クリシュナムルティを読む

ゴト改め皆様の読書室

「自我の終焉」の源流を尋ねて

1949年オハイ講話 [1] [2] [3] [4][5] [6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14]

1949年 オハイの公開講話(第5回)

J. Krishnamurti Ojai 5th Public Talk 30th July 1949

ここ四つの講話や討論の間、私たちは自己認識の問題を考えてきました。なぜなら、私たちが言ったように、自分自身の思考と感情の過程に気づいていることなしに、正しく行為したり、正しく考えることは明らかにできないからです。それゆえ、これらの集会や討論や会合の本質的な目的は、自分自身で、自分自身の思考する過程を直接に経験し、それに統合的に気づいていることが出来るかどうかを、実際に見ることです。私たちの大抵はそれに表面的に、心の上層の、あるいは表層のレベルで気づいていますが、全体的過程としてではありません。自由を与えるのは、把握力を与えるのは、理解を与えるのは、この全体的過程です。そして部分的な過程ではありません。私たちのいくらかは私たち自身を部分的に知っているかもしれません、少なくとも私たちは私たち自身を少々は知っていると思うのです。しかしその少々は充分ではありません。なぜなら、自分自身を少し知るなら、それは助けというよりもむしろ障害として働くからです。そして自分自身を全体的過程として―身体的にも心理的にも、表層のみならず隠れた、無意識の、深い層も―知る中でのみ、全体の過程を知るときのみ、私たちは不可避的に生じる問題を、部分的にでなく全体として、取り扱うことが出来るのです。

さて、全体的過程を取り扱うこの能力が、私が今晩討論したいことです。またそれが、ある種の専門化を意味する特定の能力の養成の問題であるかどうかも。理解、幸福、単なる身体的感覚を超えるものの理解が、何かの専門化を通じて生じるでしょうか? なぜなら、能力は専門化を意味するからです。絶えず専門化が進んでいる世界の中で、私たちは専門家に依存します。自動車で何か具合の悪いことがあれば、私たちは修理工に頼ります。身体的に何か具合の悪いことがあれば、医者のところに行きます。心理的に不適応があれば、お金や収入があればですが、心理療法家の所や、牧師、その他のところに駆けつけます。すなわち、私たちは失敗や悲惨を助けてもらうために、専門家に頼ります。

さて、私たち自身を理解することは専門化を必要とするでしょうか? 専門家は、どんなレベルにせよ、ただ彼の専門を知っているだけです。そして私たち自身を知ることは専門化を必要とするでしょうか? 私はそうは思いません。とんでもない。専門化は私たちの存在の全体の、総体の過程を特定の点に狭め、その点に専門化することを意味しないでしょうか? 私たちは私たち自身を総体の過程として理解しなければならないので、専門化することはできません。なぜなら専門化は明らかに排除を意味するからです。ところが、私たち自身を知ることはどんな種類の排除も要求しません。それどころか、それは統合的な過程として、私たち自身に完全に気づいていることを必要とします。そしてそのためには、専門化は障害です。

結局、私たちがしなければならないことは何でしょうか。私たち自身を知れ。それは確かに世界との私たちの関係を知ることです―観念や人々の世界との関係だけではなく、また自然との、私たちが所有しているものとの関係。それが私たちの生です―全体との関係である生。そしてその関係を理解することは専門化を必要とするでしょうか。明らかにしません。それが要求するものは、生に全体として出会うための気づきです。どんなふうに人は気づいていればいいでしょうか? それが私たちの問題です。どうやって人はその気づきを持てばいいでしょうか―私がこの言葉を専門化を意味させることなしに使えるならですが? どうやって人は生に全体として出会うことができればいいでしょうか?―それは隣人との個人的な関係を意味するだけでなく、また自然との、あなたが所有するものとの、観念との、心が幻想、欲望、その他として造ったものとの関係を意味します。どうやって人はこの関係の全体の過程に気づいていればいいでしょうか? 確かにそれが私たちの生ではないでしょうか? 関係なしに生はありません。そしてこの関係を理解することは、私が主張し常に説明してきたように、孤立を意味しません。それどころか、それは関係の全体の過程の十分な認識、あるいは気づきを必要とします。

さて、どんなふうに人は気づいていればいいでしょうか? どんなふうに私たちは何かに気づいていますか? どんなふうにあなたは人とのあなたの関係に気づいていますか? どんなふうにあなたはこれらの木に、その牝牛の鳴き声に気づいていますか? どんなふうにあなたは新聞を読むときあなたの反応に気づいていますか、もしあなたが新聞を読むならですが? そして、私たちは心の表層の反応に、内部の反応と同じように気づいているでしょうか? どんなふうに私たちは何かに気づいていますか? 確かに、まず私たちは刺激に対する反応に気づくのではないでしょうか? それは明白な事実です。私は木を見ます。そして反応があります。次に感情、接触、識別、そして欲望。それが普通の過程ではないでしょうか? 私たちは現実に起こることを、本を勉強することなしに観察することができます。

