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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 マドラスの公開講話(第5回)

J. Krishnamurti Madras 5th Public Talk 19th January 1952

私たちは集まったこの数回、自己のやり方を理解することの重要性を議論してきました。なぜなら、何といっても、最も思慮深い人たちは、自己、「ミー」、「私」、が実際にすべての災厄とすべての悲惨の原因であることに気づいているに違いないからです。私は最も思慮深い人たちはそれに気づいていると思います。たいていの宗教組織が、「ミー」、自己、が完全に放棄されなければならないということがいかに必要不可欠であるか、理論化し、あいまいに主張するのを見ることができます。私たちは本で自己の放棄について読みました。私たちが仮にも宗教的な傾向があるなら、それについてさまざまな語句を持っています。私たちはマントラやその他もろもろを繰り返し唱えるかもしれません。しかし、こういったことにもかかわらず、自己についての私たち自身の知覚と漠然とした理解は、非常に微妙なやり方、あるいはまったく鈍いやり方でいまもなお継続しています。私は思うのですが、もしもそれが仮にも容易であるなら、私たちは確信するはずであり、そして自己のさまざまな表現を理解し、完全にそれを撲滅することができないかどうかを知るに違いありません。なぜなら、自己の複雑さの全体を理解することなしに、私たちはさらに深く進むことはできないと私は感じるからです-自己が高位のものと低位のものに分割されているのか、いないのか、それは見当違いであり、心自体の安全の手段としてやっとそれを区分した心の問題にすぎません。私たちがこの複雑な過程全体を理解しない限り、世界に平和の可能性はありません。私たちはこのことを知っています。この事実に意識的、無意識的に気づいています。だが日常の生活の中で、それは何の役も果たしていません。それを実在の中にもたらしません。

私たちが議論してきたことはこのことです。どうやって私たちは自己の種々の活動と、心がその背後に隠れるその微妙な形を認識したらいいでしょうか? 私たちは自己、その活動と観念に基づいたその行為を見ます。観念に基づいた行為は自己の形です。なぜならそれはその行為に継続性を、その行為に目的を与えるからです。それゆえ、行為の中の観念は自己を継続する手段になります。もしも観念がそこにないなら、行為はまったく異なった意味を持ちます。それは自己から生まれていません。力、地位、権威、野心、その他あらゆるものを求める追求は、そのさまざまなすべてのやり方での自己の形態なのです。しかし重要なことは自己を理解することであり、あなたと私はそれを納得していると私は確信します。私がここで付け加えてよいなら、この問題について本気であってください。なぜなら、あなたと私が個人として、特定の階級、特定の団体、特定の風土的な区分に属す人の集団としてではなしに、これを理解し、これに作用することができるなら、そのとき本当の革命があると私は感じるからです。それが世界的になり、よりよく組織されるや否や、自己はそれの中に隠れます。ところが、あなたと私が個人として愛することができ、日常生活の中で実際にこれを実行することができるなら、その時そんなにも絶対に必要な革命が生じるでしょう。種々のグループの団結によってそれを組織したためでなく、個人的に、いつも起こっている革命があるために。

今晩はどうやって経験が自己を強めるかを議論したいと思います。

私が自己という言葉で何を意味しているかご承知ですね? それによって私は観念、記憶、結論、経験、名づけられる、また名づけられないさまざまな形の意図、何かであろう、あるまいという意識的な努力、無意識の、人種の、集団の、個人の、一門の、蓄積された記憶、そしてそのすべての全体を、それが外側で行動に投影されていようが、精神的に徳として投影されていようが、意味しています。このすべてを求めて努力すること、が自己です。その中に競争、何かであろうという欲望が含まれています。その全体の過程が自己です。そして私たちがそれに直面するとき、それが邪悪なものであることを現実に知ります。私は「邪悪(evil)」という言葉を意図的に使っています。なぜなら自己は分離することだからです。自己は自己閉鎖することです。その活動は、どんなに高貴でも、分離され、隔離されています。私たちはこのすべてを知っています。私たちはまた自己がいない瞬間が並外れているということも知っています。その中には努力の、奮闘の感覚はなく、そしてそれは愛があるとき起こります。

