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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 マドラスの公開講話(第8回)

J. Krishnamurti Madras 8th Public Talk 27th January 1952

あらゆるものがいかに速やかに堕落するかということが、私たちの多くの心に浮かんだに違いありません。よい約束とともに何百万の人を虐殺する偉大な革命がすぐに堕落します。それらは悪い人たちの手に落ちます。政治的、宗教的な大きな運動がすぐに腐朽します。この再生と衰退の絶え間ない過程が起こるのはなぜかということが、私たちの多くの心に浮かんだに違いありません。よい意図、正しい動機を持つ少数の人々によって始められたものが、すぐ悪い人たちによって強奪され、破壊されるのはなぜでしょうか?

この腐朽する過程、この衰退は何でしょうか? 私は、もし私たちがこの質問に答え、事の真実を見出すことができるなら、そのとき、たぶん、私たちは個人としてまったく腐朽しない行動に取り掛かる事ができると思います。その原因に、単に表面的なレベルだけでなく、より深いレベルにも同じように注意を向けるべきだと思います。私はなぜこの堕落がそんなにも早く起こるかのより深い、そしてより基本的な理由があると思います。そしてそれがまたあなたの問題でもあると思います。私が新しい問題を導入しているとか、何かを話すために取り上げていると思わないで下さい。このことは私に起こったように、あなたに起こったに違いありません。あなたがともかくも油断なく気を配っており、歴史の中の、日常生活の中の過程に気づいているなら、あなたはあることが、この堕落の過程の背後にあるということを観察したに違いありません。それを観察して、たぶん、あなたはそれを軽く払いのけたでしょう。あるいはすぐに腐朽していく原因にあなた自身を捧げたので、どうしたらいいか分かりません。

この堕落の過程、すぐに腐朽するこの再生の背後にあるものが、正確には何であるか見出さなければなりません。私たちはこの問題全体を調べなければならないと私には思われます。そしてたぶん、そこに、私たちの問題に対する真の答えが横たわっているでしょう。

毎日の生活の中で、私たちはなろうとして努力をします。しませんか? 私たちの努力はすべて、肯定的あるいは否定的に、何かであるため、なるためです。「なること」の中に、個人的により以上になることの中に、社会的葛藤があることを私たちは見ます。そしてその「なること」の背後の力は常にその方向に向けられています。自己で囲む個人的努力を制御するために、社会の法律があります。そして個人を宗教的に制御するために、宗教的制裁があります。しかしこれらの法律や制裁に関わらず、善良であろう、高尚であろう、美しくあろう、真理を探究しようとする私たちの努力の中に堕落が存在します。私たちが本当に私たち自身で―模倣的にでなく、伝統を通してでなく、単なる言葉の上の合理化を通してでなく―この衰退と堕落の過程の背後にあるものを、それは私たちの存在と離れているのですが、発見しない限り、世界の騒乱に終わりはありません。

創造の状態は非常に重要です。どのような種類の堕落もない不断の状態をもたらすために、あるいは保つために、そんなにも不可欠なその状態の中に私たちはいないだろうと、私は気がかりです。

さて、この事柄に十分に入って行くためには、経験者と経験のこの過程を調べなければなりません。なぜなら私たちがすることは何でもこの二重性の過程を含んでいるからです。経験しよう、獲得しよう、何かであろう、あるいは何かであるまいとする努力や意志は常にそこにあります。意志は私たちの堕落の要因です。なろうとする意志―個人的に、集団的に、国家的に、あるいは私たちの団体のさまざまなレベルにおいて―、何かであろうとする意志は重要な要素です。観察するなら、この意志の中に、行為者と彼が働きかけるものがあるということを見出すでしょう。すなわち、私は何かを変容あるいは変化させようとする意志を発揮します。私は貪欲です。そして貪欲でなくあろうという意志を発揮します。私は偏狭で国家主義的です。そしてそうでなくあろうという意志を発揮します。私は行動します。すなわち、私が悪いと考えるものを変容させようとする意志を用います。あるいは善いものになろうとか、保とうとします。それゆえ、意志の中にこの二重性の行為があります。それが経験者と経験です。それを考えて下さい。その中に、私たちの退廃の根があります。

