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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 マドラスの公開講話(第4回)

J. Krishnamurti Madras 1st Public Talk 5th January 1952

J. Krishnamurti Madras 4th Public Talk 13th January 1952
私は意識の問題の解答を見出そうとしてきました。個性、あるいは意識の問題が何であるかをよく話し合うことは非常に重要です。個人であるが、共同社会、集団、全体主義者の型に合わそうと私たちは努力します。主題を適切に、事実の通りに取り扱うことができる以前に、個性の問題全体を理解することが必要ではないでしょうか?

個人とは何でしょうか? この問題は、障壁なしに、結論と比較なしに、絶えず、賢明に、よく話し合わなければならない疑問です。あなたが、私がこれから話そうとしていることを、 事実と合っているかもしれないし 合っていないかもしれない、あなた自身の結論という障壁、あなたが周囲の影響から学んだことや本で読んだことという障壁、を築き上げないでよく聞くなら、そのとき、たぶんあなたは、支配することなしに、立法行為を通して、強制を通して、強制収容所その他を通して完全に個人を全滅させることなしに、私と、そしてお互いと、実際に協力することが出来るでしょう。あなたがこの疑問の重要さを感じているかどうかわかりません。感じていないなら、感じてみるべきだと思います。なぜならそれは本当に重要な問題であるからです。それは難しい疑問であるので、私たちは二人の友達のようにそれをよく話し合うことができなければなりません。あなたの意見を持ったあなたと多分私の意見を持った私、対立した二つの陣営にいる二人の敵対者のようにではなく。私は意見を提供しているのではありません。私は信念、公式化、概念を出しているのではありません。私はそのような形の愚かな行いにふけっていないからです。なぜなら、私がいまあるものを理解することができないときに、いまあるものを知ろうと望むのは、私にとっては、愚かなことであるからです。

私たちはいまあるものについて思索すべきではありません。いまあるものの思索と、いまあるものを理解することとの間の違いが、あなたはわかると思います。確かに二つはまったく異なります。私たちの大抵はただ思索し、いまあるものについて信念を持ち、結論を持つだけです。そしてこれらの結論、思索、公式化、等々を携えて、私たちは個人の問題に接近するのです。そのようにそれに接近するなら、私たちは全く失敗するに違いありません。ところが公式化なしに単にそれを見るだけで、それを見ることができるなら、そのとき、たぶん、個性の中に含まれる問題の意義を理解することができるでしょう。そして、たぶん、個人と私たちが呼ぶものを超えることができるでしょう。それは意識と無意識の全問題を理解することです。心の、積極的な心の、不毛の最上層の意識だけでなく、無意識、隠れたものも。

そこで個人とは何でしょう? 「ミー」とは何でしょう? 私たちがそれがそうであると考えているものと、それがそうであると期待しているものを吟味しなければなりません。すなわち、できれば私たち自身を思索なしに見なければなりません。「私は神の最高の標本である」というようなことを言うなら、それは単なる思索にすぎません。私たちはそのような思索をわきにおかなければなりません。明らかに! そうではないでしょうか? それらはすべて、あなたが学んだ言葉です。それを社会が何やかやであなたに課したのです。政治的に、極左に属しているなら、何も頭を悩ますことはなくて、ただ環境の影響が働くままにしておけばよいと言うかも知れません。宗教的傾向を持っているなら、あなたはこれである、あれであるとか、何かがあなたの中にはっきり顕われているとかという、あなた自身の表現を持っています。高級自我と下級自我についての全部のことをご存知ですね。その背景を持っていては、明らかに問題を見たり、調べたりすることはできません。できますか? あなたができることはただ、個人の全過程、個人がそうであるもの、等々を非常に注意深く観察することによって、いまあるものを見ることだけです。あなたは私に、あなたがそうであるものを話すことができますか? どうか私たちが何の目的のために、何を論じているか、心に留めておいてください。意識の問題を理解し、それを調べること、できれば、思索的にではなく、理論的にではなく、個人と呼ばれる狭い境域の限界を超えて。それが私たちがしようとしていることです。

