クリシュナムルティを読む

ゴト改め皆様の読書室

「自我の終焉」の源流を尋ねて

1952年マドラス講話 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12]

1952年 マドラスの公開講話(第6回)

J. Krishnamurti Madras 6th Public Talk 20th January 1952

私は話し手とあなた自身の間の関係を理解することが重要であると思います。というのは人は、これらの講話と討論を、完全な無関心、好奇心、特定の懐疑的な態度、あるいは賛成か反対の態度や耽溺の態度を取ろうという自然な傾向で聞きがちだからです。私には、これらの接近は両方ともまったく間違っているように思われます。重要なことは、あなたと私は二人の個人であり、二つの宗派あるいは宗教に属する集団のグループではないということ、私たちが、二人の個人として、問題を解決しようとしているということを理解することです。それがいつでも私の接近法であり、私が演壇に腰掛けてあなたがどうすべきか忠告するというのでも、命令的に言うというのでもないのです―それは愚かでしょう。しかし二人の個人としてのあなたと私が、問題を注視し、理解し、その根元に突っ込んで行くことができるなら、そのとき、たぶん私たちは私たちの一人一人に立ちはだかる多くの問題に寄与することができるでしょう。それが現在の混乱に捕らえられている聡明な人が採用しなければならない唯一の接近法であると私は思います。私たちはそんなにも信じたり、受容したりしがちです。そしてそれは信念の中に、受容の中に、ある安全、ある逃避、自己拡大があるからです。私たちが問題を、目的の明瞭さと正直さを持って見ることができるなら、そのとき問題を容易に解決することができます。しかしそれは非常に困難です。なぜなら、私たちの大抵は思考することにおいて非常に堕落しているからです。なぜなら私たちは非常に多くの既得の利害関係を持っているからです―経済的、宗教的、そして心理的に。私たちの大抵にとって、これらの背景から離れて考えることは困難です。示唆してよければ、それが解決を待っている無数の問題のどれにせよ、解決するための唯一の接近法です。個人としてのあなたと個人としての私が、私たちの関係の小さな世界の中で、問題を解明しているのです。

この数週間、私たちが討論して来た事は、自己とそのやり方の問題でした。自己があらゆる災いの根本的な原因であるという事を見ることが出来るでしょうか? 途方もない逸脱と微妙な行動を持つ「私」あるいは自己が、私たちの面倒すべてに責任があります。どの聡明な人間も皆この「自己」の問題を、それを保護するのではなく、隠すのではなく、解明しなければなりません。日常生活の中で、どんなふうに自分が自己に栄養、活力、連続性を与えているかを理解しなければなりません。もしも私たちが世界の問題を解明しようとするなら、確かに、あらゆる複雑さを持っている自己の全過程を、意識も無意識も理解しなければなりません。それが、私たちがその種々の様相を取り上げて討論してきた事です。

組織化された宗教、組織化された信仰と全体主義国家は非常に似通っています。なぜならそれらは皆、強制を通じて、宣伝を通じて、さまざまな形の威圧を通じて、個人を破壊する事を望んでいるからです。組織化された宗教はやり方がさまざまなだけで、同じことをやっています。そこではあなたは受け入れなければなりません。信じなければなりません。条件づけられます。左翼といわゆる精神的な組織の両方の傾向全体が、心を特定のパターンの振る舞いに形作る事です。なぜなら、したいようにするままの個人は反逆者になるからです。それゆえ、個人は強制を通じ、宣伝を通じて破壊され、そして社会のため、国家などなどのために制御され、支配されます。いわゆる宗教的組織は同じ事を、ただもう少し懐疑的に、もう少し微妙にやるだけです。なぜなら、そこでもまた、人々は信じなければならず、抑制しなければならず、制御その他すべてをやらなければならないからです。全体の過程が自己をあれやこれやの形で支配する事です。強制を通じて、集団的行動が求められます。それが、経済的組織であろうが宗教的組織であろうが、たいていの組織が望んでいる事です。それらは集団的行動を望みます。それは個人は破壊されるべきだという事です。究極的に、それはそれを意味するだけでしかありません。あなたは左翼、マルクス主義者の理論や、ヒンドゥー教、仏教、キリスト教の教義を受け入れます。それによってあなたは集団的な行動をもたらす事を望んでいるのです。確かに協力は威圧とは違います。

