クリシュナムルティを読む

ゴト改め皆様の読書室

「自我の終焉」の源流を尋ねて

1949年オハイ講話 [1] [2] [3] [4][5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14]

1949年 オハイの公開講話(第12回)

J.Krishnamurti Ojai 12th Public Talk 21st August 1949

私はどんな態度で人がこれらの講話を聞くのかわかりません。方法、技法、やり方を開発する意図で聞くのではないかと気がかりです。そしてその傾向を理解することが非常に重要であると私は思います。なぜなら、私たちが技法に、やり方に、方法に捕われるなら、創造的解放をまったく失うだろうからです。すなわち、技法、方法の養成を通じて私たちは創造性を失うでしょう。そして私は今朝、技法、方法、やり方の養成に含まれる意味が何であるか、そしてそれが言葉の上のレベルのみならず深い心理的なレベルで、いかに心を鈍くするか議論したいと思います。
なぜなら私たちは大抵非創造的であるからです。私たちは、少々絵を描き、たまには一二の詩を書いたり、まれには美しい風景を楽しむかもしれません。しかし大抵は、私たちの心はやり方、習慣に捕えられ、それは技法の一形態なのですが、そのため私たちは超えることができるようには思われません。生の問題は方法を必要としません。なぜならそれらは非常に活発で、非常に生き生きとしているので、私たちがそのどの一つにでも固定した型、方法、やり方で近づくなら、私たちはすっかり誤解してしまい、その問題に適切に出会わないだろうからです。
そして、私たちの大抵は技法、方法を望むのです。なぜなら問題、生の運動は非常に生き生きとしていて、活発で、素早いので、心はそれに、明晰さを持って、速く素早く出会うことができないからです。それで、私たちは他人から仕方、方法、技法、やり方、手段を学ぼうとします。

ここの私たちの大部分が手段に関わっていないということが、私にはまったく確かでありません。手段を否定しないでください。なぜなら、達成するために技法を求める欲求から自由であることは極度に困難であるからです。なぜなら、手段を持つとき、私たちは目的、結果を強調します。私たちは問題それ自体の理解より結果により多く関心があるのです。結果が何であるにしても。私たちの大抵が、幸福のために、考える正しいやり方のために、心の平和や魂の平和のために、あるいは何であれ、方法を求めるのはなぜでしょうか?

まず最初に、私たちは生に出会うのに、工業的技法の精神を持ち越すのです。すなわち、生に効率的に出会いたいのです。そしてそれに効率的に出会うためには、方法を必要とすると私たちは思うのです。そして大抵の宗教団体、大抵の教師、は方法を提供します。どうやって平和であるか、どうやって幸福であるか、どうやって平穏な心を持つか、どうやって集中するか、などなど。さて、効率があるところ、無情さがあります。そして効率的であればあるほど、ますます不寛容で、ますます閉じて、ますます抵抗するのです。これは次第に高慢の感覚を発達させ、そして高慢は明らかに分離することです。それは理解することに対して破壊的です。私たちは効率的な人たちを賞賛します。そして世界中の政府は効率の養成と、効率の組織に関わっています。生産するための、殺すための、政党 教会 特定宗教のイデオロギーを実行するための効率。私たちは皆効率的でありたいのです。そしてそのために型を求める心理的な要求を深め、その型に、効率を達成するために従うのです。効率は、それは技法・方法の養成を意味しますが、心理的に、習慣の絶え間ない実行を意味します。私たちは工業の習慣について知っていますが、抵抗という心理的習慣をほとんど知りません。そしてそれが大部分の人の求めていること、すなわち、そんなにも素早い生に出会うために私たちを効率的にする習慣の養成ではないということが私はまったく確かでありません。それゆえ、この技法、方法、手段の養成の全過程を、言葉のレベルだけでなく、深い心理的なレベルでも理解することができるなら、そのとき創造的であるということが何であるかを私たちは理解することができるだろうと私は思います。なぜなら、創造的な衝動があるとき、それはそれ自身の技法、あるいは表現のそれ自身の手段を見いだすでしょうから。しかし技法の養成に夢中になる、熱中するなら、明らかに、もうひとつのものを決して見いださないでしょう。そして私たちが技法を、確かさ、効率、継続性、持続する努力を私たちに授ける、行為の心理的な型を欲するのは何故でしょうか? 結局、宗教的な本をどうしても読むなら、それの大部分は、私はまったく確信しますが―私がそのいずれかを読んだということではなく―、やり方を含んでいます。やり方が重要になります。なぜならやり方は目標を指し示すからです。したがって目標はやり方と異なります。それはそうでしょうか? 手段は目的と違うでしょうか? もし、心理的に、習慣、方法、手段、やり方、技法を養成するなら、目的はすでに投影され、すでに具体化されていないでしょうか? したがって、手段と目的は別個のものではありません。すなわち、暴力的な方法によって世界の中に平和を持つことは、どんなレベルにおいてもできません。手段と目的は分離できないものです。そして習慣を養成する心は、すでに予見される、すでに養成される、すでに存在する、心によって投影された目的をつくり出します。そしてそれが私たちの大抵が欲していることです。技法は単に既知のもの、安全、継続の養成です。そして既知のもので、心は未知のものを認識しようと望むのです。したがって、それは決してそれを理解できません。それゆえ、手段が問題です、目的ではなく。なぜなら、目的と手段は一つであるからです。それゆえ、習慣、やり方、技法を養成する心は創造性、自然発生的な発見のあの途方もない感覚を妨げます。