個人とは何でしょうか? あなたは何でしょうか、現実に? 明らかに、ある生理的反応、身体的反応と、記憶の、時間の心理的反応が個人を構成します。私たちは皆、たまさかの喜びを伴なう、挫折した希望、意気消沈から構成されており、その中に自己、あらゆるその恐怖、希望、堕落、記憶を伴なう「ミー」があります。私たちは伝統の、知識の、信念の、私たちがそうでありたいものの、確実さを求める欲望の、名前と形を伴なう連続性の貯蔵室です。それが現実に私たちがそうであるものです。私たちは父と母の、気候的および心理的な環境の影響の結果です。それがいまあるものです。その向こうは私たちは知りません。ただ思索することが出来るだけです。主張することが出来るだけです。私たちは魂、不死、不滅であると言うことが出来るだけです。しかし、現実に、それは存在しません。それは単に、安全の見地で言い換えられた「いまあるもの」の過程であるにすぎません。

それゆえ、意識は、私たちが知っているように、時間の過程です。いつあなたは意識しますか? 反応があるとき、愉快な あるいは不愉快な。さもなければ、あなたは意識しません。しますか? 恐怖があるとき、あなたは意識します。挫折があるとき、挫折しているあなた自身に気づきます。喜びがあるとき、あなたはそれに気づきます。意識が活動するとき、欲望が妨害されるとき、挫折するとき、あるいは欲望が成就を見出したとき、あなたは同じように気づきます。それゆえ、私たちの知っていることは、意識は限られ、制限され、思考の過程にまで狭められた時間の過程であるということです。確かにそれが私たち各人の中に現実に起こっていることです。そうでないでしょうか? その過程は高い段階に持ち上げられるかもしれないし、低い段階に降ろされるかもしれません。しかしそれが現実に起こっていること、現実に進んでいることです。

意識は行為の中の時間の過程です。私は何かをすることを望み、それを何の障害もなしに、何の苦闘もなしに、何の恐怖や挫折の感覚もなしにすることができるとき、何の努力も含まれていません。努力が含まれるやいなや、「ミー」としての意識が生じます。あなたはわかっていると思います。

個人は時間の産物です。そしてそれは記憶、意識、特定の形と名前に狭められた「ミー」です。「私」は無意識のみならず働いている意識的な心の両方を参照します。私たちは皆死の恐怖を持っています、無数のものごとについての恐怖を持っています。あなたは教育にしたがって、環境の影響にしたがって、様々なレベルの挫折と希望を持っています。そして心理的条件のみならず、生理的条件にも依存した、さまざまなレベルの意気消沈を持っています。それゆえ、私たちはそういったものです。私たちはそういったものの束です。私たちは意識の運動が妨げられるときのみ意識します。妨害される時のみあなた自身に気づくのです。他の何かの仕方であなた自身に気づきますか? 成就するなかで、達成するなかで、到達するなかで、何かに成るなかで、あなたはあなた自身に気づきます。さもなければ、あなたは意識しないのです。するでしょうか? そしてこの時間の過程がある限り、恐怖があるに違いありません。そうでないでしょうか?

恐怖とは何でしょうか? 恐怖は何かとの関係のなかにあります。そうでないでしょうか? 恐怖はそれ自体では存在しません。死の恐怖、存在しないこと、到達しないこと、選ばれないこと、達成しないこと、成功しないことなどなどの恐怖。種々のレベルでの恐怖があります。経済的に、精神的に安全でありたいという恐怖があります。恐怖がある限り、苦闘があるに違いありません。戦いがあるに違いありません。何かであることと、ないことの間の絶え間ない摩擦が、意識的レベルのみならず隠されたレベルでもあるに違いありません。それゆえ、恐れているので、それは私たちの大部分の状態であるのですが、私たちはそれから逃避しようとしています。そして逃避は多いのです。

どうか注意深くついて来てください。そしてついて来るとき、あなた自身を見守ってください。そのときあなたと私はさらに前進し、単なる言葉のレベルよりずっと多くを発見することができます。あなたは私が話しているとき、私の言葉の鏡の中にあなた自身を見守っていなければなりません。単に、言葉のレベルに止まっているに過ぎないなら、さらに進むことはできないでしょう。私が話していることをあなた自身に関連付けているなら、そのときのみ更に進むことができます。私はあなたが吟味し、分析すべきものを話していません。私は現実に起こっていることを話しています。私たちは皆恐れています。安全でありたいという欲望を持っています。あなたは夫と一緒にいたい、私は妻と、隣人と、私の社会と、神、などなどと一緒にいたいのです。無数の形の欲望があります。私たちは恐怖の問題を解決してきませんでした。私たちがすることはそれから種々の形を通して逃避することです。私たちがいわゆる教育を受け、いわゆる教化を受けているなら、逃避は洗練されています。時にはこれらの逃避は迷信の形を取ります。