どうやって集団的行動はもたらされるのでしょうか、あるいはどうやってもたらされるべきでしょうか? 今までのところ、それは信念、富んだ状態の経済的約束、輝かしい未来の約束を通してでした。あるいはいわゆる精神的な方法を通して、恐怖、強制とさまざまな形の報酬を通してでした。協力は集団的でない、集団的でも個人的でもない英知があるとき生じないでしょうか? それが今晩、私が討論したい、一緒にじっくり話し合いたい事です。

その問題を有益に討論するためには、心の機能は何なのか見出さなければなりません。心とは何なのでしょうか? 私が指摘してきたように、あなたは単に私の言う事を聞いているに過ぎないのではありません。そうではなくてあなたと私は一緒にこの問題、心の機能を調査しているのです。まったくの偶然で、私はさしあたり演壇にたまたま腰掛けていて、それをあなたと話しています。しかし実際には、あなたと私は一緒に問題に取り組み、一緒に問題全体を調べているのです。

あなたがあなた自身の心を観察するとき、あなたはいわゆる上層の心を観察しているだけでなくて、また無意識をも見守っているのです。あなたは心が現実に何をしているか見ています。そうでないですか? それがあなたが調べる事のできる唯一のやり方です。あなたはそれが何をすべきか、どうやって考えるべきか、どうやって行動すべきかなどを重ねてはなりません。それは結局単なる声明をするに過ぎない事になるでしょう。すなわち、あなたが心はこうあるべきだとか、そうあるべきではないと言うなら、そのときあなたはすべての調査とすべての思考をやめているのです。あるいは、何かの高い権威を持ち出すなら、 そのとき同様に思考をやめているのです。そうでないでしょうか? シャンカラ、仏陀、キリストや、X、Y、Zを持ち出すなら、あらゆる追跡の、あらゆる思考とあらゆる調査の終わりがあります。それゆえ、それに対して用心しなければなりません。心のこれらの微妙さをすべて脇にやらなければなりません。あなたは、私と一緒に「私」というこの問題を調査しているのを知っていなければなりません。

心の機能は何でしょうか? それを見出すためには、あなたは心が実際に何をしているかを知らなければなりません。あなたの心は何をしていますか? それはすべて思考の過程です。そうでないでしょうか? さもなければ、心はそこにありません。心が意識的か、言語化することなしに、無意識的に考えていない限り、意識はありません。私たちが日常生活の中で使用している心、そしてまた私たちの大抵がそれについて無意識でいる心が、私たちの問題との関連の中で何をしているかを私たちは見出さなければなりません。私たちはありのままの心を見なくてはならないので、あるべき心をではありません。

さて、機能している時の心は何でしょうか? それは実際には孤立の過程です。そうでないでしょうか? 基本的にそれはそれです。それが思考の過程が何であるかです。それは孤立した形で思考していますが、なお集団的なままです。あなた自身が思考しているのを観察するとき、それは孤立した、断片的な過程である事が見えるでしょう。あなたはあなたの反応に、あなたの記憶の、あなたの経験の、あなたの知識の、あなたの信念の反応にしたがって考えています。あなたはそのすべてに反応しています。していませんか?

私が根本的な革命がなければならないと言うなら、あなたは即座に反応します。あなたが精神的、あるいは別の方法で有利な投資をしているなら、あなたはその「革命」という言葉に抗議するでしょう。それゆえ、あなたの反応はあなたの知識、あなたの信念、あなたの経験に左右されるのです。それは明らかな事実です。さまざまな形の反応があります。あなたは「私は兄弟みたいでなければならない」、「私は協力しなければならない」、「私は友達のようでなければならない」、「私は親切でなければならない」、などと言います。これらは何でしょうか? これらは皆反応です。しかし思考の基本的な反応は孤立の過程です。どうかそれを直ちに受け入れないで下さい。というのは私たちは一緒にそれを調べているからです。あなたはあなた自身の心の過程を見守っています。あなた方の一人一人が。それは、あなたがあなた自身の行為、信念、知識、経験を見守っているという事です。これらすべては安全を与えるのです。そうでないですか? それらは思考の過程に安全を与えます。強さを与えます。昨日討論したように、その過程は「私」、心、自己を、その自己が高かろうが低かろうが、強めるだけです。私たちの宗教のすべては、私たちの社会的制裁のすべては、私たちの法律すべては、個人を、個々の自己、分離性の行為を支持するためです。そしてそれの反対の位置に全体主義国家があります。あなたが無意識をより深く調べるなら、そこでもまた、働いているのは同じ過程です。ほら、私たちは環境によって、風土によって、社会によって、父、母、祖父によって影響された集団なのです。あなたはそのすべてをご存知ですね。再び個人として、「私」として主張しよう、優位に立とうとする欲望があります。