私たちの問題は、そのとき、新しい技法、新しい習慣を養成することや、新しいやり方を発見することではなく、技法を求める心理的探索からまったく自由であることです。あなたが言うべき何かを持っているなら、あなたはそれを言うでしょう、正しい言葉が出てくるでしょう。しかしあなたが言うべきことを持たないなら、そしてあなたが知っているすばらしい雄弁を養成する、話す方法を学ぶために学校に行くなら、そのときあなたが表明すること、あなたが言うこと、はほとんど意味を持たないでしょう。

それで、私たちの大抵が方法、技法を求めているのは何故でしょうか? 明らかに私たちは確かであること、間違えることなく確実であることを望みます。私たちは試みること、発見することを望みません。技法の実践は瞬時瞬時の発見を妨げます。なぜなら真理、あるいはそういったもの、は瞬時瞬時であり、それは連続的な、増大し、成長する電弧ではありません。それゆえ、私たちは確かでありたい、習慣、実践を養成したいという心理的衝動から自由であることができるでしょうか? これらは皆抵抗、防衛です。そしてこの防衛機構を持って、私たちは活力ある、素早いものを理解しようと望むのです。さて、私たちがそれを見ることが、手段の養成、あるいは手段を求める探索に含まれる意味を見ることができるなら、その心理的意味を見ることができるなら―単に表面的あるいは工業的意味だけでなく。そのことは明白です。それを充分に、私がそれを説明しているとき、そしてあなたと私がそれを試しているとき、理解できるなら、そのとき多分私たちは、それから自由であることがどういうことか、発見できるでしょう。そして心理的に、安全でありたいという欲望から自由であることはできるでしょうか? 技法、手段は安全を提供します。あなたは溝の中を走ります。それでそのとき、うまく行くとか行かないということはありません。あなたは単に自動的に作動しているに過ぎません。習慣、手段を養成するために何世紀も訓練されてきた心ができるでしょうか―そのような心が自由であることができるでしょうか? それは、私たちが習慣の全意義、その弾みの全体の過程を理解するときのみ可能です。すなわち、私がそれを話しているとき、静かにあなた自身の過程を観察してください。成功したい、獲得したい、達成したいというあなたの欲望のすべての蓄積的な影響、それは理解を否定します、に気づいてください。なぜなら、生の、この全体の過程の理解は欲望を通じては生じません―それとの自発的な出会いがなければなりません。この心理的過程の全部を、その外側の表現だけでなく見ることができるなら―いかにすべての政府、すべての社会、すべての様々な共同体がそのあらゆる無情さを伴って効率を要求するか―、そのとき、心は多分その慣れている習慣からつながりを断ち始めるでしょう。そのとき、それは実際に自由であるでしょう。もはや手段を求めていないでしょう。さらにまた、心が静かであるとき、あの創造的なものが生じます。それが創造それ自体です。それはそれ自身の表現を見出すでしょう。あなたがそのための表現を選ぶ必要はありません。あなたが画家であるなら絵を書くでしょう。活力があり、優美を与え、幸福を与えるのはその創造的な理解です―あなたが学んだ何かの技法的な表現ではありません。

