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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1952年 マドラスの公開講話(第9回)

J. Krishnamurti Madras 9th Public Talk 2nd February 1952

前の土曜日言っていたように、心の堕落の問題は由々しき問題です。それは古い世代にだけでなく、若い人たちにも影響します。この堕落は世界中の共通の要素です。

この堕落は働いている意志、すなわち二つの対立物、本質的なものと非本質的なものとの間の選択である意志、何かであろう、成ろうという欲望、の運動があるとき、きっと生じる筈です。明らかに意志は私たちの生の中の堕落する要因であり、私たちの大抵はそれを認めようとしません。なぜなら教育的心理的システムを通し、宗教などを通し、目的を達成し、獲得し、得る手段として意志を用いるように、私たちは育てられてきたからです。そしてその中に選択の全過程が含まれているのです。それが堕落、反復、模倣、観念への順応をもたらす、私たちの生の中の主要な要素の一つではないでしょうか?

私が今晩したい事は、検討できるなら、心のこの問題全体に入っていくことです。反復的な機械としての、導き、形作り、制御し、それゆえ創造的な行為を作り出さない記憶の貯蔵庫としての心、挫折したとき「私」、「ミー」になる意識の過程としての心。自我を意識する個人は成就を求めがゆえに、その成就を求める欲望そのものの中に挫折があり、それから悲しみが起こります。

堕落の主要な要因の一つは反復的で、模倣的で、順応する思考の過程です。なぜなら、私たちは反復的で、順応し、模倣的であるとき、何が起こるか知っていますよね、心は組み立てられた物理的機械のように、環境にしたがって、記憶にしたがって、単に自動的に応答し、作動し、反応する機械になるからです。そのすべてを私たちは知っています。私たちは他の過程を何も知りません。私たちの思考は純粋に反復的です。私たちは新しい考え、新しい反応だと思うけれど、それは現在と連結した過去のものの過程です。あなたは現在に、遮蔽幕、過去のものの制約と共に出会うことができるだけです。それゆえ、あなたの心を見守るなら、それが順応していること、それが反復的であること、それが模倣していることが見えるでしょう。

ここにどんなふうに聞くかの問題が生じます。あなたは私の言うことを言葉のレベルで聞いているのでしょうか、それとも私が言っていることを、あなたの精神的な過程の中に現実に起きていることと共に見守っているのでしょうか? あなたは単に言葉の感触に反応しているに過ぎないのでしょうか、それともあなたは見守っているのでしょうか? それは私が言っていることの刺激なのです。あなたはこの問題にゆっくりと入って行くべきであり、そして十分な時間を用意することを得たので、それに非常に注意深く入っていくことができるということが非常に重要なことです。私を使って、私の言うことを鏡として使って、あなた自身の心を見守り、それゆえ観察しているなら、そのとき私が言っていることは途方もない意義があるでしょう。しかしあなたが単に聞いているに過ぎないなら、そのときあなたは模倣しています。単に言葉に反応しているに過ぎないのです。言葉はイメージを作り、そのイメージの追跡は思考と言われます。それがあなたを観察するように刺激する「私」、「ミー」です。したがってその刺激はうんざりさせ、退屈になります。ところが、実は、あなたがあなた自身の思考を私が言うことに関連して観察するなら、そのとき、あなたはあなたの心は単に反復的に過ぎないのか、それは機械の機械的性質を超えた何かであるのかどうか 見いだすでしょう。あなたが要点を理解したのであればと思います。私は私の言わんとすることを明確にしたでしょうか?

私たちが討論している問題は、老人においてであれ、若者においてであれ、心の堕落の要因です。この堕落の要因はより歳を取るにつれて観察されます。老齢は私たちの大抵にとって問題です。なぜなら私たちは明らかに堕落している心を見るからです。あなたはそれを意識しないかもしれません。しかし他の人たちはあなたの中に堕落を意識するかもしれません。