それゆえ、心の機能は、私たちが知っているように、そして毎日機能しているように、孤立の過程ではないでしょうか? あなたは個人的な救済を求めていませんか? あなたは将来何者かになろうとします。まさにこの生の中で、あなたは偉大な人、偉大な作家になろうとします。私たちの傾向全体が分離されていることです。心はそれ以外に何かできるでしょうか? 心が分離的に、自己閉鎖的に、断片的に考えないことができるでしょうか? それは不可能です。このために、私たちは心を崇拝します。心は途方もなく重要です。少しばかり利口で少しばかり抜け目なく、少々蓄積した情報と知識を持っているとき、いかに社会の中で重要になるかご存じないですか? 知的に優れている人たち、法律家、教授、演説家、大作家、解説者や解釈する人をどんなに崇拝するか、あなたは見てきました! そうでないでしょうか? あなたは知性と心を養ってきたのです。

心の機能は分離されていることです。さもなければ、あなたの心はそこにいません。何世紀もこの過程を養ってきたので、私たちは協力できない事を見出します。経済的や宗教的な権威、恐怖によって、私たちは駆り立てられ、強要され、追いやられるだけです。それが、私たちの動機、意図、追求の中で、意識的のみならず深いレベルでも現実の状態であるなら、どうして協力があり得るでしょうか? どうして何かをするための聡明な団結があり得るでしょうか? それがほとんど不可能なので、宗教や組織された社会的団体は個人に特定の形の規律を強要します。規律はそのとき、団結するため、物事を一緒に行うため、絶対必要になります。

それゆえ、どうやってこの分離的な思考を、「私」と心を強調するこの過程を、集団的な形にせよ個人的な形にせよ、超えるか理解するまで、私たちは平和を持たないでしょう。絶え間ない葛藤と戦争を持つでしょう。さて、私たちの問題はどうやってこれを解決するか、どうやって分離を引き起こす思考の過程に終わりをもたらすかです。思考はいったい自己を、言語化の、特定の反応の過程である思考を破壊する事ができるでしょうか? 思考は反応以外の何ものでもありません。思考は創造的ではありません。しかしそれは創造性の、唯一の言葉での表現です。それを私たちは思考と言います。その様な思考がそれ自身を終わりにすることができるでしょうか? それが私たちが見出そうとしている事です。そうでないですか? 私はこれらの線に沿って考えます―「私は鍛錬しなければならない」、「私は同一化しなければならない」、「私はもっと適切に考えなければならない」、「私はこれやあれでなければならない」。思考は何かであるためや、何かでないために、それ自身を強制し、駆り立て、鍛錬しています。その過程が孤立の過程ではないでしょうか? したがって、それは全体として機能し得る、そこからのみ協力があり得る、統合された英知ではありません。今問題がわかりますか? 私は問題を私自身に提出しているのではありません。これがあなたの問題であるという事を、あなたがわからなければなりません。もし既に気づいていないならば。あなたはそれを違ったふうに述べるかもしれませんが、しかし基本的に、これが問題です。

