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「自我の終焉」の源流を尋ねて

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1949年 オハイの公開講話(第7回)

J. Krishnamurti Ojai 7th Public Talk 6th August 1949

この三つの週末、私たちは様々なやり方で自己認識の問題と私たち自身の考え、感じる過程を理解することが如何に必要かを議論してきました。自分自身を明らかに、明確に理解することなしに、正しく考えることはできません。しかし、あいにく多くの人の間に、少なくともその人たちが思考と呼ぶ特別な形の偏見に関わっている人の間に、この接近法は個人的でまったく利己的で自己中心的であり、実在に導かないという印象を残してきたように思います。実在への多くの道があり、この自己認識という特別な接近法は無為に、自己中心性と個人的な厳しさに常に導くに違いないと。

さて、あなたがそれを非常に明確に、徹底的に、英知をもって調べるなら、真実への道はあり得ないことがわかります。あなたのとか私のというような道はありません。奉仕の道、知識の道、献身の道、そして哲学者たちが彼らの特異な個性と神経的な反応に依存して案出した、他の数え切れないほど多くの道。さて、この事について偏見なしに明確に考えることができるなら―偏見という言葉によって、思考や信念の特定の行為にかかわり合いになっていて、そして一つの特定の考える形、一つの特定の接近法が、知識の道や献身の道や行為の道のどれにせよ、不可避的に限定するに違いないということにまったく気づかないことを私は意味します―、どんな特定の道も例外なく限定するに違いなく、したがって実在に導くことはできないということがわかるでしょう。なぜなら、確かに、行為の道や知識の道や献身の道は、本質的に充分ではないからです。学識の人は、彼の知識がどんなに博識で、どんなに百科事典的であっても、彼が愛を持っていなければ、確かに彼の知識は価値がありません。それは単に本の学習に過ぎません。信念の人は、私たちが議論したように、不可避的に彼の人生を彼のいだく教義、信条にしたがって形成するに違いなく、したがって彼の経験は限定されているに違いありません。なぜなら人はその人の信念にしたがって経験し、そしてそのような経験は決して解放していることはないからです。それどころか、それは束縛しています。そして、私たちが言ったように、自由の中でのみ、私たちは新しい何か、基本的な何かを発見することができるのです。

それゆえ、私たちの大多数に伴う困難は、私にはそう思われるのですが、私たちが非常に多くの信念、教義に深入りしているので、それらが新しいどんなものも新鮮に見るのを妨害するということです。したがって―実在、神、といったようなものは思いもよらないもの、測り知れないものであるに違いないので―心はとても理解できません。それが何をしようとしても、それはそれ自身を超えることはできません。それはそれ自身のイメージの中に実在をつくり出すことはできます。しかしそれは実在ではないでしょう。それは単にそれ自身の自己投影であるでしょう。そして、したがって、実在を理解するためには、その果てしない広がりが生じるためには、自分自身の考える過程を理解しなければなりません。それは確かに明白な接近法です。それは私の接近法やあなたの接近法ではありません。それは唯一の聡明な接近法です。そして英知はあなたのものや私のものではありません。それはまったく、すべての国とすべての道を超え、すべての宗教的、社会的、政治的活動を超えています。それはどの特定の社会や団体にも属しません。英知は自己の理解と共にのみ生じます―それは確かに個人の強調を意味しません。とんでもない。個人を強調するのは、たとえその個人が大きな団体に属し大きな団体に同一化させられていようが、道や信念の、何かのイデオロギーの主張です。集団との単なる同一化は、人が限定された個人性から自由であることを意味しません。

それゆえ、確かに、実在とか神とかそういったものは、何か特定の道を通して見いだされることはないということを理解することが重要です。インド人は人間を非常に上手に種々の型に区分し、それらに対する道を確立しました。そして確かに、どんな道も―道は個人性の強調であり、個人性からの自由ではありません―実在に導くことはできません。なぜならそれは特定性を養成するからです。それは利己性からの、先入観からの自由ではありません。それは理解することにそんなにも不可欠です。したがって、私たちはこの三週間の間、自己認識の重要性を議論してきました―それは個人性の、個人の強調ではまったくありません。私が私自身を知らないなら、私は考える基礎を持ちません。私が考えることは何でも単に押し付け、種々の影響、環境的な強制の外因的な受容に過ぎません。確かにそれは考えることではありません。

