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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 マドラスの公開講話(第3回)

J. Krishnamurti Madras 3rd Public Talk 12th January 1952

私たちのこの2回の会合で、私は分離していない、断片化されていない行為、観念によって束縛されていない行為を見出そうとしてきました。そして私はその事にかなり注意深く入っていくことが重要であると思います。なぜなら、観念形成の全過程を理解することなしには、単なる行為はほとんど意味を持たないだろうと感じるからです。観念と行為の間の争いは常に増大し続けるでしょう。それは決して橋渡しすることができません。それゆえ、断片化されていない、ばらばらになっていない、分離していない、だが包括的な行為を見出すために、私たちは欲望の全過程を探査しなければなりません。欲望は絶滅できるもの、服従させたり捩じ曲げたりできるものではありません。何故かと言うと、私が説明したように、欲望を捨てようと私たちは大いに望むかもしれませんが、それは決してなされ得ないからです。というのは、欲望は無意識と意識の絶え間のない過程であり、私たちは意識的欲望を一時的に制御するかもしれませんが、無意識を服従させたり制御するのは非常に困難であるからです。分離したどんな行為からも全くの混乱と混沌が起こると私は感じます。そしてまた私たちの大抵は、そのような行為に余念がないと思われます。権威者や専門家は行為と考えを分離しました。様々なレベルや様々なパターンで彼らはこれを行い、どのように行動すべきかをあなたに告げました。ご存じのように、エコノミスト、政治家、宗教人などなどがいます。彼らは生の全体の理解の断片的な見解を私たちに与えたのです。分離していない、断片化あるいはばらばらになっていない行為のこの過程を理解することに、本当に非常に真面目な人は用心しなければならないと私は思います。それは私たちが欲望の全過程を理解したときにのみ為され得るのです。それが多かれ少なかれ、この前の土曜日と日曜日に討論したことです。

欲望を理解することはそれを非難することではありません。私たちの大抵は条件づけられているので、私たちの大抵は欲望について固定した観念と意見を持っているので、私たちが欲望の運動を、それを非難することなく、意見を持つことなく追っていくことはほとんど不可能です。もしも私が何かを理解しようとするなら、非難の態度の過程が少しもなしにそれを観察しなければなりません。そうでないですか? もしも私があなたを理解しようとし、あなたが私を理解しようとするなら、私たちはお互いを判断してはなりません。お互いを非難してはなりません。お互いの言葉のすべての含蓄に対し、私たちの顔の表情に対し、開かれ、かつ受容的でなければなりません。完全に受容的であり、かつ開いた心でいなければなりません。非難があるとき、それはできません。観念のない行為を持つことができるでしょうか? 私たちの大抵にとって、観念が最初に生じ、行為が後に従うのです。観念は常に断片的であり、それらは常に分離されています。そして観念に基づくどの行為も断片的で分離しているに違いありません。ばらばらになっていない、包括的であり、統合されている行為を持つことができるでしょうか? そのような行為が私たちにとっての唯一の救済であると私には思われます。すべての他の行為はきっと一層の混乱、すべて一層の葛藤を残すに違いないと私には思われます。それゆえ、どうやって観念に基づいていない行為を見出せばいいでしょうか?

