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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 マドラスの公開講話(第7回)

J. Krishnamurti Madras 7th Public Talk 26th January 1952

たぶん、今晩、私たちは何が苦しみであるか、何が悲しみであるかという問題と含蓄をたっぷり討論できるでしょう。その主題に入る前に、私たちは「理解する」という言葉が何を意味するか、よく考えなければならないと思います。なぜなら、悲しみの深遠な意義、深さと意味を理解できるなら、たぶん、そのとき、私たちが特定の名称をつける、つまり、「悲しみ」、それは感覚ですが、という名を与えるそれらの反応から、まったく心を解放することができるでしょうから。それゆえ、「理解」とはどういうことか見出すことが重要です。

理解は理由付けや演繹でしょうか? 理解は単に知性や言葉の過程の結果に過ぎないでしょうか? それともそれは演繹とは、把握とは、まったく異なる何かでしょうか? 注意深い分析によって、私たちは深い心理的な問題を解決するでしょうか? 理解は把握、認識、問題の全体をそっくりまるごとわかることではないでしょうか? 心は論じ、いくつかの物事を組み立て、演繹し、分析し、比較し、関係する知識を持つことができるだけです。しかし、時間が含まれている思考の過程であり、記憶であり、信念・知識の蓄積である心が、そのような心が問題の十分な意義を理解できるでしょうか? 言い換えれば、本質的に心の過程、思考の過程である時間の過程が、問題を解決できるでしょうか? 私たちの大部分にとって、見出すことが特別に重要です。私たちの大部分にとって、私たちがそんなにも精を出して育成してきた道具は心、知性です。それを持って私たちは問題に接近し、それによって問題を解決しようと望みます。

私たちは自分自身に尋ねています。「時間の過程であり、昨日 今日 明日の結果である心が理解の道具であり得るだろうか?」 心は問題全体をまるごとわかることができるでしょうか? 時間を通して理解が生じるでしょうか? それともそれは時間にかかわらないのでしょうか? 私たちが理解の過程を、時間の過程である推論、演繹、分析から引き離すなら、そのとき私たちはたぶん一目で問題を十分に把握できます。そのことは非常に重要です。そうでないですか? 私たちが悲しみの意義を十分に理解するつもりなら、時間の過程をまったく排除しなければなりません。時間は悲しみが高まっていく過程を解決しないでしょうし、悲しみの解決を手伝わないでしょう。それはあなたがそれを忘れるのを、それを避けるのを、それを後回しにするのを手伝うことができるだけです。しかし なお 悲しみの感覚はそこにあるのです。

それゆえ、どうか、集団的にそれを考えようとしている人のグループとしてではなく、二人の個人として、今晩は出席して下さい。二人の個人として出席し、理解するための、解決するための道具として時間の過程を導入することなしに、この悲しみの問題を見てください。言い換えれば、私たちはこの問題の全体を見ることができるでしょうか? 私たちが何かを完全に、全てを含めて見るときのみそうであり、その解消の可能性があるのです。他のやり方ではなく。この解消の可能性は私たちが心、理性、思考と呼ぶものの過程を通じてあるのではありません。それが私が「理解」というその言葉を理解しなければならないと言った理由です。私たちはその言葉の意味をしっかりつかまなければなりません。そうすることができるなら、たぶん私たちは悲しみという問題の根本に至るだろうと思います。

私が何かを理解したいなら、まず第一にそれを愛さなければなりません。そうでないでしょか? それと親交がなければなりません。障壁を持ってはなりません。抵抗があってはなりません。不安、恐れがあってはなりません。それはそれ自身を非難、正当化、同一化の過程に変えます。あなたはこういったことすべてをわかっていると思います。さしあたり言葉を忘れて下さい。私が使っている言葉は、あなたにとって何かの価値を持つことを要しません。私が言っていること、その精神と接触して下さい、親交して下さい。それは単なる言語化ではありません。何かを理解するには、愛がなければなりません。私があなたを理解したいなら、私はあなたを愛するに違いありません。偏見を持たないに違いありません。私たちはこれらの事すべてを知っています。あなたは「私は偏見を持っていません」と言います。しかし私たちすべては偏見、敵対の束です。そして私たちは言葉の遮蔽幕を張ります。この遮蔽幕を取り去り、悲しみの意義が何であるかを見ましょう。その様なやり方を通してのみ、このとてつもなく複雑な悲しみの問題を私たちは解決するだろうと私は感じます。