私は左翼、あるいは右翼の特定の社会の中で育てられ、子供のときからあるイデオロギーを受け入れてきたので、それは私が生を新たに考えることができるということを意味しません。私は単にその特定のパターンの中で作動するに過ぎず、私に与えられるほかの何ものも拒絶します。ところが、正しく、事実のとおりに、深く考えるためには、人は全部の環境の過程、そして外部からの環境の影響を尋ねることによって始めなければなりません。私はその一部なのです。その過程を、その微妙さのすべてにおいて理解することなしには、確かに私は考えるための基礎を持ちません。

それゆえ、心の過程が徹底的に理解されることが絶対に不可欠ではないでしょうか?―意識、上層のレベル、心の表面のレベルのみならず、心のより深いレベルも。なぜなら、表面の心を理解することは比較的容易であるからです。その反応、その応答を見守ること、如何に本能的にそれが行為し考えるかを見ることは。しかしそれはただ始まりに過ぎないのではないでしょうか? より深く、より徹底的に、私たちの思考の全過程を調べることははるかに困難です。そして全過程、全体の過程を知ることなしには、そのときあなたが何を信じようと、何を信じまいと、何を考えようと、大師を信じようが大師を信じまいが、神を信じようが信じまいが―そのすべては本当に見当違いで、ほとんど未熟と言ってもいいのです。

さて、他の人の言うことを聞く中で、その関係の中に私たち自身を発見する鏡を見ることは比較的容易です。しかし私たちの問題はまた、それをずっと深く調べることです。そしてそれが私たちの困難が横たわっているところです。多分私たちのわずかな人は表面的な偏見、信念を投げ捨て、二三の団体をやめ、新しい組織に参加することができるでしょう―人がする多くの物事。しかし確かに下のほうに、意識のより深い層に行き、何が起こっているか正確に見いだすことがより重要ではないでしょうか? すなわち、私たちがまったく無意識でいる私たちの傾倒、私たちの信念、私たちがまったく気づいていないが現実に私たちの行為を導き、形作っている私たちの恐怖、が何であるか。なぜなら、内部は常に外部を打ち負かすからです。あなたは巧妙に外部をふるいにかけるかもしれませんが、内部はついには外部を挫きます。理想社会において、社会的秩序を非常に注意深く、非常に巧妙に築くかもしれません。しかし人の気質のこの心理的な理解がないなら、外部は常に粉砕されます。

では、どうすれば意識のより深い層を調べることができるでしょうか? なぜなら、それが私たちの特異性の大部分、信念をつくり出す私たちの恐怖の大部分、私たちの欲望、野心の大部分が隠れて横たわる場所であるからです。どうやってそれらを明るみに出すことが、さらし出して理解することができるでしょうか? 私たちがそれに深く潜り、単に言葉の上だけでなく、本当にこれらのものを経験する能力を持つことができるなら、そのときそれらから自由であることができるのではないでしょうか?