どうやって経験が自己を強めるか理解することが重要であるように私には思われます。私たちが本気であるなら、この経験の問題を理解しなければなりません。さて、経験とはどういうことでしょうか? 私たちはいつも経験を、印象を持ちます。そしてそれらの印象を翻訳し、それらに反応しています。つまり、それらの印象にしたがって行動しています。私たちは打算的、狡猾、その他です。客観的に見えることと私たちのそれに対する反応との間の絶え間のない相互作用があり、そして無意識と無意識の記憶との間の相互作用があります。

どうかこのすべてを記憶しないで下さい。見守って下さい。示唆してよろしければ、あなた自身の心と私が話しているとき起こっている活動を見守って下さい。すると見えるでしょう。私はこのすべてを記憶していません。私はそれが起こっている通りにただ話しているだけです。

私の記憶によれば、私が見るもの何にでも、私が感じるもの何にでも、私は反応します。私の見るもの、感じるもの、知るもの、信じるものに対するこの反応の過程の中で、経験が起こっています。そうでないでしょうか? 見えるものの応答に対する反応が経験です。私があなたを見るとき、私は反応します。その反応が経験です。その反応への命名が経験です。その反応に命名しなければそれは経験ではありません。どうかそれをよく見守って下さい。あなた自身の応答とあなたについて起こっていることを見守って下さい。同時に進行している命名の過程がない限り、経験はありません。私があなたを認識しないなら、どうして私が経験を持てるでしょうか? それは単純で正しいようです。それは事実ではないでしょうか? すなわち、私が、私の記憶にしたがって、私の状態にしたがって、私の偏見にしたがって、反応しないなら、どうして私が経験を持ったことを知ることができるでしょうか? それがその一つの型です。

次に種々の欲望の投影があります。私は保護されていることを、内的に安全であることを望みます。あるいは私は大師、導師、教師、神を持つことを望みます。そして私は私が投影したことを経験します。すなわち、私はある形を取った欲望を投影して、それに名前をつけました。それに私は反応します。それは私の投影です。それは私の命名です。私に経験を与えるその欲望が私に「私は得た」、「私は経験した」、「私は大師に会った」、あるいは「私は大師に会っていない」と言わせます。あなたは経験を命名する全過程がわかりますね。欲望はあなたが経験と呼ぶものです。そうではないですか?

私が心の静かさを望むとき、何が起こっていますか? 何が起こりますか? 私は種々の理由から、黙っている心、静かな心を持つ重要性を見ます。なぜなら、ウパニシャッドがそう言っています、宗教的な文献がそう言っています、聖者たちがそれを言っています、そしてまた ときおり 私自身、私の心が終日ひどくおしゃべりなので、静かであるならどんなにいいかと感じるからです。時々、私は平和な心、静かな心を持つことがどんなにすばらしいか、どんなに好ましいかと感じます。静かな心を持とうとする欲望は静寂を経験しようということです。私は静かな心を持ちたいと思い、それで私はあなたに「どうやってそれを得ますか?」と尋ねます。私はこの本やあの本が瞑想やさまざまな形の修養について言っていることを知っています。私は修養を通して静かな心を望み、静寂を経験します。自己、「ミー」は静寂の経験の中にそれ自身を確立しました。私は私の言おうとしていることを明確にしているでしょうか?

私は何が真実であるか理解したいと思います。それは私の欲望、私の熱望です。そのとき私が真実であると考えるものの投影があります。なぜなら私はそれについて沢山読んだからです。私は多くの人たちがそれについて語るのを聞きました。宗教的文献がそれを記述しています。私はそのすべてを欲しがります。何が起こりますか? 欲しがることそのもの、欲望そのものが投影され、私がその状態を認識するので経験します。私がその状態、その行為、その真実を認識しないなら、私はそれを真実と呼ばないでしょう。私はそれを認識し、それを経験します。その経験は自己に、「ミー」に、強さを与えます。与えませんか? それゆえ、自己は経験の中で安泰になります。その時あなたは「私は知っている」、「大師は存在する」、「神はいる」、あるいは「神はいない」と言います。あなたは特定の政治的組織が生じることを望むと言います。なぜならそれが正しく、ほかのすべてはそうでないからです。