それゆえ、実在、あるいは神、あるいはそういったものは、技法を通じて、手段を通じて、長い、決心した練習と訓練を通じて生じることのないものです。それは既知の目的と共に並べられた道順ではありません。人は海図にない海に入らなければなりません。単独性がなければなりません。単独は手段のないことを意味します。手段を持っているときあなたは単独ではありません。完全に裸であること、これらの蓄積された練習、希望、快楽、安全を求める願望のすべてが空(から)であることがなければなりません―それらはすべて手段、方法、技法を変わることなく保持することです。そのときのみ、もうひとつのものがあり、それから問題が解決します。瞬時瞬時死んでいる、したがって再生している人は生に出会うことができます。彼が生とは別であるということではありません。彼は生です。

質問: どうやって命名、あるいはラベルを貼ることなしに感情に気づいていることができるでしょうか? 私が気持ちに気づいているなら、それが起こると、ほとんど瞬時にその気持ちが何であるか知るように思われます。それとも、あなたが「命名しないで下さい」と言うとき、違ったことを意味しているのでしょうか?

クリシュナムルティ: これは非常に難しい問題です。そしてそれは多量の考えること、そのことの全内容に気づくことを要します。そして私が説明するとき、あなたが単に言葉の上でなく、それを経験することを通してついて行くことを望みます。この問題を充分に、深く理解できるなら、私たちは多くのことを理解するだろうと感じます。私は、与えられた時間の中でできるなら、それに様々な方向から接近するようにしましょう。なぜならそれは非常に込み入った、微妙な問題であるからです。それはあなたのすべての注意を必要とします。なぜなら私たちが議論していることを、単に聞いて後ほどそれを経験しようとするのでなく、あなたはいま経験しているからです。後ほどはありません。あなたはいま、常にいま、経験するか、あるいは決して経験しないかどちらかです。

さて、なぜ私たちは何かに名前をつけるのでしょうか? なぜ私たちは花に、人に、気持ちにラベルを貼るのでしょうか? 自分の気持ちを伝達するため、花を描写するため、などなど。あるいはその気持ちと同一化するため。そうでないですか? 私はあるものに、気持ちに、それを伝達するために名前を付けます。「私は怒っている」。あるいはその気持ちを強めるために、それを解消するために、あるいはそれに何かをするためにその気持ちと同一化します。すなわち、私たちはあるものに、バラに、それをほかの人に伝えるために名を付けます。あるいはそれに名前を付けることによって、それを理解したと思うのです。素早くそれを見て「それはバラだ」と言い、先へ進みます。それに名前を付けたことで、私たちはそれを理解したと思うのです。私たちはそれを分類してしまい、そしてそれによって、その花の全内容と美を理解したと思うのです。

さて、単に伝達するだけでないとき、花に、何かに名前をつけるとき何が起こるでしょうか? どうかそれを追ってください、それを私と考え抜いてください。私は声高に話すかもしれませんが、あなたもまた話に参加しているのです。あるものに名前を付けることによって、私たちは単にそれをある範疇に入れたに過ぎません。そして私たちはそれを理解したと思うのです。それをもっと綿密に見ません。しかし、名前を付けないなら、それを見るように強いられます。すなわち、花に、あるいはそれが何であっても、新しさを伴って、調査の新しい性質を伴って接近します。まるで以前に決して見たことがないかのようにそれを見ます。命名することは人々を処理する非常に簡便なやり方です―彼らはドイツ人だ、日本人だ、アメリカ人だ、インド人だと言う事によって、ご承知ですね。彼らにラベルを貼り、そしてラベルを破壊します。しかし、人々にラベルを貼らないなら、あなたは彼らを見るように強いられます。そしてそのとき誰かを殺すことはずっと困難です。あなたはラベルを爆弾で破壊することができ、正しいと感じます。しかしラベルを貼らないで、したがって個々のものを見なければならないなら―それが人であろうが、花であろうが、出来事であろうが、感情であろうが―そのときあなたはそれとの関係を熟考するように強いられ、そして行為があとを継ぎます。それゆえ、名称をつけること、あるいはラベルを貼ることは何かを処理する、否定する、非難あるいは正当化する、非常に簡便なやり方です。それが問題の一つの側面です。