そこで、識別を通してあなたは快楽と苦痛を持ちます。そして私たちの「能力」はこの快楽への関心と苦痛を避けることではないでしょうか? 何かに興味を持つなら、それがあなたに快楽を与えるなら、直ちに「能力」があります。その事実への気づきが直ちにあります。そしてそれが苦痛であるなら、「能力」はそれを避けるために展開させられます。それゆえ、私たちが私たち自身を理解するのに「能力」に頼っている限り、失敗するだろうと私は思います。なぜなら私たち自身を理解することは能力に依存しないからです。それはあなたが開発し、養成し、時間を通して、絶え間ない練磨を通して増大させるテクニックではありません。この自己への気づきは、確かに、関係の行為の中で検査することができます。それは私たちの話し方、振舞い方の中で検査することができます。会合がすんだあとであなた自身を見守ってください、食卓でのあなた自身を見守ってください―ただ観察してください。識別なしに、比較なしに、非難なしに。ただ見守ってください。すると途方もないことが起きるのが見えるでしょう。あなたは無意識である活動を終わりにするだけでなくて―なぜなら私たちの活動の大抵は無意識ですから―それをおしまいにするだけでなくて、その上、その行為の動機に、調べることなしに、それを掘り返すことなしに気づきます。

さて、気づいているとき、あなたはあなたの思考と行為の全過程を見ます。しかしそれは非難がないときのみ起こることができます。すなわち、私が何かを非難するとき、それを理解しません。それはどんな種類の理解も避ける一つのやり方です。私は私たちの大抵がそれを故意にすると思います。私たちは直ちに非難し、そして理解したと思うのです。非難しないで、それをじっと見る、それに気づいているなら、そのとき内容、その行為の意義は明らかになり始めます。これを実験してください。するとあなた自身でわかるでしょう。ただ気づいていてください―正当化の何の感覚もなしに―それはむしろ否定的に見えるかもしれませんがそれは否定的ではありません。それどころかそれは直接の行為である受動性の質を持っています。そしてそれを実験するなら、あなたはこのことを発見するでしょう。

結局、何かを理解したいなら、あなたは受動的な心がまえでいなければなりません、そうでないでしょうか? それを考えたり、それを思索したり、尋ねたりし続けることはできません。その内容を受け取るに十分敏感でなければなりません。それは感度のある写真乾板であるようなものです。私があなたを理解したいなら、私は受動的に気づいていなければなりません。そのとき、あなたは私に物語のすべてを話し始めます。確かにそれは能力や専門化の問題ではありません。その過程の中で、私たちは私たち自身を理解し始めます―意識の表層のみならず、より深い層も。それはずっと重要です。なぜなら私たちの動機や意向、隠れた、混乱した要求、不安、恐怖、性向があるからです。外側では私たちはそれらをすべてコントロール下においているかもしれません。しかし内側ではそれらは沸騰しているのです。それらが気づきを通して完全に理解されるまで、明らかに自由はあり得ません。幸福はあり得ません。英知はありません。

それゆえ、英知は専門化の問題でしょうか?―私たちの過程への全体的な気づきである英知。そしてその英知は何かの形の専門化を通して養成されるべきでしょうか? なぜなら、それが起こっていることであるからです。そうでないですか? あなたは私の言うことを、多分私は専門家であると思いながら聞いています―そうでありませんように。牧師、医者、技術者、工業家、実業家、教授―私たちはそういった専門化の知能を持っています。そして英知の最高の形態を理解するためには―それは真理です、それは神です、それは記述できません―、それを理解するためには、私たち自身を専門家にしなければならないと私たちは思うのです。私たちは研究します。模索します。調べ抜きます。そして専門家の知能で、あるいは専門家に頼って、私たち自身を研究します。私たちの葛藤、私たちの悲惨を解明するのを助けてくれる能力を開発するために。

それゆえ、私たちの問題は、私たちが仮にも気づいているなら、私たちの日常生活の衝突と悲惨と悲しみが他人によって解決され得るかどうかです。そして他人によって解決され得ないなら、どんなふうに私たちはそれらに取り組むことができるでしょうか? 問題を理解することは、明らかにある英知を要します。そしてその英知は専門化を通して引き出す、あるいは養成することはできません。それは私たちが私たちの意識の全過程に受動的に気づいているときのみ生じます。それは選択なしに、何が正しく何が間違っているか選ぶことなしに、私たち自身に気づいていることです。なぜなら、あなたが受動的に気づいているとき、その受動性から―それは怠惰ではありません、それは眠っていません、そうではなく極度に油断なく気を配っている状態です―、問題はまったく異なった意味を持つからです。それはこういうことです。もはや問題との同一化はなく、それゆえ判断はなく、したがって問題はその内容を明かし始めます。あなたがそれを絶えず、連続的にすることができるなら、そのとき、あらゆる問題は表面的でなく、基本的に解決することができます。そしてそのことが私たちの困難です。なぜなら私たちの大抵は受動的に気づいていて、解釈することなしに問題に物語を話させることができないからです。私たちはどうやって問題を冷静に見るか知らないのです―その言葉を使うことをお好みならですが。あいにく、私たちはそのことをすることができません。なぜなら私たちは問題から結果を望むからです。私たちは答えを望みます。私たちは結果を目指します。あるいは問題を私たちの快と苦にしたがって翻訳しようとします。あるいは問題をどう取り扱うか、すでに答えを持っています。したがって、私たちは問題に、それは常に新しいのですが、古いパターンで接近するのです。挑戦は常に新しいものです。しかし私たちの反応は常に古いものです。そして私たちの困難は挑戦に適切に、すなわち、充分に出会うことです。問題は常に関係の問題です。他の問題はありません。そして常に変化している要求を持っている関係の問題に出会うためには―それに正しく出会うためには、それに適切に出会うためには―人は受動的に気づいていなければなりません。そしてこの受動性は決心の、意志の、訓練の問題ではありません。私たちが受動的でないことに気づくことが始まりです。私たちが特定の問題に対する特定の答えを望んでいるということに気づくこと―確かにそれが始まりです。つまり、問題に対する関係の中の私たち自身を、そしてどんなふうに私たちが問題を取り扱うかを知ること。そのとき、私たちが問題に対する関係の中の私たち自身を知り始めるとき、―その問題に出会う中でどんなふうに私たちが反応するか、私たちの種々の偏見、要求、追求は何であるか―、この気づきが私たち自身の思考の、私たち自身の内部の性質の過程を明かすでしょう。そしてその中に、解放があるのです。