私が経験している限り、私がなろうとしている限り、この二重性の行為があるに違いありません。思考者と思考、働いている二つの分離した過程があるに違いありません。統合はなく、常に意志を通して作用している、であろうとか あるまいとする行為の中心があります―集団的に、個人的に、国家的になどなど。いたるところで、これが過程です。努力が経験者と経験に分割されている限り、堕落があるに違いありません。統合は思考者がもはや観察者でないときのみ可能です。すなわち、私たちは現在、思考者と思考、観察者と観察されるもの、経験者と経験されるものがあるのを知っています。二つの違った状態があります。私たちの努力は二つに橋を架けることです。

意志や行為は常に二重的です。分離的なこの意志を超え、この二重的な行為がない状態を発見することができるでしょうか? それは私たちが状態を直接に経験するときのみ見出すことができます。そのなかでは思考者は思考です。私たちは今、思考は思考者とは別であると思います。しかしそうでしょうか? 私たちはそうであると思いたいのです。皆さん、なぜならそのとき、思考者は物事を思考を通じて説明できるからです。思考者の努力はより多くなることか、より少なくなることです。それゆえその苦闘の中に、その意志の行為の中に、「なること」の中に、常に堕落する要素があります。私たちは虚偽の過程を追求しており、真実の過程をではありません。

思考者と思考の間に分割があるでしょうか? それらが分離し、分割されている限り、私たちの努力は浪費されています。破壊的である虚偽の過程を私たちは追求しているのであり、そしてそれが堕落の要因です。私たちは思考者は思考と分離していると思います。私が貪欲で、所有欲が強く、残酷であることを見出すとき、私はこのどれであってもならないと思います。思考者はそのとき彼の思考を変えようとします。それゆえ、努力は「なる」ためになされます。そしてその努力の過程の中で、彼は、ただひとつの過程があるだけなのに、二つの別個の過程があるという錯覚を追求します。そこに堕落の根本的な要素が横たわっていると思います。

ただひとつの実体があり、二つの別個の過程、経験者と経験がないときのその状態を経験することができるでしょうか? そのとき、たぶん、私たちは創造的であるとは何であるか、人がどんな関係にあろうが 常に堕落のない状態とは何であるかを見出すことができるでしょう。

私たちの経験のすべての中に、経験者、観察者があります。そして経験が。あるいは観察者が彼自身にますます多くを収集しているか、彼自身を否定しています。それは間違った過程ではないでしょうか、そしてそれは創造的な状態をもたらさない追求ではないでしょうか? それが間違った過程であるなら、私たちはそれを完全に拭い去り、捨てることができるでしょうか? それは、私が経験するときのみ、思考者が経験するということでなくて、私が虚偽の過程に気づき、思考者は思考である状態のみがあるということがわかるときのみ、生じることができるのです。

私は貪欲です。私と貪欲は二つの異なった状態ではありません。ただ一つのものがあるだけであり、それは貪欲です。私が貪欲であることに私が気づくなら、何が起こりますか? そのとき、私は社会的な理由か宗教的な理由のために、貪欲でなくあろうと努力をします。その努力は常に小さな限られた輪の中にあります。私は輪を広げるかもしれませんが、それは常に限られています。したがって堕落する要因がそこにあります。しかし私がもう少し深く、綿密に見るとき、努力のなし手は貪欲の原因であり、彼が貪欲それ自体であることが見えます。そしてまた、別々に存在している「私」と貪欲はなくて、ただ貪欲があるだけであることが見えます。私が貪欲であることを、貪欲である観察者があるのではなくて私が私自身貪欲であることを理解・実感するなら、そのとき私たちの全問題はまったく異なります。私たちのそれに対する応答はまったく異なります。そのとき私たちの努力は破壊的ではありません。

あなたの全存在が貪欲であるとき、あなたのするどんな行動も貪欲であるとき、あなたはどうしますか? しかしあいにく、私たちはそれらの線に沿って考えないのです。「私」、上位の存在、支配し制御している軍人がいます。私にとってはその過程は破壊的です。それは錯覚であり、私たちはなぜそうするか知っています。安全でありたいという欲望を継続するために、私は私自身を上位のものと下位のものに分割します。完全に貪欲だけがあり、貪欲を働いている「私」ではなく、私がまったく貪欲であるなら、そのとき何が起こりますか? 確かにそのとき、働いているまったく異なる過程があります。異なる問題が生じます。それは創造的であるあの問題であり、その中に支配している「私」、肯定的あるいは否定的に、「なろうとしている私」という感覚は少しもありません。私たちは、創造的でありたいなら、その状態に至らなければなりません。その状態の中に、努力のなし手はありません。私はそれは言語化する行為、あるいはその状態が何であるか見出そうとしている行為ではないと思います。あなたがその様に取り掛かれば、見失ってしまい、決して見出さないでしょう。重要なことは、努力のなし手と 彼がそれに向かって努力をしている対象は同じものであるということを見ることです。それはとてつもなく大きな理解、油断の無さ、どんなふうに心がそれ自身を上位のものと下位のものに分けるかを見ることを必要とします―安全である上位のもの、永続する存在―しかしなお思考の、したがって時間の過程を残しています。私たちがこれを直接に経験することとして理解することができるなら、そのときまったく異なる要素が生じるのが見えるでしょう。