次に、あなたがそこから命名する核は何でしょうか、常に命名し、選択し、ラベルをつけている中心は何でしょうか? 私たちは皆、そこから私たちが行為し、そこから判断し、そこから命名している中心、核があると感じるのではないでしょうか? その中心、その核は何でしょうか? ある人たちはそれは精神的精髄、神、あるいはあなたの呼びたいもの、であると思いたいかもしれません。それゆえ、命名し、用語をつけ、判断しているその核、その中心が何であるか見出しましょう。確かにその核は記憶ではないでしょうか? 同一化され、囲い込まれた一連の感覚―過去のもの、現在を通して生命を与えられたもの。その核、その中心が命名、ラベル貼り、回想を通じて現在を養います。私はあなたがこれについてきていると思います。私たちはまもなく、それを開明するとき、この中心、この核が存在する限り理解はありえないのを見るでしょう。理解があるのはこの核の消失と共にだけなのです。なぜなら、結局、その核は記憶であるからです。様々の経験の記憶、それが名前、ラベル、同一化を与えてきました。それらの名づけられた、ラベルを貼られた経験と共に、その中心から、受容と拒否、そうであるかないかの決定があります、経験の記憶の感覚、快楽と苦痛にしたがって。それゆえ、その中心は言葉です。名前を付けなければその中心、中心はありますか? すなわち、言葉の見地で考えないなら、言葉を使わないなら、あなたは考えることができますか? 思考することは言語化を通して生じます。あるいは、言語化は思考することに応答し始めます。それゆえ、中心、核は、言語化された、快と苦の数え切れない経験の記憶です。どうか、それをあなた自身の中で見つめてください。すると実質より言葉がずっと重要になっているのが、ラベルがずっと重要になっているのが、そして私たちが言葉の上で生きているのがわかるでしょう。どうかそれを否定しないでください。それが正しいとか間違っていると言わないでください。私たちは探索しているのです。あなたが単に物事の一つの側面を探索するに過ぎないなら、あるいは一つの場所に留まるなら、その全内容を理解しないでしょう。したがって、それに違った角度から接近しましょう。

私たちにとって真理、神、というような言葉は非常に重要になりました―あるいはそれらの言葉が代表する気持ちが。私たちが「アメリカ人」、「キリスト教徒」、「インド人」という言葉、あるいは「怒り」という言葉を言うとき―私たちはその気持ちを表している言葉なのです。しかし私たちはその気持ちが何であるかを知りません。なぜなら言葉が重要になったからです。あなたがあなた自身を仏教徒、キリスト教徒と呼ぶとき、言葉は何を意味しますか、あなたが決して調べたことのないその言葉の背後の意味は何でしょうか? 私たちの中心、核は言葉、ラベルです。ラベルが重要でないなら、重要なのはラベルの背後にあるものであるなら、そのときあなたは調べることができます。しかし、あなたがラベルと結びついて、それにくっついているなら、あなたは進むことができません。そして私たちはラベルと結びついています。家、形、名前、家具、銀行預金、私たちの意見、私たちの興奮剤などなど。私たちはそれらすべてのものです―名前によって表わされるそれらのもの。ものが重要になりました、名前、ラベル。それゆえ中心、核、は言葉です。

さて、言葉、ラベルがないなら、中心があるでしょうか? 消失があります、空虚があります―恐怖の空虚ではありません、それはまったく違うものです。無としてある感覚があります。そしてすべてのラベルを除いてしまったので、あるいはむしろなぜ気持ちと観念にラベルを貼るかを理解したので、あなたは完全に新しいのではないでしょうか? そこからあなたが行動している中心はありません。中心、それは言葉です、は解消されました。ラベルは取り去られました。そして中心としてのあなたはどこにいますか? あなたはそこにいます。しかし変化がありました。そしてその変化は少々ぎょっとするようなものです。したがって、あなたはその中になおも含まれていることを続けません。あなたはすでにそれを判断し始めている、それを好むか好まないか決定し始めているのです。あなたは生じているものを理解するのを続けないで、すでに判断しています。それはあなたはそこから行動する中心を持っているということを意味します。したがって、あなたはあなたが判断する瞬間、固定されて留まるのです。「好き」と「嫌い」という言葉が重要になります。しかしあなたが命名しないとき何が起こりますか? あなたはより直接に情緒を、感覚を見て、それゆえそれに対してまったく違う関係を持ちます。ちょうど命名しないとき花に対して持つように。あなたはそれを新たに見ることを強いられます。あなたが人の集団に命名しない時、一人一人の個人の顔を見、そしてその人たち皆を集団として処理しないように強いられます。したがって、あなたはずっと油断なく気を配っており、ずとよく観察しており、より理解しています。より深く哀れみ、愛の感覚を持ちます。しかし彼ら皆を集団として処理するなら、それは終わります。