どうやってあなたは思考の終わりに至ればいいのでしょうか。あるいはむしろ、どうやって思考は終わればいいのでしょうか? 私は孤立した、断片的で部分的な思考を意味しています。どうやってあなたはそれに取り掛かりますか? 鍛錬がそれを破壊するでしょうか? あなたのいわゆる鍛錬がそれを破壊するでしょうか? 明らかに、あなたはこの長い年月ずっと成功しませんでした。さもなければ、あなたはここにいないでしょう。あなたはまったく思考の過程である鍛錬の過程を検査しなければなりません。そのなかに服従、抑圧、制御、支配があります―すべて無意識に影響しています。それは後程、あなたがより年を取るにつれて自己を主張します。成果もなくそんなにも長い間鍛錬に努めて、あなたは、鍛錬は明らかに自己を破壊する過程ではないのを発見したに違いありません。自己は鍛錬を通じて破壊することはできません。なぜなら鍛錬は自己を強化する過程であるからです。それにもかかわらず、あなたの宗教はすべてそれを支持します。あなたの瞑想、あなたの主張はすべてこれに基づいています。知識はそれを破壊するでしょうか? 信念はそれを破壊するでしょうか? 言い換えると、私たちが現在しているあらゆる事、自己の根元に達するために現在従事しているすべての活動は、そのすべては成功するでしょうか? このすべては、孤立の過程、反応の過程である思考の過程の中での、根本的な浪費ではないでしょうか? 思考がそれ自身を終わらせることはできないという事を根本的に、あるいは深く理解するとき、あなたはどうしますか? 何が起こりますか? あなた自身を見守って下さい、皆さん、そして私に話して下さい。この事実に十分気づいているとき、何が起こりますか? あなたはそのとき、どんな反応も条件づけられていること、そして、条件付けを通しては、始めにも終わりにも自由はあり得ないということを理解します。自由は常に始めにあり、終わりにではありません。

どんな反応も条件付けの一形態であり、したがって、さまざまなやり方で自己に継続性を与えていることをよく理解するとき、現実に何が起こりますか? この事の中で非常に明確でなければなりません。信念、知識、鍛錬、経験、結果あるいは目的を達成する全過程、野心、この生や次の生、未来の生で何かになること―これらすべては孤立の過程、破壊、悲惨、戦争をもたらす過程であり、それから集団的な行動による逃避は、強制収容所やその他あるゆるものでひどく脅されるかもしれませんが、ないのです。その事実に気づいていますか? 心の状態はどんなですか? 「そうです」、「それは私の問題です」、「それが正確に私のいる所です」、「私は拒否しました」、「知識と鍛錬が何をすることができるか、野心が何をするかが見えます」と言っている心の状態はどんなですか? 確かに、異なった過程が働いています。

私たちは知性のやり方が見えます。愛のやり方が見えません。愛のやり方は知性を通しては見出されません。あらゆる細分化を伴い、あらゆる欲望、野心、追求を伴う知性は、本当の愛が生まれるためには終わる必要があります。愛するとき、あなたは協力する、あなた自身のことを考えていない、ということを知っていませんか? それは英知の最高の形です―あなたがより優れた存在として愛されているときや、よい地位にあるときでなく、それは恐怖以外の何ものでもありません。あなたの投資された利害がそこにあるとき、愛はあり得ません。恐怖に終わる搾取の過程のみがあるのです。それゆえ、心がそこにないときのみ、愛は生じることができます。したがって、心の全過程、心の機能を理解しなければなりません。その時のみ、あなたは何時深い革命が起こるかを見出すことができるのです。

この心の過程は一二分や、一二の講話を聞くことでは理解されません。それはあなたの中に大きな革命が、この不満、この絶望を見出そうとする深い関心があるときのみ理解することができるのです。しかしあなたは絶望の中にいません。あなたは知的に、また身体的に栄養十分です。あなたは絶望しているその状態に、あなた自身が到達するのを妨げています。あなたは常に寄り掛かるものを持っています。常に逃避することができます。寺院に行く、本を読む、講話を聞く、逃げる。そして逃避する人は絶望の中にいることができません。あなたが絶望の中にあるなら、あなたは希望が持てる道を見出そう、絶望から逃げようと努めています。愛が何であるか見出す人は、実際に意識しない人、これらの物事をすべて完全に捨ててしまい、裸で立つ人のみです。そしてそれなしには、変容はありません。革命はありません。新生はありません。模倣と灰のほかは何もありません。そしてそれが私たちの文化が現在そうであるものです。私たちがどうやってお互いに愛するかを知るときのみ、協力があり得るのです、聡明に働くこと、何かの問題に団結することがあり得るのです。そのときのみ、神が何であるか、真実が何であるか見出すことができるのです。さて、私たちは真実を、知性を通して、模倣を通して見出そうとしているのです―それは偶像崇拝です。それが手によって作られていようが、心によって作られていようが。あなたが理解を通して、自己の全構造を完全に捨てるときのみ、永遠の、始めも終わりもない、測ることのできないものが生じます。あなたがそれに行くことはできません。それがあなたに生じるのです。

質問: 貪欲のような問題の根が、気づきによって完全に根絶され得るでしょうか? 気づきの種々のレベルがあるのでしょうか?