行為の手段として理想を利用することは、伝統のように模倣的な、反復的な、順応する過程です。あなたは近頃の経済的圧力によって強いられ、外部の伝統を投げ捨てるかもしれません。しかし内部では、なお反復的であり、順応する伝統に従っています。それゆえ、問題はこうです。「心はこの機械的な性質を超えることができない単なる機械に過ぎないのであろうか、それとも心は天性非機械的であり得るのであろうか?」 すなわち、いままでのところ私たちは心を結果を得るための、何かになるための、何かを得るための機械として使用してきました。その過程の中に順応と反復が必須です。成功することを望むなら、私は従わなければなりません。私は模倣しなければなりません。それゆえ、私たちは望んだ結果をもたらすやり方として、思考の過程である心という機械を使用しました。すなわち、私たちは特定の結果を生み出すことを望み、思考過程を工場で見出す機械のような機械として使用したのです。機械は心です。そして結果を望むとき、私たちはそれを使います。この過程の中で、心は単に反復的になるのです。

反復、模倣は崩壊のしるしではないでしょうか。それは私たちが歳を取るにつれて観察できます。あなたは歳を取った人たちがどんなふうに話すか見ることができます。何度も何度も同じ事、同じ信念、継続性、結晶化され、固定され、しっかり保持されて。これらすべては堕落のしるしです。そうでないですか? もしも反復と順応がないなら社会に何が起こるだろうかとか、私たちの関係に何が起こるだろうかとか尋ねないで下さい。私たちはそれを見出すでしょう。機械的でなかったら何が起こるだろうかを考える心は、明らかに既に堕落の過程の中にある心です。

私たちがこの事柄を非常に注意深く、英知をもって調べることが非常に重要です。なぜなら年取った人たちがいかに若い者を統治しているかをますます多く見るからです―若い者がずっと聡明であるということではなく、事実を観察しているのです。あらゆる政府の要職、あらゆる宗教的地位、あらゆる他の役職が六十代、七十代の人たちによってふさがれています。平均的な市民が崇拝する完璧な官僚的機械はこれらの年取った人達からなっています。どうかこれを誰か特定の人に適用しないで下さい。いくらかの人が、年取った指導者たちや誰か他の特定の人が反復的と言われたという考えに、にっこりしているのが見えます。さて、あなた自身反復的でないでしょうか? 私たちは誰か個人ではなく、この反復と堕落の過程全体を論じているのです。

私たちが持っている唯一の道具である心は、単に、型にはまった、反復し順応する機械として使用されるべきでしょうか? どうやって心は非機械的にされるべきでしょうか? すなわち、堕落をもたらす要素、あるいは複数の要素、を除去すればいいのでしょうか? 確かに、これは重要な疑問です。そうでないでしょうか? これは私には、私たちの文化―世界の文化、マドラスの文化ではなく、文化的過程全体―の現在の危機における最も重大な論点の一つであると思われます。なぜなら、あらゆる感情、あらゆる経験、あらゆる問題は反復的になるからです。

心がこの機械的過程からそれ自身を解放することができるでしょうか? 機械的過程とはどういうことでしょうか? 思考それ自体が、どうかこれをわかって下さい、堕落の要因ではないでしょうか? 思考という言葉によって、私たちは経験について言語化する反応を意味します。私は定義しているのではありません。それゆえ定義を覚えないで下さい。思考は記憶、現在に接続している過去のものである記憶、を言語化する過程ではないでしょうか? どうかあなた自身の心を見守って下さい。私の言うことを言葉の上で聞くのではなく、あなたの思考する過程を見守って下さい。それが私たちの議論していることです。それは私の問題ではありません。それはあなたと私が解決しなければならない問題です。私たちがまったく違った意味で創造的でない限り、私たちの教育、宗教システム、政治的システム、文明、観念は、堕落の要因を含んでいるので、すべてまったく無益です。それゆえ、それはあなたと私が解決しなければならない問題です。それを解決するためには、私たちはこの思考の問題を熟慮しなければなりません。それは私たちが持っている唯一の道具なのです。あるいはそれは私たちが目下使っている唯一の道具なのです。その道具が統合された社会、統合された人間をもたらす過程の中で妥当でないなら、何か他の手段があるに違いありません。それが私たちが発見しようと一生懸命になっているものです。

私が言っていたように、思考は現在の反応によって修正された過去のものの継続である過程でないでしょうか? 考えるということは何でしょうか? それは作動している記憶です。どうか、もしも記憶を持っていなかったら何をするだろうかと尋ねないで下さい。それは問題ではありません。記憶を持っていないなら、記憶喪失を患っているので、閉じ込められてしまうでしょう。私たちの問題はこうです。思考は反復的です。思考過程は継続する、ある背景にしたがっての応答の結果であり、それは機械的結果を作り出すことができるだけです。したがってそれは単に反復の過程にすぎません。思考は堕落以外の何か他の要素であり得るでしょうか? 私たちは思考は新しい感情、新しい生き方、新しい文化等々を作り出すだろうと思います。すなわち、私たちは知性を、それは思考ですが、創造の道であると思います。もしそれがそうでないなら、そのとき私たちは何を持っているのでしょうか?