それゆえ経験は常に「ミー」を強化します。あなたが強化されればされるほど、あなたは経験の中でますます安泰です。そして自己は確かにますます強化されるのです。この結果として、あなたはある性格の強さ、知識の、信念の強さを持ちます。それをあなたはほかの人たちに、彼らがあなたほど利口でないのを知っているので、そしてあなたはペンの才能を持っており、そして狡猾なので、わからせます。自己がなお働いているので、あなたの信念、あなたの大師、あなたの社会的地位、あなたの経済システムはすべて分離の過程です。それゆえ それらは争いをもたらします。あなたは、このことに仮にも真剣で本気であるなら、これを完全に解消し、それを正当化しないに違いありません。それが私たちが経験の過程を理解しなければならない理由です。

心が、自己が、投影しないこと、願望しないこと、経験しないことができるでしょうか? 私たちは自己の経験はすべて否定、破壊であるのを見ます。そしてなお、私たちは同じ事を肯定的な行為と呼びます。呼びませんか? それが私たちが生の肯定的なやり方と呼ぶものです。この全過程をしないことはあなたがたが否定と呼ぶものです。そのことはいいですか? 肯定的なものはありません。私たちは、個人としてのあなたと私は、それの根元まで行き、自己の過程を理解することができるでしょうか? さて、それを解消する要素は何でしょうか? 何が自己の解消をもたらすでしょうか? 宗教的団体やほかの団体は同一化によってそれを説明しました。しなかったですか? より大きなものに同一化せよ、すると自己は消える。それが彼らの言うことです。私たちはここに、同一化はなお自己の過程であると言います。より大きなものは単に「ミー」の投影です。それを私は経験し、したがってそれは「ミー」を強化します。あなたがこれをわかっているかどうかなと思います。種々な形の修養、信念、知識はすべて自己を強めるだけです。

自己を解消すると思われる要素を見出すことができるでしょうか? それとも、それは間違った質問でしょうか? それは私たちが基本的に望んでいることです。私たちは「ミー」を解消するものを見出したいのです。そうでないでしょうか? 私たちはさまざまな形で見出す、すなわち、同一化、信念、その他があると思います。しかし、それらすべては同じレベルにあります。一つが他のものに対して勝ってはいません。なぜならそれらすべては自己、「ミー」を強めるのに等しく有力であるからです。さて、私は「ミー」を、それがどこで作動していようが、見ます。そしてその破壊的な力とエネルギーを見ます。あなたがそれにどんな名前をつけようと、それは分離する力です。それは破壊的な力です。そして私はそれを解消するやり方を見出したいと思います。あなたはこれをあなた自身に尋ねたに違いありません―『私は、「私」がいつも作動していて、常に心配、恐怖、挫折感、絶望、惨めさを、私自身にだけでなく 周りの皆にもたらしているのを見る。その自己が、部分的でなく完全に、解消されることができるだろうか?』 私たちはその根元に行き、それを破壊することができるでしょうか? それが作動する唯一のやり方です。そうでないでしょうか? 私は部分的に聡明であるのを望むのではなく、統合された仕方で聡明でありたいのです。私たちのたいていは各層において聡明です。あなたは多分一つのやり方で、私はある他のやり方で。ある人たちはビジネスの仕事で聡明であり、他のものは事務の仕事などなどで。人々はさまざまなやり方で聡明です。しかし、私たちは統合的に聡明ではありません。統合的に聡明であるということは自己なしにあるということです。それができるでしょうか? 私がその行為を追求するなら、あなたの応答は何でしょうか? これは議論ではありません。それゆえ、どうか答えないでその行為に気づいて下さい。私が指摘しようとした意味合いは、あなたの中に反応を生むに違いありません。あなたの応答は何でしょうか?