それゆえ、生は関係の問題です。そしてその関係、それは静的ではありません、を理解するためには、柔軟な気づき、攻撃的に活動的ではなくて油断なく受動的である気づきが必要です。そして私が言ったように、この受動的な気づきはどんな形の訓練を通しても、どんな練習を通しても生じません。それは、目覚めているときだけでなく、瞬時瞬時私たちの思考と感情にただ気づいていることです。というのは、私たちがそれにより深くはいり込んで行くにつれて、私たちは夢を見始めるということ、私たちが夢と解釈する、あらゆる種類の象徴を投げ上げ始めるということを見るからです。それゆえ、私たちは隠れたものへの扉を開きます、それは既知のものになります。しかし、未知のものを見つけるためには私たちは扉を超えなければなりません―確かに、それは私たちの困難です。実在は心によって知ることのできるものではありません。なぜなら心は既知のものの、過去のものの結果であるからです。したがって、心はそれ自身を、そしてその作用、その真実を理解しなければなりません。そしてそのときのみ、未知のものがあることが可能なのです。

質問: すべての宗教は人間の中の野獣の本能を和らげるために、ある種の自己鍛錬を主張しました。自己鍛錬を通じて聖者や神秘家は、神性を得たと断言しました。さて、あなたはそのような鍛錬は神の理解への障害であると暗示しているように見えます。私は混乱しています。誰がこの事柄について正しいのでしょうか?

クリシュナムルティ: 確かに、それはこの事柄において誰が正しいかという問題ではありません。重要なことは私たち自身で事柄の真実を見出すことです―特定の聖者や、インド、あるいは、エキゾチックであればあるほどいいのですが、どこか他の場所から来た人に従ってではなく。それゆえそれを一緒に調べましょう。

さて、あなたはこれら二つの間に捕らえられています。誰かは鍛錬と言い、他の人は鍛錬なしと言います。一般に起こることはこうです。あなたはより都合のよいもの、より満足なものを選びます。あなたはその人を、彼の顔つき、彼の個人的特質、彼の個人的偏愛、その他もろもろを好みます。それゆえ、そういったことをすべて捨てて、この質問を直接調べ、私たち自身で事柄の真実を見出しましょう。なぜなら、この質問の中には多くのことが含まれているからです。そして私たちはそれに非常に用心深く、ためらいがちに接近しなければなりません。

私たちの大抵は権威のある誰かがどうすべきか教えてくれることを望みます。私たちは行動に指示を期待します。なぜなら、私たちの本能は安全であることで、より多く悩むことではないからです。誰かが幸福、至福、あるはあなたの望むものを実現したと言われます。すると私たちはそこへ到達するには何をすればいいのか、彼が私たちに教えてくれるだろうと思います。それが私たちの望むことです。私たちはその同じ幸福、その同じ内部の静かさ、悦びを望みます。そしてこの混乱した狂気の世界の中で、私たちに何をすべきか教えてくれる誰かを望みます。それが実際に、私たちの大抵における基礎的な本能です。そして、その本能に従って、私たちは行為を形成します。神は、名づけることのできない、言葉で測ることのできないあの至高のものは―それは、鍛錬によって、行為の特定の型に従うことによって生じるでしょうか? どうか、私たちはそれを一緒に考え抜いているのです、―しばらく雨を気にしないでください。関心があるなら、それを調べましょう。私たちは特定の行き先に、特定の目的に到達したいのです。そして、練習によって、鍛錬によって、抑圧することや解放することによって、昇華することや置換することによって、求めているものを見出すことができるだろうと私たちは思うのです。

何が鍛錬の中に含まれているでしょうか? なぜ私たちは私たち自身を鍛錬するのでしょうか、もしするならですが? 私は、私たちがするかどうか疑います―しかしなぜそれをするのでしょうか? いいえ、まじめに。なぜ私たちはそれをするのでしょうか? 鍛錬と英知は相伴うことができるでしょうか? それを充分に尋ね、どこまで―雨が私たちに許すなら―このことを調べることができるかを見ましょう。なぜなら、たいていの人が何かの種類の鍛錬を通して、私たちの中の獣、醜いものにくびきをかけ、制御しなければならないと感じるからです。そしてその獣、その醜いものは鍛錬を通して制御できるでしょうか? 鍛錬とはどういうことでしょうか? 報酬を約束する一組の行為、実行するなら望んでいるものを私たちに与えるであろう一組の行為―それは肯定的であるかもしれないし、否定的であるかもしれません。行動の型は、それが精を出して、勤勉に、とても熱心に練習されるなら、最後には私が望むものを与えるでしょう。それは苦痛であるかもしれませんが、私はそれを得るためにいとわずにやり抜きます。すなわち、自己は、それは攻撃的で、利己的で、偽善的で、不安で、恐れています―ほら、そういったすべて。その自己、それは私たちの中の獣の原因です、を私たちは変化させ、くびきをかけ、破壊したいのです。そしてどうやってこのことはなされるべきでしょうか? 鍛錬によってなされるべきでしょうか、あるいは自己の過去、自己とは何か、どうやってそれは生じたか、等々の聡明な理解を通してなされるべきでしょうか? すなわち、私たちは人間の中の獣を比較を通して、あるいは英知を通して破壊するのでしょうか? そして英知は鍛錬の事柄でしょうか? 当面、聖者や他のすべての人の言ったことを忘れましょう―そして私は彼らがそれを言ったかどうか知りません。私が聖者について専門家であるということではありません。しかし事柄を私たち自身で、あたかもこの問題を最初に眺めるかのように調べましょう。そのとき、その終わりに創造的な何かを持つかもしれません。他の人たちの言ったことのただの引用でなく。それはすべてまったく徒労で無益です。