そんなにも思考の過程に慣れた心、思考それ自身であり、観察可能と不可能・意識的と無意識的のあらゆる経験に応答する蓄積された記憶である心は確かに反復的です。私たちが今作動しているような意識の全内容は、このように反復的です。それはかなり明確だと私は思います。そうでないですか? 反復的なものを超えることを求めるとき、その思考の投影、そのイメージはすべて過去のものの結果であること、そして理想としてあなたが追求するものは過去のものの結果であることをあなたは見出すでしょう。したがって、意識の全内容は、私たちがそれを意識しようがしまいが機械的過程です。私は機械的過程という言葉によって、現在により調整された過去のものの応答を意味しています。それは反復的以外のなにものでもありません。

どうか定義を覚えないで下さい。なぜなら定義は問題を解決しないでしょうから。私たちが為すべきことは、どうやって心が、どうやって心の全機械装置が、反復的でないように変化できるか見出すことです。何と言っても、どんなレベルでの創造、真理も非反復的です。それゆえ心は、真実を認識するためには、非反復的でなければなりません。

非常に簡単な例を取りましょう。あなたは花の美しさ、あるいは夕日や木の影の美しさを経験します。経験している瞬間には認識はありません。存在の状態のみがあります。その瞬間が滑り去るとき、あなたはそれに名前を与え始めます。「いかにそれは美しかったことよ!」と言います。すなわち、認識の過程が生じ、その感情の反復を求める欲望があります。これは簡単であり複雑ではありません。ちょっとそれを追って下さい。するとわかるでしょう。私は夕方の太陽に照らされた木を見ます。そのとき知覚、経験があり、それ以外の何もありません。それは記述できない存在の状態です。次に、存在の状態が前に進むとき、私はそれに名を与え、それによってそれを認識します。そしてそれは私の中に感情を作り出します。そのとき私は「その感じは何と美しかったことか、何とすばらしかったことか」と言います。私はその感情を反復したいと思います。それゆえ、私は次の晩夕方の光の中の木を見始めます。そして私が望む、あるぼやけた感情があります。それゆえ、私は進行する反復的な機械装置を組み立てたのです。

あなたはあなた自身の心の過程を見守ります。するとこのことの真理を見るでしょう。あなたは部屋に美しい彫像、あるいは絵を持っています。最初それは大きな喜びを与えます。あなたは途方もない何かを見、心はそれを捕らえます。あなたはそのとき「私はそれをもっと欲しい」と言います。そこであなたは絵や像の前に腰を下ろし、そして反復します。その感情を反復しようと思います。あなたはそれゆえ、進行する心の機械的過程を設定したのです。意識的なレベルだけでなく、より深く。それは葛藤、苦闘をもたらします。

私たちの心は慣例、反復、模倣、順応に慣れています。そして他に何も知りません。それが何かを知覚するなら、それは直ちにそれを毎日の出来事にしようと望みます。それは明らかではないでしょうか? 誰もこれを否定しません。これは心理的な、観察できる、私たちの日常生活の事実です。

さて、どうやって私たちが持つ唯一の道具である心は、機械的でないことができるでしょうか? まず最初に、いかに私たちの少数しかこの質問を尋ねなかったことでしょうか? あるいは、いかに私たちの少数しかこの問題全体に気づいていないことでしょうか? いま私があなたの前にそれを置き、あなたはそれに気づいているので、あなたの応答は何でしょうか? 私はこの全体の過程を観察します。そして私は他の何かを知っているでしょうか? 明らかに私は知りません。すなわち、もしも私が他の何かがあると言うなら、それはなお過去のものの現在への投影である思考の過程でしょう。これは非常に複雑な問題です。なぜならこの中には、命名・シンボルの付与の全過程と言葉の重要性が、神経学的にだけでなく心理的に、意識のレベルのみならずより深いレベルで含まれているからです。それが堕落の要因です。