例として、怒りを取り上げましょう。怒りを経験し、怒りに、それに名前を与えることなしに気づいていることができるでしょうか? あなたが今までにやってみたかどうか、あなたが命名されていない状態を今までに経験したかどうか、私にはわかりません。私たちが経験を持つなら、それに名称を与えます。そして私たちはそれを探索するために、あるいはそれを伝達するために、あるいはそれを強化するために名づけるのです。しかし私たちは物事を、それに命名することなしに決して経験しません。それは私たちの大抵にとって、きわめて難しいのではないでしょうか? 言語化はほとんど経験の前に生じます。しかし経験に命名しないなら、そのとき多分、意識のより深い層に入っていくことができます。そしてそれが、私たちが表面の意識においてであっても、私たちの偏見、恐怖、野心に気づいていなければならない理由です。若かろうが年をとっていようが、左翼であろうが右翼であろうが、特定の溝の中への固着に。したがって、ある不満があるに違いありません―それは明らかにしばしば年上の者には否定されます。なぜなら年上の者は不満であることを望まないからです。年上の者は固着し、ゆっくりと消えていこうとしています。したがって彼らは確立し、特定の溝の中に結晶化し、新しいあらゆるのものを否定します。しかし、確かに、不満は必要です―容易に特定の溝、特定の行為、特定の信念の中に導かれる不満ではなく、決して満足されない不満。なぜなら、私たちの不満の大抵は不満足から起きているからです。満足を私たちが見いだした瞬間、不満足は止みます。不満は終わります。それゆえ、私たちの不満の大抵は実際は満足の捜索です。ところが不満は、確かに満足の捜索がない状態です。私が容易に満足する瞬間、問題は済んでいます。私が左翼のイデオロギー、あるいは右翼の、あるいは何か特別の信念を受け入れるなら、私の不満足は容易に満足させられます。しかし不満は、確かに、別の性質のものです。心の安らぎはあるがままのものが理解されている状態です。あるがままのものを理解するためには、偏見があってはなりません。物事をありのままに見ることは、心の大きな油断のなさを必要とします。しかし私たちが容易に満足するなら、その油断のなさは鈍らされます。鈍くされます。

それゆえ、私たちの問題は、こういったことの中で―それは関係の問題です―行為している中で、私たちが何か考えているの中で、私たちが何か言っている中で、私たち自身に気づいていることです。それで、関係の中で、私たちは私たち自身を発見します。ありのままに私たち自身を見ます。しかしありのままの私たちの上に信念を重ね合わせることは、確かに、私たちのありのままの理解をもたらすのを助けません。したがって、この課せられたもの―政治的、社会的、宗教的―から自由であることが必要です。それは関係の中でのみあらわにされることができます。そしてその関係が理解さない限り、二人の間や多数の間に、争いがあるに違いありません。その争いが終わるためには自己認識がなければなりません。そして心が静かなとき―静かにさせられてでなく―、そのときのみ実在を理解することができるのです。

多くの質問が与えられています。そして当然すべてに答えることはできません。しかしできる限り多くの代表的な質問に答えるようにしましょう、時には質問を違う言葉で、用語を変えて述べるかもしれませんが。それで、気になさらないように願います。

質問: 私が完全に正直であるなら、私は腹を立てることを、時には、ほとんど誰をも憎むことを認めなければなりません。それは私の生を非常に不幸で苦しいものにします。私は私がこの憤りであり、この憎しみであることを知的に理解します。しかし私はそれをうまくこなすことができません。私に道を示してくれますか?

クリシュナムルティ: さて、「知的に」とはどういうことでしょうか? 私たちが何かを知的に理解すると言うとき、それはどういうことでしょうか? 知的な理解というようなものがあるでしょうか? あるいは、それは、心が単に言葉を理解するに過ぎないということでしょうか? なぜならそれはお互いに伝達する私たちの唯一のやり方であるからです。私たちは何かを言葉の上で理解するでしょうか? それは私たちがはっきりしていなければならない最初のことです。つまり、いわゆる知的に理解することは理解することに対する障害でないのかどうか。確かに、理解することは統合的であり、分裂しておらず、部分的でありません。私は何かを理解しているか、していないかどちらかです。自分自身に「私は何かを知的に理解している」と言うことは確かに理解することへの障害です。それは部分的な過程であり、それゆえ、まったく何の理解でもありません。

さて、質問はこうです。どうやって腹を立て憎んでいる私は、どうやって私はその問題から自由であれば、あるいは対処すればいいのでしょうか? どうやって私たちは問題に対処すればいいのでしょうか? 問題は何でしょうか? 確かに、問題は妨害しているものです。