私たちは最初に私たちの中に葛藤があると言います。白に対立する黒、非貪欲に対立する貪欲、などなど。私は貪欲です。それは苦痛を作り出します。そしてその貪欲を除くために、私は私自身を鍛錬しなければなりません。すなわち、私に苦痛を与えるどんな形の葛藤にも抵抗しなければなりません、それを私は、この場合、貪欲と呼びます。私はその次に、それは反社会的である、非倫理的である、聖人のようではない、などなどと言います―様々な社会的宗教的理由を抵抗するために与えます。貪欲は比較を通して破壊されるでしょうか、あるいは私たちから除かれるでしょうか? まず、抑制の中に、強制の中に、それを捨てること、抵抗することの中に含まれている過程をよく調べましょう。それをするとき、貪欲に抵抗するとき、何が起きますか? 貪欲に抵抗しているものは何でしょうか? それが最初の質問ではないでしょうか? なぜあなたは貪欲に抵抗するのでしょうか、そして「私は貪欲から自由でなければならない」と言う存在は誰でしょうか? 「私は自由でなければならない」と言う存在もまた貪欲ではないでしょうか?

なぜなら、いままで、貪欲は彼に支払ってきました。しかしいまそれは苦痛です。したがって彼は「私はそれを除かなくてはならない」と言います。それを除こうとする動機はなお貪欲の過程です。なぜなら、彼は、いまそうでないものでありたいと望んでいるからです。非貪欲がいまは有益です。そこで私は非貪欲を追求します。しかし動機、意図はなお何かであること、非貪欲であることです―それは確かに、なお貪欲です。それは再び否定的な形のミーの強調です。

それゆえ、私たちは明白な様々の理由で、貪欲は苦痛であることを見いだします。私たちがそれを楽しんでいる限り、それが貪欲であるように私たちに支払っている限り、問題はありません。社会は様々なやり方で、貪欲であるように私たちを激励します。そのように宗教も様々な形で私たちを激励するのです。それが利益をもたらす限り、それが苦痛でない限り、私たちはそれを追求します。しかしそれが苦痛になるやいなや、私たちはそれに抵抗することを望みます。その抵抗が、私たちが貪欲に対する鍛錬と呼んでいるものです。しかし私たちは抵抗を通して、昇華を通して、抑制を通して、貪欲から自由であるでしょうか? 貪欲から自由であることを望むミーの側からのどんな行為も、なお貪欲です。したがって、貪欲に関するミーの側からのどんな行為も、どんな反応も、明らかに解決ではありません。

まず第一に、何かを理解するためには、特に私が知らないもの、私の心が深さを測れないものを理解するためには―それは、この質問者は言っていますが、神です―、静かな心が、平穏な心がなければなりません。何かを、何か錯綜した問題を―生あるいは関係の、つまりどんな問題でも―、理解するためには心にある静かな深さがなければなりません。そしてその静かな深さは何かの形の強制を通してやって来るでしょうか? 表面的な心はそれ自身を強制する、それ自身を静かにさせるかもしれませんが、そのような静かさは衰退、死の静かさです。それは適合すること、柔軟であること、敏感であることができません。それゆえ抵抗はやり方ではありません。

さて、それを見ることは英知を必要としないでしょうか? 心が比較によって鈍くされていることを見ることは、すでに英知の始まりではないでしょうか?―鍛錬は単に恐怖を通してある型の行為に順応することに過ぎないということを見ることは。なぜなら、それが私たち自身を鍛練することの中に含まれていることであるからです。つまり私たちは望むものを得ないことを恐れるのです。そしてあなたが心を鍛練するとき、あなたの存在を鍛練するとき、何が起こりますか? 確かにそれは非常に硬くなるのではないですか? しなやかでなく、素早くなく、調整できず。あなたは自分自身を鍛錬した人たちを知りませんか―そのような人がいるならですが? 結果は明らかに衰退の過程です。内部の葛藤があり、それは押しのけられ、隠し去られています。しかしそれはそこにあり、燃えています。

それゆえ、私たちは見ます。鍛錬は、それは抵抗ですが、単に習慣を作り出すに過ぎず、習慣は明らかに英知をもたらすことはあり得ません、習慣は決してそうしません、練習は決してそうしません。一日中ピアノを練習したり、何かを手で作ることによって指は非常に器用になるかもしれません。しかし英知は手を指図するために必要なのです。そして私たちは今、その英知を調べているのです。