機械的に働くようにすっかり慣れている心が停まることができるでしょうか? この機械装置はあなたが答えを発見できる前に停まらなければなりません。あなたがマルクスやバガバッドギータのどちらかにしたがって答えを提出するなら、そのときあなたは反復的で破壊的です。何世紀の間進み続けてきた心が停止できるでしょうか? 「ミー」は全人間の、むしろ全人類の結果です。そして心は「ミー」を含んでいます。心のその過程は、そんなにも利口で、そんなにもむさぼり食い、そんなにもしつっこく要求し、そんなにも強力であるその機械装置が停まることができるでしょうか? すなわち、それは終わることができるでしょうか? できないなら、あなたは答えを見出すことができません。

心を使うなら、そのときあなたは何かを獲得する手段としての継続する思考にすぎないのです。どうかそれを見守って下さい。あなたが疲れたなら、聞かないで下さい。あなたが疲れていないなら、ただそれを見守って下さい。何世代、何世紀にわたって機能してきた機械装置、それは自発的に終わることができるでしょうか?―強いられてや、隅に追いつめられてや、強制されてではなく。強制されるなら、そのときあなたの応答は一つの継続であり、それゆえ思考に属するものであるでしょう。

どうやって心は終わるでしょうか? それは重要な問題ですが、あなたはどうやってそれを解決するか知りません。心はそれがもう一つの状態に跳ぶことができるように、停められなければなりません。それを機械的に作動させ、そして跳ぶことはできません。思索の中では、それは応答している過去であり、新しいものは何もありません。機械的な心は新しい何も決して見つけることができません。それは終わらなければなりません。さてどうやってこれは為されるべきでしょうか? それは正しい質問でしょうか? 「どうやって」は重要です。このすべてがわかっていますか?

私たちは心が機械的であるのを知っています。そのとき次の反応はこうです。どうやって私はそれを停めたらいいでしょうか? この質問をすることで心は機械的になりました。わかりますか? すなわち、私は結果を望んでいます。手段がそこにあります。私はそれを追います。何が起こりましたか? 「どうやって」は機械的な心の反応、古いものの反応です。そして「どうやって」を追うことや練習することは機械の継続です。私たちの思考がどんなに虚偽になったかを見てください。私たちは常に過去、どうやって、やり方、練習などにに関わっています。この過程のすべてをあなたは見ます。「どうやって」は空虚です。そして調べている心はこの「どうやって」の練習によって古い反復的な心に実際になります。

心の二つの違った状態があります。「どうやって」を追求している状態と、調べており、結果を求めていないもう一つの状態。調べる、調査の中で追求する心が唯一私たちを助けるでしょう。調べることと結果を求めることは二つのまったく違った状態です。さてあなたの心の状態は、結果を求めている心と調べている心のどちらですか? 結果を求めているなら、あなたは単に機械的に追求しているに過ぎないのです。そのとき、終わりはありません。それは堕落と破壊に通じます。それは明らかです。

あなたの心は心が終わることができるかどうか、答えを見出すために実際に調べていますか? どうやってそれを終わらせるかではなく。「どうやって」は、「できる」とはまったく違います。それはできるでしょうか? あなたはその質問をあなた自身にしましたか? したならどんな動機で、どんな意図で、どんな目的でそれをしましたか? それは非常に重要です。あなたが「それをできるか」という質問を、あなたが意識している結果を欲しがるという動機を持って尋ねたのなら、そのときあなたは機械的過程にまた戻っているのです。それゆえ、あなたはその質問に答えるのに、並外れて油断なく、極度に精妙でなければなりません―私に対してではなく、あなた自身に対して。あなたが何が起こるか見出そうという意図なしに質問を実際にするなら、調べるなら、あなたはあなたの心が結果を求めていない、それは答えを待っているということを見出すでしょう。それは答えを思索していません。それは答えを望んでいません。それは答えを期待していません。それは待っています。