さて、恐怖を超えることができるでしょうか? 私は私が恐れているのを知っています。あなたはあなたも恐れているのを知っています、外側ではそうでないかもしれませんが。しかし、あなたは内側で恐れています。この恐怖は何でしょうか? 明らかにそれは何かとの関係の中にのみあり得ます。私は死を恐れます。何が起こるのか知らないゆえに恐れます。私は仕事を失うことを恐れます。隣人を恐れます。妻を恐れます。欲望を持つことを恐れます。私に期待されている精神的高みに到達しないことなどなどを恐れます。この「私に(ミー)」とは何でしょうか? それは恐怖、活動している意識、何かでありたい、あるいは何かでありたくないという欲望です。恐怖は種々の逃避を見つけます。よく起こる種類は同一化です。そうでないでしょうか? 国との、社会との、観念との同一化。あなたが行進、軍隊の行進や宗教的な行進を見る時、あるいは国が侵略される危険にあるとき、どんなふうにあなたが反応するか気づいたことがありませんか? そのときあなたはあなた自身を国、信念、イデオロギーと同一化させます。子供、妻、特定の形の行為や不行為と同一化するほかの時があります。それゆえ、同一化は自己忘却の過程です。「ミー」を意識する限り、苦痛があるのを、苦闘があるのを、絶え間ない恐怖があるのを私は知っています。しかし私自身をより大きい何かと、価値のある何かと、美、生、真理、信念、知識と同一化させることが出来るなら、少なくとも一時的に、「ミー」からの逃避があります。ありませんか? 私の国について語るなら、一時的に私自身を忘れます。忘れないですか? 神について何かを言うことができるなら、私自身を忘れます。私の家族をグループと、特定の政党と、特定のイデオロギーと同一化さすことができるなら、そのとき一時的な逃避があります。

したがって、徳が自己からの逃避の形態である限りは同一化は自己からの逃避の形態です。徳を追求する人は自己から逃げているのであり、狭い心を持っています。それは徳のある心ではありません。というのは徳は追求すべきでない何かであるからです。あなたは有徳であろうとしません。なぜなら有徳になろうとすればするほど、あなたは一層の強さ、安全を自己に、「ミー」に、与えるからです。それゆえ、様々な形態で私たちの大抵に共通の恐怖は、常に代用品を見つけるに違いなく、したがって私たちの苦闘を増すに違いありません。代用品と同一化すればするほど、それにしがみつく強さはますます大きくなり、そのために死ぬ、苦闘する覚悟をあなたはさせられるのです。なぜなら恐怖がその背後にあるからです。

恐怖とは何か私たちはいま知っているでしょうか? それはいまあるものの不受容ではないでしょうか? 私たちは「受容」という言葉を理解しなければなりません。私はその言葉を受容しようとする努力を意味するものとして使用していません。私がいまあるものを見ることができるとき、そしていまあるものを知覚するとき、受容することの疑問はありませんね? いまあるものが明確に見えないとき、そのとき私は受容の過程を持ち込みます。それゆえ、恐怖はいまあるのものの不受容です。どうして これらの反応、応答、記憶、希望、失意、挫折の束であり、阻止された意識の運動の結果である私が超えることができるでしょうか? すなわち、この阻止と妨害のない心は、意識することができるでしょうか? 妨害がないとき、どんな途方もない歓喜があるのか、私たちは知っています。身体が完全に健康であるとき、確かな歓喜、幸福があるのをあなたは知っていないでしょうか、そして心が何の障害もなく完全に自由であるとき、「ミー」としての認識の中心がそこにないとき、確かな歓喜を経験することをあなたは知っていませんか? 自己がいないこの状態を経験したことがありませんか? 確かに私たちは皆持っています。経験したので、私たちは後戻りし、それを取り戻したいと望みます。これは再び時間の過程です。何かを経験したので、それを望みます。したがって私たちは意識に障害を与えるのです。確かに、分離の結果でない行為を見出すためには、自己のない行為がなければなりません。それがあなたが皆何らかの形で社会の中で、宗教的思索を通して、瞑想を通して、同一化を通して、信念を通して、知識を通して、非常に多くの種類の活動を通じて、求めているものです。それが、「自己」と言われる狭い領域から逃避するために、それから逃れるために、私たち一人一人が求めていることです。いまあるものの全過程を理解することなしに、それから逃れることが出来るでしょうか? ミーとして私の前にあるものの全内容を知らないなら、私はそれを避け、逃げることができるでしょうか?