自己が今完全にいないことができるでしょうか? あなたはそれがそうであることを知っています。できます。さて、どうすればそれができますか? 必要な構成要素、必要条件は何でしょうか? それをもたらす要素は何でしょうか? 私はそれを見出せるでしょうか? これがわかっていますか、皆さん? 私が「私は見出せるでしょうか?」というその質問をするとき、確かに、私は私はそれができると確信しています。私は自己がその中で強化されようとしている経験を既に作り出したのです。そうでないでしょうか? 自己を理解することは、それが滑り抜けないように、多量の英知、多量の注意深さ、油断の無さ、絶え間なく見守ることを必要とします。非常に熱心な私は、自己を解消したいと思います。私がそれを言うとき、私は自己が解消できると知っています。どうか辛抱して下さい。私が「これを解消したい」と言うとき、そして私がそれの解消に従事する過程の中に、自己の経験があります。それゆえ自己は強められます。それゆえ、どうやって自己が経験しないことができるでしょうか? 人は創造はまったく自己の経験ではないということを見ることができます。創造は自己がそこにいないときです。なぜなら、私たちが知っているように、創造は知性的なものではありません。心に属するものではありません。自己投影されていません。あらゆる経験することを超えた何かです。心が、無認識の状態の中で、まったく静かであることができるでしょうか?、そのことは、無経験、創造が起こり得る状態の中にあることであり、それは自己がそこにいないとき、自己が不在のときを意味します。私は私の言っていることをはっきりさせているでしょうか、いないでしょうか? ほら、皆さん、問題はこれではないでしょうか? 心のあらゆる運動は、肯定的でも否定的でも、現実に「ミー」を強める経験です。心が認識しないことができるでしょうか? それは完全な静寂、しかし、自己の経験であり したがって自己を強める静寂ではない静寂があるときのみ起こり得るのです。

自己を見て、自己を解消する実体が、自己は別にして、あるでしょうか? あなたはこのすべてをわかっていますか? 自己を押しのけて破壊する、それを片付ける精神的な実体があるでしょうか? 私たちはあると思います。思いませんか? たいていの宗教的な人たちはそのような要素があると思います。物質主義者は「自己が破壊されることはあり得ない。それは慣らされ、抑制されることが起こり得るだけである―政治的に、経済的に、社会的に。特定のパターンの範囲内にそれをしっかりと保持し、それを破壊することができるだけである。それゆえ、高い生活、道徳的な生活に導き、何ごとにも干渉しないで社会のパターンにしたがい、単に機械として働くにすぎないようにさせることはできる」と言います。それを私たちは知っています。他の人たち、いわゆる宗教的な人がいます―私たちは彼らをそう呼ぶけれど、彼らは実際には宗教的ではありません―その人たちは、「根本的に、そのような要素がある。それに触れることができるなら、それは自己を解消する」と言います。

自己を解消するそんな要素があるでしょうか? どうか私たちがしていることを見てください。私たちは単に自己を隅に押し込んでいるに過ぎないのです。あなたがあなた自身に隅に押し込まれるのを許すなら、何が起こるのか知るでしょう。私たちは始めも終わりもない、自己でない、やって来て仲に入って破壊してくれる、私たちはそう期待するのですが、神と呼ぶ要素があるはずだということであって欲しいのです。さて、心が思いつくことができる、そのようなものがあるでしょうか? それは要点ではありません。自己を破壊するために行動に入ってくれる、始めも終わりもない精神的な状態を心が求めるとき、それは「ミー」を強めている経験のもう一つの形でないでしょうか? あなたが信じるとき、それが実際に起こっていることではないでしょうか? あなたが真理、神、始めも終わりもない状態、不死、があると信じるとき、それは自己を強める過程でないでしょうか? 自己は、あなたは感じそして信じるのですが、やってきて自己を破壊するそのものを投影しました。それゆえ、精神的実体として、始めも終わりもない状態の中での継続というこの観念を投影して、あなたは経験するでしょう。そしてそのような経験はすべて、ただ自己を強めるだけでしょう。それゆえ、あなたは何をしたのでしょうか? あなたは実際に自己を破壊したのではなくて、ただそれに違った名前、違った性質を与えただけです。自己はなおそこにいるのです。なぜならあなたがそれを経験したからです。それゆえ、私たちの行為ははじめから終わりまで同じ行為です。ただ私たちが、それは進化している、成長している、ますます美しくなっていると思っているだけです。しかし、あなたが内的に観察するなら、それは進行している同じ行動、違ったラベルで、違った名前で、違ったレベルで作動している同じ「ミー」です。