観念とはどういうことでしょうか? 確かに観念は思考の過程です。そうでないですか? 観念は精神作用の過程、考える過程です。そして考えることは常に意識か無意識のどちらかの反応です。考えることは言語化の過程であり、それは記憶の結果です。考えることは時間の過程です。それゆえ、行為が思考の過程に基づいているとき、そのような行為は必然的に条件づけられており、分離されているに違いありません。観念は観念に対抗するに違いありません。観念は観念によって支配されているに違いありません。そのとき、行為と観念の間には間隙があります。私たちが見出そうとしていることは行為が観念なしにあり得るかどうかです。私たちはいかに観念が人を分離するかを見ます。既に説明したように、知識と信念は本質的に分離する性質なのです。信念は決して人を結び付けません。常に人を分離します。行為が信念や観念や理想に基づいているとき、そのような行為は必然的に分離され、断片化されているに違いありません。思考の過程なしに行為することができるでしょうか、思考は時間の過程、計算の過程、自己保護の過程、信念・否定・非難・正当化の過程です。確かに、それは私に起こったのと同じようにあなたに起こったに違いありません。行為が一体観念なしに可能であろうとなかろうと。私が観念を持ち、行為の根拠をその観念に置くとき、それは抵抗を作り出すに違いないということを、あなたが見るだけでなく私も見ます。観念は観念に出会うに違いなく、必然的に抑圧、抵抗を作り出すに違いありません。私が言っていることを明確にしているかどうかわかりません。私にはこれは本当に非常に重要な要点です。あなたがそれを、心によってや感傷的にではなくて親密に理解できるなら、私たちは困難をすべて超越してしまうだろうと私は感じます。私たちの困難は観念に属するものであり、行為に属するものではありません。それは私たちが何をすべきかではありません。それは単に観念にすぎません。重要なことは行動することです。計算の過程なしに行為ができるでしょうか? 計算の過程は自己防衛の、記憶、一身上、個人、集団などの関係の結果なのです。私はそれはできると言います。ここにいるとき、あなたはそれを実験することができます。私たちが何の非難もなしに欲望の全過程についていくことができるなら、そのとき、行為は観念なしに必ず起こることが見えるでしょう。それは疑いなく、心の途方もない油断のなさを必要とします。なぜなら私たちの条件付け全体が非難し、正当化すること、種々の範疇に入れることであるからです-それらはすべて 計算、精神作用の過程です。私たちの大抵にとって、観念と行為は二つの異なったことです。観念が最初にあり、行為が後に従います。私たちの困難は行為と観念に橋渡しをすることです。それを違ったふうに見てみましょう。

どんな形の貪欲も破壊的であるのを私たちは知っています。羨望は野心につながります-政治的や、宗教的、集団的、個人的な。あらゆる形の野心は、それに気づいているなら、限定されていて、破壊的です。私たちは皆それを知っています。教えられる必要はありません。私たちはそれについて多くを考え始めていないのです。野心は羨望を生みます。野心は権力と地位を求める、個人の政治的宗教的栄達を求める欲望の結果です-政治的に将来、あるいは現在の名において、そして精神的に同じように良い、あるいは同じように悪い何かの名において。私たちはそのような野心を知っています-何かであろう、平和の名において、大師の名において、神、そして他の訳のわからないものの名において人々を支配していようという野心。野心のあるところ、搾取、人間に対抗する人間、国家に対抗する国家があるに違いありません。そして平和を叫んでいるまさにその人たちが、たぶん彼ら自身に対して、彼らの国や観念に対して高度に破壊的なことをしている人そのものなのです。そのような人たちは平和をもたらしません。彼らは平和を言葉で表現するだけであって、彼らのハートに平和を得ていません。そのような人たちは明らかに世界に平和や幸福をもたらすことはできません。彼らはただ争い、戦争をもたらすだけに違いありません。

野心は貪欲、羨望、権力を求める欲望の結果です。それはすべて観念に基づいています。そうでないですか? 観念は反応にほかなりません。それは神経学的に、心理学的に、生理学的にそうなのです。野心は政治的に、宗教的に何かでありたいという観念です。「私は偉大な人間になりたい、未来のために働きたい」。それは何をもたらすでしょうか? 私たちはまた、国の名、その他においての政治的野心を知っています。このすべては観念に基づいています。それは私や私の政党がなるはずのものの観念、概念、公式化です。観念を確立して、それからその観念を行動の中に追求します。まず最初に、道徳的に、野心的なひとは不道徳です。彼は争いの源です。しかもなお私たちはみな野心を激励します。さもなければ私たちは何をすることができるでしょうか? 何の達成もないかも知れません。それゆえ、それをよく見るとき、あなたは野心は観念であり、行動の中での観念の追求、「私は何かになるつもりだ」、であることが見えるでしょう。その中に搾取、無慈悲さ、ぞっとする残忍さ等が含まれています。何と言っても「ミー」は現実性を持たない観念です。それは時間の過程です。それは記憶、認識の過程であり、それはすべて本質的に観念です。