理解と自己からの自由があるのは、私が自己を全体として、完全に、統合的に見ることができる時のみです。そして私がそれをすることが出来るのは、あらゆる活動の全過程、思考の表現そのものである欲望-というのは思考は欲望と違っていないからです-の全過程を、非難することなしに、抑圧することなしに理解するときだけです。私がそれを理解できるなら、そのとき自己の制限を超える可能性があるのを知るでしょう。そしてそのとき、分離していない行為、観念に基づいていない行為があり得ます。しかし心が「自己」と呼ばれる領域に限定されている限り、人と人の間に争いがあるに違いありません。そして真実や平和を求める人は欲望を理解しなければなりません。理解は、欲望が恐怖を通して、非難を通して、知的に妨げられていないときに生じます-それは欲望に成就を与えなければならないということではありません。それについていかなければなりません。矛盾のない、非難のない運動があるに違いありません。そのとき意識は、能動的であるかもしれないけれど、その中で無意識が開花できる場になるのが見えるでしょう。

本当に徳である自由、が真実であるものを発見するのに必要です。そして信念、知識、自己に束縛されている人は真実が何であるか決して発見できません。その真実の発見は時間の過程ではありません。時間の過程は心であり、心は決して真実であるものを発見できません。したがって、ミーに限定されたものとしての意識の過程を理解することが必要です。

質問: 今日、世界に精神錯乱が横行している原因は何であるとお感じですか? それは不安でしょうか? もしそうなら、不安を感じている何百万の人を、バランスを失い、神経症や精神病になることから守るために、何をすることが出来るでしょうか?

クリシュナムルティ: まず最初に、内的な安全というようなものがあるでしょうか? 内的に、心理的に、安全がいったいあり得るでしょうか? それに対し答えを見つけることができるなら、そのとき物理的安全は可能です。なぜならそれが何百万もの人が望んでいることであるからです。物理的安全、次の食事、家と衣服。何百万の人が半ば飢えて寝床につきます。少数の人のためでなく、多数の人のための衣食住の問題を解決するためには、なぜ人は安全、心理的安全を求めるかを調べなければなりません。なぜなら答えはものごとの再整理の中にあるのではないからです。答えは経済的なものではなくて心理的なものであるからです。なぜなら、私たち一人一人が内的な安全を求めており、それは人間のための外部の安全を妨げるからです。なぜなら、私たち一人一人が何かであることを望むからです。私たちは物理的な材料を、心理的な安全の手段として使用します。それをしていませんか? もしもあなたと私が、もしも世界が、人に食事を与え、衣服を着せ、家をあてがうことにかかわるなら、確かに私たちはやり方を見つけるに違いないでしょうに。そうでないでしょうか? 誰もそれをしていません。これが精神的錯乱の一つの原因です。そうでないですか? 外部に不安を感じるなら、私は精神的に神経症の状態をもたらす、あらゆる種類の物事を感じます。