それゆえ、理解は親交を要します。理解は未知のもの、名づけ得ないものを知覚することができる心を要します。なぜなら何かを理解したいと願う心はそれ自身きわめて静かでなければならないからです。それは認識の状態ではありません。理解があるべきなら、親交がなければなりません。それは愛を意味します。一つの特別なレベルのみでなくあらゆるレベルにおいて。誰かを愛するとき、それは始めも終わりもない過程です。それに名づけることはできません。恐怖、報酬、非難の障壁はありません。他の誰かとの同一化もありません―それは心の過程です。私たちが本当にその語の意義を見ることができるなら、そのとき苦しみの問題を調べることができます。親交のその感覚、私たちが悲しみと呼ぶその問題を本当に愛しているその感覚があるなら、そのとき私たちはそれを十分に理解することができるでしょう。さもなければ私たちは単にそれから逃げ出し、さまざまな逃避を見出すに過ぎないでしょう。それゆえ、できれば、その場所に私たち自身を置きましょう。その時のみ、私たちは悲しみと呼ばれるものを理解できます。精神的な障壁、伝統を通しての偏見、非難、正当化はない筈です。そのとき、私たち、個人としてのあなたと私は、私たちの大抵を消耗させているこのもの、悲しみに接近できます。

運動の中の、行為の中のエネルギーは欲望です。そうでないでしょうか? 妨害されるときのその欲望は苦痛です。そして成就の中のその欲望は快楽です。私たちの大抵にとって、行為は欲望の成就の過程です。「私は欲する」と「私は欲しない」が私たちの態度を支配します。はけ口を与えられ、欲望を通して「ミー」として同一化されたそのエネルギーは、いつも成就を求めています。その運動の中にある、その行為の中にある欲望は、成就あるいは否定の過程です。成就のさまざまな形と否定のさまざまな形が同じようにあります。それぞれがさまざまな種類の形の悲しみをからみつけ、もたらします。悲しみがあるとき、さまざまな形のそれの解決、さまざまな形のそれからの逃避があります。

私たちはさまざまなレベルで悲しみを知っているのではないでしょうか? 身体的な悲しみ、身体的な苦痛、死の悲しみ、成就がないとき生じる悲しみ、空虚の状態に起因する悲しみ、野心が成就しないとき生じる悲しみ、基準、あるいは良い模範に達しないことの中の悲しみ、理想の悲しみと結局同一化の悲しみ。私たちはさまざまな心理的、生理的レベルで、種々の形の悲しみを知っています。そしてまた、さまざまな形の逃避、飲酒、儀式、言葉の反復、伝統への回帰、未来に期待を寄せること、よりよい時代、よりよい希望、よりよい環境に期待すること、を知っています。私たちは逃避のこれらの形―宗教的、心理的、身体的、物質的、をすべてを知っています。私たちが逃避すればするほど、問題はますます大きくなり、ますます複雑になります。私たちが問題を見るとき、私たちの全構造は一連の逃避です。あなたは悲しみを説明して取り除きます。あなたには、そのとき、説明が悲しみの深さ、意味、活力よりもっと意義を持っているのです。何といっても、説明は、微妙であるけれども、正当化されているけれども、単に言葉にすぎません。そして私たちは言葉で満足します。これはもう一つの逃避です。

私たちは悲しみのような問題に接近することの中に、全精神的過程を持っています。一連の逃避、正当化、非難という基盤を持っています。それゆえ、悲しみの問題との、直接で活力に満ちた親交がありません。そのとき、あなたは悲しみを見ている違った存在です。あなたは悲しみの問題を解決し、調査し、分析しようとしています。あなたは違っているのです。そして他の何かがこの分析、非難と正当化の過程の中で苦しんでいるのです。