行為が、観念に基づいているなら、結局、憎しみ、羨望を引き起こすに違いないことに私が気づくとき、野心は完全にわきに置かれ得るでしょうか? 私は完全に野心を捨て、それゆえ、観念の過程なしに行動できるでしょうか? それをもっと簡単に述べましょう。私たちが野心的であるなら、野心を-政治的に、宗教的に、完全に捨てることができるでしょうか? そのときのみ、私は平和の中心です。しかし完全に野心を、そのすべての意味、意義、内部の混乱、冷酷さと共に、権力を求める欲望と非難の意義全体と共に捨てることは、そんなに容易ではありません。私がもはや観念の中で、ミーである観念の中で追求していないとき、私は唯一野心を統合的に、すっかり、完全にやめることができます。そのとき、どうやって野心的でなくなればいいのか とか、野心的であるので、どうやってそれを除いたらいいかという問題はありません。それが私たちの問題でないでしょうか? 私たちはみんな貪欲です。嫉妬深いのです。あなたは多くを持ち、私はあまり持っていません。あなたはより多くの権力を持っており、私はその権力が欲しいのです。精神的に、世俗的に。その中に捕われているなら、私の問題はそのときどうやってそれを除くかです。どうやってそれを捨てればいいのでしょうか? 私たちはそのとき「どうやって」という問題を導入します。それは単に行為の延期にすぎません。観念に基づいた行為は延期を導入するに違いないことが見えるなら、そのとき私は観念形成のない行為の必要をはっきりと理解します。私の言っていることを明確にしているかどうかなと思います。野心は破壊的でないですか? 野心的な国家、権力を追う個人、うぬぼれでひどく悦に入った人、はすべて危険です。どんな悲惨を彼らが彼ら自身やその周りのものに引き起こすか、ご承知ですね。どうやってそれらは除かれるべきでしょうか?-表面的でなく深く、意識の中でも無意識の中でも両方とも。

行為の中に導入された観念は不行為を作り出します。観念に基づいていない行為は明日でなく、即時であるでしょう。私が観念形成なしに野心の残忍さ、意味を見ることができるなら、そのとき即時の行為があります。どうやって私が野心的でなくあればよいのかという問題はありません。私たちが分離していない、断片化していない、孤立していない行為を望むなら、よく考えなければなりません。人対人、国家対国家、あるセクト対別のセクト、あるグループ対共同社会間の別のグループ、一つの教条対他の教条、一つの大師対他の大師、を見ていませんか? あなたは分断と残忍さの全ゲームを知っていますね。それを知って、その事実を明確に見て、野心は捨てられ得るでしょうか? 私たちは支配に気づいています-精神的、経済的、政治的な。そして結果に気づいています-それは絶え間のない戦争、飢餓、人間の分裂、等々です。観念形成の全過程と観念の道筋を理解することのないどんな行為も、ただ敵対行動を一層育むだけであることを私たちは知っています。