クリシュナムルティ: それは質問者にとって問題です。それは私たちの一人一人にとって問題でしょうか? 貪欲は少しずつ削り取ることはできません。あなたが削り取る、捨て去るものは、別の形で貪欲に成長します。貪欲が社会の中で、二人の個人の関係の間で、何をするかご存知ですね。経済的な、精神的な貪欲、何かでありたいという貪欲のすべての過程をご存知ですね。質問者はどうやって貪欲が根本的に根絶されることができるかを尋ねています。なぜなら物事の根元に行くやり方、過程があるに違いないと彼は感じるからです。「私が完璧になるまで、それをゆっくり、徐々に取り去りたい」と言うなら、それはただの、問題点を避けるやり方です。それを根本的に根絶するやり方があるでしょうか? 見出しましょう。

まず最初に、なぜ貪欲を取り除くことを望むのでしょうか? それは他の何かを得るため、何かであるためではないでしょうか? なぜなら本がそう言っているから、社会の中で結果を見ているからです。「私はそれを捨てなければならない」と言わしめる衝動は何でしょうか? それは見出すために非常に重要です。あなたが「私はこれでありたくないが、あれでありたい」と言うとき、あなたが根であるかもしれません。肯定的にせよ否定的にせよ、何かでありたいという欲求が根であるかもしれません。あなたはただ「私はこれやあれをしたい」と言っているだけです。それを削って作ることによって、それになることによって、あなたは動機を理解しないできました。しましたか? 貪欲は意志によって、否定によって、抑圧によって、制御によって、貪欲ではない何かに同一化することによって破壊され得るでしょうか? あなたはそれを破壊することができますか? あなたがそれを試みてきたなら、何かと同一化する過程そのもの、それもまた貪欲ではないですか? 確かに、それもまた貪欲です。なぜならあなたは苦痛、葛藤、そして貪欲の苦しみを、本当にそれを解決することなしに、避けようと望んでいるからです。あなたは他の何かであろうとしています。動機、欲望、はなお何かであろうとすることです。何かであろうとする欲望は貪欲の性質そのものではないですか? 何かであろうとすることは貪欲です。あなたはこの世の中で何かになることなしに生きることができますか? 何かであることなしに、肩書き、称号、地位、才能なしに生きることができますか? あなたが無である用意ができるまで、あなたはさまざまな形で貪欲であるに違いありません。

貪欲のこの機能とその破壊的な追求に本当に気づいていますか? 心は―何といっても、心は貪欲です―心は求めないで、であろう、なろうと望まないで、無である事ができるでしょうか? 明らかにできます。あなたが満ち足りるのはその時のみです。その時のみ、あなたは求めません。あなたは満たされることを要求しません。しかしあなたは無でありたいと望みません。あなたの苦闘はすべて 何かであることです。そうでないですか? 番頭であるなら、より高い何かであること望みます。よりよい給料、より優れた地位、より高い名声、より多くの野心を持つこと、大師の傍にいること、大師から遠く離れていること、未来における報酬の約束。あなたはそのすべてを投げ捨てません。単純でありなさい。無でありなさい。本当に裸でありなさい。確かに、その状態に至るまで種々の形の貪欲があるに違いありません。そして無であることなしに、その状態に至ることはできません。あなたの無の経験は自己の投影であり、したがって自己の強化です。それゆえ、あなたは無の状態を経験できません。それはあなたが愛の状態を経験できないのと同様です。あなたが何かを経験するとき、愛はありません。なぜなら、昨日説明したように、あなたが経験と呼ぶものは、単にあなた自身の欲望の投影であり、それゆえ自己の強化に過ぎないからです。それであなたがこういったすべてを見るなら、こいったすべてに気づいているなら―表面的なレベル、それはほとんど持たないこと、ただ一二着の服を所有するだけということですが、それではなく―、これやあれやからあなた自身を変化させようという欲望の全意義に気づいているなら、あなたが貪欲の全過程を十分知覚しているとき、そのとき貪欲は消えて行くでしょう。

