程は破壊的、分離的であることをよく理解します。この過程が宗教的信念や、論証的な政治的見解のいずれの中に起ころうとも、それはすべて分離的です。あなたがそれを認識するとき、それを見て、十分にそれに気づいているとき、そのとき明らかにあなたは解放されます。したがって何ものとの同一化もありません。同一化しないことは一人で立つことですが、世界に立ち向かう高貴な存在としてではありません。これは一緒にいることと何の関係もありません。しかし、あなたは不統一を恐れています。

質問者は私が不統一を持ち込んだと言います。持ち込んだでしょうか? 私はそれを疑います! あなたは独力でその真実を発見しました。あなたが私によって説得されて、それゆえ私と同一化しているなら、そのときあなたは新しいことをしたのではありません。あなたはひとつの悪を他のと交換しただけです。皆さん、私たちは見出すために打破しなければなりません。真の革命は内部の革命です。それは物事を明確に見る、そして愛のものである革命です。その状態の中で、あなたは何ものとも同一化を持ちません。

質問: あなたはあなたと私が何者でもない者としてあるときのみ、協力があり得ると言います。どうしてこれが真実であり得るでしょうか? 協力は積極的な行為ではないでしょうか? ところが何者でもない者としてあることはほとんど無意識的な消極性です。どうして二つの何者でもない者が関係し得るのですか、そして彼らが協力する何があるのでしょうか?

クリシュナムルティ: 何者でもない状態は明らかに無意識的な状態に違いありません。それは意識的状態ではありません。私は何者でもない者としてあると言うことはできません。あなたが何者でもない者として意識しているとき、あなたはそのとき何かです。これは単なる面白い声明ではなくて、事実です。徳があることを意識しているとき、あなたは世間に認められるようになります。世間に認められるような人は決して本当のことを見出すことができません。私が何者でもない者としてあることを意識しているとき、そのときその何者でもないことそのものが何かです。私がそう言ったからといって、簡単にそれを受け入れないでください。

あなたと私が何者でもない者としてあるときのみ、協力があり得ます。それがどういうことか見出してください。考え抜き、それを瞑想してください。質問をただ尋ねないでください。何者でもないその状態はどういうことでしょうか? あなたはそれで何を意味しますか? 私たちは自己の活動、自己中心の活動の状態だけを知っています。誰かの導師、大師に従っていようと、それは全く関係ありません。私たちは独立行動である状態を知っているだけです。それは明らかに災害、悲惨、騒動、混乱、非協力を作り出し、引き起こします。そしてそのとき問題が起こります。「どうやって協力したらいいのだろうか?」

私たちはいま、すでに示されたように、観念に基づくどんな協力も破壊に通じるということを知っています。観念に基づく行為、協力は分離的です。ちょうど信念が分離的であるように、観念に基づく行為もそうなのです。たとえあなたが確信しても、あるいは百万の人々が確信しても、なお確信させられるべき多くの人がいます。それゆえ、いつも進行する争いがあります。それゆえ、根本的な協力はあり得ないことを私たちは知ります。恐怖を通じて、報酬を通じて、罰その他を通じて表面的な説得はあるかもしれませんが―それは明らかに協力ではありません。

それゆえ、目的が視野にあるような、理想郷が視野にあるような自己の活動があるところ、それは破壊、分離以外の何ものでもありません。そして協力はないのです。人が本当に見い出すことを望んでいるなら、あるいは本当に、表面的でなくて本当に見い出し、そして協力をもたらしたいなら、どうしたらいいでしょうか? あなたが妻、子供、隣人からの協力を望むなら、どうやってそれに取り掛かりますか? 人を愛することによって取り掛かります。明らかに!

愛は心に属するものではありません。愛は観念ではありません。愛は自己の活動があるのがやまったときのみあり得るのです。しかしあなたは自己の活動を積極的と呼びます。その積極的な行為は破壊、分離性、悲惨、混乱につながります。そのすべてをあなたは非常によく、非常に徹底的に知っています。それにもかかわらず、私たちは皆協力、友愛を語ります。基本的に、私たちは私たちの自己の活動にしがみつきたいのです。

それゆえ、協力の真実を本当に追跡し、見出したい人は、自己中心的な活動を必ず終わりにしなければなりません。あなたと私が自己中心でないとき、私たちはお互いに愛します。そのときあなたと私は行為に関心があります、結果にではなく、観念にではなくて、行為をすることに。あなたと私はお互いに愛を持ちます。私の自己中心的活動があなたの自己中心的活動とぶつかるとき、そのとき私たちは観念を投影し、それに向かって私たち二人は口論します。表面的に私たちは協力しています。しかしいつもお互いに激しく争っているのです。