これを見て下さい。私はあなたに質問を尋ねます。あなたの応答は何でしょうか? あなたの即時の応答は考えること、吟味すること、見ること、答えるための利口な議論を見出すことです。質問と応答は日常観察できる心理的行動です。言葉の上で、そして心理的に。すなわちあなたは答えていません。あなたは応答しているのです。あなたは何が理由であるかを与えます。言い換えれば、あなたは答えを求めているのです。質問に対する答えを見出したいのなら、待つこと以外は、応答は機械的です。すなわち、答えが生じるのを待つ心は非機械的です。なぜなら答えはあなたが知らない何かであるに違いないからです。あなたが知っている答えは機械的です。しかし、あなたが質問に向かい合い、答えを待っているなら、そのとき、あなたはあなたの心がまったく違った状態にあることがわかるでしょう。待っていることは答えより重要です。あなたはそうしますか? そのとき、心はもはや機械的ではなく、まったく異なる過程です。それは招かれることなしに生じるまったく異なったものです。

質問: 恐怖に直面することの前に立ちはだかるのは恐怖という私たちの観念である、とあなたは言いました。どうやって恐怖を克服すべきでしょうか?

クリシュナムルティ: まず最初に、それを意識しなければなりません。それに気づかなければなりません。あなたは気づいていますか? 一緒に試み、実験していいでしょうか? この事を説明することの中で、恐怖が完全に私たちから去らないかどうか見てみましょう。私はあなたを旅に連れて行こうとしています。あなたがよろこんで来るなら大変結構です。よろこんで来ようとするなら、途中で止まらないで、その終わりまで行きましょう。

私たちは恐怖のさまざまな形を知っています―世論の恐怖、誰かの死の恐怖、人々が何を言うだろうかという恐怖。目的を失う恐怖。無数の形の恐怖があります。あなたは「どうやって私は恐怖を克服すべきでしょうか?」と尋ねます。何かを克服することができるでしょうか? 克服する、征服する、その頂上に立つ、それを抑圧する、それを超えるということが何を意味するかご承知ですね。あなたが何かを克服するとき、なおまたそれを征服しなければならないのではないでしょうか? それゆえ克服の過程そのものが絶え間ない征服の継続なのです。あなたは敵を克服できません。なぜなら、克服の過程そのものの中で、あなたは敵を強めているからです。それが一つの要素です。

私たちは恐怖を理解することとその意味を捜し出すことに関わっています。私たちは一緒に旅をしようとしています。どうやって恐怖は生じるのでしょうか? それは「恐怖」という言葉でしょうか、それとも恐怖の事実でしょうか? わかりますか? 私に恐怖を引き起こしているのは言葉でしょうか、それとも他の何かに関係した何かの事実でしょうか? どちらが恐怖を引き起こしているのでしょうか? それは複雑ではありません。あなたが見守るなら非常に単純です。

私は「恐怖」という言葉を恐れているにでしょうか? 私たちは見出そうとしています。さて、恐れるとき何が起こりますか? 明らかな反応は多くのやり方でそれから逃げることです―飲酒、女性、寺院、大師、信念。それらは皆同じレベルにあります。より優れたところがありません、価値がありません。飲酒によって恐怖から逃げる人は、徳によって恐怖から逃げる人と同じように正しいのです。社会的にそれは異なった価値を持っているかもしれません。しかしそれらは精神的に、心理的に、すべて同じものです。

恐怖に対する反応は何でしょうか? それから逃避すること。すなわち、私たちの恐怖に対する反応は非難ではないでしょうか?、あるいは正当化。私は実際に恐れているでしょうか? 私は私がそれから逃げるとき、「私は恐れている」という言い方を熟考するでしょうか? 明らかにしません。恐怖から逃げるなら、それを正当化や非難するなら、私が私自身を確認してさえ、あるいは「私は恐れている」と言い、判断してさえ、私は恐怖を理解できません。それゆえ私が恐怖を理解すべきなら、逃避があってはなりません。そして私たちの心は逃避からできています。それで心はそのものに面と向き合い、理解し、応答し、何が恐怖を引き起こしているかを発見することを欲しません。それで私はそれから逃げます。