あなたは誰かを見て、その人を幸福である、あるいは実現していると考えます。そしてその人は或る物事をします。そしてあなたはその幸福を望んで彼を模倣します。この模倣は鍛錬と呼ばれます、そうでないですか? 私たちは他人が持っているものを受け取るために模倣します。私たちは幸福になるためにまねるのです。彼が幸福であるとあなたは思うのです。幸福は鍛錬を通じて見つかるでしょうか? そして、ある規則を実行することによって、ある鍛錬、行動のやり方を実行することによって、あなたはいったい自由であるでしょうか? 確かに、発見のためには自由がなければなりませんね。何かを発見したいなら、内的に自由でなければなりません。それは明白です。あなたが鍛錬と呼ぶ特定のやり方であなたの心を形作ることによって、あなたは自由であるでしょうか? 明らかにあなたはそうでありません。あなたは特定の結論に従って、行動の特定のやり方に従って抵抗している単に反復的な機械に過ぎません。それゆえ、自由は鍛錬を通して生じることはできません。自由は英知と共に生じることができるだけです。そしてあなたがどんな形の強制も、内部的にも外部的にも、自由を否定するということを見るや否や、その英知は目覚めます。あるいはあなたはその英知を持つのです。

それゆえ、第一に必要なことは、鍛錬としてではなく、明らかに自由です。そして徳のみがその自由を与えます。貪欲は混乱です。怒りは混乱です。苦しさは混乱です。あなたがそのことを見るとき、明らかにあなたはそれらから自由です―あなたがそれらに抵抗するということではなく、自由の中でのみ発見することができるということを見るとき。そしてどんな強制の形も自由ではなく、それゆえ発見はないということを見るとき。確かに、徳がすることは、あなたに自由を与えることです。徳がない人は混乱している人です。そして混乱の中で、どうして何かを発見することができるでしょうか? どうしてできるでしょうか? それゆえ、徳は鍛錬の最終成果ではなくて、徳は自由です。そして徳でない それ自体真実でない何かの行為を通して、自由が生じることはあり得ません。私たちの困難は、私たちの大抵が非常に多く読んでおり、非常に多くの鍛練に表面的に従ったということです―毎朝特定の時間に起き、特定の姿勢で座り、心を特定のやり方で保持しようとし―ほら、練習、練習、鍛錬。なぜなら、あなたがこれらの事をするなら、それに至るであろう、これらの事を何年もするなら、その終わりに神を持つであろうとと告げられたからです。私はそれを粗野に述べたかもしれませんが、それが私たちの考えることの基礎です。確かに神はそういったようにそんなに容易に到来しません。神は単なる取引できるものではありません。私はこれをする、するとあなたは私にそれをくれるというふうな。

私たちの大抵は外部の影響によって、宗教的な教条 信念によって、そして私たち自身の何かに到達したいという内部の要求によって非常に条件付けられているので、私たちが鍛錬の観点から考えないで、この問題を新たに考えるのは非常に困難です。それゆえまず私たちは鍛錬の意味合いを、それがどんなふうに心を狭めるか、心を限定するか、私たちの欲望を通して、影響などなどを通して、心に無理やり特定の行為をさせるかを非常に明確に見なければなりません。そして条件付けられた心は、その条件付けがいかに「有徳」であろうが、とても自由であることはできず、それゆえ実在を理解することはできません。そして、神、実在、あるいはそういったものは―名前は問題ではありません―、自由があるときのみ生じることができるのです。そして恐怖を通して、肯定的であれ否定的であれ、強制があるところに自由はありません。あなたが結果を求めているなら自由はありません。というのはその結果に束縛されているからです。あなたは過去から自由であるかもしれません。しかし未来があなたを掴んでいます。そしてそれは自由ではありません。そして何かを発見できるのは自由の中においてのみです。新しい観念、新しい気持ち、新しい知覚。そして確かに、強制に基づいているどんな鍛錬もその自由を否定します。政治的であれ、宗教的であれ。そして鍛錬は、それは結果を視野に置く行為に順応することであり 束縛であるので、心は決して自由ではあり得ません。それは蓄音機のレコードのように、溝の中で機能できるだけです。

それゆえ、練習を通じて、習慣を通じて、型の養成を通じて、心はそれが視野の中に持っているものだけを達成します。したがって、それは自由ではありません。したがって、それは不可測のものを理解できません。その全過程に気づくこと―なぜあなたは絶えずあなた自身を、世論に向けて、ある聖者に向けて律するのか、ほら、意見に順応するごたごたの全体、聖者の意見であろうが隣人の意見であろうが、それはみな同じです―練習を通しての、甘受する、否定し、言い張り、抑制し、昇華する微妙なやり方を通してのこの順応の全過程に気づくこと、すべて型への順応を意味します、それに気づくこと、はすでに自由の始まりであり、そこから徳があるのです。徳は、確かに、特定の観念の養成ではありません。例えば、非貪欲は、結果として追求されるならもはや徳ではありませんね。すなわち、あなたが非貪欲であることを意識しているなら、あなたは徳があるでしょうか? それにもかかわらず、それが鍛錬を通じて私たちがしていることです。