それゆえ、真面目であり、ただ政治的に平和を好むのでなく、本当に平和を好む人は、観念を通してこの問題に偏見を持たせることはできません。なぜなら観念は延期であり、観念は断片的であり、それは統合された英知ではないからです。思考は、条件づけられた思考者によって、常に限定されているに違いありません。思考者は常に条件づけられており、決して自由ではありません。思考が起こるなら、直ちに観念がついてきます。行動するための観念はより多くの混乱をつくりだすに決まっています。このすべてを知って、観念なしに行動することができるでしょうか? ええ、それが愛のやり方です。愛は観念ではありません。それは感情ではありません。それは記憶ではありません。それは延期、自己防衛装置の感覚ではありません。私たちが観念の全過程を理解するとき、私たちは唯一愛のやり方に気づくことができます。さて、もう一方のやり方を捨てること、そして唯一の救済である愛のやり方を知ることができるでしょうか? 政治的や宗教的なほかのどのやり方も問題を解決しないでしょう。これはよく考えてあなたの生活の中で採用しなければならない理論ではありません。それは現実でなければなりません。そして野心が破壊的であり、それゆえあなたから突き離すべきだということをあなたが見てはっきり理解するとき、それは唯一現実であり得るのです。

私たちは決してその愛のやり方を試みませんでした。私たちはあらゆるほかのやり方を試みました。どうか目を閉じないでください、「愛」という言葉を見落とさないでください。それは考える過程ではありません。あなたの即座の反応は「愛とはなんですか? それを私は知ることができるでしょうか? どうやってそれに従って生きていけばいいでしょうか?」です。考えることや観念の過程から離れている愛のやり方は何でしょうか? あなたが愛するとき、観念がありますか? それを受け入れないでください。ただそれをよく見てください。それを調べてください。それに深く入っていってください。なぜなら、あらゆるほかのやり方を私たちは試みたからです。そして悲惨への何の答えもありません。政治家はそれを約束するかもしれません。いわゆる宗教的組織は将来の幸福を約束するかもしれません。しかし私たちは今それを得ていません。そして将来は、腹が減っているとき、割合に重要でありません。私たちはあらゆる他のことを試みました。私たちが観念のやり方を知り、観念のやり方を捨てるなら、私たちは唯一 愛のやり方を知ることができます。それは行動することです。行為は観念なしにあり得ると聞くとき、あなた方の大多数にとっては、それはばかげているとか愚かなことと聞こえるかもしれません。しかし、それを愚かとして、脇に押しのけたりせずに、もう少し深くそれに入っていくなら、まじめに深くそれに入っていくなら、観念は決して行為の場所を奪うことはできないのを見るでしょう。行為は常に即座です。あなたは野心や貪欲のような何かを見ます。「どうやってそれを除くか? それをすることができるか?」はありません。どうかそれを考え抜いてください。私たちはそれを議論することができます。愛が唯一の治療法であることが見えるでしょう。それが、人が人と平和に、幸福に、搾取なく、支配なく、一人の人間が野心を通して、ずるがしこさを通して、より偉大に、より上位になることなく生きることができる私たちの唯一の救済です。私たちはそのやり方を知りません。このすべてに気づきましょう。観念に基づく行為の全体の意義を私たちが十分認識したとき、その認識そのものがそれから離れて行動することです-それが愛のやり方です。

質問: 私たちはインドは急速に崩壊していると告げられました。これはまた、あなたの感じでもあるのでしょうか?

クリシュナムルティ: あなたはどう思いますか? 崩壊とはどういう意味でしょうか? 確かに、国家、団体、個人は崩壊しています。それ、あるいは彼が腐敗しており、伝統に束縛されているとき、彼が模倣しているとき、彼が追従しているとき、彼の思考の中で独立していないとき、彼が環境から自由でなく、そのため彼が、個人として、見ること、考えること、明確に見ることができないときに。明らかに、一人の個人が他の人を彼の狡知で、彼のより優れた知識によって、彼の能力によって搾取するとき、確かにそのような個人は崩壊の要素です。そうでないですか? そして私たちはみなその同じ立場にいないでしょうか? 私たちはみな模倣し、追従し、搾取し、怖れ、他人の思考の伝統に束縛されていませんか? 他人の観念を課されることなしに、私たち自身で考えることができるでしょうか? このすべては崩壊の過程を示していないでしょうか? あなたが誰かを、どんなに偉大でも、崇拝するとき、それは崩壊の過程ではないでしょうか? あなたが野心を追求し、そのはしごを上り、糞の山に届こうとしているとき、それは崩壊ではないでしょうか? 糞の山は政治的に満足なもの、経済的に満足のゆくものかもしれません。それもまた崩壊ではないでしょうか? あなたが精神的に誰か、特別の使者、によって影響されるとき、それは崩壊ではないでしょうか? あなたが未来のため、明日のため、あるいはあなた自身の存在の未来、来世、などなどのために築いているとき、それは崩壊ではないでしょうか? あなたは観念のために多くを犠牲にして、常に未来の中に生きています。確かに、このすべては崩壊のしるしではないでしょうか? これはここ、インドの中だけではありません。これは世界中に起こっています。なぜ私たちはいつもこれをやっているのでしょうか? 『なぜ』を見出すことは非常に難しいですか?