悲しみの中にいる、あるいは悲しみに暮れる存在としてのあなたの問題はありません。悲しみは思考者とは違いません。思考者、感じる者、願望する存在、がそれ自身悲しみです。彼が悲しみとは違っていて、悲しみを解決しようとしているというわけじゃあるまいし。行為の中のエネルギーである欲望の過程そのものが、挫折の、苦しみの、成就の、苦痛の過程です。あなたは悲しみとは違っていません。それが全体像です。そうでないでしょうか? 私たちはそれを言葉の上でもっと拡大し、もっと詳細に描くことができます。しかしそれが問題なのです。そうでないでしょうか? あなたは悲しみと違わず、したがって悲しみを解決できません。あなたは悲しみを見ている別個の存在としてあなた自身を分析することはできません。それを解決してしまうために分析者の所に行くこともできません。社会活動にエネルギーを費やすことによって、直接の悲しみを逃避する、置き去りにすることもできません。

私たちの努力の大抵、私たちの意図と追求の大抵は、「私は私が感じるものとは違っている。どうやってそれを解決したらいいだろうか」という発言のためのものです。これは簡単に払いのけ、巧妙に答えるべきでない重要な問題です。あなたは、あなたの全存在が背くにもかかわらず、それを熟視しなければなりません。なぜなら、あなたはそれを操作できると思うように育てられてきたからです。あなたはあなたの思考と、あなたの欲望や野心と、あなたが精神的、社会的に登っている階段と違った存在ではまったくありません。この問題を理解するためには全体との親交がなければなりません。そしてあなたがそれを部分的に、あなたとして、そして対象として見ているなら、全体と親交することはできません。それは部分的把握、部分的理解です―それはまったく理解ではありません―あなたは悲しみと呼ぶものを見ている違った存在であるとあなたが思っているなら。

それゆえ、あなたが悲しみの作り手です。あなたが苦しんでいる存在です。そしてあなたは悲しみから、苦痛から切り離されていません。あなたと苦しみの間に分離がある限り、部分的な理解、部分的な知識、部分的な事物の観点があるだけです。それは実際には、あなたはすべての既存の説明を捨てなければならないということを意味します。それはあなたが、悲しみと呼ぶものに、二つの異なる過程としてではなく、ひとつの過程として直面するということを意味します。あなたが本当に愛しているとき障壁はありません。そのとき親交があります。それは他の人との同一化ではありません。同一化は愛の中にありません。それはただ単に存在の状態です。

あなたはこの悲しみの問題を見ることができますか、同情や希望、失敗の反応の悲しみだけでなく、また、そんなにも包み込む、そんなにも深い、そんなにも広い、そのためどんな言葉の描写もそれを取り扱うことができない悲しみも? あなたと私はそれと十分に親交しているることができるでしょうか? 私たちは理解の手段、進歩の手段として、悲しみを我慢してはなりません。

現実にこの悲しみは何でしょうか? あなたが苦しむとき、あなたの息子が死ぬとき、一つの種類の悲しみがあります。あなたが貧しい、食物を与えられていない子供たちを見るとき、それはもう一つの種類の悲しみです。最高の地位に達しようと苦闘していて、成功しないとき、それは三番目の種類の悲しみです。あなたが理想を達成していないとき、悲しみます。確かに悲しみはいつも増大し、いつも増殖し、自己閉鎖する欲望の過程です。私は欲望として運動しているエネルギーの全過程を理解し、エネルギーでなく、欲望を終わりにすることができるでしょうか? 私たちが知っていることは、行動の中のエネルギーは欲望であるということです―「ミー」である欲望、前進している「ミー」、達成している「ミー」、延期している「ミー」。

私は悲しみと欲望のこの全問題を理解し、それによって「ミー」の運動としての欲望を終わりにし、戻ることなく、純粋な英知であるそのエネルギーの状態の中にあることができるでしょうか? それは「はい」と「いいえ」で答えられるべき質問ではありません。それは小学生の事柄ではありません。これは多くの瞑想を必要とします。あなたの思考を特定のレベルに固定して保持する意味での瞑想ではなく―それはばかげたことであるでしょう。私たちはここで瞑想を討論していません。私が言ったように、これは多くの洞察を必要とし、何かの種類の欲望の歪みがあるなら 洞察を持つことはできません。

エネルギーは純粋な英知です。そして一度私たちがそのことを把握するなら、あるいはそれを生じさせるなら、その時、あなたは欲望はほとんど意義を持たないことがわかるでしょう。それが私たちの問題の全部ではないでしょうか?、どうやって欲望を形作るか、どうやってそれを社会学的に、あるいは精神的に型にはめて作るか。 どうやって「ミー」、あるいは欲望が集団的な用途のために形作られたら、個人的な用途のために形作られたらいいでしょうか? どうすればこういったことのすべては為されるでしょうか?