全体の過程を、巧妙な 途方もない考案、自己の聡明さ、どうやってそれが同一化を通して、徳を通して、経験を通して、信念を通して、知識を通してそれ自身を覆い隠すかを見るとき、あなたが輪の中で、それ自身が作った籠の中で動いているのを見るとき、何が起こりますか? それに気づいており、それを十分に知っているとき、そのとき、あなたの心は途方もなく静か―強制を通じてではなく、報酬を通じてではなく、恐怖を通じてではなく―ではないですか? 心のあらゆる運動が単に自己を強化する形にすぎないことを認識するとき、それを観察し、それを見るとき、活動しているそれに完全に気づいているとき、その点に到達するとき―観念で、言葉の上でなく、経験することを通してでなく、現実にその状態にあるとき―そのとき、まったく静かな心は創り出す力を何も持っていないことが見えるでしょう。心が創り出したものは何でも、輪の中に、自己の領域の中にあります。心が創り出していないとき、創造があります。それは認識できる過程ではありません。

実在、真実、は認識されるものではありません。真実が生じるためには、信念、知識、経験すること、徳、徳の追求―それは徳があることとは違います―このすべてが消えなければなりません。徳の追求を意識している有徳の人は、決して実在を見出せません。彼は非常にまともな人かもしれません。それは真実の人、理解している人とはまったく違います。真実の人に、真実は生じています。徳のある人は正しい人です。そして正しい人は決して真実であるものを理解することができません。なぜなら彼にとっての徳は自己を覆うこと、自己を強化することであるからです。なぜなら彼は徳を追求しているからです。彼が「私は貪欲なしにいなければならない」と言うとき、彼が非貪欲であるところの、彼が経験するところの状態は自己を強化します。それが世間の物事の中だけでなく、信念と知識においても、貧しくあることが非常に重要である理由です。世間的な富で富んでいる人、あるいは知識と信念で富んでいる人は暗黒のほか何も決して知ることがないでしょう。そしてあらゆる災厄と悲惨の中心であるでしょう。しかしあなたと私が、個人として、自己のこの全作用を見ることができるなら、そのとき私たちは愛がなんであるか知るでしょう。それが多分世界を変えることのできる唯一の変革であることを、私はあなたに保証します。愛は自己ではありません。自己は愛を認識できません。あなたは「私は愛しています」と言います。しかしそのとき、それを言うことそのものの中に、それを経験することそのものの中に、愛はありません。しかし、愛を知るとき、自己はありません。愛があるとき、自己はありません。

質問: 簡素とは何でしょうか? それは本質的なことを非常に明確に見ること、そして他のあらゆることを棄てることを意味するのでしょうか?

クリシュナムルティ: 簡素が何でないか見てみましょう。「それは否定だ」と言わないで下さい。あなたは肯定的な事を言いません。それは未熟な、思慮のない表現です。それを言う人たちは搾取者です。なぜなら、それらの人はあなたに与えるもの、あなたが欲しがり、それを通してあなたを搾取するものを持っているからです。私たちはその種のことを何もしていません。私たちは簡素の真実を見出そうとしているのです。したがってあなたは物事を捨て、脇に置き、観察しなければなりません。多く持っている人は、内部的にも外部的にも、革命を恐れます。それゆえ何が簡素でないのか見出しましょう。複雑な心は簡素でないのではないでしょうか? 狡猾な心は簡素ではありません。視野の中に目的を持ち、報酬として、罰として、その目的ために働いている心は簡素な心ではありません。皆さん、私に同意しないで下さい。それは同意の問題ではありません。それはあなたの人生です。知識を負わされている心、は簡素な心ではありません。信念で不自由にされている心、は簡素な心ではないのではないでしょうか? より大きなものと同一化し、その同一性を保とうと努力している心、は簡素な心ではないのではないでしょうか? しかし、私たちは、一二枚の腰布を持っていることが簡素な生活であると思います。私たちは簡素さの外部の見世物を望み、それによって容易に欺かれるのです。それが非常に富んだ人が、放棄した人間を崇拝する理由です。