すみませんが、私はあることを示唆していいでしょうか? 私が言っている事をただ追ってください。憤りと憎しみのあなたの問題を解決しようとしないでください―ただそれを追ってください。このことの中に入っていき、終わりにそれを免れることは困難であるとはいえ、今それをすることができるかどうか見ましょう。いっしょにやってみるのはむしろ興味深い実験であるでしょう。

私は憤慨しています。私は憎んでいます。私は人々を憎みます。そしてそれは苦痛を引き起こします。そして私はそれに気づいています。私はどうすればいいでしょうか? それは私の生において非常に妨害する要素です。私はどうすればいいでしょうか、どうやって私は実際にそれを免れればいいでしょうか?―ただ一時的にそれから脱却するのではなく、根本的にそれを免れる。どんなふうに私はそれをすればいいでしょうか?

さて、それは私を妨害するので私にとって問題です。もしもそれが妨害するものでないなら、それは私にとって問題ではないのではないでしょうか? それは苦痛、妨害、苦悩を引き起こすので、それは醜いと思うので、私はそれを除きたいのです。したがって、私が嫌がっているものが妨害ではないでしょうか? 私は様々な折に、様々な気分で、様々な名をそれに与えます。私はある日それをこれと称し、ある日は他の何かと称します。しかし欲求は、基本的に、妨害されないことです。それはそうでないですか? 快楽は妨害しないので、私はそれを受け入れます。私は快楽から免れたいと思いません。なぜなら妨害がないからです―少なくとも当座は。しかし憎しみ、憤りは私の生の中で非常に妨害する要素であり、それらを除去したいと私は思います。

それゆえ、私の関心は妨害されないことであり、私は私が決して妨害されないやり方を見いだそうとしているのです。そしてなぜ私は妨害されるべきでないのでしょうか? 見いだすために、私は妨害されなければならないのではないでしょうか? 見いだすためには、私はものすごい激変、騒乱、苦悩を経なければならないのではないでしょうか? なぜなら、妨害されないなら、私は眠ってしまうでしょうから。そして多分、それが私たちの大抵が望んでいることです―なだめられ、眠りに就き、何の妨害からも逃げ出し、孤立、隔離、安全を見出すことが。それゆえ、私が妨害されることを気にしないなら―本当に、ただ表面的にではなく。見いだしたいので妨害されることを気にしないなら―、そのとき憎しみに向かう、怒りに向かう私の態度は変化を受けるのではないでしょうか? 私が妨害されることを気にしないなら、そのとき名前は重要ではないのではないしょうか? 「憎しみ」という言葉は重要ではないのではないでしょうか? あるいは人々に対する「憤り」は重要ではないのではないでしょうか? なぜなら、そのとき私は私が憤りと呼ぶ状態を、その経験を言語化することなしに、直接経験しているからです。私が私の言おうとしていることを説明しているかどうかわかりません。

すなわち、怒りは憎しみや恨みがそうであるように、非常に平静を乱す性質です。そして直接に怒りを、それを言語化することなしに経験する人は非常にわずかです。言語化しないなら、それを怒りと呼ばないなら、きっと違った経験があるのではないでしょうか? なぜならそれに用語をつけるので、私たちは新しい経験を古いものの用語の中に還元したり、固定したりします。ところが、それに命名しないなら、そのとき直接理解される経験があります。そしてこの理解はその経験の中に変容をもたらします。私は私の言っていることを明確にしているでしょうか? どうか、それは簡単ではありません。