では何が重要でしょうか、恐怖、それともそれから逃げること? 恐怖があるとき、私たちの生の中での最も重要なことは何でしょうか? それから逃げることではないですか? どうやって恐怖を解消するかでなくて、どうやってそれから逃避するか。私は理解するよりむしろ逃避により関わります。そして私が別の方向を見ているとき、理解できるでしょうか? 完全にそれに集中しているとき、私はそれを見ることができます。いつもそれをひどく怖がっているとき、完全な気づき、それへの十分な集中の可能性が少しでもあるでしょうか? 明らかにありません。

恐怖を理解するために、あなたは抑圧、抑制によって、信念、徳、その他によって逃げません。そのとき、あなたが恐れる原因となっている事実により近づいています。それに対するあなたの関係は何ですか? それは言葉の上のものですか?―心がそれを思索し、そして思索の結論を恐れるという意味での言葉の上のもの。心は先見して、「あれが起こればこれが起こるだろう。それで私は恐れる」と言います。そこでそれに対するあなたの関係は何ですか? これを綿密に追って下さい。なぜならその関係に、あなたの解決は関わっているからです。恐怖を引き起こしているものに、単に言葉の上で―すなわち、思索的に―あなたは関わっているのでしょうか、それとも思索なしに、それは非-言語化です、それに直面しているのでしょうか? あなたがそれに言葉の上で関わっているなら、それと直接の交流を持っていません。あなたはそれから逃げました。あなたがそれに直面するなら、あなたは逃げることをやめたのであり、何の逃避もまったくありません。

次に言葉とそれの意味の関係をよく考えましょう。恐怖は言葉によって引き起こされるのでしょうか、それとも事実によってでしょうか? わかりますか? 心である言葉、心は言語化を通して遮蔽幕を作り出していて、それに直面していません。それゆえ、恐怖は言葉―すなわち、それを考えている心、言語化の過程である思考、によって作り出されるのでしょうか? もしそうなら、それについてのあなたの思考はそれから逃避することです。そうでなければ、あなたは言語化なしに、思考過程なしに、逃避なしに事実と直面しています。そのときあなたは直接それと関係しています。直接それと親交しています。

あなたが直接に何かと親交するとき、何が起こりますか? 思考過程なしに何かと直接親交していたことがありますか、あります? 明らかにありません。あなたがそうであるとき、あなたが恐怖と名づけたものは、あることを止めます。恐怖を作り出すのは、事実それ自体ではなく、これらの遮蔽幕、これらの逃避、この言語化、この精神過程です。それゆえあなたと事実の間のこれら遮蔽幕は恐怖を生み出す力があります。事実ではなく。事実の克服はありません。あなたが全過程を見てこれを一歩づつ追ったなら、あなたが恐怖を持っていないのがわかるでしょう。そのとき、あなたは事実を観察しています。そして事実が変化するでしょう。事実が行為をしようとするでしょう。逃避に向かっての動きの中のあなたではありません。

質問: どうすれば思考者と思考を結び付けることができるのでしょうか?

クリシュナムルティ: 「どうすれば」は小学生の質問です。しかし私たちは作動している物事の、二つの分離している過程を結び付けることが可能かどうか、見出そうとしています。第一に、私たちは思考者と思考は分離していることを知っています。私たちはそれに気づいていますか? あなたにとって、思考者と思考は二つの分離した実体です。そしてそれらが結び付けられ得るかどうか、あなたは見いだしたいのです。思考者が分離していて常に思考を支配しているなら、思考は常に不自由で、思考者が常に征服しています。緩和はないでしょう。思考者と思考の間に絶え間ない戦いがあるでしょう。分離がなく、戦いがないように、二つが結び付けられることが可能かどうか私は見出したいのです。なぜなら、新しい何かがあるのは苦闘がないときのみであることが見えるからです。

暴力は平和を造りません。平和があるのは暴力がないときだけです。同じように、思考者と思考が永遠に分離していて、決して結びつかない二つの別々の実体であるかどうか、私は見出さなければなりません。

あなたと私は発見の、そして事実を実際に経験する旅をしようとしています。私たちは思考者と思考は別個であることを知っています。私たちの大抵はそれについて考えたことさえ決してありません。私たちはそれを当然のことと思います。あなたの外部の誰かが質問をするときのみです。そのときあなたは調べています。私は尋ねていて、それゆえあなたは調べています。あなたは調査の旅に出ているのです。

旅をすることは「いまあるもの」、実際に起きているもの、あなたが好むものではなく、実際に起こっているものを理解することです。

なぜ思考と思考者は別個なのでしょうか? それらがそうあるべきでないとか、そうあってはならないではなく、なぜそれらは別個なのでしょうか? それらは習慣のために別個なのです。私たちはそれを疑ったことがありません。私たちはそれを受け入れてきました。それを当然のことと思っています。したがってそれは私たちにとって習慣になりました。思考者は思考とは別個であり、二つの間の苦闘、思考に対する思考者の支配は、私たちの日常の習慣です―決まりきった、反復的である習慣。それが事実ではないでしょうか?