私たちはみな経済的、心理的に安全を望みます。私たちの取るに足らない自己はあまりに狭く限定されているので、私たちは安全であることを望むのです。したがって権威を崇拝します。内的に安全を求めている限り、崩壊があるに違いありません。外側の安全を私たちは持たなければなりません。私は次ぎの食事、家、衣服に懸念がないのでなければなりません。しかしそれは、一人一人が内部の安全を財産や国家を通じて求めるなら、あるいは梯子の最上段を獲得するように望むなら、不可能にされます。すなわち、私がどんな形にせよ個人的昇進を求めているなら、それは内的な安全を求める欲望のしるしですが、崩壊があるに違いありません。なぜなら、私は仲間と戦っているからです。

あなたはこのすべてを聞きます。そこであなたの行為は何でしょうか? あなたの観念、あるいは意見が何であるかではありません。なぜなら誰でも意見を持てるからです。そうでなくてあなたの行為は何でしょうか? あなたが「どうやって私は野心的でなくなればいいだろうか、どうやって自己防衛的でなくなればいいだろうか」と言うなら、そのときあなたへの私の質問は単に観念にすぎません。単に思考、意見の交換にすぎません。しかしそれが、あなたが行為を通じて応答する挑戦であるという意味で、本物であるなら、そのとき、あなたはどうするでしょうか? すなわち、あなたは本当に崩壊の要素です。あなたが何の社会に属するかは問題ではありません-インド人、ロシア人、アメリカ人、イギリス人-あなたが内的、あるいは外的に、安全を意識的に追求する限り、あなたは確かに破壊と崩壊の要素です。あなたの行為は何ですか? 確かにそれがあなたが持つことのできる唯一の応答です。「私はそれをよく考えるでしょう。どうやってそれをすればいいでしょうか?」ではなく。それはむしろ観念への応答です。しかしそれを見る人は直ちに行動します。そしてその人は愛のやり方を知るでしょう。私にとっては、彼は堕落の世界の中の再生の要素です。それは大きな勇気、大きな英知を要しません。それは単に狡猾な心の要素にすぎません。それはいまあるものの見方、直接の見方を必要とします。明確に見る人間は必然的に行動するに違いありません。私たちは見ることを望まないのです。そしてそれが私たちの惨めさが横たわるところです。私たちはこのすべてを知っています。私たちはこの堕落、崩壊のすべてをよく知っています。そして私たちは観念形成に、どうやってや何をという思考・観念に捕らえられているため、行為することができないのです。そこで堕落が見え、観念の遮蔽なしにそれに気づいている人間は行動するでしょう。そしてそのような人は愛のやり方を知っています。

質問: 心が認識するのを止めるとき、それは不活動の状態に至りませんか? そのとき何が働くのでしょうか?