それゆえ、鍛錬、順応、練習はただ何者かであるという自己意識を強調するだけです。心は非貪欲を実践し、それゆえ、非貪欲であるというそれ自身の意識から自由ではありません。したがって、それは本当に非貪欲ではありません。それは単に非貪欲と呼ばれる新しい偽装をしたに過ぎません。私たちはこういったすべての全体の過程を見ることができます。動機、目的を求める欲望、型への順応、型を追求することの中で安全であろうという欲望―こういったすべては、常に心自身の自己閉鎖の過程の範囲内で、単に既知から既知へと動いていることに過ぎません。このすべてを見ること、それに気づくことは英知の始まりです。そして英知は徳でも不徳でもありません。それは徳とか不徳のような型に当てはめることはできません。英知は自由をもたらします。それは不道徳ではありません、無秩序ではありません。この英知なしに徳はあり得ません。そして徳は自由を与えます。そして自由の中に実在が生じます。あなたが全過程をすっかり、その全体において見るなら、そのとき、葛藤がないことを見出すでしょう。私たちが様々な形の鍛錬、否定、調整に頼るのは、私たちが葛藤の中にあるから、そしてその葛藤から逃げようと望んでいるからです。しかし、私たちが葛藤の過程が何であるか見るとき、そのとき鍛錬の問題はありません。なぜなら、そのとき私たちは瞬時瞬時葛藤のやり方を理解するからです。それはいつもあなた自身を見張っている、大変な油断のない気配りを要します。そしてその不思議な部分は、あなたはいつも注意深くないかもしれませんが、一度意向があるなら、内部に進行している記録する過程があるということです―感受性、内部の感受性、がいつも映画を撮っています。その結果、あなたが静かなとき、内部がその映画を映し出すでしょう。

それゆえ、再び、それは鍛錬の問題ではありません。感受性は決して強制を通じて生じることができません。あなたは子供に無理やり何かさせるかもしれません。彼をすみに追い詰め、彼は静かにするかもしれません。しかし内部では彼はおそらく窓の外を見、逃げ出すために何かしようとして煮えくり返るようであるでしょう。それが私たちが依然としてやっていることです。それゆえ、鍛錬の問題、そして誰が正しく、誰が間違っているかはあなた自身でのみ解決することができます。なぜなら、この中には、私が今言ったことよりずっと多くのことが含まれているからです。

また、ほら、私たちはうまくいかないことを恐れます。なぜなら成功したいからです。恐怖が鍛錬されようという欲望の底にあるのです。しかし未知のものは鍛錬の網に捕らえられることはありません。それどころか、未知のものは自由を持っているに違いありません。あなたの心の型を持っているのではなく。それが心の静けさが不可欠である理由です。心がそれが静かであると意識するとき、それはもはや静かではありません。心が、それが非貪欲である、貪欲から自由であると意識するとき、それは非貪欲の新しい衣の中にそれ自身を認識しますが、それは静けさではありません。それが制御する人、そして制御されるものというこの事柄の中の問題もまた、理解しなければならない理由です。確かに、それらは別個の現象ではなく、共通の現象です。制御者と制御されるものはひとつのものです。それらは二つの異なった過程であると考えるのは欺瞞です。しかしこのことは別の折に議論しましょう。

質問: 一体全体どうやって私たちの中の、そして子供たちの中の虎を、精力的な練習によって支えられた、明確な目的と理由の型なしに、飼いならすことができるでしょうか?

クリシュナムルティ: これはあなたが目的を知っており、理由もまた知っていることを意味しますね。あなたは目的を知っていますか? あなたは生の目的、生の目標、そしてそれを達成するやり方を知っていますか? 望むことを達成することが、あなたが鍛錬を通して、練習を通して、精力的な一連の行為をしなければならない理由でしょうか? あなたが望んでいること、あなたが心に持っている目的を見いだすことは非常に困難ではないでしょうか? 政党は目的を持っているかもしれません。しかしそれでさえ、彼らはそれが極度に困難であることを見いだしています。しかし「私は目的を知っている」と言うことができますか? そして目的というようなものがあるでしょうか? どうか、人はこれを非常に注意深く調べなければなりません―私があなたの目的に疑問を投げかけているということではなく。私たちはそれを理解しなければなりません。人生のある期間に、私たちは目的を持ちます。機関士になる、電車の運転士になる、消防士になる、これやあれや。そして後ほど私たちは違った目的を持つに至ります。もっと歳をとるにつれて、再び私たちは違う目的を持ちます。私たちの苦痛と快楽にしたがって、目的はいつも変わるのではないでしょうか? あなたは非常に富んだ人、非常に権力のある人になろうという目的を持つかもしれません。しかし、確かに、それは私たちがここでさしあたり論じていることではありません。野心的な人は目的を持つかもしれませんが、彼は非友好的です。彼は決して実在を見出すことができません。野心的な人は単に彼自身を未来に投影して、精神的にか世俗的に、何者かであることを望んでいる人に過ぎません。そのような人は、明らかに、実在を見いだすことはできません。なぜなら彼の心はただ成功に、達成することに、何かになることにだけ関わっているからです。彼は彼が望むことに関連して彼自身に関心があるだけです。しかし私たちの大抵は、私たちは幾分野心的であるけれども―もう少しお金を、もう少し友情を、もう少し美を、もう少しあれやこれや、などなど、多くのことを望んでいます―、私たちはただの一時の気分を通じてではなく、究極的に望んでいることを知っているでしょうか? 信心深い人の大抵は、はい、知っていますと言います。その人たちは実在を望んでいます。神を望んでいます。至高のものを望んでいます。しかし至高のものを望むためには、それが何であるか知らなければなりません。それはあなたが考えるものとまったく異なっているかもしれません。そしておそらくそうです。したがって、あなたはそれを望むことができません。それを望むなら、それは別の形の野心、別の形の安全です。したがって、あなたが望んでいるのは実在ではありません。それゆえ、あなたが「どうやって私たちの中の、そして子供たちの中の虎を、練習によって支えられた、明確な目的と理由の型なしに、飼いならすことができるでしょうか?」と尋ねるとき、あなたの言っていることは、どうやって私たちは他の人たちとの関係の中で、非友好的、利己的、私たち自身の偏見によって束縛されている、などなどでなく生きることができるだろうか、ということではないでしょうか? 虎を飼いならすためには、まず最初にそれがどんな種類の獣であるか知らなければなりません。ただそれに名前を付け、飼いならそうとするだけでなく。それが何から成り立っているか知らなければなりません。それゆえ、あなたがそれを虎と呼ぶなら、それはすでに虎なのです。なぜならあなたは虎が何であるか、あるいは貪欲が何であるかというイメージ、絵を持っているからです。しかしあなたがそれに名づけないでよく見るなら、そのとき確かに、それはまったく違った意義を持ちます。あなたがこういったすべてをわかったかどうかわかりません。私たちは同じ問題を様々なときに議論するでしょう。なぜなら違ったふうに述べられたただ一つの問題だけがあるからです。

