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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 マドラスの公開講話(第2回)

J. Krishnamurti Madras 2nd Public Talk 6th January 1952

私たちは昨日、欲望の問題とどうやってそれを理解するかを話していました。それは非常に重要な質問なので、気まぐれに考えて捨て去られるべきではありません。人は無数の質問を正しい答えを見出すためにすることができますが、しかし聞く能力を持たなければなりません。私たちの大抵は答えを得ること、正しい応答を持つこと、正しい解答を見出すことを切望するので、切望する中でそれらを皆失うのです。それゆえ、昨日提唱したように、私たちは多くの忍耐、無感動ではなくて忍耐を伴なう油断のなさ、油断のない受動性を持たなければなりません。私が今晩しようと思っていることは信念と知識の問題の話しをすることです。信念と知識は欲望と非常に密接に関係しています。そして多分、これら二つの問題を理解できるなら、そのとき欲望がどんなふうに働くかを見、その複雑性を理解することができるでしょう。

あなたは聞くべきであってノートを取るべきではないと示唆していいですか。なぜならノートを取り、かつ聞くことは非常に難しいからです。私があなた方一人一人とここで、すべての討論と講話の中で試みたいことは、問題を直接に見る、それを直接に理解するということであり、ここから去った後で手探りすることではありません。そのとき、これらの会合が価値があることがわかるでしょう。私は非常に熱烈に思っているのですが、大きな聴衆や小さな聴衆に話しているのではなくて、一人一人の個人に話しているのです。そして私は本気でそう思っているのです。見ること、理解し 新しい世界を創造することができるのは、内部の革命 それゆえ外部の革命をも引き起こすことができるのは、個人のみです。それゆえ、個人としてのあなたと私は問題を一緒に論じており、それをするために出来る限り深く調べようとしているのであり、あなたは聞かなければなりません。あなたは少々受容的であり、言われていることにあなた自身をさらすことができなければならず、私たちが進むとき あなた自身の反応を見出さなければなりません。それゆえ、示唆させていただければ、聞くとき、解釈なしに物事を見、それを直接に理解しなければなりません。

私が言ったように、この信念と知識の問題は、本当に非常に興味のある問題です。なんと途方もない役割を、それは私たちの生の中で演じることでしょう! なんと多くの信念を私たちは持っていることでしょう! 確かに人が聡明で、教養があり、精神的、その言葉を使うことができるならですが、である人であればあるほど、彼の理解する能力はますます少ないのです。現代世界においても、未開人は数え切れない迷信を持っています。より思慮深い人、より目覚めた人、より油断のない人は多分より信じない人でしょう。それは信念は束縛するから、信念は分離するからです。そして私たちはそれを世界中に、経済と政治の世界に、そしてまたいわゆる精神世界の中に見ます。あなたは神があることを信じ、そしてたぶん私は神がないことを信じます。あるいは、あなたはあらゆるものとあらゆる個人の完全な国家管理を信じ、私は私企業その他もろもろを信じます。あなたは唯一の救い主があり、彼によって到達することができると信じ、私はそう信じません。それゆえ、あなたの信念を持つあなたと、私の信念を持つ私は自己を主張しているのです。それにもかかわらず私たちは両者とも愛を、平和を、人類の統一を、一つの生を語ります-それは絶対に無意味です。なぜなら、現実に信念そのものが分離の過程であるからです。あなたはバラモンで、私は非バラモンである、あなたはキリスト教徒で、私はイスラム教徒であるなどなど。しかしあなたは友愛を語り、私もまた同じ友愛、愛と平和を語ります。現実には私たちは分離しています。私たちは私たち自身を分割しています。平和を望み、新しい世界を創造することを望む人は、確かにどんな形の信念によっても彼自身を分離することはできません。それは明確ですか? それは言葉の上であるかもしれません。しかし、その意義と妥当性と真実を見るなら、それは働き始めるでしょう。