簡素とは何でしょうか? 簡素は非本質的なことを捨て、本質的なことを追求すること―それは選択を意味します―であり得るでしょうか? どうかこれをわかって下さい。それは選択、選ぶことを意味しないでしょうか? 私は本質的なことを選び、非本質的なことを捨てます。この選択の過程は何でしょうか? 深く考えて下さい。選択しているものは何でしょうか? 心。それではないでしょうか? それを何と呼ぶかは問題ではありません。あなたは「私は本質的なこれを選ぼう」と言います。どうやってあなたは何が本質的なものであるのかを知るのでしょうか? あなたが他の人が言ったことのパターンを持っているか、あなた自身の経験がそれが本質的なものであると言っているかどちらかです。あなたはあなたの経験に頼ることができますか? なぜなら、あなたが選ぶとき、あなたの選択は欲望に基づいているからです。あなたが本質的と称するものはあなたに満足を与えるものであるからです。そこであなたは同じ過程に戻るのではないでしょうか? 混乱した心が選べるでしょうか? 選ぶなら、選択もまた混乱しているに違いありません。

したがって、本質的なものと本質的でないものとの間の選択は簡素ではありません。それは葛藤です。葛藤している、混乱している心は決して簡素ではあり得ません。それゆえあなたが捨てるとき、虚偽のものと心のトリックのすべてを見るとき、それを観察する、それを注視する、それに気づいているとき、そのときあなたは簡素が何であるか知るでしょう。信念によって束縛されている心、は決して簡素な心ではありません。知識で不自由にされている心、は簡素ではありません。神、女性、音楽によってそらされている心、は簡素な心ではありません。事務所の、儀式の、マントラの日課に捕らえられている心、その様な心は簡素ではありません。簡素は観念のない行為です。しかし、それは非常に希なことです。それは創造を意味します。創造がない限り、私たちは災厄と悲惨と破壊の中心です。簡素は追求し経験することではありません。簡素は、花が開くように、各人が生活と関係の全過程を理解する、まさにその瞬間に生じます。私たちはそれを考えたり観察したりしたことがないので、それに気づきません。私たちは特定のやり方で、簡素の外部の形すべてを高く評価します―頭を剃る、特定のやり方で衣服を持つ、あるいは無衣服といったような。それらは簡素ではありません。簡素は見出されることではありません。簡素は本質的なものと本質的でないものとの間に横たわっているのではありません。それは自己がいないとき、自己が思索に、結論に、信念に、観念形成に捕らわれていないとき、生じます。その様な心のみが真実を見出すことができるのです。ただその様な心だけが測れない、名づけられないものを受け取ることができるのです。そしてそれが簡素です。

質問: 宗教的な気質をもち、全体的、統合的に行動することを望んでいる私が、政治を通して私自身を表現することができるでしょうか? というのは、私には、政治の分野に根本的な変化が必要であるように見えるからです。