明らかに、多くの気づきの層があります。あらゆるのものの驚異の生命の息吹が起こっています。木々、月の光、貧しい 食べ物を与えられていない子供、半ば餓死しかかった子供、膨れたお腹―それらはすべて表層の気づき、観察です。しかしもう少し深く進むことができるなら、意識的レベルだけでなくてより深いレベルで いかに私たちが条件づけられているかの気づき、夢 あるいは二つの思考の間の少しの隙間があるときの運動、ふと浮かんだ自然に起こった観察、を通して生じる気づき、があります。あなたが更に深く進むことができるとき、すなわち、心が完全に思索、認識なしにいるとき、心が経験しないで静かであるとき、心が何が静けさであるかを見ていないとき、英知があります。

心は常に経験を言語化していて、それゆえ記憶に、それゆえ自己に強さを与えています。確かに、私たちが自己のやり方のすべてを意識すればするほど、ますます私たちの感情のすべてに気づきます。私たちはあらゆる悲しみ、あらゆる思考の運動を理解します。私たちはそれをただ観察するだけでなく、それを脇に払いのけることなしに それと共に生きます。それは成熟を与えます。年齢ではなく、知識ではなく、信念でなく。それは統合された英知をもたらします。それは分離的ではありません。

質問: 私たちは皆、あなたがそうであるように、根本的に真理と愛に関心のある神智学徒です。あなたは私たちの協会に残って、私たちと離れ私たちを糾弾するより、むしろ私たちを助けることはできなかったでしょうか?

クリシュナムルティ: まず最初に、あなたがたの多くは面白がっています。他の人たちは少々動揺しています。危惧があります。こういったすべてを感じないでしょうか? 見出しましょう。

基本的に、私たちは、あなたと私は、同じものを求めているのでしょうか? 何かの組織の中で真理を求めることができるでしょうか? あなたはあなた自身にレッテルを張り、そして真理を求めることができるでしょうか? ヒンドゥー教徒であって、「私は真理を求めている」と言うことができるでしょうか? そのとき、あなたが求めているものは、真理ではなくて信仰の成就です。何かの組織、精神的団体に属し、そして真理を求めることができるでしょうか? 真理は集団的に見出されるでしょうか? あなたが信じるとき、愛を知るでしょうか? あなたが何かを非常に強く信じ、私は正反対の何かを信じるとき、私たちの間に愛がないということがおわかりでないでしょうか? 特定の階層制原理と権威をあなたが信じ、私が信じないとき、私たちの間に親交があると思いますか? あなたの思考の全構造が未来のこと、徳を通じて何かに成ることであるとき、あなたが未来においてひとかどの者になろうとしているとき、あなたの思考の全過程が権威と階層制原理に基づいているとき、私たちの間に愛があると思いますか? あなたは便宜のために私を利用するかもしれません。そして私はあなたを便宜のために利用するかもしれません。しかしそれは愛ではありません。明確でありましょう。これらの事柄で動揺しないでください。あなたがそれで興奮するなら、あなたは理解しないでしょう。

本当に真理と愛を求めているかどうか見出すためには、あなたは精査しなければならないのではないでしょうか? あなたが精査するなら、内部に見出し、それゆえ外部に向かって行動するなら、何が起こるでしょうか? あなたは外側にいるのではないでしょうか? あなたがあなた自身の信仰を疑問に思うなら、あなた自身を外側に見出したくはないですか? 協会と組織―財産、信仰、知識の利権を持っている、いわゆる精神的組織―がある限り、明らかに、そこの人は真理を求めていません。彼らはしていると言うかもしれません。それゆえ、あなたは私たちが基本的に同じものを求めているかどうか見出さなければなりません。真理を大師を通して、導師を通して求めることができるでしょうか? 皆さん、それを考え抜いて下さい。それはあなたの問題です。真理を時間の過程を通して、何かになることの中で見出すことができるでしょうか? 真理を大師を通して、弟子を通して、導師を通して見出すことができるでしょうか? 彼らはあなたに基本的に何を告げることができるでしょうか? あなたに「私」を解消するように告げることができるだけです。あなたはそれをしていますか? していないなら、明らかにあなたは真理を求めていません。私があなたは真理を求めていないと言っているということではありません。そうではなくて事実は、あなたが「私はひとかどの人になるつもりだ」と言っているなら、精神的権威の地位を占めているなら、真理を求めている事はあり得ない、ということです。私はこれらの事柄について非常に明確です。そして私は受け入れるようにあなたを説得しようとか糾弾しようとかしていません。それは愚かであるでしょう。私は質問者が言うように、あなた方を糾弾することはできません。