例としてさもしさを取りましょう。私たちの大抵は、私たちがさもしいなら、それに気づきません。お金のことについてのさもしさ、人を許すことについてのさもしさ、ほら、まさにさもしいこと。私たちはそれをよく知っていると思います。さて、それに気づくとき、どうやってその性質から自由であろうとしますか?―寛大になることではなく、それは重要な点ではありません。さもしさから自由であることは寛大を意味します。あなたは寛大になることを得てはいません。それゆえ、明らかに人はそれに気づくはずです。あなたはあなたの社会に、あなたの友人に多額の寄付をすることに非常に寛大であるかもしれませんが、大目のチップを与えることについてはひどくさもしいのです―私が「さもしい」で何を意味しているか おわかりですね。人はそれを意識していません。それに気づくとき、何が起こりますか? 私たちは寛大であろうという意志を発揮します。私たちはそれを克服しようとします。私たち自身を寛大であるように修養するなどなど。しかし結局、何かであろうという意志の発揮は、なお、より大きい輪の中のさもしさの一部です。それゆえ、私たちがそれらのことを何もしないで、単にさもしさの意味に、それに用語をつけることなく気づいているだけなら、そのとき根本的な変容が起こっているのが見えるでしょう。怒りを取ります。あなたがそれに用語をつけないで、単にそれを経験するだけなら―言語化を通してでなく、なぜなら言語化は経験を鈍くする過程であるからです―しかしそれに用語を与えないなら、そのときそれは激烈です。それは非常に鋭くなります。そしてそれは衝撃として作用します。そしてそのときのみ自由であることが可能です。

どうか、これを実験してください。第一に、人は妨害されなければなりません。そして私たちの大抵が妨害されることを好まないのは明白です。私たちは生活の型を見いだしたと思います―大師、信念、それが何であるにせよ―そしてそこに私たちは定着します。それはよい官僚の仕事を持ち、そこで生涯の残りの間働くようなものです。その同じものの見方で私たちは私たちが除きたい様々な性質に接近します。私たちは妨害されることの、内的に不安定なことの、従属していないことの重要性を見ません。確かにあなたが発見するのは、見るのは、理解するのは不安定の中においてだけです。私たちは安楽な、たくさんのお金を持った人のようであることを望みます。しかし確かに彼は妨害されないでしょう。彼は妨害されるのを望みません。

それゆえ、妨害は理解にとって絶対必要です。そして安全を見出そうというどんな企ても理解することに対しての障害です。そして妨害している何かを除こうと望むとき、それは確かに障害です。しかし気持ちを、それに命名することなく経験できるなら、その中にたくさんのものを見出すことができるだろうと私は思います。そのときもはやそれとの戦いはありません。なぜなら経験者と経験されるものは一つであるからです。そしてそれは不可欠です。経験者が気持ち、経験を言語化する限り、彼は彼自身をそれから分離し、それに働きかけます。そしてそのような行為は人為的で、惑わす行為です。しかし言語化がないなら、そのとき経験者と経験されることは一つです。その統合は必要で、根底から直面されなければなりません。私はこれが明確であることを望みます。そうでないなら、私たちはそれを別の会合で議論しましょう。

質問: 私は何年か前にあなたの話を聞きました。そしてそのとき、それは私にはあまり意味がありませんでした。しかし今あなたの言うことを聞くことは大変多くを意味するように思われます。これはどうしてでしょうか?

クリシュナムルティ: これに対する様々な説明があります。あなたが成熟した、あなたが進歩した、生があなたの扉を叩いた、あなたは大変悩んだ、などなど。すなわち、私たちが討論していることがあなたに何かを意味するなら。あなたがそれはすべてたわごとだと思うなら、そのときそれは非常に簡単です。さて、進歩を信じる人たちは同じ種類の説明を与えるでしょう。あなたはゆっくりと成熟した、あなたは時間を数年だけでなく別の生を持たなければならない、時間は理解のために不可欠である。そして始めには理解していなかったけれど、あなたは後ほど、経験の緩やかな熟成を通して理解するだろう―ほら、人の持つ様々な理論のすべて。しかし、確かにそれを見るもっと簡単なやり方があるのではないでしょうか? おそらく、何かのわからない理由であなたの友人があなたをここに連れてきます。そしてたまたまあなたは聞き、そして去ります。それはあまリ意味がありません。すばらしい木々があり、あなたは素敵なドライブをした、ほら、その他もろもろを除いて。そしてあなたは去ります。しかし、無意識的には、確かに、あなたは何かを取り込みました。あなたがドライブ、あるいは歩いているとき、あなたの意識的な心はドライブに参加している、あるいは特定のものを注意して見ているかもかもしれませんが、あなたの心のほかの部分は無意識的に吸収しているのに気づきませんでしたか。何かが起こり、種がまかれ、それをあなたは意識しません。しかし後にそれは現れます。それはそこにあります。それで始めのときのことはあまり多くを意味しなかったかもしれませんが―なぜならあなたは何かを聞き、それを意識しなかったからですが―後にあなたに反応します。