それゆえ、働いている欲望の過程があるところ、信念を通じて分離の過程があるに違いないことを私たちは見ます。なぜなら、明らかに、経済的に、精神的に、そしてまた内的に安全であるために信じるからです。私は経済的な理由のために信じる人たちのことを話しているのではありません。なぜならその人たちは彼らの仕事に依存するように育てられ、それゆえカソリック教徒、ヒンドゥー教徒であるからです-それは何も問題ではありません-彼らのための仕事がある限り。私たちはまた便宜のために信念にしがみつくその人たちを論じているのでもありません。たぶん、あなた方の大部分にとって、それは同様にそうなのでしょう。便宜のために私たちは特定の物事を信じます。これらの経済的な理由を払いのけて、それをより深く調べなければなりません。経済的、社会的、あるいは精神的な何かを強く信じる人たちを取り上げましょう。その背後の過程は安全であろうとする心理的な欲望です。そうではないですか? それから継続しようとする欲望があります。ここで継続があるかないかを議論しようとはしていません。私たちはただ信じようとする駆り立てる力、絶え間ない衝動を論じているのです。平和の人、人間存在の全過程を実際に理解したい人は、信念によって縛られることはできません。できるでしょうか? それは彼の欲望が安全になるための手段として働いているのを彼が見るということです。どうかもう一方の側に行って、「私が無宗教を説いている」と言わないでください。それはまったく私の要点ではありません。私の要点は信念の形における欲望を理解しない限り、争いがあるに違いない、葛藤があるに違いない、悲しみがあるに違いないということです。そして人は人に対立するでしょう。それは毎日見られます。それゆえ、この過程が 内的な安全を求める渇望の表現であるところの信念の形を取ることを私が知覚するなら、気づくなら、そのとき、私の問題はこれやあれを信じなければならないということではなくて、安全であろうとする欲望から私自身を解放しなければならないということです。心はそれから自由であることが出来るでしょうか? それが問題です。何を信じるべきか、どれほど信じるべきかではなく。これらは単に心理的に安全でありたい、世界の中であらゆるものがそんなにも不確実であるとき、何かについて確実でありたいという内的な熱望の表現にすぎません。

心は、意識的な心は、人格は、安全でありたいというこの欲望から自由であることが出来るでしょうか? 私たちは安全であることを望み、それゆえ地所、財産、家族の助けを必要とします。私たちは信念の壁を築くことによって、内的に、そしてまた精神的に安全であることを望みます。信念は確かでありたいこの切望のしるしです。あなたは個人として安全でありたいこの衝動、この切望から自由であることが出来るでしょうか? それはそれ自身を、何かを信じることを望む欲望の中に表現するのです。私たちがそのすべてから自由でない限り、私たちは争いの源です。平和をもたらしていません。ハートに愛を持っていません。信念はそのすべてを破壊します。そしてこれは毎日の生活の中に見られます。それゆえ、私がこの欲望の過程、それは信念にしがみつくことの中にそれ自身を表現しますが、に捉えられるとき、私自身を見ることができるでしょうか? 心はそれ自身をそれから解放できるでしょうか? 信念の代替を見つけるのではなくて完全にそれから自由でなければなりません。あなたはこれに「はい」とか「いいえ」と答えることはできません。しかしあなたの意図が信念から自由になることであるなら、あなたは答えをきっぱりと与えることができます。あなたはそのとき必然的に、安全でありたい衝動からあなた自身を解放する手段を捜し求めている点に到達します。明らかに、あなたが信じたいように継続する内的な安全はないのです。あなたはあなたの取るに足らない小さな物事、誰を見るべきか、何をすべきか、どんなふうにすべきかを注意深く世話をしてくれる神がいるのを信じたいのです。明らかにこれは幼稚な未熟な考えです。あなたは偉大なる父が私たち一人一人を見守っていると思います。それは単なるあなた自身の個人的好みの投影にすぎません。明らかに本当ではありません。真実はまったく違ったものであるに違いありません。私たちの好みの投影ではないその真実を見出すことが、このすべての討論と講話における私たちの目的です。それゆえ、真実が何であるか見出すためのあなたの努力において本当に真面目であるなら、信念によって不自由にされ、束縛され、拘束された心は少しの距離も進むことができないということは明白でしょう。