もしも思考者と思考が別個でないなら、何が起こるでしょうか? 私の心はこの習慣に慣れています。この習慣が止まったなら、私の心に何が起こるでしょうか? 心は当惑するのではないでしょうか? 予期しないもの、新しいものによって、途方に暮れ、まごつくでしょう。それで心は習慣の中に生きることを好みます。そこでそれは「私は私の習慣を続けよう。これら二つが一緒になるなら何が起こるか私はわからない。それで私は古い物事が続くのを好むであろう」と言います。それであなたは、それらが一緒になるなら何が起こるか探求することよりはむしろ、習慣を継続することにより関心があります。

なぜ私たちは古いものが続くことを望むのでしょうか? 私たちが安全、確実さ、しがみつく何かを望むという明白な理由のため。なぜならそれが私たちが知っている唯一のものであるからです。私たちは思考者と思考を確信します。それらが一緒になるなら何が起こるかを考えたことがありません。確実さが私たちを古いものにしがみつかせます。それは心理的事実、観察できる事実です。では、私たちの問題はどうやって思考者と思考を結合させるかではなくて、なぜ心は安全、確実さを求めているかです。心は確実さなしに、しがみつけるもの―知識、信念、あなたの望むもの―を求めることなしに存在できるでしょうか? 心は安全の過程なしにいることはできません。私たちが知っている心は安全です。それは見出すことに関心がありません。それは完全に無事であること、完全に安全であることに関心があります。

なぜ心は安全を求めるのでしょうか? なぜなら、思考がいかなるときでも突然変化するということをよく理解しているからです。思考に現実性はありません。そこで思考は思考者を、無期限に続く永久的な実体として創り出します。それゆえ、思考者の中に、それは既得権を持っています。それで心は思考者の中に安全を、古い習慣である確実性を発見したのです。

私たちの問題は、それでは、心は一体安全を持つことができるかどうかです。それとも、それは心が執着する安全という錯覚に過ぎないのでしょうか? 心は安全という錯覚を創り出す力を持っており、そしてそれに執着するのです。したがって、それが安全を求めている限り、他のものを理解できません。思考者と思考が一緒になるなら何が起こるか発見することに心が関心があるのでない限り、それは既に確信しているものにしがみつくでしょう。

それゆえ私たちの問題は安全、確実性があるかどうかです。あるでしょうか? 明らかにありません―神の中にも、あなたが持ちたいと望む妻や財産の中にも。安全はありません。それをあなたは確信しません。それを、あなたは経験していません。何の信頼できるものもなしに、心が憩い、しがみつき、執着できる何もなしに、完全な孤独があります。なぜなら心は一人であることを恐れるからです。それは思考者を継続する永久的な実体として作り上げます。あるいは、思考者がないなら、それは神を作り上げます。あるいは財産を、あるいは妻を、何でも―木をそうするでしょう、石をそうするでしょう、彫像。

安全を求める欲望の中にある心は思考とは別個の思考者を創り出しました。そして習慣によるこの分離に慣れました。習慣がある所、恒久性があります。そして心は機械的になります。あなたが単に言葉の上でなく現実に経験の中で、思考者は思考の結果であること、それは恒久性を求めること、それは継続を求めることをよく理解するなら、そのときあなたは二つを結び付けようとする、心による努力がないことがわかるでしょう。そのとき何の言葉もない、思考者と思考の思考過程がない理解の状態だけがあります。そのためには、私たちが今晩考えてきた、意識の全体の過程への途方もない洞察を持たなければなりません。それは瞑想の過程です。その瞑想は、心が意識の全内容、それはあなた自身です、を理解するときにのみ可能です。

1952年2月2日

(訳者: N.Goto)2001.05.掲載

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