それゆえ、何者でもないことは意識的な状態ではありません。そしてあなたと私がお互いに愛しているとき、私たちは協力します。それについて考えを持っている何かをするためでなく、なされるべきことがあることは何でも。

もしもあなたと私がお互いに愛しているなら、あなたは汚い、不潔な村が存在すると思いますか? 私たちは行動するでしょうし、理論化しないでしょうし、友愛を語らないでしょうに。明らかに、私たちのハートに暖かさや生命を維持するのに最小限必要なものがなく、私たちはあらゆることを語るのです。私たちは方法、方式、政党、政府、法律を持っています。私たちは言葉がその愛の状態を捕まえることができないことを知らないのです。

「愛」という言葉は愛ではありません。「愛」と言う言葉はシンボルに過ぎず、それは決して実際のものではあり得ません。それゆえ、その「愛」というその言葉で催眠術にかけられないようにしてください。それは新しいものではありません。その状態は「ミー」の活動がやんだときにのみ生じることができるのです。そしてその「ミー」のやんだ中で、あなたはなされるべきことに協力しており、観念にではありません。このすべてを知りませんか、皆さん? あなたと私がお互いに愛するとき、私たちは物事を非常に容易に、非常に滑らかに行う事を知りませんか? 私たちは協力について語りません。私たちは事を行う方式について語り、次に方式で戦って行為を忘れることをしません。あなたがたは笑い、皆それを無視します。私たちは利口さの中で歳を取ったので、知恵の中でではありません。

質問: 瞑想のどの方式に私は従うべきでしょうか?

クリシュナムルティ: 私たちは見出しましょう。あなたは私の真実を聞き、それをあなたのものにしようとしていません。あなたは言葉を模倣できるだけであり、それは真実ではないでしょう。シンボルは実在のものではありません。シンボルを崇拝するとき、偶像崇拝的になります。そして偶像崇拝のひとは決して真実を見出せません。

さて、あなたは何が真実か見出そうとしています。究極の、絶対の、最終の真実ではなくて、あなたが瞑想するのを助ける方式の真実。すなわち、私たちは方式、方法が、あなたが瞑想するのを助けるかどうかの真実を見出そうとしています。

質問者はたぶん方式、方法、確定した段階が、あなたが瞑想するのを助けるかどうか尋ねているのでしょう。私たちはそれを見出そうとしています。真実は遠くの、行かねばならない何マイルも離れた何かではありません。それはそこ、まさにあなたの鼻の真下に毎瞬発見されるためにあります。それはそこに、あなたが創造的である新鮮な心で発見するためにあります。私たちはこのようなやり方で真実、瞑想の意味の全体を発見するでしょう。

方式の意味は何でしょうか? 練習、物事を繰り返し行うこと、反復、複写と模倣。そうでないですか? すべての方式はただこのことを意味します。そうでないですか? 練習を通して、反復を通して、あなたは幸福を見つけるつもりですか? その幸福、至福、測ることの出来ないもの、はそのようにして生ずることは出来ません。

あなたの練習の始めに、あなたはその練習の始めと終わりの両方を持っています。すなわち、あなたがそれで始めるものはまたそれで終わるものです。始めは終わりです。私が練習するなら、私が模写するなら、私は模倣者として、反復している機械として終わるでしょう。私の心がただ反復すること、くる日もくる日も特定の方法を練習すること、特定の方式に従うことができるだけなら、終わりに私の心はなお模写し、模倣し、反復しています。確かにこれは明らかではないでしょうか? したがって始めに、私は心がついていく道順を準備しました。私が始めに理解しないなら、終わりに理解しないでしょう。それは明白な真実です。

それゆえ、私は終わりは始めにあることを発見しました。方式は約束を通して、快楽、報酬、罰を通して心を機械的に、愚かに、酔ったようにします。そして始めに自由がなく、それゆえ終わりに自由がありません。始めは桁外れに重要です。

あなたにとっては、瞑想はまったく違った過程です。あなたは集中を学びたいのです。あなたは結果を得る方法を学びたいのです。あなたは神、女のか男の、何かのばかなイメージを崇拝したいのです。徳を追求したいのです。こういったすべてがあなたにとっては瞑想です。徳を追求する、徳を養成するとき、何が起こりますか? 「ミー」の活動を持ちます。「ミー」は親切であること、寛大であること、貪欲でないことを望みます。そしてあなたは毎日、毎月、練習します。それによって、違うやり方であなたは貪欲を強めていませんか? なぜなら、あなたは貪欲でないことを意識しています。そして貪欲でないことを意識する瞬間、あなたは確かに貪欲です。

あなたの徳の追求は自己中心的活動の一形態です。それは瞑想ではありません。集中することを望むとき、心はさまよい、あなたはそれを押し戻そうとします。それゆえ、あなたは戦いを始めます。心はさまよい出ており、あなたは集中しようと試みます。それは何を示していますか? ここにいるとき、ここにいる間、あなたの心は本当に集中していませんか? すなわち、本能的な、自然な、排除の過程でない集中がありませんか?