それで私たちの問題は、エコノミストが考えたがるようにすっかり経済的なのではなく、むしろ心理的なのです。それは、私たち一人一人が信念を通じて、迷信を通じて、安全であろうと望む、ということです。私たちは信念の様々な形態を知っており、安全を感じることを期待してそれにしがみつきます。信じる人間は決して自殺することができないのを知りませんか? しかし信じない人間は彼自身を殺すにせよ、他の誰かを殺すにせよ、すぐに自殺できます。それで信念は安全の手段です。そして私が来世を、神を信じれば信じるほど、ますますそれを考えます。なぜならそれは慰安と安全を与え、そして私はかなり平衡が取れているからです。しかし私が探究しており、調べており、疑っており、懐疑論者であるなら、そのとき私は精神的拠り所を失いない、安全を失い、精神的にこれに立脚することが出来ません。それで心の精神病の状態があります。あなた自身の中でそれに気づいたことがありませんか? しがみつくことのできる何かを持つやいなや、あなたは平和に感じます、それが人、あるいは観念や政党であっても-それが何であるかは問題ではありません。何かにしがみつける限り、あなたは安全に感じ、多少とも平衡が取れていると感じます。しかし、その信念を疑い、それを調べてください。あなたは不安を招きます。それがなぜすべての利口で知的な人々が何かの形の信念に達するかです。なぜなら彼らは彼らの知性をそれが進む限り推し進め、そして何も見ないからです。そしてそのとき、「信じよう」と言うのです。確かに、私たちの問題は、安全はあるのか、です。 心理的、内的な安全が? 明らかにありません。私は信念の中に安全を見出すことができます。しかしそれは単に信念の形においての、私の不確かさの投影にすぎず、それは確かになります。

私は安全と不安の真実を見出すことができるでしょうか? そのときのみ私は正気の人間です、何かの信念や知識や観念にしがみついているのでないなら。安全の真実を見出すことができるなら、そのとき私は統一のとれた聡明な人間です。それがあなたの質問ですか? 明らかにそうではありません。なぜならあなたは安全があるかどうか知りたいと思っていないからです。それを疑う瞬間、あなたはどこにいるのでしょう? あなたがそんなにも利口に築いたもろい仕組みは崩壊するに至ります。あなたが安全を獲得できないなら、あなたは精神錯乱になります。そこで安全の真実を見出すまで、安全というようなものがあるならですが、明らかにあなたは錯乱した人間です。

安全、心理的な安全、内的な安全はあるでしょうか? 明らかにありません。私たちが、ただ、それがあって欲しいだけです。しかしありません。あなたは何かに依存することができますか? 依存するとき、何が起こりますか? 依存そのものが恐怖への招待であり、恐怖は依存から離れる自立を引き起こします。それは別の形の恐怖です。それゆえあなたが不安、それは継続を意味しますが、の真実を見出すまでは、あなたは心にきっと何か障害物を持っていますね? それは行為の中に神経症の状態を作り出します。永続はありません。確実はありません。しかし、あなたが欲望と不安の全部の過程を理解するなら、そのときだけ起こり得る真実があります。

質問: インドの再生は単に芸術と舞踊の復興を通して可能でしょうか?

クリシュナムルティ: 「単に」という言葉は重要ですね。そうでないですか? なぜなら、私たちの一人一人が専念しているものが、復興の手段となるからです。私が芸術家であるなら、それが私が創造的な世界を作りだすことの出来る唯一の道です。私が宗教的な人間であるなら、それが唯一の道です。エコノミストにとっては、経済が再生の唯一の道です。そこで私たち一人一人が専念していること、その特定の才能、その特定の性向が再生されたインドを作る手段になります。

再生は外部の組織を通して、能力を通して、事実、舞踊、あるいは芸術の再整理を通して生じるのでしょうか? あなたは再生によって何を意味しているのでしょう? 復活、新しい何か、新しい形での過去のものの継続ではなく。確かにそれを意味します。そうでないですか? 新しい状態、平和、幸福のある新しい世界。私たちがそのために苦闘していることの全体をあなたはご承知です。復興は内側の革命、内側の自由なしに可能でしょうか? あなたは舞踊の専門家かもしれません。それはあなたの特定の才能かもしれません。それはインドや世界を実際に再生するでしょうか、なぜならあなたが優秀な舞踊家であるから、あるいはあなたが優秀な科学者や政治家であるからですが? 何がそんなにも必要な、基礎的で根源的な革命、完全な革命、断片的な革命でなくて統合的革命をつくりだすでしょうか、パターンの表面的な再整理ではなくて? 確かにその革命は私たち一人一人の中に起こらなければなりません。そうではないでしょうか?