確かに、それは宣伝の全目的でないでしょうか? 私が宣伝者であるということではなく―私は宣伝はごめんです。しかしそれが世界で起きていることではないでしょうか? 新聞、雑誌、映画、ラジオ、その他あらゆるもので。あなたはあなたが何をしているかに本当に関心を持って進みます。そしてラジオや新聞はあなたに宣伝を与えています。あなたの心はどこかよそにありますが、あなたは無意識に吸収しています。そして後ほど、その吸収が引き出されるとき、それは現れます―戦争に対する、国家主義に対する、左翼にせよ右翼にせよ何かの信念の受容に対する自動的反応のように。子供はどうやって何かの観念を植え付けられるとあなたは思いますか? それは無意識へのそれらの観念の絶えまない作用です。そして彼らは受け入れます。彼らが成長するとき、彼らは同じです。左翼や右翼、この宗教やあの宗教のどちらでも、無数の信念と条件付けられた心を伴って。無意識はいつも吸収してきました。そしてそれは美しいもののみならず醜いもの、虚偽のもののみならず真実のものも吸収することができます。そして私たちの困難はこれらの刷り込みから自由であること、そして生を新たに見ることではないでしょうか? これらの絶え間ない衝撃の影響から自由であることができるでしょうか? すなわち、これらの衝撃に気づき、そしてそれらによって影響されないことが? なぜならそれらはそこにあるからです。私たちは何が虚偽であるか、何が本当でないか知ることができるほど、十分敏感であることが、十分油断なく気を配っていることができるでしょうか、それゆえ抵抗さえないほどに? なぜなら抵抗するや否や、あなたはあなたが抵抗しているものを強化し、したがってあなたはその一部になるからです。しかしそれを理解するなら、確かに、そのときもはや意識あるいは無意識へのその影響はありません。

それゆえ、私たちが育てられてきた、条件付ける影響のすべてから自由であることができるでしょうか? 国家主義、階級の違いから、無数の宗教的信念と政治的イデオロギーから? 確かに、人は自由でなければなりません。さもないと自由の向こうに何が横たわっているか、見いだすことはできません。しかし、自由であるためには、人はこれらのことすべてを検査し、物事を受け入れないのでなければなりませんね―それは疑いの養成ではありません。したがって、まさにその過程のため、人は自分自身の意識の、自分がそうであるものの内容を理解しなければなりません。

質問: 私たちに罪について話してくださいますか?

クリシュナムルティ: あらゆる組織宗教は不幸にも、教化のために罪悪の気持ちを養成しました。私たちの多くはそれを持っています―敏感であればあるほど、ますますその気持ちは鋭敏です。あなたが責任があると感じれば感じるほど、ますます気がとがめます。あなたはこの世界の騒乱、差し迫った戦争、そして行われている言い抜けのすべてを見ます。そして―敏感であるので、油断なく気を配っているので、十分に関心があり、聡明なので―あなたは、責任があると感じます。そして、人は非常にわずかのことしかできないので、気がとがめます。それがその一部です。次に、人を教化された限界内に保つため、この悪いことをしているという感覚は非常に注意深く、入念に養成されてきたのではないでしょうか? さもないとあなたは境界を超えてしまうでしょう。なぜなら、もしも私たちが基準を持たないなら、もしも禁制を持たないなら、もしも道徳的なきまりを持たないなら―今たくさんあるということでなく―さらにひどいでしょう。それゆえ、宗教、組織化された信仰は、規則に従わなければならない、罪を犯してはならない、醜い物事をしてはならないというこの感覚を注意深く保持し、養成して来ました。それは私たちを型の中に保ってきました。そして型を超えることができるのは非常にわずかの者だけです。なぜなら、私たちは型の中に残ることを望むからです。私たちはちゃんとしていることを望みます―世論の恐怖、そして非常に多くの物事が私たちを型に保ちます。そして、恐れているので、私たち自身の理解に頼らないで、私たちは大抵他人に頼ります。牧師、精神分析医、指導者、政治家、ほら、自分が養成した数え切れない依存状態。それらすべては当然のことながら、正しいことをしなければならないという私たちの固有の不安を強化します。こういったことから罪悪感が生じます。