あなたの心が取るに足りず、狭量で、利口で、狡猾で、野心的であるなら、あなたの瞑想の利点は何でしょうか、あなたの集中の学習の利点は何でしょうか? それを学ぶなら、そのときそれは自己のもうひとつの行動です。それは他の人を欺くのを、あなた自身を欺くのを助けるでしょう。それゆえ、あなたは集中は瞑想でないという真実を見ました。それは心を特定の型に強制するためにもくろまれた、狭める、排外的な過程に過ぎません。

あなたがすべての方式を終わらせた、方式の全部の観念が落ちてしまったと想像してください。そのとき何が? あなたの心を特定の対象―大師、何かのイメージ―に集中するという考え、それは排除に過ぎず、同一化の過程であり、それゆえ分離なのですが、それもまた消えていきました。そのとき何が起きますか? あなたの心はより知覚し、より気づくようになります。そのとき心のどんな追求も、どんな形の達成も重荷であることが見えないでしょうか?

どうかこのすべてを追って下さい、私が話しているように瞑想してください。すると成功の獲得のどんな形、なることのどんな感覚もなお自己の、それゆえ時間に属する行為であることが見えるでしょう。それを明確に、十分に認識するとき、そのときもはや徳の追求はありません。そのとき獲得の、何者かであるという感覚すべては消えていきます。したがって心はより静かになり、より平穏になり、報酬や罰を求めていません。それは完全にお世辞や侮辱のようなものに無関心になります。あなたの心に何が起こりましたか? 家に帰らずにそこでそれを考えてください。今考えてください。以前あなたを動揺させていた物事、無意識的で怖がっていて、報酬を求めて、罰を避けて、分離的なやり方で働いた物事、こういったことすべては消えて行きました。心はより静かに、より鋭敏になってきました。誘導されたのでない、訓練されたのでない、強制されたのでない、心を引きつける静けさがあります。そのとき何が起こりますか? そのとき、その静かな状態の中に観念が浮かびます。感情が浮かびます。そして、あなたはそれらを理解し、そしてそれらをわきにやります。そのとき、あなたが少し先に進むなら、その状態の中に、自己投影でない確かな活動があり、それはそよ風、夕焼けのように、美のように、招くことなしに ひそかに 神秘的に生じるのが見えるでしょう。それが生じる瞬間、心は、美を見て、それを保持したいかもしれません。それはそのとき「私はその状態を経験した」と言い、それからそれにしがみつき、それによって時間の過程を作り出します。それが記憶です。その可能性もまた去るに違いありません。

どんなふうに心が機能しているか、どんなふうに一連の感情、それはすばらしいと言われます、を望んでいるか、どんなふうにそれらを名づけているかをご存知ですね。そのすべての真実を見るとき、これらのものもまた去ります。さて、捜していない、追跡していない、望んでいない、結果を探し出そうとしていない、名前を付けていない、認識していない心の状態はどんなでしょうか? そのような心は静かです。そのような心は静まっています。静けさはどんな形の強要もなしに、どんな強制もなしに、どんな訓練もなしに非常に自然に生じます。心を解放したのは真実です。その状態の中で、心は途方もなく静かです。そのとき新しい、認識できない、創造であり、愛であり、それを呼びたいように呼んでください、始まりと違わないもの、が生じます。そしてそのような心は祝福された心です。神聖な心です。そのような心のみが助けることが出来ます。そのような心は協力することができます。そのような心は何の同一化もなしにあることが、何の自己欺瞞もなく、ひとりであることが出来ます。

彼方のもの、は言葉で測ることができません。測ることができないもの、は生じます。しかしあなたが愚か者のように求めるなら、そのとき決してそれを持たないでしょう。あなたが少しも期待していないときそれは生じます。それはあなたが空を見つめているとき生じます。それはあなたが木陰に座っているとき生じます。それはあなたが子供の微笑や女性の涙を観察しているとき生じます。しかし私たちはよく見ていないのです。私たちは瞑想していないのです。私たちはただ、追跡されるための、練習されるための、実現するための、神秘的な、醜いものについてのみ瞑想します。瞑想を練習するひとは決して知らないでしょう。しかし瞬時瞬時である真の瞑想を理解する人のみが知るでしょう。個人の経験はありません。真実が関係しているところ、個人性は消えます。「ミー」はあることをやめました。

1952年2月10日

(訳者: N.Goto)2001.08.掲載

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