クリシュナムルティ: その質問に十分に答えるためには、前に言われたことを理解しなければなりません。私は心の過程は認識であると言いました。思考、経験、ミーの中心、は認識です。認識なしに、知ることなしに、思考過程はありません。私が経験を持つなら、私はそれを言葉で、あるいは言語化なしに認識できるにちがいありません。私は私が経験を持ったことを知るにちがいありません。すなわち、私は経験を快い、苦しいなどとして認識するにちがいありません。私はそれに名前を与えるにちがいありません。認識の中心があり、それがミー、自己です-上級自我や下級自我ではありません、自己は一つです。高級や低級ではなく、それは利口な心の発明です。それゆえ、この認識の中心が自己です。そして認識なしに心は存在できるでしょうか、中心、「ミー」は存在できるでしょうか? 明らかに、できません。

質問者はその認識がないなら、中心がないなら、心の活動の状態はどうなのかを尋ねています。そこでの活動はどんなでしょうか? そのとき、何が起こりますか? 私は質問を説明したでしょうか? さて、なぜあなたは知りたいのでしょうか? あなたをあなた自身の中に押し戻すということが何もありません。あなたは認識するために知りたいのではないでしょうか? 私が経験をあなたに向けて言語化したときに、私の経験から認識することができるために。それであなたはそれを持ったと言うことができます。それであなたの経験を私のものに対応するものとして認識することができます。あなたが質問を尋ねていることは自己の過程の継続です。私の経験はあなたのと同じでしょうか? あなたはあなたの認識の中で確実に感じるために質問を尋ねています。どうか、どんなふうにあなた自身の心が働いているか見てください。それゆえ、あなたが興味を持つものは認識の過程がないときに起こるものではありません。しかし、あなたはあなたの経験が私のと同じである保証を私から欲しがっているのです。すなわち、あなたはあなたの経験を私の経験との関連において認識したいのです。それであなたの質問は答えを持ちません。それは間違った質問です。

それを違ったふうに述べましょう。私たちは認識を通して経験を知るだけです。そして各々の認識は心、自己を強化します。強調します。自己の安全を強化します。どの経験も認識され、あなたは「そう、私はそれが何であるか知っている」と言うことなしに経験を持つことができません。それゆえ、あなたの経験はただあなた自身の思考の投影であるのです。利口で狡猾であることなしに聞いてください。ただそれをじっと見守って下さい。心理的にそれが事実です。私は大師を見たいと望み、彼を見ます。そして私は経験します。しかしそれは実在と何の関係もありません。それは投影され、認識された私の欲望であり、それは私の経験、私の認識を強化するだけです。それゆえ私は言います。「私は信じる。私は知っている」。それゆえ、私が真実が何であるか見るために私の経験に頼るなら、そのとき、それは真実が何であるべきかという私の投影なのです。そして中心が、ミーが、認識を持たないことが、認識を通して経験を助成しないことができるでしょうか? それをやってごらんなさい。あなたの心が認識なしに、ものごとを認識することなしに完全に静かであることができるかどうか見ようとしてごらんなさい。これが起こるとき、心は静寂の状態にあります。少し後で、それはその状態を引き延ばそうと望み、それによってその経験を記憶の領域に格下げし、そして思考の、認識の過程を強化します。それが自己の中心です。したがって、新しい何かを経験する可能性はありません。認識は持続します。何年も前に為された経験にしがみ付こうとする、それを続けようとする欲望があります。心がこういったことの何もなしに、静かであることができるでしょうか? それは、心が、思考の過程である言語化なしに静かであることができるだろうか?ということです。心がそのように静かであるなら、続く活動は測られることができません。言語化されることができません。認識されることができません。

神、真実、は認識可能ではありません。したがって、真実を知るためには理解することと、すべての知識、すべての信念を捨てる必要があります。なぜなら心が知識の状態の中にないとき、認識が止んでいるとき、真実は心に浮かび、そこにあることができるのです。

質問: 私が私自身 真実を見出すことができないなら、どうやって私は子供を、私の条件付けの犠牲になることから防ぐことができるでしょうか?