そして罪について宗教の中にくだらない長話があります。しかし、特定の明白なことがあるのではないですか?―例えば、徳は絶対必要であるということ。しかし養成された徳はもはや徳ではありません。それは単に違った名前での自己の強化です。徳は何かでありたいという欲望からの自由があるときのみ生じます。人が無であることを恐れないとき。そして、他の人たちと自分自身に不幸をもたらしたのは特定の妨害、特定の行為の反復であり、それは罪と呼ばれるかもしれません。確かにそれが最初の事ではないでしょうか? 何かを非常に明確に見ること、それは関係の中に見出されます、そしてそれを繰り返さないこと。反復は確かに誤りです、最初の行為ではなく。そしてそれを、欲望の反復的性質を理解するためには、人は自分自身の全構造を理解しなければなりません。

それゆえ、この罪と呼ばれるもの、罪悪の感じがあります。人は心配事のような、うわさ話のような、何か悪いことをしたかもしれません。しかしそれを続けることが、確かに人のなしうる最も悪いことです。あなたが何か悪いことをしたのがわかるなら、それを観察なさい、それに徹底的に入っていきなさい。そしてそれから解放されなさい―それを反復し続けないでください。なぜなら、確かに、過去にしたか次の瞬間にするかもしれない何かについて悩むこの感覚、この絶え間ないそれについての不安、この恐怖は心の落ち着きのなさを強めるだけです。そうでないですか? うわさ、くよくよ、は心の落ち着きのなさを示しています。落ち着きのなさがなく、注意散漫がなく、油断なく気を配っているとき、そのとき問題は消滅するのではないでしょうか? 罪の感じは、私たちの大多数にとって、私たちを抑制します。しかし、それは恐怖に過ぎません。そして恐怖は確かに理解の明晰さをもたらしません。恐怖の中に共感はありません。そして根絶されなければならないのはその恐怖です。自分が罪を犯しているという気持ちではありません。

質問: 集団的行動の可能性は共同計画なしにはありません。共同計画は共通の目的に対する個人の意志の追従を含みます。もしも個人が無私であれば、そのとき制御と権威は無用でしょうに。どうして私たちは個人の気まぐれな意志を抑制することなしに共通の目的を達成できるでしょうか? たとえ彼が時々善意であるにしても。

クリシュナムルティ: 集団的行動をするために、私たちは強制や権威主義の力を借ります。あるいは恐怖、脅し、あるいは褒賞の形に頼ります。それを私たちは皆よく知っています。国家、あるいは個人の団体は、特定の目的を確立し、それから報酬や罰を与えることによって、協力するように他人を駆り立て、説きつけ、促します―共同行動を生み出す様々なやり方すべてを私たちは知っています。そして質問者は、個人の強調が、それが意味されているのですが、共同行動を妨げないかどうか知りたがっています。それはこういうことです。私たち皆が同意した共通の目的があるなら、そのとき私たちはそれに服従し、私たち自身の意志を棚上げにしてはいけないのでしょうか?