次の問題は知識のそれです。知識は真理の理解に必要でしょうか? 私が「私は知っている」と言うとき、含まれている意味は知識があるということです。そのような心は何が実在であるかの探究と調査が可能でありうるでしょうか? なおまた、私たちが知っているそれは、それを私たちはたいそう自慢しますが、何でしょうか? 実際に私たちが知っているものは何でしょうか? 私たちは情報を知っています。私たちは私たちの条件付け、記憶、能力に基づく経験と情報で一杯です。「私は知っている」と言うとき、どういう意味でしょうか? どうかそれをよく考えてください。私と共に進んでください。単に私の言うことを聞くだけにしないでください。あなたが知っている認識は事実の認識か、情報の中の信頼できるものかどちらかです。あるいはあなたが持った経験です。情報の絶え間ない蓄積、種々の形の知識、情報、そのすべての獲得は「私は知っている」という主張を構成します。そしてあなたはあなたの背景、欲望、経験にしたがって、あなたが読んだものを翻訳し始めます。あなたの知識はその中に欲望の過程に類似した過程が働いている物です。信念の代わりに私たちは知識を置き換えます。「私は知っている。私は経験を持った。それは反論できない。私の経験はそれだ。それを私は完全に信頼する」。これらはその知識のしるしです。しかしあなたがその背後に行き、それを分析し、それをより聡明に注意深く見るとき、「私は知っている」という主張そのものがあなたと私を分離しているもう一つの壁であるということを見出すでしょう。その壁の背後にあなたは安心、安全を求めて隠れ家を得ます。したがって、心が背負わされる知識が多ければ多いほど、それはますます理解することができなくなります。明らかに! 確かに、皆さん、平和を求めたい、真実を求めたい人はすべての知識から自由でなければなりません。なぜなら知識を持っている彼は、観察し経験するすべてを彼自身のやり方で翻訳するでしょうから。したがって、実在を経験するためにはあらゆる知識の抑制が絶対必要です-抑えるのではない、押さえつけるのではない意味における抑制。

私たちの生の中で、いかにこれらの二つ、知識と信念が途方もなく強力な役割を演じているかを見つめることは、非常に興味深いことです。私たちが広大な知識と学殖を持つ人たちを、いかに崇拝するか見てください! その意味を理解できますか? 皆さん、新しい何かを見出し、あなたの想像の投影でない何かを経験したいなら、あなたの心は自由でなければなりません。そうではないでしょうか? それは何かを新しく見ることができなければなりません。しかしあいにく、何かを新しく見る度に、あなたは、あなたが既に知ったすべての情報、すべての知識、すべての過去の記憶を運びます。明らかにあなたは見ることが不可能に、新しい、古いものに属しないものを何も受取ることが不可能になります。どうかこれを直ちに詳細に翻訳しないでください。私の家にどうやって帰るか知らないなら、私は途方に暮れるでしょう。機械をどうやって運転するか知らないなら、私は役に立たないでしょう。それはまったく違うことです。私たちはここでそれを討論していません。私たちは安全、心理的、内的な安全のための、何かであるための手段として使用される知識を討論しているのです。あなたは知識を通して何を得ますか? 知識の権威、知識の重み、重要、威厳の感覚、活力の感覚、その他いろいろ。「私は知っている」、「ある」とか「ない」と言う人は、確かに考えることをやめ、この欲望の過程全体を追跡することをやめたのです。

私たちの問題はそのとき、私が見るところでは、こうです。「信念によって、知識で、私は縛られ、押さえつけられている。それで心が昨日と、昨日の過程を通して獲得してきた信念から自由であることが出来るだろうか」。質問がわかりますか? 個人としての私と個人としてのあなたが、この社会に生き、そしてなお、心がその中で育てられてきた信念から自由であることが出来るでしょうか? 心がすべてのその知識、すべてのその権威から免れることが出来るでしょうか? どうか、皆さん、この事に少々注意を払ってください。なぜなら、あなたが信念と知識のこの問題を実際に調べることにいやしくも熱心であるなら、それは非常に重要であると私は思うからです。私たちは種々の教典、宗教的な本を読みます。そこでは、それは非常に注意深く何をすべきか、何をすべきでないか、どうやってゴールに達したらいいか、ゴールは何で神は何かを記述してあります。あなたは皆それを暗記し、それを追跡しました。それがあなたの知識です。それがあなたが獲得したものです。それがあなたが学んだものです。その道にそってあなたは追跡します。明らかにあなたが追跡し、見えるものをあなたは見つけるでしょう。しかしそれは実在でしょうか? それはあなた自身の知識の投影ではないでしょうか? それは実在ではありません。それを今-明日でなく、今-理解し、「私はその真実を見る」と言い、そしてそれを手放し、その結果 あなたの心が想像の、投影の、それがそうあるべきであるところのものを見るというこの過程によって不自由にされないようにすることが出来るでしょうか?