未知のものは努力のなし手、行為の意志によっては理解できません。理解するためには、心は完全に静かでなければなりません。それは結局、完全な自己の放棄を意味します。肯定的あるいは否定的に「なる」努力のなし手である自己、はそこにいません。

質問: 何が私が他の人に言うことを噂話にするのでしょうか? 真実を話すこと、あるいは他の人についてよいとか悪いとか話すことは噂話でしょうか? 言われたことが本当である限り、それは噂話であり得るでしょうか?

クリシュナムルティ: この問題の背後には多くのことが横たわっています。まず最初に、なぜあなたは他の人のことを話したいのでしょうか? 動機は何でしょうか、駆り立てる力は何でしょうか? 見出すことがさらに重要です。他の人についてあなたの言うことが本当であるかどうか、あなたは知っているに違いありません。なぜあなたは他の人のことを話したいのでしょうか? あなたが敵意を持っているなら、あなたの動機は暴力、憎しみに基づいています。そしてそのとき、それはきっと邪悪である筈です。あなたの意図は言葉や表現を通して他の人に苦痛を与えることです。なぜあなたはよかれあしかれ、他の人のことを話すのでしょうか、そして他の誰かのことを話そうとあなたを駆り立てる必要性は何なのでしょうか? まず第一に、それは非常に浅薄で狭量な心を示していないでしょうか? あなたが何かに本当に関心がある、興味があるなら、そのためのときを、他人について話すときを知らなければなりません。その他人は善良で高貴であるかもしれないし、愚かでいい加減であるかもしれませんが。愚か、あるいは浅薄な心は常に話す、しゃべる、あるいは激論させられたりする何かを持ちたいのです。それは読んだり、獲得したり、信じたりしなければなりません。あなたは何かで占められている全過程を知っています。そのとき問題が起こります。どうやって私は噂話をするのをやめたらいいでしょうか?

噂話をする人も、よかれあしかれ ある他人についての噂話を受ける人も、お互いにある種の関係を持っています。そして、彼と彼が噂話をしている相手の人もある種の相互の快楽を持っています。告げる人と聞く人。私は動機を見出すことが非常に重要だと思います。どうやって噂話を止めるかではなく。動機を発見することができ、そしてむしろ何の非難も正当化もなく、それを直接に見続けるなら、そのときたぶん、あなたの心はより深いレべルを見い出し始め、その結果としてそれは、この噂話、この他の人について話すことを止めさせるでしょう。しかしその動機、その駆り立てる力を見い出すことは全く骨の折れる仕事です。そうでないですか?

まず第一に、噂話に余念がない男や女は、誰かについて善いとか悪いとか告げることに非常に興味があるので、彼もしくは彼女は考える時間を持ちません。何といっても、噂話は自己認識の一つのやり方です。そうでないでしょうか? 他の人のことを無慈悲に話すなら、それは敵意、憎しみを示しています。あなた自身の敵意と憎しみに直面したくないので、あなたは話すことを通じて逃避します。そして話し、他の人について噂をするなら、それはあなた自身からの逃避のもう一つの形です。

生のこの全過程を本当に理解したい人は深い自己認識を持つに違いありません―本や心理学者から得る認識ではなくて、関係、あなた自身を、快いものも不快なものも両方、絶えず見る鏡としてやってくる関係を通して生じる直接の認識。しかしそれはまじめさを必要とします。ごく小数のものがまじめで、多くは狭量で愚かです。

質問: どうして個人の新生のみが、即時に、どこでも必要である最大多数の集団的幸福を、どうにかしてもたらすことが出来るのですか?