欲望が十分に把握され、十分に理解されない限り、悲しみがあるに違いありません。なぜならそれを解決する純粋な理性、それに必要な純粋な英知を持つことができないからです。理性は悲しみを解消できません。それは欲望を解消できません。したがって問題全体を、演繹でなく、推理でなく、全体の事を見ることによって理解する必要があります。それは問題を本当に愛すること、本当に悲しみを愛することを意味します。わかりますか? 悲しみを愛する人たちがいます。しかし彼らのハートは空虚です。人を愛する代わりに、彼らは悲しみを愛します。その悲しみは理想なのです。徳を愛する人たちを見たことがありませんか? 彼らは悲しみを愛します。愛することの中に善を感じるからです。彼らはある熱烈な反応、ある幸福を感じます。私はその種の愛を意味しているのではまったくありません。愛するとき、同一化はなく親交があります。それとあなたの間に開かれた受容性があります。それはこの問題全体を理解するために絶対必要です。

私が言ったように、理解は時間の過程ではありません。それは時間に属するものではありません。「私は明日理解しよう」と言わないで下さい。「私は行こう」、「私は来よう」、「私はますます気づこう」。理解は時間や時間の過程とは何の関係もありません。時間や時間の過程は思考です。それゆえ心は悲しみの問題を解決できません。そこで何がそれを解決できるでしょうか? あなたが問題をあなたの心で理解しようとするなら、あなたは正当化します、あなたは非難します、あなたはそれと同一化します。問題を十分に理解できる心は感情が動揺の状態にない心です。問題を理解するであろう心は結果を求めていない心です。それは答えを見出そうと望みません。「経験するために、より多く持つために、私は悲しみを免れなければならない」と言いません。「より多く」はないのです。「より多く」は悲しみです。それは少ないということです。それゆえ、あなたがそれを完全に見ることが、見、観察し、形作り、破壊している「私」や「ミー」としてではなく、観察者と観察されるものがそれにとっては同じである心で見ることができるなら、そのときそこに感情でない愛が、時間に属するものや思考の過程に属するものでない英知が生じるのを見い出すでしょう。そしてこの巨大で複雑な悲しみの問題を解決できるのはそれのみです。

質問: 私は偉大な物事を約束した政治運動のために、人生の最良の十年を監獄の中で過ごしました。今幻滅があり、そして私は完全に燃え尽きたと感じます。私はどうしたらいいのでしょうか?

クリシュナムルティ: あなたは監獄で十年過ごしたのではなくて一、二年、虚偽の希望を追求し、虚偽の活動を追求し、あなたの全存在、あなたのすべての献身や思考を捧げて何かをしたのかもしれません。そして次にそれが空虚なのを見出します。私たちはそれをしたのではないでしょうか? あなたは偉大な物事をもたらすであろうと思い、人々を助けるであろう、人々を解放するであろうと思い、その終わりには思いやり、愛があるであろうと思って特定の道と活動にしたがいます。そしてあなたはそれに人生を捧げます。そして次にある日、あなたはそれがまったく空虚であることを見出します。すなわち、そのために生きてきた事がもはや何の意味も持っていません。あなたは感情的に燃え尽きたのです。その様な事例を知りませんか? あなたはその一つの事例ではないですか? その立場にいるのではないですか? その様な経験を持ってきたのではないですか? あなたは大師、先導者の道―革命を通して理想の状態を約束する政治的、宗教的なそれ―にしたがい、熱意とエネルギーと人生をそれに捧げつくし、そして終わりに幻滅し、感情的に燃え尽きたということを知ったのではないですか? あなたはそれのために働き、そして次にそれを去ります。しかし別の愚かで無知なやつがいて、やってきてあなたの場所を補充します。彼は続けます、無益な火に油を注ぎます。そして彼が燃え尽きれば、彼は歩み去り、それを出ます。しかし別のやつが取り上げます。そして愚かさの運動は宗教、政治、神、平和の名の下に続きます―それを呼びたいように呼んで下さい。別の問題が起こります。どうやって愚かな者が意味のない無益な争いに陥ることを防ぐか。