あなたがラベルを貼らないなら、それぞれの気持ちをそれが生じるとき、じっと見る必要があります。さて、ラベルを貼るとき、気持ちはラベルと違うでしょうか? それともラベルが気持ちを目覚めさせるのでしょうか? どうかそれをよく考えてください。私たちがラベルを貼るとき、私たちの大抵は気持ちを強化します。気持ちと命名は瞬間的です。もしも命名と気持ちの間に間隙があるなら、そのときあなたは気持ちが命名と違うかどうか見出すことができるでしょうに。そしてそのとき、気持ちを、それに命名することなしに取り扱うことができるでしょうに。これはむしろあまりに難しくなってしまっていますか? 私は嬉しいです。私はそれは難しいに違いないだろうと思います。(笑い)

問題はこうではないでしょうか? 怒りのような、私たちが命名する対象の気持ちからどうやって自由であればいいか? それにくびきをかけるのではなく、昇華するのではなく、抑圧するのではなく、それらは皆ばかげていて未熟です。しかしどうやってそれから本当に自由であればいいか? そしてそれから本当に自由であるためには、言葉が気持ちよりもっと重要であるかどうか発見しなければなりません。「怒り」という言葉が気持ちそれ自身より、より多くの意味を持ちます。そして、それを見出すためには、気持ちと命名の間に間隙がなければなりません。それが一つの部分です。

次に、私が気持ちに名前をつけないなら、すなわち、思考が単に言葉のために作動していないなら、あるいは言葉、イメージ、表象の見地で私が考えないなら、それを私たちの大抵がするのですが―そのとき何が起こりますか? 確かに心は、そのとき、単に観察者に過ぎないのではありません。すなわち、心が言葉、象徴、イメージの見地で考えていないとき、思考、それは言葉ですが、とは別個の思考者がありません。そのとき心は静かではないでしょうか?―静かにさせられたのではなく。それは静かです。そして、心が本当に静かなとき、そのとき起こった気持ちは即座に対処することができます。気持ちが継続性を持つのは私たちが気持ちに名前を与え、それによってそれらを強めるときだけです。それらは中心に蓄積され、それから、それらを強めたり伝達するため、私たちはさらにラベルを貼るのです。

それゆえ、心がもはや、言葉から、過去の経験からつくられた思考者としての中心でないとき―それらはすべて蓄積され、分類に、分類棚に入れられた記憶、ラベルです―、そういったことを何もしていないとき、そのとき、明らかに心は静かです。それはもはや束縛されていません。それはもはや「私」としての中心を持ちません―私の家、私の業績、私の仕事―それらはなお言葉であって、気持ちに対し刺激を与え、それによって記憶を強化します。これらのことが何一つ起きていないとき、心は非常に静かです。その状態は否定ではありません。それどころか、その点に到達するためには、あなたはこのすべてを通り抜けなければならず、それは巨大な仕事です。それは単に数組の言葉を学び、それを小学生のように繰り返すことではありません―名付けないこと、名付けないことと。その含みをすべて通り抜けること、それを経験すること、どのように心が働き、それによってもはや命名していないその時点に到達するか見ること、それは思考とは別の中心がもはやないということを意味します―確かに、この全過程は真の瞑想です。そして心が本当に平静であるとき、そのとき測ることのできないものが生じることができます。他のどんな過程も、実在を求めるどんな探索も、単に自己投影の、手製のものに過ぎず、それゆえ実在のものではありません。しかしこの過程は骨が折れます。そしてそれは、内部で心に起こっているあらゆることに、心が絶えず気づいていなければならないということを意味します。この点に到達するためには、初めから終わりまで、何の判断も正当化もあり得ません―これが終わりだということではなく。終わりはありません、なぜならなお続いている途方もないものがあるからです。約束はありません。実験するのは、中心の多くの層がすべて解消されるようにあなた自身の中に深く、深く、深く入って行くのは、あなたです。そしてあなたはそれを素早く、あるいはぐずぐずとすることができます。しかし心の過程を見守ることは途方もなく興味深いことです。いかに心が言葉に依存するか、いかに言葉が記憶を刺激し、死んだ経験を生き返らせてそれに命を与えるか。そして、その過程の中に心は生きています、未来の中にせよ、過去の中にせよ。したがって、心理的のみならず神経的にも、言葉は巨大な意味を持っています。そしてどうかこのすべてを私から、あるいは本から学ばないでください。それを他人から学ぶこと、あるいは本の中に見つけることはできません。学んだり本から見つけることは実在のものではないでしょう。しかしあなたはそれを経験することができます。行動しているあなた自身を見守ることができます。考えているあなた自身を見守りなさい。どんなふうにあなたが考えるか、どんなに素早くあなたが気持ちに、それが起きるとき命名しているかを―そしてこの全過程を見守っていることが、心をその中心から解放します。そのとき心は静かであるので、永遠のものを受け取ることができます。