クリシュナムルティ: 私たちは個人の新生は集団的新生に対立していると考えます。私たちは新生の見地で考えているのではなくて、個人的な新生の見地だけで考えているのです。新生は匿名です。それは「私は私自身を解放した」ではありません。集団に対立しているものとしての個人的な新生を考えている限り、そのとき二つの間に関係はありません。しかし、あなたが新生、個人に属するものでなくて新生に関心があるなら、そのとき、まったく違った力、英知が働いているのがわかるでしょう。なぜなら結局、私たちは何に関わっているのでしょうか? 私たちが深く切に関わっている問題は何でしょうか? 人間を救うための人間の団結した行動の必要性を人は見るかもしれません。彼は食、衣、住を作り出すために集団的な行動が必要なことを見ます。それは英知を必要とします。そして英知は個人的なものではありません、この政党やあの政党、この国やあの国に属するものではありません。個人が英知を求めるなら、それは集団的であるでしょう。しかしあいにく、私たちは英知を求めていないのです、この問題の解決を求めていないのです。私たちは私たちの問題の理論、どうやってそれらを解決するかのやり方を持っています。そしてやり方は個人的と集団的とになります。あなたと私が問題に対する聡明なやり方を求めるなら、そのとき私たちは集団や個人ではありません。そのとき、私達は問題を解決する英知に関心があるのです。

集団とは何でしょうか、大衆とは何でしょうか? 他の人と関係しているあなた。そうでないでしょうか? これは単純化しすぎではありません。なぜなら、あなたとの私の関係の中に、私は社会を形作るからです。あなたと私は、私達の関係の中に一緒に社会を創り出します。その関係なしに英知はありません、あなたの側や私の側での協力はありません。それはまったく個人的なのです。私が私の新生を求め、あなたがあなたの新生を求めるなら、何が起こりますか? 私たち、私たち両者は反対の方向を追求しているのです。

私たち両者が全体の問題の聡明な解答に関わっているなら、というのはその問題が私たちの主たる関心であるからですが、そのとき、私たちの関心は私がそれをどんなふうに見るかや、あなたがそれをどんなふうに見るかではなく、私の道やあなたの道でもないのです。私たちは国境や経済的偏りに、利権とそれらの利権に伴って生じる愚かさに関わっていません。そのときあなたと私は集団的ではありません、個人的ではありません。これは匿名である集団的統合をもたらします。

しかし質問者は、人間の必要が解決され得るように、どんなふうに直ちに行動するか、次の瞬間何をすべきかを知ることを望んでいます。私はそのような答えがあるのかなと思います。政治家がどのように約束しようとも、即時の道徳的治療法はありません。即時の解答は個人の新生、彼自身のためのでなく、英知の目覚めである新生です。英知はあなたのものでも私のものでもありません。それは英知です。このことを深く見ることが重要だと思います。そのとき私たちの政治的そして個人的行動は、集団的にせよ そうでないにせよ、まったく異なっているでしょう。私たちは同一性を失うでしょう。私たちは自分を何かと―私たちの国、人種、グループ、集団的伝統、偏見、と同一化しないでしょう。私たちは、問題がそれを解決するために同一性を失うように要求するので、それらの物事すべてを失うでしょう。しかしそれは問題全体の大きな、広範囲にわたる理解を要します。

私たちの問題は生計の問題だけではありません。私たちの問題は食、衣、住のみではありません。それよりもっと深いのです。それはなぜ人は自分自身を同一化させるかという心理的問題です。そして私たちを分離するのはこの政党、宗教、知識との同一化です。そしてその同一性は、心理的に、同一化の全過程、欲望、動機、が明確に理解されるときのみ、解決されることができます。

それゆえ集団とか、個人とかいう問題は、あなたが特定の問題の解決を追跡しているとき、非存在のものです。あなたと私がともに何かに関心があるなら、問題の解決にきわめて関心があるなら、私たちは他の何かと同一化しないでしょう。しかしあいにく、きわめて関心があるのではないので、私たちは同一化しています。そして私たちがこの複雑で巨大な問題を解決するのを妨げているのは、その同一性です。

質問: あなたは「真理」という言葉をしばしば使っていますが、私はあなたがいままでにそれを定義したのを思い出しません。あなたはその言葉でどういうことを意味しているのでしょうか?