クリシュナムルティ: どんなふうにあなたはそれに取り組みますか? 親が条件づけられていること、彼が偏見を持ち、野心を持ち、愚かさを持ち、見解を持ち、世俗主義を持ち、信念を持ち、伝統を持ち、祖母たちの意見、世間が何と言うだろうか、言わないだろうかを持っているということを知って。そのすべてを知って、どうやってあなたは子供が自由で統合された人間であるように成長するのを助けるでしょうか? それが問題です。そうではないでしょうか? どうやってあなたはそれに取り組みますか? それに答えるにはたっぷり一時間を要します。なぜなら質問はどうやって子供を教育するかであるからです。私たちは子供たちのために何をしているのでしょうか? 単に子供を社会の現在の状態に適合させよう、試験に通るように助けようとしている! 子供がどうあるべきかという考えを、私たちは本当に何も持っていないのです。私たちは、私たちが理解していないことを子供が理解するように助けようと望んでいます。私が盲目であるなら、あなたが道を渡るように導くことができるでしょうか? しかし盲目であって、私は私が盲目だと言わないのです。私は私が盲目であることに気づいていないのです。私は「はい、私は条件づけられています。そうです。しかし私は私の子供を助けたい」と言います。しかし私が深く根本的に条件づけられていることに、問題、偏見、野心、迷信、信念を持っていることに気づいているなら、それを気づいているなら、認識しているなら、知っているなら、そのとき何が起こるでしょうか? 子供に向かっての私の行為は異なるでしょう。私が毒されているのを、宗教的に毒されているのを知るなら、子供が私の傍に来るのを許すでしょうか? 私は彼に言って聞かせ、なぜ私のところに来てはならないかを示すでしょう。それは私が子供を愛さなければならないということです。しかし私たちは子供たちを愛していないのです。ハートの中に子供たちへの愛を持っていないのです。さもなければ、もしもあるなら、私たちは戦争を防ぐでしょうに。階級、国籍、英国、インド、バラモン、非バラモン、白と黒、紫と青への人類のこの分裂のすべてを防ぐでしょうに。それゆえ条件付けられていて、私が私の条件付けに気づいていないなら、他の人を助けることはできません。しかし私が条件付けられているのを認めることはそれから外れることです。そして「私は条件付けられている、どうやって条件付けから自由であるべきだろうか?」ではなく。それは私が行為を延期するのを助ける単なる考えに過ぎません。私がそれを気づいているなら、私が条件付けられているのを知っているなら、そのとき私は行動し子供を助けることしかできません。この問題を理解することは非常に重要です。子供を指導する問題、どうやって子供を助けるか、ではなく。

私たちは観念と行為の問題全体を理解しなければなりません。私たちは常に観念を最初に、行為を後に置きました。私たちの文学のすべて-宗教的、政治的、経済的-は観念に基づいています。私たちの知識はそれに他なりません。知識と観念でいっぱいの心は決して行為することができません。したがって、信念と知識は行為に対する障害です。それらは矛盾していて馬鹿げているように響くかもしれません。しかし、それを丁寧に調べるなら、その声明の背後に納得のいくものが見えるでしょう。それでこれらの質問と講話の中で重要なことは観念の養成を見出すことではありません。意見、教条、信念を交換することでもありません。それらを他のものと置き換えることでもありません。そうでなくて、分離する行為なしに、自由に行為できることです。行為はそれが知識と信念に基づいている限り、常に分離しています。それは観念です、それは思考する過程です。あなたが野心のような問題を抱えているとき、それについての観念を持つことはできません。それについてただ行動することだけができます。同様に私が条件付けられていることを知るとき、それに関する単なる思考過程は、その条件付けから心を後回しにするにすぎません。私はあなたに保証しますが、それはまじめで、その働きが平和で、愛を、愛のやり方を見出すことに心がしっかりと向けられている人に対してのみ問題であることをやめます。なぜなら彼は観念に関わっていないから、彼は分離していない行為にかかわっているからです。

1952年1月12日

(訳者: N.Goto)2000.11.掲載

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