それゆえ、それを虎と呼ぶことなしに、「私は目的を持っている。そしてそれを成就するためには鍛錬がなければならない」と言うことなしに、全過程を調べましょう。結論を持ってそれに接近しないでください。なぜなら、言ったように、問題は常に新しく、それを見るために新しい心、言語化をしていない心を要するからです。それはきわめて困難です。なぜなら私たちは言葉の観点から考えることができるだけであるからです。私たちの思考は言葉です。言葉なしに考えようとしてみてください。そしてそれがいかに困難か知ってください。

それゆえ、私たちの要点は、私たち自身や、親であるなら子供の中の虎を、どうやって鍛錬なしに飼いならすかです。何かを飼いならすためには、それを理解しなければ、それを知らなければなりません。あなたは、何かを知らないとすぐそれを恐れます。あなたは「私は私の中に葛藤が、私が虎と称する対抗する欲望があると感じます。そしてどうやってそれを飼いならし、静めればいいでしょうか?」と言います。それを理解することによってのみ。そして私は、それをよく見るときのみ、それを理解することができます。それを非難したり、名前を与えたり、正当化したり、それを私自身と同一視したりするなら、私はそれをよく見ることができません。それのあるがままに受動的に気づいているときのみ、私はそれを理解することができます。そして私がそれを非難している限り、受動的な気づきはありません。それゆえ、私の問題はそれを理解することであり、名前によってそのことを呼ぶことではありません。私はなぜ私が非難するかを理解しなければなりません。なぜなら、何かをまず非難することがずっとより容易であるからです、そうでないですか? それはそれを免れる、それを押しのけるやり方の一つです―それをドイツ人、日本人、インド人、キリスト教徒、共産主義者、他のものは神様がご存知です、と呼び、そしてそれを押しのけます。そして私たちはそれに名前を与えることによって理解したと思うのです。それゆえ、名前、命名、は理解を妨げます。それは一つの事実です。

また、理解することを妨げるものは、判断することです。なぜなら私たちは事をすでに傾向を持って、先入観を持って、欲求を持って、要求を持って見るからです。私たちは事をそれからの結果を望むので見るのです。私たちは目的を持っています。それを飼いならそうと望みます。それが他の何かであるかのようにそれを制御しようと望みます。そのことが見えるやいなや、あなたの心は事を見守って、受動的に静かです。それはもはや虎を虎と命名していません。それは名前を持たず、それゆえ、あなたのそれに対する関係は直接であり、言葉を通してではありません。恐怖があるのはそれに直接の関係を持たないからです。あなたが直接に、即時に、充分に何かに関係する、何かを経験する瞬間、恐怖はないのではないでしょうか? それゆえ、あなたは恐怖の原因を除去したのであり、それゆえそれを理解することができます。したがってあなたはそれを解決できます。あなたが理解したものは解決されたのです。つまり、理解されないものは問題であり続けます。これは事実です。そして私たちの困難は解釈なしに、常にあるがままのものを見ることです。なぜなら心の作用は、伝達すること、蓄積すること、翻訳することであるからです。その空想と欲望に従って―理解することによってではなく。理解するためにはこれらの事のどれも起こってはなりません。理解するためには静かでなければなりません。そして判断で、非難で、翻訳で占められた心は静かな心ではありません。

質問: 私は思考を制御できません。それらを制御しなければならないでしょうか? これは選択を意味しないでしょうか、そして、私が偉大な人の教えに基づく基準を持たない限り、どうして私は私の判断を信頼できるでしょうか?

クリシュナムルティ: さて、どういうふうにあなたの思考を制御すればいいか理解するためには、まずあなたの思考が何であるか、知らなければならないのではないでしょうか? それが問題ではないでしょうか? あなたは「私は私の思考を制御できない」と言います。なぜ思考を制御できないか見いだすためには、考えることが何であるかに気づかなければならないのではないでしょうか? 考えることとは何でしょうか? そして思考者は誰でしょうか? 確かにそれが問題ではないでしょうか? 思考者は誰でしょうか、そして思考は思考者と違うでしょうか? そのとき思考者が彼の思考を制御するという問題が起きます。思考者と思考が一つで、別個の過程ではないなら、そのとき思考を制御している思考者という問題は起こりません。それゆえ、あなたはまず、思考者が思考とは別であるかどうか見出さなければなりません。思考のない思考者があるでしょうか? あなたが思考を持っていないなら、思考者はあるでしょうか? それゆえ思考者は思考を離れては非存在です。私たちは思考だけを持っています。思考が思考者を作り出しました。そして思考者は、彼自身を永続させ、安全、その他もろもろにするため、次に「私は思考とは別であり、思考は制御されなければならない」と言います。それゆえ、あなたがこの問題を解くまで、あなたがこの問題―思考者は思考と別かどうか―の直接の経験を持つまで、制御の問題は存在するでしょう。しかしあなたが思考者は思考であることを見る、直接経験するとき、そのときあなたはまったく違った問題を持ちます。