どうやって協力が可能でしょうか―それが本当に事の核心ではないでしょうか? 協力は、行動の中の協力は、恐怖を通しても、英知と愛を通してもあります。ある国が戦争状態にあるとき、そのとき恐怖を通して協力があります。そして見たところ、恐怖、憎しみ、嫉妬は、英知と愛よりもっとすばやく人々を結びつけるようです。利巧な政治家、政治屋はこれに気づいていて、それを扇動します―それを、またも私たちはよく知っています。しかし愛情を通して人々を聡明に結びつけることができるでしょうか? それが本当の問題ではないでしょうか? なぜなら、憎しみを通し、恐怖を通し、強制を通して、ますます多くの人々が結びつくのを私たちは見るからです―大衆運動、勧誘 宣伝のための心理的方法の使用、その他もろもろ。そしてそれがやり方なら、そのとき私たちが討論していることは無益です。しかしあなたが貪欲を通しては協力しない、集まらないなら、何か他のやり方があるでしょうか? そしてやり方があるなら、あなたは個人的意思をより高い目的に服従させてはならないのではないでしょうか?

例えば、一例として、私たちはみな世界に平和がなければならないということに同意します。そしてどうやってその平和は可能でしょうか? 平和が可能なのは、確かに、無私がある時だけです。「私」が重要でないとき。私は私自身の中で平和であるので、したがって私の行動の中で平和でしょう。したがって私は反社会的ではないでしょう。そして敵意を作るものは何でも、私自身からつまみ出すでしょう。したがって私は平和のための代価を払わなければなりませんね。しかしそれは私から生じなければなりません。そしてそのような人がいればいるほど、確かに世界の中の平和の可能性はますます大きいでしょう―それは個人の意志の全体への、目的への、計画への、理想郷への追従を意味しません。なぜなら、私が平和であるまで、平和はあり得ないことが見えるからです。それは国家主義がないこと、階級がないこと、ほら、平和であることに含まれるすべての物事を意味します―それは完全に無私であることを意味します。そしてそれがそこにあるとき、そのとき私たちは協力するでしょう。そのとき、きっと協力があるはずです。私を国に、団体に協力させる外部からの強制があるとき、私は協力するかもしれません。しかし内部では私は戦っているでしょう。内部では解放はありません。あるいは自己充足の手段として理想郷を使うかもしれませんが、それもまた自己の拡張です。

それゆえ、貪欲を通じて、同一化を通じて、特定の観念に個人の意志が追従することがある限り、個人と多数の間にいつも争いがあるに違いありません。それゆえ、強調点はおたがいに対立する個人と集団にあるのではなくて、「私に」や「私の」という感覚からの自由にあるのです。その自由が存在するなら、そのとき集団に対立するものとしての個人の問題はありません。しかし、それはほとんど不可能に思われるので、私たちは特定の行動を生み出すために集団に参加するよう、全体のために個人を犠牲にするよう説得されるのです。そして他人によって、指導者によって、犠牲が私たちに熱心に説かれるのです。ところが、私たちはこの問題全体を、個人と集団の関わりとしてではなく聡明に見て、あなたと私が私たち自身の中で平和でない限り、平和はありえないことを理解できます。そしてその平和は何かの代価でもたらされることはあり得ません。あなたと私は、私たち自身の中に争いを生み出している原因から自由でなければなりません。そして争いの中心は自己、ミーです。しかし私たちの大抵はそのミーから自由であることを望みません。それが困難です。私たちの大抵はミーがもたらす快楽と苦痛を好みます。そして私たちがミーの快楽と苦痛によって制御されている限り、ミーと社会の間に、ミーと集団の間に争いがあるでしょう。そして集団は、もしできるなら、ミーを支配しミーを破壊するでしょう。しかしミーは集団よりもっと強いのです。そこでそれは常にそれを出し抜き、その中に地位を得よう、拡大しよう、実現しようとするのです。

確かに、自己からの自由、したがって実在の探索、発見と実在の生じることが人の真の働きです。宗教はそれをその儀式とくだらない長話でもてあそびます―ほら、その全ごたごた。しかし、この全過程に気づくなら、それを私たちは多年にわたって議論してきましたが、そのとき新しい目覚めた英知が働く可能性があります。その中には自己解放ではなく、自己充足ではなく、創造があります。集団と個人のごたごたのすべてから人を自由にするのは、この実在の創造性です。それは時間に属するものではありません。そのとき人は本当に新しいものを創造するのを手伝う場所にいます。

1949年8月6日

(訳者: N.Goto)2003.01.掲載

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