質問: 正しい関係とは何でしょうか? 個人と集団・大衆の間に、もしあるなら。

クリシュナムルティ: 個人と大衆の間に何か関係があるとあなたは思いますか? あなたと集団の間に? 国家、政府は私たちが単に市民、集団であることを好むでしょう。しかし私たちは最初に人間であり、そしてのちに市民です―最初に市民で、のちに人間ではなく。国家は私たちが人間、個人ではなく、大衆であるのを好むでしょう。なぜなら、私たちが市民であればあるほど、私たちの能力はますます大きく、私たちの効率はますます大きいからです―私たちは、官僚、権威主義的国家、政府が私たちにそうであるのを望む道具になります。

それゆえ、私たちは私的な個人と市民、人間と大衆を見分けなければなりません。個人、人間は彼の私的な気持ち、希望、失敗、失意、熱望、感覚、快楽を持っています。そしてそのすべてを集団に還元しようと望む視点があります。というのは集団を取り扱うのは非常に簡単であるからです。布告を通せ、するとそれはなされる。禁制を与えよ、するとそれは従われる。それゆえ、組織があればあるほど、それらが効率的に組織されればされるほど、ますます個人は否定されます。教会によるにしろ、国家によるにしろ―私たちはそのとき皆キリスト教徒です、皆インド人です、個人ではなく。そしてその精神性で、その状態の中で、それを私たちの大抵は望むのですが、個人的実在は何かの場所を持つでしょうか? 私たちは集団的な行為がなければならないと認識します。しかし集団的な行為は個人の否定と共に生じるのでしょうか? 個人は集団に対立するものでしょうか? 集団は偽りではないでしょうか、大衆は非実在ではないでしょうか? 個人を取り扱う困難を見て、私たちは対立するもの、大衆をつくり出します。それから個人と集団の間の関係を確立しようとします。個人が聡明であるなら、協力するでしょう。確かにそれが私たちの問題ではないでしょうか? 私たちは最初に大衆をつくり出し、そして次に大衆との個人の関係を見出そうとします。しかし大衆は実在するものかどうか見出しましょう。ここにいる私たちの集まりは、催眠術によって、宣伝によって、集団にされることができます。様々な手段を通じて、私たちはイデオロギーのため、国家のため、教会のため、観念などなどのため、集団的に行動するよう駆り立てられる事があります。すなわち、集団的行動は恐怖、褒賞、その他もろもろを通して、外部から課せられ、指図され、押しつけられることがあります。その条件が造り出されたとき、私たちは造り出されたものと個人、それは現実のものです、の関係を確立しようとするのです。ところが、分離の意味のすべてを的確に理解することを通して個人が彼の分離の感覚を失い、それゆえ協力的に行動することはできないでしょうか? しかし、それは非常に困難なので、国家、政府、教会、組織宗教は、個人を団体となるように強制したり、誘惑したりします。個人は歴史の中にどんな場所を持っているでしょうか? あなたや私のすることが何だというのでしょうか? 進んでいる歴史的な運動があります。実在はこの運動にどんな場所を持つのでしょうか? 多分まったく何も持っていないのです。あなたや私はまったく数に入らないのです。この運動は巨人のようです。それは進んでいます。それは何世紀ものはずみを持っており、進んでいくでしょう。個人として、この運動に対するあなたの関係は何でしょうか? あなたが何をしようが、それはそれに影響するでしょうか? あなたは平和主義者であるので戦争を止めることができるでしょうか? 戦争があるからではなく、それとの関係を見出したからではなく、本質的に戦争は間違っており、あなたは殺すことはできないと感じるので平和主義者です。そこで事は終わります。しかしあなたの理解、聡明さと戦争のこの怪物のような論理的な運動の間の関係を見出そうとすることは、私にはまったく無駄なことのように思われます。私は個人であることが、そしてさらに何が私の中に反社会的な感情をつくり出すかを見ることが、それゆえ分離的な行為から自由であることができます。私は少々の財産を持っているかもしれません。確かにそれは私を分離的な存在にしません。しかし分離していること、孤立していること、何ものかであることは心理的状態の総体です―それは災難をもたらすものであって、非常に破壊的です。そして、それを克服するために、私たちはあらゆる外部の禁制と刑罰と布告を持つのです。

質問: 苦痛と苦悩の意義は何でしょうか?