同様に、心は信念から自由になることができるでしょうか? あなたが信念から自由であることができるのは、あなたを信念にしがみつかせる原因の内側の性質を、意識的なもののみならず、あなたを信じさせる無意識的な動機も同じようにあなたが理解するときのみです。何と言っても、私たちは意識的なレベルで作動している、単に表面的な存在に過ぎないのではないのです。私たちは、無意識の心に機会を与えるなら、より深い意識と、無意識の活動を見出すことができます。なぜなら、それは意識的な心より、応答がずっと素早いからです。あなたが聞いていると私が思っているふうに、あなたが私の言っていることをよく聞いているなら、あなたの無意識的な心は応答しているに違いありません。あなたの意識的な心が静かに考え、聞き、見守っている間に、無意識の心ははるかに活動的で、はるかに油断なく、はるかに受容力があります。したがって、それは答えを持つに違いありません。信じるように飼いならされ、脅かされ、強制され、強要されてきた心が、そのような心が自由に考えることができるでしょうか? それは新たに見て、あなたと私の間の分離の過程を除去することができるでしょうか? どうか信念は人々を結びつけると言わないでください。それはそうしません。それは明白です。そうでないですか? 組織された宗教は結びつけてきていません。この国における私たち自身を見てください。あなた方は皆信者です。しかし皆結びついていますか? 皆一つになっていますか? あなた自身、あなたがそうでないことを知っています。あなたは非常に多くの取るに足らない小さな団体、カーストに分割されています。無数の差別をあなたは知っています。西洋でも同様です。過程は世界中まさに同じです-キリスト教徒がキリスト教徒を滅ぼしている、取るに足らない小さな事のためにお互いを殺戮する、人々を強制収容所に分離するなどなど、戦争の恐怖の全体。それゆえ、信念は人々を結びつけません。それは非常に明白です。それが明確であり、それが真実であるなら、そしてあなたがそれを見るなら、そのとき、それをわかるに違いありません。しかし困難は私たちの大抵が見ないことです。なぜなら私たちはあの内側の不安、あの内側の、一人であるという感覚に直面することができないからです。私たちは寄り掛かる何かが欲しいのです。それが国家であろうが、カーストであろうが、国家主義であろうが、大師や救い主、あるいは私たちがしがみつきたい何かであろうが。そして私たちがその虚偽を見るとき、心は、一時的 一秒間であるかもしれませんが、そのことの真実を見ることができます。そしてそれがあまりに大変なとき、それは後戻りします。しかし一時的に見ることで充分です。束の間の一瞬見ることができるなら、それで充分です。なぜならあなたはそのとき途方もないことが起こるのを見るでしょうから。意識は拒否するかもしれないけれど、無意識は働いています。そしてそれは進歩的な瞬間ではありません。しかしその瞬間が唯一のものであり、意識的な心がそれに対して苦闘しているにもかかわらず、それはそれ自身の結果を持つでしょう。

それゆえ、私たちの質問はこうです。「心が知識と信念から自由であることができるでしょうか?」 心は知識と信念でつくられているのではないでしょうか? このすべてについてきていますか? 心の構造は信念と知識ではないでしょうか? 信念と知識は認識の過程、心の中心です。過程は囲っています。過程は意識しています。それで心はそれ自身の構造から自由になることができるでしょうか? 私が何を言っているかわかりますか? 心は私たちが心はこうであると知っているようなものではありません。理解なしに質問を尋ねることは非常に容易です。たぶん、私は明日、「どうやって心はこれやあれのようでありうるでしょうか?」というような多くの質問を受けるでしょう。どうかそのような質問を尋ねないでください。それをよく考えてください。それを探ってください。それを調べてください。私の言っていることを受け入れないで、あなたの生の中で毎日対面させられている問題を見てください。