協会、組織は、特に宗教的なのは、このように空っぽなものです。それゆえ、燃え尽きたとき、あなたはどうしたらいいでしょうか? あなたの弾力性はなくなります。歳を取っていきます。そのために奮闘してきたすべての事は意味がありません。そしてあなたは冷笑的に、皮肉になるか、隔離され、孤立し、枯れ木の丸太のように生き残るかどちらかです。それは明白な事実ではないでしょうか? そのすべてを私たちは知っています。沢山の例があります。たぶん、あなた自身その一人でしょう。その状態にあるとき人はどうすればいいでしょうか? 死んだものが生き返ることができるでしょうか? うつろの、虚偽のものが、その生を虚偽のものに捧げることが出来るでしょうか? それが突然生き返ってそれがした事を見、実在のものを追求し、新しくなることができるでしょうか? それが問題ではないでしょうか? 人生の大部分を無意味な―それが深さ、永続する意義を持たないという意味で無意味な―ものに捧げた私は、その状態を失い、燃え尽きた私は、私は生を再び見出すことができるでしょうか、私は熱意を再び見出すことができるでしょうか? 私はできると思います。

私が燃え尽きるとき、私が浪費したと実感するとき、辛くなるかわりにもし私がしたことの全部の意義を見ることができるなら、私は理想を追求したのです、そしていかに理想は常に破壊することか―なぜなら理想は意味を持たず、理想は自己投影に過ぎず、理想は延期に過ぎず、理想は私がいまあるものを理解するのを妨げ、理想は私が全体を把握するのを妨げるからです―、もし私が別の方向に引っ張られないで、静かに座ることができるなら、もし私がしたことの全過程を認識し、何が私を虚偽の希望に導いたか、何が私の中のあらゆる種類の野心を目覚めさせたかを見るなら、もし私が他の方向、正当化や非難のどちらかへの何の運動もなしに そういったすべてを見ることができるなら、もし私がそれと留まり、それと生きることができるなら、そのとき生き返る可能性があります。ないでしょうか? なぜなら、心は結果、理想郷、驚くべきもの、等を生み出すであろうものを、心はそう期待したのですが、追求したからです。心がそれがしたことを実感するなら、生まれ変わりがあります。ないでしょうか? 私が悲しむべきこと、虚偽のことをしたのを知るなら、それに気づき、それを理解するなら、そのとき確かに、その理解そのものが光です。新しいものなのです。

しかし私たちの大抵は、忍耐や知恵を持たず、為したことを辛さなしに静かに受け入れることをしないのです。私が知っていることのすべては私が生を浪費し、新しい生を望んでいるということです。私は新しいことを掴みたくてたまらないのです。私が掴もうと切望するとき、そのとき私は再び迷います。そのとき、私を感動させる導師、政治的指導者、理想郷の約束があります。そこで、私は以前と同じ過程にまた戻ります。しかしこの過程を認識することは、辛抱強いこと、気づいていること、私が為したことを知っていること、もはや何も企てないことです。それは大きな知恵を必要とします。それは大きな愛情を、私がそれらのことのどれにも参加しようとしていないのを知ることを、必要とします。それがどこに私を導くかが重要ではなく、私がそれをしようとしていないことが重要なのです。そうするとき、その状態にあるとき、新生、新しい始まりがあることを私はあなたに保証します。しかし私は私の心が新しい幻想、新しい希望を作り出さないことを見なければなりません。

質問: 「いまあるものを受け入れる」とはどういうことでしょうか? それは諦めとどういうふうに違うのでしょうか?

クリシュナムルティ: 受容とは何でしょうか? 受容の過程は何でしょうか? 私は悲しみを受け入れます。それはどういうことでしょうか? 私は友達、兄弟や息子を失うことを通して悩みます。すると苦悩があります。その苦悩を説明を通して受け入れることは諦めではないでしょうか? 私はそれは不可避であると言い、苦悩は消えます。私は合理化します。あるいはカルマ、生まれ変わりに思いを向け、そして受け入れます。受容は認識の過程ではないでしょうか? 言葉を定義しないで意味を見てください。すなわち、安らかであるために私は受け入れます。私は出来事に、環境に、事件に、甘んじて従います。私はそれらが私を安らかにするので、葛藤の状態から出してくれるので、受け入れます。諦めの中に隠された動機があります。それを私は意識しないかもしれません。深い奥の方で、無意識に、私は平和を持ちたい、満足を持ちたい、撹乱されたくないのです。しかし喪失は私たちが苦しみと呼ぶ撹乱を引き起こします。そして苦しみから逃避するために、私は説明し、正当化し、それから「不可避なものに、カルマに、甘んじて従う」と言います。それはもっとも愚かな生き方ではないでしょうか? だがそれは理解をもたらさないのではないでしょうか?