クリシュナムルティ: あなたが悩むとき、あなたが苦痛を持つとき、その意義は何でしょうか? 肉体的苦痛は一つの意義を持っています。しかし多分、私たちは心理的な苦痛と苦悩を意味しているのでしょう。それは違ったレベルで、まったく違った意義を持っています。苦悩することの意義は何でしょうか? なぜあなたは苦悩することの意義を見出したいのでしょうか? それが意義を持っていないということではなく―私たちは見出そうとしているのです。しかしなぜあなたはそれを見いだしたいのでしょうか? なぜあなたはあなたが苦悩する理由を見出したいのでしょうか? 「なぜ私は苦悩するのか?」という質問を自問するとき、そして苦悩する原因を捜しているとき、苦悩から逃避しているのではないでしょうか? 苦悩することの意義を私が捜すとき、私はそれを避けている、逃れている、それから逃げ出しているのではないでしょうか? 事実はこうです、私は苦悩している。しかし私が心に、それに働きかける気にさせ、「さて、なぜ?」と言うや否や、私はすでに苦悩の強さを薄めたのです。言い換えれば、私たちは苦悩を薄めることを、緩和すること、脇にやること、説明し去ることを望みます。確かにそれは苦悩の理解を与えません。それゆえ、それから逃げようとする欲望から自由であるなら、そのとき私は苦悩の内容が何であるか理解し始めます。

さて、苦悩とは何でしょうか? 妨害、そうではないでしょうか?、様々なレベルでの―肉体での、そして潜在意識の様々なレベルでの。それは妨害の激烈な形であり、それを私は好みません。私の息子は死にました。私は彼の周りに希望のすべてを築きあげました―あるいは娘、夫、何でもその周りに。私は、私が彼にそうあって欲しいと望んだことすべてと一緒に、彼を大切にしました。そして彼を私の伴侶としてきました―ほら、そういったすべて。そして突然彼は去りました。それゆえ、妨害があるのではないでしょうか? その妨害を私は苦悩と呼びます。どうか、私は無情なのではありません。私たちはそれを理解しようとして調べているのです。その苦悩を私が好まないなら、そのとき私は言います、「なぜ私は悩んでいるのだろうか?」、「私は彼をそんなにも愛した」、「彼はこうであった」、「私はそれを持った」。そして私たちの大抵がするように、私は言葉の中に、ラベルの中に、信念の中に逃避します。それらは麻酔剤として作用します。しかし、私がそれをしないなら、何が起こるでしょうか? 私は単純に苦しみに気づいています。私はそれを非難しません。正当化しません―私は苦しんでいます。そのとき私はその動きについて行くことができるのではないでしょうか? そのとき私は、それが意味することの全内容について行くことができます―何かを理解しようとするという意味で「私はついて行きます」。

それゆえ、それはどういう事でしょうか? 苦しんでいるということは何でしょうか? なぜ苦しみがあるかではなく、苦しみの原因が何であるかではなく、何が現実に起こっているのでしょうか? あなたがその違いがわかるかどうかわかりません。そのとき私は単純に苦しみに気づいています。私とは別のものとしてではなく、苦しみを見張っている観察者としてではなく―それは私の不可欠な属性です。すなわち、私の全体が苦しんでいるのです。そのとき私はその動きを追うことができます。それがどこに導くかを見ることができます。確かに、私がそれをするなら、そのときそれは開けて来るのではないでしょうか? そのとき私が「私」に強調をおいていたことが見えます―私が愛する人にでなく。彼はただ私の悲惨から、孤独から、不幸から、私を隠すように作用していたのです。私は何者でもなかったので、彼がそうであるように望んだのです。そこでそれは去りました。私は残され、途方に暮れ、孤独です。彼なしでは、私は無です。そこで私は泣きます。彼が去ったということではありません、そうではなく私が残されているのです。私はひとりです。その点に達するのは非常に困難です。そうでないですか? それを本当に認識し、そして「私はひとりだ。どうやってその孤独を免れたらいいだろう?」と単に言うだけでないことは困難です。そう言うことは逃避の別の形です。しかしそれを意識すること、それと共に留まること、その動きを見ることは困難です。私はこれを例としてただ話しているだけです。それゆえ、徐々に、もし私がそれが開くのを、開けてくるのを許すなら、私が途方にくれているので苦しんでいるのが見えます。私は私が進んで見ようとしないものに注意を注ぐように言われているのです。私が見て理解するのを渋っているものが、私に押し付けられているのです。そして私が逃避するのを助けようとする無数の人たちがいます―何千ものいわゆる宗教的な人々、かれらの信仰と教条、希望と幻想を伴って―「それは運命だ。それは神の意志だ」、ほら、すべて私に出口を与えています。しかし私がそれと共に留まり、それを私から除かず、それを抑えるとか否定しようとしないなら、そのとき何が起こりますか? 私の心の状態は、心がそのように苦しみの動きについて行っているとき、どんなですか? さて、どうかこれを追ってください。私たちが前に議論したことに続いて。