では、次の質問はこれです。あなたが思考を、他に対立する一連の思考を制御するとき、選択があります。あなたは特定の思考を選択し、それらに集中しようと願い、他の思考にはそうしません。なぜ? 私たちは考えることに関わっていて、特定の思考の一組にではありません。「私はそれよりもこの思考を好む」と言うなら、そのとき選択が起こります。しかしなぜあなたは好むのでしょうか? そして好む事は何でしょうか? 皆さん、これはそんなに複雑ではありません、これは抽象論や大きな言葉ではありません。ただそれを見てください。すると困難がわかるでしょう。第一に、私たちは、それを解決する前に、困難を見なければなりません。選択するとき、選択するのは誰でしょうか? そして、質問の中に述べられたように、偉大な人の教えに従った基準を選択者が持っているなら、そのとき選択者が非常に重要になるのではないでしょうか? なぜなら、彼が教師たちの基準に従って選択するなら、そのとき彼は選択者を養成し、強調しているのではないでしょうか?

あなた、問題をもう少し単純に述べましょう。私の思考はそこら中をさまよいます。私は特定の主題を静かに考えたいのですが、思考は違う方向に逸れてしまいます。さて、なぜ思考は逸れてしまうのでしょうか? なぜなら私の思考はその特定のことにだけでなく、また他のことにも関心があるからです。それは事実です、そうでないですか?、さもなければさまよわないでしょう。私の心は今さまよいません。なぜなら私が話していることに私は関心があるからです。努力の問題はありません。鍛練の問題はありません。制御の問題はありません。他の何も私に興味を持たせません。

それゆえ、私たちは一つ一つの関心の意義を見出さなければなりません。他の関心を一つのもののために排除するのではなく。それぞれの関心の意義、そしてその価値を見出すことができるなら、そのとき私の心はさまよわないのではないでしょうか? しかし私が様々な関心に抵抗し、一つのものに集中しようとするなら、それはさまようでしょう。それゆえ、私は「よろしい、それをさまよわせよう」と言います。私は生じる関心を次から次へとすべて見ます。その結果、関心が全部押し寄せることで、私の心は柔軟にされ、一つの特別の関心で狭められません。そのとき何が起こりますか? 私は私の心が単に、他の関心に対立している関心の束に過ぎないのを見ます。それは一つの関心を強調するために選択し、他の関心のすべてを排除します。

心が、それが関心の束であるということを認識するとき、そのときどの関心も皆意義を持ちます。したがって、排除はありません。したがって、選択の問題はありません。したがって、心は全体を、それ自身の全体の過程を理解し始めます。しかし、あなたが偉大な人に従って選択の基準を持ち、それによって生きようとしているなら―そのとき何が起こりますか? あなたは明らかに思考者、選択者を強調するのではないでしょうか? さて、選択とは離れて、選択者は誰でしょうか? 言ったように、思考と離れて思考者はありません。そして心がそれ自身を思考者と思考に切り離すのは心のトリックです。それを私たちが本当に理解するとき、その本当の意義を見るとき、それを経験するとき、―言葉上でそう主張するのでなく、というのは、そのときそれは意味がないからです―、そのとき私たちの中に完全な変容があるのが見えるでしょう。そのとき、私たちは決してこの質問をしないでしょう。偉大な教師たちの基準、偉大な人の教え、あるいは他の何でも―あなたはそういったすべての結果ではないでしょうか? あなたは全体の、人間の全過程の結果です―単にアメリカのではなくて世界の。そしてあなたは基準と別ではありません。あなたは基準です。そしてそれ自身を分離するのはいつも心のトリックです。

あらゆるものが過渡的で永続的でないということを見るので、あなたは少なくとも「私」の永続性があるということを感じたいと望みます。あなたは「私は違う」と言います。心のその分離する行為の中に、葛藤があります。それはそれ自体孤立を作り出します。それで「私は私の思考とは違う。私は思考を制御しなければならない。どんなふうにそれを制御すればいいだろうか?」と言います。そのような質問は正当な質問ではありません。それを考え抜くなら、あなたが関心の束、思考の束であるということがわかるでしょう。そして一つの思考を選択し他のを捨てること、一つの関心を選び他のに抵抗することは、なおあなた自身を思考から分離するトリックをもてあそんでいることです。ところが、あなたが心は関心である、心は思考であるということ―思考者と思考があるのではないということ―を認識するなら、そのときあなたはこの問題にまったく新たに接近するでしょう。そのときあなたは思考者と思考の間の葛藤がないのが見えるでしょう。そのときあらゆる関心は意義を持ち、十分に、完全に働き抜きます、考え抜きます。そのとき、注意散漫がそこからある中心的興味という問題はありません。

1949年7月30日

(訳者: N.Goto)2002.11.掲載

「自我の終焉」の源流を尋ねて

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