私がいまあるもの―すなわち、起こったこと、誰かの死、出来事―を、何の心の過程もなしに見ることができるなら、私がそれを観察し、それに気づき、それに従い、それと親交の中にあり、それを愛することができるなら、諦めは、受容はありません。私は事実を受け入れなければならないでしょう。事実は事実です。しかし、あなたがそれを翻訳すること、解釈すること、それを正当化すること、それをあなたにとって都合のよい場所に据えることを防げるなら、そのことに気づき、それゆえ何の努力もなしに、自然にやめることができるなら、そのとき、まったく違っている、意義深いものをあなたは見るでしょう。そのときそれはようやく開き始めます、表面的に始まります。しかし開き始めるにつれて、それはますます進むのです。それは本を読むようなものです。しかしあなたが本が何についてのものであるか既に結論を下しているなら、結末を知っているなら、あなたは読んでいないのです。

「いまあるもの」の理解は正当化や非難、「いまあるもの」との同一化を通して生じることはできません。私たちは愛のやり方を失ってしまったのです。それがこの表面的な過程すべてが存在する理由です。愛が何であるか尋ねないで下さい。あなたはいつも愛について語ります。愛とはどういうことでしょうか? 否定によってのみ、愛は何であるのか見出すことができます。私たちが送っている生は否定なので、愛はあり得ません。私たちの生はたいてい破壊的なので、私たちの生き方、私たちの親交の仕方は自己閉鎖なのです。すべて取り巻いているものは、否定があるのがやまったときのみ理解されることがありうるのです。「いまあるもの」の理解は、取り巻いているものとの完全な親交があるとき生じることができるのです。

質問: 真理が生じるために、あなたは観念のない行為を唱導しています。観念なしに、つまり視野に目的なしに、いつも行動することが可能でしょうか。

クリシュナムルティ: 私は何も唱導していません。私は政治的、宗教的な宣伝家ではありません。あなたを何の新しい経験にも招いていません。私たちがしていることのすべては、行為が何であるか見出そうとしているのです。あなたは見出すために私に従っているのではありません。そうするなら、そのとき決して見出さないでしょう。あなたは私に単に言葉の上で従っているに過ぎないのです。しかし、見出したいなら、あなたが個人として、観念と言葉が何であるか見出したいなら、それを調べなければなりません。そして私の定義や、まったく虚偽であるかもしれない私の経験を受け入れないで下さい。あなたは見出さなければならないので、追従、追求、唱導する宣伝家、指導者や模範という観念全体を捨てなければなりません。

したがって観念のない行為とは何なのか、いっしょに見出しましょう。どうか思考をそれに注いでください。「私はあなたが話していることがわからない」と言わないで下さい。いっしょに見出しましょう。それは困難かもしれません。だがそれを調べましょう。

現在、私たちの行為は何でしょうか? 行為とはどういうことでしょうか? 何かをすること。何かであること。すること。私たちの行為は観念に基づいているのではないでしょうか? それが私たちの知っているすべてです。あなたは観念、理想、約束、あなたがそうであるものとそうでないものについての種々の公式を持っています。それが私たちの行為の基礎です。将来の報酬、あるいは罰の恐怖、あるいは自己閉鎖する観念の追求。それらに私たちは行為の基礎をおくことができます。私たちはそれをわかっています。いないでしょうか? そのような活動は孤立しています。行為しているあなた自身を見守ってください。私の言葉を一晩中寝て考えないで下さい。あなたは徳の観念を持っており、その観念にしたがって生きます―すなわち、あなたは関係の中で行動します。すなわち、あなたにとって、関係は理想を目指す、徳を目指す、自己達成を目指す等々の、集団的、あるいは個人的な行為です。

私の行為が観念である理想に基づいているとき、その観念が行為を形作り、行為を導きます―例えば、私は勇敢でなければならない、模範に従わなければならない、慈悲深くなければならない、社交的に意識していなければならない等々。そこで私が言い、あなたが言い、私たちみんなが言います、「徳の模範がある。私は従わなければならない」。それは再び「私はそれに従って生きなければならない」ということです。それゆえ行為はその観念に基づいています。それゆえ行為と観念の間に溝があります。時間の過程があります。時間の分離があります。そうではないでしょうか? すなわち、「私は慈悲深くない、愛していない、私のハートには許すということがない。しかし私は慈悲深くなければならない」。私がそうであるものと私がそうあるべきものとの間に時間があります。私たちはいつも、私がそうであるものと私がそうあるべきものとの間に橋を渡そうとしています。それが私たちの活動ではないでしょうか?