苦しむことは単なる言葉でしょうか、それとも現実でしょうか? それが現実であって、ただの言葉でないなら、そのとき言葉は意味を持ちません。それゆえ、単に激しい苦痛の感覚があるに過ぎません。何に関してでしょうか? イメージに、経験に、あなたが持っている、あるいは持っていない何かに関して。それを持っているなら、あなたはそれを快楽と呼びます。あなたが持っていないなら、それは苦痛です。それゆえ、苦痛、悲しみは何かに対する関係の中にあります。その何かは単なる言語化に過ぎないのでしょうか、それとも現実でしょうか? あなたがこのすべてについてきているかどうか私はわかりません。すなわち、悲しみが存在するとき、それは何かとの関係の中にのみ存在します。それはそれ自身で存在できません―恐怖がそれ自身で存在できないで、何かとの、個人との、出来事との、気持ちとの関係の中にあるように。さて、あなたは苦しみに充分気づいています。その苦しみはあなたとは別で、それゆえ、あなたは単に苦しみを知覚する観察者に過ぎないのでしょうか、それともその苦しみはあなたの部分でしょうか? 確かに私たちは苦しみ、苦痛が何であるか理解しようとしています。私たちはただ表面的にではなく、それに充分に突っ込んで行こうとしています。

さて、苦しんでいる観察者がないとき、苦しみはあなたと違うでしょうか? あなたは苦しみではないでしょうか? あなたは苦痛と別ではありません―あなたは苦痛です。さて何が起こるでしょうか? どうかそれを追ってください。ラベル貼りはありません。それに名前を付け、それによってそれを払いのけることはありません―あなたは単にその苦痛、その感じ、その苦悶の感覚です。そのとき、あなたがそれであるとき、何が起こりますか? それに命名しないとき、それに関して何の恐怖もないとき、中心はそれに関係していますか? 中心が関係しているなら、そのとき中心はそれを恐れます。そのときそれは行動し、それについて何かするに違いありません。しかし中心がそれであるなら、そのときあなたはどうしますか? することは何もないのではないでしょうか? どうか、それは単なる受容ではありません。それを追ってください。すると見えるでしょう。あなたがそれなら、そしてそれを受容していないなら、ラベルを貼っていないなら、押しのけていないなら―あなたがそのことであるなら、何が起こりますか? そのときあなたは「私は苦しむ」と言うでしょうか? 確かに、基本的な変容が起きています。そのときもはや「私は苦しむ」はありません。なぜなら苦しむ中心がないからです。そして中心は苦しみます。なぜなら中心が何であるか、私たちは決して調べたことがないからです。私たちはただ言葉から言葉に、反応から反応に生きています。私たちは「苦しむそのものが何であるか見ましょう」と決して言わないのです。そして努力によっては、修練によっては、決して見ることはできません。あなたは関心をもって、自発的な理解力をもって見なければなりません。そのとき苦しみ、苦痛と呼んだもの、私たちが避けるもの、そして鍛錬、すべて去りました。私の外部にあるものとして物事と関係を持たない限り、問題はありません。しかし私の外部のそれと関係を確立するや否や、問題があります。私が苦しみを外部の何かとして取り扱う限り―私は兄弟を失ったため、お金を持っていないため、あれやこれやのため苦しみます―、私はそれに対し関係を確立し、そしてその関係は架空のものです。しかし私がそのことであるなら、私が事実を見るなら、そのとき全体の物事が変容します。それはすべて違った意味を持ちます。そのとき十分な注意、統合された注意があります。そして完全に見られたものは、理解され、解消されます。それで恐怖はありません。それゆえ、「悲しみ」という言葉は非存在です。

1949年8月21日

(訳者: N.Goto)2003.06.掲載

「自我の終焉」の源流を尋ねて

1949年オハイ講話 [1] [2] [3] [4][5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14]