クリシュナムルティ: 質問者が言っていることはこうです。全体的に探求しながら、宗教的に全体、全部、完全を探求しながら、私は政治的に働くことが、すなわち、部分的に行動することができるでしょうか? 彼は政治が明らかに彼のための道であると言います。全体、完全ではないその道を彼が追求し、たどるとき、単に部分的、断片的な分野の中で働くに過ぎません。そうでないでしょうか? あなたの答えはどうですか、利口な答えや即時の反応ではなく? 私は生の全体の物事を見ることができるでしょうか? それは、私は愛することができるでしょうかということですが。愛を取り上げましょう。私は思いやりを持っています。私はものすごく、そして全体のために感じます。そのとき、私は政治的にのみ行動できるでしょうか? 私は、全体を追求しながら、ヒンドゥー教徒やバラモンであることができるでしょうか? 私は、ハートに愛を持ちながら、道に、特定の国に、特定の経済的 あるいは宗教的組織に同一化することができるでしょうか? 私が特定のものを改善したい、特定のものの中に、私が住んでいる国の中に、根本的な変革をもたらしたいのだとしましょう。特定のものに同一化するや否や、私は全体を締め出したのではないでしょうか? これはまさに私の問題であると同様にあなたの問題です。私たちはそれをいっしょに考えています。あなたは私の言うことを聞いているのではありません。私たちが答えを見出そうとしているとき、あなたの意見と考えは解答ではありません。私たちが見出そうとしていることは、真に宗教的な人間―他人の意見を聞く見せかけの人でなく―全体を探求している真に神聖な人、彼が特定の国のための急進的な運動に同一化できるでしょうか? そして私が全体を求めているなら、心の範囲内にないものを理解しようとしているなら、それが一国の、一国民の、一国家の革命―その言葉を恐れないで下さい―を持つことをするでしょうか? 私は、私の心を使って、政治的に行動できるでしょうか? 私は政治的行動がなければならないことがわかります。私たちの関係の中に、私たちの経済的システムの中に、国土の配分、その他の中に真の変化、根本的な変化がなければならないことがわかります。私は革命がなければならないことがわかります。そしてなお同時に、私は道、政治的な道を追求しています。私はまた全体を理解しようとしています。そこでは私の行動は何でしょうか? それはあなたの問題ではないでしょうか、皆さん? あなたは政治的に―すなわち、部分的に―行動し、そして全体を理解することができるでしょうか? 政治と経済は部分です。それらは全体、統合された生ではありません。それらは部分的で、必要で、不可欠です。私は全体を捨てて、あるいは全社会から去って、特定のことをいじくり回すことができるでしょうか? 明らかに私はできません。しかし私はそれを通してではなく、それに作用することができます。

私たちは特定の変化をもたらすことを望みます。私たちはそれについて確かな観念を持っています。私たちは非常に多くのグループなどなどを求めます。結果を獲得するために手段を用います。ところがそのことと正反対の、全体の理解があるでしょうか? 私はあなたを混乱させているでしょうか? 私はただあなたに私が思ったことを話しているだけです。それを受け入れないで下さい。あなた自身でそれを考え抜き、見てください。私にとって、政治活動、経済活動は、それらは不可欠であるけれども、二次的に重要なものです。政治の分野において根本的な変化がなければなりません。しかしその様な変化は、私がもうひとつのものを追求しないなら、深さを持たないでしょう。もうひとつのものが第一でないなら、もうひとつのものが二次的に過ぎないなら、そのとき二次なのものに向けての私の活動は驚くべき意義を持つでしょう。しかし、私が特定の道を見て政治的に活動するなら、政治的活動が私にとって重要になり、統合的に行動することではなくなります。しかし、統合的に行動することが私にとって本当に重要なら、そして私がそれを追いかけるなら、政治活動、宗教活動、経済活動は正しく、深く、根本的に生じるでしょう。私がもうひとつのものを追わないで、単に政治的、経済的、あるいは社会的変化に私自身を限定するなら、そのとき私はより多くの悲惨をつくり出すでしょう。

それゆえ、すべてあなたが何に重きを置くかにかかります。正しいこと―それは全体です―に重きを置くことは、政治その他に関する、それ自体の行為を生み出すでしょう。すべてあなたにかかっています。「私は政治的、あるいは経済的に行動しよう」と言うことなしに、その全体のものを追求する中で、あなたは政治的に、宗教的に、経済的に根本的な変革をもたらすでしょう。

この質問の中で重要なことは「あなたが求めていることは何なのか?」です。あなたの生の中で第一の問題は何ですか? 本当には第一と第二の間に分離はありません。けれども、追求する中で、あなたが全体を、第二や第一はないのを理解し始めるとき、そのとき全体が道であるということを見出すでしょう。しかし、あなたが、特定の部分を変えなければならないと言うなら、そのとき全体を理解しないでしょう。政治的分野のような特定のものの中のどんな変化も、全体のものを変えることはできません。この事は歴史的に示されてきました。しかし あなたが知るなら、自己の全体の過程に気づくならそれを解消なさい。そしてもし愛があるなら、これはインドに根本的な革命をもたらすでしょう。

1952年1月19日

(訳者: N.Goto)2001.01.掲載

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