革命という言葉を恐れないでください。そうであるにしても、そうでないにしても。私たちはむしろ内側の進化、ますます世俗的に、ますます有徳になることの全過程を好みます。それは時間を通してミーを強化することにすぎません。ミーが存在する限り、内側の革命はありません。そしてミーは時間を通しては、私たちが望むものとの同一化を通しては、解消することが出来ません。

内側の革命はあなたがいまあるものを見るとき、そして観念の土台でない行為がある時だけ起こります。なぜなら、あなたがいまあるものに直面するとき、観念は価値がないからです。再生と復興は特定の才能や能力を通してではなく、内側の理解と革命を通してのみ、唯一起こることができます。

質問: 私たちの病弊すべてに対する解決は、あらゆる認識と欲望の気まぐれを停止し、それを超えることであると私が言うとき、私はあなたを正しく理解しているでしょうか? 私は忘我の瞬間を経験しましたが、それは後で、すみやかに消えて行きます。そして欲望が過去から未来に口出しして乱入します。これを限りに欲望を絶滅することができるでしょうか?

クリシュナムルティ: 見て下さい。あなたは結果を望んでいます。あなたは成功を崇拝し、そしてその忘我の状態を獲得するために、欲望をまったく除くことを望んでいます。すなわち、私は幸福で忘我でありたいので、欲望を除くことを望むのです。それゆえ、どうやって欲望を理解するかではなく、その状態を獲得するためにどうやって欲望を除くかを、私は調べているのです。どうかこの事の不可能性を見て下さい。私は経験した特定の結果を欲しがり、その経験を私は継続したいのです。そして欲望が存在する限り、その経験を継続することが出来ません。したがって私は欲望を除かなければなりません。あなたは欲望を理解することに関心があるのではなく、それを特定の段階に向かって修正することに関心があります。それがこの質問に含まれていることです。忘我が欲しい。そしてあなたはそれを経験したことを知っています。そして欲望がそれを妨げることを知っています。そこでどうやってそれを除くかというこの問題を持つのです。あなたは忘我のその状態を願う、それがすべてです。ただあなたはあなたの欲望を現世の偏狭な狭苦しい壁から、あなたが経験したものに変換しただけです。それであなたは何にかかわっているのでしょうか? 過去である経験に。どうかこれをわかってください。もしもあなたが全体の過程を理解したいなら、忘我の瞬間を持った、そして大きくなったとき それに戻ろうと望む子供のように、あなたは過去の経験を取り戻す問題に向き合っているのです。それは断片的ですね。なぜならその子供は何も新しいものを経験することができないからです。

経験とはどういうことでしょうか? 私たちが認識する何かを経験できるだけです。それゆえ何が起こっていますか。「ミー」が何かを忘我として認識し、それを獲得しようと望みます。その望むことがまさに欲望の過程です。それは名前を与えられます。経験の瞬間には命名はありません。どうかこれをわかってください。作動しているあなた自身を見つめてください。そのとき私が言うことが意味を持つでしょう。何かがあなたに予期せずに起こるとき、忘我の状態が現れます。その瞬間、認識はありません。その次にあなたは「私は経験した」と言い、それに名をつけます。これはすべて、心が思い出すことができるように、その思い出を通してその経験を継続することができるように、名前をつけようとしている心の過程です。私たちの大抵にとって、それは仲間なのです。

しかし欲望を理解することは、油断のない心と、非難のない 正当化のない 絶え間ない監視、絶え間ない観察、絶え間ない追跡を必要とします。なぜならそれは決してじっとしていないからです。それは運動です。そして反対はなんの役にも立たないでしょう。というのはそれはその中により大きな抵抗を作り出すだけだからです。あなたが決して認識されない経験を持つとき、あなたが命名するいわゆる経験はまったく経験でなくて、あなた自身の欲望の違った形での継続にすぎないことが見えるでしょう。欲望を理解するとき、本当にそれをわかったとき、その中に認識が居合わせない、その中に命名がない存在の状態をあなたは持ちます。それは心が招いていないとき、心が静かにさせられたのでなく、本当に静かであるときのみ生じます。理解しているので心は静かです。それは追跡し、欲望の全過程を気づきます。心が静かなとき、それはもはや想像にふけらず、もはや言葉化していません。その、心の静寂そのものが心によって測ることのできない存在の状態につながるのです。

1952年1月13日

(訳者: N.Goto)2000.12.掲載

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