私の言うことを二十年の間聞いてきてさえ、あなたはあなたの信仰とともに進みます。なぜなら、あなたは世話を受けている、あなたは未来に向けての特別な伝達者を持っている、美しい何かに 今 あるいは いつかはなるだろう、と信じることは非常に慰めとなるからです。あなたはあなたの利権がそこに、財産、仕事、信仰、知識の中にあるので進むでしょう。それらを疑問に思いません。それは世界中同じです。それはこれやあれやの特定のグループの人たちでなくて、すべてのグループ―カソリック、プロテスタント、共産主義者、資本主義者―は同じ立場にいます。彼らはみな利権を持っています。本当に革命的であり、内部にこれらの物事すべての真実を見ている人は、真理を見出すでしょう。彼は愛が何であるか知るでしょう。未来のある日でなく、それは何の価値もありません。人が空腹であるとき、彼は明日でなく、今食事を与えられる事を望みます。しかし、あなたは時間の、可能性の便利な理論を持っていて、それにあなたは捕らわれています。したがって、どこに結びつきがあるでしょうか、どこに、あなたと私の間の、あるいはあなた自身とあなたが見出そうと企てているものとの間の関係があるでしょうか? それにもかかわらず、あなたは皆 愛、人類同胞愛について語ります。そしてあなたがするあらゆる事は、それに正反対です。あなたがた、あなたが組織を持つや否や、地位、権威を求める策謀があるに違いないことは明らかです。あなたはそのゲームのすべてを知っています。

それゆえ、私たちが必要とすることは、私があなたを糾弾するかどうかや、あなたが私を糾弾する、あるいは放り出すかどうかではありません。それは問題ではありません。明らかに、あなたが信じていることや していることは間違っていると言う人を、あなたは拒否するに違いありません。あなたはそうしてきました。あるいは内的にそうする筈です。なぜなら私はあなたが望んでいるものに反対だと言うからです。あなたが本当に求めたいなら、あなたが真理と愛を見出したいなら、目的へのひたむきさが、すべての利権の完全な放棄がなければなりません。それは、あなたが、大師からの伝達の展示者や伝達者としての権威の地位を求めず、獲得することをせず、内的に空っぽで、貧しくなければならないということを意味します。あなたは完全に裸でなければなりません。あなたは、当然、それを望まないから、肩書き、信念と種々の形の安全を獲得します。あなたがた、拒否しないで下さい。あなたが言うように、あなたが本当に根本的に真理を求めているかどうか見出して下さい。私は本当にあなたを疑問に思います。私はあなたが「私は真理を求めている」と言うとき、あなたを本当に疑います。あなたは真理を求めることができません。なぜならあなたの探索はあなた自身の欲望の投影であるからです。あなたのそれの投影の経験は、あなたが望む経験です。しかしあなたが求めないとき、心が何の望みもなしに、何の動機もなしに、何の強制もなしに、静かで平静なとき、そのときあなたはあのエクスタシーが生じるのを見出すでしょう。そのエクスタシーが生じるためには、あなたは完全に裸で、空っぽで、独りでなければなりません。多くの人たちはこれらの協会に、それらが社交的であるので、クラブであるので参加します。そしてクラブに参加することは社交的に非常に便利です。あなたが快適さ、満足、社会的安全を求めているとき、真理を見出すだろうとあなたは思いますか? いいえ、あなた方。あなたは何の支持もなく、友もなく、導師もなく、希望もなく、完全にそして内的に裸で、かつ空っぽで、独り立たなければなりません。そのときのみ、空のカップが充たされることができるように、内部の空虚が永遠のもので充たされることができるのです。

1952年1月20日

(訳者: N.Goto)2001.02.掲載

「自我の終焉」の源流を尋ねて

1952年マドラス講話 [1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12]