クリシュナムルティ: 二人の個人としてのあなたと私はこれを見出そうとしています。明日でなくて、ことによると今宵。あなたが非常に静かであるなら、それを発見しましょう。定義は価値がありません。定義は真理を求めている人には意味を持っていません。言葉はものではありません。「木」という言葉は木ではありません。しかし私たちは言葉で満足します。どうかこれをよくわかって下さい。私たちにとって、定義、説明は非常に満足のゆくものです。なぜなら私たちはそれらの範囲内で生きることができるからです。私たちは言葉を追跡することができます。そして言葉は身体的および心理的に私たちに特定の効果を持っています。「神」という言葉はあらゆる種類の神経的、心理的反応を目覚めさせ、そして私たちは満足します。

それゆえ私たちにとって、定義は非常に重要です。それはそうではないですか? 定義を私たちは知識と呼び、知識を真理であると思います。それについて読めば読むほど、ますますそれに近づいていると思います。しかし言葉の説明はものではありません。それで私たちは実感し、理解しなければなりません。言葉による定義によって捕らわれてはなりません。したがって、私たちは言葉を脇にやらなければなりません。そしてそれは何と難しいことではないでしょうか?、なぜなら言葉は思考の過程であるからです! 言語化なしに、言葉、イメージ、概念、公式を用いることなしに思考はありません。どうかこのすべてをわかってください。この事を見出すために、いま私と瞑想して下さい。

心が、それが言葉に捕らわれていること、その思考する過程そのものが、記憶である言葉であることを知覚するとき、どうしてそのような心が―それは記憶です、時間です、それは定義と結論に捕らわれています―、真理であるもの、知ることのできないものを理解することができるでしょうか。私が知ることのできないものを知りたいなら、心は完全に静かでなければならないのではないしょうか? すなわち、すべての言語化、すべての想像、すべての投影は止まなければなりません。あなた方は皆、強いられてではなしに、静かであるように訓練されてではなしに、心が静かであることがいかに困難であるか知っています。それは心がもはや言語化していない、もはや認識していない、もはや何の経験の認識の中心でもないということを意味します。

心が経験を認識するとき、その経験は投影されています。私が、大師、真理、神、を経験するとき、その経験は自己投影です。なぜなら私が認識するからです。その経験を認識する私という中心があります。その認識は記憶の過程です。そのとき私は「私は大師を見た、私は彼が存在するのを知っている、私は神があるのを知っている」と言います。すなわち、心は認識の中心です。そして認識は記憶の過程です。私が何かを神として、真理として経験するとき、それは私の投影です。それは認識です。それは真理ではありません。それは神ではありません。

心はそれが経験できないとき、すなわち、認識の中心がないときのみまったく静かです。しかしそれはどんな形の意志の行為を通しても生じません。それは訓練を通しては生じません。それは心がそれ自身の活動を観察するとき生じます。それを、今、あなたがしていると思います。そしてあなたが観察するとき、いかに毎分、進行している認識の過程があるか、そしていかにあなたが認識するとき、新しいものが何もないか、わかるでしょう。

真理は始めも終わりもない、言葉では測り得ないものです。真理は測り知れない、始めも終わりもないものなので、心はそれを認識できません。したがって、真理があるためには、心が経験しない状態になければならないということが避けられません。真理があなた、心、に生じなければなりません。あなたがそれに行くことはできません。あなたがそれに行くなら、それを経験するでしょう。真理を招くことはできません。招くとき、経験するとき、あなたはそれを認識する立場にいます。それを認識するとき、それは真理ではありません。それはただあなた自身の記憶の、「それはそうなのだ。私は読んだ。私は経験した」と言う思考の過程なのです。したがって知識は真理への道ではありません。知識は理解され、真理があるために捨てられなければなりません。あなたの心が静かであるなら、眠っているのでなく、言葉で麻痺させられているのでなく、現実に心の過程を追跡している、観察しているなら、そのときあなたは静かさが密やかに、神秘的に生じていることを見るでしょう。そしてその静かさの状態の中に、永遠の、測ることの出来ないものを見るでしょう。

質問: 私たち誰もの中に、神、実在、真理を見ようという衝動があります。美の探求は実在の探求と同じものではないでしょうか? 醜さは邪悪でしょうか?