心はあるのをやめることが出来るでしょうか? それが問題です。心は、私たちが知っているように、その背後に信念を持っています。欲望、安全でありたいという衝動、知識と蓄積された強さを持っています。そしてもし、その力と優位を持ちながら、ひとが自分自身で考えることができないなら、世界に平和はあり得ません。あなたはそれを語るかもしれません。政党を組織するかもしれません。屋根の上から叫ぶかもしれません。しかしあなたは平和を持つことはできません。なぜなら、心の中に矛盾を作り出す、孤立し、分離する基盤そのものがあるからです。進むにつれて私たちはこれを討論するでしょう。ちょっとそれをそのままにしておきましょう。あなたはそれを聞きました。それをぐつぐつ煮えさせましょう。あなたが既に欲望を捨てたなら、それを終えたなら、ますます結構。そうしてしまったのでないなら、それを作動させましょう。そしてあなたが正しく聞くなら、それは作動するでしょう。なぜならそれは重大なことであるからです。それはあなたが解決しなければならないことであるからです。平和な人、真面目な人は自分自身を分離し、そのうえ友愛と平和を語ることはできません。それはまさに政治的あるいは宗教的なゲーム、達成と野心の感覚です。そのことは後程討論するでしょう。この事について本当に真面目な人、発見したい人は知識と信念の問題に直面しなければなりません。その背後に行き、働いている欲望、安全でありたい欲望、確かでありたい欲望の全過程を発見しなければなりません。

質問: あなたは精神的その他の達成の手段としての規律を非難しています。どうやって何かが生の中で規律、あるいは少なくとも自己規律なしに成就できますか?

クリシュナムルティ: 再び、どうか聞いてください。事の真実を見出すために聞きましょう。私が言う、あるいは他の誰かが言う何かが問題なのではありません。しかし、私たちは事の真実を見出さなければなりません。第一に、規律は必要である、さもないと社会的、経済的、政治的組織全体が終わる、これやあれやをするために、神をはっきりと理解するために規律に従わなければならない、と言う多くの人がいます。一定の規律に従わなければなりません。なぜなら規律なしには心を制御できないからです。規律なしには、あなたはこぼれ散ってしまうでしょう。

しかし私は事の真実を知りたいのです。シャンカラ、仏陀やパタンジャリや他の誰かが何を言ったかではなく。私は何がその真実であるか知りたいのです。私はそれを見出すために権威に頼りたくないのです。私は子供を懲らしめるでしょうか? 時間がないとき、我慢していられないとき、怒るとき、何かさせたいとき、私は子供を懲らしめます。しかし子供に、なぜ彼がいたずら好きなのか、なぜ彼が何かをしてしまうのか理解するように子供を助けるなら、そのとき懲罰は必要ありません。必要ですか? 私が行って説明し、骨を折り、なぜ子供がそのように、そんなやり方で行動しているかという問題全部を理解する辛抱強さを持っているなら、確かに懲罰は必要ありません。必要なことは英知を目覚めさせることではないでしょうか? 英知が私の中に目覚めるなら、そのとき明らかに私はある種の事をしません。その英知をどうやって目覚めさせるか知らないので、私たちは制御と抵抗の壁を建て、それを規律と呼ぶのです。それゆえ、規律は英知と何の関係もありません。それどころかそれは英知を破壊します。そこでどうやって私は英知を目覚めさせたらいいでしょうか? ある特定のやり方で考えること-例えば、国家主義の観点で考えること-は間違った過程であることを私が理解するなら、それの意味全体、分離、より大きなものと同一化する感覚などを理解するなら、欲望の、心の活動の意味全体を見るなら、私が実際にその内容全体を理解し、見るなら、私の英知がそれに対して目覚めるなら、欲望はしだいになくなります。「それは非常に悪い欲望だ」という必要はありません。これは油断のなさ、注意、鋭敏さ、調査を必要とします。そうではないでしょうか? そしてそれができないから、私たちは規律に従わなければならないと言うのです。現代の教育システムさえ、規律の考え全体を捨てています。子供の心理学と、なぜ子供がそのように、そんなやり方で振る舞うかを見出そうとしています。子供を見守り、助けています。

さて、規律の過程を見てください。何が起こりますか? 規律は確かに強制の、抑圧の過程です。そうではないですか? 私は何かをしたいのです。そして「私はしなければならない、なぜならそこに到達したいから」とか「それは間違っている」と言います。非難することによって何かを理解するでしょうか? そして私が何かを非難するとき、私はそれをよく見てるでしょうか、それを調べるでしょうか? 私はそれを見ませんでした。それゆえ、いったいそれが何なのか理解することなしに、規律に従い始めるのは怠惰な心です。そして私はすべての宗教的規則は怠け者のために敷かれてきたと確信します。従うことは探究することより、調査することより、理解することよりずっと容易です。あなたが規律に従えば従うほど、あなたのハートは開きません。これらの事すべてがわかりますか、皆さん? どうして空虚な心が心の影響を超えているものを理解できるでしょうか?