さて、もしも観念が存在しないなら何が起こるでしょうか? 一挙にあなたは隙間を除いてしまったのではないでしょうか? あなたはありのままのあなたであるでしょう。私はあなた方みんなをギョッとさせたのでしょうか? あなたは「私は醜い、私は美しくならなければならない。私はどうすればいいだろうか?」と言います。それは観念に基づいた行為です。あなたは「私は慈悲深くない、私は慈悲深くならなければならない」と言います。そこであなたは行為とは離れて観念を導入します。したがって決して行為はなく、常にあなたがそうなるであろう理想があります。決してあなたがそうであるものでなく。愚かな人は常に利口になろうとしていると言います。彼はなるために励み、苦闘しながら座っています。彼は決して止まりません。決して「私は愚かだ」と言いません。それゆえ観念に基づいている彼の行為は、まったく行為ではありません。

行為はすること、動くことを意味します。しかしあなたが観念を持つとき、それは単に、行為との関係の中で進んでいる観念形成、進んでいる思考過程に過ぎないのです。そしてもし観念がないなら、何が起こるでしょうか? どうかそれに最後まで付き合ってください。あなたは「そうである」ものです。あなたは思いやりがなく、寛大でなく、冷酷で、愚かで、無思慮です。それと留まることができるでしょうか? 留まるならそのとき何が起こるか見てください。どうかこれに付き合ってください。短気にならないで下さい、それを押しのけないで下さい―今、明日でなく、あなたがそれに直面している 現実に今―そのとき、何が起こりますか? 私が無慈悲で、おろかであると認識しているとき、何が起こりますか、私がそうであるのに気づいているとき? 慈悲がありませんか、英知がありませんか、私が無慈悲さを、言葉の上でなく、人為的にでなく、完全に認識しているとき、私が無慈悲で愛していないのを実感しているときに? 「今あるもの」を見ていることそのものの中に、愛がありませんか? 私は即座に慈悲深くなりませんか? どうかあなたの受容がないように。それを見てください。それを調べてください。私が清潔にする必要を見るならそれは非常に簡単です。私は行って洗います。しかしそれが清潔であるべきであるという理想であるなら、そのとき何が起こりますか? 答えを知っていませんか? 清潔はそのとき非常に表面的です。

それゆえ観念に基づいている行為は非常に表面的です。それはまったく行為ではありません。単に観念形成に過ぎません。違った種類の行為です。しかし私たちは単に思考過程が進んでいるに過ぎないその種の行為を討論しているのではありません。

しかし、人間を変化させる行為、再生、救済、変化をもたらす行為―それを呼びたいように呼んで下さい―、そのような行為は観念に基づいていません。それは帰結、報酬や罰、にかかわらない行為です。そのときそのような行為は始めも終わりもないことがわかるでしょう。なぜなら心はそれに入り込まないからです。そして心は時間の過程、計算する過程、分割する過程、孤立する過程なのです。

この質問はそんなに容易に解決されません。あなた方の大抵は質問をし、「はい、あるいはいいえ」という答えを期待します。「どういう意味ですか?」というような質問を尋ね、それから座って私に説明させることは容易です。しかしあなた自身で答えを見出すこと、問題を非常に深く、非常に明確に、何の堕落もなしに調べ、それで問題があるのがやむのは遥かに骨が折れます。そしてそれは心が問題の前で本当に静かであるときのみ起こります。あなたが問題を愛するなら、問題は夕日のように美しいのです。問題に敵対するなら、決して理解できないでしょう。そして私たちの大抵は、結果を、進むなら起こるかもしれないことを恐れているので敵対的です。それで私たちは問題の意義と範囲を見失うのです。

1952年1月26日

(訳者: N.Goto)2001.3.掲載 2015.2.修正

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