クリシュナムルティ: 皆さん、神を求めることはできないということをよく理解して下さい。真理を求めることはできません。なぜなら、求めるなら、あなたが見出すものは真理ではないからです。あなたの探求はあなたが望むものを見出そうとする欲望です。どうしてあなたが知らない何かを求めることができるでしょうか? あなたは読んだことのある、あなたが真理と呼ぶものを求めます。あるいは内的にそれへの感覚を持っているものを求めているのです。したがって、あなたはあなたの探求の動機を理解しなければなりません。それは真理の探索よりはるかに重要です。

なぜあなたは求めているのでしょうか、そして何を求めているのでしょうか? あなたが幸福なら、もしもあなたのハートに喜びがあるなら、求めないでしょうに。空虚なので私たちは求めているのです。私たちは挫折しており、惨めで、暴力的で、敵意に満ちています。それがなぜ私たちがそれから離れようと、より以上でありそうな何かを求めようと望むかです。あなた自身をよく見守って、私があなたに言っていることを、単に言葉を聞くだけでなく、よく理解して下さい。あなたの現在の心理的葛藤、悲惨、敵意から逃避するために、あなたは「私は真理を求めている」と言います。あなたは真理を見出さないでしょう。なぜなら真理はあなたが実在から、あるものから逃避しているとき、生じないからです。そのことを理解しなければなりません。そのことを理解するためには、外部に答えを求めに行ってはなりません。それゆえあなたは真理を求めることはできません。それはあなたに生じなければなりません。神を招き寄せることはできません、神の所に行くことはできません。あなたの崇拝、献身は、あなたが何かを欲しがっているので、まったく価値がありません。あなたは神に満たしてもらうように托鉢の椀を差し出しているのです。それゆえ、あなたはあなたの空虚を満たすために誰かを求めているのです。そしてものより言葉にもっと興味があるのです。しかしあなたが逸脱や気を散らすことなしにその途方もない孤独の状態に満足しているなら、そのとき唯一永遠であるものが生じます。

私たちの大抵は非常に条件付けられ、非常に教え込まれているので、私たちは逃避したいのです。そして私たちがそれにむかって逃避する物事を美と呼びます。私たちは何かを通して美を求めています―舞踊を通して、儀式を通して、祈りを通して、修養を通して、さまざまな形の公式化を通して、絵を描くことを通して、感情を通して。私たちはそうでないでしょうか? それで、私たちが何かを通して、男、女、子供を通して、何かの感情を通して美を求めている限り、決して美を持たないでしょう。なぜなら私たちが物事を通して求めるその物事が最も重要になるからです。美ではなくて、対象を通して美を求めるその対象が最も重要になり、それから、私たちはそれにしがみつきます。美は物事を通して見出されるのではありません。それは単に感情にすぎないでしょう。そしてその感情は利口なものによって利用されます。美は完全な根本的な心の変容があるとき、内的な新生を通して生じます。そのためには、あなたは途方もない感受性の状態を要します。

醜さは感受性がないときのみ邪悪です。醜いものを否定して美しいものに対し敏感であるなら、そのときあなたは美しいものに対し敏感ではありません。重要なことは醜さや美ではなくて、美しいものに対すると同様にいわゆる醜いものも見る、反応する感受性がなければならないということです。しかし美しいものに気づくだけで醜いものを否定するなら、そのとき、それは一本の腕を切り落とすようなものです。そのときあなたの存在全体はバランスを欠いています。あなたは邪悪なものを締め出し、それを否定し、それを醜いと呼び、それと戦い、それについて暴力的であるのではないでしょう? あなたは美しいものとだけ関わります。それを望みます。その過程の中で、あなたは感受性を失います。

醜いものと美しいものの両方に敏感な人は、彼がそれを通して真理を捜すその物事からはるか遠くに超えていきます。しかし、私たちは美にも醜くさにも敏感でありません。私たちは私たち自身の思考、私たち自身の偏見、私たち自身の野心、貪欲、羨望によってそんなにも囲まれているのです。精神的に、あるいは何かのほかの方向で野心的な心がどうして敏感であり得るでしょうか? 欲望の全過程が完全に理解されるときのみ、感受性があり得るのです。というのは、欲望は自己閉鎖の過程であり、閉ざすことを通して水平線を見ることはできません。心はそのときそれ自身の「なること」によって抑圧されます。そのような心は美をただ何かを通して味わうことができるだけです。そのような心は美しい心ではありません。そのような心はよい心ではありません。それは閉ざされた醜い心であり、それ自身の永続を求めています。そのような心は決して美を見出せません。心がそれ自身の理想と追跡と野心によって、それ自身を閉ざすことをやめるときのみ、そのような心は美しいのです。

1952年1月27日

(訳者: N.Goto)2001.04.掲載

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