規律の問題は本当に非常に複雑です。政党は規律を、特定の結果を獲得するために、将来の社会の理想の型に個人を従わせるために用います。そしてそれが素晴らしいものを約束するので、それのために奴隷になるのを、残念ながら私たちは厭わないのです。それで報酬、結果を求めている心は、常に利口な心の、優越した心の、もっとずるがしこい心の投影であるその結果に従うようにそれ自身を強いるのです。規律に従ってきた心は決して平穏であることが何であるか理解できません。規則や制限によって囲い込まれた心がどうして彼方の何かを見ることができるでしょうか?

あなたがこの規律の過程をよく見るなら、欲望がその背後のあることを観察するでしょう。強くあろうという欲望、結果を得ようという欲望、何かになろうという欲望、強力であろう、より以上になり、以下になるまいという欲望。この絶え間ない欲望の衝動が働いています。この順応させよう、規律を守らせよう、抑圧しよう、分離しようとする衝動。あなたは抑圧するかもしれません。規律を守らせるかもしれません。しかし意識的な心は無意識の心を制御し形作ることは出来ません。あなたがあなたの無意識な心を形作ろうとするなら、それはあなたが規律と呼ぶものです。そうではないですか? 抑圧すればするほど、あなたはあなたの心をますます駄目にし、無意識の心はますます反抗して、そして、結局、心は神経症的に終わるか、狂ったことをするのです。

そこでこの問題の中で重要なことは、私が規律を非難するか、あなたがそれを好意的に見るかではなくて、どうやって統合された英知を目覚めさせるかを見ることです。分化された英知ではなくて統合された英知、それはそれ自身の理解をもたらし、それゆえ特定のものごとを必然的に、自動的に、自由に回避します。導くのは英知であり、規律ではありません。あなた、これは本当に非常に重要で複雑な問題です。もしも本当にそれに突っ込んでいくなら、私たち自身を見つめ、規律の全過程を理解するなら、私たちは実際にはまったく規律に従っていないことを見出すでしょう。あなた方の生の中で規律にしたがっていますか? あるいはあなたは単に様々な熱望を抑圧し、様々な形の誘惑に抵抗しているに過ぎないのでしょうか? あなたが規律を通して抵抗するなら、それらの誘惑と要求はなおそこにあります。それらは深い下の方に隠れてなおそこにいるのではないでしょうか? 噴出するための好機を待ち構えて。成長するにつれて、抑圧されたそれらの感情が再び出て来ていることに気づいたことがないでしょうか? それゆえ無意識とトリックをもてあそぶことは出来ません。それは千倍もあなたに仕返しをするでしょう。

あなたはこの全過程を理解しなければなりません。あなたはすべて規律に期待し、私はそれに反対するではなく。私は規律はあなたをどこへも導かないと断言します。それどころか、それは盲目の過程、愚鈍で無思慮なのです。しかし英知を目覚めさせることはまったく異なった問題です。英知を養成することはできません。目覚めた英知は、それ自身の作用の仕方をもたらします。それはそれ自身の生を整え、様々な形の誘惑、性向、反応を観察し、それを調べます。それは表面的でなくて統合した、包括的なやり方で理解します。それをするために、心は絶えず油断なく、注意深くなければなりません。そうでなくていいでしょうか? 確かに、理解したい心にとって、それ自身によってそれに課せられた制限はほとんど意味のないものです。理解するためには自由がなければなりません。その自由はどんな形の強制を通しても生じません。そして自由は終わりにあるのではなく、始めにあります。私たちの困難は統合された英知を目覚めさせることです。そしてそれは私たちが全体を理解できるときのみ、生じることが出来ます。

この欲望の複雑な問題は規律を通して、順応を通して、抑圧を通して、信念を通して、知識を通してそれ自身を表現します。欲望の巨大な構造を見るとき、そのとき私たちは理解し始めます。そのとき心はそれ自身を見始め、それ自身の投影でないものを受取ることができるでしょう。

1952年1月6日

(訳者: N.Goto)2000.10.掲載

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